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2月, 2018の投稿を表示しています

支援は、本人の想いと発達、成長と共に歩む

一時期、私は身体に障害を持った子ども達と関わっていました。 子ども達の多くは、車椅子や補装具を使っており、それがあることで彼らの生活、学びが保障されていることがわかりました。 彼らにとって車椅子は、必要な道具であり、必要な支援でした。 しかし、必要な道具であり、支援ではありますが、彼らにとってベストであるか、幸せで満足しているか、という視点に立てば、そうは思っていないと感じたのです。 車椅子を押していると、伝わってくるものがありました。 補装具で歩いている子や手すりを使って歩いている子が側にいると、そちらの方を向きます。 そして、じっとその姿を見て、目で追うのです。 また床に横になっているとき、自力では起き上がることができませんが、上半身に力を入れたり、手足を動かそうとしたりするのです。 そういった様子を見ていて、彼らは口で表現しないかもしれませんが、自らの力で立ち、移動したいと願っている、そう感じたのです。 前回のブログで、「配慮を求めるとき、自分で説明でき、認めてもらえる力を養う」ということを書いたところ、思いかけず多くの反響をいただきました。 私がこのようなことを学生さん達に伝えるようになったのは、ある学校で行われた支援ミーティングに参加したのがきっかけでした。 本人がより良く学ぶためのミーティングのはずなのに、話をするのが親であり、学校であり、相談機関の人間ばかり。 私はその様子を見ていて、これは違うと思ったのです。 支援を求める主体は、本人のはずです。 本人が「こういうところが困っている」「こんな援助があれば、私はより良く学べる」、そう主張するところから支援が始まっていくのだと思います。 しかし、いろんな場面で感じるのが、本人よりも先に周りが出発しているんじゃないか、ということ。 良かれと思って、また本人が困っているように見えるから、欲しているように見えるから、といって、本人が主張する前に、もしかしたらニーズを感じる前に、どんどん支援が求められ、用意され、展開されていることもあるように感じます。 本人が蚊帳の外にいる支援。 支援したい人が支援する支援。 本人の声をちゃんと聞いているか?耳を傾けているか? 周りにいる人間は、こういった問いかけを自分自身に行う必要があると思います。 私は車椅子を押しなが

「合理的配慮と発達保障」(花風社)を読んで

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今日は花風社さんの創立22周年の記念日です。 その記念日に、電子書籍 「合理的配慮と発達保障」 という新刊が出版されました。 これからも花風社さんから電子書籍での出版があるということでしたので、この機に私も、スマホとパソコンにアプリを入れました。 スマホで簡単に読めるので、今朝ダウンロードしてから空いた時間に少しずつ読み進めることができました。 今回のテーマは合理的配慮であり、この頃、いろんなところで耳にする言葉です。 でも、確かに言葉は良く聞くけれども、きちんと説明できる人が少ないかもしれないと思いました。 「これは合理的配慮です」と言われたとき、何でかを言語化できなくても、モヤッとすることがあると思います。 反対に、自分にとって必要な配慮であり、それを求めても、「その配慮は認められない」と言われることもあると思います。 そういったとき、この本で語られていることは、大きなヒントになるはずです。 私は、学生さん達との関わりの中で、「支援者に合理的配慮を説明してもらうよりも、自分の言葉と行動で配慮を主張し、認めてもらえるようになる必要がある」ということを伝えています。 確かに、支援者という立場を使い、説明していった方が、よりスムーズに認められることがあるかもしれません。 でも、高校、大学を卒業したあとは、自分で必要な配慮を求めていかなければなりません。 支援者がいないと配慮を求めることができなければ、いくら一般就労する力、自分自身で生活できる力があったとしても、支援から自由になれないのです。 ですから私は学生さん達に自ら説明し、配慮を求める力をつけてもらいたいですし、そのための良い機会が高校や大学、専門学校の中にあると考えています。 せっかくいろんなことを学ぶ機会が得られ、将来、自立して生きていける力を持った若者たちなのですから、社会の中で支援や福祉という枠にとらわれることなく、自由に自分の人生を謳歌してもらいたいのです。 そのためには、「合理的配慮」を自分なりに噛み砕き、理解する必要があると考えています。 当然、そういった若者たちを支援する立場の者も、明確に説明できるくらい学び、考える必要があると思います。 タイトルにもなっているように合理的配慮と“発達保障”がポイントだと思います。 合理的配慮は、本人の発達を

強度行動障害の子に加算で、見えてきた本質

悲しいですね。 本当に悲しいです、怒りを通り越して。 児童デイを強度行動障害の子が利用すると加算されるのに伴って、そういった子がいないか、事業者同士で引っ張り合いが始まっているとのことです。 私も施設で、そういった子ども達の支援に携わっていましたが、本当に大変です。 もちろん、本人が一番大変。 だって、普通の生活を送ることすらままならないから。 起きて、ご飯食べて、学校行って、お風呂に入って、寝る…。 そういった日常生活一つ一つに困難が生じます。 それに自分を傷つける危険性がある、他人を傷つける危険性がある。 自分を傷つけることは、自分の命、生きるを傷つけることになります。 他人を傷つけることは、大事な家族に恐怖感を与えることになり、支援に携わる者を減らすことになります。 自分も、他人も、傷つけてしまうこと。 それは肉体的にも、精神的にも。 そして何より悲しいのは、自分で自分のことを、周囲の人間が自分のことを好きではなくなり、どんどん心が遠くなってしまうことなのです。 本人が一番辛いのに、誰からも愛されなくなって、自分でも愛せなくなってしまう。 施設のときは、24時間365日の体制で、常に職員が支援にあたり、医師などとも連携し、支援にあたっていました。 本気で行動障害を治そうとしたら、支援者も相当しんどいものがあります。 こういった体制の中、職員みんなで考え抜き、最後まで諦めないで支援を続けていった先に、ようやく本人の穏やかな生活が待っているのです。 行動障害で苦しむ本人を見ていたら、支援に携わる辛さよりも、その姿からにじみ出てくる苦しみ、悲しみを感じる方が辛いものです。 ですから、私達は、一日でも、一分でも、一秒でも早く、ラクになってもらいたいと願い、支援に携わっていました。 そういった子ども達を、自分たちの経営のために引き入れようとするなんて、言語道断だと思います。 施設で働いていたあの時の私たちのように、「絶対に治してみせる」という気概があって、その力もあるのなら、私は何も言いません。 でも、かたや「スタッフ募集。未経験者も歓迎。子ども好きな人集まれ」なんて言っちゃっている。 24時間体制で、施設で働いていた人間も大変だと思いながら、日々支援していたのに、こういった募集で集まる人、集めざるを得ない事

地域で顔色を伺う必要はない!

