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7月, 2015の投稿を表示しています

1か月間の特別プログラム

1か月間に渡る特別プログラムが終了しました。 最初は、「なんでトレーニングを受けなきゃならないんだ」というような様子でしたが、途中から想いが伝わり、本人は本当に一生懸命頑張ってくれました。 私が最初に伝えたことは、「障害者として生きる必要はない」ということです。 その人は、自分が自閉症、発達障害であることを認めたくない、受け入れたくないという気持ちが強かったです。 だから、一人の人として接し、メッセージを送り続けました。 自分の弱みを知ることは、成長するために必要なこと。 強みを活かすだけではなく、弱みを克服することも大事であること。 努力することではなく、努力し続けることが重要であること。 自分の資質を磨き、社会に還元していくことが大切であること。 そのためにも、多くのことを学び、しっかり働けるために準備をすること。 その人は、自分の障害を否定しつつも、できない理由を障害のせいにしている様子がありました。 しかし、トレーニングを続ける中で、気持ちも変わっていき、学ぶことにどん欲になっていきました。 彼はよく「こんなこと、初めて教わりました」と言っていました。 挨拶の意味、どうして他人と協力するのか、働く意味・・・。 言葉以外にも、相手に気持ちが伝わる方法があることも知りませんでした。 彼はずっと自閉症支援は受けてきていませんでした。 依頼してくれた方たちが全面的に任せていただいたため、思い描く理想的なプログラムを計画し、すべて実施することができました。 脳へのアプローチ。 身体へのアプローチ。 そして、実践的な学習。 スポンジのごとく、吸収を続け、どんどん身に付け、日々の生活に活かしていきました。 固かった思考も、身体も、整えられ、自然な会話や状況にあった行動、ふるまいなど、今までにみられなかった変化がありました。 こうしてみると、彼は学ぶことを欲していたのだと思います。 ずっと押し付けられてきた蓋が取れ、一気に資質が開花したようです。 別人のようにナチュラルになりました。 公的な機関なら、数か月に1回、しかも相談がメインのところ、みっちり1ヶ月、彼だけのためのトレーニングを実施することができました。 一般的な機関で計算すると、数年分のトレーニングを受けたことになります。 トレーニングの中で、自分で

"不幸のヒロイン"が役名だったら断ってしまえ!

自閉症の人たちとお話をしていると、本人たちの口から出る言葉の8割以上がネガティブ発言ってことはよくある。 「最近、眠れない」 「また学校で失敗した」 「暑くて、もうだめだぁ~」 「私なんて、生きている価値が無い」 「社会は、自分のことを見捨てたんだ」 とかとか。 でもね。 一人ひとりを良く見て見ると、本人たちが言うほどダメじゃないと思うことも多々あるんです。 体調が悪いと言いながらも、普通に生活ができてるし、 学校で失敗した、行きたくないというわりに、毎日、休まず学校に行ってるし、友だちと遊びに行くし、 私なんて、生きている価値がないと言いながらも、今晩の食事を気にしてるし、今度、こんなことしたいなとか言ってるし。 そんなとき、ツッコミを入れたら、「あっ、そうすっね」とすぐに気がつく、聞き分けが良い方たち。 本人の苦労は、本人しかわからない。 だけど、実態以上に悲観し過ぎている人もいると思うよ。 これって周りの影響も大きいんじゃないかな。 支援者って、本人が"大変"という大前提で話を始める。 「大変だよね」 「失敗は辛かったよね」 「周りの理解がもっとあれば、生きやすくなるよね」 必ず「"困ってる"ことはなんですか?」と尋ねてくる人もいる。 そして、"できない"っていうのも大前提。 「他人とコミュニケーションを取るの難しいよね」 「8時間、働き続けるのは無理でしょ」 「文字が読めても、書けるようにはならないね」 「通常級はついてけないよ」 「一般就労!?ムリムリムリ。二次障害になっちゃうよ」 こんなことをずっと言われてたら、ネガティブな人間になってしまう。 自分が何もできない、不幸な人間だと思ってしまう。 そして、自分の可能性と未来まで否定するように・・・。 だから、もし今、関わっている支援者が、そんな毒ガスばかり吐く人なら、サヨナラした方が良いと思うよ。 そこまで大変と思ってないのなら、「いや、別に大変だとは思ってません」と言っちゃいなよ。 できる部分もあるのに、できるようになった部分もあるのに、できるようになる可能性があるのに、「できないよね」と言われたら、できる部分か、できる可能性を堂々と訴えちゃえ。 自閉脳で生まれた人は

