2019年12月30日月曜日

【No.1001】2019年を振り返り

今朝、ジム納めに行ってきました。
昨日は上半身だったので、今日は下半身を重点的にトレーニング。
その後、日課のランニングマシーンへ。
いつものNHKのテレビ前ゾーンに行く(空いているから)と、今日は『あさイチ』ではなく、『スカーレット』の総集編。
荒木荘のシーンを見ると、ずっと前の出来事のような気がしました。
午後からは『いだてん』の総集編がやっているようですが、まだ本編が録画一覧になっているのでスルー。
今日の函館は、この時期としては珍しい+5℃以上の気温なので、テレビから年末を感じていたのでした。


今年を振り返ってみますと、幾度となく、「情報の垣根はなくなった」と感じる一年だったような気がします。
発達障害を、改めて“神経”発達障害と捉えることから始まり、OO群の存在が「治っていく人達がいるのも当然だよね」という空気感を形成しました。
発達に遅れがある子がいれば、原始反射の残存を確認するのは当たり前、運動発達のヌケを確認するのも当たり前、愛着という土台の発達を確認するのも当たり前。
それにプラスして、左右の脳の育ちのバランスと、栄養面の過不足の確認が、今年のトレンドだったような印象です。


数年前の「発達障害は治るかな、治らないかな」といったレベルから先に進み、「原始反射」「運動発達」「愛着」「右脳&左脳のバランス」「栄養」から、発達障害という状態を読み解き、育て、治していく段階へ。
発達障害を治す方向へ進んでいる人たちにとっては、親御さんも、専門家も、差はなくて、これらの認識、アプローチが基本となっていると感じます。
ですから、単純に「情報」という観点から言えば、親御さんも、専門家も、違いはありません。


別の見方をすれば、ひと昔前は、専門家は専門家と言うだけで、優位性を持つことができたといえます。
療育や支援、〇〇療法をやっている、というだけで、なんだか専門的なことをやっているように見えたし、それを受けることに価値があったような気がした。
それは、「きっと専門家というのは、私達よりも勉強しているし、専門的だろう」と思っていたし、専門的な知識、情報へアクセスも限られていたから。


でも、今はそんなことはなく、親御さんも、専門家と変わらず、意思と行動力があれば、専門的な情報を得ることができます。
なので、以前の「専門家/親御さん」という図式ではなく、「知る者/知らない者」「行動する者/行動しない者」という図式になっている。
そこに専門家の優位性はありません。
あるのは、結果のみ。


私がSNS等で学ばせてもらっている全国にいる実践家の方達は、その素晴らしい知見を惜しみなく発信されています。
私も時折、「相談メールやブログに情報載せ過ぎ」「無料開放し過ぎ」と言われることがあります。
しかし、この「情報」とやらに、どのくらいの価値があるのだろうか、と思うのが、正直なところです。
ここ最近感じるのは、情報の価値自体、限りなくゼロに向かって進んでいる、ということです。


これだけ情報に溢れている現代で、「情報を売る」「情報で飯を食う」というのは、どんどん難しくなると思います。
発達障害の世界も同じ。
これまで、どれだけの「自閉症の特性」「ADHDの人達の困り感」「LDの人達の見え方」などの情報が提供されたでしょうか。
そういった情報は、私が学生時代だったときとほとんど変わりがありません。
理解の焼きましでは、本人たちの苦しさは変わらないのは、もうどれほどの長い間、見てきたことでしょう。
私達がいくら彼らの生きづらさを理解したとしても、彼ら自身が変わらなければ、その生きづらさが軽減していくことはない。


周期的に輸入されてくる欧米産の療育も、ブームになっては消え、の繰り返し。
結局、根本的な解決に至らないのはどれも一緒であり、「部分的に、人によっては役に立つね」が妥当な評価。
残ったのは、その資格を持った普通の支援者達の集団であり、欧米に持っていかれたのはジャパニーズマネー、潤ったのは欧米の専門家と、その地域で療育を受ける人達。
以前は、「私がやって効果がなかったのは、私の勉強不足だから」と言っていた親御さんがいましたが、専門家でも効果が限定的なのが明らかになった現在、〇〇療法というアイディアの一つ、情報の一つくらいなものなのです。


喰えない情報は持っていても仕方がないし、効果的な情報は、親御さんも、専門家も、関係なく持っている。
ですから、私で言えば、私の持っている情報の価値はゼロ。
ということは、この商売を続けていくのなら、ほかの部分を売らなくてはいけません。
この前、ブログに書いた「情報を削っていく」というのも、まだ仕事になると思います。
また、手にした情報を、目の前の我が子の発達に馴染ませていく際のお手伝いも、いけるかもしれません。
他には、実際に関わった人数、アセスメントした人数は、親御さんよりは多いと思いますので、その子の発達の流れを読み、物語を綴っていく作業ができると思います。
まあ、確実に言えることとしては、「結果が出ないと仕事は終わり」ということ。
その結果とは、実際に親御さんが動けた、何かを変えられた、という結果と、子どもさんにポジティブな変化が見られた、という結果だといえます。



企業が常にサービスや商品の質を高めていくことが当たり前のように、支援者という商売も、常に質の向上を目指していかなければならない時代だと思います。
というか、今まで、その質が問われなかったのが問題だったのですが…。
今どき、親の会、なんとか支援センターに行って、真新しい情報など得られません、話は親身に聞いてくれると思いますが。
そういったところに行くよりも、書店やネットで、新鮮な情報を得ることができますし、早い。
ですから、支援者も情報ではなく、腕で評価されるようになるでしょうし、腕のない支援者は親御さんからそっぽを向かれるでしょう。


今までは、「治す方向で援助している支援者って珍しい」ということで、私の仕事が選ばれていた部分も多々あると思います。
ですが、もう治るのは当たり前ですし、家庭で治していけるものなので、そこでは商売できないはずです。


あと2日で、2020年代が始まります。
2000年代は、アスペルガー&高機能ブーム。
2010年代は、高機能の人達への支援の模索と限界。
2020年は、この20年間の反省から、特別支援の枠を超えてアプローチしていく人達が増え、今以上に、治る人や診断が外れる人が当たり前になっていくと思います。
この10年間で、診断基準の大きな改訂はないはずですので、診断名を持ち続ける人と、外していく人、その診断に頼らず生きていく人とに明確な分離が起きるでしょう。
その分離は、「発達を促していくか」「支援を受け続けていくか」の個人的な価値観、思考によって生じると思います。


