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【No.1517】その問題行動は「自己完結か、巻き込みか」

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「問題行動」とひと言でいっても、内容、様相はさまざま。 だけど、基本的な見立て、支援、援助の組み立て方として押さえておいてもらいたい点を今日はお話しますね。 まず注目してほしいのが『頻度』 日々、日常的にそれをやっているのか、それとも週に1回とか、なにかがあったときなど、不定期に行っているか。 日常的な場合は、それ自体がストレスに対する対処行動になっている可能性が高いですね。 つまり、心身を安定させるために行っている、やむを得ずって場合もあるけど。 こういった対処行動としての行為を止めちゃうと、禁断症状が出るのが自然な流れ。 たとえはよくないけど、精神安定剤とか、ドラッグとかで精神を落ち着かせている人から取り上げちゃう感じに近い。 問題行動を必死に止め続けた結果、どうにも手が付けられないくらい状態が悪くなる、行動障害から強度行動障害へというパターンがそれ。 見ていて辛くなるし、本人も辛かろうという気持ちはわかるんだけど、精神安定剤としての、辛い現実への対処行動としての問題行動という視点がないと、こういったことが起きちゃう危険性がありますね。 一方で、定期的ではないランダムな問題行動の場合は、ストレスの蓄積からの爆発だったり、単にその直前の出来事が嫌だったり、うまく伝えられないことによる代替手段としての筋肉活動だったりすることがあります。 または幼さゆえの行為だったり、発達のヌケや遅れのための未熟な行為という場合も。 時たま見られる問題行動の場合、本人と環境の間でうまくいっていないことがあるかもなという視点で見ていくと背景が掴めることが多いと思います。 頻度と同じくらい注目したいのが、『自己完結か、巻き込みか』です。 自己完結というのは、一人で行って、一人で終える形態になります。 自分で自傷して、ある程度、やりきると落ち着いてやめるパターン。 一方で巻き込みは、同じ自傷であったとしても、誰かがいないと行いません。 たとえば、お父さんがいるときだけ行うとか、家族が傍に来るとやり始めるとか、特定の先生、支援者のときだけ行うとか。 こういった場合、行為を介して関係を作ろうとしていると考えられますね。 発達的により望ましい関係性を築く手段がとれなかったり、より早く直接的な関わりを得たいがためにインスタントな方法を選んじゃったりして。 結構、問題行動と言われる行為の中で、「関係...

【No.1516】チャッピーが支援目標を立てる時代

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個別支援計画とか、個別支援目標とか、もうすでにだいぶチャッピーが書いてるんじゃないかな。 非の打ち所がないきれいな文章が目立ってきたからね。 公文章としては完璧みたいな。 普通の親御さんなら、それを見ただけで「もうお任せします」ってなっちゃいそう。 一字一句、AIが作成した通りの文章を載せる人はまだ少ないだろうけど、障害名と子どものプロフィール、あとは「コミュニケーションの目標を立てて」なんて打ち込んで出てきたものを参考にしている人は多いと思うね。 「目標を立てるのがうまくなって、臨床の力が落ちる」という時代がやってくるでしょう。 パソコンの文字を見ていても、アセスメントの力とか、援助技術は上がっていかないからね。 臨床の場面ではノンバーバルな情報の割合が圧倒的に多いといえます。 とくに発達に凸凹がある人や子どもさんの場合はそうなるね。 言葉を話す子だったとしても、何を言っているかよりも、音程の高低、リズム、なめらかさ、反応の時間のほうがずっと意味があるアセスメントになります。 そして私たちは目を使って、表情の変化、態度、行動、しぐさ、呼吸の状態(リズム、深さなど)を絶え間なく観察してるんです。 そうやって子ども達から発せられるあらゆるノンバーバルな情報から、今の発達の状態や課題、今後、どのような援助が発達を後押しすることに繋がるかを考えていきます。 だからAIばかり使っていると、どんどん言葉ばかりでっかくなって、大事なノンバーバルな情報を捉える力が衰えていくと思うんですよ。 子ども達のリアルタイムの変化に応じて、パパっと支援や援助、指導が出せないといけないんだけど。 支援者には誰でもなれる時代になるから、その子の成長に繋がる支援ができる人を探すほうが大変になると思うね。 「チャッピー、ちゃんとした支援者を教えて」なんてAIに訊く時代がくるかも(笑) 支援者もランク付けがされて、一覧になったら便利だね。 あとAIでいえば、出てくるのは過去の情報が整理されたもので未来じゃないよね。 「行動障害に対する援助法は?」と尋ねれば、過去、ギョーカイの先生たちが言っていた内容が羅列されるだけ。 「自閉症児に対する支援で良いのは?」といえば、視覚支援やABAって回答があるみたいな。 だけど、それは過去に良いと言われていたものであって、現在じゃない。 ましてや、目の前にいるその子に...

【No.1515】×失敗したときの原因探し 〇成功したときの原因探し

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子育てをしていて「うまくいったなぁ~」と思えることは少なくて、「失敗したな」「まずかったな」「よくなかったな」と思うことのほうがずっと多いよね。 発達相談の中でも、「ほんとうまくいかなくて…」という話を聞くことが多い。 まあ、うまくいってたら、そもそも相談しようとは思わないでしょうけど(笑) 発達に凸凹のある子の子育ては、毎日が失敗の連続だと感じるくらい四苦八苦しながら、みんなやってるんじゃないかな。 で、そういった親御さんの悩み、相談を支援者側は受けることになる。 まじめで、素直な支援者ほど、親御さんの失敗談に真摯に向き合い、「どうしてでしょうかね~」「なにが原因でしょうかね~」とやる。 いや、やってしまう。 私はそれはやらないんだ。 なんでかといえば、うまくいかなかった理由って、いくつもあるから。 単純に「〇〇がよくなかったから」なんてことにはならない。 いろんな悪条件が重なり合って、よくない結果、失敗だと感じる状況が生まれるもの。 親御さんの関わり方としてはよかったけど、その子の体調が悪かったり、ほかの刺激に意識が奪われていたり、発達の順序的に前後がズレていたり、タイミングよく(悪く?)お父さんが帰ってきたり(笑) 行動療法系の人達が好むようなA(原因)→B(結果)みたいなきれいな図式は作れないの、うまくいかないときって、現実世界ではね。 「先行条件→行動→結果」なんてきれいすぎるでしょ。 つまり、これはお勉強するための机上の空論(笑) 一方で「今の関わり、今日の関わりはうまくいったなぁ~」と思うことがあるでしょ。 そんなに多くないかもしれないけど、どんなおうち、親御さんにもあるはず。 そっちのほうは「なぜ?なぜ?」って聞くことが大事。 それはいいこと、うまくいったことって、原因が1つか、2つくらいしかないから。 トイレでおしっこが成功したのは、水分量とか、トイレの照明の具合とか、遊びの内容とか、時間帯とか、気温の暑さ寒さとか、「すべての条件が整いましたので、初めてトイレでおしっこできました」なんてことはないでしょ。 お母さんの声掛けのタイミングが良かったとか、尿意に意識が向くような言葉掛けだったとか。 そんな感じで原因がシンプル。 そこを「なぜ?なぜ?」と掘り下げていくと、「そうかタイミングが合えばできるんだ」「じゃあ、前兆を捉えるのがポイントだね」「前兆っ...

