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1月, 2016の投稿を表示しています

「場所は提供するから、あとはご自由に」って時間を消費する

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毎年、この時期は、いろいろな物を貰えます。 みかんに、ジュース、お菓子など。 この前は、今、流行のジブエ、シカ肉を頂戴しました。 みなさん、訪問すると、「この道の中、よく来てくださいました」と言って、帰り際には「持ってって」とプレゼントを渡してくれるんです。 移動に、神経も、時間も、かかるので、「その分かな」と思い、ありがたく頂戴しています。 私は、発達援助の技術を売って商売をしているのですが、合わせて時間も売っているのだと思います。 実際に本人とトレーニングをしている時間はもちろんのこと、移動の時間、事前の準備と事後のフィードバックの時間、そして技術向上のための自身の勉強の時間なども必要であり、それも売っているのだと言えます。 本人と対面する時間以外も大事な商品ですので、大切にしなければならないと意識しています。 こういった「時間とお金」ということを意識してみると、新たな視点で物事が見えるようになりました。 例えば、ミーティング。 よく遅刻してきたり、本筋と違う話をしたりする人がいますねー。 その影響で進行が止まったりする。 ミーティングの場に10名の人が参加していたとしたら、1分誰かの影響で関係のないことに時間を消費しちゃうと、10人分の1分を消費したことにもなりますね。 合計10分無駄にしたとも言えます。 その一人の無駄遣いが2分になったら2倍の20分…。 その人以外の人も、時間を無駄遣いしちゃうことがあれば…。 すぐに60分くらいになってしまいます。 自分にとっては、ほんの少しの時間でも、こういった視点で見れば、他人の時間をたくさん使ってることってあるんですよね。 時間だけ長くて、中身のないミーティングだった、と感じるのは、こういったことがあるかもしれませんね。 会議に出れば、その組織の未来が見えちゃいます。 講演会だって、知ってることや自分で調べられることだったら、その話の間は無駄な時間になっちゃうわけです。 時間をかけて講演会場に行き、2時間、3時間、話を聞く。 そして、その中で得られたのが、5分間くらいの内容だったら、残りの時間は無駄になってしまう。 この頃、モッタイナイと思う講演会ばかりだから、ぜんぜん行かなくなっちゃいました。 その時間があるんだったら、仕事をして直接的な発達援助に使いたいですし

支援者になろうとする親御さん

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私はよく親御さんに「支援者になってはいけません」と言います。 子どもの療育に熱心になるのは良いのですが、たくさん勉強するのは良いのですが、親から支援者になるのは反対です。 親から支援者になって失敗している人をたくさん見てきましたから。 支援者って他人なんですよ。 そして、療育場面だけが想定されているんです。 だから、支援者は、兄弟や家族のこと、家事や自分の時間は入っていません。 とにかく療育だけやるのが、支援者です。 自分が疲れていても、イライラしていても、他に家のことでやることがあっても、療育をやる。 それが支援者になるってこと。 親御さんのまま、支援する人と、親御さんから支援者になって支援する人がいます。 親御さんのままの人は、子どもをあらゆる面で成長させます。 支援者になる人は、子どもを偏って成長させます。 子どもの成長って、何かスキルを身に付けることだけでも、コミュニケーションがうまくなることだけでもありません。 心身ともに大きくなることも含みます、というか、こっちがメインです。 心身ともに成長するには、家族としての交流、楽しみも大切ですし、美味しいご飯を食べ、暖かい布団でしっかり眠ることも大事。 どんな親御さんも、一日は24時間。 それだけ療育に懸けていたら、その他のことはどうしてるのって思うことがあります。 兄弟児は? 食事は? 家事は? 他の人からの協力なら良いですが、他の人の犠牲はいけません。 親から支援者になっている親御さんの子どもって、荒れていることが多いような印象です。 伸び悩んでいたり、問題が起きていたりする子の親御さんを見ると、療育熱心の人が多いことに気が付きまして、ずっとその理由を考えていました。 私が出した結論は、子どもに親がいなくなってしまうから。 子どもにとって親は、安心基地です。 その安心基地が、人工的な支援の場になるのです。 それでは安心して成長することはできません。 子どもが安心を得ようとしても、返ってくるのは支援…。 子どもが自傷したとき、まずその手を制止し、抱きしめるのが親だと思います。 それをやらずに、せっせと構造化したり、絵と文字を書いて会話をしようとするのは支援者です。 子どもは親御さんにどちらを求めているでしょうか? 親御さんから支援者になり

功績がある人は発達障害で、トラブった人は精神障害って、おいっ!

