接待を求める人
突然、絡んでくる障害を持った子の親や当事者の人というのは、日頃から接待受けてます臭がプンプンしてきます。
見ず知らずの私に対しても支援者というだけで、自分の意見や要求が通る、横柄な態度をとっても許される、そんな風に考えているように思えてきます。
「支援者」という文字だけで甘えてしまうのですから、周囲にいる支援者というのは、たくさんいい子いい子してくれているのでしょう。
発達障害は親の育て方が原因の時代が過去にあり、今もそのように見られることがありますので、その揺り戻しとして丁寧に扱い過ぎる傾向があるように感じます。
「障害を持った子を持つかわいそうな親」などと、支援者側が勝手な価値観を持っていると、「心のケアが大事」などと、とにかく傷つけないように、親が気持ちよくなるように、と対応してしまう。
さらに「傾聴」なんて言われますから、親の言うことを「うんうん」と聞いてしまう。
耳を傾けて、しっかり聞くことと、親の言うことはすべて聞く(否定しない)は違いますよね。
しかし、こういった支援者の対応も、親御さん自体の揺らぎが収まってくると、違和感に感じてきます。
でも、そこで現実が改善せず、揺らいだままでいると、だんだん支援者の接待が親自身の癒しになり、甘えにつながっていくのです。
飲食店などでも、店員の対応が悪いと文句を言う人はいます。
こういった人間は、お店に行ってお客様扱いしてもらうことを求めているんですね。
つまり、実生活が満たされていない、実生活の中で自分の存在価値が見いだせない。
だからこそ、お店に行き、お客様扱いされることで、自己治療している。
「支援者なら何でも言うことを聞いてくれる」という誤学習は、支援者側の仕事の意味のはき違えと、親側の現実的な問題、下手くそな自己治療の結果だといえます。
現実が充実していればクレーマーにはなりませんし、逆言えば、クレーマーの多くは、現実世界に問題を抱えた人なんだと考えられます。
ですから、支援者ということだけで横柄な態度が取れる親というのは、実生活に、特に我が子の成長に関して不満や不安があるということであり、その周りにいる支援者も、その現実を変えられるくらいの力がない、また接待が支援だと勘違いしている、そんな姿が想像できますね。
一方、当事者の人の接待慣れというのは、親の接待慣れと比べて、説明がシンプルです。
以前は「自閉症の想像性の障害から」なんて、私も教科書通りな浅い解釈しかできていませんでしたが、そうではなく、ただ単純に住む世界が狭いだけ。
自閉症のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちも、学校を卒業し、社会に出ていろんな人と出会い、働き始めると、社会のルールや暗黙の了解、人との付き合い方が分かり、実践できるようになっていっていました。
ですから、障害特性ではなく、狭い世界で生きている、いろんな人と関わっていない、経験不足なのだと思います。
そういった当事者の人達の多くは、ごく限られた人の中で、特に支援者と利用者という関係性がある人の中で生活しているので、勘違いが続き、誤学習が進んでいく。
では、なぜ、支援者側は当事者の人に接待しがちなのか?
もし一般就労や社会の中で生きていけるように、と本気で考えていたら、接待などせず、社会の中でより良く生きていけるような接し方、指導をするはずです。
支援者という仕事は、障害を持った人がいて成り立つ仕事であり、利用回数によってお金が増えていく仕事です。
ですから、お客様扱いして、何でも要求を受け入れておけば、ずっと利用してくれる、そんな考えで接待している人もいるでしょう。
でも、私がシンプルに思うのは、結局、支援者自体が無理だと思っている。
「この人は一般就労は無理」「一生福祉の世界にいるだろう」「どうせ問題行動は治らない」
そんな諦めを含んだ「無理」が接待を後押しするのだと思います。
「今、問題が起きなきゃいいじゃん。だから、一般的に考えたら、おかしいし、ダメだけれども、うんうんと聞いて、その場しのぎをしておこう」って感じです。
突然、絡んでくる当事者の人は、だれかれかまわず、また時間も関係なく、接待を求めている傾向があります。
こういった様子から、エネルギーを持て余している姿が想像できます。
仕事をしていないか、福祉的な軽作業をしているのでしょう。
あり余った消費しきれなかったエネルギーを、自分が唯一できて、長らく受けてきた接待という下手くそな自己治療へと向かわせてしまう。
こうして考えてみると、やっぱり治ることが大切なんですね。
突然絡んできた相手に対して、一般的な、常識的な対応をすることで、接待しない人もいることを伝える。
でも、接待を求めてしまう根っこは、実生活の不満と不安とつながっている。
ですから、実生活、特に障害を持った本人がより良く発達し、成長することが、接待を求める気持ちを減退させ、同時に接待に向かわせたエネルギーを本人の未来への後押しに向かわせる近道です。
治ることは、治すことは、本人の自立とより良い生活だけではなく、迷惑をこうむる人を減らすことにもつながる。
そのためにも、支援と接待の違いを理解することが、本人、家族、そして支援者にとっても必要なことだと思っています。
