2019年11月15日金曜日

「発達障害=療育」「診断→療育」「療育を受けさせるのが良い親」は誤り

ついこの間までは、「発達の遅れを指摘され、診断を受けたら、気が付いたときには申請書に記入し、療育施設に通っていた」とおっしゃる親御さんが多かったです。
でも、最近では、その療育とやらも、どこも枠がいっぱいらしく、利用できるまで間が開くようです。
ですから、その間にいろいろと調べて、自分で行動する親御さん達が出てきたように感じます。


私のところにも、そういった方達からの相談が来るようになり、半年待機なら、一年待機なら、「その間で1つでも治しちゃいましょう!」という具合に、せっせと発達援助を行い、ヌケや未発達を育てていきます。
半年あれば、できることはたくさんありますし、年齢が幼ければ幼いほど、発達は加速度的に進むものなので、育つのも早いです。
「結局、療育施設への希望は取り下げました」というお話を聞けば、公的な資源を使わず、自らの力によって必要性がなくなるほどに治したのだから、これも一種の社会貢献であり、やっぱり治すことは本人にとっても、家族にとっても、社会にとっても、喜ばしいことだな、と改めて感じます。


現状の療育では、治すことを目的としていませんし、症状の軽度化も達成できていません。
とにかく「適応力を上げる」が主であり、その適応力とは、社会への適応ではなく、支援への適応。
つまり、支援しやすい子に育つような支援です。
もっといえば、支援者が介護しやすい子にどう育てるか、というもの。
どうして、そんなことが言えるのか、と問われれば、早期診断→早期療育→特別支援15年で、ほとんどの人が自立できていないから。


ギョーカイの掲げる目標は、「支援を受けながらの自立」なので、まあ、見方を変えれば、思い通りに育てることができているわけです。
「生涯に渡る支援」を高々に謳っていますので、支援の仕方、指導の仕方は、どうしてもそのゴールに向かったものになります。
早ければ、1歳から人生を終えるその瞬間まで、支援を利用してもらいたい。
こういう事情がありますので、また結果として出ていますので、「どうして、早期から頑張って療育、支援を受けたのに、自立しないんだ」と怒ったところで意味がないのです。
社会の中の自立、症状の軽度化、発達のヌケや未発達を育て、治すことを目的としていないので。


これもつい最近まであった不思議な相談なのですが、「幼稚園(保育園)を休んで、療育に行くことを促されるのですが、どう思いますか?」というもの。
促してくる人は、医師であり、療育先の支援者であり、子育て相談の人であり、中には日頃通っている幼稚園、保育園の先生まで。
こういったのは、ナンセンスの一言です。


子どもにとって、毎日通う幼稚園、保育園は、そこも立派な社会であり、発達の場です。
本来、社会の中で、自分の資質を活かし、自立して生きていくことが、目指すべき姿。
そのための方法の一つとして療育があるのであって、療育を受けるために療育があるのではありません。
子どもが社会で過ごす時間、同世代の子ども達と共に発達する機会を減らしてまでも、その療育を受ける必要があるのでしょうか。
それは幼稚園で過ごす以上の素晴らしい学び、成長の機会となるのでしょうか。
今まで一番驚いたのは、園での遠足の日と療育の日が重なったとき、「療育に行ってください」と言われた人がいたこと。
子どもにとって、ワクワクするような行事、大切な思い出よりも、トランポリンを跳ぶのは必要ですか?絵カードの使い方を練習する方が大事ですか?イラストを見て、その名前を声に出すのは必要ですか?


私は常々言っていますが、「診断→療育の流れ」はおかしいと思います。
診断を受けたとき、もちろん、診断を受けずに発達の課題を指摘されたとき、「この子にとって何がベストか?」「どんな選択がより良い発達に繋がるか?」を検討し、その上で療育なら療育、それ以外の方法、また支援を受けるにしても、すぐなのか、家でもう少し育てたあとからでもよいのか、という話し合い、助言があってしかるべきです。
それなのに、申し合せたように「診断→療育」をひとセットのごとく、伝えてくる。


中には、そんな勧め方をしてこない専門家もいる一方で、療育を受けないことが悪いことのように、また「受容できていないダメな親」というように言ってくる人もまだいるようです。
精神的に、どうしても冷静になれない時期ですから、なおのこと、言われるがままに進んでしまう親御さんがいるのは仕方がないことです。


地方ですと、田舎ですと、診断も、療育も、相談も、支援事業所も、全部、同じ法人ということも少なくありません。
また、一人の人が利用しても、「利用回数①」にしかなりませんが、複数の事業所が関われば、②にも、③にもなります。
その利用回数に応じて、公金を受け取る仕組みですので、同じ法人同士じゃなくても、繋がっているところ同士でパスし合う、ということもあります。
なので、同じ相談事業所を利用している人は、療育も、通所も、病院も一緒のことが多いのです。
これって、本当に個人の利を一番に考えている行為だといえるでしょうかね。


発達障害だから、療育を受ける、受けなきゃならない、というのは誤りです。
今、その子の発達にとって、何がベストか。
幼稚園、保育園、同世代の子ども達との関わり、家庭生活において、より良く活動できるためには、どういった援助が必要か。
それを真剣に考えたとき、「幼稚園を休ませてまでも療育に行く必要はないな」と思えば、行かなくて良いのです。
幼稚園での経験、発達と、療育機関での経験、発達との間に差はありません。


よく「幼稚園と違って、療育施設は専門的だから…」と言われる親御さんもいますが、その専門は、優れているという意味の専門ではなく、質を担保するための専門ではなく、「うちは(健常児ではなく)障害児を専門しています」というだけ。
お米屋さんが「お米の専門店です」と言っているようなもの。
そのお米が美味しいかは、個人によって違います。


発達の専門は、療育施設だけではないのです。
幼稚園も、保育園も、公園も、習い事も、友達との間も、もちろん、家庭も、すべてが発達の場。
そこに優劣はなくて、あるのは、その子に合った組み合わせ、重きの置き方だけです。
つまり、発達は、そのとき、そのときで、ベストな組み合わせを作っていくということ。
「診断→療育」という決まり切った流れは、個人の発達、子育てにおいて最も重要なカスタマイズする行為を妨げてしまいます。
子どもの発達が多様なように、その育ち方、育て方も、もっと多様であって良いのです。
そこに子育てを始めたばかりの親御さんが気づけることが大事ですし、伝えることが専門家の本来の役割でもあります。


「発達障害だから療育」は、思考も、育ちも、家庭の養育力も、貧相にしてしまいます。
大事なのは、今、その子に合った育ちは何かであり、その育ちが将来の自立へと繋がっているか、ということ。
そして忘れてはならないのは、その瞬間、今の子ども時代はもう戻ってこない、ということです。
私は親御さんに良く言います。
「お子さんからしたら、大きくなって振り返ったとき、子ども時代の思い出が療育に通っただけ、だったら悲しくないですか。一番に思いだされるのは、やっぱり家族の思い出、友達との思い出であってほしいですね」と。
家族との思い出も、将来の自立には必要です。
二度と戻ってこない今を、子どもさんも、親御さんも楽しんでほしい、と私は願っています。

2019年11月14日木曜日

診断基準は変わる、進歩と人為によって

DSM-5が発表される際、アメリカ国内では騒動が起きました。
新しい診断基準になると、それまで該当していた人達の中に基準から外れてしまう人達が出る、と。
それでは、「今まで受けられていた支援、サービスが受けられなくなる!」「それは問題だ!」ということで、当事者、家族から声が上がったのです。


新しい診断基準へと改定を進めた人達も、当然、こういった反応は予想できたと思います。
(まあ、結論から言ってしまえば、ロビー活動によって、改訂前に診断を受けていた人は、それまでと同様に支援が受けられるようになりましたが)。
では、何故、改定する必要があったのか。


当然、多くの臨床からより実態に合ったものへ、それまで分からなかったことが明らかになったことによって、診断基準が変更されるという面があります。
DSM-5では、自閉症やADHD、LDなどが神経発達症という大きな括りの中に入ることになりました。
「どうも、“神経”発達が大きくかかわっているようだ」という具合に。


一方で、純粋に医学的、科学的な進歩によってのみ、診断基準が変わるわけではないこともわかります。
端的に言えば、診断基準に該当する人を減らしたかった。
先進国では、韓国、日本の順に、発達障害が増加していますが、アメリカでも同様に、ますます発症率も、発症者数も増えているのです。
ある程度、支援サービスが整っている国では、それに伴って、どんどん公的な予算、費用が増えていきます。
そこで有限であるリソースを効率的に分配するためにも、いや、もう予算がないから勘弁してくれ、ということかもしれませんが、開いた蛇口を閉め始める。
そういった側面も、あるのは当然だといえます。


このように人間が行うことには、少なからず思惑が入る余地があるのです。
発達障害が、神経の問題になったとき、神経なら育てられるし、アプローチできることが示されるようになりました。
また、長らく言われていた「生まれつきの障害」という言葉も根拠がなくなり、『発達期に生じる』という言葉によって、環境、アプローチの仕方によって変化が生じるという可能性、希望が見いだせるようになりました。
しかし、私達は医学、科学の進歩による恩恵だけではなく、その裏側にある意図にも目を向け、理解する必要があると思います。
つまり、未来は引き締めの方向へ進んでいくことと、その社会状況によって人為的に診断基準すら変わるということ。


日本は、世界の中で2番目に発達障害が増加している国です。
しかし、その増加に歯止めをかけるような環境要因に対する手は打たれていません。
しかも、その原因に関する研究結果、不都合な真実を否定し、隠そうとする人達も存在するくらいです。
それでいて、増加の一途を辿る発達障害者に対する支援は、「“支援を受けながら”、より良い生活を目指していく」という方向性のまま。
「支援を受けながらの自立」という具合に、官僚の答弁みたいなことが言われる始末。
支援を受けていたら、その時点で自立とはいえない。
自立とは、その名の通り、自分の足で立つこと。
結局、支援者も、支援を受け続けてもらうことが前提で、本気で自立など目指していないのです。


少子高齢化の社会なのに、どんどん発達障害の子ども達が増えている。
それでいて医療は治すことを目指さず、支援者は自立させることを目指さず。
親御さんの中には、我が子の自立よりも、どれだけ支援を、サービスを勝ち取るか、というような人達も少なくない。
この状況で、将来、診断基準が変わったり、支援サービスが利用できる人に制限がかかったりしたとき、どうなるのでしょうか。


国が、「もうこれ以上、発達障害者に対する公的なサービスの負担はできない」と言ったとき、私はアメリカのように、それまで支援を受けてきた人が大きな声を上げると思います。
そして現実問題として、支援を受けること前提で育ち、支援が染みついた人達からは取り上げることができないはずです。
制度が変わったから、「明日から支援サービスは受けられません」「事業所に来ないでください」「グループホームから出て行って」「飲んでいた薬、全部中止」とはならないでしょう。
となると、この世代は勝ち逃げ世代、逃げ切り世代になるのです。


限りある資源に、今の逃げ切り世代が大部分を占める。
医療、ギョーカイは、今まで通りの方向性で進もうとするでしょうが、今の子ども達は、その流れに乗ってはいけないのです。
どう考えても、出口戦略のない、そこに穴の開いた壺の中に、貴重な水を注ぎ続けるような支援は、近い将来、破綻します。
2025年、団塊世代が後期高齢者になる時期、ですから、早ければ5年後には、見直しが行われると思います。
子ども達とその家族の割合、しかも、その中で発達障害を抱えている家族の割合は、それ以外の国民の数からしたら少数ですから、選挙で、政策として勝てるわけがありません。


日本は自然災害から逃れられない国ですし、社会だって、どうなるか予測ができない不確実性に溢れています。
そして、いくら叫んでも、勝ち逃げ世代は勝ち逃げするだろうし、今までのような支援を前提とした人生設計はなり立たない。
ですから、確実なことを増やしていく。


発達は後戻りしません。
一度クリアした発達課題は、確実にその子の内側に残ります。
テクニックや知識は後付けできるし、忘れ、失うこともありますが、その感覚、動き、身体は生涯、その人の人生を支え続けます。
そうです、発達課題をクリアし、獲得していくことは、自らの内側に生涯の支援者を育てるということ。
与えられる支援は、いつどうなるかわかりませんが、内側にある支援は裏切らない。


自らの足で立って生きることを自立というのなら、自らの内側の支えを作ることです。
そのために、子ども時代、家庭の中でできることはたくさんあります。
『快食快眠快便』と『自由自在に動かせる身体』
これらを育てることは、自立の土台作りだといえます。
別の言い方をすれば、これは、どんな優れた社会、福祉制度、支援でも、担えない部分。


動き出すのは早い方が良い。
すでに私達は、逃げ切り世代にはなれません。
従来のままの医療、支援、専門家に別れを告げ、私達は確実なものを子ども達の内側に育てるという道を進むのです。
どんな未来が訪れようとも、子ども達が自分の人生を、自らの足と意思によって自由に謳歌できるように。

2019年11月13日水曜日

寄り添うのも、発達を後押しするのも、家族が行えます!

福祉の世界では、「障害者に“寄り添う”」という言葉が大切にされています。
私が施設職員として働き始めたときの入社式でも、福祉事業所が主体である会議、研修会、講演会でも、書籍やギョーカイ新聞においても、「寄り添う」という言葉が出てきます。
あたかも、その言葉を入れないといけない決まりがあるような、まるで締めくくりの定型句のような。
「寄り添う」は伝統芸能のように、代々受け継がれてきています。


しかし、その「寄り添う」の流れの始まりを見てみると、昭和の初め、何十年も前にさかのぼります。
当時は、障害を持った人達が座敷牢に入れられていました。
その社会的に消し去られた時代から、障害者の保育、福祉、教育に移り変わるとき、「寄り添う」という言葉が生まれ、本人、家族、福祉に携わる人達にとって意義をもったのだといえます。
社会的に排除され、地域、家族からも存在が否定されていた時代。
その時代においては、障害を持った人に寄り添う、それ自体に価値があったのだといえます。


では、現在においても、「寄り添う」は大きな意義を持つことなのでしょうか。
職業として、仕事として関わっている人間が、その職務の一番に「寄り添う」を掲げて良いのでしょうか。
今は、福祉だけではなく、医療や教育、行政など、あらゆる分野で「寄り添う」「共感する」「認め合う」などと言われています。
でも、寄り添い、共感し、認め合うのなら、赤の他人が税金を使ってやることではないと思います。
寄り添うだけだったら、犬の方が優れているのでは。


本人が福祉の世界に入ると、成長が止まる、むしろ、できたことすらできなくなるのは、未だに福祉の中心に「寄り添う」があるからだといえます。
その施設内で問題が生じても、その問題を解決するよりも、「その人はやりたくてやっているのではない。困っている人である。だから、私達が寄り添うのだ」という具合に流れてしまう。
本人の生きづらさを改善するよりも、生きづらさを抱えている本人を一人にしない、孤立させないと流れてしまう。


「これのどこが仕事なんだろうか」
「この作業を続けていくと、キャリアアップに繋がるのだろうか」
「この自立訓練では、一生、自立できないだろう」
そのような福祉が今もなお存在し続けるのは、職員の質の問題もあるでしょうが、それ以前に福祉が「寄り添う」ことを第一に考え、寄り添うことが自分たちの使命、役割という価値観が続いているからだといえます。


日本の場合、福祉がリードしてきた歴史がありますので、特別支援教育においても、福祉の色が出ています。
さらに医療の分野においても、障害を持った子の親であるドクター達がリードし発展させてきた流れがありますので、本人の成長を後押しする教育でも、本人の生きづらさの元を治す医療でも、「無理をさせない」「頑張るのは本人ではなく、周り」という姿勢が強く出ています。
多分、福祉の中核である「寄り添う」が、それぞれの領域に派生したのでしょう。
言葉は違えど、弱い立場である人たちを守り、寄りそうという雰囲気は一緒です。


発達障害という分野でお金を貰っている以上、具体的な助言ができないようでは、プロとしては失格です。
子育てで悩んでいる親御さんに、「お母さん、その子の良い面を見ましょう」「お母さんがラクになると、子どもさんも成長しますよ」と言う。
これは良いことを言っているようで、何の足しにもならないことを言っています。
良い面を見ようとしても見れないくらい子育てが大変、本人の発達が不安。
だから、相談しているのに、寄り添った風の綺麗事を言うだけ。
こういう専門性がない言葉が堂々と発せられ、繰り返されている。
これはとても恥ずかしいことですし、日本の公的な支援の質が停滞している象徴的な場面でもあるのです。
「時間が解決する」なら、支援者はいらない。


「私の地域は、遅れています」
このような言葉は、いろんな相談者の方からお聞きします。
でも、住んでいる地域の支援の質が遅れているのではなく、現在の発達障害に関わる公的な支援全体が遅れているのです。
本来は、常に質の向上を目指し、前の世代よりも良いものに進歩させていくために、日々、研鑽を積んでいく必要があるのに。


どういったサービスを提供し、利用者にとって、どのくらい利益があったか。
そういったことが問われることなく、利用した数字によって、公的な資金が得られる、その仕組みに胡坐をかき、座敷牢の時代に芽生えた「寄り添う」だけで飯を食っている。
こういった現状に、公的な支援に、「NO」をつきつけるのは、令和の時代に子育てをしている親御さん達なら、またその原資を担っている社会人なら、当然の権利。
これは反社会的な行動ではなく、むしろ、社会をより良くしていくための心ある行動です。


発達障害は、その名の通り、発達に関わる障害なので、どうすれば、発達が促されるか、発達のスピードが加速するか、具体的に助言ができなければなりませんし、実際にやり方を示せる必要があります。
自分ができないのに、自分がやったことがないのに、良いも悪いもありません。


①生きづらさ、困難、悩みの根っこは、どの発達と繋がっているのか。
②その発達は、どのような順序で、どのようなアイディアによって、育っていくのか。
③実際に言葉で、実践で、示していく。
④そして、それを本人、家族がやった結果、ポジティブな変化が見られた。
そこで初めて、その支援、援助、相談が価値あるものとなります。
現状の多くは、①に入る手前で終わっています。
だって、治らないし、個性だし、無理させないから。


公的な支援サービスが変わるには、まだまだ時間がかかりそうです。
たとえ、単に「寄り添う」だけから、結果が問われる仕組みに変わったとしても、今の子育て世代には間に合わないでしょう。
ですから、自分自身で学び、行動していくのみ。


「発達は診察室のみで起きるのではない」
「療育施設のみで起きるのではない」
「学校のみで起きるのではない」
あらゆるところに、発達の機会があります。
当然、一番長く過ごす家庭生活が発達の中心です。
寄り添うのも、発達を後押しするのも、家族が行えるのです。

2019年11月12日火曜日

生きづらさ保全の会

不登校や不登校気味の子の相談で多いのが、「クラスの子が泣いたり、叱られたりしていると、自分も悲しくなる、辛くなる」というものです。
その状況に耐えられなくなると、だんだんと心身に不調をきたし、学校に行けなくなる。
勉強や友人関係に問題はないのに、こういった理由から不登校になる子も少なくありません。


だいたい最初の対応として、「担任の先生にあまり叱らないように」とお願いをするようです。
しかし、いけないことをしたら指導するのは当然ですので、叱る場面をゼロにはできません。
それに子ども同士のやりとり、個人の感情はコントロールできませんので、クラスの子がネガティブになる状況はあり続けます。
となると、結局、本人が辛くなることは変わりませんので、もう一度、要望、話し合いが行われます。


先生としても、本人を叱っているわけではありませんし、クラスの子の感情をコントロールできるわけではありませんので、困ってしまいます。
一方、親御さんの方も、状況が変わらないことに焦り始める。
そういったとき、両者の流れが「発達障害」に向かい始めます。
担任が抱え込めない部分を受け持ってもらうための「発達障害」
特別な配慮をより認めてもらえるようにするための「発達障害」
ちなみに不登校になってから、診断を受けるケースが本当に多いです。
診断を受けると、その学校の不登校数にカウントされないというルールがあるのでしょうかね。



特別支援に関わる人、支援者、専門家の中には、こういった子どもさんに対し、「とても優しいお子さん」「他人の気持ちに共感できるのは長所」などと言います。
でも、本当に優しい子、他人の気持ちに共感できることが長所と言えるまでになる子というのは、ただ悲しんでいるだけではなく、行動に移せる子です。
悲しんでいる子の横で泣いている子は、ただ泣いている子。
そこから一歩成長し、悲しんでいる子に対して、どういった行動ができるか、それを考え実行できる子に育てるのが、また育ってもらうのが、子育てであり、教育でもあると思います。


このようなお子さん達は、一言で言えば、「自分が確立できていない」のでしょう。
自分と他人の境界線が曖昧ですし、その曖昧さは、自分の身体の範囲がわかっていない、ということ。
それは内臓の発達の遅れ、皮膚感覚、前庭覚などの未発達などがあるのであり、感覚の育ちに遅れがあるということは、呼吸や運動発達にヌケがあるかもしれないし、原始反射が残っているために発達が滞っているかもしれない。
また、その名の通り、きちんと地に足がついていないかもしれない(浮き足など)。
こういった連想は、発達に関わる職業人なら瞬時にできるはずなのに、なんでもかんでも、保全に努めるのが特別支援に関わる者の性。
他人の生きづらさをコレクションするのは、悪趣味としか言いようがありません。


個性を”活かす”には、行動が伴わなければなりません。
「自閉症の人はルーティンワークが得意だから」「覚えるのが得意だから」「間違いに気づくのが得意だから」
そういった個性にスポットライトを当て(別名「苦手なところは無視」)、就職に向けた学習をし、ジョブマッチングをし、どれほどの人達が卒業後、仕事が続けられているのでしょうか。
結局、活かすための土台ができていない、ゆえに行動が伴わず、ただ個性を持っている人で終わってしまっている。
こういった状況は、本人の人生はもちろんのこと、社会にとっても大きな損失だといえます。


個性を活かすには、それに見合った行動ができること。
行動ができるようになるために、発達障害は治す。
私は、「発達障害ゆえに素晴らしい個性を持った人」というのは間違っていると思います。
素晴らしい個性にするためには、それが発揮できるだけの育ちが必要。
なので、「発達障害が治ったゆえに、素晴らしい個性を持った人」と言われるのだと思います。
発達障害を治すことなく、治そうとせず、個性だけ抽出しようとしても、無理。
人間をひと部分切り取るのが無理なように。


冒頭で紹介した子ども達も、未発達の部分が育ち、自分が確立できると、他人の感情に振り回されなくなります。
自分という主体があったうえで、悲しむ人に共感できる。
そのようなもう一段回進んだ、発達した共感が、行動できる姿へとつながります。
悲しむままは、個性ではなく、発達段階が幼いのです、周りの子が泣くと、一緒に泣き出す幼児のように。


不登校→診断→支援→障害の保全→生きづらさは変わらない、の無限ループ。
私はつくづく「どうして生きづらいままの人が、他人のため、社会のために、個性、資質を活かすことができるだろうか」と思います。
ですから、特別支援を見ていると、「子ども達の資質を伸ばそう!活かそう!」と、真剣に考えていないように感じます。


ある学生さんが、支援者から「その嗅覚過敏を活かして、匂いに関する卒業研究をしたらいいんじゃない」と助言されたそうです。
でも、その学生さんは、こう言っていました。
「私は嗅覚過敏で苦しんでいるのに、どうやって、それを使って研究ができるといえるのでしょうか」と。
過敏を活かすにしても、それに圧倒される段階から、しっかり自分で掌握できる段階まで発達しておくことが必要ですね。
個性も、資質も、磨いてナンボ、育ててナンボ。
行動が伴って初めて、長所、素晴らしい個性、資質だといえるのです。

2019年11月11日月曜日

「障害ゆえに生きづらい」と「生きづらいゆえに障害」という連想

誤学習ランキングをつけるとすれば、「発達障害ゆえに生きづらい」が上位に食い込んでくると思います。
面談でお話ししていると、「それって、発達障害、関係なくね」と思う場面がよくあります。
「私は発達障害だから勉強ができないんだ」
「僕は発達障害だから、みんなに嫌われる」


詳しくお話をきくと、同じ勉強方法にこだわっていたり、そもそも勉強していなかったり。
周囲の人達は、発達障害を嫌っているのではなく、迷惑行為を嫌っていたりする。
「そんなことをしていたら、発達障害じゃなくても、嫌われるよね」ということがあります。
失敗や嫌われるにしても、因果関係が掴めていない。
ゆえに、また同じミスを繰り返す、の無限ループ。


因果関係が掴めないのは、情報が読みとれない、空気感が捉えられない、という本人側の理由が考えられます。
まあ、これが「発達障害ゆえ」と言われたら、そういう面もあるでしょう。
しかし、こういった部分は脳の機能障害ではなく、感覚系の未発達。
ですから、育てれば発達するし、感覚的にわかるようになる。


感覚系に未発達がある→情報が読みとれない、となると、頭先行で物事を捉えてしまいがちになります。
そこに脳の余白がないと、先着一名様の思考と重なって、特定の考え方に縛られてしまう。
それが「発達障害ゆえに生きづらい」という考え方(?)文言(?)スローガン(?)


