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5月, 2015の投稿を表示しています

自分のニーズは、自分で訴え、自分で掴みとる

自分のニーズを表現できることは、とても大事なスキルだと思います。 で、もっと言うと、そこから発展して"交渉できる"くらいまでになったらベストですね。 そうなれば、自分自身で生きやすさをゲットできることにつながりますし、受け身ではなく、自発的に人生を歩んでいけます。 そして、チャンスの幅を自ら広げることができるようになるでしょう。 どうしても、支援を受けることに対して自身が受け身であると、支援を待たなければなりません。 また、その支援が得られるかは、自分の手ではなく、支援者という他者の手の中にあります。 支援を受け取る側、支援を待つ側に立ち続けると、どうしても受け身になりがちです。 受け身な人は、社会の影響をもろに受けてしまいますし、それだけチャンスが失われる結果になると思います。 自分の人生の質を高める手段が、他者に委ねられているというのはいかがでしょうか。 支援を与える側、支援を受ける側が固定されることは、不平等な関係性を生むのだと考えています。 支援を与える側は与え続けなければなりませんし、支援を受ける側は受け取り続けないといけません。 双方の間に、選択肢は2つだけ。 「与えるか、与えられるか」「与えないか、与えられないか」というYES or No の世界です。 自閉症の人と定型発達の人は、脳が違えど、対等な権利を持つべきだと思います。 対等な権利、関係性になるには、お互いが主張し合い、妥協点を見つける作業が必要です。 例えば、職場で周りの音が気になって仕事に集中できないとします。 そうした場合、仕事中、耳栓をしても良いか。 また、何かあったときは、メモ書きにしてほしいというような要望は、支援者ではなく、自分で職場の人と交渉してほしいと思います。 その中で、耳栓は良いけど、メモ書きは手間だからできないとか、お客さんから見えるから、耳栓ではなく、ほかの手段を考えられないか、などと妥協点を探る話し合いができ、対等な関係性を築くことへとつながります。 私も支援している自閉症の人たちには、自分のニーズを表現できること、そして相手に訴え、交渉できることを目指してもらっています(人によっては、親御さんに行ってもらうことも)。 そうすることで、自ら問題を解決し、生きやすく、また成長するチャンスを自らの手で掴む

直言することの大切さ

「人間、3人の友を持て」という名言があります。 その3人とは、"原理原則を教えてくれる人"、"師と仰ぐ人"、"直言してくれる人"。 「今の私にとって、この3人は誰なのかな」と、時折、3名の顔を思い浮かべています。 どの人も大切な人には違いがありませんが、やっぱり耳の痛いことでも直言してくれる人の存在が最も貴重だと感じています。 日々、自閉症の人たちと接していますが、その人たちにとっても"直言してくれる人"の存在が重要なのだと感じています。 何故なら、自閉症の人たちは白黒はっきりさせることを好む脳を持っていますし、事柄が明確であればあるほど、的確に捉えることができ、成長につながっていくからです。 反対に言うと、曖昧さは彼らの混乱を招き、また誤学習を生むことにもつながります。 日本には、"曖昧さの文化"があります。 明確な表現よりも、曖昧な表現が多く、それを察することが求められます。 感情にしても、意見にしても、あまりはっきり表現することはありません。 でも、それは想像することが苦手な自閉症の人たちにとって、わかりにくい表現方法になります。 私は、自閉症の人たちと接するときには、直言するようにしています。 良いものは良いと言い、悪いものは悪いとはっきり言います。 周囲から見たら厳しいようにも、冷たいようにも映るかもしれませんが、明確に伝える方が誤解を招きませんし、彼ら自身も「大久保さんの言うことは、わかりやすいからいい!」と言ってくれます。 自閉症の人が悪いこと、望ましくないことをしたとき、「はっきり言うと傷つけてしまうのではないか」という思いから、曖昧な表現を選択することがあると思います。 しかし、その気遣いは、却って彼らを傷つける結果になることがあります。 何故なら、自分の言動が悪い影響を与えた事実に気づけないからです。 そのため、再び似たような過ちを犯してしまい、周囲からネガティブな反応を繰り返し受けることになります。 彼らは良く言います。 「良いことも、悪いこともはっきり教えて欲しい。それじゃないと、望ましい行動をしっかり身に付けることができないから」と。 問題を起こす人、自分の迷惑さに気が付かない人、誤った自己

