どうせ治らないのなら(ブログ700号目)

どうせ治らないんでしょ。
だったら、早期診断、早期療育なんてしなくていいんじゃない?
幼い子の手を引っ張って、長い時間、知らない大人たちのモルモットを見るような眼差しの中、過ごさせるのは、子にとっても、親にとっても、ただただ辛いだけ。
「ちょっと変わった子」「発達が遅い子」として、家族の自然な営みの中で、幼少期を送る方が幸せだと思うよ。


どうせ治らないんでしょ。
だったら、支援者も、専門家もいらないんじゃないかな。
治せないけれども支援する。
治せないけれども専門家。
支援者は何を支援し、専門家は何を専門に研究しているのだろう。


支援者と介護者、ヘルパーの違いは?
発達障害の専門家と、発達障害マニア、オタクの違いは?
高齢者施設のスタッフたちは、お年寄りの話にきちんと耳を傾ける。
そして、お年寄りの意思を尊重する。
病気になれば、医師は治そうとする。
マニアだって、同じ愛好家仲間で盛り上がるだけ。
興味関心のない人に強要しない。
当事者と家族は、発達障害マニアではない。
だから、高齢者施設のスタッフの方たち、大部分のお医者さん達、「違いは?」といって同列で比べてしまってごめんなさい。


どうせ治らないんでしょ。
だったら、本人がやりたいように、意思を尊重すればいいんじゃないかな?
というか、本人、家族の意思を否定し、それを超えた道を選ばせるのは、よっぽどのことがなければ、他人が行うこともできないし、その権利もない。
他人が代わりに判断し、選択するとしたら、その時点で、本人を、家族を、「意思決定ができない人」「自分よりも、誤った判断しかできない人」というように、下に見ているよね。
「一人ひとりを尊重し」てないし、「心から寄り添って」いない。


どうせ治らないんでしょ。
だったら、エビデンスにこだわる必要はないし、認定資格だって必要はない。
治せないのに、どうして、そんなにも長期的に、多量の精神科薬が必要なのだろう?
どうせ治らないんだったら、精神科薬よりも、ミネラルをたくさん含んだ食物を口の中に入れる方が健康になれると思うよ。
エビデンスがあっても、なくても、結局は治らない。
エビデンスにこだわる人達というのは、「治らない」というエビデンスを一生懸命集めているのだろうか…。
どっかの誰かが作った認定資格を、お金を払えば取れる認定資格を、持っている人よりも、信頼できる人の方が何百倍も一緒にいて楽しい。


どうせ治らないんでしょ。
だったら、療育も、投薬もやめて、今ある福祉サービスも全部なくして、そこに使っていた人とお金をすべて当事者の人達の生活のために使えばいい。
診断を受けたあとは、一生涯介助を受け、余暇活動を楽しんだり、健康的な生活を送ればいい。
刺激の少ないコロニーみたいなところで、みんな仲良く共同生活を送ればいい。
それか、一日一万円で、旅館暮らしもできる。


でも、嫌でしょ、そんな生活、そんな人生。
子ども達も、家族たちも、社会も、望んではいない。
だから、治そうよ。
「治らない」じゃなくて、治すために頑張ろうよ。
感覚過敏は仕方がないではなくて、その辛さ、どうにかならないか、少しでも治らないかと思いを巡らせ、行動に起こそうよ。
「行動障害にできることは限られている」といっちゃあ、おしめ~よ。
行動障害は、本人も、周りも、悲惨。
だからこそ、俺が治す、私が治す、でしょ。
今、治せなくても、きっと治してみせるという気概は持てるはず。
「そうならないために、事前の対応が重要でーす」
それができてたら、苦労はないし、そもそも、そんなこと言うヤツはいらない。


「治る」「治す」を否定し、バカにする人達。
だったら、まず自分の仕事を否定することから始めましょう。
そして、その言動は、自然に湧き上がる「治りたい」という当事者の人達の気持ち、「治ってほしい」と思う親心を否定していることに気がつくべき。


「治りたい」と思うから、人生前向きに、主体的に生きていける。
「治したい」と思うから、支援者が存在する。
「治る」は、生きる力。
その力を、あなたに否定する権利が、奪う権利があるのだろうか?

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