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今週も、しくじった人がアスペルガーじゃないかとか、元県議は発達障害じゃないかとか、ネット上で話題になっていましたね。 特徴的な人物が画面に表れると、すぐに「アスペだ」「自閉だ」「発達障害だ」という声が上がるようになりました。 それだけ、発達障害が社会に広く浸透してきた証拠だと思います。 啓発活動の効果!パチパチ 番組に登場してすぐに、裁判の様子が報道されてすぐに「発達障害じゃない!?」ってネットでの書き込みが始まっていました。 こういった書き込みをする人は、発達障害の専門家かなと思いきや、一般の人たちですね。 ですから、これだけ一般の人たちが発達障害を知り、その様子を見ただけで「もしかしたら…」と思えるくらいまでになったので、さぞかし当事者の方や支援者たちは喜んでいらっしゃると思ったのですが…そうでもないようですね…。 当事者の人の中は、「一緒にするな」と怒っている人がいましたね。 「こんなヘンな人と一緒にされたら、迷惑」だって。 専門家も、「発達障害ではない。精神疾患だ」なんて言ってました。 なんで、こんなにも発達障害の可能性を否定するんでしょうね。 エジソンやビルゲイツとは「同じ発達障害です」と言うのに、しくじった人や県議は「発達障害じゃない」と言う。 だって、エジソンやビルゲイツだって診断なんか受けてないんですよー。 だったら、この差は何?ってなる。 功績があった人は発達障害で、問題を起こした人は発達障害じゃないって主張するのは、おかしなことだと思いますね。 "ASPERGER"っていうのを何かのブランドと勘違いしてる、またはブランドにしたいんですかね。 「ブランドに傷がつきます」って言ってるみたい。 まあ、一番おかしいのは、公の講演会とかで診断を受けていない著名人の名前を挙げてしまっている専門家の人権意識の乏しさですが…。 良い情報だけ流し、悪い情報は統制するって、どっかの独裁国家とやっていることは変わらないような気がしますが。 こんなことをしていても、結局、多くの人たちの支持はもらえませんね。 いくら情報統制をしようとも、一般の人たちは真実を知っています。 犯罪報道の仕方も変わってきましたよ。 ギョーカイの圧力に負けず、きちんと「発達障害」「自閉症」という言葉も使うようになりました

自分を癒すために支援している人

タイトルの通りなんですが、多いんですよね~、支援者と呼ばれる人の中には。 自分が子どもだった頃にしてほしかったことを、子どもの支援を通してやったりとか。 人から認められたい、頼られたい、必要とされたいみたいな感情を満たすために、弱い立場の人の支援をやったりとか。 親にとって良い子でい続けるために、兄弟児から支援者になったりとか。 別に良いんですよ。 どんな動機だって。 自分を癒すためだって。 支援を受ける側の人が成長し、幸せになれれば。 でも、こういった欲求を持って支援者になっている人って、満たされないことが多いんですよね。 どうしてかって? それは、他人だから。 自分を投影している人は他人。 他人だから必ず自分の欲求を満たしてくれるような行動をする訳ではない。 支援しているのは兄弟ではなく、他人だから。 なかなか欲求は満たされないし、癒えてもいかない…。 支援について助言や意見をもらったときの反応に違いが表れるような気がしますね。 こういった欲求のない支援者は、自然と耳を傾けます。 こういった欲求のある支援者は、拒絶反応を見せます。 あくまで支援についての助言だったり、意見だったりするのに…。 まるで自分自身を否定されたの如く感情を表出させるんですね。 こういったときに"重なり"を感じます。 また、自分の周りに支援を受ける側の人たちを集めたり、お気に入りの人やこだわる人を決めている支援者も可能性は高いと感じます。 自分の空間というか、自分の環境を作ってるようにも見えますね。 「自分自身を重ね合わせているな」 「自分の気持ちが満たされたくて、この仕事をしているな」 という自覚を持つことが大事だと思います。 この自覚がなければ、どんどん欲求が高まり、行動がエスカレートしてしまうから。 この自覚がなければ、支援者として技量を高めていくことに意識が向かないから。 「自分は正しいことをやっている!」 「自分はこの人のためを思ってやっている!」 このような人は、プロにはなれないですね。 変化がないですから。 つまり、支援者としての成長がないので。 支援者とは、自分ではなく、"他人"の生活や発達、成長を支援することですよね。 当たり前のことなんですけど、ここに

抽象的なアドバイスでは成長していかない

最近、「支援を教えてください」という依頼がありました。 二人のお子さんを育てるママさんです。 お子さんの支援は、以前から私が関わらせてもらっていましたが、「自分自身がもっと支援の勉強をしなければいけない」という思いが強くなったそうです。 家族が支援について学ぶことは大事ですね。 だって、多くの時間を過ごすのが、家族だから。 この親御さんは、大変勉強熱心な方で、お子さんが自閉症と分かってから、勉強会や講演会、某機関など、足しげく通って勉強されていました。 学校の支援ミーティングも、なんとかコーディネーターに地域の医師や相談機関の人など、外部の人にもお願いして、「少しでも我が子のためになるように」と頑張ってこられたんです。 多くの専門家と呼ばれる人たちと交流があったことがわかります。 でも、そんな勉強を始めて10年以上が経った今、私に支援を勉強させてほしいとお願いしてくるとは…。 当然、こういった経緯を聞けば、「どうして私に?」しかも「今?」となりますよね。 (まあ、薄々は気づいていたけど) なが~いお話をまとめると2つ。 今まできっちり結果を出してくれる人がいなかったのと、具体的なアドバイスをくれる人がいなかった、ということ。 この二つってリンクしているとは思いませんか? 私は、結果を出せない人は具体的なアドバイスが出せない。 具体的なアドバイスができない人は結果が出ないと感じますね。 よくいるじゃないですか、教科書通りのアドバイスしかできない人。 「自閉症の人には視覚的に支援しましょう」 「不適切な行動は無視して、望ましい行動をしたときに褒めたり、ご褒美をあげましょう」 「自己肯定感を高めるのが大事です」 「スモールステップで教えていきましょう」 などなど。 そして、こんなことを言う人が、実際に支援を始めると、衝立を立てて、スケジュールやCOMカードを作り、ちょっとずつ絵に描いて教えていく…みたいな。 どこに行っても、誰に聞いても、金太郎飴みたいな支援しか出てこない。 こんなんじゃ、わざわざ時間を割いて出かけるのがもったいないですね。 ネットを開き、「自閉症 療育」と打てば、すぐに出てくる情報です。 これじゃあ、いくら勉強しても支援の力はつきませんね。 とにかくみんな抽象的なんですよね。 スモールステッ

