教えるのではなく、支えるのでもなく、引き出していく
長らく対処療法を推し進めてきた地域だからかもしれませんが、「絵を見せたら、パッと理解できた」「部屋を構造化したら、すぐに落ち着いた」みたいなのをイメージされている方達が少なくありません。
みなさん、すぐにパッと結果が出ることを求めているし、専門家の支援とはそういうものだと考えているように感じます。
ですから、「発達のヌケを育て直すには、家族が中心となって家庭でコツコツ積みあげていく必要があります」というような話をすると、「えっ」という表情をされますし、やっても続かない人が多いですね。
始めて一週間も経たないうちに、「大変です」「私には無理です」「先生、どうにかして」と言ってこられる方もいます。
対処療法しか知らず、対処療法慣れをしてしまった結果なのでしょう。
当地で言えば、視覚支援、構造化された支援が長らく、今も(?)中心でした。
「構造化された支援は、自閉症者の生活を豊かにする最適な方法である」
そんな風に押し進められ、今も信じている人がいます。
確かに、問題行動を起こしていた子が、生活が構造化されることによって落ち着きを取り戻すこともあります。
言葉で伝えてもなかなかわからなかったことが、絵に描いて伝えたら、「瞬時に理解できた!」ということもあります。
ですから、推し進めてきた側は「最適な方法」と言うし、見ている側は、すぐに結果が出るもんだから、「これこそが支援だ」と思う。
でも、大事な視点が抜けているし、隠されているんですね。
そうです、これってその場限りの対処療法だってこと。
視覚的に示したり、構造化して環境を整えたりすれば、理解できるし、落ち着くことだってできる。
でも、多くの人達が肌身で感じているように、場所や文脈が変わった途端、また元の状態に戻ってしまう。
推し進める側は、場所が変わってできなくなるのは自閉症の特性だと言い、そのためにもっと構造化が必要だと主張する。
それを聞いた多くの人は、場所が変わる前にできていたんだから、「その特性に配慮しろー」「できなくなった場所にいた支援者が悪い、構造化していないのが悪い」となる。
しかしながら、結局のところ、対処療法で対処していただけのことですから、根本的な課題にはアプローチしていないし、根本的に理解したわけでもありません。
むろん、発達のヌケは埋まっていきません。
施設に、強度行動障害バリバリの人が入所してくる。
暴れまくって、どうもこうもできない、生活自体がままならない。
その場合、最初は精神科薬を処方してもらって、まず精神を安定させる、支援が受け入れる状態にすることが多いですね。
精神科薬が利いていて、ちょっとした間ができているとき、私達は一気に支援を組み立て、何を教えて、何を補助するかを決定します。
あくまで精神科薬は一時的な補助であって、行動障害を治すのは支援であり、指導なのです。
根本にアプローチする支援や指導がなくて、精神科薬オンリー、また飲み続けるのは、ただの人権侵害だと私は思います。
問題行動が治るんじゃなくて、できないくらいの状態までにしてしまう。
だから私は、自閉症、発達障害の人が精神科薬を飲み続ける意味に懐疑的であります。
ちょっと話がずれてしまいましたが、つまり、対処療法はどこまでいっても対処療法であり、補助でしかないということです。
ですから、対処療法のみでは不十分であり、根本的なアプローチ、発達のヌケの育て直しも必要なのです。
いろいろな親御さんと接していると、上記のように「対処療法こそ、すべての問題を解決する」といったように考えている方もいますし、ご自身が愛着面、発達面、生活面で課題を抱えている方もいます。
昨日のブログで書いたように、これから発達障害を治すためのアプローチが基本となっていきますので、親御さんの主体性と継続する力が求められていきます。
すべての課題を自分で考え、乗り越えられる親御さんばかりではありませんので、課題が解決できるように、結果が出るまで辿りつけるように後押しするといった役割も必要になってくると思います。
発達のヌケの見立て、「対処」と「治す」のバランスをとる、というのは技術ですので、あまり難しいことではありません。
むしろこれからは、本人の持つ発達、成長する力を引き出すのと同じように、親御さんの持つ直感と育てる力、想いをどう引き出していくか、その点を重視し、できる支援者が求められるのだと考えています。
私は仕事をしていて、発達援助を学んでいて、支援者が教え、補助する時代は終わったと感じています。
教えるのではなく、支えるのでもなく、引き出していく。
本人の治す力を引き出し、治ったあとは、その人の持つ資質の良い面が自然と引き出されていく。
親御さんが持つ治したい想いと直感、本能を引き出し、その力を発達援助に繋げていく。
