投稿

7月, 2020の投稿を表示しています

【No.1087】「自閉症」「発達障害」という言葉を使わずに

イメージ
私が出張するときは、移動がありますので、午前ひと家族、午後は1~2家族という具合に行っています。 ですから、3日で15名の発達相談はさすがに大変でした。 同じ市内とはいえ、各家庭に訪問しますので、まさに分単位での移動。 決められた時間までにアセスメントをし、親御さんの悩みに答え、今後の方向性を提案する必要がありました。 しかし、こういった制限があるからこそ、それこそ無茶ぶりをしてくれたからこそ、突破できる何かがあると感じています。 ちなみに、報告書が完成し送付しましたので、後日、支援員さんから配布されると思います。 私は発達相談のとき、なるべく「自閉症」「発達障害」という言葉を使わないようにしています。 そういった言葉を使ってしまうと、下手くそになる気がするからです。 「自閉症が~」とか、「発達障害ですから…」などと言って説明を始めると、聞いているほうは、なんだか正しいことを言われている気がするものです。 私も若手のときは、講演会などで、事例研究などで、「Aさんには自閉症がありますから…」なんていう言葉を聞くと、それ以降の支援、対処法が正しいような気がしていました。 でも、詳しく聞くと、それはAさんへの支援ではなくて、自閉症の支援だったりするわけです。 Aさんじゃなくても、自閉症の人なら誰でも良いわけで、っていうか、その自閉症も、学生時代に習った、教科書に載っているような、それこそレインマンのイメージだったり…。 「自閉症」という言葉は、支援者を甘やかせる言葉です。 詳細を語らずとも、提示する支援、対処法へと、相手を誘導することができるからです。 しかし、重要なのは、その詳細なのです。 詳細に語るというのは、詳細にその子を見る必要があります。 やってみればわかるのですが、「自閉症」「発達障害」という言葉を使わずに、その子のことを説明しようとすると、支援者自身に負荷がかかります。 そしてその負荷から抜け出すには、支援者の言語力とアセスメント力がなければなりません。 支援者同様に、親御さんの中にも、「うちの子、自閉症で…」「発達障害があるから…」と枕詞のように使われる人がいます。 そういう人は、率直に言って、子どもさんのことが見えていません。 見ているのは子どもさんではなく、障害であり、障害児というその人の内側にあるイメージです。 発達相談で成育歴や現在の悩みをお聞きす

【No.1086】アセスメントは仮説力

イメージ
親御さんからしばしば「子どものどこを見ているのですか?」というご質問を受けます。 他にも、「どういった順番で、子どもの発達を確認していけばいいのですか?」ということを尋ねられる方もいます。 「発達には順番がある」 「この課題は、ここの部分とつながっている」 そういった知識を持たれた親御さんが増えたからこその質問だと、私は感じています。 「発達には順序性と関係性があるのだから、支援者には決まったアセスメントの流れ、確認すべきポイントがあるのだろう」 そんな風に思われている親御さんもいるように感じます。 実際、私のアセスメントが始まりますと、「今、どこを確認したんですか?」「どこから見ているのですか?」「次は?」と質問される方もいます。 しかし、どこを最初に確認するかとか、ここを確認した後はここをとかはありません。 じゃあ、どういった流れでアセスメントをしているのか? 一言で言えば、雰囲気です。 「このお子さんは、身体から確認したほうが良いかな」 「認知や言語力かな」 「遊びから発達の状態を確認しようかな」 そんな風に、その子の雰囲気から感じたままでアセスメントを行っていきます。 こういう風に言うと、「やっぱり、アセスメントは専門家だからできるんだ」「アセスメントは経験豊富な人しかできないんだ」などと思われてしまいます。 でも、これは私の意に反しますし、私の仕事のゴールとは異なってしまいます。 私に対する依頼の多くはアセスメントになりますが、そのアセスメントの仕方、視点を親御さんにお渡しすることが仕事の目的だと考えています。 著しい変化が見られるお子さんのアセスメントを、その都度、支援者に依頼して行うのでは子ども達のためにもなりません。 アセスメントの基本は、一緒に生活する親御さんがタイムリーに行うことです。 素早く変化に気づくからこそ、そのとき、必要な刺激、環境、子育てを創造し、実行することができるからです。 「アセスメント」というと、高度で、専門的な雰囲気を醸し出しますが、やっているのは子どもを丁寧に見ること、その変化をしっかり捉えることです。 アセスメントは特別なイベントではなく、日々の子育ての一部です。 「支援者は」と言うと大げさになりますが、私のアセスメントの仕方はこうです。 まずは、お子さん全体を見る。 イメージで言えば、部分を詳細に見るのではなく、ぼやっと

