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10月, 2013の投稿を表示しています

地域で活躍するカッコいい場所、カッコいい人!

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帰りの車の時計を見ると、「13:32」の表示。 話し始めたのが、11時。 ということは、2時間半も経っていたことに‼ 話をしているときは、時間の流れがまったく気になりませんでした。 昨日はそれくらい面白い話が聞け、また魅力的な人とお話をさせて頂くことができました。 昨日、私は函館市大手町(国際ホテルのすぐそば)にある「函館圏フリースクール すまいる」さんの見学をさせて頂きました。 フリースペースでは、子どもたちが一人ひとりのペースに合わせて、自主的な活動ができる居場所になっていました。 またフリースクールでは、通信制高校のレポート作成のサポートや高校卒業資格習得に向けた支援が行われていました。 函館にある唯一のフリースクールです。 代表の方のお話はとても分かりやすく、また興味深いものばかりでした。 特に『不登校と発達障害』のお話は、思わず前のめりになって聞いてしまうものでした。 「確かに不登校の子どもの中には、発達障害の人もいる。しかし、発達障害だからと言って、必ず不登校になる訳ではない。発達障害が不登校の直接的な要因だとは言えない。学校に通えなくなるというのは、身体も、心も"休み"が必要だということ。それは定型発達の子どもも一緒。学校で嫌なことがあり、それをきっかけに通えなくなる子どももいるが、その前からの蓄積の結果。嫌なことがあったとしても、全員が学校に通えなくなるわけではないのだから」 「すまいる」さんを利用する子どもの半数は、スタッフが何も促していないのに時期が来ると、自分から「学校に行く」といって、再び学校に通い始めるそうです。 やはり心身の休養が必要であり、心身の休養が取れた結果、また自らの意思で歩みだすことができるのだと感じました。 本当は当初5年計画で進めようとしていた事業の展開も、開始から1年半というスピードで事業の広がりがみられるようになっているそうです。 それは地域に必要な資源であり、ニーズが多いことが関係しているのだと思いました。 一人ひとりの学び方やニーズに合わせること。 将来の自立的な生活を目指すこと。 不登校と発達障害の部分は、別々にアプローチすること。 いろいろな学びがあっていいこと やはり"学び"が大切なこと など、対象とする人たちは違ってい

"忘れられない脳"に対し、支援者は?

「忘れることができる」というのは、本当に素晴らしい能力だと思います。 もし経験したすべての嫌なこと、辛いことを覚えていたら、とてもつらくて毎日過ごすことができなくなる・・・。 人は忘れることによって、前を向くことができるし、次にチャレンジする気持ちを持つことができると思います。 しかし、その「忘れること」が自閉症の人たちは苦手です。 自閉症の人たちの脳は、記憶することが得意な反面、忘れることが難しい、といった特徴を持っています。 ですから、嫌なことや辛かったこと、中には特定の人や事柄に対する恨みをずっと持ち続けている方たちもいます。 将来の自立的な生活や豊かな人生を送るための技能の獲得や勉強、支援は大切だと考えています。 でも、さらに過去のマイナスな経験や感情を断ち切り、乗り越えるためのサポートも同じくらい大切だと考えています。 その支援は、忘れることが苦手な人に「忘れなさい」というような方法ではなく、具体的にどのような方法だと乗り越えていけるか、を本人と共に考え、実践していくような方法で。 周囲の人たちが本人の持つ特別なニーズに気づかず、また合わせた支援を行わなかったことによって生まれるマイナスな感情もあるでしょう。 でも、どんなに周囲の理解が得られ、本人に合った支援を行われてきたと言っても、人生の中で嫌なことや辛いことがまったくなかった、と言える自閉症の人もいないと思います。 ですから、自閉症の人たちが持つ「忘れられない脳」に対する支援を考え、深めていくことが、これからの支援者に求められる力、専門性だと考えています。

障害者福祉で儲けちゃだめですか?

