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3月, 2015の投稿を表示しています

パソコンが得意な自閉症の人が、みんなスティーブ・ジョブズにはなりません

自閉症のことを説明するとき、"偉人"が登場するのは、どうにかならないかな~と思います。 一般の人に対しては、素晴らしい才能を持った人たち、周囲の理解があれば、こういった優れた才能を発揮する、というアピールかもしれません。 また、当事者の人に対しては、頑張れば、このような人たちにもなれるんだという希望を抱かせているつもりかもしれません。 でも、実際の自閉症の人たちは、このような類まれな才能を持っている人ばかりではありません。 というか、このような才能を持った人はほとんどいません。 大部分が普通の自閉症の人です。 ですから、"偉人"の登場し過ぎは誤解につながるのでは、と思ってしまいます。 一般の人には、自閉症=天才または類まれな才能を持つという誤解を与え、本人たちは自分には天才的な才能があるという誤解を与え・・・。 ある当事者の方は、「自分には才能があり、偉人たちのようになるんだ」と言って、現状をまったく受け入れず、一般的な仕事に就くことを拒絶していました。 また別の方は自分が偉人のようになれないのは、「周囲が自分を活かせないからだ」「親の教育のせいだ」と言って、攻撃的になっていました。 自閉症の人の"想像性"の部分と関連し、このような情報をそのままの形で受け取ってしまう人は、この人たちだけではないはずです。 確かに"偉人"と言われる人たちには、自閉症の特性を持っていた人が多くいます。 でも、みんながその偉人のようになれるわけではありません。 自閉症の人たちの多くは、一般的な世界の中で生きていきます。 ですから、一般の人にも、自閉症の人たちにも、誤解を与えないようにきちんとこういった事実も付け加えて紹介する必要があると思います。 パソコンが得意な自閉症の人が、みんなスティーブ・ジョブズにはなりません。 絵が得意な自閉症の人が、みんなウォルト・ディズニーにはなりません。 そんな偉人を目指すよりは、その人が持って生まれた資質を開花させ、社会で活躍し、充実した人生を送ってほしいと思っています。 誰も、別の人にはなれませんし、別の誰かになる必要なんてありません。 あなたはあなた。 自分自身を輝かせることが一番素晴らしいこと。

親がいなくなったあとを心配する成人の方たち

成人した当事者の人たちと交流があるのですが、親御さんと暮らしていて、就職もうまくいかない人たちから「自分の親がいなくなったあとのことが心配」と相談されることがあります。 特に誕生日を迎えたとき、「おめでとう」と声を掛けると、このような心配事を話される場合が多いです。 自分の年齢が一つ上がれば、このままではいけないという焦りと、将来の不安が強くなるのだと思います。 こういった発言が本人の口から聞かれたとき、私は「親御さんが元気なうちに、一人暮らしと安定した就労を目指しましょう」と言うようにしています。 親御さんがいる間なら、たとえ失敗したとしても、まったく生活ができなくなることはありませんし、その経験からどんな部分をサポートしてもらえれば、自分で生活できるのかを親御さんと一緒に考えることができるからです。 そして何よりも、親御さんが自分がいなくなったあとの子どもの姿を想像できますし、「もしかしたら一人でも生きていけるかも」「こういったサポートがあれば、大丈夫」というように心配事を減らすことにつながるからです。 もしかしたら、こういった試みをしなくても、万が一のときには障害者年金や生活保護、福祉サービスを利用すれば、親御さんが亡くなったあとも生きていけるかもしれません。 でも、遺された子ども自身の人生を考えたとき、一気に生活の質が下がるような気がしてなりません。 そのときになって、本人も、親御さんも、後悔しないように「自分の親がいなくなったあとのことが心配」という言葉が聞かれたときには背中を押すようにしています。 「頑張らなくても大丈夫」ではなく、「頑張ってみようよ」と。 過去のブログ 「家でできる将来の生活の疑似体験」 も、よろしければどうぞご覧ください。

