投稿

7月, 2022の投稿を表示しています

【No.1294】「8歳までに治らなければ」

イメージ
脳科学者の澤口氏は、「8歳までに治す」「8歳以降は治らない」と著書の中で主張されています。 確かに神経発達が盛んなのはそのくらいまでの年代ですし、8歳以降、神経発達のスピード、育ちきるまでの時間が長くなっていくのを感じます。 ですが、8歳以降治らないかといえば、そうではないと私は思います。 私が直接かかわった方で、治った記録、最年長は50代のお姉さんです。 もちろん、時間は年単位で掛かりましたが、生活を見直し、環境と身体を整え、コツコツと続けていった結果、それまでの課題が解決し、「充実した毎日を過ごせています」とおっしゃっていました。 昨日も、20代の方からメールがあり、「お蔭さまで、片づけができるようになりました」「仕事上のマルチタスクができるようになりました」という報告をいただいたところです。 ですから、子ども時代と比べれば、何倍も時間がかかりますが、大人になっても「治る」を実感できるわけです。 50代のお姉さんに比べれば、今の子ども達はまだ人生始まったばっかり。 「治る」を諦める理由はありませんね。 ただ実際、「8歳までに治らなければならない」と思っている人もいますね。 だけれども、そういった人たちも、敢えて引き離そうとしているアンチを除いて、8歳を過ぎたら本当に治らないとは思っていないはずです。 もし本気で8歳がリミットだと思っているのなら、それは知らないだけか、澤口信者(笑) みんなわかっているけれども、そうやって言っているのは、保険をかけているんですね。 もし取り組みを行っても治っていかなかったとき、それは「8歳を過ぎたから」「8歳より前に始めなかったから」と自分の外に責任をおくことができる。 コロナ騒動を見ても分かりますが、世の中の多数派は「自分のせい」を過度に恐れている。 それは不安の裏返しでもありますし。 本来、ヒトの保育は共同保育ですので、今のようなワンオペ、夫婦だけの育児で不安を感じないほうが珍しい。 だから、そういった人を責めちゃダメ(笑) 「8歳までに治らなければ」というのは、別の言い方をすれば、まだ発達援助の準備が整っていないということ。 親御さんが不安に思うことが問題なのではなく、その不安を解消できないことが問題なのです。 だから、私は全国どこでも家庭に伺い、顔と顔を合わせて、時間と場所を共有し、親御さんが主体的に行っていける子育て、発

【No.1293】触れることで我が子と繋がる

イメージ
学生時代、木曜日の夕方は決まって盲学校にいました。 生徒さんの放課後の活動、マラソン伴走のボランティアです。 お互いが一つの輪っかを手に持ち、その状態で走りだすのですが、最初は息を合わせるのが大変。 どうしても目が見える私は、視覚に頼ってしまい、生徒さんの動きを確認しながら走るペースを調整します。 が、それだと走りづらいんですね、生徒さんのほうが。 自分の動きを見られているのも感じるらしく、私が合わせようとする行為自体が却ってぎこちなさを生みます。 盲学校のボランティアは3年間続けました。 その中で、いつしか生徒さんの動きを見ないほうが、どのように走りたいのか、わかることに気がつきました。 視覚ではなく、手に持っている輪っかに意識を向ければいい。 その持ち方、力の入れ方、そして息づかいまでをもが一つの輪っかを通して私の手に伝わってくる。 手というか、触れることは、相手の感情、内側との繋がりを生む。 子どもと手をつなげば、その子がどちらに行きたいのか、どんな気持ちなのかが伝わってくる。 「病院、へっちゃら」と言っても、その手に力が入っていれば、その手に汗を感じれば、言葉とは違った感情を知ることができる。 「ママ嫌い」と言っても、その手に柔らかさや温かさ、ギュッと指を握ってくる感じがあれば、子どもからの愛を感じることができる。 だから、触れる、触れ合うという行為は、相手を知るためのコミュニケーション、やりとりでもある。 私はもっと親子で触れ合いの機会を持った方が良いと思っています。 スキンシップは小さいときだけ、というのが日本的な考え方、文化なのでしょうが、それにしても親子の触れ合いが少なすぎるような気がします。 特に胎児期から2歳前後の間に発達のヌケを持つことが多い発達障害の子ども達には、その触れ合いがとても重要です。 視力の発達から言っても、2歳くらいまでは視覚よりもその他の感覚のほうが先に機能していて、手や足、皮膚を通した感覚刺激が発達の土台を培っていくといえるのです。 皆さんが行っている金魚体操も、意識は揺らす、揺れるに向かいがちですが、本当はその手で子どもさんの足に触れることのほうが意味深いこともあるような気がします。 この時期の愛着形成に関しても、目や耳、モノや言葉ではなく、やはり肌と肌とが触れ合うことで培われていきますね。 親御さんだけではなく、支援者の中

