子どもに直接、話をします

「私に話してくれて嬉しい」
こんな風に言ってくれる子がいました。
私は、小学校の2,3年くらいの子から、直接、本人に話をするようにしています。


おじさんは、今、どのくらい成長しているか調べる仕事をしていること。
「まだ育っていないところを見つけたら、それを教えるから、一緒にどうやって育てていけばよいか考えていきましょう」と話をします。
そして、「おじさんは、一気に育てるような魔法や薬は持っていないし、〇〇くんの代わりに育てることはできない。育てる手伝いはできるけれども、育てていくのは、〇〇くんだよ」と話をします。


冒頭の子は、今までずっと自分の話題になるけど、自分はその輪に入っていないと思っていました。
いろんな場所に連れていかれ、いろんな大人と会ったけれども、話しかけられるはすべて横にいるお母さん。
自分のことを話しているのに、自分には向けられない意識。
そんな雰囲気や疎外感を感じられる子が、生涯に渡る支援の中に入りかけていたのです。


定期的に関わっている子ども達には、前回と比べて、何か変わったことがあるか、尋ねるようにしてます。
「ラクになった」「不安な気持ちが減った」「学校行くのがあまり大変じゃなくなった」「たくさん寝れるようになった」「話が聞こえるようになった」など、いろんな気づきを教えてくれます。
中には、「何か分かんないけど、いいね」と言う子もいて、一人ひとり違う感じ方と表現を、私も楽しみにしています。


当然、何も変化を感じない子や悪くなったと言う子もいます。
でも、それで良いと思っています。
大事なのは、自分自身の内面に目を向けることであり、自分を育てている自分という意識を味わってもらうことです。
育てる主体は自分で、治していくのも自分です。


自分自身の変化により気づけるようになると、主体性が出てくるような気がします。
主体性が出てくると、より自分の変化に気が付けるようになる気がします。
主体性と内面の気づきは、お互いが高め合う存在だと私は考えています。
内面の育ちが主体性を育て、主体性の育ちが内面を育てる。


治っていくプロセスとは、変化に主観的に気づき、その変化に合わせて主体的に行動する、の繰り返し。
主という自分の意識がなければ、治っていきません。
ですから、私は子ども達に対しても、「何か変わったことある?」と尋ねます。


私が、子どもさんと向き合って話をしている様子を見て、親御さんはハッとさせられる、とよく言われます。
診断を受けたときから、ずっと親の私が話しをするものだと思っていた。
そして、その受け答えは、いつしか親の自分がこの子にやってあげなければ、という思いを作り、それに合わせて行動してきた、それを疑うことすらなかった。
でも、発達の遅れを育てていくのは、私ではなく、この子自身なんだ、と。


ある子は、こんなことを言っていました。
「この人は、自分のことを障害を持った子と見ていない」
幼い子だとしても、この辺の雰囲気、大人が発する感情はすぐに見抜くものです。
子どもの方が、言葉以外から察します。
「遅れているところ、苦手なところがあるのなら、そこを育てていけばいいでしょ」
そんなシンプルな一言に、子どもは目を輝かせます。
「僕は手伝ってほしいんじゃなくて、どうすれば治るか知りたかったんだよ」と言う子もいました。


このブログの文面だけでも、この子達に可能性を感じた方は多いのではないでしょうか。
でも、こういった子ども達に、『一生涯の支援』という線路の上を歩ませようとする大人たちがいる。
進みかけていた道以外にも、いや、それよりも可能性を広げる道があることを、彼らに伝えられたとき、私はこの仕事を作って良かった、社会のお役に立てることがあったと感じます。
この仕事を続けている限り、私は子ども達に直接話しかけようと思います。

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