その人達は、神経の専門家じゃない

ひと昔前は、生まれつきの障害で、それも脳の機能障害。
生まれつきで脳が違うのなら、なんだか普通の人とは別の存在のようなイメージがありました。
だから、そういった自分たちとは異なる人達のことを努めて理解しようとした。
治らないんだったら、制度を整え、あらゆる面でサポートすることが大事だと思った。


だけれども、時は流れ、従来想像していたのとは異なる人達の存在が明らかになりました。
2000年以降、それまで知的障害を伴う人達ばかりだと思っていたのですが、知的障害を伴わない、同世代の人達と同じような道を歩んでいながらも、自閉症やADHD、LDなどを持っている人達が多くいることがわかりました。
さらに2010年代には、自閉症と診断された人達の中に、成長と共に、その診断名が外れる人達の存在も明らかになりました。
国内外を問わず、 診断基準、発達障害というラインを飛び越え、治っていく人達の存在です。


状態像は発達とともに変化していく。
今、思えば、しごく当たり前の話ですが、ひと昔前の「生まれつき」「脳の機能障害」という捉え方を崩すには、多くの人達の姿と、長い月日が必要だったといえるわけです。
結局、生まれつきって言ってたけれども、発達過程のどこかで発症するという話だったのね。
“脳の”って言っていたけれども、神経の問題だったのね。
ですから、発達障害は神経発達障害になったのです。


脳の話から、神経の話に変わったのにも関わらず、どうも旧来の捉え方で支援が展開されているようです。
日本の支援者、隅々まで“神経”が認知されているとは思いませんが、診断に携わっている医師や専門家と呼ばれるような人達は当然知っているはず。
じゃあ、なぜ、もっと「神経だよー」と言わないのか。
むしろ、ひた隠すような素振りすら見られます。
未だに「NC州のような地域プログラムを作ろう」「ご褒美を使って、パターン学習をさせよう」「社会性はマニュアルで教えよう」というような、なんだか、旧来の「生まれつき+脳」前提と思われる療育、支援がはびこっています。


神経の発達障害なのですから、その神経へのアプローチが肝心なわけです。
神経が育ってしまえば、地域をまるまる構造化する必要はありませんし、パターン学習も、マニュアル暗記も、むしろ効率が悪い学習法になります。
なので、これらのアイディアは、一時的な対処療法。


神経が主役になれば、発達の場は、生活すべてになります。
バリエーションの豊かな刺激は、自然な環境、遊びに勝るものはなくなるのです。
一箇所に集め、プログラムされたものをこなすのは、旧来のパターン学習、マニュアル暗記を効率的に行うために作られたものですから。
親子の自由で自然な関わり合い、育ちあいは、究極の個別指導なのです。


専門家たちが、“神経”を黙殺しているのは、神経発達障害へシフトチェンジできないのは、しないのは、おのれ自身を守っているからに過ぎないのだと思います。
新しい知見が広まること、しかも、診断が外れる人達、可能性があることは、それに携わる者としても喜びのはずです。
当事者、家族の人達の喜び、幸せに寄与したいからこそ、その仕事をしているわけですから。


当事者、家族の喜びを喜びだと感じられないのは、その支援者自身に愛着の問題があるからなのでしょう。
ですから、専門領域を守りたいわけです。
しかし、もうその専門領域は消滅したも同然。
だって、神経を育てる場所は、生活の場すべてだから。
むしろ、高度に構造化され、プログラムで設定されたものは、刺激を単一化へ向かわせ、神経発達を阻害しかねません。


家族はもちろんのこと、学校、職場、地域に、神経発達を促す刺激、アイディアがあります。
療育の専門家よりも、地域の習い事の方が、神経発達に繋がることがあります。
環境の統制された部屋で一日過ごすよりも、自然の中に、公園などの遊び場に、必要な刺激は溢れています。
子どもは、自分自身で、今、必要な発達刺激がわかるわけです。
それにいつでも応えてくれるのは、自然であり、家庭です。
人工的なプログラム、専門家のやりたい療育は、どんなに頑張っても、先回りで用意されたもの。
子どもに主導権があり、初めて発達が生じる。


神経が主役になり、発達の場が生活すべて、その人の人生すべてに変わりました。
でも、「生まれつき+脳」で生きてきた人間、それで生かされてきた専門家たちは、これからも変化に抵抗し続けるでしょう。
だって、神経の専門家じゃないから、特別支援の専門家たち、支援者たちは。
わかるのは、「生まれつき+脳」前提で築き上げられた知見とアプローチだから。


なので、親御さん達がしっかり学び、主体性を持って育てていくことが重要になります。
もう一度言います、専門家はいないのです。
頼るのでしたら、我が子の神経を豊かに刺激してくれる人。
それは、学校の先生かもしれないし、地域の習い事の先生、職場の同僚、上司かもしれない。
我が子に必要な人を探す、地域の中から。
そして何よりも、我が子の主体性を奪わず、その育ちに寄り添え続けられるのは、親御さんであり、家族です。
神経を育てるのは、本人であり、自然であり、家族であり、その人の生活すべて。




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