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ロマンを感じる発達援助

「それは発達障害だから」ってロマンがないじゃないですか。 そこから先に進んでいかない。 何も連想が浮かんでこない。 正しいことを言っているようで、何も応えていないただのセリフです。 私のところにも、「発達障害だ」「アスペルガーだ」「ADHDだ」と診断名を持った方達がいらっしゃます。 でも、そんなラベルはどうでも良いのです。 自閉症さん、発達障害くんという名の人は、いないのですから。 私が知りたいのは、人工的に分類された名ではなく、本人たちが発する声。 どんな刺激が欲しいのか、何を後押ししてほしいのか、という声。 以前は、自閉症と診断されれば、視覚支援、構造化なんていう時代もありました。 しかし、そこに真の意味での個別化はない。 そして、人がいない。 診断名から支援方法が連想されたとすれば、それは目の前にいる存在を人ではなく、支援対象としてみている証拠です。 目の前の人から支援が連想されていかなければ、対人援助とは言えませんし、行うこともできないでしょう。 連想の源は、その人自身です。 目の前にいる一人の人と真剣に対峙したとき、連想の世界へと誘われるのです。 連想とは動的な存在。 本人の動きを感じ、支援する側の人間も、心身共に動きがなければなりません。 そういった意味で、支援者の解き放つ「それが発達障害だから」という言葉には動きがなく、むしろ動きを止めようとする作用すらあります。 それに、その言葉を受け取った人間が、ワクワクするような、自分でもやってみようと思うような、未来へ向かわせるロマンがないのです。 課題を挙げれば、きりがないかもしれません。 でも、そんな課題の中から一つでも改善する、治っていく、そんな糸口が見えてくれば、人は前へ前へと進むことができる。 特に発達障害の人達は、一つが治れば、次々に連動して治っていく、育っていくことがあります。 発達には流れがあり、繋がりがあるからです。 発達のヌケが埋まれば、堰を切ったように発達していく、それがヒトの発達というものです。 私は仕事をする上で、本人や親御さんにちゃんとロマンを感じてもらえているか、ロマンを言動や雰囲気で伝えられているか、を考えています。 地球が46億年前に誕生し、最初の生命体が生まれたのはそこから6億年後の40億年前。 そして

何を訊いても、返ってくるのは「それが障害だから」

親御さんの心配事や質問に対し、「それが自閉症だから」「発達障害だから」と言う。 でも、これって答えになっていないと感じます。 「どうして、変更を受け入れられないんでしょうか?」 「それは自閉症だからです」 別に、親御さんは診断基準のクイズをしているのではないですね。 「言葉の発達が遅くて、まだ出ないんですが、どうすれば良いのでしょうか?」 「焦らず、お子さんの発達を温かく見守っていきましょう」 温かく見守るだけで言葉が出るのなら、親御さんも、先生も、社会のみんなも、喜んで温かく見守りますね。 嫌味な見方をすれば、日頃、「エビデンスガー」と言っている人間が温かさを発達要因にするのも矛盾していますし、言葉の遅れは親御さんの温かさが足りないからと言っているようにも聞こえます。 これって冷蔵庫マザーの考え方と同じじゃないですかね。 このような問答は、以前から親御さんと専門家の間で繰り返されており、平成最後の夏にもまだ続いているかと思うと、頭が痛いですし、そのやりとりで仕事がなり立つならおめでたい話だな、と思ってしまいます。 平成が始まった頃からずっと親御さんは、我が子についたラベルを知りたいのではなく、親としての心構え、精神論を聞きたいのではありません。 我が子に、どんな遅れや課題があり、どうすれば改善していくのかを知りたいのです。 自閉症も、発達障害も、遺伝性の障害ではありません。 もちろん、前の世代から遺伝する部分もありますが、それが100%でなければ、決定要因でもありません。 遺伝要因と環境要因の相互作用と言われています。 たとえ遺伝的要因を持っていたとしても、環境要因によって発症しなかったり、重症化しなかったりするということです。 これまたよく言われていることですが、「発達障害は生まれつきの障害だから治らない」というのも、おかしいと思いませんか。 生まれつきの障害だとしたら、遺伝要因100%なのでしょうか。 影響する環境というのは、受精から出産する瞬間までの限定的な環境ということなのでしょうか。 もしこの約10か月間のみの環境が重要だとしたら、「3歳から早期療育!」じゃあ、遅すぎるということになりませんかね。 というか、早期療育の意義すら怪しくなる。 早期療育だって、早くから介入することで、より良い