これからの支援者という仕事は、「引き出しの多さと上手さ」だと私は思っています。
みなさん、すぐにパッと結果が出ることを求めているし、専門家の支援とはそういうものだと考えているように感じます。
ですから、「発達のヌケを育て直すには、家族が中心となって家庭でコツコツ積みあげていく必要があります」というような話をすると、「えっ」という表情をされますし、やっても続かない人が多いですね。
始めて一週間も経たないうちに、「大変です」「私には無理です」「先生、どうにかして」と言ってこられる方もいます。
対処療法しか知らず、対処療法慣れをしてしまった結果なのでしょう。
当地で言えば、視覚支援、構造化された支援が長らく、今も(?)中心でした。
「構造化された支援は、自閉症者の生活を豊かにする最適な方法である」
そんな風に押し進められ、今も信じている人がいます。
確かに、問題行動を起こしていた子が、生活が構造化されることによって落ち着きを取り戻すこともあります。
言葉で伝えてもなかなかわからなかったことが、絵に描いて伝えたら、「瞬時に理解できた!」ということもあります。
ですから、推し進めてきた側は「最適な方法」と言うし、見ている側は、すぐに結果が出るもんだから、「これこそが支援だ」と思う。
でも、大事な視点が抜けているし、隠されているんですね。
そうです、これってその場限りの対処療法だってこと。
視覚的に示したり、構造化して環境を整えたりすれば、理解できるし、落ち着くことだってできる。
でも、多くの人達が肌身で感じているように、場所や文脈が変わった途端、また元の状態に戻ってしまう。
推し進める側は、場所が変わってできなくなるのは自閉症の特性だと言い、そのためにもっと構造化が必要だと主張する。
それを聞いた多くの人は、場所が変わる前にできていたんだから、「その特性に配慮しろー」「できなくなった場所にいた支援者が悪い、構造化していないのが悪い」となる。
しかしながら、結局のところ、対処療法で対処していただけのことですから、根本的な課題にはアプローチしていないし、根本的に理解したわけでもありません。
むろん、発達のヌケは埋まっていきません。
施設に、強度行動障害バリバリの人が入所してくる。
暴れまくって、どうもこうもできない、生活自体がままならない。
その場合、最初は精神科薬を処方してもらって、まず精神を安定させる、支援が受け入れる状態にすることが多いですね。
精神科薬が利いていて、ちょっとした間ができているとき、私達は一気に支援を組み立て、何を教えて、何を補助するかを決定します。
あくまで精神科薬は一時的な補助であって、行動障害を治すのは支援であり、指導なのです。
根本にアプローチする支援や指導がなくて、精神科薬オンリー、また飲み続けるのは、ただの人権侵害だと私は思います。
問題行動が治るんじゃなくて、できないくらいの状態までにしてしまう。
だから私は、自閉症、発達障害の人が精神科薬を飲み続ける意味に懐疑的であります。
ちょっと話がずれてしまいましたが、つまり、対処療法はどこまでいっても対処療法であり、補助でしかないということです。
ですから、対処療法のみでは不十分であり、根本的なアプローチ、発達のヌケの育て直しも必要なのです。
いろいろな親御さんと接していると、上記のように「対処療法こそ、すべての問題を解決する」といったように考えている方もいますし、ご自身が愛着面、発達面、生活面で課題を抱えている方もいます。
昨日のブログで書いたように、これから発達障害を治すためのアプローチが基本となっていきますので、親御さんの主体性と継続する力が求められていきます。
すべての課題を自分で考え、乗り越えられる親御さんばかりではありませんので、課題が解決できるように、結果が出るまで辿りつけるように後押しするといった役割も必要になってくると思います。
発達のヌケの見立て、「対処」と「治す」のバランスをとる、というのは技術ですので、あまり難しいことではありません。
むしろこれからは、本人の持つ発達、成長する力を引き出すのと同じように、親御さんの持つ直感と育てる力、想いをどう引き出していくか、その点を重視し、できる支援者が求められるのだと考えています。
私は仕事をしていて、発達援助を学んでいて、支援者が教え、補助する時代は終わったと感じています。
教えるのではなく、支えるのでもなく、引き出していく。
本人の治す力を引き出し、治ったあとは、その人の持つ資質の良い面が自然と引き出されていく。
親御さんが持つ治したい想いと直感、本能を引き出し、その力を発達援助に繋げていく。
これからの支援者という仕事は、「引き出しの多さと上手さ」だと私は思っています。
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