障がいを持った人たちを支援する仕事は儲からない。 ほとんどの組織は、行政の援助だったり、大きな組織の支援だったりを受けている。 個人なら、本業以外の仕事の掛け持ちは当たり前。 「障害者支援=福祉=慈善活動」が一般的な考え!? でも、障がいを持った人たちへのサービスで"儲け"という発想は不謹慎なのかな。 そうなると、障がいを持った人と障がいのない人を区別しているんじゃない。 だって、障がいのない人たちは"儲け"が大前提。 障がいを持った人へのサービスを提供する人たちが、儲けられる仕組みを作りたい。 そうなれば、もっと障がいを持った人たちと関わる人が増えるし、サービスの量や種類が増えていく。 サービスの量や種類が増えれば、次は質が求められてくる。 障がいを持った人たちへの支援も質が重要! 障害者サービスを福祉から一歩踏み出してみたい。 一般的なサービスとは、対象者の数が違うじゃないか、って。 何を言っているの、特別なニーズを持った人たちは私たちの周りにたくさんいますよ。 ただ表に出てないだけ。 ただ与えられるサービスを受け取るしかなく、選びたいサービスがなかっただけ。

「頑張れ」って、何をですか?

「頑張って」「頑張れ」「頑張ろう」など、私たちが誰かを応援したいときの言葉。 声を掛けられた方は、その一言によって気分や行動が変わることがあります。 そのため、その一言で結果まで変わることもあります。 「頑張って」という励ましの言葉は、私たちに力を与えてくれることもあります。 (*中には自分で「頑張っている」と思ってやっているのに、さらに「頑張って」と言われると、気分がマイナスの方に向かう人もいますが・・・)。 しかし、その「頑張って」という言葉の意味が伝わりにくい人たちもいます。 それは自閉症の人たちだと考えられます。 自閉症の人たちの中には、「頑張って」という言葉を受け取ることはできますし、"応援してくれている"という意味もきちんと理解できる人もいます。 でも、その「頑張って」という言葉を受け取ったあと、実際の行動の変化まで起きる人は少なくなります。 その理由は、自閉症の特性でもある「想像力の違い」が関係しています。 自閉症の人たちは、物事の見える部分、確認できる部分に対しての理解は得意ですが、隠れた部分を想像することが苦手なため、結果としてそのような部分の理解が難しくなります。 この「頑張って」の件で言うと、「頑張ることで何がどう変わるか?」「自分にとって"頑張る"とはどういうことか?」などの理解が難しいと言えます。 でも、運動会や発表会、試験などに向かう姿を見たら、思わず「頑張って」と言いたくなりますよね。 そんなとき、どうやって自分の応援したい気持ちを伝えればいいのか? また、良い結果が出るために、声を掛けた相手の行動を変えたいとき、どうしたらいいのか? どちらも「具体的に伝える」ということが良いと思います。 「運動会の徒競走で最後まで走り切れたら、お母さんは嬉しく思うよ」 「ピアノの演奏を聴けることが、先生は楽しみです」 などというように、相手の理解に合わせて、応援する気持ちを誰の、どんな気持ちかをより具体的に表すと伝わりやすくなります。 また良い結果に導きたいのなら、この場合も相手の理解に合わせて、具体的にどんな結果が待っているかを伝えると良いでしょう。 例えば、「水泳の練習が終わったら、アイスを食べに行く」とか、「入試が終わったら、旅行に行こう」などです。 想

私、どんなことルーティンでやってるかな?

では、何がルーティンで良くて、何がルーティンで悪いのか? そのポイントは、"変化"です。 変化がないものはルーティンでOKです。 例えば、料理を作る手順や自分の部屋の掃除の流れ、家に帰ってきたら手を洗うといった望ましい習慣などです。 反対に変化のあるもの、変化の可能性があるものはルーティンで身につけない方が良いと言えます。 例えば、仕事の手順はルーティンでも良いと思いますが、一日の仕事の流れは日によって異なるので、ルーティン化しない方が良いと思います。 また、人とのやり取りやコミュニケーションなども相手がいて、変化があるものなので同様です。 自閉症の人の中には、一度ルーティンで覚えてしまうと、あとからそのルーティンを変えようとしても、なかなか受けいることができない方もいます。 しかし、ルーティンは自閉症の人たちの強みであり、得意な学び方でもあるので、いつまでも変わらない手順や流れ、望ましい習慣などは、ルーティンで身につけていくことも良いと思います。 ただし教える過程で、支援者の手助け自体がルーティンの一部にならないように気をつける必要はあります。 支援者の手助けがないと、次の手順や流れに移れず、活動自体が途中でできなくなる場合もあるためです。 自閉症の人たちに限らず、私たちもルーティンで物事をやっていることがあります。 今日一日の生活を見返し、どんなことをルーティンで行っていたかを知れば、何がルーティンで身につけて良いのかが分かってくるはずです。 よろしければ一度、お試しを。

