【No.1411】発達や子育てを援助する者
「内々で処理できないまでになったんだな」というのが最初に思ったこと。
これまでにも利用者さん、家族が不適切な支援について訴えたり、職員が労働環境やハラスメントについて訴えたりしたよ。
でもその都度、パッと盛り上がったかと思えば、花火のように一瞬で消えていった。
幅を利かせることのできる理職がまだ沢山いたからね。
そういった人たちが去り、抑え込めなくなったのかもしれないなんて想像する。
こういった問題が”明るみに出る”と、批判の先はその施設、職員に注がれます。
でも、本当にそうなの?
もちろん、そういった行いをした人が責められるのは当然のこと。
法人、組織として事業を行っている以上、その長が責めを負うのも当然。
だけど、その役割、仕事を押し付けてきた人たちがいるのではないでしょうかね。
監督する立場の行政だって、何も知らないなんてことはないはずです。
第三者委員の人だって何度も施設にやってきてましたね。
若い時は「なんで見抜けないんだよ」と思っていた私も、年数が経つごとに理解することができた。
見抜けないんじゃなくて、見て見ぬふりをしているんだ、ってね。
ある意味、問題を指摘し、施設に改善命令や業務停止を出すことは簡単にできる。
しかしそれ以上に、その施設を潰したあと、利用している人たちの処遇をどうするのか、ほかに行き場所があるのか、そっちを考えるほうが何百倍も大変。
全道から、本州から、全国各地からやってくる利用者。
そして何年も、何十年も、人里離れた場所で暮らしている。
当然、実際に行われているのは自立支援じゃなくて介護、薬漬けの生活。
本人も自立できるとは思っていないし、支援者側も思っていない。
また家族の中には、なまじい施設を出て生活ができるくらいに育っては困ると考えている人たちだっている。
家に連れて帰りたいけれども、近所の人たちから苦情が来るからと涙を流す家族もいる。
全国どこの障害者施設だって問題はあるでしょう。
そもそもが問題が生じやすい環境になっているから。
街の中心というよりも、郊外に。
外部の目が届きにくい構造。
本人が訴えても「障害があるから」と信憑性が疑われるし、そもそも訴える手段を持ち合わせていない人が大勢いる。
支援する側と支援される側という揺るがない上下関係。
またその支援する側が賃金や労働環境の面で搾取される立場。
「働く者の人権が守られていないのに、利用者さんの人権が守れるはずがない」
弱い立場の者がより弱い立場の者へと向かう負のエネルギー。
3Kの職場で職員が定着しないし、常に人材不足で、人材が育たないことに悩み続ける経営側。
そもそもが善意と寄り添うことで成り立っている日本の障害者支援の世界。
自立というモデルを持たないまま歩んできた集団にあるものは、一部の組織、人による「抱え込み」いや、丸抱えです。
引き継ぎが日本語でできるとは限らないというのは9年前のブログ。
今は技能実習生と言われる海外から来た人たちが障害者支援の一翼を担っていますね。
「福祉や教育、支援サービスを拡充、充実させることが当事者のため」と言っていた親の会の皆様はお元気でしょうか。
「支援の質を上げることこそが、当事者たちの自立につながる」と言っていた教育関係者の人たち、息をしていますでしょうか。
私が施設を辞めるとき、「外から変えることなんてできない。内から変えていくしかない」と言っていた人たち、今の施設はどのように見えているのでしょうか。
「親なんてちゃんと支援できないし、問題行動や二次障害を起こさせるだけ」と言っていた専門家の皆様、どこにいかれたのでしょうか、ここ何年もお見掛けしておりませんが。
私が目指してきた「家族こそ、最大の支援者。福祉や医療、支援じゃなくて子育て」という道は外れた道だったのでしょうか、奇を衒う言動だったのでしょうか。
この日本という国は、責任を明確にしないし、反省はしない。
「あのときは仕方がなかった」と水に流す文化。
マスクを外せなくなった子ども達、若者たち。
青春を奪われ、学びや体験を奪われ、中には注射によって健康や命を奪われた人たちもいる。
