「幸せ」という言葉を使って伝えたいこと
ブログでこんなことを書くと、一気に宗教っぽくなってしまうんですが、「幸せに生きる」これこそが目指すべきゴールだと考えています。
「治りたい人」「治したい人」を後押しする活動を行っていますが、ぶっちゃけ治っても、治らなくても良いと思っていて、それよりも「ああ、幸せだな」と本人や家族が感じられたら、それこそが最も大事なことだと思うのです。
ですから、初めてお会いするときと、私の援助を終えるときには、特に強調して伝えますし、関わる過程でも「幸せ」という言葉を使います。
「幸せ」という言葉を使って、私が一番伝えたいことは、何かを得て幸せになるですとか、何かを達成して幸福感を感じるですとか、そういった類のことではありません。
私が伝えたいことは、自分の感覚を大切にする、中心に考える、ということです。
支援者から「この子は、無理せず、できることをやっていけば良い」「この子は、一生涯支援を受けながら生きることが幸せなんです」と言われて、そう思うのならそれで良いと思います。
でも、「ずっと支援を受け続けることが幸せなんだろうか?」「挑戦させないで、私達が転ばぬ先の杖でい続けることが、この子のためになるのだろうか?」、そんな疑問や違和感があるのなら、それは止めた方が良いと思うのです。
専門家が言った、周りに私と同じ考えの人がいない、そんな理由で、自分の感覚に蓋をする人が少なくありません。
精神科薬の服薬だってそうです。
親としては飲ませたくない、このままずっと飲み続けることがこの子の健康、発達に影響しないだろうか、副作用に苦しまないだろうか、そう思っていて、私にもお話しされる親御さんもいます。
でも、服薬を続けている。
朝、子どもを学校に送りだし、子どもは学校、放課後は児童デイで、夕方暗くなって帰ってくる。
親としてはラクだけれども、本当にこの子のためになっているのだろうか、そして、ほとんど顔を合わせない子育てって、家族での日々って幸せなんだろうか、療育よりも子どもと一緒に遊びたい、普通の家族のようにいっぱい思い出を作りたい。
そう思う人もいます。
子ども達が成人したあと、振り返ったら家族一緒の思い出があまりなかった、親としての達成感がなかった。
「支援を受け続けることが幸せだ」というのは、頭で覚え、考えた「幸せ」なんだと思います。
福祉の中で働いている今が幸せだと感じているのか。
そう感じられないとしたら、別の道があるはずですし、目指して動き出す必要があると思います。
常に今ある状況を「幸せかな?」と考える癖を付けた方が良いはずです。
本当は「快」と感じられるかが大事なのですが、「快」が良く分からない、という方が多いので、私は「幸せに感じるかどうか」という表現で伝えるようにしています。
「幸せ」でいえば、選択できることこそ、幸せだと私は考えています。
どんなに美味しい料理でも、どんな不自由のない生活でも、自分で何も決められない、というのは辛いことだと思います。
日本は、住む場所と仕事の選択の自由が認められています。
法律を犯さない限り、発言も、生活も、個人が決められます。
ですから、自分の感覚を大事にすると同時に、子ども達には将来の選択肢が増えるように、狭めないように育てていく必要があると考えています。
個人で選択できる自由があるのに、ここでしか生活できない、支援を受けないと何もできない、どっちかを選ぶのもサポートがいる、そんな状態では、子ども達は将来、選択の自由を謳歌することができません。
結果として、将来、選択できるものが減っていくのは仕方がないことです。
でも、最初から、どんどん選択肢を切り捨てていく、増やすようなことを目指さない、ではいけません。
いくら衣食住で満たされていても、そこに個人の選択の余地がなく、与え続けられた生活だったら幸せを感じられないはずです。
自分で選べるから幸せで、選べる選択肢があるから生活が、人生が豊かになる。
判断基準は、そこに「幸せに感じるか?」「快を感じるか?」
子育てのポイントは、この子が大人になったときに、より多くの選択肢があるようにする。