本やネット、メディアなどでは、「〇〇ができない」「〇〇で失敗する」という具合に、ネガティブワードで溢れています。
そもそも診断基準の記述が、そのような「できない探し」で構成されているので無理もありません。
因果関係は載っていないで、「〇〇ができない」という文言ばかりなら、「発達障害=できない」という図式が出来上がってしまいます。
本当は、できないことよりも、「何故、できないか?」が重要なのに。


当事者会に行けば、形式的な自己紹介後は、「今、困っていることは何ですか?」と、みんな、困っていること大前提で会が進行していく。
その困っていることは、悩んでいることは、同世代の人達も同じように悩んでいるかもしれない。
そういった視点が持てなければ、当事者会は「同じ悩みが共有できた」という心の軽さよりも、「発達障害は、あんな困難も、こんな困難もある」という心の重さが増すばかり。
だから、当事者会を居場所にしてしまう人達は、ますますその重みで身動きがとれなくなるのだと思います。


愛着障害のある支援者は、自分が必要とされているという実感を得続けたいため、発達障害の人達には、心のどこかで、ずっと生きづらい存在でいてほしい、と願うもの。
ですから、その生きづらさをどうにかしようと思うよりも、その生きづらさに共感し、想いを受け止めようとする。
それが結果的に、当事者の人達の生きづらさの固定化につながります。
その生きづらさに、真っ正面からぶつかろうとする支援者は少ない。
「できることを活かして」「長所を活用して」は、問題の本質から逃げるための綺麗事。


さらに本人たちにとっては、家庭さえも生きづらさを強化する場にもなります。
当事者会同様に、親の会も、よろしくない。
聞けば、それは単なるわがまま、しつけの問題でしょ、というのも、会のルールなのか、誰も指摘しない。
指摘するような人がいたら、あとから「あの人も、自閉入っているよね」と言う始末。
「苦しいのは、うちだけじゃない」というような決して心をラクにしない確認をするために通い、家に帰れば、あらゆる困難を「障害ゆえに」と割り切る。
でも、そういった視線、態度、子育ては、本人にも伝わるもの。
ある若者は、「親の会に行って帰ってきた後の親がイヤ」と言っていました。


厳密に言えば、その生きづらさの正体は、どのくらい障害が影響しているか、なんてわかりっこありません。
ただ確実に言えるのは、生きづらさを感じている主体がいて、生きづらさが存在しているということ。
そして、同じ場所、同じことを繰り返している限り、その生きづらさは軽くならないということ。


その会に参加し続けて、現実の問題は解決したのでしょうか。
その支援者の支援で、その施設の療育で、自分の生きづらさは薄れていったのでしょうか。
生きづらいと訴えている人に、「その生きづらさがあなただ」「生きづらさばかりではなく、良い面を」と言うのは、支援しているといえるのでしょうか、その人は職責を果たしているといえるのでしょうか。
生きづらさが変わらないなら、そこは、あなたの場所ではない。


いろんな悩み事もそうですし、二次障害のエピソードなんかもそうですが、それ自体は誰にでも生じることだと感じます。
では、発達障害を持つ人は、何が違うのか。
私は、土台の脆さだと感じます。
結局、その出来事以前に、日頃から身体がしんどい、感覚刺激に圧倒されている、季節や環境の変化に翻弄されてしまっている、疲れから回復しづらい、というような生き物としてのしんどさがベースにあり、そこにネガティブな出来事が重なると、より生きづらさ、心身の不調へと繋がるのだと考えています。


人生、生きていれば、困難、ネガティブな状況と出逢うなんて当たり前です。
それは発達障害の有無に関わらず。
環境や未来の出来事はコントロールできないけれども、ベースにある日々のしんどさは改善、治すことができます。
特に、それが未発達だったり、発達のヌケだったりすれば、育てなおすことができる。
そのために、行動すること、何かを変えることが大事です。


「発達障害ゆえに生きづらい」というメッセージの一番の問題は、本人、周囲の動きを止めてしまう点にあると思います。
だって、思考停止でしょ、この言葉、この言葉の持つニュアンスは。
「あなたには発達障害がある。ゆえに生きづらさがある。しかも、その生きづらさは生涯変わらない」
そんなメッセージを長年受け続けていたら、行動を起こす気力が失われていくのも当然です。
その行き場を失った絶望感が、無駄に社会に向けられ、社会や困難がなさそうに見える人へぶつけられていく。
そういう人が嫌われ者になるのは仕方がないことですし、それは障害ゆえではありません。


以前、関わった若者が、「身体がラクになったら、いちいちネガティブな出来事に乱されなくなった」と言っていました。
だから、生きづらさは固定化されたものでも、障害特性でもありません。
夏に会った不登校の子は、緩い便から変わり、普通便が出るようになったら、自ら学校に行くようになりました。
やはり生き物としての土台が整うと、ストレス、刺激にも耐えられるようになるものです。
「障害ゆえに生きづらい」は、「生きづらいゆえに障害か?」という連想で打ち消すことができるのです。

2019年11月8日金曜日

強度行動障害と排便

施設では、管理栄養士が365日、朝昼晩のメニューを考え、それが提供されていました。
メニューに自由はありませんでしたが、偏り、過不足なく、必要な栄養が得られていたので、ある意味、同世代の大人たち、子ども達よりも、健康的な食事だったといえます。


そんな考えられ、健康的な食事が毎食摂れていたのにも関わらず、入所されている人達の多くは、排泄面で課題を抱えていたのです。
便秘の人は多かったですし、便が緩い人も多かったです。
当時、「どうして、こんなにも栄養バランスが整った食事を続けているのに…」とよく思いましたし、同僚とも話をしていました。


強度行動障害の人達は、精神科薬を服用していました。
ですから、当時は「精神科薬の副作用だろう」と捉えていましたが、今振り返ると、やはり内臓系の発達の遅れがあったのだと思います。
それは、新入所として入ってくる子ども達にも、排泄が未自立な子が多かったから。


排泄の課題の根っこを辿っていけば、幼少期からの排泄の課題、また排泄の自立がなかなかできない、という姿が見えてきて、さらに進めば、運動や感覚面だけではなく、内臓の発達の遅れとつき当たる。
精神科薬の束と、内科の薬の束が同じ高さくらいだったのが印象に残っています。
精神科薬を服用する前から、ずっと排泄の課題を抱えてきた、という人が多いのだと感じます。


便秘の人は、多動性が強かった。
便が緩い人は、衝動性が強かった(ちなみに、便が緩い場合、未消化物が多い)。
行動障害が激しい人は、排泄面で課題が多く、排泄の課題が大きい人は、行動障害が激しかった。
こういったのは、施設職員なら感覚的に理解しているような気がします。
排泄に課題がある人は特に、便の状態を確認することが、私達の大事な仕事の一つ。
なかなか健康状態を訴えることができない人も多かったので、排泄の状態は、体調の変化にいち早く気づくために重要な情報でした。
ですから、行動障害を持つ人や、知的障害、発達障害を持つ人の中には、排泄の課題を持った人が多いことがわかります。


またまた今思えば、行動障害を視覚支援や賞罰などで制止、改善しようとするだけではなく、「排泄の課題をクリアする」という視点があれば、内側から良い変化が得られたのではないか、と思います。
「他害を治す」と思えば、時間もかかるし、身体的、心理的な負担も多くなります。
「いつか治まるのだろうか」なんて思いながら過ごしていると、そのいつかが来る前に、「精神科薬で抑え込む」という誘惑にかられることがある。
ここの気持ちのせめぎ合い、揺れは、どの施設でも、職員でもあると思います。


でも、「他害を治す」のではなく、「排泄面を改善しよう」であったら、生活を共にする支援員たちはアイディアもあるし、前向きにもなれる。
ということは、今、発達に課題がある子を育てている、他害等の気になる行動がある子を育てている親御さんなら、将来のリスク、または今起きている気になる行動を治すことができるのではないか、と思うのです。


私は施設職員として、多くの発達障害の子ども達、大人たち、そして強度行動障害を持った人達の生活支援を行ってきました。
そのとき、排泄に課題がある人達が多くいました。
今でこそ、「腸は第二の脳」「腸と脳は繋がっている」と言われていますが、当時の私にはわかりませんでした。
もちろん、最初に「内臓の未発達」という視点を与えてくれたのは、栗本啓司氏の著書『自閉っ子の心身をラクにしよう!』です。


親御さんなら、子どもさんがまだ幼いうちなら、排泄の状態をチェックすることは自然なことですし、内臓を育てることも家族が行いやすいと思います。
排泄の課題は、後々の心身状態、行動に影響を及ぼす可能性があるといえます。
なので、トイレットトレーニングというよりも、「どうやったら、気持ちよく、排泄ができるだろうか」という視点で、食事から、運動から、内臓を育てていってもらえたら、と思います。
まさに「快食快眠快便」が整うことが、重要な発達援助であり、大切な子育てだといえます。

2019年11月7日木曜日

本人が治そうとするその日まで

私は、良い縁に恵まれているな、と思うことが多々あります。
先日も、「仕事が続けられています。新しい仕事を任されました!」というような報告をいただきました。
そして今日も、「仕事が決まりました。一般の人として」という喜びの報告があったところです。
メディアやネットでは、生きづらさ120%の大人たちばかり登場しますが、ご縁があるのは前向きで、頑張っている若者たちばかり。
本当にありがたいことだな、と思っています。


私は、そんな大人の方達と接するときと、子どもさんとその親御さんと接するときで、相談、援助の方向性を変えているところがあります。
それは、治せるところ、未発達&ヌケを、すべて言うか、聞かれるまで言わないか、という違いです。
お子さんの場合は、特に親御さんに対して、そのセッションの間で気がついたこと、確認できたことを余すことなくすべて伝えるようにしています。
もちろん、後日の報告書においても、より詳しく、考えられることはすべて記述します。


一方で、当事者である若者たちに対しては、基本的に尋ねられるまで、相談があるまで、私からは言わないようにしています。
何故なら、育てる立場ではなく、育てる主体であり、選択する主体だからです。
どこを治し、どこを育てるか。
もっと言えば、どう生きるか、は本人の考えと行動によって決められるものであって、他の誰からも侵略されてはいけないものだと、私は考えているのです。


仕事をしている人、自立して生活している人。
そのような若者たちであっても、すべての発達課題がクリアされているわけではありません。
と言いますか、発達課題は人生全てをかけて育て、治していくものなので、未発達やヌケがある状態が自然なのです。
それこそ、生涯が「発達期」


たとえ、未発達やヌケ、発達課題が残っていたとしても、社会生活が送られていれば良いわけで、悩みや生きづらさを抱えつつも、「今日一日頑張って、ちゃんと休息して、また明日元気に活動できる」で良いのです。
ゲームの世界とは異なりますので、すべての課題がクリアできた人から、次のステージへ、みたいなことはありません。
大なり小なり、すべてのヒトが、未熟さを抱えつつ、社会生活を営んでいる。
それが実社会というものです。


本人と出会った際、「ここを治せば、もっと生きやすくなるだろう」と感じることがあります。
でも、本人が今の状態で、とても前向きに、社会生活が送られているのなら、それで良いのではないか、と私は思うのです。


「まだまだ未発達、発達のヌケを多く抱えている。
でも、本人はとっても明るく、幸せそうに生きている。
それは今日この日が来るまで、何倍も、何十倍も、多くの未発達、ヌケ、課題を抱えていたのだろう。
それを一つひとつ育て、治してきたからこそ、今、幸せな雰囲気が出ているんだ」
こういった連想が、私がお節介な支援者になるのを止めてくれています。


成人した人に関しては、治すことよりも、本人の充足感だと思っています。
治すことの優先順位は最上位ではありませんし、すべてを治す必要はありません。
しかも、治すのは本人の選択と意思によって。
それに今、治さなくても、時期がくれば、そのとき、治せば良いのだと思います。


子どもの場合は、親が、家庭が、育つための一番の環境になります。
ですから、すべて伝えます。
より良い子育てのために、材料は一つでも多い方が良いから。
いつか、本人自ら育てよう、治そうとする、その日まで試行錯誤は続きます。

2019年11月6日水曜日

一方的な配慮ではなく、お互いに配慮し合う社会へ

「治らないから、”障害”なんだ!」と言われる人がいます。
確かに、身体などに障害を持った人たちは、そうかもしれません。
しかし、そもそも発達障害というのは、そういった確認できるような障害でなければ、何かが欠損しているような障害でもありません。


もし、発達障害と呼ばれる人達が、「神経が欠損している人」または、「神経発達が生じない人」ということを指しているのなら、発達障害は治らないし、治らないから障害だといえるでしょう。
でも、実際は発達障害ではない人と同じように、身体全身に神経が張り巡らされていますし、刺激によって神経同士が繋がっていくという機能も持っているのです。
違いがあるとすれば、その神経同士の繋がり方。


「この月齢なら繋がっているだろう神経ネットワークができていない」
「最も盛んな時期を過ごしているはずなのに、神経同士の繋がりがゆっくりだ」
すべての神経同士は、お互いに関連し合っていますので、発生初期から誕生後すぐの時期に生じるべき神経ネットワークが築かれなければ、それ以降の発達に影響が出ます。
これが発達のヌケ。
栄養不足や刺激の偏りによって、神経ネットワーク作りに滞りが生じれば、それが発達の遅れとなって、表面化するのだといえます。


発達のヌケや遅れがあるからといって、それが即、障害にならないのは、昨日、記した通り。
子どもなら子どもの、青年なら青年での、大人なら大人での、社会生活が支障なく、営まれていたのなら、発達の凸凹、違いは問題にならないのです。
ちなみに、どんな人にも発達の偏り、違いがあるのは当たり前であり、それと同じように、悩みや苦労のない人などはいませんので、社会生活に”まったく悩み、苦労がない”ではなくて、”支障がない”という表現になります。


じゃあ、「発達障害を治す」という表現を使わなかったとしても、共に生活している我が子に”支障”が生じたら、それを取り除こう、治そうと思うのは、どの親御さんでも一緒だと思います。
社会生活を送るのに支障となっているものの根っこを辿っていけば、神経発達に繋がります。
だったら、その神経発達を後押ししよう、運動、栄養、環境、遊び、家族の育みによって。
これは自然な親心であり、発達障害を治そうとするのは当然です。
どこの世界に、我が子が苦しむ姿を見て、「そのままでいなさい。それが個性だから」という親がいるというのでしょうか。


「発達障害を治す」に抵抗感を持つ人というのは、その意図を深く理解していない人、理解しようとしない人だと感じます。
特に、反射的に拒否反応を示している人が多いような印象を受けます。
そういった人は、「治す」から「矯正」を連想し、「発達障害でなくなる=普通の人になる」と思っているようです。


私も小さい頃には、散々叱られたものです。
そんなとき、親からは、「どうして普通にやらないの」「普通、そんなことしないでしょ」というような表現で叱られたこともあったでしょう。
でも、そこで用いられている”普通”は、「普通になれ」という意味ではなく、ただの叱り文句の一つ。
こういったのは、子どもでも、瞬時にわかるものです。


でも、中には、それを真っ正面から受け止める、字義通りに捉える、といった弛めない身体、察することの苦手な身体、意図や行間を想像するのが難しい脳を持った子もいたと思います。
そういった子どもが大人になり、家族ができると、似ている子どもが生まれる。
そんなとき、「発達障害を治す」という言葉と出会うと、その言葉、発信者の意図を理解しようという前向きな行動よりも、「普通になれなかった”自分”」「普通という言葉に息苦しさを感じていた”自分”」が思いだされ、反射的に拒否反応を示すのだと感じます。
それこそ、普通、我が子が困っている状況で、他の家族、お子さんで良くなった、治ったと聞けば、「どんなものだろうか」と興味関心、前向きな行動が生じるものです。


「発達障害を治す」という言葉に、必要以上に拒否反応を示し、執拗なまでにその言葉を打ち消そうとする人達というのは、「あなたこそ、まず治った方が良い」と感じる人です。
つまり、日々、生きづらさを感じ、社会生活がままならないくらい困難と支障がある人。
昭和、平成と学校生活を送ってきた世代は、現代よりも強く「同じ」が求められた人達。
さらに、まだ家の文化がある地方で育った人なら、余計、同じこと、はみ出さないことを求められ育ってきた。
そんな時代に生きた30代以降の大人たち。


診断を受けることなく、ずっと生きづらくて、ずっとみんなと同じようにできなかった。
「みんなと同じように、普通にやれ」と叱られ、何度もやり直しさせられた。
「発達障害を治す」という言葉は、「今の自分ではダメなんだ」という息苦しさと、望んでもなれない「普通」への強迫性を思い起こされる。
そうです、彼らに必要なのは、トラウマ処理。
言葉以前の問題を抱えている人に、言葉で説得、理解、やりとりをしようとしても、それは無理な話。


「発達障害を治す」という言葉をどうしても受け入れられない、反射的に拒絶してしまう人達がいるのは仕方がないことです。
大事なのは、今、より良い社会生活を送るために頑張っている人と、これからの社会を担っていく子ども達。
将来の社会を担っていく子ども達が、社会生活を送る上で支障が出ているのなら、それを治すのは、親の役目であり、大人たちの責任です。


ますます社会は、多様性のある社会へ変化しています。
文化や思想、考え方が異なる人達と共に歩んでいく社会です。
そんな社会で生きていくとき、「私には発達に凸凹があって、配慮してほしいんです」と言って、どれほどの配慮を得られるでしょうか。
きっと、今の子ども達が生きていく社会は、一方的な配慮ではなく、お互いがいろんな場面で配慮していかなければ、生きていけない社会になると思います。
発達の違いも、文化、思想、考えの違い、と同列になる。


ですから、大切なことは、社会に出ること。
そのために、社会生活を送る上で支障になる部分を治しておく。
発達の凸凹も、社会の中に入ってしまえば、目立たぬ違い、と言いますか、みんな、発達の凸凹は持っているのです。
子どもが、社会生活を送るためにできることは、身近に、家庭の中に、子育ての中にたくさんあります。
そうやって、多くの若者たちが治り、社会に出て行っています。
彼らに凸凹は残っていますが、今日も、自分の資質を、自分のために、社会のために活かして、社会生活を営んでいます。

2019年11月5日火曜日

治すのは、より良い社会生活が送れるために

「発達障害が治る」と言うと、すべての困難が治り、普通の人になることをイメージされる方が多いと感じます。
しかし、「普通の人になる」というのが治るだとしたら、それは不可能です。
何故なら、普通の人などいないからです。


一人ひとり遺伝子は異なりますし、その遺伝子がどのタイミングで、何が発現するか、しないかは環境側が握っています。
当然、発達の仕方も、学習の仕方も、生まれたあとの環境によって違いを生みます。
同じような時代、環境の中で生きた人間でも、一人として同じ人間はいません。
つまり、定型発達と呼ばれる発達の順序があったとしても、偏りもあれば、バリエーションもありますので、どの人も個性的で、発達に凸凹、違いがあるといえるのです。


「じゃあ、発達障害が治るって何だよ」という疑問が生じます。
その疑問に答えるためのポイントは、『障害』という言葉、概念です。


発達障害、もっと丁寧に言えば、神経発達の障害であり、神経発達に遅れがありますよ、ということ。
でも、神経発達に遅れがある子は少なくありません。
乳幼児健診でも、指標となる行動と月齢がありますが、発達には幅があるという前提がありますので、月齢よりも発達が遅れていたとしても、すぐに問題にはなりませんし、当然、障害にもなりません。


神経発達が遅れていても、あとから追いつけば良いのですし、遅れたままであったとしても、社会生活に支障がなければ問題ありません。
そもそも個々の神経を詳細に調べることはできませんし、健診等でも、それこそ、発達障害の診断でさえも行えないし、行っていません。
発達障害と無縁と思われる人、いわゆる定型発達で育ってきた人の中にも、知られていないだけで神経発達の遅れや、一般的な神経同士の繋がり方とは異なる人もいるはずなのです。