さあ、2020年代は、どのような変化が起きてくるのか、私の仕事が続いているのか。
新しい〇〇療法も生まれるでしょうし、それを求める人もいるでしょう。
自分の子育てよりも、社会に理解や資源を求める人もいるでしょう。
でも、その人達は少数派になると思います。
社会は、治せる人を治さず丸抱えにするだけの体力は残っていませんし、今の子ども達が治り、社会の中にどんどん飛び立っていくからです。


元発達障害児という若者たちが、社会を変えていくでしょう。
そうなれば、心から嬉しいですし、私のような商売は必要なくなります。
腕が悪くてなくなるか、社会のニーズがなくなりなくなるか、はわかりませんが、目の前に来た2020年もその瞬間まで頑張っていこうと思います。
一年間、ブログを読んでくださった方、たくさんの貴重なお話を聞かせていただいた方、お仕事を依頼してくださった方、誠にありがとうございました。
皆さまにとって、2020年が、より良い一年となりますようお祈りしています!




2019年12月29日日曜日

【No.1000】「発達した」という声は、生きている証、生命そのもの

2019年は、1月、2月、3月と、3か月連続で新大阪駅前の同じホテルに宿泊。
関西と中部地方を行ったり来たりしながら、出張の発達相談を行いました。
そのあと、暖かくなってからは、九州と中国地方への出張。
今年は2ヶ月に1度のペースで、北海道以外の場所の訪問をさせていただきました。


完全に個別対応ですので、観光では行かないような場所に伺えたことが楽しみでもありました。
その土地土地の雰囲気、文化、空気感を感じ、またそれにどのように馴染んでいくアイディアを提供できるか。
単純に、ただ発達を促すだけの発達援助ではなく、その土地の、各ご家庭の文化、雰囲気、空気感に馴染むような発達援助。
そういった、もう一つ先の発達援助を目指し、努力を続けていきたいと思っています。


私は幸か不幸か、師匠と呼べるような存在がおりません。
教員免許は大学の講義で単位が取れたら取得できましたし、療育法に関する免許、資格に関しても、特定の人について学びはしましたが、それもトレーニングの期間だけのお付き合いでした。
ですから、基本的に独学で、その時その時で、必要だと思ったことを、なにか「これだ!」と感じることを、掘り下げていったら、今に至るという感じです。


若い頃は、それこそ、独立を考える前は、誰か特定の師匠について学んでいないことを後悔することもありました。
しかし、今考えると、反対にそれが良かったような気がします。
変なシガラミもなければ、誰の顔色を伺うこともありません。
それに、興味のまま、自分の感覚に従い、より良いものを瞬時に取り入れることができます。
私の仕事は、私が直接治す仕事ではなく、主に親御さんに治すアイディアを提供し、子どもさんが治っていく後押しをすること。
なので、私に特定の“型”がなくて良いのかもしれません。
型なしだからこそ、特別支援教育や療育などの狭い範囲に縛られることなく、少しでも発達に繋がるアイディア、知見を、幅広い世界から吸収しようと動けるのだと思います。


一昔前は、私のような型なし、師匠なしは、独立できたとしても、続かなかったでしょう。
でも、今はネットがあり、素晴らしい知見や視点、技術を持った人とつながることができます。
そういった優れた方達とネットを通して、リアルタイムでつながることによって、日々、自分自身の知識をアップデートすることができます。
と言いますか、今の時代、国立大学の教授の講義のように、1年前のプリントを出して講義しているようじゃやっていけません。


1年前の知識は、すでに古くなっていて、使えないようになっていることが多々あります。
どこかの派閥で、特定の資格、知識、情報の中だけで完結しようとしても無理。
情報の垣根は、専門家も、一般の人もありません。
専門家だけ知っている知識、専門家しか知らない知識は、限りなくゼロに近づいています。
あるのは専門家との垣根ではなく、アクセスしようと個人が思うかどうか、動くかどうかの違いです。


私もブログを書いていますが、素晴らしい実践家の皆さんは、ブログ等で日々、惜しげもなく貴重な情報、知見を発信しております。
実際にお会いしたことがない方ばかりではありますが、「この部分、この分野における師匠」という想いで勉強させてもらっています。
その中には専門家の方もいれば、一般の方、子育てをされている親御さんもいます。
優れた知見に、肩書は必要ありません。
あるのは、結果のみ。


そういった方々の発信を見聞きし、それをそのまま実践できるわけではありません。
私は、その人の内側にある原理原則を感じ、掴もうとしています。
どんな実践家、親御さんにも、根底に流れる揺るがない信念があるものです。
その信念の中に、原理原則があり、その原理原則から、どのように日々、私が関わる人たちへ応用し、発展していけるか。
そこが一番の核になります。
どんな優れた技術、型を手に入れたとしても、それをそのまま振りかざしては、その人を型の中に押し込めてしまいます。
優れた実践家とは、その技術のことを言うのではなく、根底に流れる信念、原理原則の素晴らしさを言うのだと、私は考えています。


2019年は、相談メールのやりとりが1,000件以上、出張も行かせてもらいました。
そういった活動を通して感じるのは、「住んでいる地域は関係ない」ということです。
治す人は、どんな地域に住んでいようとも治すし、首都圏、都市部に住んでいても、治そうと思わなければ、治らない。
一昔前は、「うちの地域は遅れていて」が言い訳の一つとして通用したけれども、今はそうではありません。
「ずっと福祉でいいや」「ずっと支援でいいや」と思うか、「少しでもラクになってほしい」「より良く育ってほしい」と思うかの違いです。


「私の地域の療育機関の質ガー、支援者の質ガー」という人もいますが、そもそも療育機関に行っても治りません。
必死に療育機関に通っても、障害児として生きる術は身につきますが、その子の本来の発達の流れに戻る発達の後押しはないのです。
赤ちゃんは、どこで発達するか。
受精から2歳まで、言葉を獲得する前までの発達の舞台はどこか。
それは家庭であり、親子の育みの中にあります。
なにか特別な環境、機関に行って、発達させるものではないのです。
自然な親子の交流、遊びや運動を通して、ヒトは発達するのです。


