「治ってほしい」と願わない親などいない

「発達障害は治りません!」
そう言う親御さんは、嘘をついていると思う。
そう言う親御さんは、他人に言っているようで、本当は自分自身に言っているのだと思う。


「発達障害は治るとか、治らないとかじゃくて!」
声を荒げながらも、心の奥底で「治ってほしい」と願っているはずだ。
だって、そうでしょ。
現代医学では「治せない」「治った子が一人もいない」
そのような病気、障害を持ったとしても、「もしかしたら、世界には治せる人がいるかもしれない」「今は無理でも、数年、数十年待てば、医学の力で治せるかもしれない」
そう思って、愛する我が子と懸命に生きようとしている家族はたくさんいる。


もし私の子に重い病気があり、私の心臓が必要だと言われたら、喜んで心臓をあげようと思う。
自分の命と引き換えに、息子の命が助かるのなら、息子の病気が治るのなら、我が身など惜しくはない。
それが自然な感情であり、親心。


施設で発達障害の子ども達と共に生活していたとき、自傷する子を見れば苦しくなった。
睡眠障害で一晩中寝られず、声を挙げていた子がいれば、「寝られなくて辛いよね」と一緒に朝を迎えた。
あのとき、私の中に治るという視点も、治すという方法もなかったけれど、こういった子ども達を見れば、いつか医療で治るようになってほしい、と思っていた。
今だって、他人様の子の発達援助に携わらせてもらっているが、いつも「治ってほしい」という想いでいる。
だから、「発達障害は治りません!」「発達障害は治るとか、治らないとかじゃくて!」と言っている親御さんは、嘘つきだと思う。
自分自身に嘘をついている。
本当は、誰よりも治ってほしいと願っているに違いない。


世の中には、症例がほとんどなく、不治の病と言われている難病の子ども達がいる。
大変な状況で生まれきて、「今日一日、一日が生きているだけで奇跡」という子もいる。
そういった子ども達、親御さん達が、希望を持って精一杯生きているというのに、何故、発達障害の子の親御さん達が諦めるのだろうか?どうして諦めることができるのだろうか?


発達障害は神経発達の障害だ。
彼らの身体の中には神経がないのだろうか?
神経がダメージを受けて、もう変化が起きないのだろうか?
いや、違う。
彼らの身体の中にも、発達する力を持った神経が全身にめぐらされている。
彼らの神経も、刺激を欲している。
治らないという人達だって、発達障害を持つ子ども達が成長する姿を目にしているし、成長すると思っているから教育、療育を受けさせているのではないか。


「神経が発達していかない」「神経が死滅していく」
そういう障害が、発達障害だとしたら、私も「治そう」などとは言わない。
でも、実際は私達と同じように変化する神経を持っている。
違いがあるとすれば、受精から誕生、現在までの成長過程の中に「発達の遅れやヌケがある」それだけである。


啓発活動の先頭に立ち、「理解をー」と叫んでいる親御さん達を見ると、悲しくなる。
本当は、社会が変わるなんて思ってもいないだろうに。
発達障害の人達が住みやすい世の中なんてこないことを知っているだろうに。
どんなに社会の、地域の理解がなかったとしても、我が子が発達、成長し、自立した生活が送られているのなら、それで良いはずだ。
社会が変わらなくても、我が子が治ればそれでいい、我が子が幸せならそれでいい。
そういうのが自然な親心。
啓発活動に傾倒していくのは、自分の純粋な親心を見ないようにするための己との戦いであり、治す方向へと向かえずに行き場を失ったエネルギーの消耗という苦肉の策である。


「発達障害は治りません!」
「発達障害は治るとか、治らないとかじゃくて!」
「治るとか言うのは、障害の理解がない!」
そう言って声を荒げるのは、「治る」という人、「治したい」と思う親御さんに対する否定ではなく、ちょっとでも気が緩めば溢れ出てきてしまう「治ってほしい」という純粋な感情を必死で否定しているのである。
叫ばないといけないくらい、叫ばないと保てないくらい、本当は治ってほしいと思っている。