ルーティンは強みであり、好みである

自閉症の人たちにとって、ルーティンは強みの一つだと言えます。 ルーティンで活動が行えると、繰り返し、同じ手順で、場所などの状況が変わっても、同じように力を発揮できることにつながります。 場所や人などの状況が変わると、できていたことができなくなるという自閉症の人たちが苦手な部分をルーティンが助けてくれます。 しかし、ルーティンに関して支援者は注意しなければならないことがあります。 それは、どの部分をルーティンに導くか、ということです。 活動や手順によっては、ルーティン化すると望ましくないこともあります。 ですから、何をルーティン化してもらうか、特に新しい活動や手順を教えるときは意識しなければなりません。 ルーティンは自閉症の人たちの強みであると同時に、好みでもあります。 教えられていない内容は、自分なりの捉え方で、次々ルーティンを築いていくことがあります。 自閉症の人たちの強みを生かすためにも、特に新しい活動や手順を教えるときには、事前によく考え、望ましいルーティンを築けるよう導いていくことが大切だと思います。

スケジュールのルーティン化はどの部分?

自閉症の人たちがルーティンで学んだり、活動をしたりすることが得意なことは、よく知られています。 ですから、その得意なルーティンをスケジュールについても活用することが望ましい、と思います。 しかし、気をつけないといけないことがあります。 それは『何をルーティンにするか』ということ。 スケジュールを行うことをルーティン化するのではなく、スケジュールを"確認する"ことをルーティン化します。 時々、スケジュールの順番をルーティン化してしまい、日課の流れに固執してしまっている人を見かけます。 また、スケジュールの場所に行き、スケジュールを処理し、目的の場所に移動するという一連の動作をルーティン化してしまっている人も見かけます。 この場合、自閉症の人たちが得意なルーティン化があまり望ましくない部分に活用されてしまっている、と言えます。 昨日も書きましたように、スケジュールは「やるもの」ではなく、「確認するもの」です。 自閉症の人たちにスケジュールを確認するというルーティンを築いてもらえるようにするには、日課の中に"変化"があることが大切です。 "変化"があることで、スケジュールに注目し、自然と確認する動作が導かれ、反復されます。 反対に言うと、スケジュールがいつもと同じで変わらないのなら、スケジュールに注目しなくなりますし、別の部分でルーティン化してしまう余地が出てきます。 自閉症の人たちは、ルーティン化を好みますので、支援者は先回りし、望ましいルーティン化を導いていけることが大切です。 これはスケジュール以外に関しても同じことが言えます。 スケジュールを確認することをルーティン化することにより、変化があっても、また場所が変わっても、自閉症の人たちが落ち着いて活動が行えることにつながっていく、と私は考えています。

