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【No.1392】焼け野原になった2023年から2024年に向けて

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上の子が「お父さんのYouTube、バズってるよ!」と教えてくれた。 よくわからないれど、学校の休み時間に個人用のタブレットで毎日、チェックしているらしい(笑) 息子世代のYouTubeに対する捉え方は私とは違うようで、登録者数がどうのこうのとか、もっとこうしたらバズるんじゃないかとか、誰々を真似したらもっとPVが増えるとか、興奮気味に話してくる。 ちなみになんの動画がバズったのかと言えば、 【コロナ社会の影響】こんな赤ちゃんが増えました です。 この動画は私が発達相談を通して見聞きしたことや現場の保育士さん達から聞いた話を動画にしているのですが、どういうわけか12月に入っての短期間で視聴回数が増えたのです。 今で約6.7万再生。 コメント数もびっくりするくらいあって、数件批判的なコメントがあったものの、ほとんどの人が「やっぱり枠の影響では」「子ども達のことが心配」「実は知り合いのおうちでも」など、共感してくれるものばかりでした。 「薬害エイズのときも、3年経つと風向きが変わった」という話がありましたので、やっぱり多くの人が気付き、声を上げるようになるまでは3年という期間が必要だったのかもしれません。 いずれにしましても、今年は「変わり目」の年であり、「入れ替えの年」だったんだと思います。 てらっこ塾を始めて丸10年の節目の年で、ちょうどYouTubeでの配信を始めてから、それまでのお客さんからガラッと雰囲気が変わった気がします。 それまで支持してくれていた人が去り、新しい親御さんが応援してくれるようになった、そんな感じです。 それが象徴されるのが、発達相談の依頼のメールやお会いする親御さん達がおっしゃる言葉で、端的に言えば「私がこの子の発達の遅れに影響をしていると思う。だから、私自身の課題を克服していきたいので、発達相談をお願いします」というものです。 それまでは「この子の課題を」「発達のヌケをアセスメントして欲しい」「どうすれば未発達が育つのかアプローチを教えて欲しい」という感じでしたから。 なんで、今年の発達相談はとても充実していました、個人的に。 だって、本気度が違うんですもの。 そして何よりも、発達相談後の変化、改善が著しい。 そりゃそうですよね、より根っこ、根本に向き合うのですから。 発達の遅れ、発達障害と言われる状態は結果であって、原因ではありません。...

【No.1391】『発達障害治療革命!』を読んで

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表紙に書かれた「革命」という字が目に飛び込んでくると、私の頭の中では「産業革命」と「フランス革命」が連想された。 たしかにこの書籍から伝わってくる熱は、近年に出された花風社さんの書籍の中でも抜群の強さを放っている。 とにかく触れた瞬間、その”熱”と”汗”を感じる本であった。 この汗は、著者である脳神経内科医の田中伸明氏のバイタリティー、動き回って汗をかいてきた人生からくるものかもしれない。 この汗は、聞き手となり、専門的な内容を一般読者にもわかりやすくするため、脳みそにたくさん汗をかいた浅見さんの姿から伝わってきたものかもしれない。 たぶん、安産ではなくて、難産だったのだろう。 この頃、「安産だった」と言わない風潮が出ているそうだ。 それは早産や未熟児で生まれてくる子が増えたことに起因している。 そもそも自然妊娠自体も減っており、5億年以上も前に始まった有性生殖における異常事態が起きているのが現在。 だから他人様に安易に「私は安産だった」と言えないし、「安産を願います」とも言えなくなっている。 親も、子も安らかに生まれるほうが難しい。 さらに生まれ出たあとも、親子の困難は続いていく。 ちょっとでも発達の基準とやらにはみ出ようとするのなら、すぐに「発達障害では?」「一度、病院に行ってみては」「早期療育が大事なんですよ」という声が聴こえてくる。 どうして生まれて数年しかたっていない子を見て、「この子には障害がある」といえるのだろうか。 どうやって生まれつきかどうかを見分け、どうやって「この子は生涯、支援が必要」と未来を言い当てることができるのだろうか。 医師は神にでもなったつもりか。 コロナ騒動の3年間で神になったかのようなふるまいをしてきた医師たち、専門家たち。 政治の上に立ち、人々の自由や人権、また人生をも指示を出す。 超過死亡、7回目の接種、世界で一番マスクや感染対策をし、一番多く注射を接種し、一番多く感染した日本。 それまで神のごとく振舞ってきた医師、専門家たちのメッキは剥がれ、世の中は反医療、反皆保険制度、反権威に急激に傾く。 神の仮面をかぶっていた者たちが引きずり落され、その素顔を見せたとき、市民の怒りは頂点に達し、革命への導火線に火がつけられる。 今がまさにそれなんだと思う。 じゃあ、発達障害の医療、特別支援における革命も起きる直前、前夜なのだろうか。 私...

【No.1390】20年間、この世界に身を投じてきた私の結論

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20年前、私が学生だった頃、「地域の中核となる支援機関ができてほしい」と親御さん達が願い、行動していました。 そして発達障害者支援センターができました。 ここが中心となって、学校や事業所のコンサルテーションを行い、全国また海外から有名支援者を呼び、講演会や研修会を開催。 この地にいても、いろんな資格がとれるようになったのです。 親御さん達が常々口にしていた「支援者の質が」「専門性が」もクリアされると、みんな、期待していました。 またそれから5年、10年が経ち、親御さん達が「大変だ」「大変だ」と言っていた放課後の余暇活動、夏休み、冬休みのサポートをしてくれる児童デイサービスができました。 最初は数名の親御さん達が立ち上げた児童デイがちょこちょこと。 そのあと、福祉法人が参入し、今ではよくわからない民間企業が参入。 学生ボランティアに頼っていた放課後、長期休みも、選べるくらい児童デイが増えました。 「診断できる専門医を増やすべきだ」という声がありました。 上記のようにサービスが増えても、それを利用するための診断が必要だからです。 半年、1年待ちでは「困る」と言うのです。 でも、親御さん達がイメージしていた「発達障害専門病院」は増えませんでした。 そのかわり、地域に精神科が増え、そこで診断、処方してくれるケースが増えたのです。 養護学校は特別支援学校に変わりました。 でも中身は変わりませんでした。 「知的障害のない発達障害者にも支援を」という新たなニーズも声が上がってきました。 それまで支援対象ではなかった普通級にいるような子ども達も、どんどん支援対象になり、また支援対象になるから先生も病院を勧める、服薬を勧める、というサイクルができあがりました。 「知的障害がある子ども」から「知的障害のない子ども」になり、「知的障害のない若者」になり、「知的障害のない大人」へと対象は拡大。 今では「なにかこまった」といえば、すぐに『発達障害児・者』になることができます。 支援が充実してくると、「できるだけ早期に診断。早期に療育」と言うようになってきました。 もちろん、これは提供する側のセールストークでしたが、親御さん達の焦燥感、不安感に着火し、あたかもそれが善であり、それが唯一の方法、救いであるかの如く、我先にと病院に駆け込む。 で、見事に0歳から診断を受けることができるようになったの...

【No.1389】「普通の子の子育てがしたかった」

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「普通の子の子育てがしたかった」 こんなSNSでのつぶやきをみれば 「普通の子の子育てだって大変なんだよ!」 「そもそも普通の子ってなんだよ!」 「発達障害を持つ子のことを勝手に不幸にしてんじゃねぇ!」 「そんなことを言う親だから、子どもが良くならないんだ!」 と怒りを伴ったツッコみを入れちゃいたくなることでしょう。 それが健全だし、もちろん、そんなことをSNSに投稿しちゃう人は不健全。 でもこういった人って多いですよね。 発達障害に関わらず、自分って不幸ですアピール。 または自分って頑張っているでしょアピール。 日本人って、自然の動き、動物や虫の鳴き声にすら、意味づけしちゃう人たちで、言語外の行間や行動、雰囲気、間に意味をもたらそうとしますね。 だから短歌や俳句など、限られた文字にいろんな気持ちや意味を込める文化が育った。 いまはそれがSNSに変わっただけ。 みんな、SNSで短歌を詠んでいる。 ある人は日常的なストレスの発散のために。 ある人はとにかく共感を得るために。 ある人は自分自身に言い聞かせ、洗脳するために。 ある人は自己治療のために。 「発達障害の我が子の子育てが大変」と「普通の子の子育てがしたかった」は同じ意味です。 得たいのは、「そうだよね」「そうそう大変だよね」「(それでも)頑張っているよね」という共感。 だけれども、「普通の子の子育てがしたかった」のほうがよりエッジの効いた表現で、無意識レベルでより強い共感を得ようとしている。 それだけその親御さん自身がピンチなのです。 こうなると、支援云々、こうすれば改善する、こんなアプローチがありますよ、は届かない。 こういった親御さん達は私のお客さんにはならない(笑) みんな、病院や支援機関など、公的な機関に向かう。 自分自身がピンチのとき、ひとは共感してくれる人を求めるか、依存先を作ろうとする。 医療は「それは障害のせい」「脳のせい」「生まれつきのせい」と「親のあなたのせいじゃないから」と言い、そのあとで「薬を飲め」「また2週間後に通院しろ」「重症化予防だから」と指示を出してくれる。 支援機関は「親御さんを否定するのはご法度」という掟があるから、個人的にどんな感情を持とうとも、親の言うことはうんうんと聞いてくれる。 そして生温かい優しい言葉で、「支援を受けなさい」「治るなんて諦めなさい」と誘導してくれる。...

