支援は、本人の想いと発達、成長と共に歩む

一時期、私は身体に障害を持った子ども達と関わっていました。
子ども達の多くは、車椅子や補装具を使っており、それがあることで彼らの生活、学びが保障されていることがわかりました。
彼らにとって車椅子は、必要な道具であり、必要な支援でした。
しかし、必要な道具であり、支援ではありますが、彼らにとってベストであるか、幸せで満足しているか、という視点に立てば、そうは思っていないと感じたのです。


車椅子を押していると、伝わってくるものがありました。
補装具で歩いている子や手すりを使って歩いている子が側にいると、そちらの方を向きます。
そして、じっとその姿を見て、目で追うのです。
また床に横になっているとき、自力では起き上がることができませんが、上半身に力を入れたり、手足を動かそうとしたりするのです。
そういった様子を見ていて、彼らは口で表現しないかもしれませんが、自らの力で立ち、移動したいと願っている、そう感じたのです。


前回のブログで、「配慮を求めるとき、自分で説明でき、認めてもらえる力を養う」ということを書いたところ、思いかけず多くの反響をいただきました。
私がこのようなことを学生さん達に伝えるようになったのは、ある学校で行われた支援ミーティングに参加したのがきっかけでした。
本人がより良く学ぶためのミーティングのはずなのに、話をするのが親であり、学校であり、相談機関の人間ばかり。
私はその様子を見ていて、これは違うと思ったのです。


支援を求める主体は、本人のはずです。
本人が「こういうところが困っている」「こんな援助があれば、私はより良く学べる」、そう主張するところから支援が始まっていくのだと思います。
しかし、いろんな場面で感じるのが、本人よりも先に周りが出発しているんじゃないか、ということ。
良かれと思って、また本人が困っているように見えるから、欲しているように見えるから、といって、本人が主張する前に、もしかしたらニーズを感じる前に、どんどん支援が求められ、用意され、展開されていることもあるように感じます。
本人が蚊帳の外にいる支援。
支援したい人が支援する支援。


本人の声をちゃんと聞いているか?耳を傾けているか?
周りにいる人間は、こういった問いかけを自分自身に行う必要があると思います。
私は車椅子を押しながら、彼らの声が聞こえたように感じます。
「できることなら、自分の足で立ち、歩いてみたい」と。


車椅子に乗っている子が、自分の足で立ってみたいと思うように、補装具を使って歩いている子は、いつか自分の足だけで歩いてみたいと願う。
それが自然な感情だと思いますし、ヒトの持つ発達、成長を志向する習性だと思います。
車椅子が必要な子に、車椅子という支援を行う。
これは当然であり、必要なこと。
でも、そのあと、車椅子という支援を受けているのだから、ちゃんと支援できている、満足しているだろう、と思うのは、本人の声ではないかもしれません。
車椅子ではなく、自らの足で立ってみたいと本人が思っているのなら、「あなたは車椅子のままが良い」と言うのは支援ではなく、押しつけになります。


支援者というのは、支援を提供した時点で完了したと思いがちです。
でも、支援の始まりが本人のニーズであり、求める主体が本人なのですから、支援に完了はないのです。
発達、成長を志向し、動こうとする力を持っているのがヒトです。
ですから、ニーズと発達、成長によって、求める支援、必要な支援は変わっていきます。
支援の完了は、自立できたときです。


これから、ますます「合理的配慮」の声が、あちらこちらで聞こえるようになると思います。
しかし、「合理的配慮」が新たな市場を狙った支援者の口実になる可能性もあります。
また一度認められた「合理的配慮」が、その場所で、その人との間で、まるで契約のように固定化されてしまう可能性もあります。
そうならないためにも、支援の始まり、主体は本人であること。
そして、ヒトは発達、成長を求め、その方向へと動こうとする生き物であることを忘れないようにしなければなりません。
支援は、本人の想いと発達、成長と共に歩むのです。

コメント

  1. 支援者を一括りにするつもりはありませんが、ある一部の人は
    「車椅子があればいいじゃない」無理する必要はないと言わんばかりの
    親としては内心「本気で、支援しようとしているのか?」と疑いの目を
    向けたくなる人がいます。

    先日も我が子が新しい施設の職員と、支援センターで遊んでいたら
    トラウマの職員に遭遇し、久しぶりにパニックを起こしたそうです。
    すると、「全然、変わってない」と高笑いしたそうで、憤りを感じた
    所長が電話をしてきて「悔しい、こんなに成長していると言えず悔しい!」と
    真剣に療育に向き合う職員の心まで壊す気なのかと悲しくなりました。

    当事者の気持ちを優先し、向上を一緒に喜べる支援者でありたいと
    親である私も今一度、考えるきっかけにはなりましたが
    営利目的の支援者(と言ったら否定するでしょうが)は、合理的配慮と
    いうのなら、どんどん排除して熱意ある支援してくれる方々が働きやすい
    環境にも整ってほしいし、多方面での改革を望みます。