そこで、『障害』という言葉、概念です。
発達障害、神経発達障害などと言われていますが、本当に神経の発達が遅れているか、そこに不具合が生じているか、は確認しているわけではありません。
つまり、「神経発達に遅れ→社会生活に支障」ではなく、「社会生活に支障→神経発達に遅れ“だろう”」ということ。
よって、障害の有無は医学的、生物学的、神経学的に決定しているのではなく、社会生活に支障があるかないか。


世の中に、変人、変わった人はごまんといます。
かつては、総理大臣にもいました。
と言いますか、あなたも、私も、隣にいる人も、ご近所さんも、変人だらけ。
何も個性のない典型的な普通の人を見つける方が苦労します。
ヒトの神経発達に多様性があるからこそ、世の中、変人に溢れている。


「発達障害を治す」というのは、変人を普通の人に矯正することではありません。
社会生活に支障をきたしている原因に対処する、改善する、治していく、という意味だと、私は考えています。


社会生活に支障をきたさないように、サポートしよう、物理的にも、心理的にも、金銭的にも。
そういう考え方、選択肢がありますし、今の特別支援、発達障害を取り巻く環境は長らく福祉リードで発展してきたため、色濃く残っています。
ですから、本人が変わるよりも、周囲が、環境が変わろう、配慮しよう、という流れ。
それにプラスして、「長所を活かす」「個性を伸ばす」という教育が加わると、できないところはそのままで、配慮で、可能な部分を使って適応力を上げよう、となります。


こういった特別支援教育は、個性的な人達を育てていきました。
でも、社会の中で自立して生きていける人を多く育てられたわけではありませんでした。
早期に診断を受け、早期から療育と支援を受け、特別支援教育で育ってきた若者たちの中には、18歳以降の長い人生を福祉の中で、また福祉作業所にも週に1回くらいしか通えない人、卒業後、自宅待機という人もいるのです。
「できるところを活かして適応力を上げる」には限界があるといえます。


社会生活に支障をきたしている原因は、確実に本人の内側に存在しています。
ですから、支援でも、教えるでもなく、“治す”なのです。
感覚過敏は、社会生活の営みに大きな影響を及ぼします。
いくら能力があったとしても、環境からの刺激に右往左往していたら、学業も、仕事も、生活もなりゆかない。
ですから、未発達である感覚を育て、刺激を受容する身体を整え、感覚過敏を治していく。


子どもにとって、幼稚園、保育園、そして家庭はリッパな社会です。
その中で思いっきり遊べない、友達と交流が持てない、同じような体験ができないとしたら、それも社会生活に支障あり、といえます。
神経発達が最も盛んな時期に、遊べないのは子どもにとって大きなリスクです。
そういった子ども達の多くは、胎児期から2歳ごろまでの間に、抜かしたこと、少ししかやらなかったことがあります。
吸う力が弱くて、母乳をあまり飲めなかった。
ハイハイを飛ばして、立ってしまった。


古今東西、ヒトは同じような発達段階を踏みます。
もちろん、個人差がありますし、子どもによっては、ある発達段階を飛ばしても、問題なく社会生活が遅れている子もいます。
でも、あとからでもやり直せるのなら、抜かした運動発達をやってみる、育てなおしてみる。
600万年におよぶ人類の歴史の中で、脈々と続けられてきた運動発達。
発達の遅れも、ヌケもあることが問題なのではなく、障害なのではなく、そのままにしておくことが問題で、障害になる可能性が高いといえるのです。


「栄養で発達障害を治す」というのも、人によっては正しい治し方になります。
栄養の偏り、不足によって、脳や身体にエネルギーがまわらない。
結果的に学習や運動、発達に影響が出て、社会生活に支障が出る。
社会生活に支障が生じれば、障害になりますが、その原因の根っこが栄養なら、食事の改善で発達障害は治っても不思議ではありません。
同じように、脳の準備が整っていない段階からの文字教育、知識偏重な指導、過度なメディア視聴が心身の発達に影響を及ぼし、結果的に社会生活に支障をきたしているのなら、それらを排除することが発達障害を治すことに繋がるといえます。


変人だから、社会生活に支障があるのではなく、発達の遅れやヌケをそのままにしておくから、心身の発達に影響を及ぼす状態をそのままにしておくから、結果的に社会生活に支障が出るのです。
社会生活に支障がない状態まで、どうやって育てていくのか。
これは、お子さんを持つすべての親御さんに共通した視点、考えです。


快食快眠快便を整える。
基本的な生活習慣を身につける。
発達に遅れがあったら、やらなくていいの?
いや、そうではなく、これらをきちんと整えるのは、社会生活を送るための土台です。
同じように、発達の遅れや抜かしている部分があれば、あとからでもやり直し、育て直していく。
発達の遅れ、ヌケをそのままにしておかないことが、社会生活に影響を与えるリスクを減らすことに繋がります。


発達障害を治すのは、変人を矯正することでも、発達の凸凹をまったいらにすることでもありません。
より良い社会生活が送れるように育てること。
社会生活に支障が生じている原因の部分を改善、治していくこと。
いわゆる自閉脳でも、超個性的でも、奇人変人でも、脳に凸凹があったとしても、本人が社会の中で伸びやかに暮らし、生きていければ良いのです。
そのために治すのは、本人そのものではなく、内側にある生きづらさの根っこ。
根っこなら育て、治していくことはできます。

2019年11月1日金曜日

正常と異常の判断は、どうやるの?

支援者の腕の見せ所が、正常と異常の判断だといえます。
その言動は、その子の発達は、正常なのか、異常なのか。
異常と見えるような事象でも、正常発達における個人差、発現のパターンだったりします。


母子手帳や育児書などには、この月齢はこんなことができる、こんな様子がみられる、という情報が載っています。
新生児、乳幼児、子どもの発達は、世界各国で研究されていますし、だいたいどこの国でも同じような発達パターンを辿ります。
いわゆる、その共通する発達パターンが定型発達と呼ばれるものです。
一方で、発達障害の子ども達は、その定型発達から外れたり、異なるパターンを辿ったりします。


しかし、定型発達のパターンから外れた、その通りに進まないからといって、すべてが発達障害になるわけではありません。
「この月齢ではこの運動」というような大体の目安はあったとしても、個人差がありますので、それよりも早い月齢でできたり、遅い月齢でようやくできるようになることもあります。
発達に関しては、早ければ良いものでも、遅ければ悪いものでもありません。
重要なことは、飛ばさず、ちゃんとやり切ること。
たとえ他の子ども達より遅れたとしても、やりきり、発達課題をクリアすればよいのです。


親御さんは、この子の言動は、正常なのか、異常なのか、その判断で迷い、悩まれます。
でも、その悩みに拍車をかけているのは、近くにいる支援者、専門家だと感じるのです。
ここ数年多いのが、達成する月齢から少しでも遅れようなら、「発達障害では」と言う支援者の存在。
面談し、お子さんの様子を確認すれば、ただの個人差の範疇というのに、それが発達障害の疑いとなってしまう。
もちろん、発達の指標は、障害やリスクがある子を見抜くためのものではありますが、そこから外れたら、即、発達障害ということではないのです。
あくまで、そういった可能性に早く気付き、経過を丁寧に見ていきましょう、という話です。


啓発活動の成果によって、発達障害が身近なものになり、できるだけ早く見つけるのが、そして支援に繋げるのが良いことである、というような認識が広がったような気がします。
その結果、発達の意味を深く理解し、学ぶことなく、流れ作業のように発達のリスク、障害というレッテルがつけられるようになりました。
何か一つでも異常な部分を見つけると、すぐに発達障害となる。
私のイメージですと、障害名を早くつけ、支援に繋げるために、異常を見つけている、といった感じです。
早期から支援を受けることで助かった子もいれば、早期から支援を受けたばっかりに、障害者っぽくなった子がいると思います。


1つの項目で異常な部分があったからといって、部分的に異常があったからといって、発達障害にはなりません。
よくあるのが、「ASDと診断されました」という子に言葉の遅れなど、1つの症状しか当てはまらないケース。
ASDと診断されるには、他にも社会性の部分や、いわゆるこだわりの部分での異常も複数確認される必要があります。
でも、他が見当たらない。
よく良く聞くと、こだわりと判定された部分は、ただの興味関心だけだった。
社会性の部分は、言葉が遅れていることによるものだった。
結局、部分から障害を判断しようとすると誤りますし、障害名をつけること、「この子に障害がある」という前提から見れば、個人差、個別の表現パターンをも、障害として捉えてしまうのです。


実際はもっと詳細かつ多面的に確認していきますが、私が面談、セッションするときの正常、異常の判断の仕方です。
まず定型発達から外れている部分を確認します。
その外れている部分が、1つ、全体から見て部分的なら、それは個人差、個別の発達パターンとして捉えます。
ある発達が異常でも、それ以外の発達が正常なら、正常、問題なしの可能性が高いといえます。
また、異常な部分が複数あったとしても、発達には順序がありますので、そのすべてを辿っていくと、1つの異常と突き当る、つまり、異常の根っこが同じだとしたら、それも障害というよりも、個別の発達パターンだと捉えることができます。


他にも、親御さんが子ども時代、同じような発達の仕方をしているですとか、脳や身体などに機能的な障害がないですとか、本人が困らず社会生活が遅れているですとか、そういった面が確認できれば、通常の子育てで問題ないといえます。
と言いますか、個人差ならもちろんのこと、部分的な発達の異常、根っこが同じである複数の発達の異常なら、一般的な子育て、自然な中で、同世代の子ども達と一緒に活動していれば、自然と追いつき、普通の生活が送れるようになるもの。
発達の遅れ、ヌケは、支援では埋まりませんので。


結局のところ、母子手帳等に載っている発達の目安は、リスクを見つけ、丁寧に経過観察をしていくためのもの。
決して、障害の有無の判断に使われるものではありません。
障害か、異常か、正常かは、何故、その言動が現れているのか、丁寧に多角的に見ていかなければわからないものです。
「言葉が遅れているから自閉症」ではなく、「どうして言葉が遅れているのだろうか?」「それは以上なのだろうか、個人差なのだろうか?」「環境の影響は?神経発達の状態は?家族歴は?他の発達の部分は?」など、全体を通して、また私が繰り返し使っている受精から現在までの発達の流れ、ストーリーを見なければなりません。


発達障害が知れ渡るということは、それだけ「発達障害」という言葉、概念が軽くなったように感じます。
「どうして、あなたが」というような人が、他人様の子どもさんに「発達障害じゃないですか?」「一度、病院に行かれた方が良いですよ」「早く支援を受けなきゃ」「お母さん、障害受容できていないから」などを軽々しく言ってしまう。
その言葉は、親御さんにとって、そのときだけではなく、何年も、それこそ、子どもさんが正常発達になったとしても、心の傷、重みとして残り続けるものです。
普通に勉強し、実践している者からすれば、その認識は誤りである、個人差、個別の発達パターンだというものが、安易な「障害」という言葉から親御さんがそうだと思い込み、我が子を障害児として育てようとしてしまう。
その結果、同年齢の子ども達が得る自然な刺激、経験、体験ができず、発達が偏る、遅れる、知的な障害ができてくる、ということもあるのです。
それだけ「障害」という言葉、概念には重みがあり、子どもや家族の人生をも変えてしまう威力があります。


ある発達、1つの項目に異常があったとても、他が普通に育っていれば、問題ありません。
それは神経発達、ネットワークの表現型の一つです。
大まかな発達の流れは決まっていますが、発達のパターンは個人差が大きく、環境からの影響を大きく受けるものです。
友達と遊べなくても、心身共に健やかに育っているのなら問題なし。
言葉が遅れていても、運動発達が順調に進んでいるのなら、あとから育つ可能性がある。


子どもが少なくなったのと、気軽に情報がたくさん得られるようになったのと、ギョーカイが発達障害を軽くしたおかげで、みんなが定型に厳密になり過ぎるようになっただけ、こだわり過ぎるようになっただけ。
発達は、神経発達の表現型は、子どもの数だけあるのです。
「早く見つけ、早く診断を受け、早く支援を受ける」は、ギョーカイの青田買い。
その言葉を真に受け、部分的な異常で、突っ走ってはなりません。


早産児、未熟児は、発達がずれるのは当たり前。
早期から文字学習、外国語習得、メディア視聴をしていれば、発達のパターンが変わるのは当たり前。
だからこそ、その異常が、本当の異常かを見抜く目が必要です。
その異常の原因がわかれば、根っこが分かれば、発達させることができますので。
部分的な異常は、自然な子育てで育ちます。


 

2019年10月30日水曜日

支援サービスと対価、支援サービスと結果

ある親御さんが、「近頃、ボランティアが集まらない」という話をしていました。
ボランティアが集まらないから、余暇活動がどんどん乏しいものになっていく、ということも言っていました。
確かに親御さんも年齢を重ねていけば、子どものペースで活動に付き合うことが難しくなってくるもの。
でも、この話を聞いて、あたかもボランティアが来ることが前提、当たり前というような話ぶりに違和感を持ちました。


ボランティアは、あくまでボランティア。
ボランティアだって、意思があり、プライベートな時間がある。
しかし、ボランティアが来ることに慣れてしまった人からすれば、来ないのが異常になってしまう。
そういった現状に、「学生のやる気が」「社会の理解が」「障害児の余暇は乏しくて良いのか!」などという言葉が連なってくると、社会が離れて行っているのではなく、自分たちで社会を遠ざけてしまっていると思うのです。


以前、読んだ本に、難民キャンプの子ども達は「貰い慣れ」してしまっているために、自ら行動しよう、向上しよう、現状を抜け出そうという意思がなくなってしまう、という話が載っていました。
各国から、支援団体から食料や衣服、勉強道具、おもちゃまでが届きます。
ですから、貰うことが当たり前になる。
そんな環境に長くいれば、どんどん意欲が失われていくのは想像が難しくありません。
「だから、無条件に物資を与え続けるのはやめてくれ。彼らに必要なのは、モノではなく、教育とチャンスなんだ」というメッセージがあったと記憶しています。


この難民キャンプの話は、上記のボランティアを当たり前に感じてしまう姿にも重なります。
もしボランティアが来ないが前提だったら。
どうやれば、一人で、家族のみで、休日を過ごせるか、外出先で活動できるか、そういったことを考え、新たな学び、成長へと舵が切れたかもしれません。
手を借りるのが当たり前であれば、自立を想像するのが難しくなる。
学生時代、毎日のように余暇支援ボランティアとして活動していた私としても、彼らの余暇を支援していたようで、もしかしたら、彼らが自立する機会を妨げていたのでは、と思うことがあります。


発達障害の子ども達に必要なのは、生活を支援することではなく、学ぶ機会を支援していくこと。
失敗させないように環境を調整し、転ばぬ先の杖になるのではなく、失敗を失敗経験のままにしておかない手助け、転んだ時の差し出す手。
発達の凸凹を受け止める心ではなく、発達の遅れ、未発達の部分を埋める援助なんだと思います。
しかし、ボランティアにしろ、教育にしろ、福祉にしろ、行政にしろ、身体に障害を持つ人達と同じような感じで、生活自体の支援が必要な支援となってしまっている。
だから、本当は自立できるような人、一般的な高校や大学で学べる人、一般の人と同じように働ける人が、幼いときから支援を受け続け、それが子も親も先生も支援者も当たり前になり、どんどん受け身の人間が出来上がってしまう。


「治らないのに、治さないのに、どうして病院に通うんだろうか」
そういった疑問の声が、どんどん大きくなっているように感じます。
一般の人からすれば、治らないものに、どうして多額の税金が使われるのか疑問に思うのは当然だといえます。
症状の緩和、改善のための薬の処方なら理解できますが、中には話を聞くだけの診察で終わっているのもあります。
それがカウンセリングだと言われたら、そうかもしれませんが、傾聴し、肯定し続けるだけだったら、それこそ、ボランティアで良いのではないかと思います。


どんな人でも、少ない負担で医療を受けられるのは、日本の健康保険制度の素晴らしい面だといえます。
でも、少ない負担が当たり前、地域によっては自己負担なしというのが当たり前になってしまうと、意思や目的、また変わろうとする意欲が失われていくように感じます。
以前、高齢の方達が病院の待合室で井戸端会議をしているのが問題になっていました。
治療よりも、通うことが日課であり、余暇になってしまっているとの指摘が。
結局、当たり前じゃない当たり前がもたらした副作用といえるでしょう。


極論ではありますが、治ることを目的としない診療なら、患者負担を増やすべきだと思います。
10割負担になったなら、治さない病院には行かないはずです。
「もし全額負担なら」
そういった視点で選び、行動することが、本人の成長、改善だけではなく、サービス自体の質を向上させることにつながるかもしれません。


サービスを受けたら、対価を渡す。
その対価が高すぎても、低すぎても、良くない結果を招きます。
発達障害に関するサービスにおいては、まずその価値を見抜く目が必要になります。
大前提として、特に子どもなら尚更のこと、何もしなくても発達は進んでいくもの。
ですから、現状維持は「0」ではなくて、「マイナス」という意味です。
盛んな発達期にある子どもが、一年も、二年も、状態が変わらない方が異常です。


また発達しているけれども、緩やかというのも、必ずしもプラスに作用しているサービスだとはいえません。
その子の発達の流れ、ストーリーから見て、同じペースで発達しているのなら、それは単にその子の持つ発達がそのままの形で表れているだけ。
つまり、そのサービスを受けても、受けなくても、変わらないという意味。


よく「発達障害の子も、発達するに決まっているだろう」という人、支援者がいますが、大事なのはその発達のスピードと幅です。
本来持っているその子の発達の流れが、加速した、よりバリエーションが増え、豊かになった。
そのとき、初めてそのサービスに価値があると判断できるのです。
「あの支援者の指導、助言を受けてから、ググッと発達のスピードが速くなったような気がする」
そういった印象が、実際の変化が見られないと、支援者の腕、サービスの質に疑問が付きます。
たとえ自己負担が少なくても、そういったサービスを選択し続けることは、社会の負担を増やしているといえるのです。


発達障害が治る水や数珠、壺などが売らていることがあります。
でも、水で150円くらいなら、治らなくても対価として正しい。
また、こういった類のものが、社会的な問題にならないのは、全額自己負担だから。
これが、一部でも税金が使われていると、大問題になります。


サプリやプロテインは、それ自体に価値がありますし、その対価が販売値となっています。
本も一緒。
私のような民間の支援も、サービスの質、結果に対する対価を貰っているのです。
でも、公的な支援、サービスは話が別。
1割自己負担なら、利用していない人が9割負担しているのです。
それで、現状維持、発達のペースが加速しない、では問題ありです。
傾聴する、見守る、受け入れるだけなら、家族や友人、ボランティアでも担える。


発達障害が治る水も、治さない支援も、結果で見れば、同じ結果。
水なら飲めるが、支援は喰えない。
喰えない支援は、受け身の姿勢、人生につながっていく危険性がある。
支援には、支援を“受ける”という言葉がついてくる。
発達とは、本人の主体性と能動性が必要。
つまり、支援を受け続けている限り、発達も、自立も、成し遂げられないということです。
そう考えると、この15年余り進んできた特別支援の道が正しかったか、否かが見えてきます。
今、子育て中の親御さん達は、この15年間の結果を見て判断ですね。



2019年10月29日火曜日

専門家の土俵ではなく、子の土俵で闘う

初っ端から私のところへ相談に来る人はあまりいません。
ほとんどの方は公的機関に相談し、療育、支援も受け、学校の先生に相談し…という具合に、多くの支援者、専門家と出会っています。
それでも、「なんだかしっくりこない」「もやもやが消えない」という方が情報を集め、辿りついたというのが、大方の流れ。
セカンドオピニオンというよりも、サード、フォース…オピニオンといった感じでしょうか。


支援者や専門家など、多くの他人と関わりを持つのが、発達障害を取り巻く環境の特徴だといえます。
これは、よくある話なのですが、同じ子ども、行動を見ているのにも関わらず、言っていることが支援者によって全然違うということ。


例えば、過敏性があり、学校に行けなくなっているお子さん。
心理系の支援者は、過去の嫌な出来事、引っかかっている言葉が過敏性を生んでいると解釈する。
教員は、クラス内の人間関係になにか問題がないかと考え、同時に家庭生活に問題がないかと推測する。
医師は、起立性調整障害、睡眠障害などを疑い、発達系は、それが障害特性だから周囲の理解環境調整を提案する。
そして不登校メインでやっている人達は、心の休息と受容、プレッシャーを掛けないことの重要性を説く。


これは例え話ではありますが、似た出来事、相談は少なくありません。
結局、自分たちの土俵の上で闘いたいのが、専門家というもの。
ですから、私が再三言っているように、専門家になるほど、治せなくなるのです。
発達とは生き物であり、流れですので、部分を切り取ると必ず誤ります。


本人、親御さんは、サービスの利用者です。
利用する者が、利用される者に利用されてしまうと、問題が大きくなります。
発達の軸が、子育ての軸がブレブレになってしまうから。
「あの専門家が良い」と行ってみる、「この方法が良い」と試してみる。
それぞれの専門性、アイディアは素晴らしいもので、効果があるものだとしても、発達とは一つの段階をやり切ることで達成されます。
子どもさんが、一つの段階をやり切る前に、「次!」となっている家庭があるように感じます。


素晴らしい専門家、英知を集めれば、子どもが治るか、どんどん成長するか、問題がなくなるか、といったら、そういうことにはならないでしょう。
何故なら、知識は知識であり、部分にしかならないから。
「策士策に溺れる」ではないですが、良い情報、アプローチを集めすぎると、子どもが見えなくなる、と言いますか、子どもの発達の流れが掴めなくなります。


専門家の助言がしっくりこないのは、それは本能的に「No」と言っている証拠です。
部分的に見れば、素晴らしいアイディアで効果があるかもしれませんが、我が子の発達の流れからしたら、ズレているということ。
そのズレが、親御さんに違和感となって伝えてくれるのです。
専門家は部分で勝負しますが、発達は受精から今までの流れの中で生じています。


〇番目のオピニオンとして相談に来る方も、そうではない方も、皆さん、まず最初に私が行うことは、その子の発達の流れを掴むこと。
時に、その子の生に繋がっている親御さんの生き方、流れを辿ることもあります。
当然、どのようにこの世に生を受けたか、生まれ出たか、そこが始まりですので、重要なポイントになります。
とにかく、今の発達の課題、問題ある言動だけではなく、その子の生のストーリー、流れを通して事象を感じてみる。
そうすると、どの人物の助言、アイディア、考えが合うかがわかります。
自然なストーリーを描ける人ほど、治すための根っこを掴むのが上手。
親御さんも、その人からの話を聞いて、すっきりする。