スケジュールをやらないんですけど・・・

「スケジュールをやって」と言うのは間違いで、 「スケジュールを確認して」と言うのが正解! スケジュールは"やることリスト"ではなくて、 スケジュールは予定を視覚的に示したもの。 だから、やるか、やらないか、はまた別の話になる。 時々、スケジュール通りに進まない自閉症の人に対し、スケジュールで示された通りにやらせようと促している支援者を見かける。 スケジュール通りに進まないのは、本人の問題ではないことの方が多いのに・・・。 スケジュールの表示している意味がわからないのかもしれない。 スケジュールの順序性がわからないのかもしれない。 スケジュールに注目できないのかもしれない。 スケジュールのルールがわからないのかもしれない。 スケジュールの意味はわかっているが、その示された活動をしたくないのかもしれない。 スケジュールは、定型発達の使うスケジュールと一緒で、使う人自身の物。 自分で書いたスケジュール帳を他人に覗き込まれて「ちゃんとスケジュール通りやらなきゃね」と言われたら、誰でも不快な気持ちになるだろう。 それは自閉症の人だって同じはず。 だから、スケジュールは支援者が自閉症の人たちをコントロールするための物ではなく、自閉症の人たち自身が見通しを持って過ごせるようにする物、という認識が大切です。 スケジュール通りに活動を進むことができない自閉症の人を見かけたら、まずは「スケジュールを確認して」と声を掛けてみましょう。 スケジュールを確認したあと、活動を進めないのなら、活動自体の見直しが必要かもしれません。 もともと自閉症の人たちは視覚的に理解しやすいものやきちんと決められたルールを真面目に実行する人たちです。 活動自体を本人にとって魅力的なものに変えたり、好きな活動を入れ日課を工夫したりすると、スケジュール通りに活動を進めていくかもしれません。 もし日課自体に問題がないと感じるのなら、それは「スケジュールの形態や提示の仕方、環境を変えて」という本人たちのメッセージです。

本物の見抜き方!?

講演会の最後に行われることの多い「質問コーナー」 現在、自分が関わっている子どものことを尋ねる参加者に対して、「〇〇しなさい」「××はすぐにやめること」などとアドバイスする講演者を見ると、私は頭の中に「?」が浮かんでくる。 「どうして実際に見ていない人の支援について、言い切ることができるのだろう?」 すべての支援は、対象の人を評価することから始まるのに。 その評価が人から聞いた話だけで終えてしまって、正しい支援方法を導くことができるのかな。 逆に、それができたら天才! 自閉症の人は、環境に大きく影響されるし、過去の記憶が消せないという特性もあるよね。 自閉症の人の行動の背景には、その他多くの要因が影響しているはずなのにね。 「支援がうまくいかなかったときの責任はとってくれないよね?」 もし、アドバイスされた支援が対象の人に合わなかった場合、支援者はどう思うだろう。 「あの先生が言ったアドバイスだから・・・」と言って、合わなかった支援をやり続けるかもしれない。 支援方法以外に問題を見つけようとするかもしれない。 そうなったら、いつまで経っても解決しないんじゃないかな。 「支援者を育てることにつながるのかな?」 講演するような人が一人ひとりのところに行って、実際に支援することは現実的に無理。 だったら、日々の支援に直接携わっている人を育てることが役目になる。 「〇〇しなさい」では、その支援に関してはうまくいくかもしれないが、別の人や事柄に応用することは難しい。 第一、支援者が自分の頭で考える機会を奪うことにならないかな。 支援者が対象の人を直接評価し、そこから何がその人に合っているかを導く過程で、支援者自身が成長していくと私は考える。 私が聞いていて素晴らしいなと感じるアドバイスは、「支援の方向性を具体的に示す」アドバイス。 質問者からの話を聞き、自分の経験や知識から考えられる要因や支援方法を導き出し、具体的に提示していく。 あくまで、どの支援方法を取るかは、実際に支援する人が選択するようにしておく。 そうすれば、支援方法を選択する過程で、対象の人のことを考えることになるし、例え選んだ支援方法が合っていなかったとしても、別の支援方法を考えることにつながっていくと思う。 私はネームバリューよりも、どんなアドバイスを行う

福祉サービスにすべてを任せられますか?

