「何を学び、どう生きるか」は私達の権利です

私は施設職員として、利用者さんの主体性、選択、自由の権利を奪っていました。
朝起きてから寝るまでの日課、スケジュールを決めていました。
起きる時間、寝る時間、食事の時間、お風呂に入る時間…週末の過ごし方まで。
すべて職員である私達に決定権がありました。
入所していた人達には、何を食べるかさえも決められず、出されたものを食べ、嫌だったら“食べない”という選択肢しかなかったのです。


限られた人数、資源の中で、多くの利用者さんを見なければなりません。
ですから、どうしても管理の意識、傾向が強くなります。
「もっと選択肢を」「日課に自由を」とは思い、できる改善は行っていたものの、やはり限界があるのです。
一日、無事に終えることが、どれほど、大変だったか…。


いくら業務であり、施設の意向だったとしても、私が多くの人達の主体性、選択、自由の権利を奪っていたのは変わりがありません。
もし私が支援される側だったら、こんな支援は受け入れられなかったはずです。
そのように自分自身で感じるくらいのことを、私はやってきたからこそ、今の仕事では「主体性」「選択」「自由」の権利を侵さないように、と強く意識するのだと思います。


私が発達の準備、後押しにこだわるのは、こういった経緯があるからだといえます。
何か指導しようとすると、うまくいかないことが多いというのもありますが、「指導する」自体に、本人の主体性を侵略するような雰囲気を感じるのです。


何かを指導してほしいという本人からの要望があれば、それは主体性を侵すような指導にはならないでしょう。
むしろ、「何かしたい」「こうなりたい」という本人の意思が明確にあるので、主体性を尊重している対応だといえます。
でも、そこに本人からの発信、要望がなければ、もしかしたら、良かれと思っている指導が、本人の主体性、選択、自由を奪う結果につながらないともいえません。
特に私は、重い障害、症状を持つ人達の施設で働いていましたので、本人からの発信、要望がない場合、慎重になる必要性を強く感じるのです。


幼い子どもや知的障害がある人達、ASDの人達は、自分たちの意思よりも先に、指示されたこと、指導されたことに従順してしまう傾向があると思います。
「自分がやりたいから」「楽しいから」ではなく、「わかるからやる」といった感じです。
周囲の状況や環境の意味が混とんとして掴めていない人ほど、「わかる」に飛びついてしまいます。
でも、「わかること」が自分のやりたいことではない、学びたいことではない、ということも。


私も、実際、施設や学校で個別指導計画を立てていましたのでわかるのですが、本人の意思よりも、できること、できそうなことを目標に立てがちだといえます。
本来は、本人の意思やニーズに基づいて、どういった学びをしていくか決めていくのが、個別指導計画になるのですが、幼い子ども達や障害の重い人達になればなるほど、本人の意思が代弁という名の解釈によって決められ、どちらかといえば、支援しやすいような、親御さんが喜びそうな目標になっていくこともあります。


しかし、これは致し方ない面もあると思います。
本人からの発信を受け止められない限り、周囲が解釈するしかありません。
また、個別指導計画は、保護者と協働することが決められていますので、親御さんの意向に沿う形になるのは自然な流れだといえます。
ですから、普通にやっていれば、知らず知らずのうちに、私達は障害を持った子ども達、人たちの「主体性」「選択」「自由」を侵略していることもあるのです。


爬虫類の脳、哺乳類の脳までは、2歳までの発達段階、言葉を獲得する前の発達段階は、周囲も力を合わせて丁寧に育てていく。
でも、それ以降の成長は、本人の主体性、選択に委ねていく。
その辺のバランス、線引きを誤らないことが、本人の権利を侵略しない、尊重することにつながるのだと考えています。


子どもであるとか、障害があるとか、でいつまでも、どこまでも教えようとするし、支援しようとする。
振り返れば、施設職員、学校の教員だった私は、障害を持った子ども達のことを信じていなかったのだと思います。
しかし、発達援助、発達のヌケ、遅れを育て直していく道と出会い、その中で自ら発達、成長していく子ども達の姿を見続けるうちに、もっと彼らの内なる力を信じて良いと思うようになりました。
特に発達障害の子ども達の場合は、発達のヌケ、遅れをどうにかしてもらいたけであって、一から十まで支援してほしい、教えてほしいと思っていないと感じます。


「わからない」が課題の根っこではなく、発達のヌケ、遅れが根っこ。
「わからない」は結果であって、自然と分からないような状態である感覚、身体、内臓などの発達をどうにかしてほしい、と思っている。
それらが解決すれば、「何を学び、どう生きるか」は私達の権利である、といっているように感じるのです。


周囲がリードする部分は、発達のヌケ、遅れを育てるところまで。
それ以降は、いくら子どもであっても、障害があっても、本人の権利だし、自由が認められるところ。
たとえ我が子であったとしても、別人格。
本人の「主体性」「選択」「自由」を尊重していくためにも、発達のヌケ、遅れを育てることが大事です。
それ以降も、関わることがあれば、本人の意思、発信を聞いてから応えようと思っています。

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