私が日々、目を通し、そこで話されている内容から、発信者の原理原則を学ぼうとしている場所、空間があります。
それは、花風社さんが管理運営されている『治そう!発達障害どっとこむ』というインターネットの交流サイトです。
本当に多くの方達が、自分の実践、子育てで気づいたこと、感じたことを、自由で活発に発信されています。
あるご家庭の治ったという実践が、そのまま我が子に当てはまるかどうかはわかりません。
でも、そこにある原理原則は、どの子にもつながっていると思います。
ですから、多くの実践、生の声、リアルタイムの発信を見聞きすることは、目の前の子どもさんがより良く育つための材料集め、視点集め、アイディア集めです。
材料がなければ、限られたメニューしか作れませんが、材料が豊富なら、その分、自分も、家族も喜ぶメニューが作れるのと一緒です。


今の療育、特別支援は、のり弁みたいなもの。
安いけれども、味はいつも一緒で、栄養は偏っている。
美味しくはないけれども、安いから親子で食べ続けるなら、それでもよし。
でも、やっぱり他の食事も食べたいな、栄養があるものを食べたいな、その時々で必要な栄養を摂りたいなと思えば、自分で材料を集め、料理を作るしかありません。
料理も、子育ても、相手の顔を見て、体調を見て、試行錯誤しながら作り上げていくもの。
その良質で、新鮮な材料、情報の宝庫が、『治そう!発達障害どっとこむ』の空間だと思っています。
この空間は、今この瞬間も、いろんな人達の声により躍動しています。
「発達した」という声は、生きている証、生命そのもの。
だから私は、このサイトに行くと、心地良いのです。


今回のブログで、1,000回更新となりました。
起業したときから書き続け、約6年で28万アクセス。
支援者は言葉の仕事でもあるので、その技術を高めるために始めたのがきっかけ。
あとは、読んでくださった方が、ポジティブでも、ネガティブでも、感情が動く文章、内容にしたいと思い、綴ってきました。
行動しなければ、何も考えていないのと一緒です。
なので、喜びでも、怒りでも良いので、「こうしちゃおれん!」「今日からやってみよう!」と思えるような後押しができたなら、読んでくださった方たちに対しても、書き続けてきた意義があったかな、と思います。


いつか、私が日々、原理原則を学ばせていただいている素晴らしい実践家の方たちのような文章が書けるようになったら、と思っています。
そのためには、日々、精進、日々、アップデート!
無事、年内に1,000号が更新できてよかったです(笑)
今まで読んでくださった皆様、ありがとうございましたm(__)m☆彡

2019年12月27日金曜日

治る子、治りにくい子、治り切らない子

重い知的障害を持っている子、言葉がなかなか出ない子。
そのようなお子さんがいるご家族にとっては、「治る」という言葉が、希望よりも、プレッシャーや落胆という意味合いになっている場合があるように感じます。
実際、揺れ動く心のうちを話してくださった親御さん達が一人、二人ではなく、複数いらっしゃいます。
他のお子さんが治っていく姿に喜びや希望を感じるのも事実。
でも、その姿がまぶし過ぎて、また同じように育っていかない現実を受け止められず、苦しく思ってしまうのも事実。


確かに、子どもさんによって、治りやすさに違いがあります。
ポンポンと治っていくお子さん達というのは、「もともと発達障害の器質はないよね」っていう雰囲気があります。


胎児期の栄養、環境、刺激によって、発達に遅れが出た発達障害の子。
出生後、栄養、環境、刺激によって、発達のヌケが出た発達障害の子。
胎児期、また出生後に生じた愛着形成の不全が、主に社会性の部分で発達の遅れを生じさせ、発達障害と見られちゃう子。
トラウマが発達のストッパーになり、同年齢のように育っていかず、結果的に発達障害っぽくなっている子。
腸内環境の問題や脳内の炎症が、不適切な行動、不可解な症状となり、典型的な発達障害と誤解されてしまっている子。
首の育ちの遅れが、末梢神経と脳の行き来を阻み、刺激の目詰まりで順調に発達していけない子。


発達障害と診断された子ども達が、栄養や運動、原始反射の統合などによって治っていくのは、「だって、僕は発達障害ではないもんね」というのが真実のような気がします。
原因があって、結果的に発達に遅れが出た。
ですから、その子の本来の発達の流れを読み、その流れに乗っていけるような育みをすれば、治ります。
もしかしたら、「治る」というよりも、本来の姿に戻ったという表現が、実態に近いかもしれません。
「発達障害が治る」という言葉を聞いて、特に驚きも、高揚感もないのは、現在、診断される子ども達の中心が、遺伝的な要素以上に、その“引き金”の方の問題によって生じているからだと感じます。


一方で、治りにくい子ども達がいるのも事実です。
同じように、発達のヌケがあり、育て切ったとしても、同年齢の子ども達と違いがないくらい治っていく子もいれば、その部分での発達は進んだけれども、やっぱり認知の面で、症状や行動の面で、遅れや特性の残る子もいます。
私自身の知見の浅さによって、発達課題の根っこが掴めなかったために、なかなか治っていかない子もいると思います。
ただ私の経験の中から申しますと、その子の内側に流れている発達自体が、定型の子ども達とは異なっている気がします。
それは遺伝的な流れでもあり、脳内の炎症や栄養不足などといったものとは、もう一つ違うレベルの生態的な原因があるようにも感じます。


「なかなか治っていかないんです」と相談されるご家族のお話を聞けば、親御さんのどちらかに、また祖父母の代、親戚の中に、幼少期、同じような行動や症状のあった人がいる場合があります。
そういった場合は、治らないんではなく、それ自体が引き継いだ資質であり、その子の内側に流れる発達の流れだと思います。
ですから、発達のヌケ、未発達を育て切ったとしても、特性自体は残り続けます。


じゃあ、特性が残り続けるのなら、「治すよりも、支援、理解の方を重視した方が良いのでは」と思われるかもしれません。
もしかしたら、「治すことが無駄だ」「遠回りだ」と感じるかもしれません。
しかし、そんなことはありません。
発達のヌケや未発達を一つでも多く治しておくことは、その子の生涯の生活の質を変えていきます。
一つでも課題がクリアされれば、それだけで心身が一つラクになります。
そして、重要なのは、この先なのです。