【徳島出張のご案内】10月24・25日

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【9月29日13時現在】 徳島県内、ふた家族の訪問が決定しました。 あとひと家族でしたらお受けすることができます。 ご検討中の方がいらっしゃいましたら、お早めにお問い合わせください! 徳島にお住いのご家族から出張相談の依頼がありました。 遠方からのご依頼の場合、まずは花風社さんから出版していただいた書籍を読んでみてください、メール相談を利用されてはいかがですか、という提案をしています。 やっぱり遠くなると、日帰りでというわけにはいかず、交通費や滞在費がかかってしまいますから。 ですが、今回、ご依頼があった方はすでに書籍は読まれていて、ブログ等のSNS等もチェック済み。 「たとえ自分たち、ひと家族になったとしてもお願いしたい」という強い意思を伺いました。 ご家族からの強い意思は、そのまま我が子への強い想いの表れなのだと思います。 数多ある相談先、援助者の中から、「私を選んでくれたことに応えなくては!」と私も強い想いをもちました。 てらっこ塾開業14年目にして初めての徳島、四国出張。 今まで出張の問い合わせがなかった地域ですので、他のご家族から依頼があるという自信はありません。 が、躊躇なく私が出張できる一番早い日程で航空券を押さえました。 函館からですと、羽田経由で徳島空港なのですが、都合のよい時間、便がなかったため、伊丹空港を利用し、あとは高速バスで徳島に行くことに。 まずは徳島で募集して、ニーズがなければ、四国か、大阪、兵庫あたりに広げてみようかなと思っています。 それかいっそのこと、なかなかいけない四国なので、一日、個人的な観光ということにしてもいいかなとも。 そうすれば、滞在費を大久保個人にでき、相談の料金を減らせますので。 10月23日(金)は午後、伊丹到着。 もし夕方から夜の時間でもよければ、大阪、兵庫にお住いの方の発達相談お受けできます。 10月24日(土)は未定。 10月25日(日)は午後の便で函館に戻りますので、ご依頼くださった徳島のご家族の訪問にするか、大阪に戻って発達相談を行うか…。 ということで、ここは皆さまのお力が必要です(笑) リツーイト、拡散、よろしくお願いします<m(_ _)m> ひとまず週末まで問い合わせがくるのを待とうと思います。 お問い合わせ、ご依頼は こちら から てらっこ塾HPは こちら

【No.1514】子どものことを語ろうとすれば、まとまらなくなるもの

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メール相談の件数も以前より落ち着いてきて、一日3件程度、多いときで10件くらいになりました。 それでも開業当初から数えれば、相当な件数の相談、メールでの助言を行ってきたことになって、我ながらよく続いたな、続けてきたなと思います。 このブログを読んでくださっている人たちの中で、メール相談をやってますという方は少ないかもしれませんが、今日はそんなメール相談から得た発達援助のコツについてお話ししますね。 自分自身の相談は全体の1割くらいで、ほとんどが我が子の発達についての相談内容になります。 そしてそういった親御さんのメールには必ずといっていいほど、「文章がわかりづらくてすみません」「うまく伝えられない文章でごめんなさい」といった言葉が綴られていますよ。 これは「文章(書くこと)に自信がない」がないというよりも、息子や娘のことを詳しく書こうとすれば文章がまとまらなくなってしまう、ということだと思うんです。 日々、子どもと接し、誰よりも子どものことを見ていて、気づいている親御さんだからこそ、書こうと思えばうまく表現できなくなるのでしょう。 一方で、とても詳細に、かつわかりやすい文章で子どもの様子を綴り、相談内容もバシッと書いてあるメールもあります。 で、みなさんがご想像の通り、こちらの親御さんのほうが心配なんですね。 子どもという日々変化し、躍動する生である一人の人間のことを文章で表すなんて到底できることではありません。 同じ行動だとしても、外から見るのと、内から見るのでは違いますし、状況や状態、環境によってその行動の意味も違ってきます。 ですから、わかりやすいきれいな文章というのは、いろんなものが切り捨てられた結果なんです。 我が子に発達の遅れ、悩みが生まれた瞬間、親御さんはいろんな専門家といわれる外部の人間と関わることになります。 その際、必ずといっていいほど、成育歴や日々の子どもの様子、どんな点に困り、悩んでいるかを聞かれます。 「同じ内容なら共有すればいいのに」と思うのも当たり前で、機関が変われば、また同じ期間内であったとしても担当が変われば、学年が変われば、同じ話をしなくてはなりません。 そんなことを繰り返していくうちに、どんどん曖昧な部分、表現できない部分が削られていき、親御さんのほうもプロの語り部になっていく(笑) 気が付かないうちに、まとまった“話”ができて...

【No.1513】価値ある“こだわり”

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“こだわり”が強い子を傍でじーと見ていたら、なんだか同じところをくるくる回っているイメージが伝わってきました。 たぶん、この子の場合は、脳にその“こだわり”に関係する神経回路があって、そこを電気信号がグルグルと回り続けているんじゃないかと思ったんです。 しかも、一般的な人の脳とは違って、その興奮がなかなか醒めない。 そういった体質かもしれないし、後天的に、まあ、学習によってその神経回路に電気信号が流れ続けている状態が心地よいとなっているのかもしれないね。 “こだわり”というのは周囲から理解されないことも多く、「できればやめてほしい」「やめさせたい」といった相談も多く受けますよ。 でも、それが体質だったり、器質だったりすれば、完全にこだわりをなくすことはできないですね。 こだわる対象を変えたり、こだわる場所を変えたり、「こっちは都合が悪いけど、こっちなら良いです」みたいに、こだわりの矛先を少しずつ変えていくのが現実路線となります。 こだわること自体に価値を持っている人は、自分でもこだわりの形を変えていくことがあるから、子どもさんの場合、成長していくにつれ、環境と折り合いがつくような適当なこだわりになっていくことがありますね。 こだわりを資質として伸ばしていくイメージが持てると良いでしょう。 一方で「やむにやまれぬ」みたいな雰囲気が漂っているこだわりについては、それがたとえ周囲にとって受け入れがたいものであったとしても、対応は難しいです。 こだわることが、それこそ、その特定の脳神経回路の中を電気信号がグルグルと回ること自体がご褒美になっている。 こだわり行動をしているときは、その間だけは辛い何かから逃れることができる。 特定の神経回路を興奮させることで、させ続けることで、ほかの刺激から逃れることができているかもしれない。 「こだわり方を変えろ」と言われても、私にとってはこれが命綱であって、編み出したサバイバル術なんです、ってこともあるでしょう。 「不安&生きづらさがある→こだわることで対処→脳神経回路が強化」を繰り返すと、その行動の形自体を変えることは難しくなりますね。 生活に支障が出るくらいの強いこだわりを持っている人は施設内にたくさんいて、私たち支援員ができるのは、その特定の神経回路を興奮させるきっかけ、刺激を遠ざけることくらいでしたよ。 一度、スイッチとなる刺激が...

【No.1512】観察すると関係は切れる

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「観察」という言葉を使うときは気を付けているつもりでした。 あくまで観察する対象は症状や特性であって、子ども自身ではない。 しかも、その観察は「注意深く見る」という意味で、変化や経過を含めてしっかり見ましょう、ということで使っていたんです。 が、先日、相談者の親御さんが「大久保さんが言う通り、娘のこと、しっかり観察することを意識して過ごしました」と言って、ありゃ、まずいと思った。 その場で謝りましたよ、ごめんなさい、説明が足りませんでしたって。 もちろん、症状も、特性も、その子に出ていることだから、大きく言えば、子どもを観察していることには違いない。 でも、「観察」っていうのは「客観的に見る」ということになるから、関係が切れちゃうの。 子どもは親との関係の中で生きてるよね。 だから親から観察されると、子どもは寂しい気持ちになるんだ、独りぼっちの感じが出るから。 子どもについて詳細に語ることができる。 引き継ぎの資料作りも上手だし、SNSでの発信も手に取るように子どもの様子がわかるくらい素晴らしい。 だけど、子育てがうまくいっていないっていうのが典型的なパターンだね。 観察する側とされる側。 これは物事を教えるのには良い関係。 親御さんが子どもの宿題なんかを傍で教えようとすると、感情が乗ってうまくいかない(笑) 最初は優しく教えていたのに、途中から「なんでわからないの」「何度言ったらわかるの」と怒りがこみ上げ、いつの間にか喧嘩に発展している。 他人の子を教えるときはキレずに優しく教えられるのに。 それは子どもに対する期待などの感情があって、それに応えたいと思う子どもの気持ちと繋がっているからね。 でも、それは勉強の妨げになる。 学習っていうのは単純に言っちゃえば、新しい情報やパターンを記憶することで、「ここまでわかってて、ここが躓いている」というのを瞬時に把握して、「ここに注目」とか、「こうやってみて」と気付かせ導くこと。 そこに感情の交流は必要ないよね。 子育てって、なにかのパターンを教え込むことじゃないね。 親子で感情のやり取りを通して、お互い育ちあう、共に育っていくということが大事だと思うんだ。 さっき言ったような宿題を見てもらってたけど、いつの間にか親子げんかになった日常の一コマは勉強、テストの点数にはつながらないかもしれないけど、親子の成長、豊かな情緒を育て...

