普通になるのは、怖いことではない
いつからか、「個性的」という言葉が、褒め言葉になりました。 「あなたは個性的ね」と言われると、「そうかな」と照れる感じ。 なんだか世の中的にも、個性的が一つの評価となり、それを求めているよう空気があります。 ですから、「自分は個性と言えるものがない」なんていう若者の悩みすら生まれてくるのでしょう。 「個性的」という言葉を聞くと、私は中学生になった途端、茶髪だ、ピアスだ、をしてくる同級生たちの姿を思いだします。 ついこないだまでは、放課後、一緒に鬼ごっことか、サッカーとかしてたのに。 小学校とは違い、いろんな学校から集まってくる生徒たち。 その中で、自分が埋もれてしまわないように、自分の存在が消えてなくならないように、インスタントな方法で、自分を表出しようとする。 あれは、個性ではなく、ただの悪目立ち。 今思えば、家庭に恵まれていない子が多かったような気がします。 こういった行動に向かわせるのも、一種の愛着障害なのでしょう。 話をすると、日頃の態度とは違い、人懐っこい面がありました。 彼らからは、いつも「私を見て」という雰囲気が漂っていた。 今の社会には、「私を見て」という人達が多いのだと思います。 端的に言えば、寂しい人達が増え、親からの、他人からの愛情に飢えているのでしょう。 個性なんてどの人も持っていて、にじみ出るようなものなのに、みんなで必死に自分の個性を探しに彷徨っている感じです。 「発達障害は、その子の個性だ」「不登校も、その子の個性だ」というような人もいます。 でも、発達障害は神経発達に遅れがある状態であり、不登校は学校に行けていない状態なだけ。 個性でも、なんでもない。 でも、それをポジティブな言葉として、当事者、家族に投げかける支援者達がいる。 多分、支援者達は、「私は、あなたのことを見ているよ」「側にいるよ」という意味で使っているんだと思います。 自身がしてもらいたいことが土台にあり、当事者の持つ根本的な悩みを解決するアイディアを持たない者は、ある意味、そういった言葉しか出てこないから。 このように、ふと考えると、発達障害を治すことに、異様な拒絶や恐怖を感じる人達というのは、結局のところ、見捨てられ不安が根っことしてあるのだと思います。 「発達障害が治ったら、私じゃなくなる」というよ...