一年経たずに退職した若者たち

昨年の4月に特別支援学校の高等部を卒業し、一般就労した生徒約25名が、一年経たずにみんな退職しているとのこと。 これはこの地域の話だが、かなり衝撃的な事実。 この小さな地域で約25名の生徒たちを一般就労させ、地域に送りだした特別支援教育は素晴らしいと思います。 でも、学校は就労がゴールかもしれないが、生徒にとっては就労は始まりに過ぎません。 学校生活よりも、その後の人生の方がはるかに長い。 それなのに、一年も経たずに退職というのは・・・。 では、どうしてこのような事態になったのか? 簡単に言えば、"働き続ける"スキルが足りなかったからだと思います。 働くことは、その就職した先に必要なスキルを身に付けていれば、可能です。 上記の生徒たちも、仕事で必要なスキルを持っていたから就職することができたのでしょう。 だけれど、働き続けるには、仕事に必要なスキルを持っているだけでは難しい。 働き続けるには、職場以外でのスキルが確立されていることが大事です。 例えば、「規則正しい生活リズム」「自分の体調を把握し、調整できること」「栄養の取れる食事」「通勤」「身だしなみ」「退勤後、週末の過ごし方」「生活費、貯金等の金銭管理」などなど。 これらの職場以外での生活スキルがしっかり確立されていないと、仕事へも悪い影響を与えますし、仕事自体が続けられなくなります。 ある意味、職場以外のスキルが乏しいために、働き続けられないことがあるとも言えます。 本来なら幼児期から高等部卒業するまでに、このような仕事以外のスキルも身に付けておくべきなのですが、どうも日本の特別支援教育を見ると、職業スキルばかりに重点が置かれているような気がします。 とにかく「働くには体力が必要」とランニングをやりますし、高等部になると同時にそれまでと雰囲気がガラッと変わり、作業、作業、作業みたいな。 確かに"働く"スキルは身につきますが、"働き続ける"スキルが弱い気がします。 これでは、せっかく一般就労できても、すぐに退職してしまい、結局、福祉のお世話になる。 福祉を使うこと自体は悪いことではありませんが、前にも ブログ で書いたように福祉資源が限られているので、一般就労できるくらいの人がどんどん利用し始めると、本当

母と子がピッタリくっついている人たち

「お母さんと子どもがピッタリくっついている」と感じることがあります。 この"ピッタリくっつく"は、二人が仲良しで、距離感が近いという意味ではなく、「まさに一心同体」という意味です。 子どもの成長は、自分の成長のように感じ、また子どもの失敗は、自分の失敗のように感じるといった"母子の境目がはっきりしていない"感じです。 こういった親子関係を見ていると、赤ちゃんとお母さんの関係性に近いような感じがします。 赤ちゃんは、まだ一人でなにもできませんので、全面的に手助けしなければなりません。 ですから、一人の人間として距離をおいて見ているのではなく、お母さんの一部のように見えているのだと思います。 そのため、赤ちゃんの日々の成長に一喜一憂しますし、他の赤ちゃんと比べて遅れている部分があれば、ガクッとお母さんの気持ちが落ち込んだりします。 これは赤ちゃんとお母さんがピッタリくっついているからではないでしょうか。 こういった母子の関係性も、子どもの成長とともに距離ができてきて、やがて一人の人間同士として分離していくのが自然な流れです。 しかし、中学、高校、なかには成人になっても、母子が一体化している人がいます。 特に知的障害を持っているお子さんの場合で、「この子をみられるのは私しかいない」というような気持ちを強く持っているお母さんに多いように感じます。 母子がピッタリくっついている場合、他人のアドバイスや支援を受け付けないことがあります。 どう見てもお子さんに困ったことが起きているのにも関わらず、他人が手を差し出そうとすると、拒否したりします。 それはまるで子どものマイナスな部分を認めたくないような。 つまり子どもと母親がくっついているので、子どものマイナスは自分のマイナスの評価と同じなため、恐ろしく感じているようにも見えます。 このように母子が分離していかない背景には、子どもが思うように成長していかない悲しみや、将来の不安、支援者に対する不信感があると思います。 ですから、母子がピッタリくっついて固まってしまう前に、母親を孤立させないことが大切だと思います。 同じ知的障害を持つお子さんがいても、父親が協力的だったり、信頼できる支援者がいると、母子が分離でき、一人の人間として我が子の成長や将来を見る

自閉脳も変わります!