【No.1511】素の息子のときと、自閉症の息子のときの関わり方

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昨日のブログを読んだ方から「素の息子のときと、自閉症の息子のときで対応や育て方に違い、コツがあるのでしょうか?」という質問を受けました。 確かに見方について書いたけど、対応の仕方については書いてなかったよね。 いま、目の前にいる我が子はその子本来の素の姿。 じゃあ、そんなときは、どうやって関わったらいいのだろうか、と疑問に思うのは自然な流れ。 こうやってわからないところ、疑問に思ったところがあったらすぐに訊こうとする。 結構、これができない人が多いと思うな。 「こんな質問したら…」「それくらい自分で考えな」と言われそうだな…とか、これはあらゆる年代、場面で見られるよね。 でも、それはまだ自分主体で考えている段階で、本気じゃないといえる。 治す親御さんは“なりふり構わず”になれるね。 というか、全部投げ出して我が子の生きづらさをどうにかしたい、少しでも楽にしてあげたい、と思えるくらいにならないと、そしてそこに行動が伴わないと、その子が辿ろうとしている発達の流れを変えることはできないでしょう。 話を戻すと、素の部分が出ているとき、険しい表情や固い表情から一転して、柔和で自然な表情、しぐさ、身体の動きになったとき、本来、その年代、その子がやっているだろうなと思うことをやってほしいな。 たとえば、一緒にままごとをしたり、本の読み聞かせをしたり、ギュッとスキンシップをしたり、親子で出かけたり、自然な会話を楽しんだりね。 そういったときの子どもさんを見ていると、脳に神経のごちゃごちゃとか、葛藤が見られないんだ。 ニュートラルで、開いている状態。 そのときなら刺激も、関わりも受け入れられますってなっていることが多い。 だから自然な交流、親子の関わり合いをやってほしいな。 これはその子の心身の安定、発達に繋がるし、それ以上に親御さんのずっと抱えてきた「ああ、普通の子だったらあんなことをしてみたかったな」という想いを解放することにも繋がると思うんだ。 口にする人は少ないけど、親なら思う自然な気持ちだから、ないことにし続けるのは心身に良くないね。 一方で「自閉っぽいな」と感じるようなぴょんぴょん跳ねたり、独り言をいったり、せわしなく動き回ったり、関わりを拒絶すような状態だったりするときは、まさに閉ざされた状態だね。 頭の中がごちゃごちゃしていて、もう苦しくって、放っておいてくれよ、辛い...

【No.1510】概念の呪縛

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この前の発達相談で、お母さんが「自閉症じゃなくなるとき」って言ってたんだよね。 このフレーズを聞いた瞬間、「このお母さん、おうちは大丈夫」って思ったね。 一人の人間、我が子、〇〇くんがいて、その子には自閉症の部分、瞬間もあれば、同年代の子と同じ部分、普通の子になるときもある。 どんな子も、朝から晩まで自閉症ってことはないよね。 ふと、普通の子、素の自分に変える瞬間がある、というのを掴めているかどうかって、とても大きなことだと思う。 障害名、たとえば『自閉症』というのはただの概念。 ここからここまでは自閉症で、ここからは自閉症じゃない、って人為的に分けて、便宜上、共通した名前を付けているに過ぎない。 その名前自体にはなんの意味もないんだけど、その名前に振り回されている人がほとんどじゃないかな。 自閉があるから情緒学級とか、自閉症だから視覚支援しなきゃとか、自閉症だからこだわりがあるもんだとか、ね。 『自閉症』という言葉のほうに、現実の生活が引っ張られるなんておかしいと思わない? 「自閉症の子は二次障害になりやすい」というドクターに、「“自閉症の子が二次障害”はわかったんですけど、うちの子はどうなんですか?二次障害になるんですか?それは決定事項ですか?」って訊ける親御さんが増えてほしいよね。 時々、「この子は自閉症で」「この子に知的な遅れがあって」「重度の知的障害があって」という親御さんがいます。 もちろん、本人は聞いていない、聞こえていても言葉の内容、意味までは分からない、という前提なんだけど、どの子もわかっちゃうよね、確実に。 行動としてその場を離れたり、ひきこもったり。 葛藤の意味で邪気が出たり、気が淀んだり。 彼らから伝わってくるのは、「そんな風にかあさんも、レッテル張りをするんだね」という声。 丸ごと、全体として自分が見られているんじゃない哀しさだね。 あと話はずれるけど、「自閉症」とか、「知的障害」とか子どもの前で言うと、その子はその枠から抜け出せなくなることがあるから注意したほうがいいね。 「知的障害がある自分」がその子の認識となって、その範囲内で成長を収めようとするから。 「アプローチ、取り組み、本人の能力から考えて伸びが少ないな」と感じるおうちは、親御さんだったり、祖父母だったり、きょうだいだったりが、日ごろからその言葉を使っていることもある。 本人の...

【No.1509】子どもに触れるその手が冷たい

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時々ですが、このブログを読んでくれた人から感想をもらうことがあります。 うれしいですね。 感想をもらえると、やりとり、交流が生まれるからね。 それがまったくないと、僕が一人で言葉を並べているだけになっちゃうから。 「この文章で、この部分に注目されたんだ」 「ここをそう解釈、捉えたのか」 新しい気づきもあるし、同じ文章でも読み手によって意味の取り方が違ってくるからおもしろい。 思い浮かべる子、今、関わっている子、一人ひとり資質と体験が異なるから、それが出るんだと思うね。 このように言葉とは曖昧なものだし、伝えたいことがピタッとその通りに伝わることはないと私は思っています、数字以外はね。 このブログだって、あれこれ書いてますが、正確に伝えようとして言葉を並べていけばいくほど、真実から遠ざかっていく感じがあります。 きっと伝わらないんだろうな、でも伝えたいな、という想いで綴ってる。 言葉は道具だから、使い方、使い手によって機能が変わってくるのは当然です。 また言葉はヒトの歴史でいえば、ごく最近から使いだしたもの。 生理現象があって、行動があって、最後が言葉。 実態の順番、信頼度の順番、正確性の順番だね。 つまり、子どものことを観察するにも、この順番が大事ってこと。 生理現象にはウソがないけど、言葉にはウソがある。 行動はその中間。 育てる順番も「言葉から育てよう」とするのは間違いだね。 まずは生理現象から始める。 疲れを感じられるようにする(生理現象)。 疲れを感じたら休むようにする(行動)。 疲れを感じて休みたくなったら「疲れた」「休みたい」と言えるようにする(言葉)。 発達相談のあと、当日、観察できたその子の発達状態や課題、発達援助のポイントと仕方をまとめた報告書を作成して、各家庭にお渡ししています。 この報告書は文章で作成したものだけど、ただ私がアセスメントして、こう育てましょう、というのを文字で書いたんじゃ、ほとんど意味が伝わらないし、活用できないでしょう。 だけど、当日、私がするアセスメントや子どもさんとの関わりを傍で見てもらってる。 気が付いたことがあれば、その場で私がぼそぼそ言って、ああでもないこうでもないと関わり方を変えていく。 こうやって私の言葉には表せない発達援助が、私が汗をかいたり、テンションが上がったり、悩んで困ったりするのを、ああだこうだと手を変...

【No.1508】身体の声、聞けてますか?