パターンのような挨拶に、彼らしさが表れた瞬間

いつも彼は、セッションが終わると、「ありがとうございました」と言い、頭を深々と下げる。 本人の調子が良いときも、悪いときも。 直前まで会話を楽しんでいたとしても、私が「じゃあ」と話を切り上げると、決まってこのように挨拶をしてくれる。 それ以外のことを言うことはないし、挨拶が終わると、くるっと方向を変え、自分の向かう方向へと足早に去っていく。 そんな彼が今日、いつものように同じ調子で「ありがとうございます」と言い、同じように頭を下げたあと、「あっ、大久保さん、試験頑張ります!」と笑顔で言ってくれた。 今日のテーマは、"去り際の会話"ではない。 直前まで試験について話をしていたわけではない。 別れ際、誰であっても、いつどんなときであっても、同じように「ありがとうございました」と言う彼から自然と発せられた言葉。 次に彼と会うときまでに、試験が予定されている。 最近は「試験が不安だ」と悩みを聞いていた。 きっとこのような複数の情報から判断し、私のところにわざわざ戻ってきて言ってくれたのだろう。 彼は、とにかく複数の情報を統合することが苦手だった。 だから、まずは複数の情報を捕まえられるような勉強を行ってきた。 また、思考の固さも目立っていたため、身体の固さを取るためのコンディショニングも続けてきた。 そういった積み重ねが、近頃の彼の成長にもつながっているのだと思う。 パターンのような挨拶に、彼らしさが表れた瞬間だった。 まるで蓋がとれたような。 固くなってガチガチだった彼に余裕が生まれ、彼が本来持っている性格や気持ちが表に出てきたように感じる。 支援者というのは、彼らの上に被さった蓋を取り、その人の資質と成長する力を解き放つ役割を担っているのではないかと思っている。

もし啓発活動が実を結んだら

20××年、地道な啓発活動が実を結び、一般の人の多くが自閉症、発達障害について知り、偏見のない世の中になった。 そんな社会では、どんなことが起きるのだろうか? 自閉症や発達障害による機会の不平等はなくなった。 そうなると、残るのは、"その人"ということになる。 その人にどんな能力があり、どういった人物なのかが問われるようになる。 どんな道を選び、どんな人生を歩むかの選択肢は、自分たちの手にある。 でも、それは同時に、自己責任も手に入れることになる。 自分の選択によって幸せになることもあれば、不幸になることもある。 合理的配慮は、障害による不利益を無くし、平等な機会を与えてくれる。 しかし、豊かな生活、幸せな人生を保障してくれるものではない。 世の中の人たちが、障害について知り、理解してくれることが、自分自身の幸せに直結しているわけではない。 20××年が、いつくるのかはわからない。 もしかしたら、近い将来なのかもしれないし、生きている間に見ることができない世界なのかもしれない。 ただ1つ言えることは、啓発が進めば進むほど、「じゃあ、あなたはどうなの?」というように個人が強く問われるようになるということ。 豊かな生活と幸せな人生は、あっちから歩いてはこない。 どんな社会になろうとも、自分自身で掴むしかない。 啓発がいくら進んだとしても、働く能力と体力がなければ働くことはできない。 周囲に迷惑をかけてしまう人は、どのコミニティーの中でも豊かな生活を送ることはできない。 つまり、別の言い方をすれば、社会の理解が得られようが、得られまいが、豊かな生活を送れる人はいるし、幸せになれる人はいるということ。 私は、まず個人が学び、成長することが第一であり、その人の幸せに直接つながると考えている。 そして、社会の中で輝く人達が増えることが真の啓発活動であり、社会を変えていく力を持っていると信じている。