親御さんは、支援者、専門家がやりたい支援ではなく、子どもの発達の流れ、ストーリーから見て、今、何が必要で、その自然な流れを邪魔しないのか、加速できるのかを見ていく必要があるといえます。
そうすれば、専門家の手を借りるにしろ、依存することなく、その時々で必要な人、アイディアを選択することができます。


情報が手軽に得られる時代ですし、支援者の専門化がますます進んでいる時代です。
そういった中で、発達に障害のある子どもを育てていく。
どうしても、親も子も、情報過多で、刺激過多になるのは仕方がないことです。
情報がある分、待てなくもなっている。
ですから、常に子どもの発達の流れ、ストーリーの中で子育てをしていくことが大事なのです。


発達を促すための「刺激」というような言葉を使うと、「より良質な刺激を、より多く」という連想を生んでしまいます。
ですから、表現の仕方、説明の仕方を考えないと、と思うこともあります。
同年齢の子ども達と比べて、明らかに情報過多、刺激過多、忙し過ぎになっている子どもさん、ご家庭があるように感じます。
年齢が幼いうちに治った方が良いけれども、徒競走をしているわけではありません。


学校に行き、放課後は児童デイに行き、合間で療育施設、という子ども達にほとんど発達が起きていないのは、刺激の質の問題もあると思いますが、余白がない、流れのリズムが悪いというのもあると思います。
発達も生き物ですから、強弱と揺らぎ、活動と休息が必要です。


関わる多くの支援者との関係に参っている、情報過多で何が良いんだか悪いんだか分からなくなっている。
そういった親御さんには、何もしない、とことん子どもだけを見ることに集中する、という助言をすることがあります。
子どもがやりたいこと、自ら行動すること、熱中することに任せてみる。
そうすると、今、その子にとって、発達にとって必要なことが見えてきます。


ある親御さんは、いつも遊んでいるおもちゃを全部片づけました。
何もない状況を作った。
そして子どもさんは、クルクル回り始めた。
勉強もできるし、同級生と同じような遊びをしていたけれども、実はまだ土台の感覚の部分にヌケが残っていた。
勉強も、遊びも、学習であり、ある意味、教えられた文化です。


専門家は、自分の土俵からしか見ようとしないけれども、子どもは自分の人生という土俵から常に物事を見ています。
また、傍で見ていた親御さんは、子どもの発達の流れ、生きたストーリーを一番知っている存在。
なので、子どもの流れから見て、どの支援者が必要で、どのアイディアが後押しになるか、を選択できます。
もし、発達の流れを見失っていたら、一度、フラットな状態、文化の介入しない状態に、我が子を誘ってみる。
今、必要な発達、刺激を知っているのは本人だけですから。
わからなければ尋ねてみる、専門家ではなく、子ども自身に。




2019年10月24日木曜日

障害として対処した方が望ましいか、定型発達として対処した方が望ましいか

日頃、特別に意識しているわけじゃないのに、できない姿を見ると、障害を感じ、ふとした瞬間に、同年齢と変わらない我が子の姿を見る。
同じ我が子を見ているはずなのに、「障害児の我が子」と「健常児の我が子」の間で揺れ動く。
「本当は、どっちなのでしょうか」
そんな心の叫びに近い質問、相談を受けることは少なくありません。


発達障害は、障害という言葉が使われていますが、明確な線引きができるようなものでも、実態として具体的に示されるようなものでも、ありません。
神経発達の障害ですから、当然、不具合がある部分もあれば、同年代の子ども達と何ら変わりのない発達を遂げている部分もあります。
むしろ、正常な部分が大部分であり、定型発達の人と何が違うかと言えば、その不具合が発達の初期に起きたかどうかだと思います。
脳の深部、神経発達の初期、土台となる部分に生じるがゆえに、それ以降の発達、神経ネットワーク作りに不具合が生じるのでしょう。


身体障害、遺伝子の障害など、すべての障害を一括りにすれば、発達障害は軽微な障害の側に位置するといえます。
また、さらに発達障害のみで括り、考えてみると、軽度やボーダーなどと言われているグレーゾーンの人達は、限りなく定型発達側に存在するといえるでしょう。
それこそ、つい10年前、20年前までは、普通の人達でした。


グレーゾーンと呼ばれる人達は、定型発達側から見れば、普通の人、ちょっと変わった人。
一方、障害側から見れば、少ないけれども、困難を抱えた障害を持った人。
発達障害と定型発達の間に位置する、また重なり合う部分にいるグレーゾーンの人達は、どの視点から見るか、捉えるかによって、ある意味、障害者にもなるし、健常者にもなる。
当然、その見え方が、親御さん、先生、支援者の子育て、指導、援助に影響を与えます。


2000年以降、アスペルガーブームに乗じて、グレーの人達も、障害を持っている人達として支援対象にしよう、という動きができました。
つまり、「障害側からグレーゾーンの人達を見よう」という動きです。
それによって、早期診断が押し進められ、どんどん支援対象の子ども達が増えていきました。
子育てよりも療育、指導よりも支援。
支援を受けることが権利になっていけばいくほど、本人たちからしたら支援が義務のようになってしまったように感じます。
放課後、否応なく、校門前に並んだ車に乗せられていく子ども達の姿を見れば、もう一つの義務教育か、なんて思ってしまいます。


大学を卒業するような若者たちが、障害者枠で働き、また福祉的就労をしている人達までいる。
同じような大学を卒業した人達が、一般就労で貰える金額と比べれば、その差は歴然としています。
当然、その人の人生設計も大きく違うはずです。
しかも、一度、障害者枠、福祉的就労で働けば、それは履歴として残り続けます。
当地のような地方なら、そういった情報はすぐに知れ渡るため、一般企業に転職しようにも難しくなる。
私が関わった若者たちの中にも、当地を飛びだし、自分のことを誰も知らない土地に行った人達がいます。
どうして前科者のように、人目を忍んで、知らない土地に行かねばならないのでしょうか。
必要だったのは、部分的なサポートだったのに。


グレーゾーンの人達を障害側から捉えることによって、必要な支援、援助を受けられた人もいるでしょう。
一方で、障害側から捉えられてしまったばかりに、必要ではない支援を受け、結果として同年代の子ども達が得られていた学習機会、経験、体験ができなかった子もいるはずです。
問題なのは、障害側からの視点が強調されすぎてしまったばっかりに、普通の子として育てようとする行為が、よくない子育て、教育をしているように見られてしまうこと。


グレーゾーンという概念は、困っている人達にとっては助けになる。
でも、本当に助けが必要だったのか、本人が求めていたのか、と疑問に思う子ども達の存在があります。
彼らは、部分的には支援が必要だったかもしれないが、多くは同年代と同じような学び、経験、発達の機会だったのではないか、と思うことが多々あるのです。
いつの間にか、グレーの子ども達がまるまる障害児のような扱いをされていることに危惧しています。


グレーゾーンの子ども達に必要なのは、診断名ではなく、発達を促すアイディア。
いつも私は、診断をつけずに援助できないものか、教育できないものか、と思うのです。
と言いますか、「グレー」「グレー」と言われる前は、親子の自然な育みの中で発達を促し、自立できる子を育てていた。
学校教育の中でも、子ども達に合わせた指導が蓄積され、受け継がれていた。
教育の質が問題に挙げられることが増えましたが、教育の質を下げたのは特別支援だと考えています。
特別支援は、個(子)を見ているようで、障害を見ているから。


相談される親御さんには、定型発達側から見る視点の重要性を伝えています。
そうすると、定型の中にある障害というイメージができるから。
障害はそもそもその子の部分でしかありません。
定型発達から見ることで、定型発達とのズレ、違いに気がつき、そこを埋めるアイディアへと繋がります。
それが発達のヌケを埋める、未発達を育てるという視点に繋がるのです。

2019年10月17日木曜日

受け継いだ自閉脳、作られた自閉脳

「自閉症とは、脳のタイプの違いである」
若い頃、このようにトレーニングの中で教わりましたし、15年ほど経った今でも、そう思っています。
一言で言えば、情報処理の仕方に特徴がある、ということ。
ですから、それ自体、良いも、悪いも、ありませんし、障害とは違う話だと思います。
自閉症のままで自立し、幸せな生活を送っている人達がいますので。
自閉症自体が障害だとしたら、すべての自閉症者が自立できず、生きづらさを抱えることになります。


自閉症が脳のタイプ、情報処理の仕方の一つだとしたら、障害の部分、生きづらさの根っこは、別のところにあるのだといえます。
多くの自閉症者が苦しむところは、情報処理の仕方というよりも、感覚の違いであり、自律神経の乱れであり、内臓や運動機能の不具合です。
こういった不調、不具合は、自閉症の人だけに生じるものではありません。
なので、同じ悩みを持つ人達が改善し、治していったアイディアが、その自閉症の人にも当てはまる場合が大いにあります。
同じ不調、不具合なのに、自閉症以外の人は治り、自閉症という脳のタイプを持つ人だけが治らない、ということは考えにくいのです。
不調が治った自閉症の人と、治らない自閉症の人がいるのが、何よりの証拠です。


感覚も、自律神経も、内臓も、運動機能も、育てられることがわかっていますし、そういった育て方のアイディアを持っている実践家の人達は、特別支援の世界の外にたくさんいます。
自閉症ではなく、人としての悩みなのですから、その悩みに応えられる専門家、実践家を頼るのが一番です。
自閉症という脳のタイプ、情報処理の仕方に合わせた子育て、教育をしたいのなら、特別支援という括りにこだわる必要があるかもしれませんが。


自閉症が脳のタイプの一つだとしたら、その多くが親やその上の世代の人達から受け継いだものだと考えられます。
実際、発達のヌケや未発達の部分が育ったあとも、自閉症が残り続ける子ども達がいます。
同じ自閉症という診断名を受けた子どもさんでも、未発達ゆえの自閉症っぽい情報処理の仕方か、もともと持っているタイプとしての情報処理の仕方か、は全然違いますし、すぐにわかります。


子どもさんから感じる雰囲気、空気感、佇まいが違いますし、そういった雰囲気を感じた際は確認の意味で、親族に似たような方がいらっしゃらないかを尋ねます。
だいたい親御さんのどちらかが、世の中の切り取り方、捉え方に特徴があります。
その場合は、未発達の部分を育て切ったあとでも、いわゆる自閉症らしさは残り続けますし、その特徴にあった学び方、生き方をしていけば良いですね、というお話をします。


未発達ゆえの自閉症っぽさと、本来の資質として、脳のタイプとしての自閉症らしさは、まったく異なります。
しかし、今の診断方法では、また特別支援の世界では、一緒くたにされてしまっているのが現状です。
私のところに相談にみえるお子さんで、「自閉症」と言われてきた子の多くは、ヌケや未発達の部分が育つと、同世代と変わらない普通の子になります。
イメージとしては、発達が進んでいくと、それに合わせて自閉症っぽさが薄れていき、本来の資質が表に出てくる感じです。
治ってくると、ガラッと性格、表出、表現、表情、雰囲気が変わってくるのが特徴だといえます。
ようやく、その子らしさが出るようになったね、というお話は良くしますし、治り具合を確かめる指標にもなります。


ただ最近、自閉症の雰囲気は感じないんだけれども、親御さんや親類にもそういった特徴を持った人がいないんだけれども…。
何よりも原始反射が残っていたり、運動発達にヌケがあったり、感覚等に未発達があったりしないんだけれども、自閉症のような世の中の切り取り方、処理の仕方をする子がいます。
どう考えても定型発達だし、そういった発達を進んできた子なのに、自閉症らしい。


そういった子ども達と関わる機会が増えていく中で、やっぱりテレビやタブレット、ゲームからの影響を感じます。
赤ちゃんのときから、スマホで動画を見せていた。
幼稚園から帰ってきたら、ずっとタブレットで動画を観ている。
ゲームを始めたのは、就学前…。


脳が作られる時期、環境に合わせて脳を作り上げている時期というのは、その分、脳が柔らかい時期だといえます。
聴覚等の発達の遅れのために、偏って視覚に頼らざるを得ないゆえの自閉症っぽさ。
持って生まれた脳のタイプとしての自閉症らしさ。
そうではなく、強烈な視覚刺激と非現実的なスピードの場面展開に脳が合わせていった結果、視覚処理に、時間の流れよりも早い情報処理に特化した脳が作られた子ども達。
自然な流れに合わせられなくて、生きづらさを感じている子ども達が増えてきたように感じます。


こういった話をすると、「今の子ども達は、みんな、ネットも、ゲームも、動画も、観ている。もし、その影響で自閉症になるのなら、みんな、自閉症、発達障害のはずだ」と言う人もいます。
しかし、ポイントは、脳が作られる時期、8歳までに、どのくらい触れたか、またどれくらい早い時期から触れ始めたか、ということです。
始まりが幼ければ、幼いほど、時間が長ければ長くなるほど、自然の刺激と人工的な刺激のバランスが崩れてしまいます。
当然、ヒトは生まれた環境により良く適応する戦略をとった種ですので、早くからの刺激に、長くいる環境に脳は馴染んでいくのです。


自閉症の子ども達の多くがタブレットやゲームを好むのは、脳のタイプとして心地良いから。
でも、環境、刺激に合わせて脳を作ったから、タブレットやゲームが心地良くなった子ども達もいます。
自然な流れとのズレ、違和感ですので、実際は、それが当たり前だと思い、生活している子ども達もいるはずです。
子どもに見せているわけではないけれども、テレビがずっとついていたり、親御さん、兄弟がゲーム、タブレットを使用していたりすると、幼い子もそれを見ている場合があります。
実際、相談でもありました。
0~8歳までのお子さんがいるご家庭は、お気をつけください。

2019年10月16日水曜日

身体性を伴わない言葉

「言語訓練を受けています」というお話は、実際、親御さんの口から聞かなくても、お子さんを見ればわかるものです。
単語レベルで止まっていたり、2語文、3語文を話したとしても、その文章が1つのパターンになっていたりします。
そして何よりも、コミュニケーションとしての言葉ではなく、「音をそのまま覚えました」「言いました」というような発し方が特徴的だといえます。


動物としての発声から発語という発達の流れとは異なり、知能でカバーし、暗記した言葉。
そういった言葉からは、どうしても感情が伝わってきません。
その雰囲気を感じると、言語訓練を連想するのです。


驚くことに、未だに具体物や絵、写真を見せて、それに答えさせるような言語訓練が、専門家の療育として行われているようです。
それは、小学生の英語の授業と同じレベルです。
りんごの絵を見せて、「アップル」と言うみたいな。
発声から発語、会話、コミュニケーションというような発達の流れを進んだ子、また話すための脳と身体を培ってきた子なら、そういった覚え方でも効果があるでしょう。


でも、発達障害の子どもにおける言葉の遅れは、外国に行った子が初めてその地の言葉に触れる、覚えるといったものではありません。
言葉を知らないのではなく、言葉を発する準備が整っていない、ということ。
同世代の子ども達と同じように、周囲に言葉があるのだけれども、それが意味ある言葉として捉えられない、耳にした言葉を声に出すことができない、という部分に課題があるといえます。


言葉を聞く準備が整っていない子に、言語訓練をしたら、どうなるでしょうか。
真面目な子どもほど、相手の口元に注目し、必死にその口の形にしようとするでしょう。
言葉を話す準備が整っていな子に、言語訓練をしたら、どうなるでしょうか。
素直な子どもほど、聞いた音をそのままの調子で、リピートするでしょう。


こういった覚え方をしてきた子ども達は、場面と一緒に言葉を覚えてしまいます。
実態を伴わない、意味を伴わない言葉ですから、どうしても場面をフックにしなければ、覚えられないし、思いだせないのです。
ですから、彼らの会話は般化が難しいし、文章丸ごと、一つの型として覚えている。
文章の一文字でも変われば、理解できなくなるのは、そもそも理解を伴った言葉ではないから。


そのような姿を見て、支援者達は「それが自閉症だ。特性だ」と捉えます。
でも、ヒトの発達の流れに逆らった療育がなされた結果、こういった丸暗記の言葉が生まれることもあります。
成人した方達ともお会いしますが、このような言葉の使い方をされる人達が少なくありません。
どう見ても、知的な問題は大きく感じないような人でも、意味を伴わずに言葉を使っているような人もいます。


驚いたことに、大学生の若者は、言葉を数式のように当てはめながら会話をしている、と言っていました。
思ったことがすぐに言葉になる私からしたら、ひと手間も、ふた手間も、多く労力を使っている感じがします。
それでは、会話すること自体に苦手意識を持ちますし、相当な疲労感があるのだと思います。
当然、その場の空気を読んだり、他者支点の想像したりすることに手が回らない、回ったとしても、おろそかになってしまいます。


「言葉が出ないのなら、言葉を覚えさせたらいい」
そういったヒトの発達を無視した療育は、とっくの昔に終わっているものだと思っていました。
定型発達の子どもは、そういった覚え方はしませんし、それは外国語を学問として学ぶやり方です。
言語発達とは似て非なるものです。


強弱のない特徴的なしゃべり方は、自閉症、発達障害特有のものではなく、学習によって身に付けた部分だといえます。
だって、言葉の習得自体が学習だから。
赤ちゃんは、周囲に溢れる言葉を聞いて、内側の言葉のストックをしていきます。
同時に、舌を動かし、いろんなものを嘗めたり、食べたり、空気を出したり吸ったりしながら、発語の準備をしていきます。
そうやって一年以上かけて準備を整え、発声から言葉へ発達させていくのです。
赤ちゃんは、発達と同時進行で、母国語を学習している。


この発達の部分に課題があるのが発達障害の子ども達であって、学習の部分には問題ない子がいます。
そういった子が、型にはまった訓練を受けると、学習の脳力を使って音を覚える。
意味の伴わない、身体性を持たない言葉、しゃべり方はこうやって造られていくのです。


訓練的な、身体性を伴わない言葉の学習は控えた方が良いと思います。
やるとしても、発達のヌケ、未発達の部分を育て、発声から発語への準備が整った後にやられた方が良いといえます。
親心として言葉を教えたいし、早く言葉が豊かになってほしいと願うのもわかりますが、言葉には発達の順序、進化の流れがありますので、それに従って育んでいく方が良いのです。


言葉には、発達の側面と学習の側面があります。
脳の表面にだけ働きかけるのが、学習であり、ひと昔前、ふた昔前の療育だといえます。
この両側面から、子どもの言葉を育んでいく。
言葉も道具の一つですから、使いこなすための身体性も重要なのです。
身体を通して、五感を通して、言葉を発達させていくイメージを持たれると、より良い育みへと繋がっていくと思います。

2019年10月15日火曜日

LDと言われている子ども達の中に

発達障害の“引き金”である環境リスク要因を見ると、現代社会において、それらを避けて通ることはできないと感じます。
山にこもるか、無人島に行くか。
いや、山は空でつながっていて、島は海でつながっている。
そうなると、この地球上、どこに居ても、違いは「リスクの程度の違い」だといえます。


相談の中には、「LDという診断を受けた」「読み(書き)で課題がある」といったケースもあります。
小学校低学年くらいは、本人の認知の部分でカバーできたり、同級生との違いが大きくなかったりすることがあります。
しかし、3年生くらいから学習内容も、求められる処理スピードも、グンとレベルアップしますし、同級生との違いも目立つようになります。
そうなると、親御さんも、周囲も、見て見ぬふりができなくなり、当然、本人がだんだんしんどく感じるようになってきます。


今は、だいぶ合理的な配慮が認められるようになり、タブレット等の学習をサポートする機器を使って学習する子ども達が多くなりました。
当然、勉強の目的は知識や技能を獲得すること、考える力を養うことですので、どんな道具を利用しようとも、その子に力がつけば良いわけです。
なのに、親御さんの中には、単にタブレットを利用すれば良いとは感じない人達がいて、私みたいなのに相談に来るわけです。


相談に来る親御さん達は、我が子のしんどさに目を向けています。
タブレットを使えば、学習面は大丈夫かもしれない。
でも、本人のしんどさは、タブレットでは改善できない。
文字を読むのにも、書くのにも、相当な苦労があるとしたら、それは生活すること自体、もっと言えば、見ること、手を動かすこと、そういった一つ一つの動作に生きづらさを抱えているということになる。
その生きづらさをどうにかしたい、改善したい、治したい、というのが親御さん達の願いです。


LDも、神経発達障害ですので、発達のヌケや未発達の部分、原始反射や脳のバランス等を確認し、神経発達を後押ししていくのが基本となります。
発達のヌケ等が育ってくれば、見ること、聞くこと、身体を動かすことがラクになってきます。
それが結果的に、読み書き計算などの学習面へつながっていくのです。
学習スタイルとしてタブレット学習を続けていく子もいますし、そういった機器を使わなくても学習できるようになる子もいます。


しかし、相談に来る子の中に、上記のような子ども達と雰囲気が異なる子がいます。
発達のヌケ、未発達も、ほとんどない。
原始反射が残っているわけでもないし、定型発達そのもの。
でも、学習面で課題がある、LDを指摘されている…。


こういった子ども達に共通して感じるのは、眼の違和感です。
表情は自然で豊かなのに、眼が止まっている感じ。
目だけ表情がないと言えばいいでしょうか。


眼が止まっている感じのお子さんには、他にも共通点があります。
ひらがなや漢字は読めるんだけれども、文章も読めるには読めるんだけれども、文字を飛ばして読んでしまう。
そして、幼少期からテレビやタブレットで動画を長時間観ていた、ということ。


脳がいろんな刺激を受け、形作られている乳幼児期。
その時期に、自然界と異なるスピード、光刺激を受け続けると、それに脳が適応してしまいます。
そうなると、自然な時間の流れよりも早く脳が反応し、処理しようする。
文字を読む、物体を見るスピードと、脳のスピードのバランスの崩れ。
脳にリードされるように文字を読もうとすると、文字が飛んでしまいます。
ですから、一つ一つの文字は読めても、流れで読もうとしたら、脳との間でバグが生じるのです。


大人たちが忙し過ぎると、子どもにしわ寄せがいくものです。
テレビを観ている間に食事の準備。
良くないとは分かっていても、静かにしていてもらうためにスマホやタブレットで動画、ゲーム。
やりたくてやっている親はいないでしょうが、少なからず、いや、大いに影響を与えるのが自然界にはないスピード展開と強い光刺激。
頭の柔らかい乳幼児期の子ども達の脳は、今この瞬間も環境に適応しようと躍動しているのです。
600万年の人類の歴史から見れば、ヒトはタブレットに対応できるほどの身体を持ってはいないといえます。


