「父親の理解ガー」
「父親の理解が…」とおっしゃるお母さんには、「お父さんに理解がなくても、稼ぎがあれば大丈夫です」と言っています。
まあ、理解があるに越したことはありませんが、父親が子育ての全面に出てくる家庭は、往々にしてうまくいっていないことが多い印象です。
だいたい子どもさんが伸びやかに発達、成長していかない家庭というのは、父親の理解が足りない家庭というよりは、父親がお勉強好きで子育ての主導権を握っている家庭だといえますね。
別の言い方をすれば、お母さんが伸びやかに子育てできていない、母親の感性、本能が活かされていない家庭というのは、治りにくいし、治っていかない、と感じます。
もちろん、お子さんの発達のヌケを埋めるのには、父親の力が必要な場面もあります。
全身を使った運動や大きな動きの遊び、ワクワクするような冒険心を刺激する活動など、お父さんならではの発達援助がある。
でも、子どもさんのことを理解するという点では、母親の右に出るものはいないと思います。
父親の理解というのは、知識からの理解です。
「発達障害には、こんな特性があって、こんな場面で困難を見せる。そういえば、息子にも同じ困難があるから、きっとこういった特性が強いんだろう」って感じ。
しかし、母親の理解っていうのは、物語としての理解。
受精した瞬間から現在に続く物語。
ですから、お母さんの話を聞いていると、流れを感じることができますので、発達のヌケが流れの中からパッと浮かんできて掴みやすく、そして未来像、今後どうなっていくかがよりリアルに描けるのです。
まあ、男というのは、コンプレックスをまとって生きている存在みたいなもので、子育てにも、そのコンプレックスが投影されることがあります。
SNS等で発信している父親をみますと、だいたい自分を納得させるために文字を書いている匂いがプンプンしています。
そういったとき、私はその人のことを父親ではなく、オスなんだと察します。
オスの本能は、より多くの子孫を残すこと。
でも、現代社会では、動物の雄のような繁殖行動はできません。
となると、少ない子孫をより優秀で、より強い子として残そうとするものです。
そういったときに、我が子に障害があることがわかる。
自分が一生懸命勉強して大学に行き、一流の会社に勤めたように、我が子にも社会の、集団の頂点を目指し、強い人間に育ってほしいと願っていた矢先に。
だから、オスとしての本能を抑え込むためにSNSで文字を綴っていく。
周りを納得させることよりも、自分自身を納得させるために。
「発達障害は治らないんだ」と主張するオスたちの文章というのは、読んでいて本当につまらない。
論理の上に、論理を重ねているだけで、結局、結論は最初から決まっているから。
オチが分かるドラマは誰も観ないし、心を動かされません。
ただ自分を納得させたいだけの独りよがりの言葉の羅列の中からは、ロマンも感じなければ、未来も感じません。
そこにいるのはオスである自分自身なのですから、当然、子どもの姿はないのです。
「治らない」という父親ほど、我が子を受け入れられていないと感じます。
オスとしては、子どもに治ってほしい。
でも、父親としては治ってほしくない。
何故なら、治ったところで、この社会の中で自分と同じような強くて、勝ち抜けるような人間に育つとは思えないから、自分が育てられるとは思わないから。
だから、論理をこねくり回すことで、自分の頭の中の世界のバランスを保とうしている。
ちなみに、母親の「発達障害は治らないんだ」の原動力は、愛着障害が多い気がします。
一言で言えば、ダメ親と見られたくない。
他人軸で生きていた人が、自分がこう思うから、こうするんだ、という生き方をしてこなかった人が、急に「治していくのは、あなたですよ」と主導権を渡されれば、慌てふためき、恐怖を感じる。
つまり、根っこは感情だから、父親のSNS、主張と比べて、論理臭を感じません。
「治ってほしいけれど、私次第って言わないで」って感じです。
子どもの発達を論理的に読み解こうとしても無理な話です。
子どもは生命体で、ひと時も同じ状態がありません。
発達は前に進むのみで、後戻りはしない。
「こうやったから、こうなる」なんて単純な図式化はできないのです。
当然、場面場面を区切って、子どもを見ても、わかるものは限られています。
じゃあ、どうやって子どもの発達を理解していくのか。
それは子どもと同じ息づかいをするということ。
子と親が同化していくのです、母体にいたときのように。
お母さんとお話ししていて、お子さんの姿がリアルに見えてくるときは、まるでお母さんが子どもさんの内側に入ってしゃべっているような感覚があります。
同じ子の生きづらさを語るときでも、父親と母親では、伝わってくるものが全然違います。
父親は『生きづらさ』という文字から語り、母親は子どもと同じ感覚から語る。