合理的配慮はコストと利益のバランスで決まる

「合理的配慮」という言葉も、近頃では市民権を得たように感じます。 学校や企業、社会全体に障害を持った人への合理的な配慮が求められるようになっています。 一見すると、こういった流れは喜ばしい変化として受け止められているかもしれません。 でも、それは本人とその家族、支援者たちからの見え方です。 では、合理的配慮を求められるようになった方は・・・。 社会の声、流れから、合理的配慮に堂々と異を唱える学校や企業はほとんどないでしょう。 ノウハウはなくとも、障害を持った人にも同じような機会を、と思うはず。 でも、実際に行動するといったら、想いとは異なる選択をする場合もあります。 合理的な配慮を求められるということは、コストがかかります。 一般企業なら当たり前で、コストに見合う働きが得られないのなら手を挙げないでしょう。 もし手を挙げたとしても、よりコストの低く、起業にとってプラスとなる人材を求めるはずです。 これは学校でも同じことがいえます。 特別支援学校ならまだしも、一般的な学校には余裕がなく、積極的に合理的配慮をしてまで生徒を受け入れることまではしないでしょう。 いくら少子化とはいえ、誰でもOKというわけではなく、できれば、配慮が少なく、適応力が高い生徒の方が良いと思うのが自然な感情です。 つまり、合理的な配慮が求められるようになったからといって、すべてが良いわけではないということです。 合理的な配慮を実施していくには、ほとんどのところはノウハウがないので、支援者を入れることになります。 そういったとき、支援者が受け手側のコストを考えずに要求を続けていくと、「受け入れるのがめんどくさい」「できれば、受け入れたくない」という感情を抱かせかねません。 また、先に挙げたように障害を持った人の中でも、より合理的な配慮が少なくて済む人が求められるようになり、競争が生まれます。 障害者雇用が進んでいかないのも同じ理由です。 「雇うなら配慮が少ない方」「身体障害の人の方が良い」という本音があります。 一般の社会の物差しは、コストと利益のバランスで成り立っています。 「合理的配慮を!」「法定雇用率を上げよう!」という声は、受け手側のコストを高く印象付けることにつながる可能性があります。 もちろん、社会が変わることで機会が得られるよう

「自閉症の人は視覚優位」と言うのでは粗い

「自閉症の人は、視覚優位」というのは、支援に携わる人の中では何の疑いもない常識になっている。 自閉症支援についてトレーニングを積んだ人でなくても、「文字で書いた方が良いんだよね」「わかりやすく色分けしたりすると良いんでしょ」と言う。 衝立と絵カードがあれば、何となく「自閉症支援やってます」みたいになる。 でも、私は「自閉症=視覚優位」の表現の仕方に粗さを感じる。 聴覚優位の自閉症の人もいるし、視覚的な情報に圧倒されて辛いという人もいる。 それに視覚優位の人でも、それぞれに違いがあるだろう。 視覚的に理解するのが得意だけど、記憶しておくのが苦手。 反対に、見たものは記憶として残りやすいが、理解するのには向いていない。 また、目に入ったすべてのものに注目がいく人もいれば、特定のモノにのみ、視覚的な強みが発揮される人もいる。 こういった様々な視覚優位な人がいるし、同じ人でも自分の状態によって差が生まれてくるはず。 ずっと視覚的に理解し、記憶してきたが、別の方法があることを知らなかったり、成長とともにいろいろな部分が発達し、変わってくることもあるだろう。 近頃、感じるのは、視覚化する効果は、脳の空きスペースを作るという面。 視覚化するというのは、頭の中にその情報を置かなくて済むということ。 外付けハードディスクみたいに。 空いた分を使って、物事の関係性を理解したり、新しいことを勉強したり、溜まっていた情報を処理したり。 視覚的な支援でポジティブな反応があった場合、こういった面も考えられるのではないかと思っています。 そろそろ「視覚化すればいいんでしょ」のレベルは卒業ですね。 その人にとって、視覚化する意味や効果は、どういった面で見られるのか。 それをしっかり見極める"目"が必要になってると思います。 「見せればいい」のではなく、「どう見せるのか」「本当に視覚化が有効か」というアセスメント力が求められています。

