言葉、雰囲気
この仕事をしていて思うのが、雰囲気を感じることの大切さです。
なぜなら、言語化できないものと向き合うのが、仕事だから。
まだ十分に説明できるだけの言葉を持っていない子もいます。
言葉を持っていたとしても、しっかり捉えられるだけの感覚を持っていない人もいます。
そして何よりも、援助の中心である発達とは、言葉でいい表すことができないものです。
たとえば「問題行動」というのは、言葉です。
言葉だから、それは道具。
道具になると、使い方の幅は狭まり、みんなが似たような使い方をするようになります。
だから、特別支援が学問になり、専門になっていくと、個人が薄まり、道具に使用される人という具合な主従逆転現象が起きるのです。
今の特別支援を見ていると、どんどん新しい言葉が生まれ、その新しい言葉をどう使いこなそうか、四苦八苦している支援者たちの姿を感じます。
懸命に言葉を使いこなそうとすればするほど、いつの間にか、言葉に行動が規定されていく。
だから、養護学校と呼ばれていた時代の方が、まだ個人があり、自由があり、治るがあった。
言葉によって支援が展開されていくと、パターン化、マニュアル化が起きます。
なので、少しでも困った行動が見られれば、「止めなきゃ」「無視しなきゃ」「別のところへ意識を向けなきゃ」となってしまいます。
その行動の背景には、個人があるはずなのに。
個人よりも、言葉が優先されてしまう。
誤学習、自己防衛、純粋な発達では、それぞれの姿から漂っている雰囲気が全然違うのに。
本人からの相談で多いのは、「なんだか困っている」「なんだか生きづらい」というものです。
その“なんだか”は言葉にできない何かです。
つまり、雰囲気。
その雰囲気を感じられるか、共有できるかが、その人の支援者になれるかどうかの判定になります。
親御さんからの相談でも、「周りは大丈夫って言うけれども」「その行動は無視してください、と言われるけれども」「障害だから受け入れましょう、と言われるけれども」、やっぱりこのままじゃいけないと思うから、相談します、という場合が少なくありません。
なんだか胸騒ぎがするから相談する。
なんだか、こうやったら良いかな、と思うからそうやってみる。
それが結果的に功をなすことが多いのです。
親御さんは、子どもの生きている流れを常に感じながら、共に生活しています。
だから、子の雰囲気を誰よりも早く気が付き、共有することができる。
普通の子育てをしている親御さんが、特別支援という言葉と距離を置いている親御さんが、子どもの発達を上手に促し、後押しし、治しているのは当然だといえます。
雰囲気という言葉にならないものを大切にするということは、その子、個人を中心にすることだから。
その子の生きてきた流れ、内なる力、発達、資質…。
これらは、言葉に表せないものです。
ですから当然、パターン化、マニュアル化できないもの。
つまり、支援しようなどと身構えた時点で、支援の対象から除外されてしまうのです。
発達という、個人という、言葉に表せないものをどう支援していけばよいか。
そのためには、雰囲気を感じるしかないのです。
なんだか良さそうだな、良い方向へ進んでいるな。
そういう雰囲気を頼りに、後押しするか、引き返すか、方向を変えるか、選択していく。
だから、子どもを治せるのは、常に雰囲気を共有している家族であり、親御さん。
治せる支援者、発達を掴み、後押しできる支援者というのは、言葉に頼っていない人であったり、言葉をちゃんと道具として使いこなせていたりする人のような気がします。
多分、子どもが部屋に入ってくる瞬間、課題を見抜き、「じゃあ、セッションを始めましょうか」と言う頃には、すでに援助の方向性が定まっているはずです。
別の言い方をすれば、「目が合うかな」「受け答えはどうかな」「言葉はあるかな」と考えないといけないようでは、個人に合わせた支援、より良い発達への援助はできないといえます。
言葉や説明は、後付け。
大事なのは、本人がラクになるか、心地良いか、より良い発達が生じるか。
エビデンスのある方法の効果が、限定的で表面的なのは、エビデンス自体が言葉だから。
言葉によってエビデンスを証明するということ自体が、個人を切り捨て、発達や資質という言葉に表せないものを切り捨て、ほんの少しだけ残ったものを対象にせざるを得ない、というジレンマを抱える。
子どもを見て、「なんとなく調子よさそうだな」「これをやってみて大丈夫そうだな」と感じられるかどうか。
そして、感じたものを素直に実行できるか、信じて選択することができるか。
「子どものことを良く見て援助してください」と言うのは、子どもから漂っている雰囲気を感じてください、重視してください、ということです。
「何秒以上できたら、どうだ」「腕の角度がどうだ」というのは、パターンを覚えさせているだけで、発達は促されていきませんので。