父親はダイナミックな遊びや冒険心をくすぐるような活動のとき、能力を発揮するのだと思います。
また、発達のヌケを育て直すときよりも、そこが埋まったあと、どう生きるのか、生きていくのか、という場面に子どもが立ったとき、大切な役割があるのだと思います。
私の今までの経験からも、お子さんの発達のヌケを育て直すのは、お母さんが主体的に行っていく方がうまくいくといえます。
何より、発達という連続体、流れを的確に感じられるのは、お母さんが一番です。
発達を掴むのは、いくらお勉強ができてもできることではありません。
発達を掴むには、子どもと同じ息づかいができること、感覚的に変化がわかることが重要です。
発達は情報ではなく、流れであり、物語です。
お母さんが活き活きと我が子の物語を語れる家庭というのが、素晴らしい発達の場だと思います。
ですから、父親が「こうせい、ああせい」と言うのは、よくありません。
問題が絡み合っている家庭というのは、だいたい父親が、お母さんの話を聞かずに頑張っちゃう家庭でしょ。
「この子のことは、妻に任せています」と、堂々と言われるお父さんのところは、お子さんも、お母さんも、伸びやかです。
論理的な説明はないけれども、「なんかおかしいと思うんだよね」「このままだと、将来まずいことになりそうな気がする」と感覚的に察することができるお母さん。
そのお母さんに対して、「妻が言うなら」と立ちどまり、そして共に考えられるのが父親です。
少なくとも、「なに訳のわからないことを」「そんなの気にし過ぎだ」とオス発言して、お母さんの感覚を否定しないくらいには発達すべきですね。
オスでいたいなら、しっかり稼いでくる。
そして、子育ての主導権を奪わない。
オスとしての生き方を我が子に伝えたいのなら、発達のヌケが埋まり、土台が育ったあと。
コンプレックスを抑え込むなら、独りよがりの文章を書いていると自覚することと、意見の違うひと様に絡まないこと。
日頃、オス丸出し、コンプレックス丸出しなのに、急に父親面するから問題が絡まるばかり。
発達援助に関しては、お母さんが主体的に、かつ伸びやかにやられるのが望ましいと思います。
必要なのは、お母さんの持つ感覚と、我が子と同化する息づかい。
お子さんが治っていく家庭は、お母さんが能力を存分に発揮できる家庭。
父親が協力的か否かは、お子さんの治るには、そこまで関係しないと感じますね。
まあ、理解があるに越したことはありませんが、父親が子育ての全面に出てくる家庭は、往々にしてうまくいっていないことが多い印象です。
だいたい子どもさんが伸びやかに発達、成長していかない家庭というのは、父親の理解が足りない家庭というよりは、父親がお勉強好きで子育ての主導権を握っている家庭だといえますね。
別の言い方をすれば、お母さんが伸びやかに子育てできていない、母親の感性、本能が活かされていない家庭というのは、治りにくいし、治っていかない、と感じます。
もちろん、お子さんの発達のヌケを埋めるのには、父親の力が必要な場面もあります。
全身を使った運動や大きな動きの遊び、ワクワクするような冒険心を刺激する活動など、お父さんならではの発達援助がある。
でも、子どもさんのことを理解するという点では、母親の右に出るものはいないと思います。
父親の理解というのは、知識からの理解です。
「発達障害には、こんな特性があって、こんな場面で困難を見せる。そういえば、息子にも同じ困難があるから、きっとこういった特性が強いんだろう」って感じ。
しかし、母親の理解っていうのは、物語としての理解。
受精した瞬間から現在に続く物語。
ですから、お母さんの話を聞いていると、流れを感じることができますので、発達のヌケが流れの中からパッと浮かんできて掴みやすく、そして未来像、今後どうなっていくかがよりリアルに描けるのです。
まあ、男というのは、コンプレックスをまとって生きている存在みたいなもので、子育てにも、そのコンプレックスが投影されることがあります。
SNS等で発信している父親をみますと、だいたい自分を納得させるために文字を書いている匂いがプンプンしています。
そういったとき、私はその人のことを父親ではなく、オスなんだと察します。
オスの本能は、より多くの子孫を残すこと。
でも、現代社会では、動物の雄のような繁殖行動はできません。
となると、少ない子孫をより優秀で、より強い子として残そうとするものです。
そういったときに、我が子に障害があることがわかる。
自分が一生懸命勉強して大学に行き、一流の会社に勤めたように、我が子にも社会の、集団の頂点を目指し、強い人間に育ってほしいと願っていた矢先に。
だから、オスとしての本能を抑え込むためにSNSで文字を綴っていく。
周りを納得させることよりも、自分自身を納得させるために。