他人の気持ちがわからないと出てくる思考の癖

もう一年くらいの付き合いになる学生さんは、他人の気持ちを想像することが苦手。 初対面の人や知り合ったばかりの人、時々、会う人などは特に。 その学生さんのユニークなところは、「相手の気持ちがわからない」という宙ぶらりんの状態のままにしておかないこと。 必ず相手の気持ちを「こうだ」という風に決めます。 ただ他人の気持ちを想像すること自体が苦手なため、過去にあったその人とのやりとりや、今の状況から想像するのではなく、自分自身の主観、思考の癖によって相手の気持ちを確定します。 その学生さんは、子どものときから、友だちと遊ぶというようなことは、ほとんどなかったと言います。 小さいときは、相手の気持ちがわからず、歳の近い子ども達は、ただ怖い存在だったようです。 学校に上がっても、このような状態だと、なかなかうまく集団生活に馴染めず、関係を作っていくのも大変でした。 こういった積み重ねが「年齢の近い人達は怖い存在」という思考を作り、相手の気持ちが読み取れない場面になると、「この人はネガティブな感情を持っている」というように解釈します。 この繰り返しで、ますます他人と関わることが怖くなるという負のスパイラルの中で、ぐるぐる回っていたときに、その学生さんと出会いました。 一年くらい経ち、やっと他人への恐怖感が薄れてきたように感じます。 表情やジェスチャーなど、言葉以外のメッセージの読み取り方、いろいろな状況から想像できることなどの知識面の学習と、実際に他人と関わってネガティブではない反応を得る経験の積み重ねを行ってきました。 今では「先生は私のことを迷惑な人とは思っていないのですね」とか、「私も同級生のことを嫌わないようにしなければなりませんね」といった発言も聞かれるようになりました。 社会に出たとき、どんな人とも仲よくする必要はありませんが、理由もなく、相手のことを嫌ったり、近づいてくる人をすべて拒絶するのは可能性を狭めてしまうと思います。 「だいたい多くの人は、他人のことをいちいち注目していないし、好きでも、嫌いでもない"普通"というカテゴリーに入れるよ」というと、その学生さんはとても驚いていました。 こういった見えない事実も、丁寧に勉強する必要がありますね。

「治ってますか?発達障害」(花風社)を読んで

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「ありのままでいいんだよ」と言われて違和感を覚えたことはありませんか? 「そんなに頑張ったら、二次障害になっちゃうよ」と言われて、無理しない道を勧められたり、挑戦することにストップがかけられたことはありませんか? 「生きづらさの原因は社会が理解してくれないから」というメッセージが、何だか喉を通っていかない、という人はいませんか? このようなモヤモヤがある人にこそ、是非、今回紹介させて頂く新刊を読んでほしいと思います。 数ページ読んだだけで、文字から伝わってくる体温を感じました。 1つ1つの言葉に、熱意を感じるのです。 それは過去に出版された本を読み、著者の南雲明彦さんの人生の歩みを情報として知っていたからかもしれません。 でも、それ以上に「これからの子ども達に"自分のような思いをさせたくない"」という強い思いから、言葉が生まれてきているからだと私は受け取りました。 「発達障害者は発達し、学習障害者は学習する」 まさに南雲さんが歩んできた道が、このメッセージを証明してくれているのだと思います。 その道の険しさは、他人が想像できるようなものではないでしょう。 でも、社会の中で生きていくために、自分自身が成長していくのをやめなかった。 表に見える努力だけではなく、その陰で地に足をつけた努力を重ねられてきたのだと思います。 学び続ける大切さと、どのように学び、成長していったのかを伝えることは、これからの子ども達(もちろん、大人達も)にとって道標になると思います(勇気ももらえます)。 それは南雲さんご自身のことだけではなく、南雲さんが全国を飛び回って見てきた成長し、治っていく人たちのことを伝える活動でも! この新刊を読んで、努力し、成長を続け、社会の中でその人の持つ資質を開花させられる人たちを応援していきたいと私も改めて思いました。 こういった人たちが増えることが、最高の啓発だと思います。 身近にいる努力し、成長を遂げていった人たちのことをたくさん発信していけるように、私自身も努力を続けていきたいです。 「発達障害の人達の未来のために、やれることをやってみよう」という空気作り! 冒頭に挙げたモヤモヤしている人だけではなく、ギョーカイに染まっていない若い世代の親御さんにも、社会の中で生きていきたい、生きていっ

