問題行動というズレ

「問題行動」という言葉は、支援者によって造られ、支援者のために存在する、といえます。
それに対応するだけのアイディアを持ち併せていないとき。
その言動の内側に流れる意味を捉えるだけの感性を持っていないとき。
支援者は、「問題行動」という言葉を借りて、自らの逃げ道を作るのです。


「問題行動」と称されるものには、3つの流れがあります。
誤学習と、自己防衛と、純粋な発達。


「誤学習」は、その名の通り、時間をかけて培ってきたズレた学習です。
本人的には、ズレた意識はないのですが、結果的に周囲や環境と折り合いがつかなくなった学習パターン。
ですから、気づいていないズレを教えることが必要。
そのためには、まず培ってきた学習パターンを一度、壊す必要があります。


支援にあたる者は、身体的な体力と言語的な体力が求められます。
それに、まずおのれの愛着の土台に脆さを持つ者は、対応不可能。
徹底的な否定ができなければ、中途半端な否定と肯定に揺れ動くのなら、一度形成された学習パターンを壊すことができないから。


自立できていない人達の中には、多かれ少なかれ、誤学習が存在している。
なので、支援者は誤学習と向き合う場面が多い。
そして、愛着障害と親和性の高い支援者という存在が、中途半端な否定と肯定を繰り返す。
特別支援の世界に誤学習が溢れているのは、元来、誤学習と対処することを一番苦手としている者たちが、その任務を担っているからでしょう。
驚くのは、誤学習すら、障害特性と捉えるような支援者の存在。


「自己防衛」は、ある意味、本人の資質の開花でもあります。
ヒトは追い詰められ、生きるか死ぬかのギリギリのラインに立たされたとき、意識を飛び超えた次元の反応が表れます。
どうして思いついたか分からない。
でも、それをすることで、なんとか今、私は生きている、生き続けることができている。
周囲からは理解されないけれども、自分にも害を被るけれども、自らを助けるがために発動された行動には躍動感をも感じます。


自己防衛は、そうせざるを得ない状況、状態があります。
刺激に圧倒される状況、心身の状態。
孤独な状況や心理的、身体的に他者から侵略されそうな状況。
ですから、まずはその状況、状態から解放できるかが支援の一歩になります。


そして、自己防衛自体は、本人からしたら正しいことをしているので、否定ではなく、その方向性を少しズラす。
本人の心地良さを害さず、また侵略という雰囲気を感じない範囲で、「ちょっとだけズラしてみては」と提案する感じ。
筋肉を使った自己防衛なら、同じ筋肉を使う、より周囲や自分の命と調和しやすいような行動へと誘ってみる。
心理的なバリアなら物理的なバリアへ。
家にこもるのなら内へこもるへ。


誤学習は開き直りで、自己防衛は悲しみの雰囲気を感じます。
しかし、純粋な発達には伸びやかな雰囲気を感じます。
特に、子どもさんを育てている親御さんから、支援者、学校の先生から相談を受けますが、「困った行動」と聞き、確認してみると、ただ自ら必要な発達段階を歩んでいるだけ、ということが少なくありません。
ズレで言えば、時間軸のズレ。


小学生の子が、お母さんに身体接触を求めてくる。
身体も大きくなっているし、同世代の子は、そんなことをしない。
どうしたもんか、と親御さんは悩む。
もしかしたら、中学生になっても、成人しても、他者に向かったら。
でも、本人からしたら、口周辺の感覚を育てたいだけだったりもする。


学校の校庭で、いつも泥をいじって困っている、という。
泥を口の中に入れようとすることもある。
よく聞けば、幼少期、泥遊びはしなかった、触りもしなかったとのこと。
大きくなった子が泥遊びをするのは不適切に思えるかもしれませんが、発達のヌケを育て直しているだけ。


誰にでも声を掛けてしまうのは、やっと言葉が出るようになって、その楽しみを感じているからかもしれません。
友達に触ろうとするのは、幼少期に霧の中にいたからかもしれません。
友達に触れようとするのは、1歳、2歳の子ども達の遊びかた、関わり方。
その当時できなかったから、発達の遅れがあって準備ができていなかったから、今になってやっとやれるようになったのです。


作業所のスタッフから、仕事中に急にクルクル回って困っている、という相談が。
学校からの引き継ぎでも、「止めてください」「やるべき活動へ促してください」と言われてきたとのこと。
でも、それでは一向に収まらない。
それはそうです、耳の内側を育てているのだから。
中途半端に止めるから、やりきらせてあげないから、18以降も残っているのです。
回転する椅子を用意してもらい、家でグルグル回っていたら、1ヶ月くらいで行動が見られなくなりました。


定型発達という軸を持たない支援者が、未発達を問題行動と見間違える。
同世代の子はやらない行動が、すべて問題行動なわけはありません。
その背景を読み解いていくと、ただ未発達を育てているだけ、ということが少なくないのです。
1、2歳の子がやる行動、発達課題を、小学生、中学生、大人がやるから違和感を感じるだけ。
でも、本人からしたら、発達のヌケを育て直している。


「当時はできなかったから、今やっているの」
そういう声が聞こえるようになれば、「問題行動」などという陳腐な造語が消えてなくなると思います。
本当の問題行動とは、本人の視点と支援者の視点のズレなのかもしれませんね。

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