「一つラクになる」ということは、脳内に余白を生みます。
空いた余白に何が入るか。
その余白が、学習に使われるのです。
残った特性を持ちつつ、大人になった方達は、みなさん、学習することで、その特性と折り合いを付けています。
完全に消し去ることはできなくても、試行錯誤を繰り返し、その特性と折り合いをつけて生活されています。
学習する力によって、特性に心身がコントロールされるのではなく、心身が特性をコントロールする状態までもっていく。
そのために、たとえ重い知的障害を持っていたり、症状や特性が強く残ったりしていたとしても、完全に定型の子ども達のように育たなかったとしても、発達のヌケや未発達をコツコツ育てていくことが重要なのです。


私のキャリアの前半は、すべて重い知的障害を持った方達であり、強度行動障害と言われるものを持った方達との関わりでした。
彼らもゆっくりではありましたが、発達していました。
ある部分で発達が見られると、こちらからの指示に対する反応が早くなったり、理解できる幅が広がったりします。
そうすると、新たなことを学習したり、課題となる行動の頻度が減ったりしていました。
たぶん、発達によって、余裕が生まれたのでしょう。
もし、当時の私に、今の発達援助のアイディアがあれば、もっと「発達→余白→学習→生活質の向上→発達…」というポジティブなサイクルを後押しできたのでは、と思っています。


知的障害が重い人も、強度行動障害を持っていた人も、年齢が高くなってからも学習し、自らの特性と折り合いを付け、少しずつより良い生活の質を手に入れていきました。
ですから、「なかなか治らないな」「もしかしたら、完全には治らないかも」と思われている親御さんにも、「治しやすいところから治す」「一つでも多く、発達のヌケ、未発達を育てる」を続けて欲しい、と思います。
その育みが、将来、自分の特性との折り合いをつけ、主体的に生きていく姿と繋がっています。


子ども時代に治り切らなくても、大人になってから、時間をかけて治っていくかもしれません。
生涯、特性や知的障害が残り続けたとしても、自らの試行錯誤と学習によって折り合いがつけられれば、前向きな人生を送ることができるはずです。
特性にコントロールされている状態では、他人に意思や選択を委ねざるを得ないのです。
意思と選択の自由がなければ、人間は幸せに生きていくことができません。


今の仕事をするようになってから、知的障害を持った成人の人達の中に、主体的で前向きに、幸せを感じながら生きている方達がいます。
彼らは、他人から見れば、治っていないかもしれない。
でも、治ることを諦めなかった人であり、大人になってからも日々、成長し、学び続けている方達です。
治ること以上に、自らの意思と選択によって生きている今日一日が、幸せへと繋がっている、と私は彼らから教えられているような気がします。
一人でも多くの子ども達に治ってほしいですし、治らなかったとしても、自由を謳歌できる人生を送ってほしい、と願っています。

2019年12月26日木曜日

「心理的な自立」で、すぐに思い浮かぶ子

自立には、主に3つの側面があると思います。
身の回りのことが自分でできる身辺的自立。
収入を得て、自分で生計を立てて生活する経済的自立。
そして、昨日、お話しした自分の意思と選択によって生き方を決める心理的自立です。
この3つの自立で順位をつけるとすれば、私は心理的な自立が最も大事なことだと考えています。


「心理的な自立」という言葉で、すぐに思い浮かぶお子さんがいます。
その子は、まだ発語がなく、知的障害で言えば、重度の判定が出るお子さんです。
まだ子ども年代ですので、これからの発達、成長によって、変化していく可能性はあるでしょうが、もしかしたら、完全な自立は難しいかな、と思うことがあります。
実際、ご家族も、そのように仰っていました。
将来、身辺面でも、経済面でも、支援が必要になる可能性が高い。
でも、この子と接していると、悲しげな成人後の姿が見えてこないのです。
それは、心理的な自立ができる子だと感じているからです。


この子は、「好きなものは好き」「嫌いなものは嫌い」というように、とても意思がはっきりしています。
その意思表示も、言葉ではありませんが、しっかり態度や行動で示します。
そして何よりも、その意思表示に対して、家族みんなで、しっかり目や耳、感覚を傾け、ちゃんと分かり合えるまで向き合い続けるのです。
当然、「ダメなものはダメ」ではありますが、叶えられるものなら、時間が許す限り、応えています。


そういった本人、家族の姿を拝見すると、自分の好き嫌い、意思をしっかり表明できる機会があり、それが保障されている。
日々の生活の中に、本人が選択できる機会が自然にあり、その結果を含めて味わえている。
もちろん、本人の持って生まれた資質もあるでしょうが、このような育みが幼少期から将来の心理的な自立に向けた準備になっていると分かります。


たとえ、将来、支援を受けながら生きていくにせよ、この子は、ちゃんと意思表示をし、自らの選択によって生活を決めていくはずです。
「自分の意思と選択によって、今日一日を生きていく」
何の変哲もない、多くの人が意識することなく、当たり前に行っていることであり、保障されていること。
しかし、そんな当たり前のことが、保障されていない人たちもいるのです。


限られた資源で効率的に行おうとすれば、言葉のあるなし、知能検査の数値が、意思表示の有無、選択ができるかどうか、の判断に使われてしまいます。
成人したとき、「難しい」「困難」と判断されてしまえば、本人の意思や選択を聞くことなく、またその場すら与えられることなく、自分以外の人間によって、その後の人生が決められてしまいます。
一旦、施設に入ることができれば、親としては安心かもしれませんが、本人からしたら失うものが多すぎると思います。
生活面、経済面で、本人は心配することはありませんが、心理的な自立が難しくなるのです。


施設こそ、限られた人員、予算、環境ですので、個人の選択は極力減らしていき、効率的に運営できる方向へと進みます。
毎日、決められた流れ、日課で、一律に行動できている状態が、支援する側としてもっとも効率的だから。
ですから、子ども時代、学校生活を送っている間に、自分の意思表明と選択ができる力が育っている必要があります。
そういった心理的な自立ができている人まで、支援者も選択の機会を減らそうとはしないものです。
別の言い方をすれば、支援慣れしている人から順に、選択の機会が減らされていく。