【No.1388】子ども時代の「重度」大人時代の「重度」

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私は「重度知的障害」を持つ自閉症の人たちの施設で働いていました。 もちろん、「重度」だけではなく、「最重度」や「測定不能」という人もたくさんでしたね。 でもね、子どもの「重度」と大人の「重度」は違います。 子どもの「重度」は、ほぼ未発達か、誤学習や精神薬の副作用でおかしくなっちゃっている子。 一方で大人の「重度」は、一般の人でもイメージできるような状態。 発語がなかったり、衣食住全般で介助が必要だったり、傍からは意味がわからない行動を繰り返したり、基本的な学力が獲得できていなかったり。 幼少期から確かに「重度知的障害」と言えるような子もいるのも確かです。 しかし、そういった子は少数で、大人の「重度」というような人でも、成育歴や幼少期のエピソードをご家族から伺えば、「それは単に未発達だっただけでは?」と思うことばかり。 卑怯な立場からの発言になってしまうかもしれませんが、2023年、こんなにも未発達や発達のヌケを育てるアイディアが溢れ、こんなにも元発達障害児が大勢いる中から見れば、その人本人の問題ではなく、「適切な教育や発達援助ができていなかっただけ」と思います。 そうです、大人の「重度」と言われる人たちも、元は未発達がたくさんあった子ども達だった。 未発達だった子ども達が、支援という名の介護を受け、個別指導という名の(同年代と)隔離された環境で過ごし、「頑張らなくていい」「そのままでいい」という建前によって教育の機会を奪われた。 そして誤学習が膨らむと、いや、そんな誤学習が起きる前から、「二次障害の予防に」と精神薬が処方され、親の不安を和らげるために子の口にそれを入れる。 そうやって未発達だった子が、知的障害児になり、重度知的障害へと変貌していく。 いや、そのように育てられていく。 このような現実は施設職員の時代も、教職員の時代も、そしていま、てらっこ塾をやっていても、イヤというほど見てきたのです。 ああ、そういえば、この3年間も、でしたね。 大人たちの不安のために、子どもの口を塞ぎ、青春と自由を奪い、わけのわからない薬を突き刺す。 だからね、正直、「うちの子、重度だ」という人は嫌です、嫌いです。 私には「(うちの子、”重度”だから)子育てで責めないでね。私のせいじゃないからね。私ってかわいそうな人間でしょ」という深層心理、邪気が伝わってくるからです。 そんなのをア...

【No.1387】ハッタツの世界はトラップだらけ

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ある人が「マスクで躓いているような人に、ワクチンとか、免疫とかの話できないっしょ」と言っていました。 だったら、うちの領域でいえば、「発達”障害”で躓いている人に、身体アプローチとか、原始反射とか、神経発達とかの話できないっしょ」になりますね(笑) ハッタツの世界はトラップだらけです。 まず「発達”障害”」の罠。 そもそも「障害」としていることが間違いで、一言でいえば外れちゃっている状態。 「なにから外れちゃっているか?」 それは一般的な発達過程、定型発達と呼ばれるものではありますが、この一定の発達過程から外れると「問題なの?」「障害なの?」という疑問が出てきますね。 普通に考えればわかりますが、どの子もみんな同じ発達過程を通るわけじゃありませんし、その子の持っている資質や生活環境との関係でばらつきが出てくるものです。 百歩譲って「決められた枠からはみ出ると問題」だとしても、それが将来にわたって問題になるかは別問題。 小学校入学までしゃべらなかった子が、突然、しゃべるようになることもあるし、10歳くらいまで他人が何を言っているかわからなかったけれども、急に聞き取れるようになり、勉強ができるようになるってこともある。 もっといっちゃえば、発展途上国など学力が問われる社会にいれば、学習障害も、知的障害もないし、多民族国家に行けば自閉症も、ADHDもない。 むしろ、そういった世界では何か一つのスキルに没頭できる人間、動き回ってあれこれできる人間のほうが生き延びれたりもする。 つまり、診断も、定型発達という基準も、障害名も、人為的に作られたもので、それ自体がその人の人生を決定づけるものではないってこと。 年端もいかない子と親御さんを捕まえて、「あなたの子は発達障害です。一般的な子育てはムリです。支援が必要です」というのは不安商法で取っ捕まえても良いレベルですね。 「個別指導」という罠は、「この子に合わせた方法で指導すれば伸びる」と勘違いさせる。 問題の根っこは指導法じゃなくて、「どうして集団では学べないのか?」そっちでしょ。 幼稚園や保育園、就学後の小学校で、同年齢の子と同じような環境で学べないのは、その学ぶための準備、発達課題がクリアできていないから。 指導法に目を向けると、いつまでも「よい指導法探し」から抜け出すことができない。 よく見る専門家、療法、アプローチの「ウィ...

【No.1386】大人の相談者が働くようになる理由

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大人の相談者とお話しすると、「なにが人生を分けたのだろうか?」と思うのです。 発達に遅れがあろうとも、凸凹があろうとも。 自閉症であったとしても、ADHDであったとしても。 働いて自立している人がいるし、なんならそっちのほうが多数派でしょ。 よく専門家は「自閉症だから、こんな特性があるから、働けない」などというけれど、それは反対で実態は「働けないから、発達障害の診断をつけた」というのだと思う。 専門家は問題をややこしくすることで存在意義を示しているのかもしれませんが、結局、働けないのはその人と仕事のミスマッチであり、対人面でトラブルが起きるのはその人が嫌われているだけ。 仕事も、他人も、世の中にはたくさんあるのだから、自分に合う仕事と人を選択すればいいのではないでしょうか。 だから啓発活動に勤しむ当事者や支援機関に通うのは遠回りだと思います。 いや、深層心理では働きたくないし、自分をいい子いい子してくれる人としか付き合いたくないのでしょうね。 就労支援がうまくいかないのは支援者側のうでの問題もあるけれども、そもそも真剣に働きたい、自立したいと思う当事者が少数ということもあるのでしょう。 自慢じゃないけれども、私のところに相談に来た大人の当事者さん達は結構多く働くし、自立していく。 その理由は有料のサービスなので、はじめから本人に現状を変えたいという意思があるからと、上記のように仕事と付き合う人を変えることを提案するから。 自分自身を変えるのは時間がかかるけど、職場や人間関係を変えるのはその日でできますね。 ですから発達相談の時間は、ご本人の自己分析が中心になります。 どの部分に発達の課題があり、どの部分でそこを補ってサバイバルしてきたのか? 発達の凸凹、能力の凸凹、手持ちはどんな感じ? 「心地よい」はなに? どんな名もなき遊びをしてきた? 今までの人生で幸せだったとき、どんな場所、環境だった? そのあたりを紐解いていけば、なぜ、その仕事がうまくいかなかったかがわかり、どんな仕事が適しているかが見えてきますね。 障害があるというと、弱者というイメージがつくが、私はそうは思わないのです。 もちろん、相談者の多くはいろんな困難や苦悩、生きづらさを持ちつつ、今、目の前に来ている。 だけれども、別の言い方をすれば、そんなに困難があろうともサバイバルして、生き抜けるくらい生命力...

【No.1385】だから「治った」ではなく「育った」

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繰り返しになりますが、耳タコの人もいるかもしれませんが、言わなきゃいけないことがある。 私が発達相談で関わったご家族、そしてかつての発達の課題がクリアされ、今は同世代の子と同じように生活できてる子ども達のほとんどは、「治ったんじゃなくて、育った」ということを。 今こうしている間にも、同じ日本の中で「発達障害です」「自閉症です」「ADHDです」と告げられる子がいます。 子ども自体の人数は減っているのにもかかわらず、そういった診断名がつく子は増加の一途。 ですから、どんどん親御さん達も、このハッタツの世界に入ってきています。 「治る」というと、それだけで「なわけはない」と反応してしまうのも理解できます。 それだけ「障害」という文字が与えるインパクトが強いのでしょう。 ほとんどの親御さんは我が子の発達の遅れに気が付いてはじめて「障害」という言葉と真剣に向き合う。 だから、「障害」という言葉を聞いてすぐに思い浮かべるのは、子ども時代に見た身体”障害”の人であり、知的”障害”のある大人の姿。 そこから連想するので、「治る」は現実離れした話のように感じるのも無理はありませんね。 私はというと、実際に関わる子ども達、ご家族に対して「治る」「治った」という言葉は使いません。 なぜなら、ほとんどの子ども達が「治った」のではなく、「育った」だから。 「発達年齢で2歳以上の開きがある」 「知的障害でいえば重度」 「生涯、発語はないでしょう」 「行動障害があって、このままでは強度行動障害にまで至る」 そんな風に告げられた子ども達が、数年経って普通級で学んだり、受験したり、就職&自立したりしている。 当時の絶望的な告知や状態からの変わりようから見れば、それは奇跡に思えるし、まさに「治ったでしょ!」と叫びたくなるのは当然。 でも冷静にならなくてはいけません。 奇跡の物語、親子の感動的てな物語にしてはいけないのです。 少なからず私のような支援者の立場にいる者は。 そもそも同世代の人と同じように成長や生活できる子どもに対して、親子に対して絶望的な未来を、そして今後発達成長していく可能性を否定したのです。 そのとき、「子どもの発達は多様で、子どもの時の診断名なんかあてになりませんよ」「同じような幼少期だった子も、大人になって就職していますよ」と当たり前の話をすれば、幼い子と親になったばかりの家族が奈...