【No.1085】「正しい診断が正しい治療に繋がる」という考え方

イメージ
ある医師は、診断についてこのようなことを言っていました。 「医療が診断にこだわるのは、正しい治療を行うため。正しい診断が正しい治療に繋がると信じている」 この話を聞いて、なるほどと思いました。 確かに診断を間違えば、治療方針を間違えてしまい、患者さんに不利益を与えてしまいます。 ですから、治療方針を間違えないように、まずは正しい診断という考えなのでしょう。 日本において神経発達症の診断も、医療の範疇になります。 しかし、病気や他の身体的な障害とは異なり、客観的な正しい診断ができない状況です。 そうなると、「正しい診断が正しい治療」というのから、『正しい』の文字が消えてしまいます。 「申請が通りやすいように、症状を重く書いておきましたから」 「お母さんが受けたい療育、支援に合わせて、診断名つけておきますから」 「とりあえず、自閉症をつけておけば、今後も支援が使いやすいですしね」 こんな話は、しょっちゅう耳にします。 そういえば、数年前、北海道で聴覚障害を偽装し、障害者年金をだまし取っていたという事件がありましたね。 本人の状態ではなく、親御さんの希望や医師のさじ加減で診断が変わるとしたら、それは正しい診断ができているとは言えないでしょう。 医療の外から診断を見ていますと、治療ありきの診断のような気がしています。 「この地域には、こんなサービスが利用できるから」 「うちの系列の療育に通わせるためには」 そんな感じで、地域の実情、資源に合わせて診断がされているような印象を受けます。 ある地域では、どの子も同じ診断名で、どの子も同じパターンの療育、支援を受けていました。 こういったことに、私は大きな違和感を持ちます。 私は医療ではない診断のトレーニングを受けました。 欧米では心理士も診断ができますので、そういった方面からの勉強です。 その際、重点的に教えられたのが、その子を深く知った結果が診断名で、診断はより良い支援を創造するための入り口である、ということです。 神経発達が盛んな子どもさんなら、なおのこと、発達・成長と共に診断名が変わっていくのは当然のことなのです。 客観的なデータ化、数値化ができないのですから、状態の変化が診断名の変化になります。 ということなので、あまり診断名自体が重視されていません。 ところが日本は、いまもなお、診断名重視で、一度、診断名が決まれば、そ

【No.1084】「できる」と「できない」ではなく、「できる」を掘り下げる視点

イメージ
日々、共に生活している親御さんの目からは「できる」「できている」と見える我が子の行動が、実際はそうではないことも多々あります。 「言われるまで、できている、大丈夫だ、クリアしていると思っていました」などという言葉をお聞きすると、訪問して良かったなと私は思います。 このアセスメントのズレに気が付き、そこを伝えていくのも発達相談の大事な仕事になります。 両足ジャンプができる。 スプーンで食事ができる。 相手に要求を伝えることができる。 文字が理解できる。 子どもの生活の中には、たくさんの「できる」があります。 その「できる」が増えていくことが発達、成長であり、より良い子育てである、というのは正しい考えです。 なので、なにかできるようになると親御さんは安心し、また次の「できない」から「できる」に意識が向いていくのは自然なことなのです。 しかし、その「できる」にはバリエーションがあります。 できないことに対して、「なぜ、できないのだろうか?」「どうしたら、できるようになるのだろうか?」と考えるように、できることに対しても、「なぜ、できるのだろうか?」「本当にできているのだろうか?」というように考えていきます。 なぜなら、一見すると問題なくできているような行動の中に、「"見せかけ"のできる」「"無理をして”のできる」「"意識して"のできる」が混じり込んでいるからです。 私の感覚では、こういった感じの「できる」はできると考えません。 「"見せかけ"のできる」とは、パターンや学習、適応の結果としてできているという意味です。 たとえば、飲み物が欲しいときに、「ジュースちょうだい」と言う。 でも、それが音の丸暗記ということもあるのです。 とにかく「ジュースちょうだい」といえば、飲み物が貰えると学習している子どももいます。 他の飲み物が欲しいときや食べ物が欲しいときにも、同じように「ジュースちょうだい」と言ったり、コミュニケーションの核である「相手に伝える」というところが抜けていたりすると、「"見せかけ"のできる」だと考えられます。 要求する相手のほうを見ていない、うわごとのように言う、といったのは、コミュニケーションしているとはいえないからです。 数多くのコミュニケーションカードを使っているが、

