雰囲気の一つになる
日曜日に行われた函館マラソンは、朝から土砂降りの雨でした。
スタート30分前には、競技場内で待機しなければならなかったのですが、その時点で、頭から水が滴り落ちているし、靴はすでにおもおもの状態。
会場には8千人以上の人達がいたのにもかかわらず、シーンと静まり返っており、耳に入ってくるのは雨が激しく地面を叩く音ばかり。
皆の息づかいは、ただただ早くスタートの瞬間を迎えたい、その一心だったと思います。
とても長く感じたスタートまでの時間。
しかし、スタートのピストルが鳴った瞬間、雨の音は聞こえなくなり、会場の雰囲気も一気に明るくなりました。
聞こえてくるのは沿道の声援、近くを走るランナーの息づかいと足音。
そして、目に入ってくるのは、前を走るランナー。
マラソンは、他人と競うのに、自分自身との闘い。
マラソンは、一人で走るのに、前を走るランナー、沿道で声援する人、ボランティアのスタッフに引っ張られ、引き出される。
そんな雰囲気を感じた今回の大会でした。
メールというのは、無機質な文字の羅列だといえます。
特に、私がいただくメールは、実際にお会いしたことのない方からのものがほとんどですから、余計にその側面が強調されやすいと思います。
しかし、その文面を読み進めていくうちに、自然と引きこまれていくメールが多くあります。
そして、お会いしたことのない親御さんの息づかい、子どもさんの持っている体温が伝わってくることもあるのです。
気が付いたら、お返事の文面が出来上がっている、なんてことはしょっちゅうです。
それも聞かれていないことまで、答えていることがある。
我に返り、文章を読み返してみると、「どうして、自分はこんな文を書いたのだろうか」と思うことも多々あります。
実際にお会いしたときは、もっと顕著で、自分でしゃべっているのに、途中から自分じゃない人がしゃべっているような気になります。
自分が溶けていき、目の前にいる方の想いと馴染んでいく感じです。
予定していた時間はあってないようなもの。
家につくと、どっと出てきた疲れを感じることで、今日も出しきれたんだ、と思うのです。
施設で働いていたとき、学校で働いていたとき、私は「引き出される」という感覚も、「溶け込む、馴染んでいく」という感覚も、感じたことがありませんでした。
自分自身が成熟していなかったこともありますし、立場という存在がそれを許さなかったこともあるでしょう。
また伝わってくる感情がネガティブなものばかりだったので、馴染むことを拒否したのもあると思います。
でも、今は違います。
これ程までに「治りたい」「治ってほしい」で溢れている。
その想いに、私は引き出され、そして溶け込んでいく。
支援者や先生だったときは、支援する主体である自分、指導する主体である自分がいました。
目の前にいる子を引き出すのが自分であり、教え導くのが自分でした。
しかし、その自分は今いません。
今いるのは、溶け込むことを厭わない私という雰囲気です。
治りたい人、治したい人が、今、必要なエッセンスを抜き取り、それを実生活の中に馴染ませていく。
常々申しますが、治すのは私ではなく、自分自身であり、家族です。
ですから、私に必要なことは主体性を出すことではなく、本人たちが主体性を発揮しやすいような雰囲気の一つになることだと思います。
子どもが親の、親が子どもの息づかいを感じられるようになる。
子どもさんが持つ「治りたい」と親御さんが持つ「治したい」が溶け込み、馴染んでいくと、一気に治っていきます。
反対に言えば、お互いの息づかいに気づけていない家族、想いが馴染んでいかない家族は、いくら治っていくアイディアや情報があったとしても、治りません。
私が治りたい雰囲気の一つになりきれたとき、それぞれの方達がそれぞれの抜き取り方、感じ方をするのだと思います。
そして、各自で治っていく。
各自で治っていくものを、他人が「治るはずはない」「治っていない」と言うもんじゃないのです。
過去の自分の反省からも、支援者が主体性を発揮すると、ろくなことが起きません。
何故なら、支援者は治すことが不可能だから。
治せない主体性は、本人の想い、親心と馴染めませんし、反発し合うのです。
支援者の主体性が強いとき、支援者に自分が、親が主体性を預けてしまったとき、『治る』は無機質な文字になる。
私は直接的な援助を終えるとき、「いい雰囲気になったから、もう終わりにしましょうね」と言います。
これだけ見ると、怪しげなやりとりに聞こえますが、実際は「そうですね」「私もそう感じていました」と言われる方がほとんどです。
発達は家族の営みの中で自然に育まれることなので、その場の雰囲気、親子の息づかいが重要なのです。