【No.1384】育っている証

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「なにをしたらよいか、わからない」 この悩み、相談は開業当初から続くものです。 なので、新しいアプローチや療法が登場すると、ワーッと親御さん達が集まるのは理解できます。 「普通の子育てはムリです」 そんな風に言われれば、途方に暮れてしまうのは当然でしょう。 自分が受けてきた子育て、同年齢の子が受ける養育じゃダメ。 「だったら、なにをすればいいんじゃ」となりますね。 かつてTEACCHやABA、SSTや感覚統合などがウケたのも、マニュアル化された療法で、なにをやったらよいか具体的だったからだと考えています。 だって、結果が伴っていないのに続いていたから。 幼少期からTEACCHをやろうが、ABAをやろうが、結局、行きつく先は福祉施設。 学校が提示してくる進路も、支援付きの就労か、障害者枠での雇用。 私には「自立」よりも、「やっていること」自体が目的になっていたように見えました。 「できることはなんでもしたい」というのは純粋な親心だと思います。 しかし「なにをするか」が重要であって、発達障害に良いといわれることを「なんでもする」は違うのです。 同じように発達が遅れていたとしても、個人によってその背景や原因は異なります。 というか、そもそも「発達障害」や「自閉症」などが幻想であり、統一された状態などないのです。 目の前の子の個人を見ず、どこのだれかに効果があったといわれる方法を行う。 ある子には改善につながったけれども、別の子ではネガティブな結果につながった、なんてことは当たり前にありますよね。 正直、「できることをなんでもおこなった」結果、却って治るから遠ざかっていた家庭も多く見てきました。 その理由は単純で、子育ては引き算だから。 とくにヒトとして生きる土台となる動物の部分を育てる時期(0~5歳前後)は足すことよりも、引くことが重要。 生まれ出た環境、自然に必死に適応するために身体、神経、感覚を育てているのですから、人為的、人工的な刺激は邪魔なのです。 ナントカ療法、アプローチを「しよう」とした時点で人為的であり、それ自体が人間が考えた人工物ですね。 日々の生活の中で、子ども達は遊びや運動を通して、「いま、こんな刺激がほしい」「いま、こんなところを育てたい」というメッセージを発しています。 そのメッセージが受け取れるかどうかが大事なのです。 我が子が何を育てたいかが分...

【No.1383】発達に遅れがあるから「普通の子育てはできない」という誤解、言い訳

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児発や児童デイのスタッフさん、学校の先生、保育士さんなどから相談を受けると、「同じ方向で支援できない問題」がよく挙がります。 確かに福祉や教育の分野はいまだに「治すよりも、支援」「自分で行動よりも、支援を受けやすい子に」で進んでいますね。 だからそういった組織にいる「治そう!育てよう!」という志と行動力のある支援者さんが私を呼んでくれて、「さあ、この思想をぶっ壊してください」というわけです(笑) 他人の考えを変えるのは難しい。 ましてや、長年、そこに勤務しているベテラン職員となると、なおのこと、難しいというか、不可能。 だいたいどこにでもいるでしょ、「その人しか支援できない状態」にしちゃっていることって。 この支援者、先生が勤務しているときは落ち着いているけれども、別の人がくると乱れる子どもさん。 これって見方によっては「支援がうまい」「長年の信頼関係」などと言われるけれども、そうじゃない。 結局、支援者側の愛着障害に起因する共依存関係ってこと。 生涯、この支援者がそばにいてくれるなら良いかもしれませんが、卒業とともにポイっと捨てられる関係性。 学校を卒業したあとの親御さん達はこんなことを言います。 「ああ、学校にいる間は落ち着いていたのに」 「ああ、児童デイに通っている間はこんな問題はなかったのに」 これも一言でいえば、親御さんも”依存”していたという証拠。 学校や児童デイに任せっぱなしだったから、卒業後、乱れているのです。 だって、自身をコントロール術を、自立して生活していけるスキルを身に付けられなかった、18年間という子育ての中で教えられなかったってことだから。 学校や児童デイ、支援者、学校の先生がそれらを教えきることができるって!? それは学校や福祉、専門家、教員、支援者に期待しすぎだし、表面上期待しているふりをして(深層心理では)責任転嫁の自己防衛ってとこでしょ。 志ある支援者さん、学校の先生や保育士さんにはこんなことをお話しています。 もし本気で「治そう!育てよう!」と考えているのなら、「仕組みを作りましょう」と。 そこに通ってくる子ども達が勝手に育っていくような、自身で育っていけるような仕組みを作るのです。 組織のメンバーを変えようとしても難しいし、時間もかかる。 逆に「自分一人だけでも」と頑張れば、その人が勤務しているときだけ、になる。 「〇〇さん、...

【No.1382】祖父母世代、親世代の積み残し

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いつも「治った」「治った」と言っている人は、心の底で「本当は治らないんじゃないか、治ってないのでは」と不安に思っている人です。 壮絶だった時期が尾を引いているかもしれませんし、愛着形成という土台が不安定なため、「治った」という固定された状態に逆の不安感を持っているのかもしれません。 とにかく「治った」を繰り返すことによって自身の頭を洗脳しているのです。 一方で「治らない」「治らない」と繰り返す人もいます。 そのような言動を目にすると、「相当、状態、症状が重いのだろう」と思いがちですが、実際は違っていることが多いのです。 注意深く観察してみましょう。 「治らない」という親御さんに限って、その子は軽度の場合が多いですね。 また「本当に特別支援の世界で生きるほうが良いのだろうか、必要なのだろうか」と首をかしげてしまうケースばかり。 じゃあ、なぜ、「治らない」と繰り返すのか。 それは一言でいえば、「治ってほしくない」のです。 治ってほしくないからこそ、「治らない」「治らない」と呪文を唱えている。 自分の行動、選択次第で治っていくのなら、いま、治らない状態は「行動できていないから」であり、「選択が間違っているから」である。 そこを明白にしないためには、治ってほしくないのです。 「治らない」という言葉によって、自身の至らなさ、現状から行動を変えていけない自分を隠している。 ここまで読んでくださった人の中には、「自分を守るために、子どもの発達や成長を犠牲にするか」と疑問に思うことでしょう。 子を犠牲にしてまでをも、自分を守っている。 いや、守る必要がある人たちなのです。 だって、「守られてる感」を実感できていない人たちだから。 つまり、愛着形成に不全感がある人が「治ってほしくない」人たち。 子が治ると、治らない自分から離れていくようで、さらなる孤立を感じるため、敢えて「治る」と逆の行動、養育をしてしまう人もいるくらいです。 発達に課題がある我が子を見て「治ってほしい」と思うのは自然な親心の発露です。 つまり、その自然な感情が出てこれない、または蓋をしてしまう状態こそ、問題なのです。 多くの発達障害の問題は、子ども側の問題ではなく、親側の問題。 たとえ発達が遅れていたとしても、幸せそうに生活している我が子を、家で生活している分には何の問題も感じられない我が子を、病院に連れていくのは...