それって性格が悪いんじゃなくて、表現がヘタなだけじゃないかな

自閉症の人は、誤解を受けることが多いですね。 上から目線の発言だったり、ぶっきら棒な言い方だったりして。 それを受け取った側は、「なんて傲慢な奴だ」とか、「逆ギレすんじゃないよ」とか、その人の人格とくっつけて解釈する。 こういった人の中には、未学習や誤学習、独特な世界の切り取り方をして、実際に態度も傲慢な人もいたり、ぶっきら棒な振る舞い方しかできなかったりするような人もいますね。 積み重なって、いびつな人格形成をしてしまったみたいな。 でも、多くの自閉症の人は、表現が下手くそなだけで、受け取る側が思っているような人格の人って多くないと思うんです。 単純に、表現力が乏しいという話。 つまり、勉強不足、テクニック不足ですね。 例え、よじれた人格だったとしても、頭の中で、どんなことを思おうとも、不適切な言葉を使おうとも、問題はないんです。 でも、口に出した時点でアウト! だから、人格を直そうとしても難しいので、言葉を直していくんですね。 上から目線の表現ばかりなら、相手にそのように受け取られないような表現を学ぶ。 ぶっきら棒な表現ばかりなら、丁寧語を学んでいくっていうのも支援のアイディアです。 自閉症の人たちと接していて、あまり彼らの内面とくっつけて支援を考えない方が良いと思うんですよね。 内面は、自閉症の人だろうが、定型の人だろうが、変わりませんよ。 「あいつは嫌な奴だ」「困った奴だ」なんていう言葉も耳にしますが、単純に言い方の問題では、表現の問題では、と思うことは多いですね。 まあ、どっちにしろ、内面は変えられませんし。 表現力が向上すれば、誤解を受けることが減るな、と思えば、そこから取り組みますね。 「身につきやすいところから身につける」 「治しやすいところから治す」 は自閉症支援の基本ですから。

愛情ガー

「愛情で満たされれば、この子は成長するんです」みたいな療育って、歴史の教科書レベルの話だと思っていたら、まだそんなことを言っている人がいるらしい。 愛情はいらないとは言わないが、愛情を療育の中に持ってきてしまったら、混乱以外生みださないですね。 何かできないことがあると、「愛情が足りていないからだ」が始まり、「〇〇さんの接し方が冷たい」→「もっと笑顔で、優しく」→「学校(施設)の雰囲気が暗いのも問題」となり、教室を飾り始めたりする。 そうしているうちに、支援者の対応がブレるもんだから、当然、本人も落ち着かなくなり(何だか気味悪いしね)、別の問題が出てくる。 当然、できないのは接し方ではなくて、学びが足りないのだから、最初にターゲットにしたできないは、そのままは続きます。 そして、愛情派と愛情否定派にチームは分かれ、互いに悪口を言い合うのが典型的なオチです。 結局、ウデのない人か、自分を癒すために支援者をやっている人が、愛情を持ってくるんですよね。 愛情を否定する人はいませんからね。 「愛情があれば…」といえば、「そ、そうかな」と周りも受け入れやすいですから。 私も療育の中に愛情の視点を入れないかって言ったら、そうではないんですね。 でも、それは発達段階を見るのに使います。 自閉症の人は、赤ちゃんのときから自閉脳なわけであって、そのため、母子関係がうまくいかないことがあるんですね。 うまく母子の愛着が形成されない。 それは、親御さんの愛情が足りないとか、虐待をしているとかではなくて、自閉脳を持つ赤ちゃん側の受け取り方、感じ方の違いで、です。 心地良さが双方で共有できないんですね。 身体感覚に違いがありますから。 うまく愛着が形成されないと、不安が強かったり、安心感が感じられなかったりし、将来の問題行動や無気力感などにもつながっていくんです。 ですから、あくまで留まっている発達段階を進めるために愛情の視点を入れます。 幼少期に必要だった信頼関係を持てるようにするにはどうすれば良いか。 感情を出し、それを受け止めるような交流と共感ができたら、次の発達段階に進めるんではないか、などです。 支援はサイエンスでなければなりません。 愛情という物語を創作しても、それは独りよがりの支援にしかなりません。 もし愛情ガーという支援者が

