【No.1361】子育てという非合理的で非効率的な営み

子どもというのは社会やコミュニティ、集団の中にいればよいのであって、必ずしも自分に、我が家にいなきゃいけない存在ではない。 それは動物を見ればわかることで、群れに子どもがいればみんなで守り、みんなで育てる。 「うちの子だけ、特別な食べ物を与える」 「自分の子じゃなければ、鬱陶しい」 そんなお猿さんも、魚も、虫もいないわけで、人間自体、動物から離れた不自然な存在だといえます。 公園の子どもの声がうるさいと役所に電話を掛けるバカ。 周りのためにといって、子どもにワクチンを打たせるバカ。 ある意味、人間としての完成形なのかもしれません。 子どもは動物本来の姿を持っている存在です。 子ども自体が自然そのもの。 自然というのは非合理的で、非効率的をいう。 天災はあらゆるものを破壊し、飲み込む。 そしてまたそのあとに、それまであった自然が戻ろうと動き始める。 だったら最初から天災などなければよいのに。 そう考えるのはまさに人間の大人であって、東北沿岸にならんだ防潮堤がそれを表している。 人の子も、合理的に、効率的に育てようとする動きがみられるのは当然だといえます。 非合理であり、非効率である自然を体感しないまま、大人になった私たちですから。 当然、社会もそんな大人たちが作ってきたので、学校なんか見ても、一律の授業で、一律のルールで、できるだけ合理的でかつ効率的に子ども達を管理しようとしている。 学校が大人になるための場所だとしたら、不登校が増えても仕方がないと思えてくる。 「クラスに3人くらいは発達障害の子がいる」というのは、それだけ効率性が求められるようになった結果であり、「だから支援級が必要なんです」というのは、それだけ合理的な振り分けがしたいという表れだと思う。 発達障害は医療に作られるが、そもそもは社会全体が合理的、効率的になっているからであり、私たち人間が長らく自然を遠ざけようとして努めてきた結果なのでしょう。 コロナ騒動の3年間を見ても、この日本という社会は子どもという自然な存在が嫌いで、だったら自然さを持ち続ける発達障害の子ども達はなおのことと思うのです。 発達相談を行っていますが、どこかに「一発逆転」を狙っている節があるのを感じます。 なにかスペシャルな方法があって、それを教えてくれるスペシャルな人がいるはずで、私もそれと出会えれば、子どもも劇的に変わり、今まで