若い頃の子育て、年を重ねてからの子育て
子どもは、いつまでも子どもではありません。
子どもも、年を取ります。
同じように、親も年を取る。
そして、親の親も年を取る。
月日が流れると、そのとき、想像していなかったことが起きるものです。
子どもの年齢が幼い頃は、親も体力があり、意欲も満ち溢れているものです。
ですから、子育ても、発達の後押しも、じっくり時間をかけて取り組むことができます。
しかし、子どもの年齢が上がり、そして自分は年をとっていくと、なかなか腰を据えて、時間をかけてじっくりと、ができなくなります。
自分の健康上の話も出てくるし、親の介護等、そっちの話も出てきます。
そうすると、子どもが幼いときのように、子ども中心でいられなくなる。
大学から私は函館にいますので、長い人では20年近くの付き合いがあるご家族がいます。
学生時代はもちろんのこと、施設で働いていたとき、学校で働いていたとき、そして今の事業を起ち上げてからも、治るとは思っていませんでしたし、治るアイディアも持っていませんでした。
しかし、今は違います。
多くの治った人、治したご家族とご縁がありましたし、治す知見を持った実践家の人達からも教えをいただくことができています。
なので、当時の私とは異なり、「治る」と自信を持って言うことができます。
ある意味、未発達の集合体が「神経発達障害」という状態だといえます。
その一つ一つの未発達を育てていけば、全体的な発達が進み、障害というラインを飛び越えることができる。
また、それができなくとも、一つの発達課題がクリアされると、それだけで生きやすくもなるし、脳みそにも余裕が生まれる。
当然、適応力だって上がっていきますので、障害という範囲の中にいるかもしれないが、社会に適応し、自立的に生きていけるようにもなれる可能性がある。
だから、いくつになっても、たとえ一つの未発達だとしても、それを育て直し、クリアしていくことがとても意味のあることだと思います。
ただ、それが伝わらない、長年、治らない前提で子育てをされてきた親御さん達に。
学生時代からの仲であるご家族も。
興味があるけれども、途中までやるけれども、若い世代の親御さんのように続かないし、やろうろともしない。
この親御さん達の10年前、20年前も知っているけれども、決して柔軟性のない人、意欲のない人、コツコツできない人、支援者の顔色を伺う人でもなかったのです。
ただ“遅かった”。
それは、子どもさん(もう皆さん、成人されていますが)の発達という意味ではなく、親御さんにとっての。
もし、10年前、20年前に、今の治るアイディア、未発達を育てる知見があり、それがわかれば、どの親御さんも、今の親御さんのように、熱心に取り組み、同じように治していったと思います。
どの子も、「重い」と言われていたけれども、それは未発達の部分を育てず、そのままにしていただけで、決して特別に重い人達だとは感じません。
ですから、どの子も、治る可能性は持っていた。
小さい頃を知っていただけに、今のように児童デイもなく、一生懸命育てられていた親御さん達の姿を知っていただけに、私自身、とても寂しい気持ちになります。
今、仕事で関わっているご家族の中心は、就学前の子ども達。
子どもさんは、神経発達が最も盛んな時期を過ごしていますし、親御さんも体力、気力ともに満ち溢れています。
おじいちゃん、おばあちゃんの世代も、まだ若いですので、介護等の心配もない。
十二分に、子ども中心に生活が回せる、子どもの発達に力を注げる。
発達とは、お金で解決できないし、基本的に子育てなので、外注できるような次元でもない。
だから、子ども自身が発達課題をやり切れるよう、とことん腰を据えて付き合える身体を親御さん自身がもっていなければなりません。
親御さん自身が我慢できるだけの筋力がないといけませんし、動けるだけの身体が整ってなければなりません。
試行錯誤する脳みそだって必要。
そう考えると、子どもの年齢が幼い頃から、発達のヌケや遅れを育て直すことは、親御さんにとっても意義のあることだといえます。
一生懸命我が子のことを愛し、動いてきた親御さんも、時が経てば、「今、親の調子が悪くて、あまりうちの子に構ってられないわ」「今さら、もう聴覚過敏は治らないと思う」「もう自分のことでやっとだから」「施設で問題なく過ごしているみたいだから、もうそれでいいのよ」という言葉が出てしまう。
どんな人だって、年はとるし、年代年代によって、若いときに想像しなかった悩みが出てくる。
そういった意味でも、子ども時代の治す中心は親御さんであり、成人後は自分自身なのかもしれません。
いつの間にか、私と同世代の親御さん、そして私よりも若い親御さんと仕事で関わることが増えています。
子育ては、とにかく親も体力、気力が必要。
うちの子も、ひたすら同じ遊びをエンドレスで行う時期です。
滑り台、1時間連続で一緒に滑って、私のズボンが破れてしまったくらいです。
発達とは、やりきること。
ですから、遊びに行くときは、我が子が根を上げるまで勝負、という気合を入れて、私も遊んでいます(笑)
そんな夏休みも今日でおしまい。
我が家の発達援助は、海、山、キャンプ、公園。
ちょうど私の背中の皮が剥け始めた頃です。