当事者意識を高めてから学ぶ

当事者意識が薄いことに悩みを持たれる親御さんは多いです。 テスト前なのに、遊んでばかりいる… 受験前なのに、緊張感がない… 無職なのに、仕事を見つける様子がない… 叱っているのに、上の空… 私も支援していて、どこか他人事のようで、当事者意識が薄いなって感じることがありますね。 そういった状態で、何か教えていても、ほとんど身につきません。 暗記や演技のように覚えたとしても、実際の場面で応用はできませんね。 自分の意識とは掛け離れたところで、いくら学んだとしても、それは型を覚えているだけですから。 そんなとき、私は何かを教える前に、当事者意識を高めることから始めます。 「どうして、大久保さんが来たんだと思う?」 「どうして、〇〇の勉強をするんだと思う?」 「今、できなくて困っていることはある?」 「もし、〇〇ができないままだったら、大人になったらどうなるだろう?」 「もし、〇〇ができない人を見かけたら、あなたならどう思う?」 などと質問し、自分の頭で考えてもらうように仕向けますね。 ここでは答えはどうでも良くて、自分の頭で考えてくれたらOK。 自分の頭で考えるということは、それだけで当事者意識が芽生えるから。 また、言葉でのやりとりや想像することに苦手さを持つ人でしたら、ゴールを見せて当事者意識を高めますね。 「見えないものは、ない」人たちですから、ゴールの"できた"を経験してもらいます。 例えば、コミュニケーションだったら、伝わったを経験してもらい、身の回りのスキルだったら、一人でできたを経験してもらう。 できた自分を経験することで、そこに向かう自分が生まれ、当事者意識が芽生えていきます。 周りの人間ばかりが焦ったり、叱っても上の空だったりすることもあると思います。 そんなときは、周囲が焦っていることに気が付いていなかったり、やらなかったらどうなるかという未来が想像できていなかったり、そもそも何に対して叱られているかがわかっていなかったりするかもしれませんね。 同じ場面で定型発達の人だったら自然に出るであろう反応が見られなかったら、それは定型発達の人が受け取る情報の量との違いがあるってこと。 情報の不足が、当事者意識の不足にもつながりますね。 あるお子さんの支援の際、私は「〇〇という行動

待てない支援者が多い

待てない人が多いなって思いますね。 子どもさんではなくて、支援する側のお話。 「今、必死に自分の頭で考えているのに~(見かけでは分からないけど)」とか 「せっかく自分で動こうとしているのに~(時間はかかったけど)」とか モッタイナイなと思うことが多いです。 すぐに手を貸そうとしたり、制止しようとしたりって、私が支援される側だったら、とってもうっとうしいと思っちゃう。 どこに行くにも、何をするにも、横であーだーこーだ言われたら、それこそがストレスでしょ。 支援者が側から離れたら落ち着いた、なんて話は良くあること。 お前らドラクエの仲間かって。 まあ、近くにいてもいいんだけど、刺激になっちゃだめ。 空気のようにならなきゃ。 そして、ここぞというタイミングで、教えたり、補助したりが大事。 それが支援者の役目。 あくまで学ぶのは本人であり、支援者はシャドー。 そのシャドーが陽の当たる所に出てきて、しかも待てないと来たら、困ったもんだ。 とにかくみんな待てない。 ちょっとでも失敗したら、すぐに手を出すし ちょっとでも止まったら、手を出すし ちょっとでも誤ったことをしたら、手を出すし 「不適切な行動はやらせない」っていうナントカ療法の教えにとらわれ過ぎでしょ。 「正しい行動だけやれば良い」なんていうのは、適応力をあげてるだけ。 そこに成長はない。 成長って、自分の頭で考えて、自分の意思で行動しなきゃできない。 試行錯誤することが脳も、心身も発達させると思う。 その試行錯誤の機会を待てない支援者が奪っちゃダメ。 待てない支援者がいる一方で、待ちすぎる支援者もいる。 というか、待っているのではなく、タイミングが読めないとも言う。 同じ課題をそのままにしていて、結局、高校3年生になってから慌てて指導を始めたりとか。 問題行動に対処せず、「思春期が過ぎれば」「気持ちが穏やかになれば」「春になれば」なんて俳人のように悠長なことを言って、何もやらないとかね。 学校教育だけじゃないですよ。 ひきこもりの人だって、就労できない人だって、待つってことは、年齢を重ねること。 ひきこもりの年数が長くなれば、社会に出るのだって大変になってくるし、就労できない期間が長くなれば、就職先はどんどんなくなってくる。 待てないのも困るが、待