精神科薬と学習&環境調整は1つのパッケージ

昨日、「また新しい精神科の薬を飲むことになりました・・・」という相談が入りました。 この薬以外にも、複数の症状に対し、複数の精神科薬が処方され、飲み続けています。 本人も、服用によって体調や気分が優れなくなること、どんどん自立的な生活から遠ざかっていくことに不安を感じていました。 でも、地域で有名な医師ですし、主治医で長年かかわっているので、断ることも、転院もできないと訴えていました。 私は医師ではありませんので、薬の処方やねらいを正確に理解することはできません。 ただ、一つ言えることは、薬の力で症状は治まることがあったとしても、問題行動や誤学習の根本的な解決にはならないということです。 今回、ターゲットになっている症状も、根本には強い不安があるのだと考えられます。 その不安の原因には、身体面の乱れや誤学習があると思われます。 ですから、その根本的な部分を改善していかない限り、解決には向かっていかないと思います。 その事実を証明するかのように、2年以上、その医師にかかり、薬を服用していますが、問題となっている行動は変わっていませんし、本人も訴えているように「どんどん自分の身体が変になっていっている」という具合です。 以前、施設で働いていたとき、たくさんの精神科薬を飲む人たちを見てきました。 激しい行動障害がある人たちは、多くの精神科薬の力によって行動が見られないようになりました。 でも、それは根本が解決したのではなく、行動を起こすパワー自体を奪われてしまった結果だと言えます。 みなさん、危険な状態はなくなりましたが、その方たちの質の高い生活もなくなりました。 自分や周囲の身の危険を回避するためにはやむを得ないことかとは思いますが・・・。 精神科薬自体の力で、行動や症状をすべて解決するのではなく、行動や症状を穏やかにすることにより、誤学習を改める学習につなげたり、身体を楽にさせ、生活の改善へとつなげたりするのだと思います。 いくら薬を飲んで症状が緩和されたとしても、そのあと、行動を変えなければ意味がありません。 人間関係に悩んでいる人が、精神科薬を飲み、気持ちが安定した。 でも、より良い人間関係を築く学習や、環境の改善がなければ、根本の解決にはつながりません。 精神科薬を飲んだあと、誰がその人の学びを支え、環境の調整を行っ

トラウマは『上書き保存』

先ほど、嬉しい報告がありました。 「試験に合格しました!!」という報告です。 目標である就職につながる試験でした。 その方は、試験を受けることに対して大きな困難を抱えていました。 学校時代に受けたいじめから学校のような雰囲気を感じるものは、全てダメになってしまったのです。 学校の机、黒板、廊下、螺旋階段、自分の持ち物では筆箱、定規などの学校を連想させる物や、若い年代の人たちも。 そういったものがあると、当時のことが意思とは関係なく生々しく思い出されてしまい、緊張が高まり、心臓がバクバクし、落ち着くことができなくなります。 そのため、最初はその試験会場に入ることもできませんでした。 入れるようになったあとでも、落ち着いて試験が受けられる状態ではなく、実力が発揮できずに何度も試験に落ちていました。 でも、そのトラウマを乗り越え、見事試験に合格することができました。 この困難に関しては、様々な方向から支援を展開し、一緒に実践しました。 まずは試験会場に入れること、落ち着いて時間内試験を受けられることが、大事なポイントになりました。 日頃のコンディショニングを整える活動や、試験会場で気分が落ち着かなくなったときの対処方法など、2人で考え、より良いものを構築していきました。 その結果として、試験会場に入れるようになり、落ち着いて試験が受けられるようになりました。 私が考えるトラウマを乗り越える方法は、"上書き保存"です。 トラウマ自体を無くすことは難しいと思いますし、苦しいものではあると思いますが、トラウマ自体、悪いものでも、無くすべきものでもないと感じています。 何故なら、トラウマは、その当時、辛かった出来事をその人自身で対処した自己防衛の手段だったからです。 上書き保存するためには、やはりその場面に向き合うことから始まります。 その当時、凍結してしまった出来事を溶かし、その上に新しい経験を重ねていきます。 そして、辛い経験を辛くない経験に塗り替えていくのです。 試験に合格した方も、頭では試験会場は学校ではないことも、ここではいじめられないことも分かっていました。 でも、当時、凍結した感情が湧き出てしまっていたのです。 ですから、頭ではなく、身体でいじめられないことを経験し続けました。 凍結した出来