子どもも、年を取ります。
同じように、親も年を取る。
そして、親の親も年を取る。
月日が流れると、そのとき、想像していなかったことが起きるものです。
子どもの年齢が幼い頃は、親も体力があり、意欲も満ち溢れているものです。
ですから、子育ても、発達の後押しも、じっくり時間をかけて取り組むことができます。
しかし、子どもの年齢が上がり、そして自分は年をとっていくと、なかなか腰を据えて、時間をかけてじっくりと、ができなくなります。
自分の健康上の話も出てくるし、親の介護等、そっちの話も出てきます。
そうすると、子どもが幼いときのように、子ども中心でいられなくなる。
大学から私は函館にいますので、長い人では20年近くの付き合いがあるご家族がいます。
学生時代はもちろんのこと、施設で働いていたとき、学校で働いていたとき、そして今の事業を起ち上げてからも、治るとは思っていませんでしたし、治るアイディアも持っていませんでした。
しかし、今は違います。
多くの治った人、治したご家族とご縁がありましたし、治す知見を持った実践家の人達からも教えをいただくことができています。
なので、当時の私とは異なり、「治る」と自信を持って言うことができます。
ある意味、未発達の集合体が「神経発達障害」という状態だといえます。
その一つ一つの未発達を育てていけば、全体的な発達が進み、障害というラインを飛び越えることができる。
また、それができなくとも、一つの発達課題がクリアされると、それだけで生きやすくもなるし、脳みそにも余裕が生まれる。
当然、適応力だって上がっていきますので、障害という範囲の中にいるかもしれないが、社会に適応し、自立的に生きていけるようにもなれる可能性がある。
だから、いくつになっても、たとえ一つの未発達だとしても、それを育て直し、クリアしていくことがとても意味のあることだと思います。
ただ、それが伝わらない、長年、治らない前提で子育てをされてきた親御さん達に。
学生時代からの仲であるご家族も。
興味があるけれども、途中までやるけれども、若い世代の親御さんのように続かないし、やろうろともしない。
この親御さん達の10年前、20年前も知っているけれども、決して柔軟性のない人、意欲のない人、コツコツできない人、支援者の顔色を伺う人でもなかったのです。
ただ“遅かった”。
それは、子どもさん(もう皆さん、成人されていますが)の発達という意味ではなく、親御さんにとっての。
もし、10年前、20年前に、今の治るアイディア、未発達を育てる知見があり、それがわかれば、どの親御さんも、今の親御さんのように、熱心に取り組み、同じように治していったと思います。
どの子も、「重い」と言われていたけれども、それは未発達の部分を育てず、そのままにしていただけで、決して特別に重い人達だとは感じません。
ですから、どの子も、治る可能性は持っていた。
小さい頃を知っていただけに、今のように児童デイもなく、一生懸命育てられていた親御さん達の姿を知っていただけに、私自身、とても寂しい気持ちになります。
今、仕事で関わっているご家族の中心は、就学前の子ども達。
子どもさんは、神経発達が最も盛んな時期を過ごしていますし、親御さんも体力、気力ともに満ち溢れています。
おじいちゃん、おばあちゃんの世代も、まだ若いですので、介護等の心配もない。
十二分に、子ども中心に生活が回せる、子どもの発達に力を注げる。
発達とは、お金で解決できないし、基本的に子育てなので、外注できるような次元でもない。
だから、子ども自身が発達課題をやり切れるよう、とことん腰を据えて付き合える身体を親御さん自身がもっていなければなりません。
親御さん自身が我慢できるだけの筋力がないといけませんし、動けるだけの身体が整ってなければなりません。
試行錯誤する脳みそだって必要。
そう考えると、子どもの年齢が幼い頃から、発達のヌケや遅れを育て直すことは、親御さんにとっても意義のあることだといえます。
一生懸命我が子のことを愛し、動いてきた親御さんも、時が経てば、「今、親の調子が悪くて、あまりうちの子に構ってられないわ」「今さら、もう聴覚過敏は治らないと思う」「もう自分のことでやっとだから」「施設で問題なく過ごしているみたいだから、もうそれでいいのよ」という言葉が出てしまう。
どんな人だって、年はとるし、年代年代によって、若いときに想像しなかった悩みが出てくる。
そういった意味でも、子ども時代の治す中心は親御さんであり、成人後は自分自身なのかもしれません。
いつの間にか、私と同世代の親御さん、そして私よりも若い親御さんと仕事で関わることが増えています。
子育ては、とにかく親も体力、気力が必要。
うちの子も、ひたすら同じ遊びをエンドレスで行う時期です。
滑り台、1時間連続で一緒に滑って、私のズボンが破れてしまったくらいです。
発達とは、やりきること。
ですから、遊びに行くときは、我が子が根を上げるまで勝負、という気合を入れて、私も遊んでいます(笑)
そんな夏休みも今日でおしまい。
我が家の発達援助は、海、山、キャンプ、公園。
ちょうど私の背中の皮が剥け始めた頃です。
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