先週、話題になった2つのニュース

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先週は、こぼした麦茶を無理やり拭かせて児童を怪我をさせてしまったニュースと、「将来、結婚もできない」などと発言した産婦人科医のニュースが話題になっていましたね。 そのニュースを受け、ネット上などではいろいろな意見が述べられていました。 いかなる理由があろうとも、怪我をさせてはいけないし、将来を決め付けるような発言はよろしくないですよね。 でも、私は「学校の仕組みがー」とか、「教師の質がー」とか、「人権がー」とか、いつものようなお決まりの意見を冷めた目で見ていたんですね。 だって、特別支援の世界では、学校でも、福祉施設でも、医療でも、程度の差はあるにせよ珍しいことじゃないでしょ。 「特別支援始まって以来、初めての出来事です」なんてことはない。 パニックを起こした人を体で止めることや、誤った行動をしたとき、強制的に自分で後始末させることって、やったことも、見たこともないですか? 「付き合うなんて無理」「結婚するわけじゃないし」なんて、堂々と言ってるじゃん、支援者たち。 怪我をさせること、言い方の問題は置いといて、同じようなことはギョーカイの中に存在してますよね〜。 産婦人科医がダメで、発達障害専門の医者は良いのかな? 今回は、怪我をし、公になったからダメで、怪我をしないで、公にならなかったら良いのかな? このニュースになった二人に対して否定的な意見を言う前に、自分の胸に手を当てるべきではないか、ギョーカイ人。 公になった者を叩いている暇があるのなら、自分たちの中にやるべきことがあるのでは?? この教師の力量を問う意見も多くありましたが、そんなに大差ないと思ったのが正直なところ。 怪我をさせるという下手くそさはあるけど、じゃあ、別の教師だったら、万事うまくいき、指導もバッチリ、この子の課題もクリアされるかっていったら、そんなことないでしょ。 教師だって、支援員だって、医師だって、一部を除く専門家だって。 意見している人の実践を見てみたいものです。 この教師だけ経験も、力量もなく、異質な存在みたいにしちゃって、「自分とは違います!」っていうのは、おかしいと思いますね。 重い知的障害を持ち、身の回りのことを自力で行うことができない、自分の意思をはっきり示すことができない人を前にし、「この人は将来、結婚は難しいだろう」と感じるのは、自

ズバリ相性が良い悪いではなく、実力があるかないか

ある親御さんに「大久保さんって、優しい人ですよね」と言われちゃいました、テヘ。 自分では優しい人間かって、よくわからないんですけどね~。 「うちの子が、優しい人で良かったって言ってたんです」と喜んで貰っていたからイイかな。 でも、他の親御さんからは、「厳しい人」って言われたこともありますね。 「うちの子には、厳しく接してくれる人が必要だったから良かったです」とも。 また、他にも「熱い人」と言われたり、反対に「冷静な人」と言われたり。 「ブレない人」と言われたと思えば、「柔軟な人」とも言われることもありました。 こうやっていろいろな方から、いろいろな感じ方をしてもらえることって嬉しいですね。 どうして嬉しいかって? それは、私の基本姿勢が"相手に合わせる"だからです。 つまり、いろいろな印象を持たれるってことは、相手に合わせられている証拠ですからね。 私は相手の様子を瞬時に見極め、どう接し、どう支援していったら良いかを決めてます。 成長段階によっても変えますし、その日の体調によっても変えますね。 「今日は学びを欲してるな」と感じれば、ガンガン勉強しますし、「テンションが高めで、浮足立っているな」と感じれば、冷静に接します。 優しさを欲していることを感じれば、優しく接しますし、優しさを欲していてもガツンと言った方が良いなと感じれば、毅然とした態度で厳しく接することもありますね。 とにかく相手にとって、この限られた時間内で、最大限の成果が得られるように努めてます。 "演じている"とまではいきませんが、対面したときの空気感を読み取り、相手に即した自分を内面にあれば取りだし、表に出すようにしていますね。 そういった意味では、ある親御さんが言っていた「柔軟な人」が一番合っているのかもしれません。 あくまで支援しているときの自分としては。 支援者との相性が云々かんぬんとか言われますが、相性なんか言われている時点でダメだと思いますね。 個人的には。 相性が・・・じゃなくて、その本人に合わせるのがプロじゃないのっていうのが、率直な感想です。 よく「うちの子、担当の人と相性が良くなくって・・・」なんて話をお聞きますが、悪いのは相性じゃなくて、相手に合わせられない支援者、っていうか、ただの引き出し不

「褒めて伸ばそう、発達障害の子の自尊心」という番組

期待通り(?)というか、予想通りの内容でしたね。 「褒めて伸ばそう、発達障害の子の自尊心」 月曜日から特集されているEテレの「今日の健康」です。 「その子の良いところを"見つけて"褒めましょう」と、何度も、何度も、出てきましたね。 "見つけて"という時点で、見つけようとしないと、良いところって見えないんだ=この表現を当たり前に使ってるってことは、発達障害の子が問題ばかりという認識なのかな、とツッコミを入れてしまいました。 まあ、意地悪な解釈かもしれませんが。 どっちにしろ、実際は叱ることが多く、子ども達は叱られる方が圧倒的に多いということですね。 それで自尊心が育たなくなるっていうのが主張。 でも、「叱られる=自尊心が育たない」「褒められる=自尊心が育つ」っていうのはギモン。 叱られてばかりいても、達成感や成長を感じられることがある子は、自分自身で自尊心を育てていく場合だってあるしね。 褒められて自尊心が上がるってのは、小さなときくらいでしょうに。 こういった類の番組を見る親御さんって「もしかしたら、うちの子、発達障害かも・・・」とか、今、子育てがうまくいかず悩んでいる人が多いはず。 あとは、ツッコミを入れたくって見ている少数の人たち(笑) そういった今、悩んでいる人たちには、余裕がないことが容易に想像できますよね。 余裕があれば、「いやいや、褒めたくらいで問題なんか解決しないっしょ」とツッコミを入れながら見ることができますが、余裕がない人は、そのまま受け取る可能性が高いと思いますよ。 どうしましょうか?実際に、次の日から良いところを見つけ出して褒めまくってしまったら。 ここは強調しますよ。 うまくいかないことばかりで、可愛い我が子のはずなのに「可愛い」と思えないことに葛藤が生まれ、悩みとなるんじゃないですかね。 うまくいかなくても、我が子が可愛いと思えているのなら、自然に良いところに目が行き、褒めることもあると思いますよ。 ある親御さんは、「褒めるところが見えないから、悩んでいるんです!」と、どこの支援機関に行っても同じことを言われることに対して懐いた当時の憤りを話してくれました。 経験の少ない親御さんや、今、悩んでいる親御さんが見るような番組は(学習会、講演会もそうですが)