私は、現状の早期療育、また療育や支援自体に、否定的な意見、見解を持っています。
それは、「発達」や「治る」とはかけ離れたことをやっているからだけではありません。
それ以上に、現行の療育、支援が、子ども達から意思と選択の機会を取り上げ、支援しやすい子を育てるというシステムになっている点が、最も問題なのです。
構造化にしろ、ABAにしろ、SSTにしろ、その多くは、支援者の視点から展開されています。
どれもこれも、「支援しやすい子に育てる」という流れが見えますし、その根底には、いまだに「可愛がられる障害者を」という思想が見えるのです。


支援者が支援しやすい人。
支援者にかわいがられる人。
その2つに共通するのは、「指示通りに動いてくれる」ということです。
それには、本人の意思と選択が邪魔になることがある。
意思がなく、選択もしない。
そういう状態が、もっとも支援者の指示が入りやすい状態なのです。
施設で働いていたとき、私は彼らの意思に耳を傾けることなく、幾度となく選択の機会を奪ってきました。


ですから、今、こうやって家庭支援の仕事をやっていて、「心理的な自立」の大切さを伝えています。
いくら身の回りのことができ、経済的に自立できたとしても、他人に、支援者に、その人の生活が決められてしまっている状態は、幸せだとはいえません。
長い人生、ずっと他人が決めた生活をこなしていくだけ。
そこに選択、そして自由がないのです。
たとえ限られた選択肢であったとしても、自らの意思と選択によって得られた結果は、その人に自由の喜びを感じさせてくれるものです。
そうです、現行の支援には“自由”がないのです!


「心理的な自立」で思い浮かべたお子さんには、自由があります。
もちろん、発達の面では、不自由な面も、まだたくさんあると思います。
でも、生活の中に、家族の中に、自由が溢れている。
ですから、伸びやかな日々があり、心理的な自立に向けた育ちが進んでいるのだと思います。
きっとこの子は、どこで生きたとしても、心の自由を失うことはないはずです。
心の自由があれば、生涯を通して、成長し続けることができる。

2019年12月25日水曜日

発達障害を治すだけでは、自立できない

児童デイに通っている子が、「今日は、お友達と遊びたい」と言いました。
そうすると、親御さんが「今日は、児童デイに行く日だからダメですよ」と言いました。
その子は友達の誘いを断り、しぶしぶ児童デイに行くのでした。


これは、ノンフィクションです。
この話を聞いて、私は、この子の自立を阻んでいるのは、親御さんだと思いました。
それは、「友達との遊びの方が、児童デイよりも、社会性が培える機会だから」という単純な話ではありません。


自分の一日をどう過ごすか。
それは、プライベートな話であり、本人が決めることです。
当然、家族の事情があり、考えもあって、本人の選択通りに行かないこともあるでしょう。
でも、そういった場合であっても、ちゃんと事情を説明し、納得、または妥協点を見つける作業は必要です。
相手が子どもだからといって、一方的に子の選択の機会を奪うことはやってはいけません。
何故なら、選択できることが、自立するために必要な力だからです。


私は、「選択する力」というのは、自立にとって重要なスキルだと考えています。
と言いますか、選択できない人は、自立できないでしょう。
自立にはいろいろあって、経済的な自立もあれば、身辺的な自立もあります。
しかし、いくら経済的にも、身辺的にも、自立できていたとしても、自分のことを自分で決められない人は、心理的な自立ができないのです。


よく支援者は、「完全に自立して生きている人間などいません。みんな、誰かに頼って生きています。食べ物だって自給自足していないでしょ。だから、できないところを支援を受けながら、生きるのは問題ないんです」と言って、「支援付きの自立」とかいう論理が破綻しているものを売ろうとします。
「うちの支援を受けて、自立した人達がいます」という事業所の話を聞けば、グループホームや作業所に通って支援を受けている。
いやいや、それは自立とは言わない。
24時間のうちの大部分が、支援を受けていることで成り立っているから。
そして何よりも、本人に選択できる場面がほとんどないから。


もう今の親御さん達はわからないかもしれませんが、構造化のアイディアの一つとして、スケジュールというものがありました。
その日の予定を、子どもの認知度に合わせて、絵カードや文字を使い、視覚的に示すアイディアです。
以前は学校や施設、家など、どこでも壁に一人ひとりのスケジュールが貼ってあったものです。


そのスケジュールですが、基本的に本人以外の人が組み立てます。
「今日の予定は、こんな感じ」みたいな。
で、それを見て、子どもは楽しい予定があれば、喜ぶし、反対に嫌な予定があれば、悲しんだり、怒ったりします。
そういった自然な子どもの反応に対し、支援者はどうしたでしょうか?


日本では、子どもが泣こうが、わめこうが、いったん示した予定は、すべて行わせようとします。
子どもが怒って、カードをはがしても、再び取り付けます。
それが頻繁な子の場合は、提示してある場所がどんどん高い位置になり、子どもの手が届かない場所に動いていきます。
とにかく、「一度提示したスケジュールは、全部やらせること」というのが、学校でも、施設でも、家庭でも行われていました。
理由は、構造化を推し進めていた有名支援者がそう言っていたから。


一方で、その構造化のアイディアが生まれた地に研修で行ったときですが、日本では、どこでもここでも見られていた「スケジュールやりたくないVSやらせる」のやりとりが、まったく見られませんでした。
大学や療育施設だけではなく、強度行動障害の人達の施設にも行きましたが、そこでもスケジュールに関するいざこざはなし。
理由は、本人がスケジュールに不満を述べたら、支援者は意見を取り入れ、どんどん変えちゃうから。


日本だと、スケジュールの変更を受け入れてしまったら、「好きな活動しかしなくなる」「嫌なことはやらなくなる」「我がままになってしまう」などと言う人が多いですが、アメリカのそこの州で出会った支援者達は、「スケジュールは本人のプライベートなものだろ」という考え。
だから、最大限、本人の意思と選択を尊重します。
もし、その活動が嫌だったら、その活動自体に問題があるのだから、そこを改善しようとします。
そりゃそうです、子どもなら尚更、嫌なことはしたくない。