障害を受け入れられなかった人が起こした事件

昨年、JR名古屋駅付近の交差点で、乗用車が暴走し、14人が重軽傷を負った事件について。 その事件を起こした人が、アスペルガー症候群の診断を受けていたとのこと。 しかも、事件を起こす10年以上前に。 これだけ大きな事件なのに、事件当初も、先週行われた初公判についても、小さくしか報道されていないように感じます(北海道だからか、私が購読している新聞には初公判について載っていませんでした)。 検察側も、弁護側も、犯行とアスペルガー症候群の関連性を指摘しており、今後は通常の懲役刑か、治療的介入かが争点になっていくそうです。 この報道の中で、「10年以上前に発達障害の診断を受けたが、受け入れることができなかった」という文章を目にしました。 「受け入れることができなかった・・・」 こういう自閉症の人はたくさんいる。 しかも、日々、私が接している人たちの中にもたくさん。 こういった人たちに共通するエピソードが、「周囲から指摘された」と「診断を受けたあとのフォローがなかった」ということ。 どの人も、自分自身の違和感は感じている。 でも、その違和感の正体を明らかにしたい人と、その違和感を取りたい人では、本人が求めていることが違ってくる。 違和感の正体を明らかにしたい人は、周囲からの指摘や医師からの診断を求めている。 でも、違和感を取りたい人にとっては、周囲からの指摘も、医師からの診断も、一番に求めていることではない。 それよりも「どうすれば、今日より明日の生活が良くなるのか」という答えが知りたい。 その人にとって「自閉症の診断」は受け入れることができないものになってしまう。 だって、「自閉症は生来のもので、治らない」というメッセージを受け取るから。 また、診断を受けたあとのフォローがないことも、受け入れられないことに大きな影響を及ぼす。 今でも自閉症と認めたくない人、その名を聞くのすら嫌な人は少なくない。 みんな「親に病院に連れていかれ、急に診断名を言われた。でも、診断名だけ言われて、その障害がどういうものかの説明はなかった。自分ではどうしようもできないものを渡され、明日からどうやって生きていけば良いかわからず、絶望しか残らなかった」と、正直な気持ちを教えてくれる。 そんな身近にいる人たちが、みんな名古屋の事件を起こした人のような犯行は