ギョーカイの掟を破る意味

どこのギョーカイにも、ギョーカイの掟っていうもんがあるんですよね。 その掟を破った人間は、99.99999・・・%もう戻ることができません。 そして、出ていった人間が活動できないように、「あいつを使うんじゃね~。使ったら、これから取引しないぞ~」とプレッシャーを掛け、 同時に「うちに問題があるんじゃなくて、あいつに問題があるんだぞ!」と、問題の本質を隠すように、また出ていった人間にダメージを与えるようにもっていくのがお決まりのパターンです。 ギョーカイとしては、自分たちのアンテーのためには、出ていって活躍されたら困るんですよねー。 そもそもギョーカイができる意義っていうのは、利益の大部分を独占し、その利益を自分たちの仲間に再分配するため。 そっちの方が長く、安定的に生きていくことができますからね。 それぞれが頑張って利益を得るよりは、最初から利益が出る仕組みを作った方がリスクも減るし、お得です。 出ていった人間がギョーカイの外で利益を得ることは、自分たちの安定には邪魔でしかないんですよ。 出ていった人間が、どんな小粒であっても、潰しておかなければなりませんね。 何故なら、ギョーカイ内にも不満分子があるから。 全員が「満足してます」なんて言う組織はありませんね。 ギョーカイを出ていっても、うまくやっていけるという前例を作ってしまったら、第二、第三の人間が出てしまう危険性が出てきちゃいます。 だから、どんな小さな芽であっても、全力で摘みに行くんです。 自分たちのアンテーのために、見せしめの意味も込めて。 出ていく人間は、ギョーカイの掟を破ってまでも出ていくので、相当な想いを持っているものです。 でも、そのギョーカイが大きければ、大きいほど、ギョーカイ包囲網は厳しくなります。 ほとんどの人間は生きていけません。 消えていきます。 飛びだしたときの情熱もろとも。 極稀に、ギョーカイ内にいた人間の仲立ちで戻ることもありますが、元のように戻れるわけじゃありませんね。 みんなの前で謝罪させられ、「問題は自分にあった」と非を認める必要があります。 そして、ずっと冷や飯を食べ続けていくんです。 「出ていくときの勢いの陰もないよな」なんて後ろ指を指されながら。 ここまででお気づきの通り、まったく利用してくれる側の存在が出てこない

苦手な教科を通して、脳を発達させる

函館は吹雪いていますが、関東の雪も大変だったようですね。 ほとんど雪が積もらない地域ですので、ちょっとの積雪で交通機関に大きな影響が出てしまいます。 よく雪が多い地方の人たちが「それくらいの雪で」なんて言いますが、街の作りが違いますからね。 4か月雪が降る地域と、年に数回しか雪が降らない地域では、影響力が違います。 でも、積雪の中を夏タイヤで走行するドライバーには驚いちゃいますが・・・。 月曜日の朝でしたので、通勤、通学の人たちは大変だったと思いますが、昨日じゃなくて良かったと思います。 昨日は、センター試験でしたからね。 私も、受験生だったときは、試験当日の天候が心配でしたね。 電車が停まった場合も想定して、試験会場までの交通手段はいくつか調べてました。 まあ、受験生ではなかったときは、雪が降ると、授業が休みになって校庭で雪遊びの時間になったり、休校や堂々と遅刻ができたり、と楽しい思い出の方が多いですが。 雪が当たり前の北海道では、こんなことはありませんね。 明日から3学期が始まるところも多いので、冬休みの特訓も終わりです。 苦手な教科を集中して勉強した子もいれば、人間関係について勉強した子もいます。 みなさん、落ち着いて勉強できる期間だからこそ、苦手なことにもじっくり取り組みたいというニーズが多かったですね。 苦手なことを克服するということは、テストの点数を上げることや、適切な振る舞い方を身に付けることが目的ではないと思っています。 特に、頭の柔らかい子どもさんの場合には。 「成績を上げる」「あるスキルを身に付ける」っていうのは、取り組みの"結果"であって、"目的"は別のところにあると考えてます。 それでは"目的"は? 私は「脳を育てること」という認識です。 苦手があるということは、苦手ではないところがあるということです。 ということは、苦手な部分に原因があるはずです。 その原因はどこにあるかと言ったら、脳の場合が多い。 もちろん、環境の場合もありますが、それはコントロールできない場合がありますから、その子の脳にターゲットを絞るわけです。 苦手なことと、苦手ではないことの間に、使っている機能、脳の部位に違いはないだろうか、と確認します。 そうする