自閉症は、生まれつきの脳の機能障害といわれています。 でも、だからと言って、自閉脳を持つ人たちが全員「自閉症」という診断を受けるわけではありません。 じゃあ、どういう人が「自閉症」という診断を受けると言ったら、それは病院に行った人。 病院に行くというのは、何らかの困ったことが本人や周囲の人に感じられたからだと思います。 まあ、生きていく上で困ったことがあるから"障害"となるのでしょう。 困ったことがあって「自閉症」という診断を受ける人もいれば、困ったことがなくて「自閉症」という診断を受けずに生きていく人もいます。 つまり、自閉脳を持つ人でも、自閉症ではなく、普通の人として生きる人がいるということです。 そういった人は、周囲に理解があり、その中で生きていく中では困ったことがなかったという理由もあるでしょう。 でも、幼稚園や学校生活、職場などで様々な人と関わりを持つ中で、その出会った人の大多数が理解がある人ばかりで、困ったことを感じなかったという人の数はごくわずかではないでしょうか。 自閉脳を持つ人で、診断を受ける必要がなかった人の大部分は、自分で苦手な面を補う努力をし、成長をしたのだと思います。 そのため、社会での適応力が上がり、大きな不具合を感じずに生きていっているのだと思います。 自閉症の診断は、症状を観て診断するのですから、生物学的、明確なラインはありません。 つまり"自閉症"と"自閉症ではない"の境目は、はっきりしていないため、つながっているともいえます。 このように捉えてみると、成長することによって、"自閉症"と診断された人が症状が緩和され、"自閉症ではなくなる"可能性も十分考えられます。 第一、脳は不変性を持つ臓器ではなく、可変性を持つ臓器です。 経験や刺激によって、脳の神経ネットワークは変わっていきます。 福祉や医療サービスを受ける上での"診断"は変わらないことが望まれるかもしれません。 でも、その人が生きていく上では症状が緩和され、社会での生きづらさが少なくなることが一番です。 自閉症と診断を受けたから、「もうだめだ」「どうしようもない」とネガティブに捉えるのではなく、変われる可能性がある

自立="経済的"自立!?

「自立、自立」と言いますが、その自立は"経済的"自立だけを指しているのではありません。 もし経済的自立だけが目標なら、知的障害を持っている自閉症の方たちには難しい目標になります。 「みんな、自立を目指していきましょう!」というのは、自分一人でできることを増やし、より自立的な生活を目指しましょうね、という意味になります。 ときどき、知的障害を持っている自閉症の方に対して、「知的障害を持っているのだから無理させず、手伝ってあげましょう」みたいな考えの支援者を見かけます。 でも、よく考えてみてください。 もしあなたが、食事のときも、お風呂のときも、寝るときも、遊ぶときも、四六時中、支援者が側で手や口を出し続けていたら・・・。 いくらそれが家族であったって、私は嫌ですし、大きなストレスになると思います。 少しでも、部分的にでも、一人でできることを増やすことは、本人の自信にもなりますし、支援者の労力を減らすことにもなります。 知的障害を持っている自閉症の方に対して少しでも自立的な生活が送られるよう療育していくことは、本人をいじめているわけでも、苦しめているわけでもなく、本人のために必要なことだと思います。 そうはいっても、経済的自立が目指せる方は、それを目指してほしいと思います。 前のブログでも書いたように、福祉サービスには限りがあります。 ですから、利用している福祉サービスの量を減らしていけることを目指し、最終的には税金を納めることを通して、今度は他の人を支えていってもらいたいと思います。 福祉サービスを使っていた側の人が成長し、支える側になれるなら、それは素敵なことではないでしょうか。 もちろん、経済的自立は本人の自信や選択肢を増やすことになりますので、より豊かな人生へとつながっていくといった一番大切な意義があります。 一人でできることを増やし、自立的な生活を目指すことは、知的障害のあるなしに関わらず、障害のあるなしに関わらず、みんなが見ている方向。 成長しなくて良い人なんていません。 だって、誰のものでもなく、自分の人生なのですから。