【No.1292】『身体アプローチ』という言葉がフラフラと歩き出したように感じる

イメージ
『身体アプローチ』という言葉は、しっかり市民権を得ましたね。 5年前までは、そのような言葉もなかったですよ。 今みたいに多くの人が「身体アプローチ」を使い、しかも花風社クラスタ―と思われないような人達までもがフツーに使っている様子を見ると、たった5年くらいの月日ではありますが、ハッタツの世界も大きな変化が起きたのだと思います。 こういったものは、そのときは感じないもので、後から振り返ると、「おお、革命的な出来事だったんだな」「あれが分かれ道だったんだな」とわかるものです。 そもそも『身体アプローチ』とは、身体から整え、育てていくことで、発達障害の課題を解決していこう、という話だったと思います。 長年といいますか、始まりが発達障害を持った人たちの身体的な不具合をどうにかしたい、というところから花風社さんの出版活動ですから、身体への働きかけが中心だったといえます。 そして2013年より脳の機能障害から神経発達症になり、その神経は全身に張り巡らされていることからも、約20年間、花風社さんが提言し続けられてきた身体面からの働きかけの有効性が明らかになったのです。 で、それ以降、『身体アプローチ』という言葉が定着し始めました。 薬や療育、支援ではなく、頭の表面、大脳皮質に働きかけるSSTやナントカトレなどのアプローチではなく、運動や遊び、感覚への刺激を通して働きかけていく。 シンプルに言ってしまえば、旧来の療育の対比としての身体アプローチだったと思います。 それは治らない特別支援と、治る花風社クラスターという意味合いもあったでしょう。 治すを目指すなら、身体アプローチみたいな。 言葉は生き物です。 時間の経過とともに、使う人たちの捉え方によって、どんどん意味が変わっていきます。 コロナ騒動を2年あまり行っている間、2019年まで偉そうにしていた発達障害の専門家たち、支援者たちがみんないなくなってしまいました。 というか、いなくても困らないことが親御さん達にはわかったのでしょう。 ですから、旧来の療育&支援、治らない信仰の人達、生まれつきの障害説と対比としての身体アプローチの図式が崩壊。 ここ数年、まったく公的な療育や支援を受けずに、直接、私のところに相談があり、その後、そのまま家庭で治っちゃった子が珍しくなくなりました。 そこで身体アプローチが一つの方略へと変化した。 「うち

【No.1291】ヒトという動物としての躍動した発達を

イメージ
人というのは、つくづく「外のことはよくわかるんだな」と思いますね。 裏を返せば、自分のことはよくわかっていない。 まあ、わかっていないから、他人のことをズケズケと言えるんだなとも思います。 私の仕事なんて、その最たるもので、ひと様のおうち、お子さんのことだから、客観的に見え、あれこれと言えているんだと思います。 違うのは、その自覚があるかと、他の療育機関、支援者と異なり、忖度&接待をしないところですかね(笑) 妻に訊けば、子ども達に訊けば、理想の父親とは程遠いでしょう。 だからこそ、あまりしゃしゃり出ずに、子ども達の生きる力、伸びる力をただただ信じようと私は思っています。 この仕事を続けていくと、多くの人達と出会います。 そして何よりも自分のことがよく分からないという人間の習性が見えるのです。 私はよく「発達障害のうち、90%以上は誤診」と言っています。 でも、勘の良い人はお気づきの通り、これは「90%以上の人は、環境側の要因によって発達障害に"されている"」と言っているわけです。 もし単純に、本人だけの問題で、本人が抜かした発達とその遅れが原因だとしたら、私が施設を起ち上げて、そこでセッションをすれば良いわけです。 遠方の人なら、一週間から1ヶ月くらい来てもらって、そこで毎日、プログラムをこなしてもらえばいい。 でも実際は、そんな施設を作っても無駄でしょ。 一応、私は日本に3施設しかなかった自閉症児の専門施設にいましたが、いくら専門的なスタッフが24時間、365日、計算されたプログラムを行っても、根本からの改善はできませんでした。 きっと今のような知識があったとしても、治るは無理。 まあ、リアルな自閉症の人、最重度から測定不能の知的障害を持った人、強度行動障害を持った人だったというのもあるけれども、そこまで問題をこじらせ、知的発達が進めなかったのは、本人側というよりも、環境、家族、成育歴の中に問題があるから。 そこから治していくためには、施設では限界があり、やはり家族、成育歴の中に立ち返り、戻っていくしかないのです。 「私は治った側です」というけれども、実際は「治っていないでしょ」と思うことがある。 反対に「私は治っていない側です」というけれども、実際は「治っているでしょ」と思うこともある。 そして「治った」と見える人の中にも、当然、治っていな