水→泥→砂→土→木…そして本

出張前には、決まって過去の記録を読み返したり、書棚に並ぶ本を思いのままに手に取って読み返したりします。 何度も読んだ本なのに、その時々で新たな気づきがあります。 以前読んだときには、ぼやっとした理解だったのに、今なら手に取るようにわかる、という体験もよくあります。 本というのは、ただ単に文字と情報の集まりではなく、自分自身の成長を確認できるものであり、時間や距離を超え、著者と自分とを結びつけてもらうものだと感じています。 私は本を読む前、その著者の声を調べる癖があります。 ネット等で、実際の声を聞くと、その声で本を読みます。 そうすると、スラスラ読めますし、内容やその言葉の背景への想像が膨らむのです。 私にとって本とは、著者の息づかいを感じることであり、その表現に至った著者の経験、思考を疑似体験することだといえます。 本を通して、著者と対話できなければ、活きた実践へとつながらないからです。 幼いときから本に親しんで生きてきた私は、本が自分を成長させてくれる、という想いがあります。 特に、この仕事に関しては、師匠と呼べる人と出会うことなく、独立まで至ったので、すべての本が私の師匠という感じです。 本は人としても、仕事人としても成長させてくれるものだと考えています。 ですから、日頃、出会う若者たちには、本を読むことを勧めますし、本が読める、また味わえるくらいまで発達、成長することが大事だと考えています。 ある支援学校に通っていた若者は、文字の勉強をし直し、簡単な本が読めるくらいまでになると、自分で本を読むようになり、次々に視野を広げていきました。 ある程度の年齢になると、親が教えられること、また私のような人間が教えられることは薄っぺらくなるものです。 でも、本は地平線に広がる海のように、知識、知恵、考える機会を与えてくれます。 進化の過程を考えると、赤ちゃん、幼児は水と戯れることで魚類の発達段階をクリアするのだと考えています。 この年代の子はもちろんのこと、この発達段階にヌケがある子には、水が大事な発達刺激になります。 また両生類の発達段階の子には、泥が大事な発達刺激になり、爬虫類の発達段階の子には、砂や土、大地が発達刺激になる。 そして、哺乳類の発達段階の子には、草木が大事な発達刺激になる。 最後にヒトの発達段階

私達支援者は主観から逃れられることはできない

激しい行動障害を持っていた子が、支援が入ることによって、その行動が落ち着くことがある。 介入した支援者は、その姿を見て、良かったと思う。 自傷にしろ、他害にしろ、どんな行動障害も、本人の姿からは何とも言えない悲しさが漂い、そして見ている方もどんどん辛くなっていく。 しかし、どんな行動障害だとしても、その行動が出ないように支援することが、本当に本人が望んでいるかはわからない。 たとえ痛ましい自傷行為だったとしても、100%、止めることが善であるとは言い切れない。 何故なら、その激しい行動が障害だと見るのも、止めた方が良いと思うのも、支援者の主観だから。 施設で働いていたとき、私達支援者は「主観から逃れられることができない」と言っていました。 行動障害への対処だけではなく、コミュニケーションの幅を広げたい、身の周りのことが自分でできるようになってほしい、という支援においても、すべて支援者の主観になります。 知的障害が大変重い方も多く、測定不能という方も少なくありませんでした。 ですから、本人の意思を確認する方法は限られていましたし、ほとんど確認することができない方もいました。 そういった方達と生活していましたので、どこまでいっても主観から逃れられないという想いがあったのだと思います。 エビデンス(科学的根拠)というのは、客観なのかもしれません。 でも、エビデンスのある支援、方略と言っても、100%、どの人にも効果が得られるというものは存在しません。 ということは、エビデンスがあると言われている方略の中から選んだ行為自体、支援する側の主観となります。 我が子に、私が担当している子に、「エビデンスのある方略をやっています」と、あたかも自分は正しい行動をし、子どものことを一番に考えていると言いたげな人がいます。 しかし、そうとは言い切れません。 もしかしたら、その子は望んでいないかもしれない、満足していないかもしれない。 子どもが成長したように見えても、本人は息苦しさを感じているかもしれない。 支援者、もちろん親御さんもですが、「これは自分の主観」という想いを忘れた瞬間、あらぬ方向へと進んでしまう危険性があると感じます。 主観ということが抜けてしまうと、自分の行為が100%になり、子どもも同じように思っている、子どもが