【No.1381】打倒!治らない系ユーチューバー

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おかげさまで、12月の出張、すべての訪問先が決定しました。 お問い合わせからの検討中のご家族も複数いらっしゃいましたが、今回は移動距離が長いので「締め切り」とします。 やっぱりこういうのはお互い「縁」だから、今このタイミングで必要なご家庭のところに行くようになっているのでしょう。 とんとん拍子で決まることがあれば、その逆でうまく調整ができないこともある。 今回も多くの方に告知の応援をしていただきました。 本当にありがとうございました<m(__)m> 「自分が」ということではないですが、いくら腕があっても、いくら治す知見を持っていたとしても、世の中に知られなければただのおじさん(笑) ですから、腕を磨くこと以上に、情報発信に力を入れてきました。 YouTubeだってその一つで、なんと今回お申込みいただいた方の中に「YouTubeを見て」という人がいたんです。 YouTubeを始めてよかった! ブログ、旧ツイッター、ラジオ、YouTube、講演会や書籍、無料のメール相談など、とにかく知ってもらうために行っています。 特に私は「治る」の方向性なので、治っていくご家庭がどんどん抜けていく。 そして抜けたところに新しいご家族が入ってくるので、入れ替わりが激しいのです。 「てらっこ塾利用の口コミが少ない。見当たらない」というご指摘は以前からありまして、「だって治ったり、家族で治していける力がつけば、もう発達系で発信する必要がなくなるから」という感じです。 それでも時折、連絡をいただくことがあって、「数年前、発達障害という診断を受けたのを忘れちゃうくらい元気に成長しています」という方ばかり。 普通の子の普通の子育てをやっていれば、呟くことやSNSの情報に食い入ることはなくなりますよね。 で、そう考えると、SNSにおける「治る系」はずっと少数派なんですね。 治らないから、ずっとしがみついているわけで、だからずっとSNSには「治らないよ~」という叫びが続いている。 YouTubeだって、私は半年で登録者数224人。 一方で治らない系ユーチューバーは数万人の登録者数。。。 「自分と同じ不幸な人がいるのを見て安心する」というのは、どう考えても不健全。 いや、まずそんな動画を観て慰めようと思うあなたが病気で、治らなければなりませんね状態です。 おススメ動画にあがってくるのを何名...

【No.1380】フラクタル構造の視点を取り入れる理由

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講演会の「フラクタル構造の話が面白かった」という感想をいただきました。 確かにあそこは講演会のキモの一つでした(ご興味ある方はまだ配信視聴が可能です!お申込み、冒頭の動画視聴は こちら )。 みなさん、どの講演会に行っても『課題』や『症状』に対してどんなアプローチをするかっていう内容ばかりでしょ。 それじゃあ、部分的には良くなるけど、全体的には良くならない。 だって課題や症状の原因にはアプローチできていないから。 そしてまた問題の全部をその子自身にあるように思っちゃうから。 神経”発達”の問題なので、育つ環境とどんな刺激が身の回りにあるかってとても重要ですね。 アセスメントにおけるフラクタル構造を簡単に言えば、「同じような課題は親御さんの中にもある」という感じでしょうか。 言葉の遅れがある子は、親御さんにも言いたいことがいえない、という課題があったりする。 発達の問題、障害特性と言っても、いろんな症状があるわけで、「どうして言葉の遅れなの?」という疑問に対して、単に「運動発達が抜けたから」では30点くらいの解答になります。 もちろん、言語発達には運動発達が土台であり、重要なんですが、それだけでは一側面から見ただけにすぎません。 ハイハイを抜かす子なんてごまんといるわけで、そんな子がみんながみんな、発達障害にならないし、言葉の発達が遅れるわけじゃない。 言葉に遅れが出た背景、要因が複数あって、そしてたとえそのような条件が整ったとしても、「育たずそのまま遅れている理由」がある。 その背景、要因、理由を多角的に見る視点が「フラクタル構造」の考え方なんですね。 フラクタル構造の話になると、「私(親)の問題も追及される」というように受け止める人もいます。 「過去の過ちを責めるつもりだ」と思う人もいるでしょう。 しかし私はそんな意味で親御さんの問題を確認しているのではありません。 あくまでその子が「治る」ために必要な情報を集め、よりよく育つ環境づくりを目指しているにすぎません。 親御さんの問題は子どもの問題とつながっています。 ですから、たとえば親御さんに食事・栄養の課題があるとわかれば、またその影響を大きく受けたと考えられる場合は、「じゃあ、この子にとって食事や栄養面からのアプローチはとても有効だ」という判断に使います。 そして実際に親御さんにまず試してもらうことで、効果があ...

【No.1379】本人から治す・環境から治す・心から治す

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ヒトはそんなにやわにできていないから、1つ問題があったからといって、発達障害になるわけじゃない。 発達に影響を与える要因なんて無限にあるし、それぞれの要因が複雑に絡み合っている。 しかも、そういった要因も、その人との体質、力関係で影響の出方だって変わるのだから、1つの事柄で発達障害を語るのはとても危険だと思いますね。 ですから発達に遅れが出た子の子育て、発達援助では「どれだけ幅広く見ることができるか?」が重要になります。 本を見れば、「発達障害の子の多くに原始反射の残存が見られる」とか、「質的な栄養不足がある」とか、「腸内細菌が」「発達のヌケが」「未発達が」「愛着形成が」と書かれている。 そして我が子を見れば、どれも当てはまるし、どれもやった方が良い気がして、見よう見まねで取り組んでみる。 で、一定の効果が見られ喜ぶのは数か月。 そのあとは目覚ましい変化が見られなくなり、心配だから継続しつつ、別のアプローチも気になりやってみたくなる。 この繰り返しで「結局、なにが効果があったのか」「これ以上の変化は望めないのか」という気持ちになり、ある人は諦め、ある人はさらに別のアプローチがないか深みにはまっていく。 私は今まで多くの「治った家庭」と「治っていかない家庭」を見てきました。 それは障害の重さの違いでしょ、っていう人もいるけれども、本当に障害が重くて治っていけない子はごくわずかで、ほとんどの子ども達はそもそも障害と言えるレベルじゃない子ばかり。 決してよりよい発達を諦めるような子じゃない。 じゃあ、この「治った家庭」と「治っていかない家庭」の違いはなんだろう。 それは「症状のもぐらたたき」の段階に留まっているかどうかの違い。 症状って別の言い方をすれば、目に見える課題。 目に見える課題ってごくわずかで、目に見えて課題がわかるまでには相当な時間と複雑な要因が絡み合って存在している。 だから目で確認できた症状を改善するのも大事だけれども、そこだけにアプローチしてもダメ。 もっと広い視野で複雑な要因と、その課題が生じた根本を観る必要がありますね。 教科書に出てくるのはいつも平均的な、模範的な症状で、我が子のことは書いていない。 時間的な要因でいえば、「胎児期」「0歳から2歳前後」だけではなく、親の代、祖父母の代までが含まれます。 内的な要因でいえば、「内臓」「感覚」「呼吸」「...

【ご案内】 12月に福井・関西に行きます!

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今回の出張発達相談の日程がすべて決まりました。募集を終了いたします(2023.9.13) お問い合わせいただいた皆様、どうもありがとうございました。 福井県にお住いのご家族から発達相談の正式なご依頼がありました。 いま、検討している日にちは 12月1日(金)PM伊丹空港へ     2日(土)AM「和歌山」 / PM「京都府」    3日(日)AM「福井県」 / PM 函館空港へ 大阪を拠点に出張相談を行う予定ですので、もし北陸や関西にお住いのご家族で「この機会に発達相談を受けてみたい!」というご家族がいらっしゃいましたら、お問い合わせください。 【今後の流れ】 SNSで募集(2,3日)→ご希望やお住まいの地域を踏まえ日程調整→訪問スケジュール決定→各ご家庭に日時と料金の連絡→当日を迎える てらっこ塾HPは こちら 発達相談の内容は こちら お問い合わせ・お申し込みは こちら ※他地域にお住まいのご家族の発達相談も随時受け付けております。年内のご希望はお早めにご連絡ください!

【No.1378 】「誤診」と「過剰診断」が発達障害のおける一番の問題だけれども

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夏休み前にストックしていたYouTubeの動画がなくなったので、「今日は久しぶりに動画を撮ろう」と思っていたら、朝から息子たちが家にいる。 本当は今日から始業式で2学期が始まりだったけれども、先に始まっていた道内の小学生が体育の授業後に熱中症で倒れてお亡くなりになる痛ましい出来事があり、すぐに市の教育委員会が「市内全部休校」と通知。 プールをやめるのも早いし、学校を休校にするのも早い。 私がマスクの件を伝えたときも、対応が早かったから、とっても仕事ができる人か、とにかく自己保身が強い人かな。 こういった事故が起きると、とにかくすぐに「全部やめにします」ってどうなんだろうと、いつも思います。 今回、お亡くなりになった児童さんも、個人的な要因としてはどうだったのか。 持病を持っている子かもしれないし、マスクをしていたかもしれない。 朝食をきちんと食べてこなかったかもしれないし、もともと体調がすぐれていなかったかもしれない。 ちゃんと汗がかける子だったのかな? そういったところまでしっかり確認しないと、つまり、個人的な要因と環境的な要因とをしっかり比べないと、それによってほかの全員が影響を受けることのデメリットもあるんじゃないかな。 休校になれば、学習の機会は減るし、きっと体育をやらなかったり、内容も変わったりする。 そしてすでに小学校の出来事なのに、中学、高校と部活動が禁止になっちゃった。 管理するほうからすれば「一律中止」「とにかく安全パイに」で良いかもしれないけれど、今この瞬間を生きる子ども達からしたら失うもののほうが多いこともあるでしょう。 まあ、散々3年間、子ども達を犠牲にしてきた人たちだから気にも留めていないかもしれないけどね。 昭和のおじさんからすれば、「心配しすぎ」「子どもはもっとたくましいもの」「むしろ、この暑さにも慣れないと、今後の日本で生きていけないでしょ」と思ってしまう。 だって自分が小学生のとき、暑い日も外で一日遊んでいたから。 暑いから学校休校なんてなかったし。 だけれども、そういった声は少数派で、ほとんどは「こんなに暑い中で体育をやらせた学校が悪い」「うちの子はやらせない」。 環境に合わせて人間を弱くして大丈夫? 大人の不安、怖がりはつくづく子どもの発達を妨げると実感しますね。 以前から言っているように、日本の発達障害の問題は「誤診」と「過剰...