自閉症から入り、自閉症から離れる

「幸せになるための必須条件は、"自閉症"なの?」 「成長するための必須条件は、"発達障害"なの??」 こんな疑問が湧き上がる場面に出くわすことがあります。 本人からすると、自閉症か否かよりも、どうやったら今の生活が改善できるか、そしてより良い明日を築いていけるのか、そこが最も知りたいことだと思います。 その一方、支援者間での話題の中心になりがちなのが、その人が自閉症か、否か。 あらゆる言動を自閉症と結びつけて解釈しようとしたり、本人が前向きな気持ちになっていないのにもかかわらず、診断を受けさせようとしたり、素人が勝手に「あなたは自閉症じゃない」と言ったり、自閉症が前提で話が進んでいったり・・・。 幸せになるための条件、成長するための条件に、"自閉症"は必須じゃないと思いますよ。 その人が幸せになる方法、成長できる方法は、一人ひとり違うはず。 もちろん、その方法を考える上で、"自閉症"という視点を入れておくことは大事だと思いますが、核は"人"であるべき。 "自閉症"の〇〇さんが幸せになる方法ではなく、〇〇さんが幸せになる方法を見つけていく。 自閉症という特性を持っていたとしても、特にその部分に関して支援を受けずに幸せになれる人、成長できる人はいます。 別に、それができる人は、それで良いのだと思います。 本人が「困っていない」と言っているのに、本人が特別トラブルも起こしていないのに、自閉症という診断を受けているからと言って、「困っているだろう」「これから困るはずだ」「自立は無理」という話をするのは、どうかと思います。 「私は、自閉症としては生きていかない」と、診断を受けている人が言ってもいいんじゃないですかね。 それも、その人の人生です。 その人が、幸せを見つけ、成長し、自分の人生を豊かにしていけるのなら、それで十分だと思います。 周囲が「自閉症として生きていきなさい」というのは、おかしな話。 私自身、自閉症支援に携わり、仕事にもしていますが、自閉症にこだわらないことを心がけています。 「自閉症から入り、自閉症から離れる」といったイメージです。 自閉症の特性と支援、療育方法は活かしていきますが、活かさなく

「月曜日だから、調子悪いよね」という逃げ道

最近も、また聞いてしまった。 「あの親御さんじゃあね~」という支援者の言葉。 その人曰く、家庭での療育力に問題があるらしい。 私は、その人のお子さんの支援に半年以上、携わっているんですよ。 定期的に訪問してますし、親御さんともじっくり話をしたこともあります。 確かに、自閉症についてたくさん勉強しているわけではありませんね。 本人との関わり方を見ても、療育と言うよりは、ごく一般的な子育ての仕方に近いと思います。 でも、療育をきちんとしていない親御さんを責める権利って、支援者にあるのでしょうかね? 学校や支援機関で見られない行動が、おうちで現れたりすることはあります(もちろん、逆もしかり)。 外で我慢していた分、おうちで爆発ということもあるでしょう。 また、学校や支援機関との支援方法の違い、環境の違いの影響もあるでしょう。 そこには、支援者としてのスキルの違いも含まれます。 外で我慢していたことの爆発なら、我慢させていた支援の方に改善点があるはずです。 また、環境の違いは当然のこと。 学校や支援機関のように、個室を作ったり、特別な道具や環境を用意したりするのは難しい。 だって、家は住む場所であって、療育機関ではないから。 だって、その子だけが生活しているのではなく、他の家族も生活している場所だから。 支援者としてのスキルの違いがあるのも当然なことで(お金をいただいて支援している者が、親御さんと同じスキルでは困る!)、それをひっくるめて支援を考えるべきでしょ。 私は、親御さんができない支援、家庭でできない支援は、自分が責任を持ってスキル獲得を目指しますし、親御さんの支援スキルの向上のために尽くすことも役割の内だと考えています。 よく「月曜日だから、調子悪いよね」なんて言いますよね。 それって別の言い方をすると、「月曜日の指導はうまくいかなくても、私の支援が悪いわけではないよ」と、やる前から言い訳しているようなもの。 週末、ちょっとだらけたり、リラックスしたり、平日にできないことを家族でやったりするのは当然なことでしょ(支援者だって、そうしているはず。月曜日からまた仕事なので、酒も飲まないし、遠出もしない。朝も早く起きますという人って、どのくらいいるのかな)。 月曜日に、調子が上がらないのなら、それを含めて支援を考えなさい

「ご褒美があるからお勉強頑張ろうね」って、どうなの??