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僕は若いときから『アセスメント』というのが嫌いだったね。 なんだか「この範囲だけを見なさい」「この点を中心にみなさい」と言われているようで窮屈だったし、こんな切り貼りしたようなもんで、その人全体がわかるかいな、という反発心もあった。 管理職から「施設で使える実践的なアセスメントを作ってよ」と言われて作ったこともあったけど、納得できるものはとうとう作れなかったね。 まだ使われるのかな。 ちらっと「まだ大久保さんが作ったアセスメントシート、使われてますよ」って聞いたけど。 アセスメントを作るように命じられた背景は、教育大とか、福祉系の専門学校とか、そういう関係のある学校を出た人が入社しなくなって、「職安で募集があったから」というような職員が増えたことだったね。 結局、日々、利用者さんを観察し、評価して支援を組み立てよう、といっても、まずどこを見たらいいのか全然わからないような職員も、一応、「ここさえ見れば、ひと先ず大丈夫」となれるためのもの。 必要な評価項目を挙げていったらどんどん多くなっちゃうし、それじゃあ、初めて障害者と接しますみたいな職員は「こんなにあるなら、ああヤメタ」と使わなくなるから、最低限に項目を絞って…。 特別支援の世界にはたくさんの種類の「アセスメント」があるけど、どれも同じじゃないかって思うよ。 どこかの教授、医師、専門家が中心となって、アセスメントを作る。 そのプロセスの中で、これは重要だ、これはなくてもよいだろう、これは残しておくべきか、というのを当事者“ではない”誰かと誰かが話しあって、「こんな部分を観察しましょう」「それによって、その人を評価しましょう」とやる。 これって利益が大きいのは支援者側だよね。 なんでこんな昔話、アセスメントの話をしたかといえば、子どもと支援者のズレ、子どもと親御さんのズレが大きくなっていると感じるから。 昔から「この子は、こうなんです」と言い切るような支援者、親御さんはいたけど、いまはそのズレが単なるズレというよりも、独りよがりの見解に見えちゃうんだ、申し訳ないけどね。 その背景、理由を今日は詳しく述べないけど、アセスメントする側が、主に大人のほうが自分の身体の声を聞けてないことがあると思うんだ。 「(この子に)こんなんしたら気持ちよく感じるのですね」 「こうしたら発達のヌケが埋まって、育っていくんですね」 という...

【No.1507】場所によって表出の仕方が違う

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「保育園や学校では落ち着いているけど、家に帰ると暴れる」って話はよく聞きますね。 反対の「保育園や学校で暴れて、家に帰ると落ち着く」というのはまあ、学校で暴れる子は家でも手に負えないというケースが一般的だからね、比べると少ないけどあることにはあります。 その昔は、「自閉症は環境の変化が苦手だから」と説明されてて、家から学校、学校から家といった変化は本人にとって大きなストレスなんだろう、と言われていました。 で、ちょっと時代が進むと、今度は感覚過敏がメインになることが多くなって、「学校は刺激が多いから」「掲示物が多いのかもしれない」「蛍光灯がー」「子どもの声がー」「机を動かす音がー」となった。 「じゃあ、家よりも刺激が多い学校で落ち着いて、家に帰って暴れるのはどうして?」という疑問には、「学校で我慢した分、家で爆発するんだろう」と解釈する人が多かったですね。 あとは「学校は支援が充実していて刺激が制限、整理されているから」という家庭ディスりをする場合もあった。 今はどんな捉え方、解釈がされることが多いのだろう。 その環境に原因があって暴れる場合と、ストレスを発散できる場所だから暴れる場合と、どっちもあるんじゃないかな。 その環境の問題には、苦手な刺激がある、過剰な刺激がある、嫌な人がいる、嫌な記憶がある、嫌な活動がある、というのが考えられる。 あとはその場が楽しくて、その環境が嬉しすぎて「暴れちゃう」という場合もあるね。 興奮もストレスになっちゃうし、その興奮、感情の高ぶりをうまく制御できない、それは神経伝達物質とか、自律神経とかの問題として生じる話です。 あと主に家に帰ると暴れる話なんだけど、その理由はやっぱり外で我慢してきた分を一気に吐き出しているという面が強いと思うな。 施設で働いていたとき、結構、こんな子ども達いたもんね。 寮の玄関で靴を履き替えたら自分の居室に直行して、布団被ってワンワン泣いたり、押し入れの中にこもって大きな声を出したり。 寮に帰ってきた途端、自傷を始める子も何人もいたね。 きっと学校で相当我慢してきたんだろう、嫌なことがあったんだろう、と思ってた。 それは専門家、支援者の自分というよりも、素人、人間としての私が感じたことだけど。 そういう子たちは5分とか、10分とか泣いたら、自分で出てきてスケジュールを進めてました。 切り替えの時間の長さか...

【No.1506】対処行動は治ったら、どう変化していくか

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症状に見える行動を“対処”として捉えてみましょう、というのが前回の話でした。 で今日は、その“対処”として捉えた行動がどのように変化していくか、どうなったら理想的な形か、という部分について話をしたいと思います。 結論から先に言っちゃえば、対処行動自体は消えていきます。 そしてその対処行動を本人が作り出すためにいろんな能力を使ったと思うんだけど、それらの能力が日常生活の中で、生きていく中で有益なパターンとして発揮されるようになります。 たとえば、対処行動としての多動が「良く働き、良く遊ぶ」として使われるようになったり、頭でっかちでいろいろ考えを巡らせて対処していたのが治ったらクリエイティブな方面へと能力が発揮されたり。 他害をしていた子が適切な拒否を身に付けることで、今度は筋肉活動としてその力を使ったり、攻撃性を膠着状態を突破する、組織を改革する、といった方面へ活かせるようになったり。 物事へのこだわりが治ったら、几帳面な仕事、職人気質な作業や「正しさへのこだわり」から警察官や裁判官を志すことになったり。 同じ自傷でも、同じこだわりでも、同じ感覚過敏でも、その対処の仕方、様相は一人ひとり異なっていますね。 そこにはその人の資質が現れているんだと思います。 資質が苦しみ、生きづらさから逃れるための対処として発揮されている。 だけど、その生きづらさが治れば、より適切で豊かな対処の方法が見つかれば、そちらに使われていた資質が別の方面へと使われるようになります。 さらに生きづらさに対する対処行動を行っていたとしても、そこには絶え間ない「行動→刺激→調整→行動」といった学習、脳や神経発達への刺激が繰り返されていますので、単に「対処してました」ではなく、豊かな発達と成長があるんです。 だから、これは自閉症の症状だ、知的障害だからやる特異的な行動なんだ、で、「じゃあ、その症状とやらを抑えてしまおう」とやるのがとってもまずいんですよ。 その人の資質まで抑え込んじゃうことにつながるからね。 ギョーカイでは「二次障害」なんていわれるけど、私は医原病、支援者が支援することで作り出す病じゃないかって思ってる。 想像してみてほしいんだけど、自分の資質、能力が発揮できないことって辛いし、それは伸びやかさを奪うことだと思うんだ。 言い換えれば、内なる自由を奪う行為。 心に自由を奪われた人は、みんな...