「見せていたのは教育テレビだけです。子どものアニメだけです」とおっしゃる親御さんもいます。
しかし、非自然界の刺激には変わりありません。
ですから、脳が柔らかい時期、特に8歳までのお子さんには、親が配慮する必要があると思います。
コントロールできる環境リスク要因は減らしたり、避けたりするべきです。


上記のような文字が飛んでしまう子ども達、背景に早い時期からの長時間のメディアがあった子ども達は、改善、治すまでに、とても時間がかかります。
私の印象では、発達のヌケ、未発達の子の方が早く治る。
何故なら、気づくのが小学校中学年くらいからだから。
ヌケや未発達は育てれば良いけれども、脳が適応しちゃった、その刺激に合わせて作り上げられたあとから、もう一度、どうにかしようとするのは、とても難しいし、時間がかかるのです。
脳の可塑性もあるけれども、育っていないのを埋めるのと、育ったのを変えるのは、また違った意味あいになります。


それに脳が適応しているということは、メディアがある生活が、その子にとって普通だということです。
改善の方向としては、まずメディアを制限することですが、本人からの激しい抵抗があるのが一般的です。
メディアを取り上げようもんなら、発狂するような子どももいるくらいです。
ですから、相談に来られた方で、ある程度、大きくなったお子さんの場合は、習い事など、別の楽しい活動を生活の中に取り入れていくことで、メディアに触れる時間を減らしていく、というのが現実的な話になります。


そういった点で、まだ脳が作られる段階で、親御さんがリードしやすい乳幼児期に気を付けていく、治していくのがベターだといえます。
もちろん、ベストはまったく触れないことです。
でも、どうしてもメディアの力を借りないといけない生活場面があるときは、限定的に、1時間を超えない範囲で利用するように配慮する。


かつて、「自閉症=構造化、視覚支援」だったように、「LD=タブレット」みたいな図式ができてきているのが、私の心配しているところです。
支援者としてもラクだし、本人にも効果が見られる。
そうなると、そういった単純な図式が一般化し、子ども自身の内的な世界が見捨てられていく。
LDの子ども達が勉強できるようになることは素晴らしいこと。
でも、内的なしんどさを抱えながら生きていくことに対する援助と治療は忘れてはいけません。
もしかしたら、背景に発達のヌケや未発達があるかもしれない。
もしかしたら、メディアからの刺激による影響があるかもしれない。


環境リスク要因を無くすことはできなくても、減らすことはできます。
親のラクだけではなく、子の生きるラクに目を向けていくこと。
それが文明、科学の恩恵を受けながら生きている私達の責任でもあります。

2019年10月11日金曜日

退行することで発達のヌケは埋まる

「わかりました。自然の中で思いっきり遊ぶようにします!」
相談やセッションのあと、山や海、川、公園の中で遊ぶようになるご家族が多くいらっしゃいます。
それまで室内で療育的なことを行っていた方も、休みのたびに遠出したり、キャンプを行ったり、できるだけ自然の中で刺激を受けながら過ごすように、と変わっていかれます。


発達障害を持つ子ども達は、言語を獲得する以前、2歳までの発達過程の中にヌケがあることが多いです。
なので、多様な刺激を全身で浴びることで感覚系を育てる、複雑で揺らぎのある自然の中で身のこなし方、基本的な運動機能を養う。
そういったことが、発達のヌケ、未発達な部分を育むことに繋がります。


それまでの生活とは異なり、できるだけ自然の中で遊ぶようにしているのに、順調に発達する子どもさんと、そうではない子どもさんがいることがわかります。
見立てでは、「もうその発達課題はクリアしていてもいいのに」「もう治っている頃では」という具合なのに、イメージよりもゆっくり進んでいる感じです。


実際に確認したり、状況を伺う中で、なんとなく、その違いがわかるようになりました。
「遊ぶ」と「遊ばせる」の違いです。
その子の持つ発達の流れどおりに進んでいるご家庭は、とにかく一緒に遊んでいます、親御さんが。
親御さんも泥んこになり、びちょぬれになり、とにかく思いっきり遊んでいる。
その姿からは、子どもと大人が遊んでいるのではなく、子どもと子どもが遊んでいる雰囲気を感じます。
どちらかといえば、親御さんの方が楽しんじゃってるって思うこともあるくらいです。


一方で、自然の中で遊ぶようにしたんだけれども、本人の発達の流れからしたら、ゆっくりだなと感じるご家庭は、子どもを遊ばせているような気がします。
子どもが遊ぶ様子を傍で見ている感じ。
「今、我が子に必要な発達刺激は“揺れる”だから」と頭で考え、ブランコや吊り橋に誘うような、準備したよ、さあ遊べ、みたいな雰囲気があります。


「遊ぶ子どもと、それを観察する大人」では、同じ発達刺激でも、同じ遊び、運動でも、発達するスピード、刺激の伸びやかさは変わってきます。
何故なら、子どもが子どもに戻り切れないから。
もっと言えば、動物であるヒトに戻り切れないから。
大人の目は、指示は、誘導は、文化に染まっていて、少なからず、頭が主導で動いています。
ですから、子どもとしても、そういった雰囲気を感じ、影響を受けるのです。
遊ばせている大人と、遊んでいる子ども、という関係性が成り立っているとき、子は期待された動きをするようになります。


発達のヌケを育て直す、言葉以前の段階を育てるには、その時期のヒトに戻る必要があります。
7歳児のまま、2歳児の発達のヌケは育てられない。
同じように大人も、大人のままでは、言葉以前の段階を埋めることはできません。
つまり、発達のヌケを育て直すキーワードは退行です。
子どもも、成人も、そして育てる親も、退行する必要があるのです。


「天気が悪い日以外は、必ず外で遊ぶようにしているのですが…」
そういった報告、相談を受けることがあります。
そのとき、私は「〇〇くんを遊ばせているんじゃないですか?」と返します。
そうすると、みなさん、ハッとされるのです。
毎日、外で遊んでいたけれども、遊ばせているだけだった、自分はそばで守っているだけだった、と。


どこか良い遊び場がないか、とネットで探す。
この遊びが、今、必要な遊びだろうと、遊具へ誘う。
スマホで時間を確認しながら、遊んでいる様子を見守る。
変化があれば、ネットに上げようと、スマホのカメラを構える。
すべて大人が、頭主導で行っていること。
これでは、遊ばせる関係性を脱することはできません。
ですから、大事なことは、親御さんも退行すること。


もちろん、事情があって一緒に遊べない親御さんもいるでしょう。
でも、気持ちだけでも、心構えだけでも、退行することはできます。
「ああ、汚してしまって」
「同じことを繰り返しても、あまり意味がないのでは」
「別の遊びに促そう」
「このアングルで、動画が撮れたら最高だな」
そういった大人の考え方、そういった雰囲気の視線を止めることは大事です。
言葉以前の段階を育て直したいのなら、親御さん自体も、2歳以前の子どもの心に戻る。


2歳以前の子ども達は、見たもの、聞いたもの、触れたもの、すべてが興味関心の対象であり、想いのまま、存分に味わおうとします。
好きな動き、心地良い動きなら、何度も何度も繰り返す。
親御さんも、そういった興味関心のまま、心地良いを中心に置いた子ども時代へ、ヒトの時代へ退行するのです。
すると、子どもさんは安心して、自身も退行することができる、自分の発達のヌケの段階に戻り、そこからやりなおすことができる。


子どもと一緒になって遊んでいるご家族は、退行がうまくいっているので、発達のヌケを育てるのがスムーズです。
「どれくらいヌケているか」よりも、「思いっきり遊びきれるか」が育ちのスピードの違いとなって表れるような気がします。
また、親御さん自身も退行することによって、ご自身の発達のヌケを埋めたり、退行自体が日頃の文化、脳みそ主導の習性から解放されるので、心身共に元気になられたりします。
大人から子どもへ、人間からヒトへ、退行するのは、より良い発達援助のコツともいえます。


子どもは、そばにいる親御さんの雰囲気から、少なからず影響を受けるものです。
ですから、発達援助以外でも、「勉強をさせると、勉強をする」関係性、「サプリを飲ませると、飲む」関係性など、改める必要があると思います。
自分の子ども時代を思いだしましょう。
させられる勉強はやりたくなかったし、おもしろくなかったし、大人になった今、内容は覚えていないはずです。
させる勉強ではなく、共に学ぶ勉強の方が身につきます。
特に、勉強する意図、目的が想像しにくい子ども達にとっては。


同じように、飲ませられるサプリは、同じサプリでも、飲む際の心地良さが違います。
親御さんが「飲ませよう」と思えば、真面目な子ほど、「飲まなきゃ」という義務感が生じます。
他人のために飲むサプリは、心地良いものではありません。
ですから、一緒に飲もう、元気になろう、という雰囲気を出すことが大事。
「サプリを飲まないんですけど」という相談の背景には、親御さんの「飲ませなきゃ」が隠れていることが多々あります。
本人のための栄養なので、本人が飲みたくなければ飲まなくていい。
そういった共に考える、歩む姿勢は、子どもの安心感へつながります。


遊ばされている子どもの心は、どこか自由になれないものです。
「アセスメントでは、ハイハイの段階のヌケがあり、平衡感覚に未発達があり…」と頭主導で考えるのを一度止めてみる。
うちの子は、今、何を観ているのか、どのように感じているのか、本人の目の前には、どのような世界が広がっているのか。
そういったことを想像してみる。
それが退行への入り口です。
そして、本人が見て聞いて感じている世界を心地良く感じたなら、退行できている証。


「ヌケている発達段階に必要な刺激を与えればいいんでしょ」というのは、大人の考え。
本当にヌケを育て直そうと思えば、もう一度、その時代に戻るしかありません。
その方法は、退行。
「やり切ると、発達課題はクリアされ、次の段階へ進む」というのは、やり切り方も重要。
ですから、発達が生まれる家庭、親子間での雰囲気も大事になってきます。
「遊ばせる」から「共に遊ぶ、遊び切る」へ。

2019年10月9日水曜日

引き継がれないのが普通です

担任の先生が代わると、それまでの指導がガラッと変わるなんてことは、よくある話です。
相談にいらっしゃる親御さんの中にも、「せっかく支援ミーティングしたのに」「引き継ぎ資料を作ったのに」と言い、前年度のような指導、学習がそのまま引き継がれないことに不満を述べられる方もいます。


特別支援が始まって15年くらい経ちますので、全国どこでも引き継ぎは行われます。
同じ学校内でも、年度末には引き継ぎ資料を作成するものです。
しかし、「引き継ぎ資料を作る」「引き継ぎの会議を行う」というのと、「引き継ぐ」は異なります。


学校の先生も多様ですから、考え方の違いによって、前年通りの指導を引き継がない、という場合もあります。
でも、ほとんどの場合は、「中途半端なものを引き継がない」のだと思います。
たとえば、「箸を使って一人で食事ができる」ですとか、「大便の拭きとりは一人でできる」ですとか、自己完結できるようなスキル、活動は、そのまま、引き継がれます。
敢えて、一人でできていることをやらせない、なんてことはないからです。


一方で、「平仮名は書けるが、漢字は1年生のものを練習中」「足し算、引き算はできるが、2桁以上になると難しい」「プリント学習は、大人がそばにいないとできない」「時々、言葉が不明瞭で伝わらないことがある」など、完全にできないわけではないんだけれども、まだ指導、支援、介助が必要みたいなものは、だったら、「平仮名の練習だけやればいいのでは」「プリント学習やらなくていいのでは」「不明瞭な言葉なら、カードを使えば」という具合になりやすいといえます。

もちろん、指導途中のものを、そのまま引き継いで指導していこうという先生もいますが、人が代わるので完全に同じような指導はできません。
また、厳しいことを言うようですが、一年間、同じ先生が指導しても身につかなかったという子は、できているように見えることでも、その先生自体がきっかけ、ヒントになっていることが多いものです。
そういった子は、先生との関係性の中で再現している行動であることが多々ありますので、代わった先生が同じようにしようとしてもできないし、できていたこともできなくなることもあるのです。


同じ学校内でも、なかなか前年度のまま、引き継ぎができない現状があります。
じゃあ、他の学校へ転校する場合、進学する場合、さらに福祉から学校、学校から福祉の場合はどうでしょうか。
当然、人が異なりますし、教育に携わる人と福祉に携わる人ではバックボーンも、考え方の核となる部分も、まったくもって異なります。
同じなのは、障害を持った子に携わっている、その一点だけです。


私も福祉の世界にいましたので、学校と同じようにやれ、と言われても不可能なのはわかります。
そもそも環境も、資源も、違いますし。
学校は学ぶ場所ですので、できないこともやれるようにしていきます。
でも、福祉は生活の場であり、自立、一人で完結できることが最も重視されるところ。
ですから、できないことはやらせない、が基本です。


福祉の中にも、「できないことをできるように」という場面もありますが、それはそういった目標を立てるように決められているから、公的なお金を貰うために。
あとは、職員がやった方が早ければ、職員がやっちゃう。
だって、すべてにおいて余裕がないのが福祉の世界だから。
福祉施設へ見学、コンサルで行くこともありますが、だいたい活動にのれない人は、全国どこでもほっとかれていますね。
「来てくれさえすれば、お金になるんです」
いくら「支援」という言葉を使っても、介護の名残は消えないものです。


私が学生だった頃、療育施設の職員さん達が、「引き継ぎ資料を作っても、支援ミーティングに時間を割いても、学校へ引き継がれない」と教えてくれました。
実際、学校に入学すると、それまでやっていたことがなかったかのように、まっさらな状態から教育が始まります。
学校の先生の机の中には、封がされたままの引き継ぎ資料がそのまま入っている、なんてことも見てきました。
「なんで、教員免許を持っていない人の指導を引き継がなきゃならないんだ」という発言を耳にするたびに、先進地域と呼ばれていた教育も下っていくだけだな、と思いました。


就学時は学校がイニシアチブを取りますが、卒業間近となると、立場は逆転します。
「単独でできないんだったら、ダメ」「施設ではやらせない」「施設で過ごしやすいように、別の形に変えてくれ」
「だったら、うちは受け入れないから」という懐刀をちらつかせ、中途半端な指導はバッサリ切り捨てられるのです。
就学の恨みを卒業で晴らす、みたいな。
「今年度できなければ、来年度もやってもらえばいいや」みたいな考えが通用しない現実を突き付けられる3年生と担任、家族といったところでしょうか。


結局、引き継ぎなんてされないのが現実です。
同じ学校内でも、担任が代われば、それまでとはガラッと変わるなんてことがあるのですから、まったく文化も、環境も、考え方も異なる他業種との引き継ぎなんて、期待する方が間違っています。
ですから、引き継ぎはされない前提で手を打っておくことが大事。
と言いますか、昨日と繋がるのですが、先生、支援者、環境が変わったくらいで左右されない土台作りが必要だということです。


あとは、年度内、その機関に通っている間に、完結しておくこと。
よく言われる「芽生え」の段階ではなく、一人でその活動の最初から最後までできるようにしておく。
どんな小さなことでも、誰からの支援、見守りも必要なく、単独でできるスキル、活動を増やしていく。
一人でできるようになったことは、引き継ぎがされようがされまいがおかまいなしに、人生いつでもどこでも行い続けられます。


「自立できる人に育てる」
それは、どんな環境でも、自分の足で立ち続ける、倒れても起き上がれる、ということなのかもしれません。
未発達な部分が育てば、それ以降、どんな環境でも育ったまま。
同じように、一つ治れば、そこはずっと治ったまま、一つできるようになれば、できるようになったまま。


特別支援の方向性は、いかに本人ではなく、環境、周囲を変えていくか、ですが、本人が発達しちゃえば、治しちゃえば、できるようになっちゃえば、環境に左右されることなく、生きていける。
多様で、不確定なものばかりの環境が社会なら、そういった力をコツコツ身につけ、治し、育てていった子ども達の方が、社会の中で自立していけるのだと思います。
不確定な世界だからこそ、確実なものを増やしていく。
それこそが、子育ての方向性ではないでしょうか。

2019年10月8日火曜日

親御さんにとっての就学相談

例年、この時期は、就学に関わる相談が増えます。
就学時健康診断で指摘があった。
普通級と支援級、支援級と支援学校、どちらにしようか。
我が子の発達障害を認識して子育てをされてきた親御さんも、そういった認識を持つことなく子育てをされてきた親御さんも、悩まれるのは当然だといえます。


答えのない答えを出さなければならない。
しかも、日々、来年の4月が近づいてきている中で。
就学が子の一生を決めるわけではないけれども、成長と将来の選択肢に大きな影響があるのはわかる。
他のおうちは参考になるけれども、我が子が同じようにいくわけではない。
就学や進路選択においては、どう頑張っても「n=1」から逃れられることはできないのです。
どういった選択が、我が子にとってベストになるか、には答えをくれるエビデンスはありません。


今まで多くの方達の相談にのらせていただきましたし、有難いことに選択後のお子さんの様子も教えてくださる親御さん達がいます。
子ども達は、どこに行こうとも、皆さん、その場に適応しようとしますし、その場できちんと学んでいこうとするものです。
就学時、「ああ、僕には他の選択肢があった。他にも学ぶ環境があった」とは思わないもの。


いろんな子ども達を見てきて感じるのは、土台が育っている子は、どんな環境でも成長していけるということです。
「学校の担任ガー」「交流学習ガー」「カリキュラムガー」「同級生ガー」
「普通級だから」「支援級だから」「支援学校だから」
環境はコントロールできないものですし、不満を挙げればきりがないものです。
学校だって、いろんな人がいるわけですし、それぞれのシステムがあり、文化があります。
予測不能で、常に自分に都合の良いことばかり起きるわけではない。
そういった環境の中で、何を学ぶか、どう学んでいくか。
まさに、子ども自身の姿勢、行動が問われているのであって、もっと言えば、家庭の姿勢、行動が問われているといえるのです。


土台が育ち、主体的に学び、成長していく子は、時期が来たら、自らの意思で学ぶ場所を変えていくものです。
最初、支援級で学んでいた子も、感覚的にそこが合わなくなったと感じれば、普通級へと意識が向くようになります。
反対に、普通級で学んでいた子が支援級を希望し、そこで伸びやかに学び、成長していける場合もあります。
支援学校の場合は、本人の問題というよりも、システム、文化の話で、途中から支援級、普通級へ転籍することは難しいですが、それでも義務教育が終わるタイミングで、卒業するタイミングで、別の学び舎に、一般企業への就職に、向かっていく若者たちも出てきます。


「特別支援教育」という言葉が、なにか優しく寄り添ってくれるような雰囲気を醸し出します。
しかし、学校も多様な文化が織りなす社会であり、自分の方へ環境がすり寄ってくれるような場所ではないということです。
「特別支援を受ければ大丈夫」
そういった主体性の乏しさが、先生によって、学校によって、子どもが左右されてしまう結果を生みます。


担任が誰であろうとも、学校がどこであろうとも、そういった環境に左右されることなく、学んでいける子。
そういった子を育てるのが、自立への道になります。
私が見てきた現実として、担任に左右される、翻弄されるような子ども達は、社会の中で自立していけない。
支援学校から一般就労した若者の親御さんは、「担任が変わっても、それに影響されなくなった我が子を見て、一般就職も大丈夫だと思った」と仰っていました。
環境に揺れるということは、地に足がついていない証拠。


子育ての大きな目標の一つとして、環境に左右されない土台作りがあります。
誰が担任だろうとも、どこで学ぼうとも、その中でしっかり学び、成長していける。
そういう子は、就学時に希望を述べなくても、途中でより自分に合った場所を目指し、訴えてくるものです。
そのとき、親御さんは全力で、子どもが出した答えに応えれば良いのだと思います。


就学時の相談は、子どものためというよりも、親御さんのためである、と私は感じています。
答えのない答えを出す際、大事なのはその答えではなく、答えの出し方だといえます。
つまり、子どもが自らの意思を表明するまでの間、責任を持つという決心をすること。
子の代弁者として選択したからには、その環境でより良く学んでいけるような後押しをしていく。
そのために腹を決める。


腹が決まった親御さんは、「担任ガー」「学校ガー」「同級生ガー」などと言いませんし、そもそもそんなことに捉われている暇がありません。
むしろ、「学校の中で、きちんと学び、成長していく姿勢を養うことは、社会に出てから役に立つ」と、前向きに考え、将来の自立を意識した本当の学び、生きた教育をすることに繋がります。


同じような障害、症状を抱える子が、ある地域では普通級、別の地域では支援級、支援学校、なんてことはよくありますし、同じ地域でも年度によって違うこともあります。
親御さんの希望を重視する地域もあれば、親御さんの希望よりも、検査の数値で判断されるという地域もあります。
第一、たまたま同じ時期、同じ地域にいただけの子ども達が、同じ学校で学ぶように決められる。
ある意味、最初から理不尽といえば、理不尽なわけです。
よって、「どんな環境でも、自らの足で立ち、成長し、進んでいける子に育てなきゃ」と、改めて決心するのが、親御さんにとっての就学。


この秋、初めて発達障害を指摘された子の親御さんには、腹を決めるだけの時間が少なすぎます。
言われるままに、診断を受け、特別支援の手続きをし、気が付いたらずっと支援級、支援学校、なんていうご家庭も実際に少なくないのです。
ですから、そういった親御さんには、普通級にするか、支援級にするかの選択、意思表明の最終期限はいつなのかを確認するようアドバイスしています。
結構、2月までとか、3月初旬まで大丈夫、と言ってくれる地域もあります。


たとえ、限られた時間であったとしても、発達の後押しをすることはできますし、そういった子育てを通して、徐々に親御さんの心づもりができてくることもあります。
過去には、発達のヌケと未発達の部分を集中して育み、普通級に入学した子もいます。
一斉指示がわかり、離席がほとんどなく座っていられる。
そして他害等の問題がないこと。
小学校低学年くらいの学力は、短期間で一気に学び、追いつけるくらいのものですから。
それに普通級の中にも、高学年になる頃まで落ち着かない子もいますし。


少しでも前向きな気持ちで、入学式を迎えられますよう願っています。

2019年10月4日金曜日

支援者はサービス業

遺伝的な要因が基盤であり、引き金が環境要因。
それが発達障害発症のメカニズムだと言われています。
膨大な数の遺伝子の中で、どれが関わり、どういった組み合わせなのか。
そして、その遺伝子に影響を与えた環境要因は、何で、どのくらいなのか。
その発症パターンを明確にするには、まだまだ時間がかかりそうです。