スタート30分前には、競技場内で待機しなければならなかったのですが、その時点で、頭から水が滴り落ちているし、靴はすでにおもおもの状態。
会場には8千人以上の人達がいたのにもかかわらず、シーンと静まり返っており、耳に入ってくるのは雨が激しく地面を叩く音ばかり。
皆の息づかいは、ただただ早くスタートの瞬間を迎えたい、その一心だったと思います。
とても長く感じたスタートまでの時間。
しかし、スタートのピストルが鳴った瞬間、雨の音は聞こえなくなり、会場の雰囲気も一気に明るくなりました。
聞こえてくるのは沿道の声援、近くを走るランナーの息づかいと足音。
そして、目に入ってくるのは、前を走るランナー。
マラソンは、他人と競うのに、自分自身との闘い。
マラソンは、一人で走るのに、前を走るランナー、沿道で声援する人、ボランティアのスタッフに引っ張られ、引き出される。
そんな雰囲気を感じた今回の大会でした。
メールというのは、無機質な文字の羅列だといえます。
特に、私がいただくメールは、実際にお会いしたことのない方からのものがほとんどですから、余計にその側面が強調されやすいと思います。
しかし、その文面を読み進めていくうちに、自然と引きこまれていくメールが多くあります。
そして、お会いしたことのない親御さんの息づかい、子どもさんの持っている体温が伝わってくることもあるのです。
気が付いたら、お返事の文面が出来上がっている、なんてことはしょっちゅうです。
それも聞かれていないことまで、答えていることがある。
我に返り、文章を読み返してみると、「どうして、自分はこんな文を書いたのだろうか」と思うことも多々あります。
実際にお会いしたときは、もっと顕著で、自分でしゃべっているのに、途中から自分じゃない人がしゃべっているような気になります。
自分が溶けていき、目の前にいる方の想いと馴染んでいく感じです。
予定していた時間はあってないようなもの。
家につくと、どっと出てきた疲れを感じることで、今日も出しきれたんだ、と思うのです。
施設で働いていたとき、学校で働いていたとき、私は「引き出される」という感覚も、「溶け込む、馴染んでいく」という感覚も、感じたことがありませんでした。
自分自身が成熟していなかったこともありますし、立場という存在がそれを許さなかったこともあるでしょう。
また伝わってくる感情がネガティブなものばかりだったので、馴染むことを拒否したのもあると思います。
でも、今は違います。
これ程までに「治りたい」「治ってほしい」で溢れている。
その想いに、私は引き出され、そして溶け込んでいく。
支援者や先生だったときは、支援する主体である自分、指導する主体である自分がいました。
目の前にいる子を引き出すのが自分であり、教え導くのが自分でした。
しかし、その自分は今いません。
今いるのは、溶け込むことを厭わない私という雰囲気です。
治りたい人、治したい人が、今、必要なエッセンスを抜き取り、それを実生活の中に馴染ませていく。
常々申しますが、治すのは私ではなく、自分自身であり、家族です。
ですから、私に必要なことは主体性を出すことではなく、本人たちが主体性を発揮しやすいような雰囲気の一つになることだと思います。
子どもが親の、親が子どもの息づかいを感じられるようになる。
子どもさんが持つ「治りたい」と親御さんが持つ「治したい」が溶け込み、馴染んでいくと、一気に治っていきます。
反対に言えば、お互いの息づかいに気づけていない家族、想いが馴染んでいかない家族は、いくら治っていくアイディアや情報があったとしても、治りません。
私が治りたい雰囲気の一つになりきれたとき、それぞれの方達がそれぞれの抜き取り方、感じ方をするのだと思います。
そして、各自で治っていく。
各自で治っていくものを、他人が「治るはずはない」「治っていない」と言うもんじゃないのです。
過去の自分の反省からも、支援者が主体性を発揮すると、ろくなことが起きません。
何故なら、支援者は治すことが不可能だから。
治せない主体性は、本人の想い、親心と馴染めませんし、反発し合うのです。
支援者の主体性が強いとき、支援者に自分が、親が主体性を預けてしまったとき、『治る』は無機質な文字になる。
私は直接的な援助を終えるとき、「いい雰囲気になったから、もう終わりにしましょうね」と言います。
これだけ見ると、怪しげなやりとりに聞こえますが、実際は「そうですね」「私もそう感じていました」と言われる方がほとんどです。
発達は家族の営みの中で自然に育まれることなので、その場の雰囲気、親子の息づかいが重要なのです。
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