【No.1505】それは症状か、対処行動か

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昨日の続きです。 発達に遅れや凸凹がある子ども達って、年齢にそぐわなかったり、特異的だったりする行動をするよね。 パッと見、理解することができなくて、周囲はそういった行動を「症状」の一つとして捉える。 で、それは親御さんだけじゃなくて、先生も、支援者も、医師や専門家も同じ。 乱暴な言い方かもしれないけど、「わからないものは、全部、症状に入れてしまえ」という風にも私からは見える。 「アセスメントが大事」というけど、国から予算を貰ってそういった研究はされているけれども、そもそもの見立て、見方がおかしいと思うな。 特異的な行動、ちょっと変わった行動を見たら、それを「症状」のボックスに入れるんじゃなくて、まずは「対処」のボックスに入れてみるのが大事じゃないかな。 もちろん、純粋な症状というのもあるけど、その場合も、「その症状体に対してこの子はどんな対処行動をしてきたのかな」と確認してみる。 「症状」じゃなくて、「対処(行動)」と捉える利点はいくつかあります。 大きなところを上げると、応援、後押ししたくなるよね。 「症状」だったら諦めるとか、受け入れるとか、手を出すところじゃないって感じがするけど、「これはこの子の対処行動なんだ」と思えると、どうにか力になりたい、なれるんじゃないかって思いが湧いてくる。 だって、対処するっていうのは、よりよい未来のための行動だから。 もちろん、その対処のやり方がうまくないなぁと感じることはあるけど、本人の良くなりたい気持ち、意向は変わらないもん。 あとは、その対処行動を観察することで、その子の能力や心身の状態を掴むことができる。 その対処行動に、どのくらいの工夫がされているのか。 その対処行動に至るまでに、どんな試行錯誤、経緯、周囲や環境と折り合いをつけてきたいのか。 そのあたりから、その子の持つ力、使ってきた力を知ることができるね。 対処行動がシンプルで、乱雑なものは、能力や心身の状態があまりよくないと捉えることができるし、反対に複雑で、周囲と折り合いがつく、つきそうなものは、それだけ能力や状態が良いって捉えることができる。 こういった現場のリアルなアセスメント、実践的なアセスメントって研究されないよね(笑) 研究者は曖昧な情報を捉えるのが苦手な人が多いから。 そしてこれも重要な利点なんだけど、みんなが参加できるようになるよね。 子ども達が...

【No.1504】「自傷あり」と引き継ぎ資料には書かれているけど

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8日の講演会の中で、ちらっと話したけど、頭のどこを叩くかで本人の受け取り方、訴えをイメージすることって大事だと思っています。 おでこの辺りを叩くのなら、「情報過多で頭が混乱しているのかな」「フラッシュバックが起きているかもしれない」と想像してみる。 左側頭部の辺りなら「言いたいことが言い表せず、言いたいことが伝わらず、辛い思いをしているのかも」「ミラーニューロンと関係する場所だから、他人との関係で疲弊や失敗を感じているのかも」と。 右側頭部の辺りなら「なにを言われているのかわからなくて混乱しているのかな」「気持ちの高ぶり、乱れが自分ではどうにもできず、困っているのかもしれない」と。 文字で表しちゃえば、それこそ、引継ぎの資料なんかだと、「頭を叩く自傷あり」で終わっちゃうんだけど、それじゃあ、その人、本人の様子やその行動の背景がわからないよね。 一番の問題はどう支援、援助したらいいか、どう改善したらいいかが浮かんでこないこと。 「自傷あり」に対する支援を考えれば、出てくるのは「自傷をさせない」しかなくて、でそうなると、自傷の兆候が見られたらパッと止めましょう、周りに影響を及ぼさないように別室に移動させましょう、となり、どんどん問題の本質から離れてしまいますね。 なぜ、自傷をするのだろうか、という視点がなければ、そこから援助の計画を立てなければ、いつまで経っても“後追い”しかできないでしょう。 これではいつまであっても改善は見られず、支援者のほうが先にお手上げになって、結局、「自閉症だからね」「重度の知的障害があるからね」と自分たちで納得感を出して、「薬漬けもやむなし」にしてしまうのです。 支援者の「打つ手なし」は、支援者側のアイディア不足もあるけど、そもそも出発点のアセスメント、その人のことを、その人の行動を理解しようとする時点で間違っちゃっていることが多いと思います。 自閉症や知的障害を持っている人たちの中には、自分の内面を捉えること、それを表現し、他者に伝えることが難しい人も多くいますよね。 本人からの明確な訴えがないと、周囲が勝手な解釈をしてしまう危険性が常にあると思っています。 もちろん、勝手な解釈がゼロになることはないと思いますが、彼らの行動に「どんな理由があるのだろうか」「どんな意味があるのだろうか」「どんな訴えや気持ちが表れているのだろうか」と考え、知ろ...

【No.1503】学習に対するモチベーション問題

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「できるようになるから、しろ」というような促し方、学習のさせ方って難しいことがあるよね、自閉っ子たちの場合。 ハイハイを抜かしたから、「もう一度、ハイハイをやってみよう」というのは記憶にはないかもしれないけど、やったことがあるからわかりやすい。 でも、「原始反射を統合したいから、このヒトデの動きをしてみよう」とか、「将来の自立のために、お風呂洗いを」とか、「手先の不器用さを改善するためにねじ回しを」とかは難しい。 まあ、やろうとすれば、能力的にはできるかもしれないけどね。 「これは訓練です」といって、ある程度、強制的な力が働けばできることもある。 だけど、多くは「やらされればやるけど、自分からはやらない」「やるのはやるけど、なかなか身につくところまでいかない」。 じゃあ、どうしてそうなっちゃうかといえば、想像力が必要になってくるから、だね。 できるようになった自分の姿、未来の自分、それによって変わる環境や選択肢を想像できると、やってみようかと意欲がわいてくる。 ここが自閉っ子たち、知的障害を持つ子たちには難しい場合がある。 定型発達の子ども達は、ある程度、年齢が上がってくると、幼児さんでも未来を想像して、「自分もそうなりたい」という想いを持つことができるから、「きっとできるようになるから、やってみようよ」に乗ってくる。 たとえば、脳梗塞の人だったら、もともとできていた自分がわかっているから、現状を「残念だなぁ」と思い、「もう一度、できるように」と一生懸命頑張る。 ところが初めから全然できない人に、「やれるようになるから、やれ」といっても、やらないよね。 自閉っ子は不器用な面もあるし、想像する力が弱い面もある。 小さいときから、定型発達児のような「できない」じゃなくて、「全然歯が立たない」「失敗ばかり」という体験を重ねまくってるんだからね。 学習のさせ方、促し方には工夫が必要。 課題のレベルからいって、この子の能力ならできるだろう、身につくだろう、というような目標設定がされる。 だけど、上記のように、現実の場に応用できなかったり、いつまで経っても身につかなかったりすることがあるよね。 そうすると、先生、支援者というのは、課題のレベルを下げる。 でも実際は、課題のレベルが高いんじゃなくて、できるってどういうこと?できた自分ってどんな感じ?どんないいことがあるの?何に繋が...

【No.1502】行動療法に対する3つのツッコみ

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行動療法っていうのがある。 簡単に言えば、学習によって行動を変える、または新しい行動を覚える、身につける。 望ましい行動をしたらご褒美をあげて、やめてほしい行動をしたら罰を与えたりするのは、その手段の部分。 細かいテクニックはいろいろあるけど、結局、学習させるってこと。 支援、療育の世界では今もなお、広く行われている療法です。 で、ツッコみどころとしては大きく3つあると思っています。 望ましい行動の“望ましい”って誰が決めるもの? 本人にとっては意味があるし、必要があるからその行動をしているんだよね。 それは本人にとっての「望ましい行動」 だけど、周囲や他者にとっては望ましくないから、またはその場に即した望ましい行動ができないから、「じゃあ、いっちょ教えましょうか」となる。 ハッタツの世界で行われている行動療法の基本は本人が学びたいもの、身に付けたいものじゃなくて、周囲が、他人が身に付けさせたいもの。 もちろん、その行動を身に付けることによって、周囲との関係が良好になったり、活動の幅ができることもあるでしょうが、「そんなことを一生懸命教えられても、はた迷惑」ってことも多いと感じる。 行動療法をしても、「なかなか行動が身につかない」「修正できない」と親御さんや支援者が嘆いている姿を見るたびに、「そりゃあ、そもそものモチベーションがないから」と思ってしまう。 次のツッコみは、発達障害特有の問題と通じています。 脳は階層になっていて、進化の過程でいう「魚類の脳」「爬虫類の脳」の上に「哺乳類の脳」が被さり、表層の部分に「人間の脳」があって覆われている。 発達障害の人は土台となる脳の階層に遅れやヌケがあって、その上に乗っかっている脳の発達に問題が生じている場合があります。 また脳神経同士をつなげるネットワークに不具合が生じて、つながるべきところがつながっていない、つながってほしいところがつながらず間が跳んでしまっているという場合もあります。 くどくど説明したらわかりづらくなりますが、一言でいえば神経ネットワークの「途中がない、抜けている」ってこと。 つまり、発達障害特有の問題とは途中の神経発達が抜けちゃっているから、人間の脳、大脳皮質で理解するしかないってことが多くあるんですね。 なんだか体感ではわからないけど、頭で、知識としてわかっている状態。 その場の空気を読むことはでき...