【No.1290】子ども達から聞こえてくる「発達障害があって何が悪いんですか?」という声

イメージ
西洋医学的に言えば、症状や問題を「消す」ことが治療であり、治るになる。 だから、自傷があれば精神安定剤を処方し、眠れないとなれば、睡眠導入剤を使って眠らせる。 その背景や原因は問わない。 とにかくターゲットとなる行動を、たとえ一時的であったとしても消せればOKなわけです。 症候群などという詐欺みたいな診断名を作りだし、チェックリストにいくつ印が付くかで診断が決まるというのも、それを端的に表しているのでしょう。 発達障害の分野においては、創成期からアメリカやイギリスの影響を強く受けていますので、医療はもちろんのこと、福祉、教育においても、西洋医学的な視点に立ち、展開されています。 ですから、療育に行っても、学校に行っても、福祉事業所に行っても、「〇〇ができない」というダメ出しが主になり、そのダメなところをいかに消していくか、少なくしていくかが支援の中心になります。 ハッタツの世界にいればいるほど、子ども達も、親御さん達も病んでいくのはこういった理由があるからです。 ズボンの中に手を入れるのなら、オーバーオールを着せよう。 聴覚過敏があるのなら、イヤーマフを付けよう。 言うことを聞けないのなら、結束バンドを付けて袋をかぶせて連れて行こう、もその流れの中にあると思います。 この「〇〇ができない」という視点に立った支援というのは、とても危険だといえます。 何故なら、「〇〇ができない」という評価が、既に本人ではない他者評価、他者の視点になっているからです。 発達相談を行っていても、「〇〇ができない。どうしたらよいか?」という話題が少なくありません。 で、「"〇〇ができない"というのは、本人がそれができなくて困っていますか?」と尋ねると、言葉に詰まってしまう。 親御さんばかり責めるわけではありませんが、ずっとそういった評価、支援の中にいれば、おのずとそういった思考、視点に立って子どもを見てしまうのかなと思いますし、親御さん自身がそういった育ちをしてきた、されてきた可能性もあります。 そういったご家庭は、症状を消すことができたとしても、根っこから育て、治すことはできない。 私はこの頃、強く思うのですが、「発達障害があって何が悪いんですか?」と叫びたくなることがあるのです。 商業目的で診断名をつけられる。 学校が管理しづらいからといって、特別支援の世界に追いやる

【No.1289】治すことが役割になる子ども達

イメージ
この前、私の発達相談を同席した支援者さんから、「愛着障害のあるなしって、どうやったらわかるんですか?」という質問がありました。 なぜ、わかるかと言われれば困っちゃうのですが、だいたい会った瞬間、わかります。 だって、顔に「愛着障害あり」って書いているんだもん(笑) 独特の雰囲気がありますね。 時間の経過の中でも、その愛着障害オーラ(?)が溢れたり、穏やかになったり。 そんなのもわかります。 ですから、その変化を見ながら、コアな部分を探っていくんですね。 もちろん、溢れすぎて危険な場合は、話を逸らすことも行います。 で、お子さんと親御さんの愛着障害の関係性を見ていきます。 お互いどんよりしているご家庭もありますが、だいたい子どもさんの愛着障害が薄くて、親御さんの愛着障害が濃い場合が多い気がします。 子ども達は気づいているんですね、親御さんが一生懸命愛そうとしていることを。 だけれども、親御さんのほうは、ちゃんと我が子を愛せているか、自分には母性がないのかもしれない、自信がなくて不安に思っている。 このように意識化できている親御さんは不器用ながらも、我が子を愛し、それに対して子ども達は愛情を感じている。 だから、親御さん>お子さん、という愛着障害の関係性が多い。 一方でお互いがどんよりしているご家庭というのは、親御さん自身が気がついていない場合が多い。 気がついていないというか、意識の下、無意識レベルでの認識という人が多いと思います。 冒頭でお話しした支援者さんも、「愛着障害があるって聞いてビックリした。反対に明るくて、愛情たっぷりなお母さんに見えていたから」と言っていましたので。 愛着障害のもっとも大変なところは、こういった無意識レベルの、もっといえば、無意識レベルに押しやっている、自分自身で無意識的に蓋を占めている人達なんです。 無意識レベルに愛着障害を持っている人達というのは、一人でいる場合、また表面的な付き合いをする場合、その問題が表出しません。 ですから、いわゆるよそ行きの顔のときは、むしろ明るくて元気なお母さんに見えたりする。 が、他人と関係性を結ぶような場面が来ると、愛着障害が顔を出す。 愛着障害とは、他人との関係性の障害、課題だといえます。 なんで、他人と関係性ができるとき、その歪みが出るんです。 その歪みを見て、私は具体的にどのあたりの、どの時期の、ど