『愛情探し』トレーニング

見えない愛情を見えるようにすることも、大切な支援の一つ。 昨日もこんなことがありました。 お子さんへの愛情たっぷりのお母さん。 将来のことを思って言ったことが、お子さんには「自分を突き放した」とネガティブに受け取ってしまい、言い争いをしてしまったとのことでした。 本人は「疎外感を感じる」と、私に率直な気持ちを伝え、怒りと悲しみの感情を表していました。 私は一緒にお母さんのメッセージ(言葉)に含まれていた想いを考えました。 子どものことが嫌いだから厳しいことを言ったのではなく、より良い未来を築くために考えたお母さんの提案だったこと。 親は"子どもを自立させる"という役割を持っているため、そのような提案をしたこと。 あくまでお母さんは提案をしたのであって、「それをやりなさい」という強制的な指示ではないことなどを確認しました。 このように1つ1つ確認していくと、徐々に落ち着きを取り戻し、最後にはお母さんに対する感謝の気持ちも言っていました。 良かれと思って行った発言も、その意図まで汲み取れず、ネガティブに受け取ってしまうことがあります。 このお子さんもそうでしたし、一番引っかかっていた部分でもありました。 ですから、私は「本当に嫌いだったら、美味しいご飯を作ってくれなかったり、一緒に遊んでくれなかったり、最悪の場合は家を追い出されるんじゃない」と、本人が言うようにお母さんが嫌いだったバージョンの話をしました。 このときのハッとした表情は印象的でした。 視点を自分ではなく、お母さん側に切り替えることで、気づくこともありますね。 私たちが自然に、かつ同時進行で行う視点の切り替え→総合的に判断が苦手だと、このようなサポートが必要です。 このあと、良い機会ですので、お母さんの愛情探しを行いました。 「美味しいご飯を作ってくれる」 「お母さんの体調が悪いときも、家族が困らないように家のことをやってくれる」 「いろいろなことを教えて、応援してくれる人(支援者)を見つけてきてくれる」 「自分が好きな場所に、いつも連れていってくれる」 「誕生日を一緒に祝ってくれる」 など。 家に帰ってきて、大好物な食事が用意されていたら、それだけで大事にされていることがわかりますし、自分が家にいなかったときに親がどのような時間を

脳の外に出してスペースを空ける

「1つのことが気になったら、それで頭の中がいっぱいになる」と言う話は、よく聞きます。 昨日も、ある出来事が頭の中から出ていかなくて、何をしようにも切り替えて集中できない、という相談を受けました。 自閉症の人たちの脳は、私たちの脳とは異なり、複数の事柄を同時に置いておくのが難しいのかもしれません。 例えるなら、脳に10のスペースがあったとしたら、定型発達の脳は10のスペースに10個の事柄を置いたり、2個ずつ5つのスペースに置いたり、優先順位等によって1、1、3、5というようにバランスを考えて置けるような感じ。 一方、自閉脳の場合は、同じように10置けるくらいのスペースがあったとしても、そこに1つの事柄を置く。 その分、10置けるくらいのスペースを余すことなく使い、より大きく、より鮮明な映像が頭の中に現れるのではないかと思います。 もちろん、どちらの脳が優れているという話ではありません。 それぞれ特長がある。 でも、いつも優先順位の高いもの、生活に直結する重要なものが、全面に出るのではなく、本来なら1番にやらなければならないことがあるときなどにも、全然関係ない事柄が気になり、そちらの方に意識が向かってしまうことがあるそうです。 また、私たちのように意識や労力を分散して、ある意味、適当に行っていることも、鮮明で大きな映像が全面に出てくるので、疲れてしまうそうです。 こういった意味では、私たちのようにテキトーにできない脳ですので、その分、疲労度が高いように感じます。 昨日のセッションでは、忘れようとしても、意識しないようにしても難しいということだったので、だったら、なるべく早くフィニッシュさせてしまう方が良いのではないか、という結論に達しました。 気になることがあったら、それを解決することを目指す。 そして、終わりにして、脳の外に出し、スペースを空ける。 もし、すぐに解決できないのなら、一旦頭の外に出すために道具を使う。 例えば、気になることを紙に書いたり、スマホのメモに記したり。 外付けハードディスクというような感じで。 このように自分の脳に合った方法を導き出し、行動に移すことが、生活の質を上げ、自分の脳を活かすことにつながると思います!