言葉の遅れや感覚の異常、特異的な行動や不適応行動。
そういった姿を見ると、人はその原因を明らかにしようという心の動きが生じます。
因果関係をはっきりさせたいのは、未知の環境が命の危険と隣り合わせだった頃の名残かもしれません。
分からない状況、先の読めない真っ暗な環境は、不安を喚起する。
同時に、認知の部分を異常に発達させた人は、なんでもすぐに答えを求めてしまう文化に慣れた人は、曖昧な状態が脳への大きな負荷となり、それに耐えられなくなっているのだと思います。


我が子に発達障害が発症したメカニズムも、表面化した課題に対する因果関係も、本来、それ自体は価値のないことであり、「労多くて得るものなし」といったものです。
何故なら、因果関係がシンプルにまとめられるようなことは、ほとんどないからです。
しかも、その答え合わせはできません。
「一つの要因があって、一つの結果になる」ということはなく、中心となる複数の要因とそれに影響を及ぼした無数の要因が合わさり、ある状態を表面化するというのが真実に近いといえます。


「どうして我が子に発達障害が発症したのでしょうか?」
そういった質問をされるご家族は少なくありません。
「どこに発達のヌケがありますか?未発達の部分がありますか?」
こちらの質問は、ほとんどのご家族がされます。
当然、これらの質問に対し、正確な答えを返すことはできません、と言いますか、言葉で表せるほど、単純な表現はできないのです。
しかし、実際は「〇〇が理由だと考えられます」「〇〇が育っていないですね、ヌケていますね」という具合に、単純明快な言葉を使って返答します。


本当は、誰にも確かめることのできない複雑系なものを、あたかも因果関係がはっきりしているようなことを言う。
その理由は、あくまでサービス業だからです。
子どもさんにとって、家族にとって、より良い変化、利益が生じる方法を選択するのは当然です。
相談して、利用して、支援を受けて、何も状況が変わらない、状態にポジティブな変化が見られない。
それは、本人、家族を裏切る行為であり、公的、私的に関わらずお金が生じているのなら詐欺と言われても仕方がありません。


親御さんの心をより苦しめるのは、我が子に発達障害があったことよりも、どうしたらよいかわからない、何が正しくて間違っているか分からない、といった分からないことだらけの状況と、それに伴う無力感の方だと思います。
ですから、何か一つでも理由がわかれば、どこに未発達、ヌケがあり、育てていく部分がわかれば、心が晴れ、子どものために行動することができるようになります。
わからない環境と、動けない状態は、動物としてのヒトがもっとも恐れる状況。
命は自由自在に動くからこそ、輝いていく。
相談が終わったあと、パッと表情が明るくなる様子を見て、今日その瞬間から育みを始められる様子を見て、「私は最低限の仕事はできた」と実感するのです。


発達には順番があるということは、前後でつながっているといえます。
行動、能力、知能は、ボタンのスイッチの関係ではなく、複雑な機能、身体、細胞、神経が複雑に絡み合う連係プレイによって成り立っています。
とすれば、「〇〇が未発達ですね。そこを育てましょう」という言葉は、あながち間違えではないということになります。
つまり、何か一つでも育てば、必ずそこと繋がっている神経、細胞、機能、感覚、身体が影響を受けるのです。
「治しやすいところから治す」というのは、とてもシンプルな表現ではありますが、まさに発達援助における真理を表した言葉だといえます。


当然、発達援助に関わる者は、それを仕事にしている者は、未発達な部分、ヌケている部分を見たてられなければなりません。
ただし、常に「私が見たてたものは、答えではなく、答えの一部である」という意識は持ち続ける必要があります。
完全な答えを述べられないという事実が、自分の発した言葉、仕事、関わった本人、家族の出した答えに、責任を持つ姿勢へと繋がるからです。


未発達な部分、ヌケている部分が分かれば、その育て方は、本人が心地良い方法、親御さんの資質にあった方法で行えば良いのです。
「こうしなければならない」「この方法しかない」というようなことはありません。
むしろ、特定の方法を勧める人の方が怪しく、一つの方法にこだわる方が部分的な発達だけに留まってしまう可能性があります。
とにかく育てばいい、どんな方法でも。
それが真実です。


因果関係があるように説明するのは、支援者もサービス業だから。
曖昧な状況よりも、たとえ答えの一部であっても、なにか明確になる方が、子どもにも、家族にも、利益があると考えられるため、そうしているのです。
ただし、100点満点な答えではなく、「1点くらいだな」の意識は持つ。
それが仕事への責任、結果への責任を持つことに繋がる。
1点をとれなければ、2点、3点と上がっていかない。
同時に、1点取るお手伝いは支援者がやっても、残り100点を目指して積み上げていくのは、本人、家族である、と意識する。


未発達な部分、発達のヌケを確認してもらうのは、治すための入り口を開いてもらうくらいなもの。
あまり支援者、専門家を過大評価してはいけません。
そもそも自分で未発達、ヌケが分かるのなら、頼る必要はないのです。
どっちにしろ、育てるのは本人であり、家族ですから。
「勝てば官軍」のように、育てばOK、自立できればOK。
「どうやって育てたか」は家庭によって違うもの。
だって、原因も、根っこも、遺伝子も、環境も、神経も、身体も、一人ひとり異なるから。
まさに「発達障害、治るが勝ち!」なのです。

2019年10月3日木曜日

子育てが親自身の発達援助になる

大きな変化、成長が起きるのは、子どもだけではありません。
子育てをされている親御さんにも、大きな変化、成長が起きることがあります。
久しぶりにお会いすると、ガラッと変わった親御さんが立っていることも少なくありません。
親が子どもを育て、子どもが親を育てる。
子育て自体が、親の発達援助になっているのかもしれません。


相談に来られる親御さんの中には、ご自身でも発達障害、自閉症やADHDなどを持っている方がいらっしゃいます。
そういった親御さん達のお話を伺うと、ただでも大変な子育てがより一層苦労に感じられているような印象を受けます。
資質でもある真面目さ、一生懸命さが、子育てに向かう。
それ自体は素晴らしいことだといえるのですが、限度を超えて頑張ってしまうことがある。
子どもさんの発達援助よりも、まずはお母さん、お父さんが元気にならなければ、というようなご家庭も少なくありません。


子どもは育てたいようには、育たないものです。
たとえ赤ちゃんでも、自分とは異なる別人格の人間だからです。
どう動くか分からない、どう育つか分からない、変化に富んだコントロールできない存在。
その先の読めない曖昧さ、不規則性、そして何よりも「子育てには正解がない」という真理が、親御さんによっては人一倍脳に負荷をかけているように感じることがあります。


しかし、この負荷は、親御さんの脳を育てる負荷にもなります。
もちろん、心身が疲弊する状態では、過度な負荷、有害な負荷といえますが、心身が整った状態で向き合うと、それが発達につながるような気がします。
駆け込み寺のような状態でいらっしゃった親御さんでも、心身が整ってくると、「自分ではどうにもならないことがある」という具合に受け入れられるようになります。
すると、子育ての一つ一つにどう対処していくかを考え、行動するようになる。
行動して出た結果に対し、また自分で考え、工夫し、さらなる行動へ移していく。
こういった繰り返しが、脳に柔軟性を持たせ、脳を育てることに繋がる。
いろいろなアイディアが浮かぶようになったり、不測の事態に対応できるようになったり…。
親御さんの変化に「脳の余白の広がり」を連想します。


他にも「一緒に自然の中で、思いっきり全身を使って遊んでください」と提案させてもらった親御さんが、その通り、ご自身も泥だらけになって遊び切った結果、発達のヌケが埋まることもあります。
同時に、自然とご自身が子ども時代に心地良かった遊びをすることが多いですので、退行にもなって心身が解放され、ラクになるようなこともあります。
「隠れていた資質が表に出た」というような雰囲気を感じたとき、こういった育ちがあると思います。


私の仕事は、家庭支援です。
本人だけが変わればいいという話ではありません。
何かしら子育てに悩むというのは、親御さんの現状では対処できない、適応できない何かがあるということです。
我が子に発達障害があるから悩むのではなく、家庭、子育てという環境への不適応が生じているからだと考えています。


その不適応から脱するには、親御さんも変わる必要があります。
子ばかり、「あれができるように」「これができるように」というのは虫が良すぎる話です。
私が関わるご家庭には、子の成長だけではなく、親子、家族そろって成長していってもらいたいと願っています。
子どもの育ちにとって、親は、家庭は、もっとも影響のある環境です。
その環境がより良く変化、成長していかなければ、子の成長の限界が先にやってきてしまいます。


まだ子どもさんが幼いのに、子育てを丸投げしている家庭を見かけると、子どもだけではなく、親御さんにとっても、最大の発達する機会を放棄してしまっているように感じます。
「専門家に任せた方が良いから」という言葉をよく耳にしますが、それは表であって、本心である裏ではないような気がします。
心身に、脳みそに余裕がない人が、脳の表面で体裁を整え着飾り言っているだけ。
身体、感覚からの声が聞こえる人は、いくら余裕がなくても、決してそのような判断はしないものです。
それこそ、本能のまま、想いのまま、たとえ自分の身が滅んでも、一生懸命子どもを育てようとする。


社会に出たら答えが一つではないのは、いろんな答えをもった多様な人々が存在しているから。
そのフラクタルが家庭であり、仕事であり、子育て。
ご自身でも発達のヌケを埋めながら、一生懸命子育てされていた親御さんが、一息つき、苦手だった「働く」に挑戦される方もいます。
まさに子育てを通して、発達、成長された現れ。
また仕事を一生懸命している人、してきた人、仕事で評価されている人は、子を治す後押しも上手だと感じます。


結局、家庭も、仕事も、学校も、自分自身が育つ場であり、同じ社会なので、すべてが繋がっているということ。
ですから…
「放課後、土曜日は児童デイに丸投げでいいの?」
「就労は目指さなくていいの?」
「作業所に通い続けることは成長に繋がるの?」
「学校に行かなくていいの?」
「お母さん、専門家の私達にまかせてください、でいいの?」
「問題が起きれば、服薬で対処でいいの?」


発達の機会は、社会の中に、身近なところに、溢れています。
「大人になっても治る」というのなら、まずは大人である私達も発達し、成長し、治っていくことが必要だと思います。
発達障害という診断を受けた子ども、人達にだけ、「治る」を求めるのは失礼だと言われても仕方がありませんね。

2019年10月1日火曜日

生き物である発達に委ねる

土台が育っていない人、整っていない人が苦手とする季節の変わり目。
その季節の変わり目を自然と迎え、翻弄されることなく、過ごせる人というのは、それだけで発達、成長しているのが分かります。
さらに、「大きな変化がありました!」「ドカンが来ました!」というようなお話を聞くと、「知」を超えた「生」の姿、ヒトの持つ力に、感動を覚えるのです。


夏、思いっきり遊んだ子ども達は、秋を迎える頃に、大きな変化を見せます。
9月に入ってから、そのような素晴らしい発達、成長を遂げた子ども達、親子のエピソードをたくさんお聞きしました。
喃語や単語が出るようになった子、普通級に転籍後、友達ができた子、一斉授業を理解し、学力を積み重ねていけるようになった子、IQがボーダーを超え、正常域に入った子、不登校から学校に通い始めた子…。
若者たちの中にも、アルバイトが決まり、休むことなく働いている人、正社員として働き始めた人などもいました。


まさに「実りの秋」という表現がピッタリな方達です。
しかし、この「実りの秋」は、養分を蓄え、陽を浴び、根や葉を伸ばしていくという準備段階の育み、培う時期をちゃんと過ごしたからこそ、迎えられたものです。
何かをやったから、パッと実ができた、大きな変化があった、などではありません。
小さな積み重ね、目に見えないような変化を積み重ねていった結果、土台がしっかりし、一気に開花したのだといえます。


いろんなご家庭を拝見してきましたが、大きな変化、ドカンが来る子の親御さんは、どちらかといえば、粘り強い人が多い気がします。
「ドカン」という表現になるのですから、それまでほとんど変化が見られない、見られても小さな部分で、というのがほとんどです。
ですから、そういった変化がない時期を、ブレずに育み続けられるか、一つ信じた道を結果が出るまで待てるか、ということがポイントだといえます。


今日から下半期が始まりますが、これは世の中が決めたことであって、子どもが決めたことではありません。
特に年少の子ども達は、その生まれ月で、同じ学年とはいえ、発達&成長が大きく異なります。
世の中の流れの影響を受ける親御さんが、子どもの歩むスピードを見て、余計に遅く感じてしまう、焦ってしまう。
こういったことは多々あることで、特別なことではありません。


子どもを愛するがゆえに、親御さんは焦ります。
でも、焦ったからといって、急激な発達、成長が起きるわけではありません。
何故なら、発達も生き物だから。
とにかく走りまくれば、足が速くなるかと言ったら、そうではありません。
一日でも早く、タイムを縮めたいと、走ったり、筋トレしたり、別のスポーツをやったり…。
そんなことをしていたら、結局、一番大事な走力が育ちませんし、怪我だってします。
脳も、神経も、生きているので、生命としてのリズムがあるのです。


脳、神経の発達には刺激が必要です。
でも、同時に、休息も大事なのです。
刺激のシャワーから解き放たれて、ゆっくり休み、整理し、次の発達に備える時間。
やったらやっただけ伸びるわけではないのは、生き物としての宿命だといえます。


「ドカン」が来る子の親御さんは、一つのことを、信じた道をコツコツと積み重ねていける人です。
たとえ、変化が見られない時期が長かったとしても、待つことができる。
いや、待つことができるというよりは、委ねられる、という表現の方が実態に合っていると思います。


待っているような親御さんでも、内心焦っている人は多いはずです。
でも、どこかで、発達は本人のもの、という意識があるのだと思います。
その本人の持つ発達する力、それこそ、生命体としての発達に、その可能性に委ねている。
「この子は、きっと治ると思う」「大丈夫だと思う」という親御さんの言葉を後押ししているのは、子の発達する力を信じ、それに委ねることができているからだと思うのです。


親子とは言え、資質は異なっていて、同じ波長で育めない親御さんもいます。
焦ると、余計にあれこれと動きたくなる、という親御さんもいます。
それが単に、焦りからくるのでしたら、その焦りを緩めていけばいいのですが、資質として生きているスピードが異なっている人もいます。
そういった人をADHDの器質というのかもしれませんが、どうしても子の発達する力、スピードに委ねられない人、自分の方の身体が先に動いてしまう人だといえます。


このような親御さんは、何も変化の見られない準備の時期がとても苦痛に感じるようです。
すると、余計に焦って行動してしまい、あれもこれもとなって、子が、脳や神経が休息の時期を味わえません。
結果的に、さらにストレスが溜まり、お互い負のスパイラルに入ってしまうことも。
ですから、こういった資質の親御さんは、気を散らすことが大事だといえます。


子どもだけのことに、あれこれ手を出すのではなく、生活全般、人生全般にあれこれ手を出す。
趣味を始めたり、仕事で新しいことに挑戦したり、動物を飼ったり、旅行に行ったり…。
親御さんのエネルギーに、子が負けてしまっている、参ってしまっている場合もあるように感じます。
「委ねる」という静的な動作ができない親御さん、資質に合わない親御さんもいるので、そういった場合は、エネルギーを分散する、注意を分散するのがコツです。
子は、自分にエネルギーが向けられていない時間に、休むことができますので。


「ドカン」が来たというのは、それまで変化がない時期が長かったという話でもあります。
その変化のない時期をどう後押しできるか、親として子育てをコツコツ続けられるか。
土台作りは、本人がやりきるまで待つ必要があります。
しかも、脳も、神経も、生き物ですので、休息の時期も必要。


生き物である発達と向き合うとき、それに委ねられることができるか。
発達の環境を用意する、発達を後押しするのは親ですが、実際、発達させるのは子ども自身です。
ですから、どの道、委ねるしかないのです。
子どもの成長を信じ、発達する力に委ねる。
それが「ドカン」への一番の近道のような気がします。

2019年9月29日日曜日

『発達障害でも働けますか?』を読んで

就職に関する相談では、ほとんどの方が「発達障害、アスペでも働けますか?」「コミュニケーションが苦手なんですけど、働けますか?」というようなことをおっしゃいます。
中には「まだ一回も働いたことがないのですが、働けますか?」という相談もあります。
さらに、こういった言動は、本人からだけではなく、一緒に相談に来られた親御さんからも聞かれるのです。


こういった発言が、本人、親御さんから多くあるというのは、それだけ否定されることが多かったのだと想像します。
「発達障害があれば、一般就労は無理」
「自閉症は、コミュニケーション力が求められる仕事はできない」
「一般就労で無理すると、二次障害になる」
「働くことだけが人生じゃない」
社会に出ようとすると、急に“ないない”だらけの支援になる。


学校を卒業するまでの間は、本人ができるように、本人が失敗しないように、支援という名の接待のもとで、やれること、やりたいことをやり、一方でやれないこと、やりたくないことは「やらなくていい」と言われたり、やる機会さえ貰えなかったりした。
ですから、一般の人が就職活動する以上に、仕事、働くこと、社会が怖く見えてしまう。


経験、体験していないことを想像するのが苦手。
そのため、どうしても近しい人の情報をそのまま受け取り、偏ったイメージを持ちやすい。
だからこそ、「発達障害でも働けますか?」というような相談を受けると、近しい人から「発達障害を持つ人は働くのが難しい」と言われたのだと思います。


支援ミーティングなどに参加すると、学校の先生や相談員、カウンセラーなどの人達から、「その仕事は難しい」「一般就労は無理だろう」などという発言が聞かれます。
本人が一般就労を希望しているのに、採用試験すら受けさせるのを止めさせようなんてザラです。
一般就労できるかどうか、は先生や医師、支援者、専門家が決めることではありません。
採用を決めるのは、その企業の人。
こういった専門性を謳った非常識なやり取りが、今日もどこかでなされているのでしょう。


支援者の中には、福祉的就労に持っていくことで評価を得たり、次年度の運営費を得られたりするために、一般就労を阻む人達もいるのは確かです。
でも、ほとんどの支援者、学校の先生たちは、良かれと思って、一般就労を止めているように感じます。
就職して、仕事場で不適応を起こし、二次障害になったという話から、想像を膨らませて。
本人に辛い想いをさせないために、福祉的就労を勧める人達がほとんどだといえます。


教育も、福祉も、医療も、民間の要素よりも、公務員的な要素が強く出る仕事だと思います。
営業してお客さん、契約をとってくるような仕事ではありません。
毎年、一定人数のお客さんが来るのは決まっているので、それに対して、一つずつ対処していく。
民間ほど、質や量にこだわらない。
だとすると、どうしても大多数の民間企業の働き方、空気感に実感が伴わず、疎くなってしまいます。
意地悪な言い方をすれば、民間企業のような働き方が合っていない人、好まない、馴染まない人が、当事者の周りを固めているので、ネガティブな情報に偏りやすいというのもあると思います。
福祉系の大学、専門学校を出て、すぐに就労支援、相談窓口をしている人もいるくらいですし。


私が相談を受ける中でも多く聞かれる「発達障害でも働けますか?」という質問。
まさに、そのまま、それに答えてくれる本が、花風社さんから出版されました。
もちろん、これは「Yes」「No」といった単純な回答という意味ではなく。


就職に関する相談は、まず誤学習や偏った認識を崩すことから始まります。
「コミュニケーションが苦手なんですけど」「体力的に不安なんですけど」「ちゃんと働ける自信がないんですけど」
そういった本人の発言一つ一つに対して…
「どんなコミュニケーション、人との関わりが苦手なの?」
「その苦手さは、発達障害だから。それとも経験不足?失敗した経験があるから?」
「希望している仕事は、どの程度、コミュニケーション力が求められるの?」
など、とにかくツッコミを入れながら、どこが事実で、どこが想像か、思い込みかを明確にしていきます。
「〇〇さんは、その企業を背負って立つような立場ですか?」
「新人の内から失敗しないことを求める企業はないですよ」
「そのレベルは、仕事に必要なレベルではなく、お笑い芸人のようなコミュニケーションレベル」
ときに、妄想ぐらいに膨らんだ仕事感を否定するのも必要になります。


『発達障害でも働けますか?』の中では、元営業マンで、現臨床心理士として働く人達の支援に携わっている座波淳氏が、明瞭に「仕事で求められることは」「働くために必要なことは」を説明してくださっています。
多分、この本があれば、就職に関する相談の一回目は省くことができます。
誤学習、偏った認識も座波さんの説明を読めば、一発で理解でき、自ら軌道修正することができるはずです。
支援者に相談するより、自らで改善できる方が、何百倍もその人の未来に繋がる素晴らしいことですので、どんどん本を勧めて、相談の回数を減らそうと思っています。
それくらい「働く」をど真ん中に持ってきた自己解決に繋がる著書だといえます。


同時に、子育て中の親御さんにとっても、その方向性を定める際に、必要な“子の未来”を見せてくれる貴重な著書だと思います。
我が子を見ると、まだまだ働くのは先に見えますし、そもそも働く姿すら想像できない親御さんが多いはずです。
だけれども、この毎日の子育てが、将来の仕事、自立へと繋がっているとわかると、より一層前向きな気持ちで、お子さんと関われるようになると思います。


親御さんの多くは、働いた経験がある人、今も働きながら子育てをされている人。
だけれども、初めての子育ての上に、「発達障害」がプラスされると、どうしても自分が経験してきた育ち、学校生活、仕事と分離して捉えがちです。
「そんなこと、普通の会社では許されないよな」と思えるようなことでも、発達障害という冠がつくと、浮世離れした支援者の話が正しいように思えてくる。


「支援者は、なんでも知っているわけじゃない。だって、民間で働いたことが“ない”し。学校で教えたこと“ない”し。この子の子育てをしたことが“ない”し。この子の家での生活を見たこと“ない”し」
いざ、社会の中に飛びだしていこうとすると、決まって聞かれる“ないない”の支援者達の声。
でも、本当に一般企業で働け“ない”のは、発達障害の当事者ではなくて、支援者なのかもしれない。
そんな連想を助けてくれる著者の座波さんのお話。


発達障害がある人達も、一般企業の中で活き活きと働き、成長し、キャリアを積み重ねていく人達が多くいます。
そういった姿、エピソードを、座波さんが理論を通して説明されています。
エピソードを裏付けする理論、情報に溢れた『発達障害でも働けますか?』
若者、成人した人たちにとっては、自己プロデュース、自分で軌道修正するために。
子育て中の親御さんにとっては、子の将来からみた今をより良いものにするために。
仕事、自立を真剣に考えている方達に是非、手に取っていただきたい書籍だと思いました。