私のところにくるメールの文面には、「治したい」「治ってほしい」そういった言葉が、想いが、親心が隠れることなく、堂々と溢れている。
実際のセッションを行えば、治すためのヒントを少しでも多く掴もうとする純粋な親御さんの目が、私を見ている。
「お金は関係ないから、治すためのアイディアを知りたい」と、離れた場所から私を呼んでくださる親御さん達もいる。


みんな親なら治したいと思う。
少しでも治っていくのなら、あらゆるものを投げうってでも掴もうとするのは自然な姿だと思う。
医師から、専門家から「治りません」と言われて、「はい、そうですか」とは普通ならない。
なるとしたら、その親御さん自体に主体性も、内部感覚も、乏しいのであって、まず親御さん自体が治らなければならないのだ。


自分に嘘をつくくらいだったら、「治りません!」と叫ばないとならないくらい辛いのなら、「私は、我が子に治ってほしいと思う!」と声を出せば良い。
他人がどうだとか、専門家がどうだとか、どうでもいい。
親として我が子にどうなってほしいのか、どうしたいのか。
大事なのは、ただそれだけ。
「発達障害は治らないから」と涙目になるくらいなら、そのエネルギーを我が子が少しでも治る方向へと使う。
その方が、我が子も、自分も、家族も、幸せになる。


自分自身に向けた嘘であっても、そばで聞いている人がいる。
それは、誰よりも幸せを願う我が子だ。
あなたは、我が子に向かって「治りません」という言葉を言うことができるのだろうか?

コメント

  1. うちの自閉症の息子は、自閉症の特性をもったまま就職しました。
    以前は、「治らないから病気ではなく障害なのだ」と定義していた時期もありました。
    息子は、はたから見て自閉症のままですが、はりきって仕事しており、いきいきと生活しています。
    でも本人は、「ボクは障害者じゃないだ」「ボクは自閉症じゃないんだ」と言うので、わざわざ「そうじゃないよ、キミは自閉症だよ」と言う必要もないと思い、告知はしていません。
    ただ、本人は仕事したがっているのに、養護学校の先生方も福祉の支援者さん方も、親が諦めるように促す空気をつくっていて、でも、わが子に「キミは就職はムリだよ」と言うことは、親としてはできない、親が子どもの可能性をつぶすようなことはできない、と思い続けてきて、就職が実現できました。

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    1. taimyumachineさんへ

      親として「子どもの可能性をつぶすようなことはできない」と思うのは、自然な感情だと思います。
      でも現実は、いろんな他人からの横やり、また徐々に諦めていく同世代の子と親の姿に心が折れていく親御さんが少なくないといえます。

      今の息子さんの生き生きとした日々は、息子さんご本人の努力はもちろんのこと、子どもの可能性を信じ続け、後押ししてきたtaimyumachineさんとご家族の存在が大きかったと思います。

      社会に出れば、職場に行けば、自閉症かどうかは関係ありません。
      その人がどういう人であり、どういった仕事ができるかのみ問われます。
      ですから、自閉症かどうかは、特別支援の世界にいる人間にとって必要な情報であり、自分たちが支援できるか、手が出せるかが気になるため、こだわるのだと思います。

      学校の先生や福祉の支援者から「就職は無理」と言われたというお話はよく聞きます。
      でも、そういう風に言う人間の多くは、学校や福祉など、限られた場所でしか働いたことのない人です。
      私はいつもそういった人達にこう言っています。
      「あなたが就職できるかどうかを判定するのは間違っている。採用するのは支援者ではなく、企業であり、面接官である」と。

      なにより息子さんが張り切って仕事をし、充実した毎日を送っていることは、親御さんとしてこれ以上ない喜びだと思います。
      息子さんは働くことで、お客さん、会社のためになり、社会を支えている。
      この事実を前にすれば、当時の先生方、支援者方は何も言えないでしょう。

      息子さんには、これからも社会を支える社会人の一人として仕事でも、プライベートでも、充実した人生を歩んでいただきたいと思います。
      今、子育て中の親御さん達が明るくなり、希望となるようなお話をありがとうございました!

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