子どもに直接、話をします

「私に話してくれて嬉しい」 こんな風に言ってくれる子がいました。 私は、小学校の2,3年くらいの子から、直接、本人に話をするようにしています。 おじさんは、今、どのくらい成長しているか調べる仕事をしていること。 「まだ育っていないところを見つけたら、それを教えるから、一緒にどうやって育てていけばよいか考えていきましょう」と話をします。 そして、「おじさんは、一気に育てるような魔法や薬は持っていないし、〇〇くんの代わりに育てることはできない。育てる手伝いはできるけれども、育てていくのは、〇〇くんだよ」と話をします。 冒頭の子は、今までずっと自分の話題になるけど、自分はその輪に入っていないと思っていました。 いろんな場所に連れていかれ、いろんな大人と会ったけれども、話しかけられるはすべて横にいるお母さん。 自分のことを話しているのに、自分には向けられない意識。 そんな雰囲気や疎外感を感じられる子が、生涯に渡る支援の中に入りかけていたのです。 定期的に関わっている子ども達には、前回と比べて、何か変わったことがあるか、尋ねるようにしてます。 「ラクになった」「不安な気持ちが減った」「学校行くのがあまり大変じゃなくなった」「たくさん寝れるようになった」「話が聞こえるようになった」など、いろんな気づきを教えてくれます。 中には、「何か分かんないけど、いいね」と言う子もいて、一人ひとり違う感じ方と表現を、私も楽しみにしています。 当然、何も変化を感じない子や悪くなったと言う子もいます。 でも、それで良いと思っています。 大事なのは、自分自身の内面に目を向けることであり、自分を育てている自分という意識を味わってもらうことです。 育てる主体は自分で、治していくのも自分です。 自分自身の変化により気づけるようになると、主体性が出てくるような気がします。 主体性が出てくると、より自分の変化に気が付けるようになる気がします。 主体性と内面の気づきは、お互いが高め合う存在だと私は考えています。 内面の育ちが主体性を育て、主体性の育ちが内面を育てる。 治っていくプロセスとは、変化に主観的に気づき、その変化に合わせて主体的に行動する、の繰り返し。 主という自分の意識がなければ、治っていきません。 ですから、私は子ども達に対して

楽しむ心が発達の出発点

赤ちゃんは、「ハイハイが上達するように」と思って、ハイハイしているのではありません。 見たいものがあり、触りたいものがあり、行きたい場所があるから、ハイハイをする。 自らの意思と自発性、喜びや興奮に付随してハイハイがあり、その先に発達がある。 そんな風に私は考えています。 ですから、発達援助とは心地良い雰囲気が重要であり、「やらせよう」「もっともっと」「これは良くて、あれはダメ」と思った瞬間、成り立たなくなるものだと思います。 ある親御さんが、特別支援とは「ダメ出しに耐えること」と表現していました。 我が子に発達の遅れがわかったときから、ずっと「ダメだダメだ」と言われ続けてきた、そんな印象しか得られなかった、と。 だから、初めて家族以外の人からダメ出しではなく、希望の言葉が聞けて、本当に嬉しいと涙を流されていました。 私もダメ出しはします。 生活の流れを見て、子どもさんの発達の流れを悪くしているものがあれば、指摘しますし、当然、どこに発達のヌケや遅れ、育っていない部分があるか、将来の問題の根っこが見えれば、そのリスクもはっきりと言葉にします。 だけれども、そのダメ出しを誘導する力に使っていません。 支援者の中には、ダメ出しを自らの支援への誘導に使っている人がいます。 「発達の遅れがある。だから、特別支援学級へ」 「二次障害というのがある。だから、無理はさせずに支援を受けながら生活を」 「就職してもすぐに退職する人ばかり。だから、福祉的就労に」 発達の遅れという事実を恣意的に色付ける支援者の存在があります。 しかし、発達の遅れというのは、何か特別な色があるわけではありません。 発達に遅れがあるのなら、どうすれば発達していくか、発達が取り戻せていくか、そこが重要なのです。 発達の遅れの状態から一歩前に行く、その後押しこそが人を支援するということ。 自分のしたい支援に誘導するのは、ただの勧誘です。 私とのセッションが終わったあと、「楽しかった」「前向きになれた」と感想を言われる親御さんが多くいます。 それは私がどうのこうのではなく、それだけ今までの歩みの中で抑圧されてきた、自らを抑圧してきたという証です。 親御さん達は、特別支援をやってきたのであって、子どもを育てることは行えていなかったのでしょう。 本