「いろいろ言われて嫌になりませんか?」と訊かれることがあります。 正直、メンドクサイなと思うことはあっても、それで気が滅入るみたいなことはありませんね。 直接、言ってきた人に対しては、きちんと自分の主張をし、闘いますが、それ以外はどうぞご勝手にです。 この事業を始めるとき、「どうして函館なの!?」ですとか、「手が出せないところからバックアップを貰っておくか、いっそのこと、最初から手を結んでおいて方が」などと言われたものです。 これは都市部に行けということではなく、函館は止めた方が良い、いばらの道しかないから、という意味です。 私は、母親から「あんたは、いつも大変な方の道を選ぶ」と半分飽きられながら、よく言われていました。 自分ではそういった意識はないのですが、より困難だと感じる方へと進みたくなるのは子ども時代から変わっていません。 小さいときから、他人とは違った経験がしたかったですし、そこに困難さ、大変さが伴わないとやる気が起きなかったのです。 子供時分からの性分というのは、大人になってもなかなか変わらないもので、親から言わせると、「相変わらず、大変な道を進もうとする」といった生き方なのだと思います。 結婚してから、妻に「あなたは大切に育てられてきたのがわかる」と言われたことがあります。 ひと様のおうち、家族のことは知る由もなく、自分にとっては自分の家族が当たり前だと思っていたので、そう言われて驚いた記憶があります。 確かに大切に育てられたと感じていましたが、それが特別なものという感じはありませんでした。 冒頭の話に戻りますが、私は何を言われようとも、ほとんど気にはなりません。 たとえ、ひどいことを言われたとしても、それによって自分の価値、存在意義が変わることがないからです。 それに自分には、どんなときも味方でいてくれるパートナーがいて、子ども達がいる。 そして、両親、兄弟は決して私を裏切らないという確信が自分の中にあります。 ですから、世の中、全部が敵になっても大丈夫だと思っています。 このように考えると、自分がより困難な道を進もうとするのは、両親から土台をしっかり育ててもらった証拠であり、今、信頼できる家族がいるからだと思います。 「失敗しても大丈夫」「何を言われても大丈夫」そのような実感があるからこそ、よ

私は対処療法の存在までは否定しないけどね~

ブログを書き始めてから、もうすぐ丸5年になります。 毎日、300前後のアクセスがあるのですが、時々、1000を超えるときがあって、「あ~、今日もどこかで燃えているな」って思います。 オープンの場で書いていますので、別にリンクに貼ったり、拡散したりするのは構いませんし、ネガティブに取り上げられても、どーってことはありません。 いろんな意見があるのが自然ですから。 しかし、仲間内で、見えないところで好きにやっていれば良いのに、「消せ」だの、「訂正しろ」だの言ってくる人もいます。 「好き勝手書きやがって」みたいなのもありますが、ブログを書いている人達は、みんな好き勝手書いているのではないのですか。 誰かにお伺いをかけて、何度も推敲と校正を繰り返し、アップされているのでしょうか。 私は、発達のヌケを育てなおすことが幸せになる近道だと考えていますし、発達を促していくのはその人自身であり、家族が主体となって発達を援助していくのが良いと考えています。 私がこういった信念をもって仕事をしているように、他の方達も、おのれの信念の元に仕事や子育てをされれば良いと思います。 信念をもって仕事、子育てをしていたら、自分と違う意見の人に、わざわざ消せとか、訂正しろとか言う暇がないはずです。 私は、治った人、治すアイディアを持った人との出会いから、今は「治す」を中心に捉え、仕事をしています。 でも、それ以前は、ずっと視覚支援、環境調整を学び、実践してきました。 それ以外にも、ABAやSST、PECS、感覚統合等、一通り勉強してきました。 そうやって一通りの対処療法を学び、実践、経験したからこそ、信念をもって治す道を進めていますし、同時に、必要なときには対処療法のアイディアも使っています。 治す路線の人が、対処療法を絶対に用いない、完全否定していないように、対処療法路線の人も神経発達を促したり、感覚過敏を治したりすれば良いのだと思いますし、それが本人と家族のニーズに応えることだと思います。 発達障害支援センターこそ、本人や家族のニーズに合わせて、その時々で、いろんなアイディア、選択肢を提供できなければならないし、それが大事な役割の一つだと思います。 しかし、実際は、その機関ごとに色が出ていることがあります。 その理由は、行政からの委託事業だから。

良い地域って何だろう?