【No.1377】とある施設の問題ではなく、我が国が歩んできた特別支援の問題として

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昨晩、録画しておいた番組『鍵をあける 虐待からの再出発』を観ました。 放送は8月12日(土)23時から。 県立の障害者施設の話で、虐待や不適切な対応が確認され、そこから改善に向けた2年間を追ったドキュメンタリーでした。 入所者の中には強度行動障害を持つ人もいて、自傷や他害行為があるため、長時間施錠された居室内で過ごしているという実態も映されていました。 もちろん、そういった状態、実態は不健全であり、人権を無視した行為だと言われても仕方がないと思います。 しかし同じような施設、強度行動障害を持つ人の支援に携わっていた過去を持つ私は「やむなし」という想いもあります。 限られた人数で、夜間など一人体制でそういった自傷や他害を持つ人をケアしなければなりません。 何よりも、本人に怪我させてはいけませんし、ほかの入居者を守る責務もあります。 決して自ら進んでそういった行為をしているわけではなく、身体拘束や向精神薬で心身をマヒさせるよりは、居室のカギをかけるほうがまだよい、という感じなのでしょう。 虐待ということであれば、そういった施設、職員も虐待であり、障害者を隔離するという環境・社会の思想も虐待であり、そういった施設に入所せざるを得ない状態までにしてしまった家族、支援者、教員、専門家、すべての人も同様だと私は思います。 強度行動障害を持つ人の生活場面で、視覚支援が使われているのがわかりました。 しかし、それは実態に合わせて日々改善しているような様子はなく、長年、ずっと同じものを使い続けていたように見えます。 しかもそのアイディア自体、1990年から2000年代に主流だったものです。 なぜ、その支援が使われているか、そんなものは次々と入れ替わる職員の中で引き継がれることなく、ただただ「使っていたから使ってます」という状態だったのでしょう。 本人も、職員も、その意味がわからず、ただのルーティンとして、道具の一つとして使っている。 視覚支援、構造化は「形として見える」という利点はありますが、その意味が見えないため、形骸化した視覚支援が全国各地に残骸として散らばっているように思えます。 この番組の中で私が注目したのは、なにも置かれていない居室が映ったとき、「刺激が自傷やパニックにつながるため」という理由が述べれた報告書とナレーションがあったときです。 そうです、構造化の弊害のもう一つ...

【No.1376】根本から治したいなら、これくらいやる必要がある

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まずこのラジオを聴いてほしいです。 → 【No.118】お便りから一年後の変化 皆さんからいただいた発達の悩みに関するお便りに、ラジオ形式でお答えしているのですが、そこに昨年8月に相談があったお母様から近況報告が届きました。 不登校や癇癪、ディスレクシアという息子さんの状態に悩まれ、相談があったのですが、この1年間で大きな変化が起きたことがわかります。 それは息子さんではなく、ご両親、ご家族に。 このお便りが届いて、1年前の私がどんな回答をしているか、そのときのラジオを自分でも聞きなおしてみたのですが、結構、親御さんに対して厳しい指摘をしていました。 子どもの問題というよりも、育つ環境の問題。 つまり、子どもよりも先に親御さんが変わることこそ、大事ですよ、というお話。 そしてその真意が伝わったようで、親御さん自身が本気で変わろうと行動された。 短いお便り、文章の中ではありましたが、親御さんの本気さと相当な努力をされた1年間だったのがよくわかりました。 このお便りをくださった親御さんのように、本気で子どもの課題を改善したいと言う人はたくさんいます。 でも実際に本気で行動できた人は少ない。 だから治っても、治りきらない家庭ばかりなのです。 結局、根っこの、その課題の中核の部分に届こうかというときに、親御さん自身が怖気づいてしまったり、「そこは見たくない」と目を瞑ってしまう。 100%子どもだけに課題の要因があるわけじゃないでしょ。 そんなのみなさん、心の中では気付いているでしょ。 突然、発達に課題がある子が自分ちの玄関に置かれていったわけではない。 かぐや姫のように竹を割ったら、我が子が出てきたわけではない。 親御さん自身が自分の課題と向き合うのは大変なことです。 身体アプローチや栄養療法など、なにかに取り組めば育ち直しができる、といった類のものではないから。 30年なら30年間の、40年なら40年間の、積み重ねの先に我が子の発達の問題として課題が現れる。 しかも、自分だけではなくてパートナーもだから2人分。 そしてもちろん、課題は3代の結果なので、祖父母も含む6人分の課題です。 だから相当労力がいるし、それには自分の過去と真正面から向き合いぶったぎるくらいの本気さ、覚悟が必要。 その本気さ、覚悟さをもって行動できる人がどのくらいいるでしょうか。 たしかにそんなことを指...

【No.1375】アセスメントとは評価するものではない

発達障害か否か、自閉症か否かは、すべて主観です。 そうです、始まりの診断が主観なので、アセスメントに主観が入らないはずがないのです。 親御さんの主観があれば、医師、先生、支援者の主観がある。 その主観同士で、「誰を優先させるか」「なにを優先させるか」でああだこうだと言っているのが特別支援の世界。 たとえば、学校ではおとなしい子が、家で親の言うことを聞かず、ときに暴れることだってある。 じゃあ、おとなしい姿と暴れる姿は同じなのか、違うのか。 その姿を見て、「学校は構造化、支援がちゃんとしているからね」と主観で評価し、「家はちゃんとしていないから」「愛着障害があるから」「お母さんがメンタルやられているから」暴れるんでしょと主観で評価する。 また医師は「じゃあ、薬出しましょう」と、学校での姿を切り捨て、家で暴れる姿を優先させる。 ひとは複雑系な生き物で、そのすべてを言語化することも、評価することもできません。 当然、環境が異なれば、表出、行動の仕方は異なります。 そこにかぶさるようにして、それぞれ周囲にいる人間の主観でその子を評価する。 だから本来、アセスメント、評価をしようとすれば、子どもの姿はぐちゃぐちゃになる。 却って「わからなくなる」のがアセスメントの本質。 その「わからなくなる」を「わかりやすくできました」としないと、専門家としての資質が疑われる、またその支援サービスが売れないので、「わかりやすくできました」風に加工がされるのです。 その典型が勝手に枠を作り、範囲を狭め、「ここだけ見てね」とする方法。 「我が子の評価」だと無限だが、「作業場面」「排泄の面」「運動機能」「数唱」「小学2年生の国語の点数」とすると、整理された風になる。 だけれども繰り返しになりますが、だれか第三者の目によって「この姿、評価を優先しよう」と決められているのが現状。 その評価の陰で、大多数の姿、評価が切り捨てられてしまっている。 これでは本人主体ではなく、ゆがんだ他者評価によって教育、支援がされてしまいます。 何よりも、本人が、その子の内側が「今、育てようとしている」ところを後押しすることができなくなってしまう。 「あなたがどう育ちたいのではなく、私たちがどう育てたいかで育てる」 ひとの発達には客観的な基準、尺度は存在しません。 「娘さんは5歳4か月だけれども、発達年齢で言ったら1歳3か...

【No.1374】つながりが持てる窓を探す

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「今日も暑いですね」 短い夏の北海道でも、この挨拶が会話の始まり。 「暑い」という個別の体感が同じ場所を共有することで、お互いにとっての共通の感覚となる。 我々人類の祖先も、群れで生活するようになって、この共感を育んでいったのだろう。 特に共に同じものを食べる、という行為が共感の始まりといえる。 同じ夏休みという期間を過ごしていても、「毎日、地獄だ」という家族がいて、かたや「毎日、楽しい」という家族がいる。 この違いは何だろうか。 それはともに活動できるか、もっといえば、食べる行為なども含む運動をともにできているかの違いでしょう。 コトバ以前の段階である身体活動で「共感できている」という実感があるかどうかの違い。 感覚の違いを持っている子どもさんは、「今日も暑いですね」の暑いという感覚でずれが生じている。 いくら猛暑になろうとも、まったく暑がらない子もいれば、冬でも「暑い」といって裸になろうとする子もいる。 同じ食事をしていても、その感じ方が異なるので、「おいしいね」「ちょっとしょっぱいね」といった共感も難しい場合もある。 いや、そもそも共感自体を諦めてしまって、別々の食事を摂っている家庭も少なくないのだ。 特別支援において「個別化」は定石になっている。 共感が乏しい子がさらに共感の薄い世界へと誘われる。 「この子は他人の気持ちを察することが苦手なんです」と隅っこで一人遊ぶ姿を見れば、この子の問題ではなく、周りの大人が諦めてしまっているから共感する気持ちが育まれないのだろう、と思ってしまう。 個別化は刺激の少ない落ち着ける環境を提供すると同時に、共に生きる力を育む機会を奪っていく。 「毎日、地獄だ」という親御さんの中には、我が子と共感できない、その虚しさに対して「地獄」という言葉を使っているようにも見えることがある。 一緒に食事をしても、おいしいか、おいしくないか、気持ちを共有できない。 一緒に公園に行っても、楽しいかどうか、興奮を共有することができない。 だから自然と傍観者のようになり、ただ危険がないように、周囲に迷惑がかからないように、ストップをかけるだけの役割を演じる。 その自分の姿、親以外の役割を演じている姿を客観的に見て、悲しさがこみあげてくる。 専門家や支援者が「感覚過敏は特性で治らない」「気持ちを察することが難しいのは彼らの特性」などというのを見聞きす...