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    1. ねこさんへ

      私も、本気で子どもの自立を目指す熱意のある支援者が増えて欲しいと願っています。
      しかし、制度はどんどん自立度を上げていくことよりも、支援を利用する回数が評価されるようになっています。
      また、愛着障害を持つ支援者は、自分を必要としてくれる人によって癒されようとしますし、特別支援の道を選ぶ人には身内に障害を持った人がいた、という人が少なくありません。
      そうすると、「自分が我慢することが良いこと」「自分がやってあげることが望ましいこと」というような思考が出来上がっていることもあります。
      このような背景から考えると、特別支援と自立は交わっていきづらいと言えます。
      ですから私は、ご家族が中心で発達援助をし、自立を目指すのが一番だと考えています。
      もちろん、志を同じくする他人がいれば、なおのこと、良いと思いますが。

      「トラウマの職員」に関しては、特別支援、福祉、支援者の問題と言うよりも、その人物の問題だと思います。
      パニックを起こした子どもを見て高笑いする、それができることに異常性を感じます。
      普通、パニックを起こしている子を見かけたら、悲しくなるはずです。
      そして、どうにかしたい、落ち着いてほしい、という感情が湧き上がってくるのが、支援に携わる人間だと思います。
      ですから、支援者に最低限必要な心を持っていませんし、反対に高笑いするような人は、その人個人に問題があるのだと思います。

      ただ所長さんが、あとからお母さんに電話で伝えるのではなく、きちんとその「トラウマの職員」に、そうではないこと、子どもが困っている様子を見て高笑いするのは間違っている、と直接言ってほしかったと思いました。
      一番悔しいのは、所長さんではなく、本人のはずですから。

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  2. うん、トラウマ職員は一見明るくポジティブに見えるけど闇があるのだと離れて時間がたち、自分が冷静になってきて(大久保さんの助言で)見えてきました。憐れに思うけど同情はしませんが・・・。
    自己満足に、子供たちを操っているようにしかみえず裸の王様だけど、おそらく一生誰からも指摘されず(聞く耳も持たずが正しいかも)なんだろうな。

    そんな人の事はさておき、支援するって究極親が亡くなってもその子が困らないように道筋を一緒に考えていったりするものだと思っていましたが、まだまだそういう考え方の人は少ないですね。
    親御さんでも、いずれグループホームには入れたらいいやくらいの考えで、でもそれってどうなのかな?と疑問に思うことがあります。
    まだ子供が小さいから先の事は解りませんが、できるだけ本人で選べるよう地井さん選択を今もうちはさせているし、前は支援学校がベストだとトラウマ職員のアドバイスに考えたこともありましたが、医師も近所の支援級からスタートして、いろんなことにトライした方がお子さんは伸びると言われたし、今利用している施設の職員さんも同じ意見で支援の仕方を考えてくれます。

    自立に向けて、伸ばせるところ伸ばし、足りないところを補いたいと本心を伝えると、向き合い考えてくれる支援者が増えていったのは嬉しい限りです。
    こうやって本音を言えるようになったのも、こちらで相談したおかげだと思い感謝しています。

    それと、パニック時にトラウマ職員に言えなかったのは、田舎社会だからかもしれませんが、マウンティング社会というか、地域では役職のあるトラウマ職員には、言いたくても何も言えないのが現状らしいです。
    いやはやそんな輩が県、医療関係者などとも親しくしているというのが、厄介なんですけどね。

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    1. ねこさんへ

      最初に断っておきますが、今、お子さんの発達を後押している医師や支援者の力を否定するつもりはないことを心に留めて、メッセージを読んでいただければと思います。

      地域の特性や文化、役職、力関係から、「言いたくても言えない」としたら、そこが支援者としての限界だと私は思います。
      支援とは、本人の発達、成長、そして将来の自立、幸せを中心に展開されていくものです。
      これから、お子さんが年齢を重ねていくにつれて、いろんな局面、判断が必要な場面が訪れてくると思います。
      そんなとき、お子さんにとって最善な道を貫けるか、また障壁を突き破っていけるか、が重要になるはずです。
      もし、地域性や役職、力関係で判断が鈍ること、覚悟が決まらないこと、優先順位が変わることがあったとしたら、お子さんにとっては望ましい方向へと進めなくなる可能性もあるのです。

      ですから、もちろん、今、良い支援者に恵まれ、共に歩んでいることは素晴らしいことですが、覚悟のいる場面が、闘わないといけないときが訪れたら、親御さんの覚悟が必要になると思います。
      どんなに良い支援者だとしても、お子さんにとっては他人であり、将来の責任まで負うことはできません。

      今回の件は、本気で闘う場面が来たら、親自身が前面に立って向かっていく必要がある、ということを考えるきっかけになったように感じます。
      役職や経験年数、力関係、連携の有無が、子どもが治り、自立し、幸せにつながる指標にはならないですね。
      そのようなものがなくとも、治っている子はたくさにますし、むしろ、それらが足かせとなることもすくなくありません。


      グループホームの件ですが、今の子ども達が成人するとき、どのような社会になっているかはわかりません。
      ただ今現在、労働者不足、福祉の仕事は敬遠されており、これからも超高齢化社会が続くと思いますので、グループホームが右肩上がりで増えていくとは思えません。
      ですから、将来に向けてできることはやる、治せるところは治しておく、本人に力をつけていくことが、不確定な未来に希望を抱くよりも、確実な方法だといえます。
      将来、グループホームに入ることがゴールであり、それ以外の可能性を否定するような発言にも感じる「いずれグループホームに入れたらいいや」という発言を耳にすると残念な気持ちになります。

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