以前、相談を受けていた方から、自分が、我が子が「こんな風に成長しました!」とご報告をくださることがあります。 ほとんどの方とはお会いしたことがございませんが、メールや電話から伝わってくる雰囲気から、本人も、家族も大変喜ばれている顔が、姿が見えてきます。 何よりうれしいのが、その結果ではなく、「自分たちで成長できた」という達成感と、「これからも頑張っていく」という自立心が感じられたときです。 私がしているアドバイスは、占いみたいなもので、当たるも八卦当たらぬも八卦であります。 ですから、実際に考え、手と足を動かしたのは本人と家族であり、喜べる今はご自分たちで作ったものです。 私にできることは、一つのきっかけになること、行動を後押しすることなので、自分たちで動き出したのなら、それだけで良かったと思いますし、役目は果たせたなと思います。 さらに行動が、発達や成長を感じられる結果とつながったとなれば、それ自体が次の行動の後押しとなりますので、私が目指している“自立”が近づいたと言え、嬉しくなるのです。 こういった喜びのご報告とともに、「函館にいる人は羨ましい」というようなお世辞を頂戴することもあります。 しかし、上記で述べたように、喜ばしい結果を得られたのは、ご自身の、ご家族の行動と頑張りですし、第一、函館にいる人で大久保がいて良かったなんて思う人は皆無です。 利用してくださっている方達も、たまたま同じ地域に私がいただけであって、もし私がいなかったとしても、自分たちでできて、発達を促すアイディアを持った人を探し出していたと思います。 それくらい主体性と純粋な想いを持った人達だからこそ、治っていっているし、治ったのだといえます。 羨ましいどころか実際は、完全アウェーのブーイングの嵐の中、細々と活動しています( ;∀;) 私も起業当初は、「地域の一つの選択肢になりたい」と思っており、おこがましくも「地域を変えるきっかけになれれば」と言っていました、ごめんなさい。 でも、この仕事を続けていく中で、この地域に、選択肢を増やしてほしいというニーズはないし、選択肢を増やすことが地域を変えることにつながらないと考えるようになりました。 その人が治るか、治らないかというのは、地域に治す系の支援者がいるかどうかではないと思うんです。 結局、全国ど

平成になれない先進地域

オリンピックを観ていると、10代の頃から海外に留学し、力をつけてきた選手がいることがわかります。 「自分を高められる場所があるのなら」「今よりも、より良い環境を求めて」という強い想いを持った若者たちが、日本にとらわれることなく、どんどん世界に出ていっている。 日本が劣っている、海外の方が素晴らしい、などとは思いませんが、自らの意思でより良い環境を求めていく若者の姿にたくましさと、明るい未来の日本を思い浮かべます。 一方、福祉の世界は相変わらず、時代が進んでいきません。 老舗の法人や手広くやっている法人などは、10年も、20年も前と同じ話をしています。 「〇〇という支援があれば、自閉症の人達は安心して生きていける」 「〇〇という療法で、問題行動は治まっていくのです」 「障害を持った人からではなく、こちら側から歩み寄ることが大事なんです」 一人一台スマホを持ち、平成も終わろうかというこのときに、何十年も前と同じことを言っている。 その理由はシンプルです。 一度、「〇〇という方法が一番です!最適です!」と言ってしまった以上、あとからより良い方法が出てきても、切り替えられないのです。 「いやいや、それは個人の問題、柔軟性の問題」などと言われそうですが、こっちはシンプルにはいきません。 何故なら、いろんなものを巻き込んでしまっているから。 まず当事者と家族ですね。 当時、「治らない」で、「支援も、サービスも、財源も、理解も足りない」から始まっていましたので、障害を持った人が、また家族が一生涯安心して暮らせるよう環境づくりを行ってきました。 そのため、一生涯ケアを受けられることがゴールであり、人生設計だったわけです。 ですから、今更、「神経発達を促す方法がありました」「一生涯の支援じゃなくて、本人の発達、成長を後押しし、自立を目指しましょう」とは言えないのです。 「この道が最高の道であり、私達がその先導者だ」と言ってしまったから。 また地域を巻きこんじゃっていますね。 「我が地域は、先進地域です」なんて言って、海外からも人を呼んじゃって、後援もたくさんお願いしたし。 税金もいっぱい使ったし、特に福祉が産業になっているような地域では、福祉を中心とした街づくりもしちゃっている。 それが突然、「いや~、どんどん自立する方法が見

発達援助と家庭料理

幼い子の親御さん、特別支援の世界にまだ足を踏み入れていない親御さんには、支援者との関係について「家庭料理」という例えでお話しすることがあります。 料理のプロは、世の中にたくさんいて、和食が専門の人、中華が専門の人、洋食が専門の人という具合に、それぞれ専門があります。 支援者も同じで、いろんな専門の人がいて、その専門の中でも、うまい店もあれば、下手な店もあります。 「欧米で認められた療法です!」なんていうのもよくあるけれども、それは世界展開しているファーストフード店みたいなもので、その料理がおいしいか、日本人の舌に合うかは別問題。 自分の国だけではなく、各国の市場を舞台に商売しているっていう意味です。 支援を専門家に頼むっていうのは、外食するようなものです。 一般的な家庭では、毎日、外食しないように、毎日、専門家に我が子の支援を頼むっていうのは普通考えにくいことです。 当然、栄養、嗜好は偏りますし、子どもへの発達、成長への影響も少なくないといえます。 子どもの発達や成長を後押しする営みは、家庭料理のようなものです。 どんな材料で、どんな料理を作るか、家族が主体的に考え、選び、手を動かしていきます。 もちろん、親御さんの中にも料理の得意、不得意があるように、どうやって育てていけばよいか、どんな支援が子どもにあっているか、わからない人もいます。 そういったときに、料理教室に行ったり、レシピ本を読んだりすると思いますが、それにあたるのが専門家です。 相談に行ったり、勉強会に行ったりしながら、ときに、実際に支援するのをそばで見たりしながら、親御さんが腕を上げていく。 だって、子育て、子どもの発達、成長の後押しは、日々の積み重ねであり、家を巣立っていくまで続くから。 発達障害の子を持つ多くが、親になって初めて、障害と向き合い、支援者、専門家と呼ばれる人達と付き合います。 そのとき、勘違いする親御さんが少なくないと感じます。 「私じゃなくて、専門家がどうにかしてくれる、よりよく育ててくれる」 しかも、支援者側がそのように仕向けるので、余計、その方向に行ってしまいがちです。 「子どもは社会が育てていくものだ」 そのように主張する人もいます。 でも、発達障害の子ども達に関しては、発達のヌケという人間としての土台の部分に課題が

