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11月, 2020の投稿を表示しています

【No.1127】ラジオチャンネル開局のお知らせ

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発達って目に見えないものですよね。 その見えないものを商売にしている私は、とても危ない橋を渡っているといえるのです。 実際に商品が合って、それを売り買いする商売でしたら、モノが残り、またその価値を感じることができます。 しかし、私の行う発達相談、援助はサービス業であり、お客さんが満足するかどうか、そのニーズに応えるかどうか、それが唯一の価値になります。 標準療法は、エビデンス、科学的根拠を重視します。 何故なら、みんなの税で成り立っている商売だからですね。 サービスを利用しない多数の人がいて、少数の人がサービスを利用している。 そのとき、エビデンスが必要になるわけです。 よく勘違いされている人がいますが、少数の利用している人のためにエビデンスがあるわけではありません。 利用していない大多数の人のために、「皆さんから集めた税金は、ちゃんと科学的根拠のあるものに使用していますから」というある意味、建前のためにエビデンスが使われているのです。 親御さんによっては「エビデンスのある療法しか信じない」という人もいますが、たぶん、その人は基になる論文を読んでいないのでしょう。 論文には、こう書かれています。 「被験者〇名のうち、〇%の人に効果があった」と。 つまり、どの論文も100%の人に効果があるとは言っていませんし、そんなことは不可能です。 被験者という括りは同じですが、もっている資質、生活している環境、影響を受けた刺激、その人が歩んできた歴史が違うのですから。 よって、エビデンスがあるから、我が子にも効果があるとはいえないわけです。 エビデンスの根底に流れているのは、「効果があるかないか、やってみなきゃわからない」 70%の人に効果があるけれども、必ずしもその70%に自分の子が入る保証はありません。 効果のない30%に入る可能性だってあるのです。 しかも、その70%も同じように再現できる可能性は少ないから、実際は35%というようなこともある。 さらに論文に書くような実験は、先に挙げたような個別の違いを極力排除というか、見ないようにします。 そこを見たら、研究などできないからです。 それこそ、冒頭でお話ししたように発達とは目に見えないものですし、ある発達課題1つをとってみても、そこに関わる要因は、環境、遺伝とはず、複数あり、それも複雑に絡み合っているのです。 Aというエビデ...

【No.1126】名も無い遊びが連なっていくイメージで

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「子どもは自分に必要な発達刺激が分かり、自らで育てようとしている」というのは、日々の発達相談で感じることです。 この視点を1つもつことができれば、子にとっても、親にとっても、気持ちが前向きになり、どれほどラクになるのかと思います。 ですから、私はせっせとその話を方々でしています。 その一方で気を付けなければいけないな、私の説明に足りないところがあったな、と思うことがあります。 「子どもが主体的に育てようとしている」がひっくり返って、「主体的に行おうとしないことには育ちがない」という解釈です。 確かに今、お子さんが主体的に、それこそ時間を忘れるくらい没頭しているような名も無き遊びがあるのなら、それをやりきれる環境を作ることが発達の後押しになります。 しかし、じゃあ、見向きもしない遊びは全部必要ないかと言ったら、そうではないと思うのです。 あるお子さんは、内耳(前庭感覚)に発達の遅れがありました。 シーツブランコをキャッキャキャッキャと楽しむお子さんでしたが、身体が大きくなりましたので、公園のブランコで揺れる感覚を味わってみたら、と試みました。 そうすると、ブランコに乗って揺らした瞬間、嫌だと降りました。 その姿を見て、親御さんは「やっぱり早かったかも」と止めようとされていましたが、その子は揺れる前までは座っていたのです。 ということは、「揺れの大きさを変えてみたら…」と思いました。 実際に、揺れの幅を小さく、ゆっくりにすると、その子はその揺れを感じるように座っていました(その後も10分ほど)。 たぶん、この子にとっては、ブランコに座り、ちょっとだけ揺れるも、名も無い遊びだったのです。 子どもさんの場合、「知らない」「わからない」がたくさんあります。 ですから、自ら進んで育てようとする名も無い遊びは、どうしても体験したことや見聞きしたことの範囲で選択されることが多くなるのです。 もしかしたら、その子がもっともっと熱中するような名も無い遊びは、ほかにもあるかもしれません。 よって、子どもの世界を広げるためにも、いろんなチャレンジ、体験をすることが重要になります。 そういったときに、一見見向きもしないような遊び、活動の中にも、やり方を変えれば、発達につながるような遊びに変わることもあるのです。 もちろん、そういったことができる前提には、「今、我が子がどこを育てたがっているか...