【No.1083】求めてくる関係性から治す人か、治せない人かを見る

イメージ
新大阪から伊丹空港へ向かうバスに乗ると、隣の席にご年配のグループが後からやってきました。 ツアーかどうかまではわかりませんでしたが、みなさんで地方へ旅行に行くようです。 「わしら、コロナが終息するのを待っとったら、生きてるか分からんしな」とある男性が言うと、グループの仲間もそうだそうだと大笑い。 移動した先でコロナの発症者と出会う確率。 出会ったとして、その発症者と自分が濃厚接触者になる確率。 濃厚接触者になって、自分が発症する確率。 自分が発症し、そこから重症になる確率。 重症になったあと、回復しない確率。 そういった確率を掛け合わせ、宝くじで億万長者になる確率よりも低い可能性と、自分の人生をよりよく生きようとするための選択。 「1年の自粛、2年の自粛」 そんなことを許容できるのは、1年後も、2年後も、生きているという前提があるから。 ご年配のグループのかたじゃなくても、そう、私だって1年後、2年後、確実に生きているとは限りません。 人の生死をいつも見ている医療関係者だから、個人の想い、息づかいが見えなくなっているのかもしれないと思います。 誰のための自粛なのか、医療に個人の選択を規制する権利があるのか、医療従事者以外、一般の人には健康を保ち、病気から身を守ることができないとお思いなのか。 6月以降の出張では、みなさん、口を揃えて、こうおっしゃいます。 「このコロナ自粛期間中に、子どもがグンと伸びた」 南は行っていませんが、北も、東も、西も、どこに行っても、「家で過ごしているときが一番伸びた」とおっしゃっていました。 この理由はとてもシンプルです。 発達障害の子ども達の多くは、胎児期から2歳前後の発達過程にヌケや遅れが生じます。 この時期のヒトの発達というのは、主に1対1関係、または環境との関係性の中で育まれて行きます。 幼稚園や保育園などの集団生活の中で刺激され、発達する部分もありますが、そこが発達の遅れの根っこだということはあまりありません。 ですから、親子で濃密な時間が過ごせた自粛期間中に、根っこの育て直しが進んだのだと考えられます。 また商業施設等に行かなかった分、公園や自然の中で過ごす時間が増えた。 自然の中は五感を刺激しますし、何より自分の身体が遊び道具となります。 これまた胎児期から2歳前後で育てる部分とマッチします。 あるご家庭では、1年以上、療育

【No.1082】発達は前にしか進まない。だから子も、親も、前に進む

イメージ
「療育を受けられるのなら、死んでもいぃ~」みたいな親御さんって、10年前くらいまでよく見かけたものです。 いや、大袈裟じゃなくて、本当に。 生活すべてが"療育のため"みたいな感じで、家庭のことは二の次、三の次。 今の親御さんはビックリされるかもしれませんが、結構このことでもめて離婚する家族もいました。 コロナ離婚じゃなくて、療育離婚。 「夫が療育を受けることに理解がない。協力的ではない。だから別れた」なんて言われるのを私も聞いたものです。 今振り返れば、それもまた療育、支援、特別支援の副作用だったような気がします。 この「療育を受けられるのなら」みたいなのって、他のアプローチが知られていなかったことが、療育を受けても根本的な解決にはつながらないことが、今のように周知されていなかったという理由もあるのだと思います。 でも、それ以上に、親御さんから伝わってきたのは、無力感からの解放です。 親御さんにとって一番つらいのは、耐えられないのは、子どもさんに発達障害があることではなく、親として、家族として何もやってあげられないという無力感だと思います。 「いやいや、療育や支援を受けるために頑張っているじゃないか」という声もありますが、そこは本質的な部分ではないと思うのです。 親御さんとお話ししていると、「毎日、頑張って療育に通っているけれども、なにか満たされない気持ちがある」ということをお聞きします。 同じように、良いと言われている早期診断・早期療育を受けても、検査を受けて詳細なデータを貰っても、権威ある大学病院・有名支援者のところに通っても、なにか気が晴れない。 たぶん、それは子育てではなく、また子どもの発達を後押しすることにつながっていないからだと思います。 良いと言われているこれらは、親じゃなくても、家族じゃなくてもできることです。 たとえば、私が依頼され、お子さんを連れていくことはできます。 で、得られる結果は同じ。 そのことに無意識的にも気がついている親御さんは、心にもやっとしたものが残るのだと思います。 発達相談で私が出会う親御さんの中に「何が何でも我が子を治してやる」みたいな人はほとんどいません。 治す方向で共に歩んでいるけれども、そこが目的ではない。 やっぱり親として、家族として、やれることを知りたくて、やれることをやりたいんだと思います。