自らが治し、発達、成長させる

怪我をすると、血が出ます。 血が出たあと、その傷口を消毒したり、縫ったりして処置するのは、人間だけです。 他の動物は、そんなことはしません。 じゃあ、他の動物は怪我が治らないのかといったら、そうではなく、自らの力によって傷を癒し、再生していきます。 中には、切断した身体の部分を自己再生する動物もいます。 ですから、消毒液や縫合糸に傷を治す力はありません。 自分を治す力は自分が持っているのです。 そういった意味では、人間が作った医療も、治すための後押しをしているのだといえます。 人間の発達、成長も、同じだと私は考えています。 自らの内側に発達する力、成長する力を持っている。 しかも、それは止まることなく絶えず動いており、環境により良く適応するといった方向へと進んでいるのだと思います。 そのように考えると、発達に遅れがある子ども達は、何らかの理由で自らが持つ発達、成長する力が阻害されている状態、発揮できていない状態と言うことができます。 発達障害の人達は、ヒトの中に組み込まれた発達過程の中に抜けている部分があることが中心的な理由になります。 しかし他にも、動物として基本的な食事、睡眠、排泄に問題があること、不適切な養育、環境からの過剰な刺激などの理由も考えられます。 行動障害に関しても、環境により良く適応しようと動いた結果だと考えると、2つの側面が見えてきます。 まずすぐに思いつくのが、誤学習です。 周囲の誤った関わり、メッセージにより、誤った環境に適応してしまうということです。 また、本人が情報の切り取り方を間違ってしまい、誤った風に捉え、それに適応していってしまうということもあります。 もう一つの側面は、本人が今の環境の中でラクになろうとして動いた結果が、周囲からは認められなく、行動障害に見られてしまうということです。 自閉症で、かつ行動障害を持つ人の多くに、感覚面の課題を持っています。 周囲から理解されない彼らの行動も、そんな感覚面の課題に対する対処であり、自己治療のような気がします。 経験が浅いときには、「どうしてそんな行動をするのだろう」と疑問に思っていましたが、彼らと寝食を共にする中で、「やらざるを得ないからやっている」「そうしないと、自分の精神、命が保てないからやっている」そんな風に感じるようになり

行動障害と向き合うときに、仲間で掛け合っていた言葉

行動障害を持つ人達の支援をしているとき、一緒に働く仲間には2つのことを言っていました。 「“障害者”として、その人を見ない」と「粘る」です。 「“障害者”として、その人を見ない」というのは、障害特性や発達の具合を考慮しないということではありません。 多くの方は、感覚過敏など、感覚面に課題がありましたし、重い知的障害などの発達面の遅れが見られました。 ですから、どうしても「障害者」として見てしまいがちになります。 でも、そこで「障害者」と見てしまうと、無意識的に一歩引いてしまうのです。 「これくらいは許容範囲かな」「こっちが我慢すれば良いや」という具合に。 そうやって一歩引いてしまうと、一歩引いたところに、支援に関わっていた本人の世界の線が引かれていってしまいます。 行動障害を持つ方の多くは、重い知的障害も持っている人が多いので、そういった支援者の「一歩引く」という感覚が、ストレートに影響を与えてしまうのです。 言葉を獲得する以前の発達段階にいるのですから、そういった動き、雰囲気が彼らにとって世の中を読み解く“主”になっている。 一歩引くのが普通になると、また次の波がやってきたとき、さらに一歩引くことになります。 こうやって知らず知らずのうちに、支援する側が一歩ずつ下がっていくと、一般的な社会で生きていくことが難しくなっていきます。 ですから、障害者という眼鏡を外します。 20歳なら、一般の20歳の男性がこういった行動は許されるかという視点で見て、介入すべきでは、指導するべきではないか、と考えていく。 また、年齢の幼い子どもだったとしても、同じ年齢の子と比べてどうだろうか、もし親だったら将来のために注意しないだろうか、そんな風に考えていきます。 そうすると、無意識に一歩引くということがなくなりますし、障害のない子と同じように、将来の自立、社会で生きていくために、何を教え、何を注意しなければいけないのかが見えるようになります。 行動障害を持つ人の支援というのは、本人はもちろんのこと、周囲にとってもしんどいことです。 しかも、身に付けてしまった行動を角度を変えて、別の方向へと導いていくのは時間がかかることです。 途中で諦めたり、支援を止めてしまうと、ある意味、糸が絡まってできあがった問題行動が、さらに別の糸で絡まってしま

激しい行動は、エネルギー、生命力の強さの表れ

行動障害を持つ人の中で、その頻度や強度が強い人は、強度行動障害になります。 私が働いていた施設は、強度行動障害支援事業を行っていましたので、その判断基準となる「強度行動障害判定基準表」を度々使っていました。 これをご覧になればわかると思うのですが、ひどい自傷、他害、激しいこだわり、器物破損など、行動障害と聞いて思い浮かべやすい項目から、睡眠、食事、排泄、多動など、よく「問題行動」と言われている項目など、全部で11項目について、どれくらいの頻度で見られるかで得点を付けていき、一定の点数を超えると、「強度行動障害」と判定されます。 よく勘違いされている方がいらっしゃるのですが、嫌なことがあったとき、自分の頭をポカッと叩く、これだけでは強度行動障害になりませんし、行動障害というのも難しいといえます。 何故なら、ポカッというくらいの力の強さでは、行動障害と表現できるものではないからです。 また、いくら自分を怪我させるほどの力の自傷だったとしても、他の項目、つまり、ひどい他害や激しいこだわり、睡眠や食事に問題がなければ、強度行動障害の基準を超えないのです。 具体的に記せば、激しい自傷が「一日中ある」で5点、でも、他に行動障害が見られないと0点で、合計が10点以上ないと強度行動障害になりませんので、その人は「激しい自傷がある人」になります。 強度行動障害の判定基準を超えるには、ただの自傷、他害、こだわりではなく、どれも激しくて、それも頻繁に見られるものが、複数ある必要があります。 ですから、強度行動障害と判定されるくらいになるまでには、相当難しいといえます。 私が施設で接してきたひどい強度で、それも頻繁に見られる人達。 そういう人達の多くは、糸が絡まりまくっている状態、そんな風に見えました。 始まりは発達のヌケや遅れだったのですが、それが人や環境の影響を受けながら、よりいびつな方へと形作られていった。 「もう少し早い段階で何かできなかったものか…」 「ネガティブな影響を与えた要因が一つでも少なかったら…」 ここまであらゆる面で、行動障害が現れなかったのに、と思うこともありました。 しかし今、「エネルギー」というワードを見聞きする中で、発達のヌケと環境のズレだけではなく、本人たちにも共通性があったような気がしてきました。 それは、みなさ