私たちはそういった人たちの存在に気が付いているのに見て見ぬふりをし、変わりない今日一日を過ごしている。
「接種後に亡くなった人、私や家族じゃないから知らない」
「マスクを外せない子ども達。うちの子じゃないから知らない」
障害者施設で問題が起きようとも、「うちの子、障害児じゃないから知らない」「私達には関係のない話だから知らない」
専門家は間違うし、謝らない。
有名支援者も、専門家も、特別支援の先生も、成人したあとの人生に責任を持ってくれるわけじゃない。
「42万人死ぬ」と言い、多くの人の仕事や健康、人生や家族の時間、生きがい、愉しみを奪った人は専門家として生きている。
「早期診断、早期療育」と言い、多くの人の仕事や健康、人生や家族の時間、生きがい、楽しみを奪った人は専門家として生きている。
ある若者から相談があった。
「今はグループホームで暮らしているけれども、専門学校を受験して進学したい」と。
だけど、支援者や医師から「二次障害になるぞ」と脅されている、どうしようという相談。
私は「迷うことはない、あなたの人生だから」と声をかけた。
そして「二次障害は脅し文句であり、なまはげみたいなもんだ」と説明した。
「たとえ受験に失敗しても、受験をしたという経験はあなたのもの。そして合格でき、そのあとの学校生活で体験することはあなたの財産になる」
その若者は見事合格し、来年の春には数年遅れの学生になる。
発達に凸凹があることは学びを諦める理由にはならない。
親は発達障害児を育てているのではなく、我が子の子育てをしているのだ。
私は支援者じゃなくて、発達や子育てを援助する者、援助者です。
☆『ポストコロナの発達援助論』のご紹介☆
巻頭漫画
まえがき
第1章 コロナ禍は子ども達の発達に、どういうヌケをもたらしたか?
〇五感を活用しなくなった日本人
〇専門家への丸投げの危険性
〇コロナ禍による子ども達の身体の変化
〇子どもの時間、大人の時間
〇マスク生活の影響
〇手の発達の重要性と感覚刺激とのソーシャルディスタンス
〇戸外での遊びの大切さ
〇手の発達と学ぶ力の発達
〇自粛生活と目・脳の疲労
〇表情が作れないから読みとれない
〇嗅覚の制限 危険が察知できない
〇口の課題
〇やっぱり愛着の問題
〇子ども達が大人になった世界を想像する
〇子どもが生まれてこられない時代
〇子育てという伝統
第二章 コロナ禍後の育て直し
〇発達刺激が奪われたコロナ禍
〇胎児への影響
〇食べ物に注意し内臓を整えていく
〇内臓を育てることもできる
〇三・一一の子どもたちから見る胎児期の愛着障害
〇胎児期の愛着障害を治す
第三章 ヒトとしての育て直し
〇噛む力はうつ伏せで育てよう
〇感覚系は目を閉じて育てよう
〇身体が遊び道具という時期を
〇もう一度、食事について考えてみませんか?
〇食べると食事の違い
〇自己の確立には
〇右脳と左脳の繋がりが自己を統合していく
〇動物としての学習方法
〇神経ネットワーク
〇発達刺激という視点
第四章 マスクを自ら外せる主体性を持とう
〇なぜマスクを自ら外せることが大事なのか
〇快を知る
〇恐怖を、快という感情で小さくしていく
第五章 子どもの「快」を育てる
〇「快」がわかりにくいと、生きづらい
〇快と不快の関係性
〇子どもの快を見抜くポイント
〇自然な表情
第六章 子ども達の「首」に注目しよう
〇自分という軸、つまり背骨(中枢神経)を育てる
〇首が育っていない子に共通する課題
〇なぜ、首が育たない?
〇首が育たない環境要因
〇首が育つとは
〇背骨の過敏さを緩めていく
〇首を育てるには
第七章 親御さんは腹を決め、五感を大切にしましょう
〇子育て中の親御さん達へのメッセージ
〇部屋を片付ける
〇子どもと遊ぶのが苦手だと思う親御さんへ
〇ネットを見ても発達は起きません
〇発達刺激という考え方
〇五感で子どもを見る
〇特に幼児期は一つに絞って後押ししていく
第八章 自由に生きるための発達
〇発達の主体を妨げない存在でありたい
〇大人が育てたいところと子どもが育てたいところは、ほとんど一致しない
あとがき
こういう本を読んできました
巻末漫画
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