障害者として生きない選択をした若者

新年が始まって、まだ半月というのに、嬉しい話が次々にやってきます。 昨日も、4月からの就職が決まった、と嬉しい報告をいただきました。 その生徒さんは、高等部入学時に「知的障害を持っているんだから、一般就労は無理」と学校に言われたんですよ。 でも、お母さんも、お父さんも、「そんなはずはない!」「まだまだ伸びるはず!」と思い、私のところに依頼がありました。 「我が子を成長させてほしい」 「一般就労できるよう手を貸してほしい」 という依頼でした。 その依頼に応えることができ、ホッとしています。 その生徒さんは、4月から誰もが知っている企業に就職します。 それも、障害者雇用ではなく、一般就労です。 障害のある人ではなく、一人の若者として就職したのです。 それは本人の希望でもありました。 障害者という枠の中で働くのではなく、一般の人と同じように働く。 正社員としての就職ではありませんが、正社員になるための試験も受けられます。 給料や有休、福利厚生も、一般の人と同じ条件です。 あとは、自分の実力次第です。 以前、お金の勉強をしたとき、特別支援は税金が多く使われている、という話をしました。 ですから、就職が決まったときの第一声が「これからは税金を納めて"支える側"になります!」というものでした。 税金を使うことは悪いことではありません。 必要な人が、一般の人よりも多く使うのも問題がありません。 問題があるとすれば、それは無駄遣いすることだと思います。 この生徒さんは、しっかり税金を使い切ったのだと思います。 障害者として生きるのも、そう生きないのも、選択肢があるのは、身体障害ではない発達障害の人たちだからこそ、といえるかもしれません。 この2つの選択肢は、本人の手の中にあるのですから、どちらを選ぶかは本人の自由だと思います。 確実に就職者数を確保したい学校は、特に入学願書締め切りの前に決めておきたかった学校は、福祉的就労を押してきました。 (挙げ句の果てには「どこでも良いから」なんて、しかも親御さんに直接言っちゃうし) また就職させない就労支援機関も、同様に一般就労は無理だと言い、それよりも障害者として働く方を押してきました。 (しかも勧めるのはすべて系列の福祉施設) でも、いずれも親御さんは押し

引っかかりを作り、引っかかりと一緒に習得する

昨日、日本の芸能界が揺れたかと思えば、今日は北海道が揺れましたね。 午前の仕事を終え、家に戻っていたところでした。 スマホに緊急地震速報が流れたので、すぐにストーブを消しに。 こんな真冬で氷点下続きの北海道に、大きな地震が来たら大変です。 食料だけではなく、防寒対策も重要と再確認。 ただ「怖かった」「被害が出なくて良かった」だけではなく、自分の中に引っかかりを作っておくことが大事ですね。 引っかかりがないと、次々と流れていってしまって、今後につながりませんから。 引っかかりって、自閉症支援でも大事なポイントですね。 特に、受け身系の人には。 一生懸命知識を伝えたとしても、本人の中に引っかかりがなければ、そのまま流れてしまうことがあります。 見えない目的や意図、将来のどんなときに役立つかに気が付きづらい。 そうだと、与えられた知識がただの文字、ただの音声になってしまうこともありますね。 何に使うか分からない情報は、実践に活かす立体的な情報ではなく、平面の情報として記憶の中に。 平面の情報は、取りだせたとしても使うことは難しい。 あるお子さんは、相談や療育を受けに行っても、そのこと自体、忘れていることがありました。 結局、何故、その場所に行っているのかが分かっていなかったのでしょう。 ただ予定があり、親御さんに連れられ、そこに行っている。 そして、支援を受ける。 でも、その支援がどういった意味があるのかわからず、ただ受け身で聞いていたもんだから、その子の中に引っかからなかったのだと推測できます。 支援の質以前の問題として、そもそも何をやっているのかがわからなかった。 本人の中に引っかかりを作ってから、指導や支援を始めるのは基本ですね。 自分たちで引っかかりを作ることが苦手な人も多いですからね。 せっかく支援や療育を受けたとしても、本人の中に引っかかっていなかったら勿体ないですよね。 学校だってそうですよね。 子どもによっては「行く決まりだから、ただ行ってます」「日課としてこなしています」ってこともあるかもしれません。 それでは、本当の意味で学んだことにはなりません。 自閉症の人は、知識同士、身に付けたスキル同士の結びつきが弱いという特徴を持っています。 ですから、知ってはいるんだけど、習得はしているんだけど、