接待を求める人

突然、絡んでくる障害を持った子の親や当事者の人というのは、日頃から接待受けてます臭がプンプンしてきます。 見ず知らずの私に対しても支援者というだけで、自分の意見や要求が通る、横柄な態度をとっても許される、そんな風に考えているように思えてきます。 「支援者」という文字だけで甘えてしまうのですから、周囲にいる支援者というのは、たくさんいい子いい子してくれているのでしょう。 発達障害は親の育て方が原因の時代が過去にあり、今もそのように見られることがありますので、その揺り戻しとして丁寧に扱い過ぎる傾向があるように感じます。 「障害を持った子を持つかわいそうな親」などと、支援者側が勝手な価値観を持っていると、「心のケアが大事」などと、とにかく傷つけないように、親が気持ちよくなるように、と対応してしまう。 さらに「傾聴」なんて言われますから、親の言うことを「うんうん」と聞いてしまう。 耳を傾けて、しっかり聞くことと、親の言うことはすべて聞く(否定しない)は違いますよね。 しかし、こういった支援者の対応も、親御さん自体の揺らぎが収まってくると、違和感に感じてきます。 でも、そこで現実が改善せず、揺らいだままでいると、だんだん支援者の接待が親自身の癒しになり、甘えにつながっていくのです。 飲食店などでも、店員の対応が悪いと文句を言う人はいます。 こういった人間は、お店に行ってお客様扱いしてもらうことを求めているんですね。 つまり、実生活が満たされていない、実生活の中で自分の存在価値が見いだせない。 だからこそ、お店に行き、お客様扱いされることで、自己治療している。 「支援者なら何でも言うことを聞いてくれる」という誤学習は、支援者側の仕事の意味のはき違えと、親側の現実的な問題、下手くそな自己治療の結果だといえます。 現実が充実していればクレーマーにはなりませんし、逆言えば、クレーマーの多くは、現実世界に問題を抱えた人なんだと考えられます。 ですから、支援者ということだけで横柄な態度が取れる親というのは、実生活に、特に我が子の成長に関して不満や不安があるということであり、その周りにいる支援者も、その現実を変えられるくらいの力がない、また接待が支援だと勘違いしている、そんな姿が想像できますね。 一方、当事者の人の接待慣れというのは、親の接待

多様性を認める社会に生きる上での最低限のマナー

SNSを利用されている方は経験があると思うのですが、いきなり見ず知らずの、しかもハンドルネームで突っかかってくる人がいますね。 私も年に1,2回は絡まれるのですが、その人達は障害を持った子の親御さんであったり、当事者の人っだったりすることがほとんどです。 最初の頃は、「自分の表現がまずかったのかな」「文章力の問題かな」なんて思っていましたが、いつも決まって一部分を取り上げて、また独自解釈をして、なんだかんだ言ってくるので、これは実生活の中で鬱積した感情を持った人が、自分で処理できずに、誰でも良いから他人を巻き込んで自己治療しているのだと思うようになりました。 私のブログを定期的に読んでくださっている方たちやツイッターをフォローされている方たちの中にも、「ここは違う意見だ」「この考えは間違っていると思う」「別の事実、見方もあるのでは」などと思って目を通されている人がたくさんいるはずです。 いつも、まったく同じ意見だということの方が不自然です。 でも、だからと言って、いちいち突っかかってはきません。 どうしても何か言いたくなるのは、自分の中に処理できていない、認めたくない感情があるからだと思います。 それが私の言葉によって呼び起こされる。 突っかかってくる人は共通して、まるで自分が一人言われているかのように捉えています。 たとえ自分の意見と違っても、自分が選択したことが否定されていたとしても、自分自身が納得して選択したのなら揺るがないし、スルーできるはず。 不特定の人に向けた文章を自分の意思で見て、「私のことが言われてる!」となるのは、元から自分の中にその感情、経験があるからに違いありません。 勝手に風呂場を覗き見しておいて、「なんだ、俺のタイプじゃないじゃん」って文句言っているようなものですね、その人にスケベ心があるから覗くのです。 やりとりを繰り返していると、よく「支援者なんだから、発言、影響力に気を付けろ」みたいなことを言われます。 たとえ私が支援に携わる仕事をしていたとしても、すべて正しいわけではありませんし、そもそも日本にいるたくさんの支援者の中の一人です。 影響力があるはずはありませんし、影響力があるように感じているのは、受け手の勝手な解釈だと思います。 こういった人は、多分、主体性のない人で、権威主義の人なのでしょ