私はそのようなことを「幸せ」という言葉を使って伝えています。
「治りたい人」「治したい人」を後押しする活動を行っていますが、ぶっちゃけ治っても、治らなくても良いと思っていて、それよりも「ああ、幸せだな」と本人や家族が感じられたら、それこそが最も大事なことだと思うのです。
ですから、初めてお会いするときと、私の援助を終えるときには、特に強調して伝えますし、関わる過程でも「幸せ」という言葉を使います。
「幸せ」という言葉を使って、私が一番伝えたいことは、何かを得て幸せになるですとか、何かを達成して幸福感を感じるですとか、そういった類のことではありません。
私が伝えたいことは、自分の感覚を大切にする、中心に考える、ということです。
支援者から「この子は、無理せず、できることをやっていけば良い」「この子は、一生涯支援を受けながら生きることが幸せなんです」と言われて、そう思うのならそれで良いと思います。
でも、「ずっと支援を受け続けることが幸せなんだろうか?」「挑戦させないで、私達が転ばぬ先の杖でい続けることが、この子のためになるのだろうか?」、そんな疑問や違和感があるのなら、それは止めた方が良いと思うのです。
専門家が言った、周りに私と同じ考えの人がいない、そんな理由で、自分の感覚に蓋をする人が少なくありません。
精神科薬の服薬だってそうです。
親としては飲ませたくない、このままずっと飲み続けることがこの子の健康、発達に影響しないだろうか、副作用に苦しまないだろうか、そう思っていて、私にもお話しされる親御さんもいます。
でも、服薬を続けている。
朝、子どもを学校に送りだし、子どもは学校、放課後は児童デイで、夕方暗くなって帰ってくる。
親としてはラクだけれども、本当にこの子のためになっているのだろうか、そして、ほとんど顔を合わせない子育てって、家族での日々って幸せなんだろうか、療育よりも子どもと一緒に遊びたい、普通の家族のようにいっぱい思い出を作りたい。
そう思う人もいます。
子ども達が成人したあと、振り返ったら家族一緒の思い出があまりなかった、親としての達成感がなかった。
「支援を受け続けることが幸せだ」というのは、頭で覚え、考えた「幸せ」なんだと思います。
福祉の中で働いている今が幸せだと感じているのか。
そう感じられないとしたら、別の道があるはずですし、目指して動き出す必要があると思います。
常に今ある状況を「幸せかな?」と考える癖を付けた方が良いはずです。
本当は「快」と感じられるかが大事なのですが、「快」が良く分からない、という方が多いので、私は「幸せに感じるかどうか」という表現で伝えるようにしています。
「幸せ」でいえば、選択できることこそ、幸せだと私は考えています。
どんなに美味しい料理でも、どんな不自由のない生活でも、自分で何も決められない、というのは辛いことだと思います。
日本は、住む場所と仕事の選択の自由が認められています。
法律を犯さない限り、発言も、生活も、個人が決められます。
ですから、自分の感覚を大事にすると同時に、子ども達には将来の選択肢が増えるように、狭めないように育てていく必要があると考えています。
個人で選択できる自由があるのに、ここでしか生活できない、支援を受けないと何もできない、どっちかを選ぶのもサポートがいる、そんな状態では、子ども達は将来、選択の自由を謳歌することができません。
結果として、将来、選択できるものが減っていくのは仕方がないことです。
でも、最初から、どんどん選択肢を切り捨てていく、増やすようなことを目指さない、ではいけません。
いくら衣食住で満たされていても、そこに個人の選択の余地がなく、与え続けられた生活だったら幸せを感じられないはずです。
自分で選べるから幸せで、選べる選択肢があるから生活が、人生が豊かになる。
判断基準は、そこに「幸せに感じるか?」「快を感じるか?」
子育てのポイントは、この子が大人になったときに、より多くの選択肢があるようにする。
私はそのようなことを「幸せ」という言葉を使って伝えています。
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