【No.1501】重度知的障があると自閉症の診断基準を満たしちゃう問題

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学生時代、仲が良かった友達がいて、よく一緒に勉強してた。 彼も、私も、こんな消化試合みたいな、どうせ施設に入るから、というような障害児教育に憤っていたからね。 彼は学校の中から、私は施設の中から、障害をもった子ども達の教育を変えようと頑張っていたんだ。 そんなとき、知的障害と自閉症の違いってなんだろな、って話になった。 自閉症の診断基準を見ていると、知的障害が重い子たちはみんな当てはまちゃう。 当時は自閉症の“三つ組み”って言われていて、言葉、社会性、想像(こだわり)の三つの症状が「中核をなす」となっていた。 だけど、知的障害が重くなればなるほど、そういった子ども達は言葉がしゃべれなかったり、他人とコミュニケーションをとったり、関係性を作ったり、維持したりするのは難しかったりした。 また自閉症の人が行う常同運動やこだわりとは意味合いが違うかもしれないけど、同じような限局的な特徴ある動きをしている大人の「知的障害者」はたくさんいた。 だから、この自閉症の診断基準じゃ、明確な区別はできないだろう、そこは求めていないのかもしれない、なんて友達と討論していたんです。 で、私は大学卒業後、自閉症専門の入所施設に就職する。 すると、そこで見たり、感じたものは、学生時代の疑問そのものだったんですね。 国から指定された自閉症専門の施設だから、入所条件として「自閉症の診断を受けた」となっているんだけど、雰囲気、様子、診断の経緯に違いがあった。 幼少期から行動や認知に大きな遅れがあり、その後、自閉症やADHDなどの診断がついたケース。 幼少期は「言葉の遅れ」があって、気になり、相談したら自閉症の診断を受け、その後、知的障害がついたケース。 もちろん、入所施設だから、家で生活が困難になった、という背景があるんだけど、大きく分けてこのような成育歴の違いがあって、その両者の様子を比べると明らかに違っていたんだ。 診断上は同じ『自閉症』だけど。 当時のことを思い返せば、その違いをこのように捉えていたんですよ、個人的には。 重い知的障害が基盤にある子たちは、受け身で、ボーとしていることが多くて、反応が弱くて、力が弱くて、低緊張で、良く寝て、抱っこしたら重い、って感じ。 一方で自閉症が基盤にある子たちは、探求心が強くて、つねにアンテナがはっていて、なんか「良くなりたい」という想いが強い感じ。 この...

【No.1500】「根本から治す」と「治しやすいところから治す」

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先週の講演会の中で纐纈さんが 「身体が整うと、それまで見えていなかったアンバランスさが表に出てくることがある」 「それは悪化ではない」 というような話がありました。 私は「人体は階層化されているからなぁ」と思いながら聞いていて、たまねぎの皮をむいていくように表に現れた問題、病層が良くなったら、より深い問題、病層が出てきて、また治してを繰り返していくと根本に突き当たって全体的な回復があるんだろうな、と想像していました。 そして想像から連想へ。 発達障害も「根本から治す」「根っこから治療する」というようなことがあって、発達も階層になっていて、土台となる発達の上に次の発達が乗っかっていくもんだから、土台が崩れるとその上の発達にも歪みなどの影響が出てしまう。 だから、根本、土台となるような部分にある発達の課題へアプローチして、そこを治しちゃえば、全体的な不具合がよくなると考えられるし、実際もそうだと思います。 発達障害の場合、ヒトの発達の順序は共通しているし、その子を観察すればどの時点で発達がズレ始めたか、問題が生じたのかがわかるので、身体の施術とは違って一気に根本を掴もうと思えば掴むことも、そこからアプローチを始めることもできちゃうんです。 だけど、発達援助の大事な指針の一つに「治しやすいところから治す」というのもある。 治しやすいところっていうのは、別の言い方をすれば、やりやすいところ、やさしいところとなります。 根本からアプローチして治せれば、一気に全体が変わる。 がしかし、取り組むには時間も、労力もかかる。 一方でやりやすいところ、やさしいところは本人も自覚しやすいし、何を治そうとしているのかがわかりやすい。 もちろん、それをサポートする親御さんや援助者にとっても。 そしてなによりも、そういったやさしいところが治れば、ちょっとかもしれないけど、その人本人の生活が楽になる、健康度が増す。 そうしたら、また次はもうちょっと難しい課題に取り組もう、という力と意欲が出てくることもある。 それを繰り返していけば、根本の課題、大きな課題にも主体的に取り組んでいくことができるんですね。 やさしいところから、治しやすいところから治していくのは根本の問題に立ち向かうための準備ともいえます。 最初から見えていたとしても根本を掘り起こさないのは発達援助のコツかもしれませんね。 根本から治...

【No.1499】私達子育て世代の人に起きていること

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先日の講座の準備で、あれこれ勉強してたとき、自分にも発達障害があったんだろう、とふと思ったんです。 あの先輩に、あの先生に、あの上司に「よくそんなことを言えたね」と周囲から言われ、「ああ、まずいこと言ったかも」と気が付くことがありましたね。 正義や正しい、正直にこだわりがあって、それに反する人、行為には徹底的に指摘していた。 それは子ども時代から30代に入るくらいまでずっと。 頭の中で集中しちゃうと、勝手に口から言葉が出てきて、それが忖度なしのストレートな物言いなもんだから、周囲の凍り付いた空気を感じて、またやっちまった、と思うことなんて多々。 理解のある人からは「大久保くんは若いからね」「正義感が強いからなぁ」なんて言われていたけど、まあ実際、自分もそうかなと思っていたけど、たぶん、神経の繋がりが跳んじゃっていたところがあったんだと思う(笑) 「繋がるべきところが繋がっていない」 そんな脳神経学の言葉を見ると、過去の自分が蘇ってきていました。 発達障害は「遺伝」と「環境」と「育ち」が絡み合って生じる。 とくにここ20年の発達障害児の急増は、環境の大きさを物語っているでしょう。 体内によくないものが入り、蓄積し、それが次の世代、次の世代へと移行。 農薬や化学物質、重金属などの公害。 いずれも日本では厳しい基準値が設けられていて、そのほとんどが「基準内」で「安全」となっていますね。 だけど、基準内だからといって「無害」にはならないでしょ。 何種類も複合して体内に入った場合の安全基準はどこにもないし。 自分で発達相談のサービスを起ち上げた頃は、「私も自閉入っているから」と言うお母さんが多くて、私も「その傾向はあるかもしれませんね」なんて笑いながら返していました。 だけど、いまは笑えなくなった、お決まりパターンの冗談じゃなくなった。 脳の状態がおぼろげながらも見えるようになったいま、発達相談のたびに、ほぼ100%の確率で親御さんに発達の凸凹、邪気が出ているのを感じます。 もちろん、働き、結婚し、子どもを授かるくらいの親御さん達ですから、軽度も軽度の発達障害です。 微妙な、微小な、神経発達、神経ネットワークの障害。 たぶん、戦後、日本が急成長し、社会構造が大きく変わる中で、それまでの人類、生物、地球が体験しないほどの環境の改変が起きたのでしょう。 それが世代を跨ぐごとに人体...