【No.1373】いつの間にか、人間一般の、発達障害児の育て方を求めていたりして

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みんな、ハウツーが大好き。 「どうすれば、感覚過敏が治りますか?」 「どうすれば、自傷行為が収まりますか?」 「どうすれば、治りますか?」 こころがハウツーを求めるとき、それは「一刻も早くこの状況から逃れたい」というメッセージ。 もちろん、その「一刻も早く」の主語は”私”。 私が今の状況に耐えられないから、治ってほしいし、治したい。 だから私と我が子とのずれが生じて「治る」から遠ざかっていく。 遠ざかるからこそ、さらに新たなハウツーを求め、負のスパイラルに入り、結局、「この子の発達障害は治るわけないんだ、だって生まれつきの障害だからね、だって重度だからね」と自己完結に至る。 そういった自己完結できた親御さんが、自分の脳内お城を崩されないように、せっせと「発達障害は生まれつきの障害で治るとかそういうもんじゃないんです」とニューカマーの親御さん達に善意の皮を被って近づいていく。 医療だけじゃない「早期発見」、別名「先手必勝」。 しかし同じハウツーを求める親御さんでも、この負のスパイラルに入らない人たちがいます。 それはそのハウツーを外に求めない人。 自分の内側、育ってきた道。 そして自分の親とのつながり、祖先とのつながり、故郷とのつながりの中に「どう育てればよいの?」と尋ねることができる人はハウツーではなく、「我が子をよりよく育てる方法」へと昇華させることができる。 何が違うのか? そこに主体である我が子の、唯一無二の存在があるかどうか。 専門家が唱える方法は、人間一般における共通点でしかない。 発達障害の専門家も、その専門家の中にある一般化された発達障害児像があり、そのいわゆる偶像に対して「効果がある」と述べているに過ぎないのです。 「この症状には〇〇が効きます」と「〇〇くんのこの症状には〇〇が効きます」との違い。 その「〇〇くんのこの症状」はその子単体で生じているものと、親である自分や祖父母、きょうだい、親戚にもみられるものがあります。 前者の場合は人間一般、発達障害児の多くに、で解決できることもあるが、大部分は後者であって代々のつながりの中で顕在化した症状ばかりです。 つまり、専門家から出てくるハウツーの守備範囲はごくわずか。 そのごくわずかを集めてきて、「ああ、治らない」というのは当たり前の話。 ハウツーの問題ではなく、そのハウツーに過度な期待をしたまで。 一言...

【No.1372】治ってほしくない>>>>>治したい>>>本気で治ってほしい

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みなさん、こんにちは。 久しぶりの更新になりました。 最近は息子たちの少年野球のお手伝いが忙しく(笑)、先週も土日、審判をやっていたら真っ黒けになってしまいました。 私は高校時代で体中からゲボが出るほど硬式野球をやりましたので、もうそこからは「観る専門」ということで生きてきました。 だから息子たちに野球を教えることも、野球をやらせたいとも思っていませんでしたが、まさか二人とも野球をやるなんて、そして私が野球の審判をやるなんて。 審判はプレイヤーとは違った難しさや緊張感がありますので、やってみると楽しいですね。 「難しい」と思えるものほど燃えるタイプなので、YouTubeで「野球の審判講座」などを視聴し勉強しています(笑) 発達障害の方面でのご報告と言えば、やっぱり本気で治したい人は「少数派」ということですね。 口では「治したい」「治ってほしい」と言っていても、その言動からは「治ってほしくない」「治ったら(自分が)困る」というのが伝わってきます。 だって、みんな、根本には目を向けないから。 目を向けようとしたら、脊髄反射で逃げようとするから。 典型的なのが「この子の発達障害を治してほしい」という言動ですね。 間違ってはいけないのは、この子だけに発達障害があるわけではないことです。 もっといえば、発達の課題はその子と周りの共同作業です。 いくらその子に素因があろうとも、周りの環境が適切なら発達の後押しはできるわけで、また反対にいくらその子に素因がなかろうとも、周りの環境が不適切なら発達は遅れていく。 こういったことは本能的に親御さん、とくにお母さんは気付いているけれども、「いやいや、私の課題じゃなくて、この子だけにアプローチしてほしいの」と逃げてしまう。 自分の過ち、過去に向き合うことができなければ、我が子は治っていかない。 だって、自分と我が子はつながっているから。 そもそも発達障害は、というか、発達が遅れた状態は周りにいる親御さんや支援者が臨んでいる状態だというのは忘れてはいけないことです。 なので、やっぱり「治る」ってことは、親御さんが過去と今と本気で向き合うことなんだと思うのです。 どんなに辛くても、見たらゲボを吐きそうになったとしても、自分のクソなところ、ダメなところ、醜いところと向き合って、いったん落ちるところまで落ちる。 そして「陰極まれば陽となる」で、ど...

【No.1371】目に見えない『発達』を捉え、後押ししていく

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前回の更新からちょうど1か月経過してしまいました。 YouTubeを始める前は、3日に1回のペースで更新していましたが、やっぱりパソコンの前に座ってポチっとスタートを押して思ったままにしゃべるほうが楽で速い(笑) だから、ついついYouTubeの方へ気持ちが流れていっていたのでした。 しかし、更新していない間も、このブログへのアクセスは続いており、一度、書いたものは残り続けるので、それはそれで意義のあることかなと自分では思っています。 情報や考えは時間の経過とともに古くなっていくでしょうが、そのキモの部分は変わっていないと思います。 そもそもこのブログを綴っていたのは、もちろん、てらっこ塾を知ってもらうための広告媒体というのが一番ですが、私個人としては「発達」という目に見えないものをどう言語化するか、その技能を磨こうと考えたからです。 一言で「発達」と言っても、それが何を指すのか、どんな行動や変化を言うのか。 はたまた人によってその解釈の仕方も違います。 というか、「発達」って目に見えない。 だけれども、じゃあ、「発達」というものが存在しないのか、感じられないモノか、といえばそうじゃないと思います。 子どもと関わっている人、特に親御さん、ご家族は子どもの発達をかなり適格に捉えているように“見えます”。 発達障害は神経発達症なので、そこには神経が関わっているのでしょう。 でも、その神経は身体中に張り巡らされていて、その数も膨大で、この瞬間にも神経細胞は死に生まれ繋がっている。 そんな神経全体をリアルタイムで観察することはできないし、どことどこがつながったから「発達した」またはどことどこがつながっていないから「発達していない」「遅れている」ということもできませんね。 つまり、誰一人として「発達」を明確に捉えられている人はいないわけです。 目で確認できないけれども、確実に存在しているといえる「発達」 たぶん、それはまだ人類が測定方法を見つけられていないレベルの話。 だから、「確実に測定できるようになるまでは何もしない」なんてことはないわけで、それは「エビデンスが出てから子育てします」と同じような戯言。 私たちは(現時点では)感覚的に捉えている発達を目以外のもので見ながら子育て、発達援助をしていく必要があるのです。 我々人類が700万年行ってきたように。 YouTubeを始...