【No.1288】家族が育てたらゼロ円

イメージ
河野氏は隔離期間が終了したあと、こう言うだろう。 「私はワクチンを打っていたから、軽症で済んだ」と。 そして、きっとこの報道を目にした人達の中には、「ほらみろ、重症化予防だよ、ワクチンの効果は」となる。 自らの接種を肯定し、また4回目と言われれば、ホイホイと接種に出かける。 発達障害の世界においても、このようなパターンは20年以上、繰り返されている。 「早期診断、早期療育をしたから、落ち着いて過ごせている」 「療育を頑張ったから、毎日、学校に通えている」 早期診断、療育を受けたから、落ち着いて過ごせているのかはわからない。 もしかしたら、早期診断、療育を受けなくても、落ち着いて過ごせる子だったかもしれない。 そればかりか、支援の世界では「落ち着いていること」「毎日学校に行けていること」が評価ポイントになるが、それは支援の目的が将来、介護しやすい障害者を作ることなので、本当に落ち着いていることがその子の幸せか、本当の資質かはわからない。 この前も長年通っていた療育、特別支援の世界から離れ、一つずつヌケを育て直していったご家庭の男の子は、久しぶりに会うと活発で、よくしゃべるひょうきんな子になっていた。 この子は穏やかな子だったのではなく、自らが出せなかった子なのでしょう。 私はありがたいことに(?)、治る系支援者のほうに分類してもらっています(笑) 「大久保の発達相談を受けてから、息子が治った」なんてことをおっしゃる親御さんや、SNS等で私のセッションを紹介してくれてポジティブな感想を発信してくれる親御さんもいますが、それもまったく同じパターン。 順序で言えば、発達相談→良い変化、治る、かもしれませんが、私がきてもこなくても、治ったかもしれない。 むしろ、私のアドバイス、見立てが間違っていて、発達の妨げになっていることすらあるでしょう。 結局、その子が発達障害かどうかすら怪しくて、世界中、誰にも証明することができないのです。 なので、療育の効果も、支援の効果も、私の発達相談、援助の効果も、誰にも分かりません。 よって、そんなわけもわからないもんを提供している私達支援者よ、「偉そうにするな!」と言いたい。 なにか自分たちが良いことをしているような気になっているが、なにか自分たちが専門的な知識と技能をもって特別なことをやっているような気になっているが、すべて勘違い。 反対に

【No.1287】夏の宮島にて想う

イメージ
月曜日の午後、広島出張から函館に戻ってきました。 厳密に言えば、呉市の出張になります。 呉市の相談員さんが毎年呼んでくれていて、今年がちょうど5年目でした。 5年前はというと、ちょうど広島県の豪雨災害のときで、「行くのやめにしますか?」と尋ねると、「待っている人達がいるから」とそのまま決行したのを思い出します。 道路もあちこち寸断されていて、発達相談のあとは車が入れない場所に住む方に一緒に水を運ぶこともしました。 私は支援者という人達が嫌いですし、学校の先生も嫌いです。 ですが、この呉市の相談員さんは違うのです。 目の前にいる子ども、大人、家族が少しでも良くなるのなら、どんなことでもやる。 たとえ朝早くだろうが、夜遅くだろうが、すべてを投げ打ってさえも必要なことは行う。 しかも全部、無意識に、本能でやっている。 もちろん、それくらいの人だからこそ、間違ったことに対しては心から叱るし、拒否もする。 一緒に泣いたり、笑ったり。 その人が自立したと聞けば、わんわん泣ける人なのです。 なかなかいませんよ、こういった相談員さん、支援者さん。 5年前、初めてお会いした瞬間、「この方は、目一杯、子ども時代に愛されて育った人だ」というのが見えました。 実際、お話ししても、やはり特に母親からの深い愛情を受けて育ってきたことがわかりました。 溢れるくらいの愛情を受けて育ってきたからこそ、溢れるくらいの愛情を周囲に手渡すことができる。 まるで瀬戸内海に登る太陽みたいな方です。 「スーパーバイザーをお願いしたい」 「うちの事業所でコンサルをしてもらいたい」 「雇ってください」 「一緒にそばについて、学ばせてください」 といったお話はいただくことがあります。 でも、無理。 まず愛着障害の人と長い時間、一緒にいるのが疲れるんですね。 純粋にアセスメントの視点や発達援助のアイディアなどを教えたいのに、というかまずは目の前にいる子が一番大事で、その子がよりよく変わっていけるための時間にしたいのに、どうして私があなたの愛着障害をケアしないといけないの。 まずはご自身で治してからお越しくださいって感じ。 時々、強者がいて、「私、昔愛着障害があったんですけど、治したんですよ」という人がいます。 しかし愛着障害は、そんなに簡単なものではない。 どの時期の愛着障害かもあるし、階層的でとても複雑です。 だいた

