子どもの課題と自分の課題をごちゃまぜにする人
親に手伝ってもらった夏休みの宿題が褒められたり、表彰されたりするっていうのは、笑い話になるけれど、日々の宿題を代わりにやるとなると、笑えなくなります。 もちろん、実際にこんなことをする人はいないんだろうけれど、これに似たようなことをやっている人はいますね。 子どもの課題を代わりにやっちゃう人。 子どもの課題を「やらなくていい」と取り上げちゃう人。 子どもの課題を「出した方が悪い」と言っちゃう人。 子どもは日々、課題と接しています。 それは、与えられる学校の課題がありますし、自ら向かっていく発達の課題、人間関係の課題などもあります。 どれもその子自身の成長に必要な課題なのですから、その子自身で乗り越えることが必要です。 いくら「自分がやった方が早い」「上手くできる」と思っても、手を出してはいけません。 その課題は、“その子”の課題であって、“私”の課題ではないのですから。 相談でいろいろな方のお話を聞いていると、課題の曖昧さを感じることがあります。 例えば、支援グッズを一生懸命用意する親御さんがいます(もちろん、それ自体は問題ないです)。 で、お子さんは〇〇という活動ができる、落ち着いていられる。 でも、それってその子が乗り越えたことになるのかなって感じるんです。 その子自身で、「ぼくは、課題に乗り越えられた」という気持ちが味わえるのかなって。 支援グッズは、本人が課題を乗り越えるために使う補助であって、周りがお膳立てするためのものではありません。 つまり、支援グッズから「この子が失敗しないように」という匂いが出ていたら、それは支援者自身が失敗を恐れている証拠であり、失敗に対する課題がある、まだ乗り越えられていないということ。 また、支援グッズから過剰さや見た目が匂ってきたら、それは支援者自身がどう見られているかに意識がある証拠であり、他人からの評価に揺らいでしまうことに課題があるということ、などが想像されます。 子どもの意思や課題と別のところで、「学校に行かなくても良いんだ」と主張する人は、その人自身が学校に良い思い出がなかった、辛い学校生活を送った、学校の中に課題を置いてきたというのもあります。 「無理に働かなくても良い」「一般就労より、福祉的就労の方にしなよ」と主張する人は、仕事の中に課題があるのかもしれませ...