見ず知らずの私に対しても支援者というだけで、自分の意見や要求が通る、横柄な態度をとっても許される、そんな風に考えているように思えてきます。
「支援者」という文字だけで甘えてしまうのですから、周囲にいる支援者というのは、たくさんいい子いい子してくれているのでしょう。
発達障害は親の育て方が原因の時代が過去にあり、今もそのように見られることがありますので、その揺り戻しとして丁寧に扱い過ぎる傾向があるように感じます。
「障害を持った子を持つかわいそうな親」などと、支援者側が勝手な価値観を持っていると、「心のケアが大事」などと、とにかく傷つけないように、親が気持ちよくなるように、と対応してしまう。
さらに「傾聴」なんて言われますから、親の言うことを「うんうん」と聞いてしまう。
耳を傾けて、しっかり聞くことと、親の言うことはすべて聞く(否定しない)は違いますよね。
しかし、こういった支援者の対応も、親御さん自体の揺らぎが収まってくると、違和感に感じてきます。
でも、そこで現実が改善せず、揺らいだままでいると、だんだん支援者の接待が親自身の癒しになり、甘えにつながっていくのです。
飲食店などでも、店員の対応が悪いと文句を言う人はいます。
こういった人間は、お店に行ってお客様扱いしてもらうことを求めているんですね。
つまり、実生活が満たされていない、実生活の中で自分の存在価値が見いだせない。
だからこそ、お店に行き、お客様扱いされることで、自己治療している。
「支援者なら何でも言うことを聞いてくれる」という誤学習は、支援者側の仕事の意味のはき違えと、親側の現実的な問題、下手くそな自己治療の結果だといえます。
現実が充実していればクレーマーにはなりませんし、逆言えば、クレーマーの多くは、現実世界に問題を抱えた人なんだと考えられます。
ですから、支援者ということだけで横柄な態度が取れる親というのは、実生活に、特に我が子の成長に関して不満や不安があるということであり、その周りにいる支援者も、その現実を変えられるくらいの力がない、また接待が支援だと勘違いしている、そんな姿が想像できますね。
一方、当事者の人の接待慣れというのは、親の接待慣れと比べて、説明がシンプルです。
以前は「自閉症の想像性の障害から」なんて、私も教科書通りな浅い解釈しかできていませんでしたが、そうではなく、ただ単純に住む世界が狭いだけ。
自閉症のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちも、学校を卒業し、社会に出ていろんな人と出会い、働き始めると、社会のルールや暗黙の了解、人との付き合い方が分かり、実践できるようになっていっていました。
ですから、障害特性ではなく、狭い世界で生きている、いろんな人と関わっていない、経験不足なのだと思います。
そういった当事者の人達の多くは、ごく限られた人の中で、特に支援者と利用者という関係性がある人の中で生活しているので、勘違いが続き、誤学習が進んでいく。
では、なぜ、支援者側は当事者の人に接待しがちなのか?
もし一般就労や社会の中で生きていけるように、と本気で考えていたら、接待などせず、社会の中でより良く生きていけるような接し方、指導をするはずです。
支援者という仕事は、障害を持った人がいて成り立つ仕事であり、利用回数によってお金が増えていく仕事です。
ですから、お客様扱いして、何でも要求を受け入れておけば、ずっと利用してくれる、そんな考えで接待している人もいるでしょう。
でも、私がシンプルに思うのは、結局、支援者自体が無理だと思っている。
「この人は一般就労は無理」「一生福祉の世界にいるだろう」「どうせ問題行動は治らない」
そんな諦めを含んだ「無理」が接待を後押しするのだと思います。
「今、問題が起きなきゃいいじゃん。だから、一般的に考えたら、おかしいし、ダメだけれども、うんうんと聞いて、その場しのぎをしておこう」って感じです。
突然、絡んでくる当事者の人は、だれかれかまわず、また時間も関係なく、接待を求めている傾向があります。
こういった様子から、エネルギーを持て余している姿が想像できます。
仕事をしていないか、福祉的な軽作業をしているのでしょう。
あり余った消費しきれなかったエネルギーを、自分が唯一できて、長らく受けてきた接待という下手くそな自己治療へと向かわせてしまう。
こうして考えてみると、やっぱり治ることが大切なんですね。
突然絡んできた相手に対して、一般的な、常識的な対応をすることで、接待しない人もいることを伝える。
でも、接待を求めてしまう根っこは、実生活の不満と不安とつながっている。
ですから、実生活、特に障害を持った本人がより良く発達し、成長することが、接待を求める気持ちを減退させ、同時に接待に向かわせたエネルギーを本人の未来への後押しに向かわせる近道です。
治ることは、治すことは、本人の自立とより良い生活だけではなく、迷惑をこうむる人を減らすことにもつながる。
そのためにも、支援と接待の違いを理解することが、本人、家族、そして支援者にとっても必要なことだと思っています。
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