本人、家族、支援者の間で熱が移っていく

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この頃、気になる親御さんがいます。 (もちろん良い意味で。ヘンな意味じゃないですよw) 積極的に支援について訊いてきますし、分からないことがあったら、どんどん質問してきます。 そして、即実践し、うまくいかなければ、さらに訊いてくる、の繰り返しです。 もちろん、私のお客さんは「お金を出してまで支援を受けたい」という方たちなので、熱心な方たちばかりです。 このようなグイグイくる親御さんはたくさんいます。 でも、この近頃、気になる親御さんは、最初、あまり熱意が伝わってこなかった人で、「勧められたから来たんですけど」みたいな方でした。 それが子どもさんが変わっていくと同時に、親御さんも変わっていって、今では熱量バンバンになっています。 こうやって親御さんの熱量がビシバシ伝わってくると、私も「それに応えなきゃ」って気がどんどん高まってくるんです。 親御さんの熱が移るように。 最初は、お子さんの成長という火が起き、それが親御さんに伝わり、そして私にも伝わってくる。 私がさらに熱を高めて返すと、ますます熱が高くなって、また返ってくるようなイメージですね。 そして、私も熱が高まると、どんどんアイディアが出てくるんですよね。 「あっ、こっちの支援の方が良いかも」とかいうように、ちょっと前に考えていたことよりも、しっくりくる支援が。 結果も良いんですよ。 熱は支援の質を高めてくれますね。 この親御さんを見ていて感じるのですが、もともと熱を持った親御さんだったのでは、ということです。 子育てを行っていく中で、熱が冷めてしまったのではないでしょうか。 自分以外の人から熱が加わらなかったかもしれません。 冷や水を掛けてきた人もいるかもしれませんね。 そして徐々に熱がなくなり、冷めたように見えていたのかもしれません。 今日、一緒に勉強した女の子は、勉強を終わりにしようとすると、なかなか片づけを始めませんでした。 そして、一言「もっと勉強したい」と。 最初は、勉強を「ヤダヤダ」と言ってたんですけどね。 学校の授業中だって、じっとできずにフラフラ。 そういった姿を見ているので、「もっと勉強したい」という言葉が嬉しかったですね。 「もっと勉強したい」という言葉に影響を受け、私も「もっといろいろ教えたい!」と思ったんですね。 このように本人と

帰省のお土産

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新年早々、嬉しいことがありました。 「帰省したときのお土産です!」ってお菓子をいただいたんです。 学生さんだからお金がないはずなのに、しかも「親御さんに言われたから」ではなくて、自分で考えてお土産をわざわざ買ってきてくれました。 本当にうれしかったです。 自分で考えるって素晴らしいですよね。 詳しい経緯まではわかりませんが、どこかの時点で、一瞬だったとしても、「あっ、大久保にもお土産を買っていこう」と思って、お土産屋に行き、複数あるお土産の中から1つ選んだ。 もちろん、「目にしたものを」っていうように1つ選んだのかもしれませんが、それでも今まで一度もなかったことですから。 本人の中で、何かが変わったのは確かだと思います。 初めて会ったときは、自分、自分、自分の人だな、と感じましたね。 常に自分の意見、考えばかりで、「相手のこと、ちょっとでも考えているのかな」なんて思ってました。 当然というべきか、過去には対人面でのトラブルが多々あったと引き継ぎを受けましたね。 でも、そのときと比べて今の姿は成長を感じますし、自分以外の人のことも考えられるようになってきていると思います。 私が嬉しかったのは、本人の頭の中に"他人"の入るスペースができたことです。 お土産を受け取ったとき、私から「お土産を買ってきてもらえると思っていなかったから、びっくりしたよ」という言葉を聞いて、本人はちょっと"間"ができました。 その"間"に、本人はいろいろと考えたのだと思います。 こういった本人の行動が相手から反応を生み、そして、また学んでいく。 この繰り返しが、自らの成長へとつながっていくのだと思います。 「自閉症の人は他人の視点を想像することが難しい」なんて言われますが、学んでいくことはできますよね。 私たちのように瞬時に他人の視点を想像することはできないかもしれませんが、経験と学びが増えていくことによって、的確な想像ができたり、想像の時間が短くなったりします。 例え苦手なことだったとしても、過去の自分よりは前に進むことができる。 やるか、やらないか、の違いだと思いますね。 新年早々、成長を感じられたので、嬉しかったです。 今年も、「成長したい」と強く思う人たちと一緒に成長していき

2016年も支援者からの自立のお手伝い!

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新年あけましておめでとうございます!! 今年も、一人でも多くの方たちに「大久保さん、もう来なくて結構です」と言ってもらえるよう頑張っていきたいと思います。 どんどん自立してもらった結果、仕事がなくなれば、それで結構です。 ちょちょっと廃業届を出して、次の道に進めば良いだけです。 それよりも、自分の人生を自分の足で進んでいってほしいと思います。 そのためには、自分の特徴を知り、自分の心身を整える方法を身につけ、自分自身を成長させられるようになることが必要です。 そのためのお手伝いが、私の役割だと考えています。 2016年より、発達障害に関する制度も変わっていきます。 これからは、ますます個人の努力と自立が求められていきます。 そこで私は 「いつまで国への"たかりや"でいるのですか!?」 「本当に自立できないのですか!?」 というメッセージを投げかけていきたいと思います。 自閉症のままで生きていけばよいのです。 でも、自閉症のせいにして生きていってほしくないです。 自閉症のままで成長できるし、工夫もできる。 社会の中で自立して生きていくことだってできる、と私は信じています。 だって、自閉症のままで、自分の資質を開花させ、社会の中で自分の役割を果たしている人たちの姿をこの目で見てきましたから。 そうして今度は、サポートが必要な人たちを支える側になっていくのが、本人にとっても、社会にとっても、理想ではないでしょうか。 社会を変えるのは、自閉症の人たちです。 支援者ではありません。 自閉症の人たちが社会の一員として生きていく姿が、周囲の人たちを変え、そして、いつかは社会を変えていくのだと思います。 支援者と呼ばれる職業がいらなくなる社会を目指して、今年も頑張っていきたいと思います。 どうぞ本年もよろしくお願いいたします! 元旦の富士山