ずっと前から疑問に思っていたのが、指導のあとに支援者と一緒に遊ぶことについて。 指導を頑張ったあとのご褒美として「支援者と一緒に好きな活動をする」というのは、良く見られる光景。 でも、私はなんか違うんだよな~と思ってしまうんですよ。 年齢が低かったり、知的障害を併せ持っていたりする人なら、指導自体の意味が分かりづらいから「ご褒美があるから頑張るぞ!」ってことはあると思います。 でも同時に、「じゃあ、ご褒美がなかったら指導を受けてくれなくなっちゃうの?」と思ってしまう。 指導自体を本人が楽しく思えるように工夫することが、支援者の腕の見せ所でしょ。 この努力をすっ飛ばして「ご褒美♪ご褒美♪」というのは、指導者側の努力不足に思える場面もあります。 指導することの1番の目的は、学んで成長してもらうこと。 ご褒美をもらうことではないはず。 いかにモチベーションを高め、前向きにその人が指導を受けてくれるかが、成果につながります。 本人が前向きではなく、意識が向いていない状態で、いくら指導をしても効果は上がりません。 学生時代、やる気の起きない勉強は、いくら時間をかけても身につきませんでしたよね。 途中で注意が勉強から逸れていき、ゲームをしたり、マンガを読んだり・・・。 これと同じこと。 成人している人や知的障害を持っていない人に対しても、指導のあとのご褒美をやっているのを見ると、ちょっと悲しくなります。 大きなお兄ちゃんと、いい大人が一緒にゲーム。 同じ趣味を持っている者同士が行うゲームならまだしも、相手の趣味に合わせるのは、一般的な社会の中ではみられないこと。 誤学習や誤った捉え方をして、一般的な社会の中に当てはめてしまわないかが心配。 指導後のゲームの時間を社会性のスキルアップに使い、きちんとここでも指導がなされているなら良いのですが、無条件で「ご褒美だから」と言って、その人の好きなことに答えるのはどうかな~と思っちゃいます。 しかも、指導者はその人の好きな活動のためにお金が必要になってきますし・・・。 別の人や機関が続けられないご褒美は、どうなのかな?? よっぽど裕福な家庭じゃない限り、お家では無理。 もちろん、ご褒美が強い動機づけになり、指導を前向きに頑張ってくれる人なら文句はありませんよ! でも、特にこのような成人

4月からランニングを始めた理由

4月に入り、ランニングを始めました。 1日、最低でも5キロ走ることを目標に、合間を見つけ、走っています。 どうしてランニングを始めたかと言いますと、いくつか理由があります。 ①ダイエットのため 今年の正月に、久しぶりに同級生と会って衝撃を受けました。 髪が薄くなってきた人、お腹が出ている人・・・。 自分の同級生が"おじさん"になっていました。 自分の体形を見ても、以前は逆三角形の体が長方形、いや台形に・・・。 このままでは、おじさん体形になってしまうという恐怖感から走り始めました。 ②父母の徒競走のため 私が子どもの頃、よくテレビ番組で"おもしろホームビデオ"がやっていました。 そのとき、子どもの運動会で開催される父母対抗リレーで、足がもつれてこけてしまうお父さんの映像を見て、爆笑した覚えがあります。 でも、気が付いたら、自分がそんなお父さんになっている・・・。 息子の保育園の運動会は9月に行われます。 そこまでに走れる体を作らなければなりません(笑) ③汗をかくため ここ1,2年、「なんだか汗をかかなくなったな」と自分で感じていました。 ランニングを始めてからも、最初の1,2週間はほとんど汗をかきませんでした。 これから湿気の多い時期になりますので、その前にたくさん汗をかける体にしなければなりません。 湿気の多い時期に汗がかけなければ、体内に水が溜まってしまい不調の原因になります。 しっかり水分を排出できないで暑い夏を迎えてしまうと、夏バテしてしまいます。 そして、夏バテした体は、秋の不調を生む原因にもなります。 汗をかけることは、体内の循環がうまくいくことであり、心身の健康を保つために重要なことです。 また、1つ前の時期の体調が次の時期の体に表れますので、湿気の多い時期を迎える前に、たくさん汗をかける体を作ることが大切です。 ④足の裏を育てるため ランニングをするときは、なるべく凸凹した道や固さの異なる道を通るようにしています。 また、足の裏を意識して走るようにしています。 それは、足の裏を育てるためです。 「足の裏の発達と自閉症の人たちの発達」というのが、最近の私のテーマです。 いろいろと自分でも試しながら、日々のセッションでも活かしています。 どのよう