【No.1081】私達が医学の土俵の上にあがる必要はない

イメージ
新型コロナに関する専門家の発言やメディアでの捉え方を見ていますと、その言葉の中に個人の息吹を感じることができません。 同じコロナウィルスとはいえども、それが発症するか、重症化するか、実際に罹るかは、個人によるところが大きいといえます。 でも、その個人が語られることはありません。 いや、むしろ、一生懸命個人を排除しようとしているようにすら感じます。 ウィルスを研究するのは、医学の話でしょう。 私達一般の人達は、医学ではなく、実学が必要なのです。 このウィルスとの折り合いの仕方が知りたくて、よりよく生きるという目標に向かっている中で出会った一つの環境要因でしかないのだと思います。 新型コロナに罹らないために、無人島に行くか、誰にも会わず家に閉じこもるか。 新型コロナに罹らないために医学があるのかもしれませんが、それは個人の生き方、命の全うの仕方とは次元が異なる話なのです。 これは医療に共通する話なのかもしれません。 現在の神経発達症に関する診断基準を見ても、見事に個人が排除されています。 私達が知りたいのは、その子に感覚過敏があることではなく、何故、感覚過敏が生じているかという理由です。 しかし、どう頑張って読んでも、その「何故」が見えてきません。 しかも同じ症状の中にも、個人によるバリエーションがあるのにもかかわらず、そこすら見ようとされていません。 あるのは、できるだけ個人が排除された基準だけ。 本来、診断とは、その個人がよりよく生きるためのものであるはずなのに、その個人、家族に利するところがほとんどありません。 むしろ、医学という土俵の上で、医師が診断をつけやすいような形式に、どんな医師でも同じような結果が出るような形式になっているような気がします。 アメリカでは、医師以外の人でも診断を行います。 私だって、診断をつけるトレーニングを受けたくらいです。 つまり、誰でも診断できるがコンセプト。 いろんな人が診断しても、だいたい同じような結果になるように曖昧な部分、その個人という要因を削り落としているのです。 その子が今後、どのような発達を遂げていくかは考慮されていません。 その子が何故、発達が遅れているのかは考慮されていません。 それを入れてしまうと、診断が成り立たなくなってしまうから。 新型コロナと同じように、その個人は診断のために生きているのではありません。 自