【No.1370】それを対症療法にするか、根本療法にするかは、受け手側の問題

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目指すべきところは、本人のよりよい発達成長であり、自立した自由な人生、幸せな人生を送られること。 とすれば、どんな療法でも、アプローチでも、名もなき遊びでも、地域の習い事でも、日光浴でも、名前のないような関りであっても良いわけです。 ですから、「栄養療法が大事なんです!」「ABAが大事なんです!」「ビジョントレーニングが大事なんです!」って、枝葉末節の話でしょ。 そりゃあ、栄養療法が効く子もいれば、効かない子もいるし、逆にネガティブな反応がある子だっている。 物事には陰と陽があり、時と場合があり、一方的に良いも、悪いもない。 治験中の注射があたかもノーリスクで利点しかない、と言われてきた2年間をお忘れでしょうか。 物事の一面しか述べられないとき、そこには発信者の別の隠された意図があるものです。 発達障害の人に対するアプローチで、みんながみんな、同じ反応があるとしたら、それはその人の資質や個別性を無視できる次元の話になります。 叩いたら痛い。 食事を与えない。 劇薬を飲ませる。 つまり、同じ反応が得られると主張する人も、それを信じてアプローチを続ける人も、対象である個人の人権を無視した行為だということ。 一人ひとり免疫の具合、国や人種による違いがあるのに、一律にマスクしろ、社会的距離を取れ、注射を打て、なんてことは人権侵害だってわかるでしょ。 まあ、ひとは恐怖心をあおられると、冷静な思考や判断ができなくなるもので、最初に入った情報を更新することが苦手という特徴もありますが。 だから、特定のアプローチには、特定の脅し文句がある。 そこに繋ぎとめるためには、恐怖や不安を煽る必要があるから。 「二次障害になる」はそういった類の言葉でした。 ただでも発達の遅れ、知的の遅れがあるのだから、さらに二次障害となれば、不安が増長されるのは自然な反応。 そうやって飲みたくもない精神科薬を飲み、泣き叫ぶ子を連れ家事をほったらかし療育に通い、効果があるかどうかわからないアプローチを必死に続ける。 第一、続けないと維持できないアプローチなんて、問題の本質に迫れていないでしょ。 「栄養療法、1年続けています」 「毎日、サプリを摂って、丸3年」 「金魚体操を始めて2年半」 ビジョントレーニングは1年で、原始反射の統合は1年3か月。 挙句の果てには、療育に通って12年。 「降圧剤を飲んで正常の値で...

【No.1369】心から治ってほしいと思っている人はほとんどいない

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YouTubeのおススメ動画にあがってくる発達障害の子を持つママの再生数が数千から1万を超えている。 私の動画は頑張っても300再生なのに(笑) まあ、再生数を稼ぐことを目的としていないので良いのですが、私の見立ては間違っていたのかと思ったりする。 YouTubeってニッチな内容が受けるんじゃないのかな。 一般的な教科書や書籍、講演会で聴けないような話、情報を求めてYouTubeにやってくる。 発達障害の分野でいえば、「本に書いてあることでもうまくいかない」「講演会や支援者の話を聞いてもピンとこない」「療育も、発達相談にも行ったけどよくならない」「だからYouTubeで違った視点、情報が欲しいんです」でYouTubeにアクセス!じゃないんですかね。 教科書に書いてあることを教科書通り動画にしてもつまんないでしょ。 そんな風に思ってYouTubeを始めたんですけど、1か月やってみて私の勘違いだということがよくわかりました。 まず本を読まない、読めないから動画って人が多いってこと。 日本人全体として本を読まないのも知っていたし、Twitterなど、あんな少ない文字数でも読み間違える人がいるのは肌身でわかっていた。 だけれども、我が子の問題ですよ。 そりゃあ、日ごろ、本を読まない人でも、ある程度、本を買って読むでしょ。 でも違うんです。 「大久保さんの本が発達障害の分野で初めてです☆彡」みたいな人もいます(褒めてますw)。 「私、本苦手で、全部ネットで検索して情報集めたんです」というツワモノもいます。 だから、本や講演会代わりにYouTubeって人もやっぱり実際にいるんだなと思いました。 そういった人たちにとっては、ニッチな内容よりも、教科書通りの情報のほうがニーズですね。 あとこれは以前から言ってきたように、治ってほしいと思う親御さんは実は少ないということ。 まあ、一般的に障害と聞けば、治らないと思うでしょうし、そもそもが我が子に根本からは良くなってほしいと思っていない。 これは「うちの子に治ってほしいんです」と言っている親御さんの中にもある話。 なぜ、それがわかるかといえば、ほとんどの人が「(この子だけ)治して」と言うから。 「言葉が出ないんですけど、出るアプローチ教えてくれませんか?」 「発達のヌケが埋まるアプローチを教えてください」 「集団行動ができるようになって...

【No.1368】てらっこ塾開業10周年

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ブログ は1368本(閲覧数:52万6632)。 ラジオ は111本(再生数:4万6524)。 YouTube は28本(再生数:3224)。 書籍2冊 (『医者が教えてくれない発達障害の治り方①親心に自信を持とう!(2021)』『ポストコロナの発達援助論(2022)』花風社)。 発達相談は1000名以上。 出張した都道府県は20県。 てらっこ塾が10年間で積み上げてきたものです。 2013年4月2日に開業したてらっこ塾は、本日丸10年を終え、11年目に突入します。 いま、この景色が見られるのも、多くの方たちが利用してくださったからであり、家族の理解と支えがあったからだと思っています。 心より感謝申し上げます。 開業当初と考えていた形態、仕事の内容とは今はまったく違います。 こんなにも乳幼児さんからの相談があるとは想像していなかったし、こんなにも「治る」方向で援助をするとは思ってもみなかった。 重度の知的障害を持つ自閉症児、または行動障害をもっている人。 そんな人たちが少しでも生きやすくなるように、自立してできることが増えるようにと考え始めた事業です。 しかし今では、自立のための支援、個人や家庭の発達援助の枠を飛び越え、社会問題として「発達障害を予防していくか」に向かっています。 「神経に不具合が生じたから、その神経を整え、育てる」から「神経に不具合を生じさせた原因の除去と予防のための啓発」です。 「モデルや参考になる支援者、事業はないだろうか」 そんなことを考え、開業の準備をしていましたが、同じようなことをやっている人は見つかりませんでした。 ですからこの10年間、その時々で「ベスト」だと思う道、方法を選択し、個人事業ゆえの強みである機動性、柔軟性、独立性をフル活用してきました。 心がけてきたのは社会の3年先を読むことと、自然な流れに身を任せ、自分の直感を信じて判断すること。 「3年間、無給でも大丈夫なくらい」の貯金をして始めたてらっこ塾。 こうやって11年目のスタートを切れたのは、まだまだやるべき仕事、責任があるからだと思います。 起業時、30歳の私も、40歳になりました。 まだ老け込む年齢ではないので新たなことにも挑戦を続け、同時に次の世代、今の子ども達によりよい社会を作って引き継いでいけるような命の使い方をしていきます! 今後とも応援、またご指導のほどよろし...

【No.1367】おススメ動画に出てくる涙ぐむママたちを見て

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ユーチューバーになってからというもの、やたらとおススメに発達障害を持つママの動画が流れてきます。 もちろん、今までもそうやって動画をあげてる親御さんがいるのは知っていたけれども、まったく観る気が起きなかった。 だって邪気に溢れているでしょ(笑) それに勝手に「私は障害者として生きます」宣言がよりによって親にされちゃっている子が不憫で仕方がないから。 でもいくつかの動画を観てみました。 そこで気が付いたのは、編集が上手ってこと(笑) つまり、どんなフラクタル構造化と言えば、現実も編集したいという想いなんですね。 私が見た限りですが、全員、我が子の発達の遅れを受け止めることができていない、そして根本から変わっていくことを諦めている。 別に現時点で遅れているからっていって、1年後も、2年後も、遅れ続けているかはわからないのにね。 だけれども、「遅れ=生涯変わらないモノ」なっているから、編集に「変わるものなら変わりたい」「あのときのあの選択をやめたい」という願望を乗せている。 また編集って「見せたいところを見せる」と同時に、「見せたくないところは見せない」なんですね。 これまたフラクタル構造の「表面に目を向け根本を見ない(見れない)」「自分が見たくないところは見ない(=自分は悪くないと思いたい)」が出ている。 どの子も重度と言うけど、脳のダメージは見えないし、「やれば、本来の発達の流れに戻るよな」って感じ。 でも根本に向き合えないご家庭は(本人の問題じゃなくて)治るのは無理だよな~と思う。 まあ、またまたフラクタル構造で、世の中、こんなご家庭ばっかりで治したくない、治ってほしくない親御さんが大多数なのでしょう。 私が「根本」「根本」というのは、治っていかない、本来の発達の流れに戻っていけない、という理由もあるけれど、根っこという土台の部分が治らなきゃ、結局のところ、発達の凸凹が大きくなって新たな生きづらさが生まれるし、人生で出くわす困難がやってきて倒れたあと、ぽきっと折れちゃって立ち上がれない元発達障害児たちを見てきたから。 そして何よりも、次の世代に影響が出ちゃうでしょ。 まあ、頑張れば、対症療法だけで、〇〇アプローチだけで治る子、元の流れに戻る子はいる。 だけれども、「どうして発達が遅れたのか?」「どうして発達が遅れたままなのか、そこから育っていかなかったのか?」がわか...