「発達障害は治らないんだ」と主張するオスたちの文章というのは、読んでいて本当につまらない。
論理の上に、論理を重ねているだけで、結局、結論は最初から決まっているから。
オチが分かるドラマは誰も観ないし、心を動かされません。
ただ自分を納得させたいだけの独りよがりの言葉の羅列の中からは、ロマンも感じなければ、未来も感じません。
そこにいるのはオスである自分自身なのですから、当然、子どもの姿はないのです。
「治らない」という父親ほど、我が子を受け入れられていないと感じます。
オスとしては、子どもに治ってほしい。
でも、父親としては治ってほしくない。
何故なら、治ったところで、この社会の中で自分と同じような強くて、勝ち抜けるような人間に育つとは思えないから、自分が育てられるとは思わないから。
だから、論理をこねくり回すことで、自分の頭の中の世界のバランスを保とうしている。
ちなみに、母親の「発達障害は治らないんだ」の原動力は、愛着障害が多い気がします。
一言で言えば、ダメ親と見られたくない。
他人軸で生きていた人が、自分がこう思うから、こうするんだ、という生き方をしてこなかった人が、急に「治していくのは、あなたですよ」と主導権を渡されれば、慌てふためき、恐怖を感じる。
つまり、根っこは感情だから、父親のSNS、主張と比べて、論理臭を感じません。
「治ってほしいけれど、私次第って言わないで」って感じです。
子どもの発達を論理的に読み解こうとしても無理な話です。
子どもは生命体で、ひと時も同じ状態がありません。
発達は前に進むのみで、後戻りはしない。
「こうやったから、こうなる」なんて単純な図式化はできないのです。
当然、場面場面を区切って、子どもを見ても、わかるものは限られています。
じゃあ、どうやって子どもの発達を理解していくのか。
それは子どもと同じ息づかいをするということ。
子と親が同化していくのです、母体にいたときのように。
お母さんとお話ししていて、お子さんの姿がリアルに見えてくるときは、まるでお母さんが子どもさんの内側に入ってしゃべっているような感覚があります。
同じ子の生きづらさを語るときでも、父親と母親では、伝わってくるものが全然違います。
父親は『生きづらさ』という文字から語り、母親は子どもと同じ感覚から語る。
父親はダイナミックな遊びや冒険心をくすぐるような活動のとき、能力を発揮するのだと思います。
また、発達のヌケを育て直すときよりも、そこが埋まったあと、どう生きるのか、生きていくのか、という場面に子どもが立ったとき、大切な役割があるのだと思います。
私の今までの経験からも、お子さんの発達のヌケを育て直すのは、お母さんが主体的に行っていく方がうまくいくといえます。
何より、発達という連続体、流れを的確に感じられるのは、お母さんが一番です。
発達を掴むのは、いくらお勉強ができてもできることではありません。
発達を掴むには、子どもと同じ息づかいができること、感覚的に変化がわかることが重要です。
発達は情報ではなく、流れであり、物語です。
お母さんが活き活きと我が子の物語を語れる家庭というのが、素晴らしい発達の場だと思います。
ですから、父親が「こうせい、ああせい」と言うのは、よくありません。
問題が絡み合っている家庭というのは、だいたい父親が、お母さんの話を聞かずに頑張っちゃう家庭でしょ。
「この子のことは、妻に任せています」と、堂々と言われるお父さんのところは、お子さんも、お母さんも、伸びやかです。
論理的な説明はないけれども、「なんかおかしいと思うんだよね」「このままだと、将来まずいことになりそうな気がする」と感覚的に察することができるお母さん。
そのお母さんに対して、「妻が言うなら」と立ちどまり、そして共に考えられるのが父親です。
少なくとも、「なに訳のわからないことを」「そんなの気にし過ぎだ」とオス発言して、お母さんの感覚を否定しないくらいには発達すべきですね。
オスでいたいなら、しっかり稼いでくる。
そして、子育ての主導権を奪わない。
オスとしての生き方を我が子に伝えたいのなら、発達のヌケが埋まり、土台が育ったあと。
コンプレックスを抑え込むなら、独りよがりの文章を書いていると自覚することと、意見の違うひと様に絡まないこと。
日頃、オス丸出し、コンプレックス丸出しなのに、急に父親面するから問題が絡まるばかり。
発達援助に関しては、お母さんが主体的に、かつ伸びやかにやられるのが望ましいと思います。
必要なのは、お母さんの持つ感覚と、我が子と同化する息づかい。
お子さんが治っていく家庭は、お母さんが能力を存分に発揮できる家庭。
父親が協力的か否かは、お子さんの治るには、そこまで関係しないと感じますね。
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