【No.1080】思考の仕分け作業

イメージ
私もようやく「治す系」の支援者と認識され始めたせいか(笑)、以前のように「私達の自立には、社会が理解する必要があるんです!」「もっと支援と支援者を増やさないといけないんです!」「私達は、一日8時間労働は無理なのですから、金銭的な補助を受けるべきなんです!」といった成人の人達からの相談がこなくなりました。 私が「社会が理解したとしても、あなた個人の内側にある生きづらさは変わらない」と返すからでしょうかね。 しかし、こういった認識を持った子がいる、関わっている利用者さんがそうだ、という周囲からの相談は来ていますので、まだまだ実際のところは多いのだと思います。 自閉症ゆえに自分は「保護されるべき存在だ」「理解されるべき存在だ」という主張をする人は少なくありません。 また、そういった人に対して同意"以外"の助言をすると、「わかってくれない」「障害の理解がない」と言って拒否反応を示します。 このような人達は、同意してくれる人を見つけるまで動き続けます。 結局、彼らが求めているのは、彼らの思考の丸抱えなのです。 こういった主張をする人たちに共通するのは、「整理統合する力が弱い」ということです。 「自閉症だから◎◎」というのは、とてもシンプルな図式です。 小さい子が「りんごは赤い」という図式を頭にえがくのと一緒です。 初めて青いりんごを見たとき、小さな子はびっくりします。 ですから、「自閉症だから8時間労働は無理」と言う人に、「いや、8時間働いている人もいるし」と言うと、ビックリしているのです、それが拒否反応になっているだけです。 小さな子が経験や成長と共に、赤いりんごだけではなく、緑も、黄色もあることがわかるようになる。 これは脳内で情報が整理統合され、概念が作られていくからです。 大人になっても、「りんごは赤だ。それ以外は認めない」と主張したら、おかしいでしょ。 でも、それと同じことが起きている。 自閉症の人達は「思考が固い」と言われることがあります。 『こだわり』と表現されることもあって、道順を変えると…といういつものやつです。 結局のところ、「理解ガー」とか、「自閉症だから◎◎だ」とか言っている人の多くは、整理統合の問題を抱えているのです。 当然、自閉症が、発達のヌケが影響して難しい部分、苦手なことがあるでしょう。 でも、同じ人の内側に得意な部分も、で

【No.1079】いくらアセスメントしても、本人の生活の質の向上につながらない理由

イメージ
支援者は大抵、アセスメントを叩きこまれます。 1にアセスメント、2にアセスメント、3にアセスメント、という具合に。 他人を支援するわけですから、また自閉症やADHDなど、特性を持った人の支援をするわけですから、当然、相手のこと、障害のことを知らなければ、どうにも始まりません。 私も新人の頃、自閉症などの診断基準を暗記するように言われたものです。 支援者の仕事は、アセスメントをし、支援を組み立て、評価する、そしてまたアセスメントをして…の繰り返しです。 食事や排泄、生活全般の支援は、支援じゃなくて介護になります。 支援者は、本人の生活の質が向上するような支援を考え、実行する人達。 そのためには、その人のことを多面的に、立体的に見る目が必要になってきます。 本人のことを見ていない人に、支援はできない。 だから、特別支援の世界に支援者は少なく、介護者ばかりなのでしょう。 「ちゃんとうちの子を見てくれているんですか!?」と言う親御さんに、「はい、ちゃんと見ていますよ」と返事をする支援者、先生たち。 親御さんは、子どもの小さな変化を捉えられているかという目について問いており、支援者は「(怪我しないように)(表面的に)見ていますよ」と答えている。 ここに、本人の生活の質が向上するための目と、ただ見ている目の違いが生じているのです。 支援するための目を持たない支援者は、「今」「そのまま」「表面」を見るだけで終わってしまっているので、終始介護しかできないのでしょう。 だけれども、それは支援者の資質だけの問題ではないと思っています。 私も受けた支援者育成の方針、システムの問題だといえます。 1にも、2にも、3にも、アセスメントという育成の仕方。 確かにアセスメントは重要です。 でも、特別支援の世界で言われるアセスメントに問題があるのだと思います。 アセスメントと言うと、診断基準を覚える、障害特性を覚える、本人たちの行動を記録する、検査を行う、検査結果から読みとる、専門書&論文を読み込む…という具合です。 何が言いたいかと言えば、「すべて言語化されている」ということ。 特別支援の世界のアセスメントとその育成のほとんどは、言葉を介して行われている。 ということは、言葉に表現できない部分は扱われていないということです。 特に発達障害の場合、その課題の根っこは、言葉を獲得する前の段階、胎児期