福祉サービスの利用格差が広がる

来年度以降、就労支援事業B型の新規利用が難しくなると、地元の親御さんたちが言っていました。 今、学校に通われていて、特に知的障害を持っているお子さんの親御さんは、とても心配されています。 でも、以前から、このような噂もありましたし、地域の状況を見ても、いずれB型は定員いっぱいになることはわかっていましたので、私の感想は「とうとうきたか」という冷静なものでした。 知的障害を持つ方たちにとっては、安心して仕事をするにはB型が必要であり、もし利用することができなければ、生活の大半を家で過ごすことになります。 ですから、必要な人が利用できるような状態でなければならないと思います。 本当に必要な人が利用しているか、と言ったら疑問に思うことがあります。 本来ならA型を利用できそうな人が、B型を利用"し続け"ていないか・・・。 これはA型でも同様なことが言え、一般就労できそうな人がA型を利用"し続け"ているのでは、と思うこともあります。 (もちろん、ステップアップとして利用している方は良いと思っています) 他の地域はわかりませんが、「安全に、安全に」という方向性が、その人が持っている本来の可能性を狭め、より負荷のない就労へとつながっているのではないか、というのが私の見解です。 知的障害がない方や軽度の方は良いかもしれませんが、しわ寄せがどんどんより支援の必要な方たちへと行っているように感じます。 福祉サービスは、お金が見えにくいものです。 福祉サービスを維持しているのは税金であり、資源も、人材も、当然限りがあります。 誰かがそのサービスを使っているときは、別の人はそのサービスを使えないということです。 本当に必要な人へ、必要なサービスが届けられるには、頑張れる人が頑張る必要があるのです。 今は支援が必要で利用している人も、いずれ支援の量を減らしていき、その空いた分を必要な人へと分けて欲しいと思っています。 私は施設職員だった頃、知的障害が重い方々と主に接していました。 もし彼らにサポートがなかったら、日中することがなく、ただただ時間を消耗しているようになるのでは、と感じていました。 日課に"働くこと"があることにより、生活のリズムができ、自身の健康維持と社会貢献ができるのだと

資質を開花させる!

最近、頭痛が数日続いていました。 でも、従業員は一人ですし(笑)、待っていてくれる人がいるので、休むわけにはいきません。 移動中は頭痛を感じるのですが、本人に会ってセッションが始まると、さっきまでの頭痛が嘘のように消えてなくなります。 そして、セッションを終えると、行きよりも、ちょっとだけ頭痛が軽くなるというのを数日、繰り返していました。 お蔭さまで、今はすっかり頭痛は良くなりました。 この現象を自分なりに考えてみました。 どうして、セッションのときは元気になるのか? その答えは、「自分の資質に合ったことをしているから」というものでした。 私には4つ離れた弟がいます。 子どものときは、その弟に何かと教えまくる弟からしたら面倒くさい兄でした。 そして学校でも、クラスの友だちに勉強やスポーツを教えてばかりいました。 今、思い返せば、教えるのが好きというよりも、できるようになる、成長する姿を見るのが好きだったように思います。 「人に教える」ということを誰かにやりなさいと言われたり、教わったりした記憶はありません。 ですから、私の性分、資質として自然に、そして好んでやっていたことだと思います。 そうなると、冒頭の最近の頭痛のエピソードとつながります。 私が行っている仕事は、人の成長を見ることのできる仕事です。 その人の成長を感じられると、ハッピーな気持ちになりますし、元気になります。 つまり、私は仕事をしながら、自分の資質に合致したことを行い、どんどん元気になっているのだと思います。 自分の心と向き合い、心の芯からやりたいことを形作ったのが「てらっこ塾」ですので、そういった意味でも自分の資質を開花させ、活かしていることにつながっているのだと感じます。 給料の良い仕事や有名な仕事に就くことが素晴らしいのではありません。 自分の資質を開花させ、それを社会に還元することが素晴らしいのだと思います。 それはお金や仕事、サービスということだけではなく、ボランティア活動や身近な人の気持ちを癒したり、元気にしたりするのも同様です。 与えられる「より良い社会」ではなく、自分たちの手で変える「より良い社会」。 そのために、一人ひとりの資質を開花させ、その人の人生に素敵な花を咲かせるような活動を行っていきたいと思います。