文化の違いもあるのでしょうが、アメリカでは、どんなに小さな子どもでも、本人の意思と選択を尊重していました。
自立の意識が強い国ですから。
「自立した人間になる」とは、自らの意思と選択によって生きていける人間に育つことを言うのだと、私も思います。


その療育を受けるのは、放課後、児童デイに行くのは、その薬を飲むのは、本人の意思と選択によってなされているのだろうか、と疑問に思うことがあります。
結局、みんなが受けているから、通っているから、専門家から「飲んだ方が」と言われたから、という具合に、はみ出ることを恐れる親御さんの安心のために選択させられているのでは、と思います。
本当に、「そこに行きたい」「受けたい」「飲みたい」と思っている子ども達は、どれくらいいるのでしょう。


以前、家庭で暴れるという子のご家庭と関わることがありました。
発達のヌケや課題はありましたが、どうも、それが引き金ではない雰囲気がありました。
その子は、知的障害があり、明確な発語はありませんでしたが、意思がはっきりあるお子さんでした。
ですから、一日の活動の中で、好き嫌いを尋ねていきました。
すると、好きは明確ではありませんでしたが、嫌いだけはっきり意思表示したのです。
通っていた施設が“嫌”だった。
施設の写真を真っ先にグチャグチャにしていましたから(笑)


親御さんとしては、我が子のことを想い、療育機関に通っていましたが、本人からしたら、それ自体が嫌だった。
明確な発語がなかったことや、「スケジュールは必ずやるもの」という日本の凡支援者の言葉を信じたことが、問題の引き金になっていました。
その施設に行くのをやめるようにしてから、家で暴れる頻度が極端に減ったとのことでした。
想像すればわかるように、自分の意思や選択が尊重されないばかりではなく、その機会すらない、というのは、どれほどのストレス、苦痛かと思います。


どんなに素晴らしい療育施設、専門機関だったとしても、子どもが嫌々行っているところで、どんな効果、発達があるというのでしょうか。
刺激を受け身で感じているだけで育つ発達段階は、誕生後の初期も初期です。
あとは、本人の意識が向かなければ、発達は生じません。
「刺激→反応」というレベルは、とっても原始的でしょ。
そこが目的で、療育施設、専門機関に通っていますかね。


3歳くらいの幼い子にも、重い知的障害がある子にも、強度行動障害がある人にも、支援者が「どうする?」「どっちがいい?」「何がしたい?」など、時間をかけて尋ねていた姿が印象に残っています。
「発達障害が治る」に関しては東洋的な知見の方が勝ると思いますが、こと『自立』に関しては、欧米の姿勢を見習う部分があると思います。


「意思を表明する」「選択する」には、結果とセットになっています。
自分が選択したことで、こういった結果になった。
その結果が良いものであれ、悪いものであれ、フィードバックされますので、神経発達だけではなく、自立に、試行錯誤に、必要な経験、材料をストックすることができるのです。
知識やテクニックだけ増えても、結果を含めた体験がなければ、自分の足で立ち、歩んでいくことはできません。


冒頭の子で言えば、児童デイに行かず、友達と遊ぶことで、楽しければ、「また遊びたい!」となるでしょうし、楽しくなければ、「児童デイの方がいいや」または、「どうすれば、楽しくなるかな?」と思うかもしれません。
これも、発達のヌケを育て直すとは別次元の、自立への後押しになります。
一番問題なのは、本人の意思がなく、ただ決まりごとのように通い続けること。
児童デイで過ごす方法は身につくかもしれませんが、自立に必要なスキルは身についたとはいえません。


自立とは、選択の連続です。
その次の選択には、本人が結果まで味わうことが必要。
選択→結果→選択(*ちょっとレベルアップ)→結果(別の結果)…。
結果をしっかり受け止めることで、次の選択へと繋がります。
発達障害を治すだけでは、自立できないのです。


自らの意思と選択によって歩んでいける人は、「治す」という選択も行うことができます。
成人後、治っていった皆さん、治り続けている皆さんは、この意思と選択、結果からのフィードバックを受け止め、活かせている人達のように感じます。
まさに、自分が自分自身の一番の支援者である人達ですね。
その源流を辿っていけば、子ども時代の選択が保障されていたかどうかに突き当たるのです。

2019年12月20日金曜日

「生涯に渡る支援」の熱狂を振り返る

まだ小学校教員を目指していた頃の学生時代、障害児教育の講義で海外では「ゆりかごから墓場まで」の支援が、社会のシステムとして実践されていることを知りました。
そういったシステムが構築され、障害を持った人が安心して生きていける社会は、なんて素晴らしい社会なんだと、当時は思ったのでした。


卒業後、就職した自閉症児施設では、アメリカノースカロライナ州で行われていたTEACCHプログラムから学び、それを日々の支援に取り入れていました。
TEACCHプログラムは、視覚支援、構造化のイメージが強いですが、本来は自閉症の人達、また家族を生涯に渡って支援していくための州公式のプログラムです。
10年前くらいで終了してしまいましたが、すべての支援サービスを無償で受けることができました。


学生時代から「生涯に渡る支援」という言葉をたくさん聞いてきましたし、日本でも、そのような仕組みができることが理想だと思っていました。
実際、今でも、その「生涯に渡る支援」を地域で作ろうとしている人たちがいます。
しかし、それは実現するのでしょうか?
そもそも必要なのでしょうか?
本当に、障害を持った本人にとって、幸せなことなのでしょうか?
いつしか、理想だと思っていた「生涯に渡る支援」に対し、私はネガティブな感情を持つようになったのです。


平成の世、有名支援者も、メジャーなドクターも、「この子達に必要なのは、生涯に渡る支援だ」と言い、特定の支援方法を広め、家族や教員、支援者に支援し続けることの重要性を説いていました。
ですから、一つ上の世代の親御さん達、当時、30代、40代でバリバリやっていた教員、支援者というのは、とにかく「生涯に渡って、この子達を支援していくんだ!」「小さいときから慣れ親しんだ支援を大人になっても使うんだ!」という想いで突き進んでいたように感じます。
ギョーカイを先導する人も、現場の教員、支援者も、各家庭の親御さん達も、みんながみんな、「支援、支援、支援」と口々に叫んでいました。