「父親の理解ガー」

「父親の理解が…」とおっしゃるお母さんには、「お父さんに理解がなくても、稼ぎがあれば大丈夫です」と言っています。 まあ、理解があるに越したことはありませんが、父親が子育ての全面に出てくる家庭は、往々にしてうまくいっていないことが多い印象です。 だいたい子どもさんが伸びやかに発達、成長していかない家庭というのは、父親の理解が足りない家庭というよりは、父親がお勉強好きで子育ての主導権を握っている家庭だといえますね。 別の言い方をすれば、お母さんが伸びやかに子育てできていない、母親の感性、本能が活かされていない家庭というのは、治りにくいし、治っていかない、と感じます。 もちろん、お子さんの発達のヌケを埋めるのには、父親の力が必要な場面もあります。 全身を使った運動や大きな動きの遊び、ワクワクするような冒険心を刺激する活動など、お父さんならではの発達援助がある。 でも、子どもさんのことを理解するという点では、母親の右に出るものはいないと思います。 父親の理解というのは、知識からの理解です。 「発達障害には、こんな特性があって、こんな場面で困難を見せる。そういえば、息子にも同じ困難があるから、きっとこういった特性が強いんだろう」って感じ。 しかし、母親の理解っていうのは、物語としての理解。 受精した瞬間から現在に続く物語。 ですから、お母さんの話を聞いていると、流れを感じることができますので、発達のヌケが流れの中からパッと浮かんできて掴みやすく、そして未来像、今後どうなっていくかがよりリアルに描けるのです。 まあ、男というのは、コンプレックスをまとって生きている存在みたいなもので、子育てにも、そのコンプレックスが投影されることがあります。 SNS等で発信している父親をみますと、だいたい自分を納得させるために文字を書いている匂いがプンプンしています。 そういったとき、私はその人のことを父親ではなく、オスなんだと察します。 オスの本能は、より多くの子孫を残すこと。 でも、現代社会では、動物の雄のような繁殖行動はできません。 となると、少ない子孫をより優秀で、より強い子として残そうとするものです。 そういったときに、我が子に障害があることがわかる。 自分が一生懸命勉強して大学に行き、一流の会社に勤めたように、我が子にも社会の、集

雰囲気の一つになる

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日曜日に行われた函館マラソンは、朝から土砂降りの雨でした。 スタート30分前には、競技場内で待機しなければならなかったのですが、その時点で、頭から水が滴り落ちているし、靴はすでにおもおもの状態。 会場には8千人以上の人達がいたのにもかかわらず、シーンと静まり返っており、耳に入ってくるのは雨が激しく地面を叩く音ばかり。 皆の息づかいは、ただただ早くスタートの瞬間を迎えたい、その一心だったと思います。 とても長く感じたスタートまでの時間。 しかし、スタートのピストルが鳴った瞬間、雨の音は聞こえなくなり、会場の雰囲気も一気に明るくなりました。 聞こえてくるのは沿道の声援、近くを走るランナーの息づかいと足音。 そして、目に入ってくるのは、前を走るランナー。 マラソンは、他人と競うのに、自分自身との闘い。 マラソンは、一人で走るのに、前を走るランナー、沿道で声援する人、ボランティアのスタッフに引っ張られ、引き出される。 そんな雰囲気を感じた今回の大会でした。 メールというのは、無機質な文字の羅列だといえます。 特に、私がいただくメールは、実際にお会いしたことのない方からのものがほとんどですから、余計にその側面が強調されやすいと思います。 しかし、その文面を読み進めていくうちに、自然と引きこまれていくメールが多くあります。 そして、お会いしたことのない親御さんの息づかい、子どもさんの持っている体温が伝わってくることもあるのです。 気が付いたら、お返事の文面が出来上がっている、なんてことはしょっちゅうです。 それも聞かれていないことまで、答えていることがある。 我に返り、文章を読み返してみると、「どうして、自分はこんな文を書いたのだろうか」と思うことも多々あります。 実際にお会いしたときは、もっと顕著で、自分でしゃべっているのに、途中から自分じゃない人がしゃべっているような気になります。 自分が溶けていき、目の前にいる方の想いと馴染んでいく感じです。 予定していた時間はあってないようなもの。 家につくと、どっと出てきた疲れを感じることで、今日も出しきれたんだ、と思うのです。 施設で働いていたとき、学校で働いていたとき、私は「引き出される」という感覚も、「溶け込む、馴染んでいく」という感覚も、感じたことがありませんでし