医師だって治すつもりで処方してないですよ、精神科薬

ある時期から、入所してくる子ども達がみんな精神科で処方された薬を飲んでいるようになりました。 それまでのお兄ちゃん、お姉ちゃん達は、3歳、4歳などといった幼少期から服薬している子はほとんどいませんでしたし、精神科薬を飲み始めるのは、行動障害がひどくなったときから、といったものでした。 しかし、いつからでしょうか…あっ、早期診断、早期療育が言われ始めてからですね。 自閉症、発達障害と診断を受ける→精神科薬処方→服薬といった流れがポピュラーになったのは。 発達障害の人達にとって精神科薬は対処療法の一つです。 精神科薬に発達のヌケを育て直す作用はありませんし、そもそも処方している医師たちは、「発達障害は治らない」と言っています。 ですから、医師も治すつもりはないし、根本治癒を目指したものではありません。 あまりにも幼い子ども達が3歳とか、4歳とか、一般的に言ったら幼稚園の年少組、年中組のときから精神科薬を飲んでいる。 これは衝撃でしたし、みんなボーとしていたし、学校から帰ってきたら眠くて起きていられなかったですね。 学校の先生からも、授業中、上記のような状態があり、「学習が難しい」と言われたこともありました。 ですから、服薬しなくて済むように、と言いますか、もともと施設に入所したのですし、家で生活しているときのような対処は必要ないのですから、服薬中止の方向で支援を進めていきました。 まあ、その結果は予想通りと言うか、支援が整えば、落ち着くし、そうでなければ、いくら薬を飲もうが関係ない。 薬を飲むのと、飲まないのの違いは、副作用があるか、ないかでしたね。 ごく一般的な感覚として、幼稚園で遊んでいる子ども達が精神科の薬を毎日飲んでいるって、どう思いますか? 医療関係者じゃなくても、ヤバいっしょって思いませんか。 心身共に成長著しい時期で、神経発達の障害と言われている子が、今まさに人生で一番神経発達が盛んな時期を過ごしている。 そこに化学物質を入れる。 「これで感情の起伏が落ち着く」「これでADHDの症状が収まる」 そんなことを言われて処方される子もいるようですが、感情の起伏のない幼稚園児、走り回らない幼稚園児って、そっちの方が心配ですね。 たとえ、衝動的に手が出てしまう、走り回って目が離せないくらいの状態だったとしても、服

「幸せ」という言葉を使って伝えたいこと

ブログでこんなことを書くと、一気に宗教っぽくなってしまうんですが、「幸せに生きる」これこそが目指すべきゴールだと考えています。 「治りたい人」「治したい人」を後押しする活動を行っていますが、ぶっちゃけ治っても、治らなくても良いと思っていて、それよりも「ああ、幸せだな」と本人や家族が感じられたら、それこそが最も大事なことだと思うのです。 ですから、初めてお会いするときと、私の援助を終えるときには、特に強調して伝えますし、関わる過程でも「幸せ」という言葉を使います。 「幸せ」という言葉を使って、私が一番伝えたいことは、何かを得て幸せになるですとか、何かを達成して幸福感を感じるですとか、そういった類のことではありません。 私が伝えたいことは、自分の感覚を大切にする、中心に考える、ということです。 支援者から「この子は、無理せず、できることをやっていけば良い」「この子は、一生涯支援を受けながら生きることが幸せなんです」と言われて、そう思うのならそれで良いと思います。 でも、「ずっと支援を受け続けることが幸せなんだろうか?」「挑戦させないで、私達が転ばぬ先の杖でい続けることが、この子のためになるのだろうか?」、そんな疑問や違和感があるのなら、それは止めた方が良いと思うのです。 専門家が言った、周りに私と同じ考えの人がいない、そんな理由で、自分の感覚に蓋をする人が少なくありません。 精神科薬の服薬だってそうです。 親としては飲ませたくない、このままずっと飲み続けることがこの子の健康、発達に影響しないだろうか、副作用に苦しまないだろうか、そう思っていて、私にもお話しされる親御さんもいます。 でも、服薬を続けている。 朝、子どもを学校に送りだし、子どもは学校、放課後は児童デイで、夕方暗くなって帰ってくる。 親としてはラクだけれども、本当にこの子のためになっているのだろうか、そして、ほとんど顔を合わせない子育てって、家族での日々って幸せなんだろうか、療育よりも子どもと一緒に遊びたい、普通の家族のようにいっぱい思い出を作りたい。 そう思う人もいます。 子ども達が成人したあと、振り返ったら家族一緒の思い出があまりなかった、親としての達成感がなかった。 「支援を受け続けることが幸せだ」というのは、頭で覚え、考えた「幸せ」なんだと思います。

教えるのではなく、支えるのでもなく、引き出していく

長らく対処療法を推し進めてきた地域だからかもしれませんが、「絵を見せたら、パッと理解できた」「部屋を構造化したら、すぐに落ち着いた」みたいなのをイメージされている方達が少なくありません。 みなさん、すぐにパッと結果が出ることを求めているし、専門家の支援とはそういうものだと考えているように感じます。 ですから、「発達のヌケを育て直すには、家族が中心となって家庭でコツコツ積みあげていく必要があります」というような話をすると、「えっ」という表情をされますし、やっても続かない人が多いですね。 始めて一週間も経たないうちに、「大変です」「私には無理です」「先生、どうにかして」と言ってこられる方もいます。 対処療法しか知らず、対処療法慣れをしてしまった結果なのでしょう。 当地で言えば、視覚支援、構造化された支援が長らく、今も(?)中心でした。 「構造化された支援は、自閉症者の生活を豊かにする最適な方法である」 そんな風に押し進められ、今も信じている人がいます。 確かに、問題行動を起こしていた子が、生活が構造化されることによって落ち着きを取り戻すこともあります。 言葉で伝えてもなかなかわからなかったことが、絵に描いて伝えたら、「瞬時に理解できた!」ということもあります。 ですから、推し進めてきた側は「最適な方法」と言うし、見ている側は、すぐに結果が出るもんだから、「これこそが支援だ」と思う。 でも、大事な視点が抜けているし、隠されているんですね。 そうです、これってその場限りの対処療法だってこと。 視覚的に示したり、構造化して環境を整えたりすれば、理解できるし、落ち着くことだってできる。 でも、多くの人達が肌身で感じているように、場所や文脈が変わった途端、また元の状態に戻ってしまう。 推し進める側は、場所が変わってできなくなるのは自閉症の特性だと言い、そのためにもっと構造化が必要だと主張する。 それを聞いた多くの人は、場所が変わる前にできていたんだから、「その特性に配慮しろー」「できなくなった場所にいた支援者が悪い、構造化していないのが悪い」となる。 しかしながら、結局のところ、対処療法で対処していただけのことですから、根本的な課題にはアプローチしていないし、根本的に理解したわけでもありません。 むろん、発達のヌケは埋まっていきません。

