偽りの代弁者と真の代弁者
7年間という限られた月日ではあったが、寝食を共にし、親以上に長い時間を彼らと過ごした。 ほぼ毎日のように彼らと顔を合わせ、一緒に過ごしたが、一度たりとも彼らの口からこの言葉を聞くことはなかった。 「社会を変えて欲しい」 私がいた施設は、知的障害の重い人が多く、明確な言葉を発せられない人も少なくなかった。 だから当然、認知の面でも、言葉の面でも、「社会を変えて欲しい」という人がいなかった、とも言える。 でも、例え、重度の知的障害を持とうとも、強度行動障害があったとしても、明確な音声言語を持たなかったとしても、彼らの望みの中には、「社会を変えて欲しい」という想いがあったようには感じなかった。 彼らは、明確な意思表示をしなくとも、支援者に「一人でできるようにしてほしい」「わかりやすく伝えて欲しい」「行動障害を治してほしい」「少しでもラクになりたい」と日々、伝えてきていた。 重度の知的障害がある子も、一日中、支援者の手を借りて生活することは望んでいなかった。 できることなら、自分一人の力でできるようになりたい、という想いを持っていた。 強度行動障害の子も、好き好んで頭を床に打ち付けているのではなかった。 好き好んで、固執しているのではなく、やむにやまれぬ事情により固執し続けていた。 彼らの希望は、止められるのなら自傷も、他害も、固執も、大量の精神科薬も、やめたかったし、自分の生活は自分の力で行えるようになりたかった。 そして、穏やかな気持ちと身体で夜の眠りにつきたい、というものだった。 社会を本気で変えようとすれば、人の一生をかけても成し得ないものである。 「私の人生は辛かったけれど、社会が少しでも良くなったなら良かった」と言う子がいるだろうか。 そして、それを喜び、望む親がいるだろうか。 どの子も、社会が変わるために生まれてきたのではない。 自分の人生を輝かせるために、そして自分の資質をより良い社会へと活かすために生まれてきたのである。 「社会を変える」という主張を聞くたびに思う。 それは本人たちの言葉ではない、と。 「社会を変える」と言うのは、いつもきまって… 仕事の範囲を増やしたい人間 自分の中に“受け入れられた感”を持たずにきてしまった人間 自分自身に原因があることに気づけない、気づこうとしない、認め