【No.1498】~花風社夏祭り2026~第二部の話

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花風社の浅見さんから「新しい著者の方との対談を」というお話をいただいたのが、6月でしたね。 療育整体の自律神経編を出版されたとき、「もうこれでやるべきこと、出すべき本、知見は世に出せた」という浅見さんのお気持ちを聞いていましたので、私はもう新刊は出ないかもな、なんて思っていました。 そんな中での新刊に取り掛かる話、新しい著者の方との対談の話が来たのでびっくり。 またそういった気持ちを変えさせるくらいの知見なんだと期待が膨らみます。 で、浅見さんと纐纈さんとの打ち合わせに臨みました。 事前に資料を貰っていて目を通しましたが、私の中では「浅見さんの気持ちを変えさせた」前提ですので、有益なのはわかるけど、その凄味みたいのまではわかりませんでした。 昨晩も触れましたが、構造化と行動療法の2本槍でなんでもかんでもエイヤーでやっていたところに、花風社さん、浅見さんが身体アプローチを見つけ、確立、そして今ではスタンダードになるくらいまでになった。 その延長線上に療育整体があり、今回の纐纈さんの知見と実践があって、本になるんだな、というのが打ち合わせ後の感想でしたね。 そして昨晩、講演会が始まります。 私はいつも通り、「なるべく鮮度が良いものを」という姿勢で、20時から始まる講演会の2時間くらい前から話すことを考え始めました。 もちろん、対談のお話をいただいてから、纐纈さんの知見、対談相手が務まるようにこれようの勉強と準備はやってましたよ。 古い資料を引っ張り出したり、本棚の前で眺めながら「これだ」というものを読み直したり。 とにかくインプット、インプット、インプット。 たくさんため込んで、直前に一気に吐き出すという感じです。 で、そんな感じで講演会に臨み、纐纈さんの話を聞いていると、「浅見さんの気持ちを変えさせた」凄味、意義がどんどん伝わってきたんです。 私は身体のプロではありませんので、栗本さんの知見も、療育整体と纐纈さんの実践も、大きな違いがわかりません、実際は。 大きく括れば、西洋一辺倒のハッタツの世界に入ってきた東洋的な知見たちという認識でしたが、ポイントはそこじゃなかった。 技術、やりかたの違いじゃなくて、もっと大きな違いがあった。 それは一人称のアプローチであること。 つまり、当事者、本人の目を通した、身体の内側から求められる要求に対する技能ということです。 支援する...

【No.1497】「強度行動障害への支援を国に訴える」?

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全国で12万人「強度行動障害」自傷を繰り返す我が子のため福祉サービスを始めた母...その思いに迫る(メ~テレnews|2026/7/30) を視聴しました。 明日の講演会の内容に繋がります。 どのようにつながっていくか、は当日、アーカイブ視聴のときに確認してくださいね。 「強度行動障害っていうのは知っているけれども、実際、そのような人に関わったことがない」という方はご覧になると実態が掴めるかもしれません。 で、今回の講演会のメインである纐纈さんがどのような視点で、どのような身体の手当てを提案されるのか楽しみですね。 10分ほどの映像でしたが、思うことは多々あり…。 でも講演会の話の展開によっては今はお口チャックで(←昭和の表現)、別の話を。 YouTubeで視聴したため、おススメに同じような内容がいくつか上がるようになりました。 深夜のドキュメンタリーで視聴したものもありましたが、初めて見るものもありって感じです。 そんな中で気になったのが「強度行動障害への支援を国に訴える」というワード。 国民みんなが幸せを求める権利があるのですから、強度行動障害を持つ子も、家族も、同じような権利を主張するのは当然でしょう。 がしかし、国の制度として、インフラの不備によって強度行動障害の人達は幸福を求められないのか、それが阻害されているのか。 別の見方をすれば、国が何をすれば強度行動障害の人と家族は幸福を求められるのか。 国にできることって、予算を作って直接的な金銭的な補助をしたり、支援サービスが利用できるようにしたりすることくらいしかないと思う。 年間に数十万円振り込まれても、部屋の補修とか、移動のガソリン代とかで、それで強度行動障害自体は良くならないでしょう。 支援サービスも、移動支援、余暇支援、相談支援など、こちらも直接的な症状の軽減というよりも、生活の質の担保がメイン。 これって強度行動障害の人を支援していることといえるのかな。 本人たちからすれば、補助金が出たとか、強度行動障害の認知が広がったとか、そこじゃないよって言うと思う。 まずこの苦しみを和らげてほしい、楽にしてほしい、というのが心からの願いでしょ。 そこに応えられる支援者、援助者、専門家がいないことが問題。 だから、本人がもがき苦しみ、最悪にならないための下手くそな対処法しているに過ぎないんですよ。 自傷は自らを...

【No.1496】失敗を誤差信号にできるかどうか

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「自閉症の人に失敗をさせてはいけません」 支援者は頷き、親御さん達は涙を流していましたね。 日頃、怒られることも多いし、自分が怒ることも多い。 そんな自分に対する嫌悪感を抱きながらの毎日に、「失敗させない」は「怒る必要がない」「もう怒らなくていい」と変換されたり、「もう無理はさせない」「できることをやらせて、自己肯定感を上げよう」と変換されたりしたんでしょうね。 事実、高機能、普通級にいた発達障害の子ども達にはこれぞといった支援ってなかったから。 2000年代、高機能ブームで一世風靡した有名支援者があちこちで言ってました。 で、その同じ流派、お弟子さん達が各地に散らばり、「失敗させない教」の布教に努めてた。 私は耳にしなくなったけど、まだそういった主張をしている人達っているのかな。 なぜ、失敗をさせてはならないのか。 その理由は、「自閉症の人達は忘れることができないから」と言ってましたね。 失敗したことが頭に残り続けるため、何度も自分自身を傷つける。 だから自己肯定感が下がって、二次障害に繋がるって主張でした。 まあ、この有名支援者は当時主流のアメリカ系ではなく、イギリス系だったから、そういったことを英国で教わってきたんだと思うんです。 ただ気を付けないといけないのが、この有名支援者の愛着障害はかなり複雑で重かったこと。 イギリスから戻ってくる飛行機の中で変換、脚色、そもそも受け取り方にバイアスがかかっていた可能性があるね。 じゃあ、当時、若手だった私自身はその主張をどう捉えていたのか。 トレーニングを受けて函館に戻ってきて、学生時代から仲良かった親御さんに話したら、「うちの子、何度言ってもすぐ忘れるよ」って(笑) 記憶の特性として、パソコンがすべてのデータを記録するように記憶するっていう意味じゃなくて、失敗した理由や意味、何が悪かったのか、どうすればよかったのか、がわからない場合、強い叱責が感情的に処理できず、トラウマのようになりやすいってことじゃないかと思うんです。 そこを端折ってあちこちで「失敗はさせてはいけません」っていうもんだから、間に受けた人たちがたくさん出たって話、結局は。 で、今日の話になるんだけど、失敗はさせたほうがよいよね、たくさん。 その失敗経験も、人生の糧になるからね。 それに失敗というのは脳を育てるし。 うまくいかないことがあると、大脳に誤...

【No.1495】「私の専門は発達障害児の親です」

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「私の専門は発達障害児の親です」というような親御さんっているよね。 発達障害を持つ我が子を育てる、が生活のすべてで、人生そのもので、生きる目的になっているような。 そんな人は、子どもの変化、反応に一喜一憂して、なにか問題が起きるとガクッときちゃう。 ひどい場合は「もうだめだ」「諦めるわ」と立ち直れなくなる人もいて、親御さんのほうがうつ病などを発症するケースもある。 こうなると、発達援助という話どころではなくなるね。 どうしてこんな風になるのかな、と長年考えてきました。 一番は「頼ったけど、期待を裏切られた」という経験の積み重ねかなって思う。 医師のところにいけば、治すための治療やアドバイス、それができなくても改善する工夫や方法なんかを教えてくれると思ってた。 だけど、診断して終わり。 で、「発達障害は治らないし、生涯にわたる支援が必要」と親の、家族の希望を打ち砕く。 療育機関に行っても、根本から変わるわけじゃない。 学校も、福祉も、できることは限られている。 となると、親御さんが抱え込むしかなくて、必然的に親子が一体化しちゃう。 「この子を守れるのは、育てられるのは私しかいない」と。 あともう一つの背景は、「ああ、援助者の影響か」ということ。 援助者の多くは仕事として関わっていますよね。 仕事としての援助。 だから、関わっている子ども、人が成長したり、改善したりすると、それが喜びに繋がる。 一人でも多くの発達障害者に良い援助ができることが目標になったり、生きがいになったりする。 で、そのテンションで、その姿勢で親御さんと面談や助言を行う。 「発達障害を改善することこそ、もっとも価値があることなんです」って。 こういう援助者が多いんじゃないかな。 援助者というよりも、技術者、サービス提供者、支援のための支援者といえるかもしれないね。 支援マニア、オタクも交じってると思うけど。 こういう人達はほんとに困ったもので、親御さんの人生を狂わせちゃっていることもあるな。 発達障害を持つ我が子を育てる以外の生きる目的がなくなってしまったら危ないの。 当事者の人との発達相談では、発達障害の治療や改善が人生プランにならないように気を付けるのが基本となってるんですよ。 治療や改善から切り離された生きがいや目的、自分の人生プランをもてるように援助することがもっとも大切なことなんです。 だ...