「嫌わないでください」という手紙

小学生の男の子から手紙がきました。 「おおくぼさん、ぼくのことをきらいにならないでください」と。 ことの発端は、その子からの電話でした。 ちょうどそのときは仕事中で、私は電話に出ることのできない状況でした。 後から着信履歴を見ると、短い間隔でたくさん電話してきたのがわかりました。 その子は、私が電話に出ないため、「嫌われた」と思ったのでしょう。 だから、上記のような手紙が来たのだと思います。 相手の状況を想像したり、より良い方法を計画し、実行したりすることが、まだ苦手な子ですので、不安な気持ちから連想したのでしょう。 だから、私は嫌いだから電話に出なかったわけではなく、仕事中だったこと。 もし相手が電話に出ないことがあったら、時間を空けてから電話をするか、別の連絡手段を選択すること。 短い間隔で電話をした場合、相手に不安な気持ちや、怖い気持ちをいだかせる危険性があること。 夜間に電話をする場合は、特別な事情があったり、緊急性のあるときだけにし、基本的には日中に電話をする方が良いこと。 まだ判断が難しいときは、家族の人に手伝ってもらってから行動することも、大事なトレーニングになること。 などを手紙に書いて、返信しました。 エピソードからいったら小学生の男の子の微笑ましい勘違いとも思いましたが、これは社会性を身に付ける絶好の機会だと思い、彼に分かりやすい言葉で説明しました。 これが中学生くらいの男の子がやったら問題です。 成人だったら、なおのこと。 嫌われていないことと、このような場合、どうしたら良いかがわかったようでしたので、良かったです。 ちなみに電話の要件は、「次、先生はいつ来ますか?」でした。

辛い出来事を凍結して自己防衛してきた人たち

「周りの視線が気になる」 「イジメられた経験から、制服姿の学生を見かけると、息苦しくなる」 「家族を連想させるものを見ると、当時の記憶を思い出してしまして辛くなる」 などと話をしてくれる自閉症の人は少なくありません。 てらっこ塾を利用してくれる方の中にも多くいます。 私は医学的な判断をすることができません。 こういった事象をトラウマというのかもしれませんし、フラッシュバック、精神疾患の1つ、自閉症の人に見られる長期記憶の特性というのかもしれません。 ただ、そういった方たちと接して感じることは、今、まさにその出来事が起きているような印象を受けます。 過去の出来事のはずなのに、それが"過去"になっていないような。 こういった悩みを持たれている方に対して、何か教育的なことをしようとしても、なかなかうまくいかないことがあります。 どうしても、その辛さが現在の生活全般に影響を与え続け、新しいことを身に付けたり、学ぼうとする段階にいけないことがあります。 そんな中で取り組みを行ったとしても、結果が伴わないことがあることも、私自身、多々経験しました。 ですから、この今の生活に影を落とす過去の出来事をまずは、どうにかしないといけないという気持ちでいます。 私は、こういった方とセッションを行う場合、本人に無理が出ない範囲で、当時のことを質問し、自分自身の言葉で説明してもらうことをしています。 この目的は、過去の出来事を現実と分離させ、過去の記憶にしてもらうことです。 自分が経験したことを他者に話す場合、自然と客観的に話すようになります。 何故なら、その過去の出来事は、自分しか経験していないからです。 そのため、他人に話すときは、相手に分かってもらうために、状況や場面などの情報を客観的に説明する必要が出てきます。 そうしているうちに、過去の出来事を客観的に捉えることができるようになり、徐々に現実に起きていることではなく、過去の出来事だったんだと捉え直すことにつながっていくと考えています。 自分で客観的に過去の出来事として捉えることができるようになれば、その出来事は過去の記憶へと移っていくのだと思います。 このような考えのもと、実際に話してもらうことを繰り返していくと、「以前よりも、楽になった」「もう過去の出来事に捉われ