 
 

2019年9月25日水曜日

分をわきまえる

事業を始めて、一年、二年が経つと、徐々に仕事が増え、相談メールも届くようになりました。
短い文面、限られた情報から、いかに的確に返事ができるか、アドバイスができるか。
そういったことを意識しながら、せっせと返事を書いていました。


私が返信すると、すぐにまたメールを送ってくださる方がほとんどでした。
援助、子育ては、その子どもに合わせて作り上げていくものですので、そういったやりとりが生まれるのは自然なことだといえます。
ですから、私はなんの違和感を持つことなく、メールが返ってくるたびに、また連想したことを書き、返信していました。


しかし、あるとき、私のやり方は間違っていたと思うことがありました。
度々、メールが来る人の相談内容が変化したのです、同時期にやりとりしていた方達、皆さんに共通して。
一言で言えば、最初は「〇〇に困っています。アドバイスを」という内容から、「次はどうしたらいいのですか?」「どこに発達のヌケ、未発達がありますか?」という内容に変わったのです。
メールの文面から伝わってくる雰囲気に“寄りかかり”を感じたので、私は大いに反省したのでした。


限られた情報から的確なアドバイス、見立てを行う。
そんなことに意識が向いていたため、いつしか私は、その正答率に心を奪われるようになっていました。
ですから、当然、アドバイス、見立ての内容が、具体的なものになります。
具体的になればなるほど、受け手の思考、考え、工夫の入る余地はなくなっていき、自然と指示する者と指示される者という関係性が出来上がってしまうのです。
メールがたくさん届くのは、私に腕があるからではなく、本人や家族の力を引き出せずにいた自分の至らなさが招いた負の結果だと、そのとき、気づいたのです。


そこから、改めて自分の仕事を見直しました。
メールの文面に、本人や親御さんの想像力、発達する力をかきたてるような想いを乗せるように心がけました。
実際に対面で行う相談、発達援助も、基本的に一発勝負ということにし、自らで考え、試行錯誤していけるような、「流れ」「続いていく」というイメージを持って関わるようにしました。
「後方支援」「後押し」という言葉が、今、自分の仕事にしっくりきています。


私がいくら一生懸命アドバイスしようとも、いくら一生懸命関わろうとも、発達させるのは本人です。
本人がやらなければ発達は生じませんし、そもそも続けていかなければ変化は起きません。
そして何よりも、その発達の凸凹、神経発達の表現は、他の誰のものでもなく、本人のもの。
生涯付き合っていくのは、本人だけ。
そこの意識が薄れた結果、私は独りよがりなメールをせっせと書いていたのだと思います。


対人援助に関わる者は、関わっている瞬間、自分とその人しか見えなくなるものです。
その人にとって自分であり、自分にとってその人。
ですから、あらゆる職業の、あらゆる場面で、対人職同士の越権行為というものが生まれるのだと思います。


学校の先生が、「お子さん、発達障害では」「診断を受けられたら」「薬は飲まないんですか」と、医療が担う部分に手を出していく。
本来、学校の先生は、教え育てるのが仕事のはず。
与えられた環境の中で、ベストを尽くし、一人ひとりの子どもにとって、良い学びを提供するのが役割だと思います。
そこに、発達障害の有無は関係ありません。
発達障害があったら、自分は教えないのでしょうか、支援や薬を求める前に、自分の指導方法を変える気はないのでしょうか。


医師が学校に、家庭に、「褒めて伸ばしましょう」「普通級は難しい。支援級で」「頑張らせてはいけない」などと言うのも、越権行為だと思います。
その医師は、教員免許を持っているのでしょうか、学校のカリキュラムを実際に見たのでしょうか、自分は教えられるのでしょうか。
実際に、子どものことを褒めて伸ばしているのでしょうか、そういった子育てをやっているのでしょうか。


対人援助職の越権行為は、想像力の弱さからくる勘違いです。
自分が関わっているときは、その人と自分だけ。
しかし、その人の周りには、多くの人達が関わり、影響し合っています。
その人の生活が、教室、診察室が中心なのではなく、生活の一部が教室であり、診察室。
対人援助職は、どう頑張っても、主にはなれず、従のまま。
陰である存在が、光を浴びるために前面に出だすと、本人の主体性を奪うことになる。
越権行為は勘違いであると同時に、本人や家族の主体性を奪うことだといえます。


対人援助職に必要なのは、「分をわきまえる」こと。
他人様の人生にできることなど、ほんの僅かなことくらいです。
「教師との出会いが、その子の人生を変えた」というのは、ドラマの世界。
「私が治した」というのは、本人の自然治癒力、成長する力が現れただけだから勘違い。
どんな専門家でも、どんなに我が子を愛する親でも、本人の発達障害を代わってあげることはできない。


発達の凸凹も、その神経発達の表れも、本人のものであり、生涯付き合っていくものです。
ですから、必要な援助とは、本人がより良く付き合っていける、育てていけるための後押しです。
悪い部分を取り除く、異物を取り除く、という類の話なら、対症にあたる専門家が必要。
でも、本人の内側にある本人のものなのですから、他者の行為、想いが入る余地はない。


「生涯に渡る支援を」と対人職は言ってきました。
でも、実際、生涯に渡って関わる人はいません、生涯お金を出して養ってくれる人はいません。
自分の持ち周りが終わったら、それでおしまい。
自立していくだけの賃金が得られる場所を勧めていないのに、就職したら、あとは知らん顔。
自立するだけの教育が受けられる場所を勧めていないのに、卒業したら、あとは知らん顔。
だけれども、自分が関わっているときは、他の人が担う部分にまで手を出す。
どうせ手を出すのなら、その人の人生全部に手を出せばよい、と思います。


私達は、他人は、どう頑張っても、本人の人生全部に関わることはできません、責任を持つことはできません。
人生の主役は本人であり、発達の凸凹も本人のもの。
仲間内の評価と、受けた援助に対する本人の評価は異なります。
専門家なんて言われても、他人様の人生への影響は微々たるもの。
ですから、対人援助職は分をわきまえ、主体である本人がより良く自分の特性と付き合い、自分の凸凹を育てていけるような後押し、後方支援を行う。


「ひと様の人生に、他業種の人達に口出しできるほどのことをやったのか、何か結果を残したのか」
そんな言葉を自分に投げかけられる人は、勘違いを起こしません。
分をわきまえた支援者であり続けるための自戒の言葉です。

2019年9月24日火曜日

個性、異物、ヌケ

個人的なお付き合いは、なるべく控えるようにしています。
支援者とは、親族でなければ、友だちでもない赤の他人です。
その赤の他人が、家族の思い出の中に残ってしまうのは、違和感としか言いようがありません。
発達の主体は、子どもさん本人であり、それを後押しするのは家庭であり、家族です。
あくまで支援者は、本人や家族の発達する力を引き出すのが役目。
支援者の「やってあげた感」「やってもらった感」が残るようなサポートの仕方は、その場しのぎになってしまいますので、長い目で見れば、結果的に支援者との関わりがマイナスになることもあるように感じます。


基本的には、「便りがないことのは良い便り」のスタンスです。
家庭での試行錯誤の姿が連想されるので。
「支援者が答えを持っているのではなく、試行錯誤を通して答え合わせしていく」
子どもがより良く成長し、自分の人生を豊かに生きらているのなら、それが正解です。
その子が幸せなら、どんな道を辿ろうとも、誰が何を言おうとも、それで良いのです。


一年以上前に関わったご家庭から久しぶりに連絡がありました。
「今、問題なく、学校に通えています」「感覚の過敏さも、怖がりも、全部治りました」と。
その様子を教えていただいただけで満足だったのですが、どうしても本人が成長した自分、治った自分を見せたい、ということでお会いすることになったのでした。


初めてお会いしたときは、感覚面の過敏さを持っていましたし、姿勢の保持も難しい状態でした。
そして何よりも、強い不安、世の中に対する言い表せないような怖さを持っていました。
授業中はノートをとることができず、一斉指示も半分ぐらいは理解できず…。
おとなしい性格、説明する力が弱かったことも加わり、度々、人との間でトラブルが生じ、学校から呼び出しが続いていたのでした。


学校からは、「発達障害かもしれない」「早く診断を」と言われ、診断を受けたあとは、「薬は飲まないんですか」と再三のアプローチ。
医師からは、「この子は普通級の子じゃない」「相当、しんどいはず」「無理してはいけません」と、別室対応と、ノートが取れなくても、授業に参加できなくても、指摘&頑張らせるはダメで、とにかく褒めましょう、という提案(?)。
学校が医療面の指示を出し、医師が学校のカリキュラムに指示を出すという越権行為のマリアージュ。
そんなむちゃくちゃな状況の中、「藁をも縋る」の藁の一本としてご縁がありました。


ご両親は、「治らなくても良いから、何よりも、この子が少しでも生きやすくなってもらいたい」と仰っていました。
でも、本人は「治りたい」と明確に言葉にしていました。
本人の想いに引っ張られるように、親御さんも一生懸命発達の後押しをされ、栄養や遊び、運動という原点に戻り、土台から育て直しをされていきました。
本人から「もう自分一人でできそう」、親御さんからも「私達で治してみせます」という言葉が出たので、そこで私の援助は終了となりました。
それから1年以上が経ち、今は学校からの呼び出しもなくなり、普通級の中で同じように学び、放課後は友達と遊んだり、クラブ活動に打ち込んだりと、健やかに成長しているとのことでした。


ご両親とお話をした際、つくづく感じたのですが、1つの選択が子どもの人生そのものを変えてしまいかねないという恐ろしさです。
このご家族も、途中までは学校の指示で診断を受け、医師からの指示で特別な配慮を受けていたわけです。
そして、精神科薬を処方してもらう一歩手前まで行っていた。
でも、どうしてもまだ幼い我が子に精神科薬を飲ませたくない、他に方法はないか、ということで、未発達を育て、発達のヌケを埋める、というアプローチ、自然な子育てと出会ったのです。
もし言われるがまま、精神科薬を飲んでいたら、一年以上たった今でも、未発達は未発達のまま、ヌケは抜けたままで、生きづらさの根っこの部分は変わっていなかったと思います。
当然、支援級への転籍も決まっていたと思います。


本人がみるみる発達し、変わっていったとき、ご両親は「うちの子は、治ってきている」という話をしたそうです。
すると、学校からも、医師からも、「治るわけはない」という言葉が返ってきたそうです。
変わったのは認めるけれども、治ったわけではない、と。
学校は「受容ができていない」と言い、医師は「科学的にありえない」と言った。


こういった話は、よくある話です。
一言で言えば、学校は「個性」であり、医療は「異物」という捉え。


「個性を伸ばす教育」「個性を活かした教育」
個性個性と言い続けるうちに、個性に教育が侵食される。
結果的に、一人ひとりを見る目が衰えていく。
未発達も、発達のヌケも、性格も、環境からの影響も、家庭環境も、全部ひっくるめて「個性」となっちゃう。
だって、学校でできること、教師ができることは、その中で限られているから。
「そうだよね、個性だよね」と言うことで、教育の限界から目を背け、自らを納得させているだけ。


医療の目的は病気を治すこと。
つまり、病因、正常の状態と対する異物を取り除くのが治療。
とすれば、発達障害の障害は取り除けるか、治療できるのか、という問いになる。
発達障害という異物を取り除く方法はない、ゆえに、治療できない→治らない、という立場のように感じます。


私達は、学校の教師でなければ、医師でもない。
ですから、一般的な言葉として「治った」を使います。
お会いした子も、一年前の自分と比べて、あの辛かったときと比べて、今、「私は治った」と言っているのです。
親御さんも、その姿を見て、「治った」「治って嬉しい」と思っている。
これは親子の自然な会話であり、喜びです。


「治った」という言葉を使うと、「治るなんて嘘だ、間違いだ」と言う人達がいます。
きっと、その人達は、発達障害を個性か、異物だと捉えているのでしょう。
でも、私は、治そうと頑張っている人達は、そのどちらとも考えていません。
発達障害は、神経発達の遅れであって、個性ではありません。
発達障害は、神経発達の表れ、状態ですので、その人にとっての異物でもありません。
ゆえに、刺激と栄養、身体アプローチ、言葉以前へのアプローチによって、大いに変わっていく部分であり、診断基準を飛び越えていくような、社会に適応していくような子ども達が出るのは自然なことでもあります。


神経発達障害を身体障害と同じように「変わらないもの」と捉える人。
神経発達の表現の一つなのに「異物」として捉える人。
こういった人達から見れば、発達障害は受け入れるものであり、周囲がサポートするものであり、取り除くことができない治療不可で治らないものになるのでしょう。
このように出発地点から違っているのですから、子育てを通して、末梢神経からの刺激を通して、より良い栄養を通して、治していこうと考えている人達とは、生涯分かり合えないのです。


そもそもお互いに分かり合う必要はありませんし、どれが正しい道かは、子どもの人生を長い目で見なければわかりません。
ある意味、発達障害の診断も主観なので、正しいかどうかは、本人の主観で良いのだと思います。
今回紹介したお子さんは、「治って良かった」「今は学校が楽しい」と言っていました。
ですから、ご両親が「子育てを通して」という選択は間違えじゃなかったということ。
本人が幸せなら、本人が治ったというのなら、それで良いのです。


支援者はサービス業。
ですから、評価は満足度であり、結果です。
結果が出ないのに、「それでいい」「それしかない」というのは詐欺と言います。
医師も、先生も、支援者も、それぞれの視点があり、それぞれのサービスがあります。
ですから、消費者である本人、家族が主体的に考え、選択しなければなりません。
そば屋に行って、「どうしてピザがメニューにないんだ!」という人は、ただのクレーマー、入る場所を間違えたその人が悪い。
地域にある値段の安い、いつも同じなのり弁を食べ続けるか、自分で食べたいものを材料を集めて作るか、はその人次第。
みんなのお金で乗り弁を食べておきながら、「まずい」と文句を言うのはいけませんね。
美味しいご飯を食べたいのなら、自分で動かなければ。

2019年9月20日金曜日

発達段階に応じた親子の位置

自閉症や発達障害の子どもさんの中には、まるで「霧の中にいるみたい」というような雰囲気の子もいます。
同じ空間に居るんだけれども、私達のことが見えていないような。
他に子ども達が一緒に遊んでいるんだけれども、一人で黙々と遊んでいるような。
見ているようで見ていない。
聞いているようで聞いていない。
そんな様子から、その子の周りに霧がかかっているような印象を受けます。


目が見えないわけでも、耳が聞こえないわけでもない。
それに興味がある言葉や物があれば、自ら注意を向けることができる。
となると、「人に意識を向けさせよう」という想いが出てきます。
声がけしたり、身体を触ったりして、まずは自分の方に意識を向けてもらおうとする。
そんなとき、自然と子どもの正面に、自分の身体があると思います。


ドラマでもそうですし、実際の療育場面、家庭生活でも、子どもさんの前に立って、何度も名前を呼んだり、肩をゆすったりする姿を見かけます。
相手の正面に位置することが、一番視界に入りやすいという考えもあるでしょうし、「話をするときは正面で」という沁み込んだ教えもあると思います。
でも、子どもは、正面に立った相手のことを見ようとしない。
遊んでいる最中などは、そんな相手をどかそうとすることすらある。
それを見て、親御さんは悲しみ、支援者は更なる促しを展開していく。


結論から言えば、無理やり霧の中から出そうとしてもダメ。
霧の中にいたとしても、まったく周囲の状況が分からないわけではありません。
ですから、霧の外が「怖いもの」だというイメージを植え付けることにもなりかねないのです。
過去に強い促しを受けてきた子どもさん、若者は、周囲の状況がはっきりわかるようになったあとでも、環境や人に対する不安を抱えていることがあります。
良かれと思った行為が、心の傷として残り続けることも。


やはり大事なのは、未発達の部分、発達のヌケを育てていくこと。
まだ周囲の状況、環境、情報を自然とキャッチできない状態ですので、それらがラクに捉えられるようになるくらいまで、身体、感覚を育てていく必要があります。
イメージとしては、空間の一部であった自分を切り離していく感じ。
未発達やヌケが育つと、自分という存在がはっきりしてきて、環境との位置取りがうまくできるようになります。
同時に、掴まえれる情報が自分を中心に広がっていきますので、自然と周囲に、人にも意識が向けられるようになるのです。
霧の中から出すのではなく、霧が晴れていくのを育てながら待つ。


そうはいっても、共に暮らす親御さんなら、愛する我が子だからこそ、親子の交流、伝えあい、分かり合えるその瞬間を想い、味わいたいと願うのは当然だといえます。
ですから、私は「親子の位置を工夫されてみては」と提案しています。


正面というのは、一番分かりやすい関係性のように感じます。
でも、正面で、しかも、“やりとり”となりますと、発達段階からいえば、後半になります。
対面してやりとりができるようになるのは、1歳から2歳にかけてくらいでしょう。
もちろん、子どもさんによって異なりますが、霧の中にいるような雰囲気を持つお子さんは、それよりも前の段階に発達のヌケがあることが多いです。
よって、子どもさんの発達の準備から言えば、まだ準備が整っていない段階の関わりであり、両者のバランスが悪い、といえます。
となると、お互いにとってストレスになります。
ちなみに、どんな活動、能力にしろ、「促す」という雰囲気が出る時点で、発達段階に合っていないことをやっている、と考えられます。


子どもさんの状態、発達段階によって、心地良い位置も変わると思います。
「正面がダメだから、何をやってもダメだ」などと思う必要はなく、意外に、横に並んだら意識が向くようになった、交流が生まれた、なんてこともあります。
当然、後ろから関わるのが良い子もいますし、親御さんが子どもさんを背中から抱きしめ関わると、意識がはっきりするような子もいます。
背中へのアプローチは安心とつながりますし、何より母子一体の胎児期を連想させますので。


この位置取りの話は、親子の遊び方に繋がります。
たとえば、砂場で遊んでいるとき、その一人遊びをどう発展させていくか、次の発達段階へと育んでいくか。
正面で、斜め前で、横に並んで、後ろから。
積み上げている砂の山に、自分も砂を盛っていくか、子どもと同じような山も自分も作るか、スコップを共有するか、子どもが使っているスコップを手で一緒に持つか。
同じジャンプをするにしろ、手を持って正面で跳ぶか、横で跳ぶか、抱えて跳ぶか、では意味合いが違ってきますし、刺激を受け取る子どもさんの感じ方も違ってきます。


発達とともに、親子の関係性だけではなく、位置関係も変わってきます。
上手な親御さんは、その時々で、我が子が心地良い位置、分かりやすい位置へ、自然と身体をずらしています。
同じく支援者も、発達段階に応じて位置は変えますし、考えていないようでも「位置取り」に注意し、こだわり関わっています。
会話をするとき、遊ぶとき、勉強を教えるときなどに応用できる視点ですので、子どもにとって心地良い位置を探ってみると良いかもしれませんね。

2019年9月19日木曜日

共感も、発達の一つ

面談の際、家族みんなが同じタイミングで頷いたり、笑ったりする様子を見ると、私は安心します。
何故なら、家族団らんを連想するから。
テーブルを囲んで、みんなで食事をする。
同じ食べ物を分けあいながら食するのは、原始的な、動物としての共感を育む。


人がヒトだった頃、獲ってきた食べ物は、命の綱であり、リスクでもあった。
もし毒をはらんだものであったのなら、その家族、集団は同じ運命を辿ることになる。
とすれば、同じものを食べるというのは、家族を信じ合う行動であり、運命共同体をそれぞれの内側に宿すことになる。
だから、「夕食は、家族みんなで食べるようにしています」「休日だけでも、家族そろって」というような家族は、同じタイミングで頷き、同じタイミングで笑う。


「言葉の遅れがあって…」「他人と関わろうとしなくて…」といった相談も多いです。
しかし、家族みんなと同じタイミングで笑う姿がある、お母さんとだったら、波長を合わせるような行動が見られる、そのようなお子さんも少なくありません。
こういった姿からは、共感の芽生え、息吹を感じます。


言葉が出たら、他人に意識が向くようになったら、お友達や他人と関わったり、遊んだりできるようになるわけではありません。
対人面、社会性の土台は、やはり共感する力。
この共感する力が育っていなければ、たとえ言葉が出たとしても、それは道具を得ただけ。
たとえ、他人に意識や興味が出ても、それは物体としての興味の対象が増えただけ。
言葉も、社会性、それこそ、ソーシャルスキルなども、道具にすぎず、人間として生きるには、ヒトの時代に培われただろう共感、共同がベースになるといえます。


人間関係でトラブルを抱える人は、道具の問題ではなく、適切な使い方を知らない、わからない、という場合がほとんどです。
何故、適切さがわからないかといえば、その人の視点の中に他者がいないから。
まるで一人で生きているかのごとく、道具を使い、振る舞うから、他人との間でトラブルが生じるのです。
こういった部分は、自閉症の特性などと関連付けられて語られることが多い。


「ミラーニューロンだ」「それが脳の特性だ」「視覚的に伝えればわかるんだ」
あたかも、それが障害そのものであり、それ自体は変わらず、どうしようもないものだといわんばかり。
でも、私はそうは思いません。
だって、ノンバーバルの子どもの中にも、共感力のある人達がいるから。
母親が涙を流せば、一緒に泣く子もいるし、ティッシュを持ってきて涙を拭く子もいる。
美味しいご飯を食べれば、家族の顔を見て、微笑み合う子もいる。
公園に行けば、両親の手を取り、キャッキャ、キャッキャと、走り回る子もいる。


言葉豊かな人、学業でも優秀な成績を収めるような人の中にも、人間関係で悩み、トラブルを起こしてしまう人もいます。
このような人達の多くは、感覚の未発達、発達のヌケを抱えているものです。
しかし、感覚の未発達=共感できない、他者の視点を想像できない、ではないと感じます。
課題の根っこは確かに、感覚系の未発達、発達のヌケと繋がっていると言えますが、それにプラスして他者と息を合わせる、共に行動する体験の乏しさがあると思うのです。


相談者、本人の話を聞くと、「家族一緒にごはんは食べなかった」「それぞれが好きなものを食べていた」「家族みんなで旅行に行った記憶がない。遊んだ記憶もない」という言葉が返ってきます。
幼少期から一人の世界を好んでいたために、体験が積み重なっていかなかったというのもあるでしょう。
忙しい世の中ですので、なかなか家族の時間がもてなかったのもあるでしょう。
また少なからず、「社会性=対人スキルの獲得」といった認識のずれが、意味を理解することなく、道具を振り回す結果になった場合もあるように感じます。