なぜなら、言語化できないものと向き合うのが、仕事だから。
まだ十分に説明できるだけの言葉を持っていない子もいます。
言葉を持っていたとしても、しっかり捉えられるだけの感覚を持っていない人もいます。
そして何よりも、援助の中心である発達とは、言葉でいい表すことができないものです。
たとえば「問題行動」というのは、言葉です。
言葉だから、それは道具。
道具になると、使い方の幅は狭まり、みんなが似たような使い方をするようになります。
だから、特別支援が学問になり、専門になっていくと、個人が薄まり、道具に使用される人という具合な主従逆転現象が起きるのです。
今の特別支援を見ていると、どんどん新しい言葉が生まれ、その新しい言葉をどう使いこなそうか、四苦八苦している支援者たちの姿を感じます。
懸命に言葉を使いこなそうとすればするほど、いつの間にか、言葉に行動が規定されていく。
だから、養護学校と呼ばれていた時代の方が、まだ個人があり、自由があり、治るがあった。
言葉によって支援が展開されていくと、パターン化、マニュアル化が起きます。
なので、少しでも困った行動が見られれば、「止めなきゃ」「無視しなきゃ」「別のところへ意識を向けなきゃ」となってしまいます。
その行動の背景には、個人があるはずなのに。
個人よりも、言葉が優先されてしまう。
誤学習、自己防衛、純粋な発達では、それぞれの姿から漂っている雰囲気が全然違うのに。
本人からの相談で多いのは、「なんだか困っている」「なんだか生きづらい」というものです。
その“なんだか”は言葉にできない何かです。
つまり、雰囲気。
その雰囲気を感じられるか、共有できるかが、その人の支援者になれるかどうかの判定になります。
親御さんからの相談でも、「周りは大丈夫って言うけれども」「その行動は無視してください、と言われるけれども」「障害だから受け入れましょう、と言われるけれども」、やっぱりこのままじゃいけないと思うから、相談します、という場合が少なくありません。
なんだか胸騒ぎがするから相談する。
なんだか、こうやったら良いかな、と思うからそうやってみる。
それが結果的に功をなすことが多いのです。
親御さんは、子どもの生きている流れを常に感じながら、共に生活しています。
だから、子の雰囲気を誰よりも早く気が付き、共有することができる。
普通の子育てをしている親御さんが、特別支援という言葉と距離を置いている親御さんが、子どもの発達を上手に促し、後押しし、治しているのは当然だといえます。
雰囲気という言葉にならないものを大切にするということは、その子、個人を中心にすることだから。
その子の生きてきた流れ、内なる力、発達、資質…。
これらは、言葉に表せないものです。
ですから当然、パターン化、マニュアル化できないもの。
つまり、支援しようなどと身構えた時点で、支援の対象から除外されてしまうのです。
発達という、個人という、言葉に表せないものをどう支援していけばよいか。
そのためには、雰囲気を感じるしかないのです。
なんだか良さそうだな、良い方向へ進んでいるな。
そういう雰囲気を頼りに、後押しするか、引き返すか、方向を変えるか、選択していく。
だから、子どもを治せるのは、常に雰囲気を共有している家族であり、親御さん。
治せる支援者、発達を掴み、後押しできる支援者というのは、言葉に頼っていない人であったり、言葉をちゃんと道具として使いこなせていたりする人のような気がします。
多分、子どもが部屋に入ってくる瞬間、課題を見抜き、「じゃあ、セッションを始めましょうか」と言う頃には、すでに援助の方向性が定まっているはずです。
別の言い方をすれば、「目が合うかな」「受け答えはどうかな」「言葉はあるかな」と考えないといけないようでは、個人に合わせた支援、より良い発達への援助はできないといえます。
言葉や説明は、後付け。
大事なのは、本人がラクになるか、心地良いか、より良い発達が生じるか。
エビデンスのある方法の効果が、限定的で表面的なのは、エビデンス自体が言葉だから。
言葉によってエビデンスを証明するということ自体が、個人を切り捨て、発達や資質という言葉に表せないものを切り捨て、ほんの少しだけ残ったものを対象にせざるを得ない、というジレンマを抱える。
子どもを見て、「なんとなく調子よさそうだな」「これをやってみて大丈夫そうだな」と感じられるかどうか。
そして、感じたものを素直に実行できるか、信じて選択することができるか。
「子どものことを良く見て援助してください」と言うのは、子どもから漂っている雰囲気を感じてください、重視してください、ということです。
「何秒以上できたら、どうだ」「腕の角度がどうだ」というのは、パターンを覚えさせているだけで、発達は促されていきませんので。
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