【No.1125】日によってできたり、できなかったり

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自閉っ子は、発達障害の子は「凸凹がある」というような言い方をされます。 確かに、アセスメントをしていても、こっちは同年代と同じくらいで、あっちは数年遅れている、なんてことは多々あります。 まあ、神経発達に不具合がある子ども達なので、というか、神経の繋がりにバラつきがあるのですから、「ああ、ここが抜けた分、迂回してこっちと繋がったのかな」「本来、必要ないくつかの繋がりの部分が少し足りないな」と感じます。 イメージで言えば、たとえ同じようにできていることでも、定型の子どもさんよりも迂回や繋がっている本数が違う分、目一杯でできている感じ。 よって、応用するような場面で、それらの回路がうまく使えなかったりして、能力の凸凹ができてしまうように思えます。 能力の凸凹ですので、「数学はできるけれども、国語がまったくできない」ですとか、「素晴らしい文章は書けるけれども、他人の気持ちを察することが苦手」などというようなことを指すのだと思いますし、実際、そのような人達が多いと言えます。 知的障害を持つ人達の場合、全体的な発達が遅れている、全体的な認知機能で遅れがある、という様相を見せるので、ここが神経発達症の人達に特徴的なところでしょう。 しかし、どうも、この能力の凸凹が拡大解釈されているようです。 子どもというのは、神経発達が盛んな時期ですし、気分や体調によって、できることができなかったり、やれるのに「今日はやりたくない」とやらなかったりします。 これは幼ければ、幼いほど、当たり前ですし、自然な子どもの姿だといえます。 一度、できるようになったことは、コンスタントにできるというのは、心身共に年齢を重ねないと見られない姿です(大人でも難しいww)。 それなのに、この「できたり、できなかったりする」が能力の凸凹であり、発達障害の特徴である、故に自閉症である、なんてことを言う人たちがいるのです。 最初は、親御さんの口からそういった話が出ていましたので、その都度、説明はしてきたのですが、なんと「支援者からそうやって言われた」という親御さんがいたり、中にはそれが診断の決め手だという風に言われ、診断名をつける材料にされてしまったご家族もいるのです。 いつからコンスタントにできる=定型になり、それができないと発達障害になったのでしょうか。 日によってできたり、できなかったりするのが子どもであって、...

【No.1124】「長所を伸ばすか、短所を減らすか」ではなく、「資質を磨く、未発達を育てる」

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時々、「発達障害だから私なんだ」「自閉症の特性があって良かったんだ」というような人を見かけます。 たぶん、これは自閉症を一つの才能として捉えているというか、そこに極端にフォーカスしているんだと思いますね。 裏を返せば、それだけ生きづらいということです。 単にポジティブな才能だとしたら、「私、絶対音感があるんです」とか、「私、過敏に相手の気持ちを察することができるんです」とか、「私、一度見た景色をそのまま覚えていられるんです」と言えば良いのですから。 何だかわからないんですが、私にとってかけがえのないものなんだ、それこそが私なんだと言う一方で、「生きづらい生きづらい」と言い、「理解を」と訴えます。 これだと良くなりたいのか、なりたくないのか、わかりませんね。 中にはアクロバティックな主張もあって、「この長所(?)を無くすくらいなら、ずっと発達障害でいい」などという人たちもいます。 まさに、これこそが医原病というか、特別支援病というか…。 育つ部分、治る部分、活かす部分がごちゃまぜというか、良く分かっていないんでしょうかね。 流れ作業のように、マニュアル支援によって「脳の機能障害」という言葉で、「はい、おしまい」になってしまう現状。 一人ひとりの"人"に対するアセスメントが行われていないという実態と、「大人の発達障害はちょっと…」と敬遠しがちで、子ども以上に諦めの態度で臨んでいる支援者たちが、生きづらさに目を閉じて、やたらめたらに「長所長所」と言い続け、こういった人たちを育てているのでしょう。 まあ、支援の目的がいまだに「二次障害にならないように」というのですから、文章を見せられれば「文の才能がある」、絵を見せられれば「絵の才能がある」、こだわりのものを見せられれば「その道を極めてみたら」と、無責任発言が繰り返されるのだと思います。 少なからず、こういった大人たち、特別支援の中の戯言の影響を受けているのでしょう。 お子さんを育てている親御さんの中にも、「特性が良くなる」「症状が育ってみられなくなる」と「長所も消える」という関係性について疑問に思われている人たちがいますね。 ほとんどが感覚の過敏性に関連する部分だといえますが。 結論から言えば、過敏性がなくなる、つまり、聴覚が育つ、前庭感覚が育つ、嗅覚が育つ、味覚が育つ、視覚が育つが、優れて育っている部...