ある親御さんが言っていました。
「学校に通っていたときは、卒業後も、私達がサポートします、大人になっても支援し続けます、と言っていたのに、当時の先生たちから、誰一人、連絡がない」と。
結局、卒業後は、親が見ることになっている、とも言っていました。
そうです、「生涯に渡る支援」なんて言っていたけれども、そういっていた支援者達が、その子の生涯すべて支援し続ける、という意味では使っていないし、そもそも自分がやろうとは考えていない。


結局、理想論を述べていただけであって、実際、卒業後に連絡がくると、「えっ」みたいなリアクションをするんです。
支援者の言っていた「生涯に渡る支援」は、「この子は自立は無理だから、生涯支援を受けるよな」という本音を、きれいな言葉で取り繕っていただけ。
「生涯に渡る支援」なんて、私も勘違いしていましたが、ポジティブな言葉ではなく、ある意味、その子の限界を決めちゃっている、とても失礼な言葉なんです。


支援者は「生涯に渡る支援」と理想のごとく口にする。
でも、実際に、たった一人であったとしても、その子の生涯全部を支援した人なんていない。
自分の担当が終わったあと、誰が支援するなんか、知らない。
本当に、この子が生涯支援を必要とする人なのか、わからない。
以前、発達障害の人達の理想の形が、「家事のできるひきこもり」と言っていたドクターがいましたが、そのドクターは、実際に、ひきこもりになった人を、生涯食べさせてあげるわけではありません。


自分の担当が終わったら、関係が切れちゃう支援者がほとんどじゃないですか。
他人様の人生、生活、選択にあれこれ助言や指示を出すのに、誰もその結果まで受け持ってくれないじゃないですか。
そんなもんです、支援者は。
だって他人だもん、お仕事なんだもん、うちの家庭の出来事じゃないんだもん。


今、振り返ると、「生涯に渡る支援」の熱狂は、親御さんから始まったように感じます。
「ああ、この子をどうしよう。大人になったら。私が死んだら…」
そういった深い苦悩に対し、支援者の言う「生涯に渡る支援」は、救いの言葉になったんだと思います。
「生涯に渡る支援があれば、安心だ」
そのように思った親御さんが多かったと感じます。
だからこそ、盲目的に「生涯に渡る支援」を求め、その言葉を発する支援者に傾倒していった。
支援者は、親御さんを安心させようと言った言葉であったが、親御さんは信じたのです。
発していた支援者は、誰も、その子の生涯すべてを支援しようとは思っていないのに。


昨日のブログは、「情報を捨てる」という内容でしたが、支援者も同様に、ちゃんと時が来たら捨てることが大事です。
支援者は、どう頑張っても、その子の人生の一部にしか関われないのです。
必ず別れが来るし、支援者と別れるというのは、その子の自立にとって、大事な一歩です。
もし、支援者を捨てられない親御さんがいるとすれば、それは子どもの自立のためではなく、親御さん自身の安心のためでしょう。
誰かに寄りかかっていたい気持ちはわかりますが、寄りかかり続けていたら、いつしか自分の足で立てなくなるもの。
親が子育てに関して自立できていないのに、子どもが自立できるとは思えません。
「生涯に渡る支援」なんていう言葉に寄りかかるのは止めた方が良いのです。


支援者なんて、捨てられてナンボの商売です。
支援の必要がなくなったのなら、発達&成長が見られた証拠ですし、自立へと一歩近づいたので喜ばしいこと。
もし、支援の効果、成果が得られないのなら、すぐに別の支援者、支援に向かった方が、子どもさんのためになるので、スパッと捨てるのは、これまた良いことなんです。


支援者に依存したくなるのは、手放したくないのは、子どもに支援が必要なのだからではなくて、私自身が寂しいから、心細いから。
その感情を支援者に向けてはいけません。
彼らは仕事で携わっているだけの他人です。
本来、そういった感情は、家族や仲間の中で解き放たれていくもの。
ですから、子の課題ではなく、親御さんの課題ですので、ご自身の心身を整え、愛着の土台、人間関係を見直す時期なのです。


自分の課題と向き合うのは、辛いことでもあります。
でも、子育てを通じて、気づかされた部分でもあり、それをクリアすることで、ご自身の人生をも豊かにすることができるのです。
だから、「生涯に渡る支援」を行うのは、社会でも、支援者でもなく、自分自身。
子どもさんにとっても、最大の支援者、生涯に渡る支援者が、自分自身になるような育ちを後押しすることがもっとも大事なんだと、私は思います。
自分自身が、自分の支援者なら、生涯に渡って発達を、成長を、生活をサポートし続けられますので。
定年も、異動も、退職もありませんね。

2019年12月19日木曜日

捨てる覚悟

大河ドラマ『いだてん』が終わってしまいました。
視聴率が低かったそうですが、それは視聴者層の違いとリアルタイムで観た人が少なかっただけで、とても興味深い作品だったと思いました。
まだ、途中までしか観ていませんけれども(笑)


来年の大河は、萬平さんの明智光秀。
きっと織田信長の配下になるし、きっと12月ごろには本能寺に向かうし、最後はきっと落ち武者狩りに遭うに決まっています。
だから、今年中に最終話までいかない『いだてん』を観ようと思います。
今、関東大震災が起きたあと、国立競技場で運動会をやったところです。
前の国立競技場が建てられた当時は、今とは全然異なる神宮外苑、千駄ヶ谷辺りだったのが、よくわかります。


私は千駄ヶ谷が好きで、子どもの頃、よく行っていました。
スワローズの本拠地、神宮球場がありますし(オリンピック期間中、機材置き場なんてヒドイ!)、通っていた将棋会館もありました。
今は藤井聡太棋士ですが、私が通っていたときのスターは、羽生善治棋士。
大人になってからは、ほとんど指さなくなった将棋ですが、今でも羽生さんのことは応援しています。


そんな羽生さんの言葉で、とても印象に残っているものがあります。
それは、『山ほどある情報の中から、自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」の方が重要だと思います』という言葉。
どんな世界でも、1つのことを極め、続けてきた人の言葉には、様々な真理へと繋がる深みを感じます。