【No.1366】まずは私たち大人が本気にならなきゃ

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悲観する親御さんを慰め、不安をもつ親御さんに「私が支えます」と言う。 「こういったアプローチがありますよ」と伝え、親御さんに手取り足取り教えてお金をいただく。 結果的によくなったり、変わらなかったり。 よくなれば、「ああ、教えてもらったアプローチが効いたんだ」と親御さんが喜び、変わらなければ「うちの子に合う別のアプローチが(どこかに)あるだろう」と外に意識が向かっていく。 そして年月は過ぎていく。 みなさんはこんな支援、援助、サービスをお求めなのでしょうか。 私も一応、大学を出ているので(笑)、世の中の状況を見て、どんな商売の仕方が儲かるのか、想像することができます。 たぶん、上記のような寄り添い、意識を外へ外へと向かわせるようなサービスのほうがお客さんがくるでしょう。 ちまたのなんとかセンターの支援者のように偽善の優しい言葉を掛けることだってできる。 ちまたの心理カウンセラーのように、偽善の仮面をかぶり、笑顔を振りまくことだってできる。 だけれども、私はそんな仕事はしたくない。 そんな自分の信念を曲げるような商売はしたくない。 散々見てきたじゃないですか。 特別支援が始まって20年、このような親御さんを接待するだけの支援を。 親御さんの心は軽くなるかもしれない。 だけれども、その陰で子ども達の発達や成長、彼らの生活、人生が後回しにされてきたのを。 「支援があれば」が本当だったとしたら、今頃、発達障害をもった人たちも自分の人生を歩んでいけているはずです。 なぜ、幼少期から診断と支援を受け、大人になった今も、誰かの庇護のもと、他人の決定に従い生きているの? 私は根っこから治っていくことを目指しているのだから、自動販売機のような「この症状にはこのアプローチ」みたいな仕事はすることができません。 できたとしても、それは急性期の非常事態がその子や家族に迫っているときだけ。 基本的に発達障害は慢性疾患の部類で、発達を遅らせている根っこから改善していかなければならないものです。 「発達障害は親御さんの頑張りで改善します」と言っている一方で、「発達障害は親御さんの過ちによって悪くなることがある」とは言わない。 私と同じような「治る」を目指している援助者の中にも、そこには触れない人もいる。 そういった人を見かけるたびに「あなたも、親御さんの力、家族の力を見くびっているのか、低く見積...

【No.1365】身体アプローチと身体育て

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昨日は下の子の卒園式でした。 お兄ちゃんの卒園式の時は「ちゃんとできるかな」と心配であまり周りが見えていませんでしたが、うちの子だけではなく、クラスの友達、全員の顔とリズム体操(毎年、園活動の集大成として跳び箱や側転、太鼓、駒回しなどを行います)を見ることができました。 兄弟でお世話になった保育園で、ここに通う子ども達と保育士さんから「指先、つま先に神経が通るってどういうことなのか」「躍動する動きはどうやって培われていくか」など、多くのことをその姿から教わったと思います。 神経発達は目で見て動きで確認するだけではなく、「音やにおい、体温や肌の質感など五感を通して感じ、伝わってくるものだ」というのは今後も忘れることのない学びでした。 子ども達は縦横無尽に駆け回る。 そこで行う身体活動自体も難易度が高いものなのに、お互いがぶつかることなく、次々と披露している。 20名近い年長の子ども達が一斉にあれだけ走り回ってもぶつからないというのは、我が身を自在にコントロールできるだけの身体が育っているからだといえます。 どこからどの子がやってくるかはわからない。 つまり、周りの環境自体を変えることはできない。 だからこそ、周囲の環境から独立した自分が必要であり、その独立性は身体の自在性によって確保されている。 「身体を育てる」というのは、その子の独立を守るということです。 身体アプローチの本質もここにあると思います。 身体アプローチはただ発達障害を治すだけのツールではないのです。 感覚過敏や感覚の未発達をそのままにしておくのは、外からの刺激によってその個人が左右されることであり、独立性が揺さぶられるということになります。 発達のヌケだってそうで、自由自在に身体が動かせられなければ、首から上は自分のものだけれども、首から下は借り物の付属物となりかねません。 神経発達症の子ども達の身体を見ると、自分が制御できる部位、機能とそうではない部位と機能が混在してるため、自分と他者が混在してる雰囲気があります。 自分の身体なのに、自分ではない部分がある。 ですから彼らは他者との境界線が曖昧ゆえに、他者や環境と対峙するだけの段階にはなく、それが一言で「社会性の問題」と表現されてしまっているのです。 お世話になった保育園では、なにかトレーニングを行ったわけではなく、四季それぞれの遊びをとことんやりき...

【No.1364】『療育整体』を読んで

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従来の知的障害を伴うような自閉症児、発達障害児の親御さん達は共生を求めていました。 一般の人たちに向けて「理解を」 社会に向けて「支援を」 彼らに必要な支援を受けながら、同じ社会の一員として遊び、学び、働き、生活していけることを願っていました。 しかし2005年を境にし、新たな概念として発達障害の枠に入ってきた人たちは、「うちの子に必要な支援があれば、自立できるのに」と考えているように見えました。 『自立するための支援』と『共生するための支援』の違いです。 『自立するための支援』はいつしか特別な支援、特化した支援、個別化した支援へと変貌していきました。 それが発達障害児と定型発達の子ども達とを分けていくことにつながります。 放課後、同じ公園で遊んでいるのに、かたや約束をして集まってきた子ども達、かたや児童デイの車に乗せられてきた子ども達。 同じ地域の同じ学校に通っている子ども達なのに、だったら一緒に遊べばいいのに、支援者の管理のもと同じ児童デイに通っている子ども同士でしか遊ばせない異様さ。 子ども同士もお互い視界に入っているのに、どちらからも関わりを求めようとはしない。 「住む世界が違う」というのは、子ども時代に培われる。 私が子ども時代は、今でいう発達障害と言われる子とも一緒に学び、一緒に遊んでいたものです。 勉強ができなくても排除するわけでもなく、運動が苦手でも自然とハンディをつけながら共に遊びました。 そうやっていろんな子どもがごちゃまぜになって遊び、子ども同士で成長していた時代。 そういった子どもを仲間外れにしようもんなら先生にこっぴどく怒られたものですが、いまは先生が率先して「発達の専門家に診てもらったら」「お薬飲んでみたら」「支援級に行ってみたら」と仲間外れを行っている。 そんな時代だからこそ、親心をもった支援者、専門家が求められるのでしょう。 『療育整体』を考案された松島眞一さんは我が子を楽にしてあげたいその一心で身体に働きかけを行いました。 整体師としての技能を我が子に応用したわけです。 でもその間には大事な親心があった。 整体の技能と発達に課題のある我が子の間をつないだのです。 整体が療育整体へと純化していく過程には「よいとこどり」と「応用」の原型があります。 発達障害に特化したものを行おうとすればするほど、発達障害ばかりが前面に出て、一人の人間と...

【No.1363】YouTubeチャンネル開設の経緯

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いつも本ブログを読んでくださり、ありがとうございます。 2013年てらっこ塾開業とともに始めたブログも、今回で1363本目の記事。 3日に1回のペースで10年間、自分でもよく積み上げてこれたなと思います。 「よくネタが尽きないね」と言われることが多々あったのですが、むしろネタはあるけれども文章にできないものばかりで(笑)、そういった話は直接お会いした人だけに伝えていました。 なんで、書くことよりも、書かないことを意識するほうが大変だったといえますね。 もちろん、ブログを書くのは、てらっこ塾を知ってもらうためであり、知ってもらったあと、どれだけの人に実際に利用していただけるかが一番の目的です。 どんなに良いことをやっていたとしても、商売として成り立たなければいずれ消えてしまい、それによって利用できない未来の人が生まれてきてしまいますしね。 おかげさまでブログを通して知っていただき、発達相談を依頼してくださった方が多数あります。 その一方で、私の中でモヤモヤした気持ちが大きくなってきました。 それは「伝えたいことが伝わっていない」モヤモヤ感です。 コロナ前から幼児さんが多かったのですが、コロナに突入してからというもの、さらに低年齢化が進み0歳、1歳、2歳くらいの子どもさんの相談が増え続けています。 当然、親御さんの年齢も若くなるわけで、ブログを始めた10年前はまだ20代、なかには「学生でした」などという場合も出てきたのです。 そのような親御さん達はもちろん、10年前からブログを読むわけはないですし、2000年代に起きた高機能ブーム、2010年代の児童デイの乱立、ここ最近の発達障害一大ビジネスも知らないわけです。 最初から身体アプローチはあったし、栄養療法は当たり前だし、「治る」という言葉も自然と受け止めている。 これはいい悪いじゃなくて、20年間ですがこのハッタツの世界にいた者として、きちんとそういった歴史、背景を伝えていく役割があるのだと思ったんです。 その前提がなければ、簡単に発達障害というウソに騙されてしまうし、流さなくてよい涙を流すことにもなる。 挙句の果てには、支援の世界に突き進み、中には就学前の子どもが精神科薬を常用しているなんて状況が起きています。 2000年代は「自閉症の理解を!」「発達障害に支援を」でしたが、理解を広げ、発達障害のハードルを下げ、結局儲...