「できないことは、福祉サービスで全部やってもらえば良い」と考えている人も多い。 そのような人は、本人ができないことは全部手伝うし、家庭や学校、福祉サービスでの本人の評価や目標はあまり気にしない。 私もできない部分はサービスを利用し、できる部分と合わせて"自立"と考えている。 しかし、そのできない部分が本当にできないのか、支援者側の影響でできないのか、で大きな違いがあると考えている。 私も自閉症児施設で働いていたとき、「子どもたちが自分でやるよりも、私がやった方が早い」と感じることは多々あった。 しかし、そこで本人たちにやらせず、私のような支援者が手を貸し続けていたら、この子たちはずっと人の手を借りて生きなければならないことになってしまうと感じていた。 だから、一人でできる可能性があることに関しては、たとえ時間がかかったとしても、一人でできるようになることを目指していた。 一人でできることが増えるというのは、本人の内面に自信を与えるだろう。 でも、もっと大切なことは、本人たちの人生の幅が広がっていくことだと思う。 もし、どんな活動を行うにも、人の手を借りなければならないとしたら、それだけ支援者の数が必要になってくる。 もちろん、それに伴うお金も必要になる。 そのお金というのは、本人だけでなく、社会が担うお金も含まれる。 人とお金が十分にあるなら、本人の人生の幅に大きな影響は与えないと思う。 しかし、不十分だとしたら・・・。 外出できる機会が減るかもしれない。 病院に行ける機会が減るかもしれない。 身の回りのことをするのにも、十分な手助けが受けられないかもしれない。 そうなると、本人の人生の幅は狭いものになっていく。 今後、障害を持った人が増えていくスピードと福祉サービスの充実のスピードを比べると、どうなるだろうか? 少ない福祉サービスをみんなで取り合う、なんてことが起こらないとも言いきれない。 確かに家の中にいる分には、困ることはないかもしれない。 確かに支援者がやった方が早くて正確かもしれない。 でも、できることが増えれば、それだけ人の手助けが必要なくなり、部分的な支援でいろいろな機会が選択できることになる。 今の生活は、将来の生活につながっている。 「できないことは、全部福祉サービスで」

欲しかった福祉サービス、既にあった福祉サービス

学生時代に学んだ発達心理学。 子どもがどのように運動、言語、遊び、認知などの面で成長していくのか。 文字や言葉で一通り学んでいたというものの、実際に息子が生まれ、子育てをしていく中で、やっと真の学びになったような気がしています。 「私たち親が子どもを育てていると同時に、子どもが私たちを親に育てている」 子どもを抱き上げた瞬間に親になるのではなく、徐々に親になっていくのだと、日々の子育ての中で実感しています。 私は仕事を通して、子どもの年代が異なる保護者の方たちと、幅広くお話しさせていただいております。 その中で、世代間で保護者の方たちの考え方や様子が異なっていることに気が付きます。 単純に表現すると、子どもの年齢が高い保護者の方ほど、自分で子どもの支援を考え、実践している傾向があります。 反対に、子どもの年齢が低い保護者の方ほど、自閉症や療育に関する知識は豊富なのですが、自分で何か作ったり、実践したりすることが少ない傾向がある、と感じています。 その背景には、私も含め、今の若い親の世代に余裕がないことがあると思います。 しかし、私が考える一番の要因は、地域の福祉サービスの量が関係している、ということです。 函館もここ10年くらいで、やっと障害を持った子どもたちが放課後や休日など利用できる場所が増えてきました。 それ以前ですと、学生や学校の先生たちが行うボランティアが中心でした。 この地域で10年以上前に子育てを行っていた世代の保護者の方たちは、福祉サービスを利用したくても、ほとんど選択肢はなく、そのため、学校以外の生活の大半は保護者の方たちが子どもたちと過ごしていました。 そのため、苦労は多かったと思いますが、子どもと向き合う時間が長かった分、子どものことをよく知ることができ、保護者の方自身で支援の道具を作ったり、いろいろなことを家庭でも教えたりしていました。 実際に、今の高等部より上の世代の保護者の方たちとお話しすると、子どもが小さいときから、いろいろなことに取り組んできた様子がわかり、また子どもさん自身のことをよく理解されていると感じます。 子どもの年齢が低い世代の保護者の方たちは、初めから地域に利用できる福祉サービスがあります。 それは10年以上前、障害を持った子どもを家庭で抱え込まざるを得なかったお母さんたちからすると