支援者は消えても、対処療法は残るからご安心を

対処療法を求め、広めようとする人たちの中には、「治す」が広まってしまうと、自分たちが推し進める対処療法が消えてしまうんじゃないかと危惧している人もいるようです。 でも、いくら「治す」が広まっても、対処療法がなくなることはないと思います。 幼少期や、今まさに問題が起きてしまっているときなどは、じっくり育て直すよりも、スピードが必要であり、対処で乗りきらなければならないことがあります。 また視覚支援や構造化、イヤーマフ、電子機器など、根本の育て直しにはつながらなかったとしても、より良く学び、生活できるアイディアは、時代が進もうとも活用されていくはずです。 ですから、「治る」が広まっても、対処療法は残っていくと思います。 近い将来、5年もすれば、「治す」は標準になると思います。 もしかしたら「治す」という言葉は使われなかったとしても、発達障害は神経発達の障害なのですから、「その神経を育てていこう!」「発達のヌケているところは刺激を与えて育て直していこう!」となるはずです。 治った人も珍しくなくなり、治すためのアイディアも溜まっていくはずですから、全国各地で神経発達を促すための試行錯誤が行われていくと思います。 対処療法や補助を利用し、今の生活の質を高めつつ、もう片方で発達のヌケの育て直しを行っていく。 それが近い将来の基本的な姿になると予想しています。 そんな近い将来は、求められる支援者の姿も変わっているはずです。 特定の対処療法しか引き出しのない支援者は必要がなくなります。 「根本から治す」と「対処する」の両方の視点がなければ勤まりませんし、これが最低基準になると思います。 このベースの上に、発達のヌケの見立ての質の高さ、一人ひとりに合わせた治すと対処の組み立てができるかが問われてくる。 「治す」と「対処」の絶妙なバランスが見える人、取れる人です。 そして、「根本から治す」を追い求めていくと、どうしても家族、家庭と突き当り、その力が重要になってきます。 発達のヌケを育て直すのは、家族が主体であり、家族の試行錯誤の中で育まれていくものです。 そうなれば、今のように支援者はいらなくなります。 正確な発達のヌケの見立てができ、一人ひとりに合った組み立てができる支援者が少数いればいいのです。 そういう人が後方から発達援助を後押し

エビデンスが得られたとしても、治るを選ばない人、否定する人

「治るなんてインチキだ!」と言う人は相変わらずいます。 そして、その理由を「エビデンスがないから」と言う。 でも、治ることにエビデンスが得られたとしても、そういう人は「治る」を選ばないし、粗探しをしてでも否定すると思うんです。 何故なら、彼らが守りたいのは、エビデンス、科学的根拠ではないはずだから。 だって、そう言っている人の大部分は、親御さんだったり、支援者だったりするのです。 研究者だったらエビデンスにこだわるのもわかるけれど、申し訳ないですが、一般の親御さん、そこら辺にいる支援者がエビデンスを守ろうとする意義もなければ、私にはその意味がわかりません。 一般的な感覚なら、目の前にいる子が「より良くなる」それ以外の軸はないと思うんですね。 じゃあ、彼らが「治る」の何に恐れているのか。 それは、「発達障害になるのは誰のせいでもないが、発達障害が治らないのは親のせいであり、支援者のせい」、つまりこういうことだと思うんです。 結局、我が子の発達、成長よりも、自分が否定されることを恐れていて、そうなりそうなときのために「治らない。だって、障害だから」という逃げ道がほしいということなんだと感じます。 愛着の土台がしっかり育っている人は、他者から何を言われようとも揺らぎません。 ですから、自分の育て方を信じて進むことができるし、もし他者からの指摘が「そうだな」と思えば、柔軟に取り入れることができる。 指摘されること、否定されること=自分の存在自体が否定されている、ではない。 それが頭でも、身体でも、感覚でもわからない。 そういう自分の愛着に課題が残っている人が、治るを否定し、「治らないのは、あなたのせい」と言われるのを恐れているのです。 よく治るを目指している親御さんの中にも、「私が悪くて、なかなか治っていかない…」などと自己否定っぽく言われる方がいますが、たとえ治っていかなかったとしても、別に親御さんが悪いとか、悪くないとか、言っているわけではありません。 ただ単に治し方がずれているか、発達のヌケの部分の見立てが誤っているかです。 それを頭の中で自動的に「治らない=自分のやり方が悪い=自分はダメな人だ」と変換してしまっている。 やっぱり何でもすぐに自己否定と繋げてしまう人というのは、愛着という土台に揺らぎがあり、課題がある