共感する力も、発達の一つだと考えています。
人間だけが共感する力を持っているとはいえず、やはり他の機能同様に、長い進化の過程の中で培われ、獲得した能力だと考えられるから。
なので、「それが障害だから。特性だから」とは言わずに、育んでいってもらいたいと思うのです。


息を合わせる遊びを親子で続けた結果、それまで霧の中にいたような雰囲気だった子が、親御さんに意識が向くようになり、発信が出るようになった。
できるだけ家族一緒に、同じものを食べるようにしたら、偏食が治まっていき、同じ食事ができるようになった。
感情表現が乏しかった子が、家族で思いっきり遊ぶ体験を通して、自分の感情に気づき、表現するようになった。
こういった変化が見られた子ども達も大勢います。
これはまさに、家族で共感する力を育んでいったといえるでしょう。


「言葉が出れば」「未発達の部分が育てば」「発達のヌケが埋まれば」
そういった部分が育つと、対人面でも変わっていくのは大いにあることです。
でも、それだけじゃない。
やはりヒトとしての、動物としての育み、体験も必要なんだと思います、特に共感の部分で。


家族が共に過ごし、活動し、共感し合う心を育んでいる家庭のお子さんは、言葉が出れば、他人との間で心地良い言葉の使い方をします。
また、言葉が出ない段階でも、ノンバーバルな方法を使い、他者との心地良い雰囲気の交流を行います。
言葉は道具だから、心地良く使うための心を育んでいく。
そのために、家族や信頼している人との息を合わせる行動、体験の積み重ねが大事になります。


「子どもは教えたように育つのではなく、親のように育つ」という言葉があります。
綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、やはり夫婦が共感し合っている姿を見ることで、子の共感する力も育っていくように思えます。
家庭に訪問すると、顔かたち、使う言葉は違えども、夫婦が同じタイミングで頷き、笑い、悲しみ、怒り、驚くような家庭、「なんでも家族一緒」と決めているような家庭のお子さんは、共感する力がちゃんと育っているものです。


共感も、一つの発達と捉えることができれば、今日からできることはあります。
それこそ、家族だからできる、親子だからできることです。
子どもとの時間があまり持てないのなら、持てたときに思いっきりやりきる。
ここは愛着の土台と重なり合う部分でもあります。

2019年9月18日水曜日

それは藁か、希望か

発達障害の治療、教育、支援において、万人に効くものなどはありません。
たとえ、エビデンスがあるとされる介入方法だって、その原文、論文を読めば、「対象の6割に効果があった」ですとか、「介入前後で、20%の改善が見られた」という程度のもの。
どの論文を読んでも、「100%効果あり」と言われていないのです。
それは、多くの遺伝子が関わり、無数の環境要因が影響し、発達期に生じる神経発達障害なのですから、当然だといえます。


「鬼の首を取ったように」、いえ、ナントカの一つ覚えのごとく、エビデンスがどうのこうのという人達がいます(とにかく「エビデンス」といえば、それで方が付くと安易に思っている??)。
しかし、エビデンスにこだわるわりには、状態に変化が起きない。
それは「治らない障害だから!?」
だったら、最初からエビデンスがあるかどうかなんて関係ないのでは、と思います。


エビデンスのある介入方法で大きな改善が見られないのなら、効果があった対照群に、あなたの目の前の子が入っていないからか、その介入方法の効果の限界がそこにあるということ。
いずれにしろ、そこにこだわり続ける意味がわかりません。
だって、子ども時代の一年、一か月、一日は、その子の人生全体で見れば、とても貴重な神経発達が盛んな時期。
期待するほどの効果がないのなら、そもそも効果を感じないのなら、別の介入方法を探す一歩を踏みだす必要があります。
「どうしようかな」「どうするかな」と思っている間も、子どもの時間は平等に過ぎていきます。
成人期の子の親御さんとお話しすると、皆さん、「願いが叶うとすれば、この子の子ども時代に戻って、未発達、ヌケを育て直したい」とおっしゃるのですから。


神経発達の多様性を考えると、一つの介入方法、同じ介入方法では、必ず限界がきます。
特に神経発達が盛んな時期を過ごす幼少期、子ども時代は、常に刺激の変化が求められます。
お子さんによって異なりますが、一週間単位、二週間単位、1ヶ月単位、季節単位で「振り返りを行いましょう」と、私は伝えています。
それくらい変化が大きいのが、子どもさんの発達。
なので、何年も同じ介入方法を続けている場合は、発達援助というよりも、パターン学習?日課?ルーティンワーク?かなと思います。


発達障害が生じた理由、要因が、一人ひとり異なりますし、そもそも神経発達はその子、固有のものです。
ですから、介入方法はできるだけ多い方が良いのです。
とりわけ、「効果があった」「改善した」というようなポジティブなものは。
ネガティブなもの、変化がないものは、ある意味、他の方で検証済みなので、敢えて手を出す必要はありません。
再三言うようですが、子ども時代の時間はとても貴重ですから。


ポジティブな結果が得られた介入方法の中から、その時々で、選択し、我が子に合わせてカスタマイズしていくのがベストだといえます。
そう考えると、「良くなったよ」「改善したよ」「治ったよ」「自立できたよ」というエピソードは、一つ一つがとても貴重な情報であり、そういった声は一つでも多い方が良いのがわかります。
我が子の子育て、目の前の人への介入方法を作り上げていく際、アイディア、材料が多い方が、よりその子に合ったものを作れるからです。


それなのに、そういったポジティブな声を上げると、「藁にもすがる想いの親御さんに…」というようなことを言う人がいます。
我が子に100%合うことはないと思いますが、考えるヒントにはなるはずです。
決してネガティブな影響は及ぼさない。
だって、「子が育つ」という人類にとって望ましく、ポジティブな情報だから。
限られた子育ての時間を過ごしている親御さんにとっては、藁などではなく、貴重な子育てのアイディアです。
なので、そういったことを言う支援者がいれば、「私が信じるもの、専門とするもの以外は、藁であってほしい」という願望を言っているだけ。
藁人形を木に打ち付ける人を連想すれば、聴く耳を持たず、聴く時間の無駄が省けます。


しかし、親御さんの中にも、「藁にも縋る」と表現する人がいます。
ポジティブな話、他の親御さんの子育てのアイディアが「藁」に見えてしまうのは、それだけ専門家や支援、周囲の人間に希望を打ち崩されてきたからでしょう。


療育を受けたのに、専門家を頼ったのに、地域で評判の施設、支援者に支援を受けているのに、効果や変化を感じない…。
私は一生懸命やったのに、良いと言われているところはすべて行ったのに、変わらない…。
それだけ発達障害は難しい障害なんだ、変わらない障害なんだ…。
そう思うことでしか、そうやって折り合いを付けることでしか、今の自分を保つことはできない…。
だから、「良くなった」「改善した」「治った」「自立した」なんてのは、“藁”なんだ…。


幸せを感じられなかったり、欠乏や絶望を感じていたりする人は、わずかな光が大いなる希望かのように受け取ってしまうものです。
「藁にも縋る」というような強い言葉で否定する人というのは、それだけ強く希望を感じている裏返しだともいえます。
しかし、私もそうですし、発達のヌケを育て直し、治ること、自立することを目指して子育てをされている親御さん、支援者達というのは、良くなった話を聞いても、大袈裟な反応、評価はしないものです。
何故なら、診断基準から外れた人、一生涯支援と告げられた人が普通に高校、大学に行っているし、一般人として働いている姿を見ているから。
そういった人たちにとって、良くなった話は、一つの希望であり、一つのアイディア。


良くなる人、改善する人、治る人、自立する人の周りには、同じような人達が集まるものです。
それは、そういった一人ひとりの歩み、生活の中に、ヒントがあるから。
反対に、変化がない人、ずっと生きづらいままの人の周りには、そういった人達が集まる。
ですから、本人にしろ、親御さんにしろ、そこから抜け出す行動を起こさない限り、未来も同じことが続いていく。


「良くなった」という話を聞いて、「どんな方法だろう、子育てだろう」と思うか、「どうせ、藁に違いない」とハナから聞こうとしないか、たったこれだけの違いが、未来を大きく左右するのです。
子どもの場合は、親の意向が優先されるので、ある意味、運次第。
成人の方達からの相談も受けると、自分の意思が尊重される、意思通りにいける年齢になってからの取りかえしには、相当な努力と時間、強い意思が必要なのを感じます。


しかし、そうとはいえ、「どうせ、藁に違いない」と思う人が、どうやった子育て、介入をするかは、他人様のおうちの話です。
「知り合いの子のおうちもやれば」「同級生の子も、身体アプローチやればいいのに」などということも聞きますが、私は「それはどうしようもないことです」と言います。
本当にどうしようもないことですし、ぶっちゃけ他人のおうちを気にしているだけの余分な時間はないと思うことの方が多いですから。


じゃあ、私達にはなにもできることがないのか。
いいえ、一つだけあって、それは我が子を、目の前の子をより良く育てること。
つまり、それぞれの「n=1」を輝かせるのです。
「n=1」が輝けば、その光が誰かに届き、希望になるかもしれません。
全部が全部とは言えなくても、部分的に、何か一つでも、他の子の子育てのヒントになるかもしれません。
ですから、堂々と「n=1」を発信していけばいいのです。


「n=1」で、何が悪い。
我が子がより良く育ったのなら、生きづらさがなくなっていったのなら、「一生涯支援」と告げられた子が自立して生きていったら、親にとってそれ以上の喜びはないでしょう。
支援者だって同じこと。
対人職の究極の目的は、目の前の人が幸せになる、そのための後押しをすることですから。
合うものを待つのではなく、合うものを探していく、掴みに行く。
合うものが見つからないのなら、合うまで動き続ける。


一人として同じ人がいないのは、発達障害を持つ子も一緒。
その発達の仕方だって、バラエティーに富んでいるのですから。
100%の人に効果があるエビデンスのある介入方法は存在しない。
だったら、「n=〇」の〇の数が増えていくよりも、素晴らしい「n=1」が増えていく方が良い。
そんな風に私は考え、今日も「n=1」が少しでも輝けるような後押しを行っています。

2019年9月17日火曜日

「n=1」の声

専門家も、医師も、先生も、支援者も、どう頑張っても、どんなに学び、資格を取ろうとも、不可能なことが一つだけあります。
それは、当事者になること。
この“当事者”とは、ざっくりした「発達障害」ですとか、「ASD」ですとか、「ADHD」といった括りのことではありません。
当事者とは、その人その者になること。


「私は私であり、あなたはあなたである」
ですから、専門家は当事者から学ぶのです。
それができない人は、ただのオタク。
オタクと実践家は、そもそもの出発点が異なっています。


「支援者は、当事者から学ばなければならない」
これは、どこの職場でも、研修でも、最初に言われることです。
そのために、目の前にいる人と真剣に向き合い、そこからヒントをもらわなければなりません。
支援のニーズは、当事者から生まれるものであるから、当事者がいて支援者がいる。
当事者の視点を抜かした支援とは、独りよがりとしか言いようがないのです。


どの支援者も、「当事者から学べ」と耳に胼胝ができるくらい言われます。
しかし、どうしたもんか、良くなった人、治った人からは、学ぼうとしない。
苦しんでいる当事者を見ると萌えるのに、治った当事者を見ると萎えてしまう。
「目の前の人を少しでも良くしたい」「ラクにしたい」「自立させたい」というのが、対人職が対人職である唯一の証。
そういった感情を持ち併せていない人間が、対自分職でやっている支援者。
良くならない方ばかりに、苦しんでいる人の方ばかりに意識が向いてしまうのは、自らを助けるために支援者になったという証。


ASDも、ADHDも、LDも、症候群です。
共通の行動が確認できるから、その診断名が付いているだけ、同じグループに括られているだけ。
同じ症候群でも、行動の出方は人それぞれ違いますし、同じ人だって、時間や状態、環境によって現れる行動、その強弱は違います。
そして何よりも、同じグループに属していたとしても、現れる行動の原因、背景は問われていないのです。
そう考えると、『n=1』にしかならない。


論文を読む際、「n=100」「n=200」「n=300」と対象の人数が増えていくたびに、私は違和感を持ちます。
これだけ多くの遺伝子が関わると言われているのに、これだけ多くの環境要因が影響すると言われているのに、発症のタイミング、どの神経に課題が生じているか明確に示すことができないのに、「n=100」の中の1つになっていることの違和感。
いろんなその人らしさが切り捨てられ、同じ行動様式が確認できたというだけで集められる。
しかも、そのほとんどが、治らない前提で集められた人であり、治すことを目的としない研究。


「当事者の声を聞け」「当事者に学べ」と言われているのに、良くなった人、自立した人、治った人の声を無視し、挙句の果てには、「偽物だ」「誤診だ」とまで言い放つ特別支援の世界。
こういった声を聞くたびに、当事者をないがしろにしているのは、支援者その人達だと思うのです。
どうして良くなった人の声を聞こうとしないのか。
どうして自立した人の生き方に学ぼうとしないのか。
どうして治そうを目指さないのか、目指すと「トンデモ」と言われるのか。


どこの世界に、業界に、良くなった人から学ぼうとしない職業集団がいるのでしょう。
認知症や脳の疾患者に対し、「良くなってほしい」とリハビリをしたら、トンデモになるのでしょうか。
神経の発達障害の子ども達に、「良くなってほしい」と、神経ネットワークを育てるための運動や遊びをしたら、いけないのでしょうか。
他人から、また支援するものと表現される支援者から、批判の声が上がる意味がわかりません。
医療行為をするわけでもなく、何か特別なものを体内にいれるわけでもなく、子育てや運動、遊びを通して、神経発達を促していく。
こうなると、「神経発達に支援者が必要ない」という真実を否定したいがための行為にしか見えないのです。


本人にとって、家族にとって、必要なのは「n=〇」の数の多さではありません。
「n=1」まさに、自分という「1」がより良く育ち、より良く生きていけるための方法なのです。
論文を書く必要のない、その論文で評価され、キャリアや予算等に影響がない人は。


「n=1」を輝かせるには、「n=1」から学ぶ以外、方法はありません。
しかも、その「n=1」は、良くなった人である必要があります。
良くならない人から学んでも、よくはなりません。
そういった人に意識が向くのは、学びたいからではなく、安心を得たいがため。
「私だけじゃないんだ」「うちだけじゃないんだ」というその一瞬の安心のためにすり寄っているだけだといえます。


療育とは、治療(Treatment)と教育(Education)。
治療の目的は、よくすること、治すこと。
治すためには、治った人から学ぶ以外ありません。
本人が「治った」と言っている、一度付いた診断名が外れている、生涯支援と言われていた人が自立して生活できている、「どうしてだろう?」
この「どうしてだろう?」が治療の一歩。
そういった疑問が浮かばないのなら、支援者やめた方が良い。
当事者から学び、当事者を救うものでなければ、支援者とは言えないから。
「あなたは苦しいまま。でも、私はそばにいるよ」は、自己治療、愛着障害の。


発達障害に関わる遺伝子は、500以上あると言われています。
そして神経発達に影響を及ぼす環境要因は無数。
ですから、治療の方法は一つであるわけがないのです。
原因が特定されていないので、ピンポイントで治療ができないのです。
ということは、目の前にいる人に合わせて、オーダーメイド、テイラーメイドで、治療していくしかありません。
そのためには、良くなったという「n=1」から学び、ヒントを得ること。
良くなった「n=1」を集めていき、その中から試行錯誤を通し最適化を目指していく。


「n=1」のために生きるのが支援者。
同じ診断名だからといって、同じ方法しか提供できないのは、当事者の声に耳を傾けていないので、そもそも支援者とはいえません。
良くなったという人の声を聞き、治ったという人の生き方から学ぶ。
その積み重ねが、目の前の人の未来に活かされ、治療法の確立のための一歩となります。


神経細胞が欠損している、無くなっていく病気、障害なら、治療という言葉は適さないのかもしれません。
でも、神経細胞は同じ。
違いは、そのネットワークの築き方。
だったら、治療する道はある。
実際、良くなった人、治った人、診断基準から外れた人が存在しているから。
目指すは「n=1」の成長、自立、幸せ。
「n=2」になった途端、個は消え、症候群の括りの中の1つになってしまいますので。

2019年9月12日木曜日

社会の一員として育つ

「叱らない子育て」「褒めて伸ばす子育て」なんていう本が売れているらしい。
当然、子どもの方から、こういった類の本を買ってほしい、読んでほしい、参考にしてほしいなどというリクエストはないのでしょうから、これは親に向けた親のための本といえます。
こういったタイトルの本に惹かれてしまうのは、それだけちゃんと子を叱れない、向き合えない親、大人が増えた証拠。


子ども時代、叱られてばかりで自信なく育った私が親になる。
「こんな親だったら良かったのに」という姿をイメージすることで、自分自身の傷を癒していこうとする。
また、幼少期から放っておかれた子、真剣に叱られたことがなかった子、まるでペットのごとく、親の所有物として育った子は、「叱らない子育て」などを肯定することによって、自分自身の生い立ちを肯定する。
「叱らない子育て」「褒めて伸ばす子育て」は、ある意味、親の自己治療なんだと思います。


「問題行動は無視」というのも、そんな大人たちとの間に親和性があったため、令和になっても、いまだに消えていかないのだと思います。
「問題行動は無視」なんて、コンマ数秒で気づく、まずさ。
問題をそのままにしておけば、無視し続けていけば、問題はエスカレートしていくだけ。
もし、真剣に「問題行動は無視」をやろうとすれば、本人か、周囲が、破滅するまで続けるしかありません。
結局、叱れない大人が、真剣に向き合うことのできない大人が、「問題行動は無視」という言葉に救いを求めただけなのでしょう。


「うちは、叱らない子育ての方針なんです」「褒めて伸ばす方針なんです」という親御さんがいます。
それは、各家庭のお話なので、他人がとやかく言うことではありません。
しかし、実際、とやかく言わざるを得ないことがある。
それは、叱らない子育てが、教えない子育てになっているとき。


悪いことは悪いと教える。
ダメなものはダメと教える。
それは、人間として生きていくために必要なことです。
その家族の中だけで生きていくのなら、叱らず、教えず、褒めるだけ、で良いのかもしれません。
飼い主を噛まずに、尻尾をふりふりしてくれる子に育てば、それでよい。
しかし、子どもでも、社会の一員です。
公園も社会の一部ですし、幼稚園や保育園、学校だって、小さいですが社会。


社会で生きていくためには、他人の権利を侵害しない、危害を加えない、という最低限のルールは守らなければなりません。
反対に言えば、これさえ守れていれば、社会の中で生きていける。
コミュニケーションが苦手でも、人付き合いができなくても、強いこだわりがあったとしても、生きていける。
発達障害の人が、一般の人達からネガティブな印象を持たれるとき、それは特性を持っているからでも、発達に凸凹があるからでもありません。
ただ単に、他人に対し、他人をまきこんで、他人の権利を侵害してくるから。


昨日からの続きになりますが、「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」というのは、人生の中で、特に子ども時代、思いっきり遊び切った経験がある人達であり、「ダメなものはダメ」ときちんと教えられてきた人達だということ。


他人の権利を侵害するような子ども、大人からの相談もあります。
そういう人達というのは、根っこに未発達、発達のヌケがあるものです。
しかし、それ以上に、「ダメなものはダメ」と教えられてこなかったという部分が大きいのです。
結局、「問題行動は無視」「叱ってはなりません」「長所を褒めて」「二次障害にならないように」と言う愛着障害を持った支援者が、愛着の土台に弱さを持った親御さんが、人間として生きるための大事な部分を教えられずにきた、というパターン。


人間がペットを飼うのは、寂しさを埋めるため、というのは有名な話。
それは古来からやってきたことであり、それ自体はより良く生きるための方法。
でも、それを子どもにやってはいけないのです。
支援者が完全なる自立に積極的になれないのは、自立しそうになると妨害してしまうのは、利用者のペット化です。
同じように、「子どもを叱れない」「子どもを叱ると、自分が苦しくなる」という親御さんも、無意識のうちに子どもをペット化してしまっている。
そういった意味で、自立を後押しするのも、妨げるのも、親といえます。


発達の凸凹があって、社会の中で自立し、馴染んでいる人というのは、他人の権利を侵害しない人です。
そういった人達と言うのは、子ども時代、子どもとして過ごせただけではなく、親から、先生から、周囲の大人たちから、一人の子どもとして見られていた人であり、社会の一員として育てられた人。
「ダメなものはダメ」と叱ってくれる大人、真剣に向き合い、教えてくれる大人。
そういった人達の存在が、社会の中で自立し、馴染む姿に繋がっている。


何かトラブルが起きると、「障害があるから」と言う人がいます。
しかし、一般の人達からしたら、障害の有無は関係ない。
だって、社会の一員として苦言や抗議、問題提起をしているのですから。
「うちは褒めて育てる方針で…」なんて、聞いていないし、どうでもよいこと。
大事なのは、あなたのお子さん、社会の一員として問題ありますよ、他人の権利を侵害していますよ、ということなのです。


ヒトは、人になり、人間になる。
ヒトは動物。
人は知恵を持つ者。
人間は人の間で生きる者。
子どもをペット化してはならない。
何故なら、人の間で生きることを学べないから。
そういった子ども達が大人になると、社会に適応できず、自立が難しくなる。


「診断を受けずに大人になったから、二次障害になった、自立できない」というのは、支援者の方便。
早期から診断を受け、早期療育を受け続けた大人も、自立できていないし、併存症を持っているから。
つまり、診断の有無ではなく、育ちの問題。


障害児ではなく、一人の子どもとして、ヒトの部分を育て切ったか、切れるか。
障害児ではなく、一人の子どもとして、社会の一員として接してもらったか。
障害児ではなく、一人の子どもとして、将来、人の間で生きるために必要な「ダメなものはダメ」を教えてもらったか。


発達に凸凹があるから、「自立できない」はウソ。
発達に凸凹があるから、「問題を起こしてもしょうがない」は甘え。
発達に凸凹があろうがなかろうが、動物としての土台の部分、人と人の間で生きるための土台の部分が育っているかどうかが、重要なのです。
つまるところ、子育ての話。
それを障害の話にすり替えてしまってはならないのです。


未発達なところは育てる。
人間として生きていくために必要なところは教えていく。
その育て方、教え方の部分で、特性という概念、視点が出てくるだけ。
「障害があるから、教えなくていい」というのは、子を一人の人として見ていない表れ。
障害児である前に、一人の子であり、人間です。
その基本的な考えがブレなければ、「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」に育っていくと、私は考えています。