発達のヌケを育てるベクトルと、経験・体験を積み重ねていくベクトル

療育機関へ一生懸命通わせるご家族がいる一方で、地域の習い事に通わせるご家族がいます。
言葉は出ていないけれども、まだまだ発達の遅れはあるけれども、「同世代の子ども達が体験するようなことをうちの子にもやらせたい」。
そのような想い、考えを持って、一般の習い事、活動に参加させています。


最初の頃は、一斉指示が分からないし、他の子とは違う動きをしてしまう。
でも、子どもというのは、大人が思っている以上にたくましいものです。
分からないながらも、必死についていこうとしたり、限られた情報から見よう見まねでやろうとしたりします。


半年、一年と、まったく活動ができなかった子が、ある日突然、みんなと同じように動けるようになることも。
一見すると、変化がない期間は「ムダ」に思えてきます。
しかし、目に見える変化がない期間も、子どもの内側では変化が起きています。
見ていないようで見ている。
聞いていないようで聞いている。
わからないようで分かっている。


発達のヌケ、遅れが育ってくると、理解できることが増え、掴める情報が増え、自由に動かせる身体が整ってきます。
そうすると、それまでの体験と結びつき、目に見える変化として成長を感じられるようになります。
これがいわゆる「ドカン」というやつです。
子どもの成長は、大人のような緩やかな直線を描きません。
主に新規の神経同士の繋がりになりますので、じわじわとあらゆる神経を伸ばしつつ、繋がった瞬間、一気に「ドカン」です。


ですから、大人の我慢力、忍耐力、ブレない姿勢が問われます。
「これこそが大事」と一度決めたのなら、子どもがやりきるまで、目に見える成長が現れるまで、腹を据えて、腰を据えて、待ち続ける必要があるのです。
一度、習い事を始めたら、ある程度の期間は、子どもの変化を信じて続けてみる。
この部分を育てようと思ったら、その部分が育ちきるまで、とことん付き合い続ける。
ほとんどが未経験で、新しい刺激になるのが子どもです。
だからこそ、子どもの体験にムダはないのです。


「地域の一般的な習い事に通わせたいけれども、まだ発達の遅れがあって…」というような相談を受けます。
それに対する私の基本的な考え方は、こうです。
他害等がなく、その場、その環境、その活動に自ら向かおうとするのなら、早いうちからやった方が良い、特に将来、社会の中で自立してもらいたいのなら。


同世代の子ども達が経験すること、体験することの「差」は、意外と後々の自立、成長、選択に影響を及ぼします。
「発達のヌケが埋まった。さあ、そこから同世代の子と同じように」というのでは、経験の差が大きく開き過ぎていることもあります。
典型的なのは、ずっと支援級、支援学校、放課後は児童デイで、社会に出る若者たち。
18まで、障害を持った仲間と、特別支援の先生、支援者の中で過ごす。
そうすると、同世代の人達が18年間で経験、体験してきたこと、その積み重ねとのギャップが生じ、新たな課題として立ちはだかるのです。


発達の課題と、経験不足は、分けて考える必要があると思います。
時々、ごっちゃにしている人がいます。
発達のヌケ、遅れを育てていくことと、同世代の子ども達が体験を通して学んでいくことは、別。


発達障害が治ったら、その瞬間から同世代の子と同じような学び、関わり、活動ができるというわけではありません。
よくあるのが、発達のヌケや遅れは育ったんだけれども、同世代の子と比べて“幼い”んです、ということ。
幼いから、なかなか同級生と遊べない。
それで、また経験、体験の差が生じてしまうケースも。


支援級の子が10分勉強している間に、同世代の子は、45分×5~6時間勉強している。
じゃあ、その差は、どう埋めていくか、ということ。
これは勉強面のたとえでしたが、社会性の面、人間関係の面、遊びの面、運動の面は?となる。
そういったことを考えると、地域の一般的な習い事、活動に参加することは、とても意義のあることだと思います。
発達のヌケを育てつつ、同世代の子ども達と同じような体験を積み重ねていけるから。
また、この二つは分けて考える必要がある一方で、体験が発達のヌケを育てる刺激になることもあります。


「一般の習い事の先生は、障害の理解が…」という方もいます。
でも、そこが反対に良いこともあります。
ヘンに接待したり、支援したりしないから。
純粋に、その時間、そこで技術、勉強を教えよう、その活動の楽しさを感じてもらおう、としている人がほとんど。
そういった自然なかかわりが、子どもにとっても良い経験、体験になる。
つまり、同世代の子ども達と同じように、経験、体験できる、ということです。
それに理解のある人たちに囲まれた療育を早期から受けても、社会性、身につかないでしょ。


よくお話しするのは、「今の子ども達が作る社会は、私達の時代以上に多様性のある社会になる」ということ。
いろんな文化、バックボーンを持った人と共に生きていく社会です。
ですから、障害を持った子が、幼いときから同じように地域の習い事、活動に参加するのは当たり前のこと。
何も特別なことではないのです。
地域も、社会も、多種多様な世界へと変わっていくのですから。
障害があるから、発達の遅れがあるから、同世代の子ども達が体験できるようなことが体験できない、というのはバカげています。
子どもが成長できる機会、選択肢を大人が狭めてはいけないのです。

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