【No.1494】発達相談は検討会

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ついこないだ『ブラタモリ』で熊本城が出てたよな、それを見たばっかりだな、と。 10年前の被災からの熊本城を復興させようと現場で汗をかいている人たちの姿が印象的でしたね。 もう一度、石を一つずつ積み上げていた石垣が再び崩れる様子を見たら辛くなった。 各地域にはそこを象徴するような山や建物があって、ひとはその大きな存在に守られているような、「ああ、私は今日も共に歩んでいる」というような気持ちをいだくもの。 熊本に住む人たちにとって、その一つが熊本城だったと思います。 今回、亡くなられた方が多数いたと知りました。 心よりお悔やみ、お見舞い申し上げるとともに、暑い中での生活、また復興に携わる方たちが体調を崩されませんようお祈りいたします。 このような大きな災害が起きると、物質的な支援、金銭的な支援、人的な支援が必要ですし、今回も地震発生後数時間で次々と支援が行われていた日本はすごいと思いますね。 日本アゲの意味ではないですが、同じような地震が起きたベネズエラでは1か月経った今でも建物も、そこに住む人たちの生活も、発生時そのままで復興へ歩き出せていない状況があります。 ただ復興(支援)では違いがある両国だけど、映像から伝わってくる“共に歩む”という気持ちの面では変わらないと思います。 被災した人たちに心を寄せ、自分にできることをする、いつもの生活を崩すことなくやるべきことをやる。 発達相談における大原則として、「それは仮説である」というのがあります。 親御さんから、または本人から「この問題、どうしたらいいんでしょう。なにか方法はありますか?」と相談される。 で、私は本人のアセスメントから、また過去に関わってきた人たちからの経験と、過去に学んだ知識、技能から、「こういった方法がありますね」と返す。 でも、これは“答え”ではなくて、“仮説”なんですね。 あくまで、「いま、この時点で考えられた仮説の一つです」という話。 この仮説がご神託のようになったらまずい。 なにがまずいかといえば、与える者と与えられる者の関係になっちゃうこと。 もちろん、100%その人に合ってて効果があるといったことはないし。 大事なのは考えられた仮説をテーブルの真ん中に置いて、親御さんと本人と援助者みんなで眺めながら検討すること。 「いま、先生はこういったけど、私が日頃見ている感じでは、ここをちょっと変えたほ...

【No.1493】翻訳機みたいな援助者

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私が通っているお店、個人でやっているところなんだけど、そには海外からの観光客もよく来ています。 欧米の白人系の人も見かけるし、アジア、黒人の人も見かけるよ。 そんな海外からのお客さんがやってくると、店主は同時通訳の機械を取り出して、パパっとコミュニケーションをとるんですね。 訊いたらいまのは通訳のスピードも、正確性も向上しているんだって。 以前のような不自然な日本語訳みたいなのもなくなって、「これ一台あれば大丈夫」って言ってた。 同時通訳、翻訳の機械が登場してもう10年くらい経つけど、いまはスマホのアプリにもなるくらいまで広がって、もちろん、中学生、小学生の息子たちも使っていますね。 英語が苦手な上の子は「アプリがあるから、もう英語勉強しなくていいんじゃね」なんてブーブー言ってる。 たしかに私たちのときのような受験のためだけの英語だったり、道具としての英語、外国語はもうアプリで良いかな、と。 でも、やっぱり言葉は道具だけど、海外の言葉を身に付けることはいろんな人との物理的、心理的なつながりを持つことができる良いものだと思う。 いくら同時通訳が当たり前の世界になったとしても、人と人との感情の交流、共感したり、ときに意見をぶつけ合うようなことってなくならないし、その価値は永遠なはず。 AIがどんどん進化を続け、特別支援の世界にも入ってくる。 で、診断はアプリ、脳の機能、働きはリアルタイムでデータをとってAIが分析してくれる。 そして極めつけは、今の状態ならこの方法が有効でダウンロードはこちら、で、画面を通じてモニタリングもしてくれて、今のやり方はちょっと違うとか、今日の達成度は96%とか、トレーニングのリードと評価をしてくれる。 もしかしたらトレーニング自体も必要なくなって、脳に直接、刺激を与えて治療する方向になるかもしれない。 診断から治療の自動化。 支援学校から福祉へのベルトコンベヤーよりはずっといいけど。 治すのはお任せで、治ったら子育て始めます。 良くいえば、役割分担。 悪くいえば、育児放棄。 ここは考え方だけど、「発達障害を治す」のは日常生活から切り離すことができるのだろうか。 私自身も「治療」や「リハビリ」という言葉を使ってる。 でも、子育て、その子を育てていく中で、その範囲内での治療だったり、リハビリだったりだと思っている。 治療“的”な子育て、リハビリの...

【No.1492】自立しない改善

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発達障害に関わる人たちの職種がバラエティーに富むようになりましたね。 20年前は学校の先生とお医者さんと福祉の支援者くらいなものでした。 そこに理学療法士なんか参入してきたときには、みんな、おっと思った。 それがここ数年で整体師さんや鍼灸師さん、音楽家や芸術家、発達障害専門の学習塾、家庭教師という人達も目立つようになってきて、で、今では人を通り越してAIまでもが援助に携わるようになってきた。 発達障害はどんどん増え続けるもんだから、「普通子対象よりもここに商機あり」という感じもあるんじゃないかな。 まあ、選択肢が「養護学校か、特殊学級か」「卒業後は福祉一本」の時代よりはずっといいと思う。 援助者が増え、親御さん達にとっては選択肢が増える。 だけど変わらないことがあって、それは「藁をもつかむ」気持ちでしょ。 援助者が増えようが、選択肢が増えようが、親の気持ちとしては「なんでもいいから、少しでも楽になる解決方が知りたい」は変わらない。 その想いが子育てに対する意欲の源泉。 目の前にそんな親御さんがやってくる。 で、「私たちにお任せください」となると、援助者自身が藁になっちゃう。 そこが今の問題じゃないかな。 商売的には「何か良いものが提供できるかどうかわかりませんが…」とはいえないから、そんな風に言葉や態度で示しちゃうんだけど、そこは一般の商売、普通の子のうちとは違って注意すべきだね。 一般の家庭のほとんどは、「藁」だと思ってやってきてない。 まあ、金額に見合う成果が得られれば、ちょっとでも成長や楽しい時間が過ごせれば、というのがほとんどだと思う。 藁になった援助者は知らず知らずのうちに、親御さんの意欲を吸い取っていく。 依存的な親が増えたし、依存的な親の子は治らないし。 だけど、その状況を作ったのって、援助者側だったりする。 サービスを提供しているつもりが、相手は藁だと思っていたというズレ。 新興宗教が年にどのくらいできているか知らないけど、ナントカ法の教祖と信者はあちこちで生まれているね。 「これさえやれば、この子は発達できます」は信じる者は救われる世界。 「藁をもすがる思い」でやってくるんだから、私は「決して藁にはならないぞ」という想いで援助者を続けてきました。 だって最悪のパターンで「大久保の言う方法は正しい」「やってみたけど成果が出ない」の次は必ず「この子が重...