「治る」を強調しなくても良い時代へ

治らないと信じている人が、「発達障害は治りません!」と言うのを見ると、可笑しくなってしまいます。 だって、言っている本人が信じられていないんじゃんって思うからです。 治る治らないじゃなくても、自分が信じ、確信していることを、知らない他人が反対の主張をしていたとしても、普通は気にも留めませんね。 治らないと信じ、確信して子育て、支援されているというのなら、そのまま治らず、治さず、歩まれたら良いはずです。 治らないと思っていた子が治らなかった。 言っている通りになったのですから、それで良いじゃないですか。 でも、「治る」と言う人や、治った人を見かけると、どうしても何か言いたくなる。 それは、妬み、僻み、嫉みの表れであり、そもそも「治らない」を信じ切れていないということです。 だから、いちいち「治る」を否定してこようとする人は、必死さがある人ほど、「治らない」という主張が揺れているのです。 「治らない」という確信が持てないから否定しようとする。 本当は治ってほしいと願っているからこそ、必死になる。 治らない確信が持てている人は、わき目も触れずに治らない道を突き進むものです。 じゃあ、お前はどうして「治る」という言葉を使うんだ? お前こそ、「治る」という確信が持てないから否定するんじゃないか? と言われそうですね。 以前、「治す」という言葉を敢えて使って宣伝しているんだ、とズレた見解を示していたローカルギョーカイがいましたが…。 私が「治る」という言葉を使うのは、発達障害は治るし、治った人を見てきたからそう言うのが一番の理由です。 そして、発達障害という診断を受けた子の親御さんが、まず想う「治る方法はないだろうか」という願いをギョーカイに潰してもらいたくないからです。 ギョーカイが垂れ流す情報はもちろんですが、公的な機関でも「治らない」という情報で溢れています。 でも、「本当にそうだろうか」「治る方法があるのではないか」と想い続ける親御さんはいます。 そんなとき、「治る」という言葉と出会えれば、希望を持ち続けることができ、自然な親心とエネルギーをお子さんの発達、成長に注ぐことができます。 一年以上、探し続けて、やっと私とつながった方もいます。 しかし、別に私とつながらなくても良いのです。 治らないしかない

「治ってほしい」と願わない親などいない

「発達障害は治りません!」 そう言う親御さんは、嘘をついていると思う。 そう言う親御さんは、他人に言っているようで、本当は自分自身に言っているのだと思う。 「発達障害は治るとか、治らないとかじゃくて!」 声を荒げながらも、心の奥底で「治ってほしい」と願っているはずだ。 だって、そうでしょ。 現代医学では「治せない」「治った子が一人もいない」 そのような病気、障害を持ったとしても、「もしかしたら、世界には治せる人がいるかもしれない」「今は無理でも、数年、数十年待てば、医学の力で治せるかもしれない」 そう思って、愛する我が子と懸命に生きようとしている家族はたくさんいる。 もし私の子に重い病気があり、私の心臓が必要だと言われたら、喜んで心臓をあげようと思う。 自分の命と引き換えに、息子の命が助かるのなら、息子の病気が治るのなら、我が身など惜しくはない。 それが自然な感情であり、親心。 施設で発達障害の子ども達と共に生活していたとき、自傷する子を見れば苦しくなった。 睡眠障害で一晩中寝られず、声を挙げていた子がいれば、「寝られなくて辛いよね」と一緒に朝を迎えた。 あのとき、私の中に治るという視点も、治すという方法もなかったけれど、こういった子ども達を見れば、いつか医療で治るようになってほしい、と思っていた。 今だって、他人様の子の発達援助に携わらせてもらっているが、いつも「治ってほしい」という想いでいる。 だから、「発達障害は治りません!」「発達障害は治るとか、治らないとかじゃくて!」と言っている親御さんは、嘘つきだと思う。 自分自身に嘘をついている。 本当は、誰よりも治ってほしいと願っているに違いない。 世の中には、症例がほとんどなく、不治の病と言われている難病の子ども達がいる。 大変な状況で生まれきて、「今日一日、一日が生きているだけで奇跡」という子もいる。 そういった子ども達、親御さん達が、希望を持って精一杯生きているというのに、何故、発達障害の子の親御さん達が諦めるのだろうか?どうして諦めることができるのだろうか? 発達障害は神経発達の障害だ。 彼らの身体の中には神経がないのだろうか? 神経がダメージを受けて、もう変化が起きないのだろうか? いや、違う。 彼らの身体の中にも、発達する力を持った神

どうせ治らないのなら(ブログ700号目)

どうせ治らないんでしょ。 だったら、早期診断、早期療育なんてしなくていいんじゃない? 幼い子の手を引っ張って、長い時間、知らない大人たちのモルモットを見るような眼差しの中、過ごさせるのは、子にとっても、親にとっても、ただただ辛いだけ。 「ちょっと変わった子」「発達が遅い子」として、家族の自然な営みの中で、幼少期を送る方が幸せだと思うよ。 どうせ治らないんでしょ。 だったら、支援者も、専門家もいらないんじゃないかな。 治せないけれども支援する。 治せないけれども専門家。 支援者は何を支援し、専門家は何を専門に研究しているのだろう。 支援者と介護者、ヘルパーの違いは? 発達障害の専門家と、発達障害マニア、オタクの違いは? 高齢者施設のスタッフたちは、お年寄りの話にきちんと耳を傾ける。 そして、お年寄りの意思を尊重する。 病気になれば、医師は治そうとする。 マニアだって、同じ愛好家仲間で盛り上がるだけ。 興味関心のない人に強要しない。 当事者と家族は、発達障害マニアではない。 だから、高齢者施設のスタッフの方たち、大部分のお医者さん達、「違いは?」といって同列で比べてしまってごめんなさい。 どうせ治らないんでしょ。 だったら、本人がやりたいように、意思を尊重すればいいんじゃないかな? というか、本人、家族の意思を否定し、それを超えた道を選ばせるのは、よっぽどのことがなければ、他人が行うこともできないし、その権利もない。 他人が代わりに判断し、選択するとしたら、その時点で、本人を、家族を、「意思決定ができない人」「自分よりも、誤った判断しかできない人」というように、下に見ているよね。 「一人ひとりを尊重し」てないし、「心から寄り添って」いない。 どうせ治らないんでしょ。 だったら、エビデンスにこだわる必要はないし、認定資格だって必要はない。 治せないのに、どうして、そんなにも長期的に、多量の精神科薬が必要なのだろう? どうせ治らないんだったら、精神科薬よりも、ミネラルをたくさん含んだ食物を口の中に入れる方が健康になれると思うよ。 エビデンスがあっても、なくても、結局は治らない。 エビデンスにこだわる人達というのは、「治らない」というエビデンスを一生懸命集めているのだろうか…。 どっかの誰かが作った認定