【No.1078】家族とつながり、子の内側から発達を見る

イメージ
本州のご家族のもとへ伺うと、「大久保先生」と呼んでくださることがあります。 本州から見れば、北海道は遠い印象なのでしょう。 ですから、「わざわざ遠くからはるばるやってきてくださいました」という意味で、先生という敬いが付くのだと思います。 私からすれば、道内を回るより、飛行機でシュッとひとっ飛びですから、ラクなのですが(笑) しかし、最後までこの「先生」が付いたときには、「今日の発達相談は失敗だったな」と反省します。 途中から、もちろん、ベストは最初から、さん付けで呼ばれるようでなければダメなのです。 どんな素晴らしい知識、技術、方法だとしても、それが伝わらなければ意味がありませんし、何よりも実際にやらなければ、どうしようもないのです。 たとえば、首を育てるアイディアをお伝えしたとします。 でも、そのとき、「はい、わかりました」で終わって、そのとき、一緒にやってみて、その後、家庭でやらなければ何も変わってはいきません。 首の未発達を抱えたまま、同じ日々が続いていきます。 また、知識、技術、方法を伝える際、受け手が窮屈になるような伝え方をしてもいけません。 これは私の過去の失敗でもあるのですが、具体的、かつ詳細に伝えたばかりに、受け手の親御さんが忠実に再現しようとしてしまったことがあります。 当然、未発達の部分が育ってはいくのですが、発展していかないのです。 治ったけれども、治り切らないといった感じでしょうか。 他の親御さんですが、「次はどうしたら良いですか?」と数週間、1ヶ月単位で尋ねてこられる方もいらっしゃいました。 発達相談、援助において、そのアイディアの伝え方が難しいところです。 親切丁寧に、そして何よりも具体的に伝えることは大事ですが、そこで発想が止まってしまうようではいけないのです。 私との時間が終わったあと、私が帰ったあと、「あんな方法も良いかも」「こうした方が、うちの子には合っているかも」という具合に、自由な連想が始まっていくようでなければなりません。 実際、治すご家庭はたくさんありますが、治しきるまでいけるご家庭は少ない気がします。 その違いが、この自由な発想、連想が出るか出ないかだと感じています。 今の子ども達は違うのでしょうが、昭和を生きた私達は、「先生」という言葉に対するパターンが染みついているものです。 「先生」という言葉には窮屈さが漂っていま

【No.1077】未発達のない自閉症者を目指す

イメージ
発達相談の際、親御さんにお話しすることがあるのですが、「未発達のない自閉症者は、障害者と言えるのか?」という話です。 皆さんは、どう思われるでしょうか、考えられるでしょうか。 私は自閉症児施設で働いていましたし、今も自閉症の若者、子ども達とかかわりがあります。 そんな中で、一度も「自閉症を治そう」などと思ったことはありません。 治すのは、未発達と発達のヌケです。 あとは、誤学習と問題行動は、こっちの字で直そうとします。 多くの自閉症者と関わってきて感じるのは、自閉症という特性、ある意味、脳の情報処理の仕方が生きづらさの根っこではない、ということです。 ほとんどの人は、未発達と発達のヌケから、生きづらさが生じていると思います。 世の中を見渡せば、自閉症の人はたくさんいるわけで、でも、その多くの人が特別支援を受け、生涯に渡る支援を受けているわけではありません。 診断だって受けていない人の方が多いでしょう。 たぶん、そういった自閉症だけれども、社会の中で自立して生きている人達というのは、自閉症という特性とうまく折り合いがつけれているからだと考えられます。 つまり、別の言い方をすれば、特性と折り合えるくらい、未発達の影響が少ない、もしくはほとんどない、ということなのでしょう。 こだわりは工夫次第で折り合いをつけることができますが、背中の感覚がないこととは折り合いがつけられません。 同じように、聴覚や触覚の過敏さとも、右と左の未分化とも、重力に抗うことのできない筋肉とも。 ですから、本人の生きづらさの背景である、本人の自立を阻む根っこである未発達とヌケを育てていく、そこを治していくのです。 こういう話をすると、必ず「自閉症と未発達の違いは?見分け方は?」というご質問があります。 シンプルに言えば、未発達を育て切ったあとで残るのが自閉症の部分、といえます。 しかし、これでは答えているようで答えていない回答になります。 じゃあ、本当のところは、実際のところは…。 これはあくまで私の経験と学びによる見解です。 自閉症やADHDなど、特性と言える部分、ここは変えられるところじゃない部分と見分けるのは、本人、子どもさんではなく、親御さんからです。 つまり、親御さんの子ども時代、もちろん、今の姿から特性の部分を確認します。 自閉症でいえば、やっぱり親御さんのどちらか、または両方に、または