【No.1382】祖父母世代、親世代の積み残し

いつも「治った」「治った」と言っている人は、心の底で「本当は治らないんじゃないか、治ってないのでは」と不安に思っている人です。
壮絶だった時期が尾を引いているかもしれませんし、愛着形成という土台が不安定なため、「治った」という固定された状態に逆の不安感を持っているのかもしれません。
とにかく「治った」を繰り返すことによって自身の頭を洗脳しているのです。


一方で「治らない」「治らない」と繰り返す人もいます。
そのような言動を目にすると、「相当、状態、症状が重いのだろう」と思いがちですが、実際は違っていることが多いのです。
注意深く観察してみましょう。
「治らない」という親御さんに限って、その子は軽度の場合が多いですね。
また「本当に特別支援の世界で生きるほうが良いのだろうか、必要なのだろうか」と首をかしげてしまうケースばかり。


じゃあ、なぜ、「治らない」と繰り返すのか。
それは一言でいえば、「治ってほしくない」のです。
治ってほしくないからこそ、「治らない」「治らない」と呪文を唱えている。
自分の行動、選択次第で治っていくのなら、いま、治らない状態は「行動できていないから」であり、「選択が間違っているから」である。
そこを明白にしないためには、治ってほしくないのです。
「治らない」という言葉によって、自身の至らなさ、現状から行動を変えていけない自分を隠している。


ここまで読んでくださった人の中には、「自分を守るために、子どもの発達や成長を犠牲にするか」と疑問に思うことでしょう。
子を犠牲にしてまでをも、自分を守っている。
いや、守る必要がある人たちなのです。
だって、「守られてる感」を実感できていない人たちだから。
つまり、愛着形成に不全感がある人が「治ってほしくない」人たち。
子が治ると、治らない自分から離れていくようで、さらなる孤立を感じるため、敢えて「治る」と逆の行動、養育をしてしまう人もいるくらいです。


発達に課題がある我が子を見て「治ってほしい」と思うのは自然な親心の発露です。
つまり、その自然な感情が出てこれない、または蓋をしてしまう状態こそ、問題なのです。
多くの発達障害の問題は、子ども側の問題ではなく、親側の問題。
たとえ発達が遅れていたとしても、幸せそうに生活している我が子を、家で生活している分には何の問題も感じられない我が子を、病院に連れていくのは親御さんですね。
そこにも表面的には「診断付けられたくない」と言いつつ、深層心理では付けてもらうことを前提に受診している姿がある。
本当に診断されたくないのなら、病院には行かないものです。
病院には行かず、治る道を模索するものです。


「専門家を受診すれば、療育や支援に繋がれば、我が子が改善する、治ると思ったんです」
そのように仰る親御さんもいます。
しかし、その時点で「自分ではない誰かがどうにかしてくれる」という心が表れています。
それは依存であり、依存は他者への寄りかかりです。
寄りかかりは自分の足では立たないという宣言であって、自分は与り知らずという意思表明。
これまた乳幼児期の愛着形成のヌケであります。


「発達障害が治るか、治らないか」という論争以前として、レッテルが必要ない多くの子ども達が「発達障害」とつけられている状況です。
いや、つけに行こうとする親御さんが多くいる状況なのです。
もしかしたら依存先を確保するために受診しているのかもしれません。
だから私はこの頃、こう考えるのです。
「発達に課題を持つ子の親御さんの中に愛着形成の課題を持つ人が多い」のではなく、「愛着形成の課題を持っているから、発達の課題、子ども側の問題にしようとしている」と。
親世代、そして祖父母世代の愛着形成の課題が主であり、その周辺に子どもの発達障害という問題が作られるのでしょう。
つまり、発達相談の主は子ではなく、親であり、親ではなく、祖父母である。
私たち日本人は戦後復興を突き進む中で、なにか大事なものを落としてきたのかもしれませんね。




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