自閉症になる方法はただ1つ

「私は自閉症(発達障害)ですか?」と尋ねられることがある。 でも、誰が見てもご本人様ですね、って方に対しても自閉症とは言えない。 何故なら、私は医師ではないから。 日本で自閉症か、否かを決められるのは医師だけ。 自閉症になる方法はただ1つしかない。 医師のところに行き、自閉症という診断を受けるしかない。 極端なことを言えば、医師が自閉症と言えば自閉症になるし、自閉症ではないと言えば自閉症ではなくなる。 現在の医学では脳を見て判断することは、まだできない。 そのため、表れる行動や成育歴、本人の話などから総合的に判断する。 ということは、医師も人間だし、中には発達障害を専門としていない人もいるので、一定以上特性を持っているのに自閉症にならない可能性も、一定以上特性を持っていないのに自閉症になる可能性もゼロではない。 「自閉脳を持っているから、あなたは自閉症ね」とはならない。 「自閉症の特性が一定以上、私には確認できたから自閉症ね」ということになる。 じゃあ、診断を受ける意義は何だろうか? 一番の意義は、福祉的資源が利用できることになることだと思う。 他には、周囲の人間に説明するときに「自閉症」という言葉が橋渡しになる。 特性だけ言うよりも、「自閉症」という共通言語があると伝えやすい。 決して「自閉症」がまったく同じこと状態を表すのではないが、「私は自閉症です」「あなたも自閉症ですか」というように、伝えるのには共通言語があることが有利になる。 社会的資源を使う予定がない人、"自閉症"として生きていく予定がない人には、診断を受けることをお勧めしない。 それよりも、自分の特徴を知ることの方が、その人の生活を豊かにすると考えているから。 診断名よりも、自分にはどんな特徴があり、どうすれば良いのかの方が大事。 自分の特徴を知ることができれば、どんなときに困難があるかがわかり、事前に対策を練ることができる。 私は"対策を練ることができる"というのが、一番大きな意義だと思う。 そうすれば、困難を回避できるし、工夫もできる。 トレーニングによって見えてきた弱点を成長させることもできる。 自閉症という診断名は、工夫の仕方と成長の仕方を教えてくれるわけではない。 自閉脳を切り口に、自分の脳を

頭をFPで使う人

今日、セッションした学生さんから"FP"という言葉を始めて聞きました。 みなさん、"FP"って何のことだか、分かりますか? "Full Power"の略で、全力ということらしいです(笑) 他にも、"り"が了解の略で、"M"がマジの略。 まあ、どれもそこまで略すほどの長さではないと思うのですがね。 ちなみに、その学生さんは「略すと混乱するから、ちゃんと言ってほしい」と怒っていましたが(笑) "FP"という言葉を聞いて、「自閉症の人たちは、頭がFP」だと思いました。 つまり、頭をフル回転して物事を考えている。 こういった印象を受けることが多々あります。 私たちが同じ内容を考えたり、行動したりするときよりも、たくさん頭を使っているように感じます。 「それくらいの内容なら、そこまで考えなくてもいいんじゃない」と思うこともあります。 その背景には、真面目さ(手が抜けない)もあるでしょうし、脳内での情報処理の仕方の特性もあるでしょう。 「脳をたくさん使っている」と言うのを別の表現で言うと、身体を使って考える割合が少ないとも言えます。 定型発達の人は、頭で考えると同時に、五感を使って物事を考えます。 そうやって頭(脳)と身体(五感)をバランス良く使い、行動しています。 しかし、自閉症の人は頭(脳)を使う比重が多いように感じます。 発達の凸凹は、身体面の発達にも凸凹を生みます。 そのため、身体から情報を得ることがうまくできないことがあります。 そして、身体の感覚や動作がスムーズに行えないことによって、身体を動かす経験の不足にもつながることもあります。 その結果、身体よりも、頭をたくさん使うのかもしれません。 頭のみを使うと、情報が的確に読み取れなかったり、情報が欠けていたり、気分によって事象の意味合いが揺らいでしまいます。 また、第一に頭ばかり使うと大変疲れてしまいます。 ですから、脳の負担を軽減するためにも、五感も使い複合的に情報を得るためにも、身体面での凸凹の発達を促すためにも、身体を使った経験を増やす支援を行っています。 時に頭のFPも大事ですが、身体のFPも大事ですね。