"拒否"も教えよう

近頃、息子は明確に"拒否"を表現するようになりました。 食べたくないもの、やりたくないことに対し、顔を背けたり、バイバイと手を振ったり、「ナイ」と言ったりします。 以前ですと、不明瞭な言葉を発するか、泣き出すか、そのままなされるがままの息子。 今振り返ると、親の私たちは息子の意思にそぐわないことをたくさんしていたのだと思い、反省しています。 時々、拒否の連続で大変なこともありますが(笑)、以前よりもお互いのコミュニケーションがスムーズになれたので、今の方が良かったと思っています。 時々、自閉症の人たちに"拒否"の表現を積極的に教えようとしない支援者を見かけます。 確かに私の息子のように、明確に拒否が表現できるようになると、「あれもヤダ、これもヤダ」というように、支援者側がやってほしいことも拒否されてしまうということがあります。 しかし、明確で、相手に伝わる"拒否"の表現手段を手に入れなかったとしたら、どうなるでしょうか? きっと以前の息子のように、不明瞭な言葉を発し続けるか、泣き出すか、そのままなされるがままになるでしょう。 想像するだけでも、拒否が伝わらないストレス、やりたくないことをやらされるストレスの大きさがわかります。 私が支援してきた強度行動障害を持つ人たちも、うまく要求や拒否が相手に伝えられないと、自傷行為が出たり、激しく泣き出したりする、といった方もいました。 その方たちに適切な表現の仕方を教え、自分の気持ちが相手に伝わる経験を積み重ねていくように導いていくと、自傷行為などが減った方も多くいました。 私は彼らから、自分の気持ちが相手に伝わらない辛さがどれほど大きいものか、教わったように思います。 また、自分の気持ちが「相手に伝わった」という喜びの経験を積み重ねていくことが、コミュニケーションが苦手な自閉症の人たちにとっても、大きな意義を持つことも教わりました。 いくら"拒否"の表現を教えなかったとしても、本人たちの内面にある"拒否"の気持ちまではなくなりません。 明確で適切な"拒否"ができないなら、彼らは自分なりの拒否の仕方で表現するだけです。 ですから、相手に伝わる拒否の仕方、適切な手段の拒否の

専門機関と家庭の間に橋を架ける仕事

「スタッフが療育を家庭に行って行う場合と、施設に来てもらって行う場合と、それぞれの利点を教えてください」 「家庭に出向いて療育を行う場合は、より自然な環境で、より子どもがリラックスできる環境で療育ができるという利点があります」 「施設に来てもらって療育を行う場合は、保護者が他の保護者や子どもと会えるという利点があります」 ノースカロライナ大学で行われた「早期療育」をテーマにした講義の中で、私が質問したこととその答えでした。 私が「てらっこ塾」を出張で行うことには理由があります。 その一番の理由は、自閉症の特性でもある"般化の苦手さ"について思うところがあるからです。 私が施設で働いていたとき、「寮(学校)では落ち着いていたり、いろいろできたりするみたいだけど、家だとね~」と言うお話をよく耳にしていました。 実際、アドバイスや使用している手だて等をお渡しすることもありましたが、家庭に帰って同じようにできることはほとんどありませんでした。 それはそうです。 寮や学校で行っている様子を教えたり、同じ手だてを使ったりすれば、同じようにうまくいくということはありません。 うまくいった同じ方法と同じ手だてに、"教える"という行動をプラスする必要があります。 ある場所で教えて、できるようになったことは、今度は場所を変えて教えることで、その場所でもできるようになります。 私は施設に働いていたとき、場所が変わったときの教育の大切さと、保護者の方たちが求めていることは家でできるようになったり、落ち着いて過ごせるようになったりすることであると気が付きました。 函館を見渡すと、素晴らしい先生や専門家のみなさんがいます。 しかし、それぞれの組織の機能として、実際に家庭まで出向いて療育を行うことが難しいのでは、と感じています。 せっかく学校や専門機関などで療育を行ったとしても、それを家庭に仲介する役割を担うところが少ないと以前から思っていました。 それも自閉症の人たちにとって重要な支援の一つであるのに・・・。 ですから、その専門的な療育を仲介する機能が函館に必要だと考え、出張の自閉症療育を行う機関として「てらっこ塾」を立ち上げるに至りました。 「家に来られるのはちょっと・・・」と思う保護者の方たちも多くいらっしゃ