【No.1286】夏休み活用講座をやりきることができました!

イメージ
講演会と出張相談を終えて函館に戻ってきてからは、急遽、広島出張が決まったり、緊急で函館のご家族から依頼があったり。 そして昨日、関東でお会いしたご家族の元へ作成した報告書を郵送しました。 そうこうしている間、今回の講座を主催してくださった花風社の浅見さん、花風社さんの書籍にはなくてはならないイラストを描かれている小暮画伯さんがブログを書いてくださっていました。 『答えのない時代を生きていく 夏休み活用講座のご報告』 @浅見さん 『花風社さん主催、大久保悠さんの「夏休み活用講座が本当にすごい!~発達援助とリハビリのための時間を大切に』 @小暮画伯さん また当日参加してくださった方々、リアルタイムでご視聴頂いた方々からも、SNSやメールにてご感想を頂戴しておりました。 6月の上旬、花風社の浅見さんからメールをいただきました。 「夏休み前に」「テーマは学校&過剰な対策からのリハビリ」というご提案でした。 夏休みは、子ども達の発達、成長において、とても重要な1か月間になります。 この夏休みをどう過ごしたかが、秋以降のいわゆる”ドカン”といった大きな成長として表れるのは、浅見さんも、私も、もちろん花風社クラスタの皆さんも実感されていることだと思います。 ですが、2022年の夏休みは、それまでの発達の後押しにまい進するだけの夏休みとは異なるのです。 ほとんどの国は、コロナ騒動を止め、次の危機までの小休止をしているのに、相変わらず日本はマスクだ、ワクチンだ、陽性者数が、なんて言っている。 しかも、子ども達がおかれている状況は1年目よりも2年目、2年目よりも3年目というようにどんどんひどいことになっています。 子ども達の1年を取り戻すには、その何倍も時間がかかります。 それが3年目ですよ。 2年間の発達のヌケ、誰がどうやって育て直しを行うのですか? 2歳の子どもだったら、人生すべてが発達のヌケ。 私達大人は、とんでもないことを今の子ども達にしていると思います。 もちろん、私だってそういったひどい大人の一人です。 何度も何度も、自分の無力さを感じました。 どんなに頭を下げても、どんなに涙を流しても、彼らの2年間は戻ってきません。 だからこそ、今回、『夏休みを活用しよう!~発達援助とリハビリのための時間を大切に~』という講座名を頂き、自分の持っているものすべてを出そうと決心しました。

関西出張のご案内(8月4日)

イメージ
*7月5日15:30、訪問させていただくご家庭が決まりましたので、募集を終了いたします。また関西に行くことがあれば、告知します! 急遽、8月2~4日の日程で広島に出張することが決まりました。 函館から広島ですと、直行便がないため、また函館~伊丹のホテルパックの方が安いため、大阪市内のホテルに泊まり、3日(水)1日をかけて広島市内を回ろうと思います。 そこで8月4日(木)の午前中でしたら関西地方にお住まいの方の発達相談の時間が作れます。 もしこの機会にご希望される方がいらっしゃいましたら、お問い合わせください。 【日程】 8月2日(火)午前 ×  / 午後 函館→伊丹 8月3日(水)一日、広島市内 7月3日(日)午前 『大阪』 / 午後 伊丹→函館 *ご希望が重なった場合は、先着順とさせていただきます。 詳細を確認したい方は【出張相談問い合わせ】と件名に書き、お問い合わせいただければ、ご説明いたします。 出張相談についての内容は、 てらっこ塾ホームページ をご覧ください。 ご依頼&お問い合わせ先: メールアドレス