"被害者"という視点も

我が子の問題行動に悩まされている親御さんは少なくありません。 かかってくる電話も、問題行動に関する相談が多くあります。 問題行動の背景は様々であり、誤学習や未学習、環境刺激、予測できない変化や複数の変化、体調面の不調などがあります。 ただ理由はどうであれ、まず親御さんを助ける必要があると感じています。 家庭内で起きる問題行動に対して、親御さんが我慢する傾向が強いと感じています。 どうしても家のことなので、「自分が何とかしなければならない」という思いが全面に出てきます。 でも、問題行動の内容によっては、親御さん自身が"被害者"になっている場合もあります。 我が子から受けた行為に対して"被害者"というのは、オーバーなのかもしれません。 しかし、実際には心身に傷を負っている親御さんもいます。 そういった場合は、子どもをどうにかしなければならないと思う親御さんの立場だけではなく、被害者としての立場もあると思います。 家庭内で起きた問題について相談されたとき、支援者は「自分たちは関係ない」とか、「親御さんの対応の仕方が悪い」などと思う前にすることがあると思います。 それは親御さんのケアではないでしょうか。 そして、親御さんに変わってできることを実行することだと思います。 被害を受けた人に対して、被害を与えた人の支援、指導を行え、というのは厳しいことだと思います。 被害者という立場を忘れてしまうと、知らず知らずのうちに親御さんは再び傷つき、また支援者も親御さんを傷つけてしまうこともあります。 そういったことを繰り返された結果、親御さんが燃え尽きてしまうこともあります。 電話口で泣かれることなんて、1度や2度の出来事ではありません。 問題行動に困り果てて、この地域以外の親御さんから電話やメールをいただくことがあります。 私も子の親ですので、我が子が行ったことの責任はとらないといけないという心づもりでいます。 でも、自閉症の人の場合、定型発達の人からは見えにくい部分、理解しづらく育てにくい部分もありますので、一人だけで抱え込まず、また親御さん自身の気持ちと健康も大切にしてもらいたい、と常々思っています。

メンタルフレンドサービス開始から1年

昨年の6月から始めた"メンタルフレンド"サービスが開始から1年が経ちました。 結構、ニーズがあり、メンタルフレンドとして定期的に伺っている人も複数います。 中には、メンタルフレンドから発展して、セッションの利用に変更になった人も。 メンタルフレンドは、私が学生時代に行っていた不登校の子どもとのボランティア活動からヒントを得ました。 一緒に遊んだり、時間を過ごすことにより、心の交流を目指した児童相談所が行っていたボランティア活動です。 私も4年間、その活動に携わり、定期的な訪問を行っていました。 そこで、心の交流は子ども達の気持ちを穏やかにし、成長を促す結果にもなることを経験しました。 「てらっこ塾を利用したいけれど、何をトレーニングしたら良いかわからない」 また、「本人がトレーニングを受ける心身の状態ではない」 というような本人や親御さんのニーズを受けて、実施しています。 「本当は友だちが欲しい、家族以外で相談に乗ってもらえる人がいたら良いのに、とずっと思っていた。 でも、普通の家庭教師だと自閉症の理解がなく、当事者同士だと、なかなかうまく交流ができない。 そんなときに、自閉症のことを理解してくれる人で、一緒に時間を過ごしてくれる人がいて良かった」というお話もよく伺います。 メンタルフレンドの意味づけは、利用してくれる本人が行ってくれます。 自信をつけたい人、共感してもらいたい人、誰かと一緒の時間を過ごしたい人、自分の趣味を共有したい人など、利用してくれる人とニーズは様々です。 ただ言えることは、みなさん、理解や共感を求めているということ。 それが満たされれば、次のステップに進める人もいます。 メンタルフレンドを利用してくれていた人が、「今の状況から抜け出したい」「〇〇ができるようになりたい」など、将来に向けた前向きな発言が自然に出てくることもあります。 電話をかけた当初は、なにをどうしたら良いか分からず、途方に暮れていたという本人や親御さんもいましたが、気持ちが満たされることによって、自らの足で進もうとする力が湧いてきた人もいます。 定型発達の人は、自然に友だちや仲間、コミュニティーを作り、そこで気持ちを満たす場合があります。 しかし、自閉症の人にはうまく他人との関係性を持ち、それを継続すること