敢えて「未発達」を言葉に

「どれが障害で、どれがこの子の個性だかわからない」
そんな風におっしゃる親御さんは少なくありません。
確かに、わかりませんね。
ここが発達障害で、ここからが個性などと明確な線などは引けるわけがないのですから。
もっと人間は複雑ですし、一つの言葉、行動をとっても、その背景には複数の要因が影響し合っているのです。
単純に線が引きたいのは、複雑な人間、生物というものを便宜上、区別したい人達がいるからです。
線を引くことは、グループに括るということは、ニーズを新しく作ることでもあります。


医師から、専門家から、「あなたの子は、発達障害ですね」「自閉症ですね」と言われてしまうと、子どもの言動全てが発達障害ゆえ、自閉症ゆえに見えてしまいます。
そうなると、「障害故に配慮せよ」というメッセージが迫ってきて、その子を教え育てるよりも、私が変わり耐えるへシフトチェンジしてしまいます。
そうなると、親子共々、ネガティブな方向へと歯車が回りだすことに。


当然、子どもは未発達な存在です。
これからまさに、未発達な部分を育てていこうとしている時期です。
そんな時期に、周囲から「仕方がない」「教えるよりも、配慮支援」と思われたりすることが、発達の機会を奪われることにもなります。
それでは、発達の機会が乏しいために、同世代の子ども達が経験することが経験できずに、ますます発達の差、遅れが大きくなるばかりです。
ある意味、発達の差を広げるのは、本人の能力の問題ではなく、環境、つまり、周囲の姿勢、考え方による、といえます。


また、親御さんにとっても、「私が変わればいい」「私が耐えればいい、受け入れればいい」と考えるのは、マイナスが多いといえます。
我が子の自立と幸せを願わない親などいません。
というか、我が子を自立させようとするのは本能だと思います。
そのために、自分が身に付けたこと、学んだことを、我が子に伝えようとするのは自然な流れ。
そういった本能があるのにも関わらず、頭で無理やりストップをかけるようなものです。
教え育てたいのに、知識と言葉で、「いやいや、配慮が、支援が、理解が必要な子」「変わるのは、この子ではなく、親である私であり、社会の方」などと、自分自身を否定し、洗脳していく。
ですから、「育てていこう!」と思っている親御さんは明るく前向きであり、「理解だ」「配慮だ」と言っている親御さんは、いつまで経っても、子どもだけじゃなくてご自身も生きづらそうなのです。


もし「未発達」という視点がなければ、幼稚園や保育園に行けば、どの子もみんな発達障害であり、ADHDです。
先生が話をしても聞いていないし、走り回っているし、あちこちで喧嘩をしている。
でも、それでいいのです、それが自然なのです。
偉そうにしている大人たちだって、みんな、子ども時代は未発達だった。
いろんな未発達な部分を、発達が凸凹している部分を、家庭生活や遊びを通して、育てていったのです。
ですから、大事なのは、未発達な部分があるかないかではなくて、育てるか育てないか、ということ。
その「育てる」視点を持つためにも、大人が責任をもって子ども達を育てていくためにも、幼少期のレッテル貼りも、「生涯変わらない」といったエビデンスのない予言も、百害あって一利なしです。


「どこが障害で、どこが個性で」と訊かれたとき、私は「未発達だと捉えましょう」というお話をします。
「ここが自閉症で、ここがその子の個性」などと区別する必要性はないですし、そもそもそんなことができるわけがありません。
だったら、「この子の未発達な部分を育てていく」という想いをもって、お子さん達と接した方が、お互いにとって幸せなことだと思います。
特に、子ども時代なんて、未発達だらけです。
その未発達な部分をより良く育てようとするのが、子育ての中心ではないでしょうか。


と言いますか、本来、「未発達だと捉えましょう」なんて、敢えて言葉にするまでもないことです。
だけれども、早期に診断するのに熱中している人達がいて、どれだけ早期に診断できるかをお互いに競っている。
そういった人達が、「幼少期の診断とは、現時点のものであり、(仮)のものであり、発達とともに変わっていくのが自然なこと」という説明を怠っている。
そして多数の専門家、支援者達が、一度付いた診断名をベースに支援をしていく。
ほら、もともと線引きできるような次元じゃないものを敢えて線引きするのは、新しいニーズを作るためのもの、つまり、新しいお客さんを作るということに過ぎないのです。
本来、診断とは、その人がより良く変わるためのもの、より良い治療を始めるためのものなのに。
ですから、敢えて「未発達」を言葉にする必要があるのです。


子どもが未発達なのは当然。
親が、周囲の大人たちが、その未発達な部分を育てていくのは当然。
未発達な部分がたくさんあれば、全体像として発達が遅れるのは当然。
だから、未発達な部分がたくさんある子を目の前にして、「これは障害だ」「これは生涯変わることがない」と言い切るのが異常。
どこが障害で、未発達かはわからないから。
というか、未発達な部分が育ち、身体が整っていけば、全体像も、全体的な発達もガラッと変わるのは当然なこと。
未発達な部分が育ち、ガラッと変わったのが、大人の姿。
大人のニーズを満たすために、まさに今、発達しようとしている子ども達がお付き合いする必要など、まったくありませんね。

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