仕事を通してお会いする親御さんには、この『情報との付き合い方』に段階があるように感じます。
まず、まったく情報を持っていない段階。
「発達障害」という言葉は知っていたけれども、まさか我が子が診断されるなんて…。
そのような状況の親御さんは、限られた情報に飛びつく傾向があります。
ですから、このときの保健師、医師の言葉は絶大。


出会った人によって、「風邪みたいに治るもんじゃない」と言われれば、「そうか、治らないんだ。受け入れるしかないんだ」となりがちです。
反対に、「この時期の診断名は仮みたいなもんだから。子どもは発達するし、診断基準から外れる子もいますよ」と言われれば、「そうか、じゃあ、より良く育つには、どうしたらいいんだろうか」と前向きな情報獲得へと向かいます。


この情報が限られている状態から、「受け入れる&支援」に向かうか、「より良く育てる」に向かうかは、運次第なところもあります。
しかし、どっちにしろ、多くの親御さんは、全く持っていない情報の段階から、情報探索、情報収集の段階へと進みます。


情報探索、収集の段階で、どういった類の情報を選ぶかは、前段階の影響を受けるような気がします。
いずれにせよ、現代の親御さんは情報を集めるのが上手ですし、勉強熱心な人が多いです。
専門家顔負けといいますか、そこら辺の支援者より、ずっと多くの情報を親御さんの方が持っていると感じます。
そりゃそうです、支援者はお仕事&定年、退職、異動までですが、親御さんにとっては我が子であり、家族であり、人生に含まれる部分ですから。
真剣味が違えば、姿勢が違います。
ある療法だけ勉強し暗記しちゃえば、なんとなく形が整って見える支援者とは違うのです。


ちょっと横道に逸れてしましましたが、私のところに連絡をくださる方の多くも、この情報探索&収集の段階で知った親御さん達です。
まあ、私みたいなチョーマイナーな支援者を見つけるくらいですから、皆さん、芸能記者並みの情報収集能力と量です(笑)
だからなのでしょうか、反対に多くの情報が集まりすぎてしまい、どれが我が子に合っているか、今必要なのか、迷子になっている親御さんも少なくないような気がします。


良いものを、効果があるものを、それこそ、エビデンスがあるものを、できる限り集めたからと言って、すべてが我が子に当てはまるわけではありません。
子どもさんの場合は、日々、発達&成長しますので、昨日必要だった刺激が、今日そうではなくなる、なんてことも、普通にあります。
親心としては、「良いものを全部」と思いがちですが、特に小さいお子さんの場合、「あれもこれも」が却って刺激過多になったり、本人が主体的に行う遊び、育ちを阻むことにもつながったりします。
ズバッと指摘させていただいた方もいますが、大人が学び、実行しようとするものには、少なからず学習の要素がありますので、「子どもを型にはめる」、子どもに発達ではなく、「学習をさせてしまう」可能性がゼロではないのです。
基本的に、発達とは、本人の『主体性と自由』の中に存在するものですから。


情報をたくさんお持ちの親御さんの場合は、一緒に「情報を捨てていく」というのも、私の仕事の役割になります。
継続してこの仕事をしていると、その子に必要なもの以上に、必要じゃないもの、いらないもの方がはっきり見えてきます。
それは発達を阻害しているものを見つけ出すだけではなく、「今、必要じゃないよね」「それって、発達課題の根っこじゃなくて、枝葉だよね」というものもあります。
先ほども述べたように、幼いお子さんの場合は、本人の主体性と自由度を最大限にすることが重要ですので、発達援助はよりシンプルに、よりスリムに、がポイントです。
そのお子さんにもよりますが、「〇〇だけ、1ヶ月続けてみて。他は〇〇くんが遊びたいように、感じたいように過ごす」という方が伸びるということも多々あります。


私達が子どもだった頃、「より早く、より多くのことを暗記し、ペーパーに書ける」が素晴らしい学力とされていました。
ですから、少なからず、我々世代の人間は、「情報をストックする」という回路が脳に刻まれているといえます。
だからこそ、逆に「捨てるのが苦手」ともいえます。
特に我が子のこととなれば、その回路が呼び起こされ、フル活用されるのでしょう。


「あれもこれも」やって、お子さんが混乱し、親御さんも疲弊しているご家庭。
日々、効率よく“こなしていく”ことで、支援や療育という型を学習してしまったお子さん。
少しやっては効果が出ず、少しやっては効果が出ず、を繰り返し、いろんなことが中途半端になっているご家庭。
良い支援者、専門家のハシゴをして、普通の生活自体が窮屈になってしまっているご家庭。
このようなご家族は、珍しくありません。
ですから、情報に溢れ、情報をたくさん得やすい時代だからこそ、「捨てる」ことの重要性が増していくのだと、私は感じています。


羽生さんの言葉には、こういったものもあります。
『何事であれ、最終的には自分で考える覚悟がないと、情報の山に埋もれるだけ』
そうです、子育てにも、情報を取捨選択するにも、「覚悟」が必要です。


金栗四三さんは、覚悟をもって、ストックホルムに旅立ちました。
その覚悟が、1940年東京オリンピック、2020年東京オリンピックへとつながったのだと思います。
そして、スワローズファンは、バレンティンがいなくなり、さらに続く低迷の数年間を覚悟しなければなりません。
覚悟があれば、道は開ける。
その道は千駄ヶ谷、神宮外苑、国立競技場へと続く。
でも、マラソンは札幌でしたね(爆)

2019年12月18日水曜日

『診断と投薬』の限界

息子を殺めた元農水事務次官の父親に懲役6年の実刑判決が言い渡された事件。
この判決や事件の状況、それまでの家庭生活などに対し、いろんな立場の人が、それぞれ長男の視点から、父親、家族の視点から意見が述べられていました。
そういった意見を目にするたびに、私は「どうしたら防げたのか?」という疑問が湧くのです。


父親がいわゆるエリートだったから、息子の気持ちがわからなかったんだ、その気持ちに寄り添えなかったんだ、世間体を気にして助けを求めることができなかったんだ。
確かに、そういった側面もあるかもしれません。
でも、それは事件の枝葉にすぎないと思います。
その幹は、「何やってんだ、専門家」
いや、「発達障害に関する専門家の無力さ」でしょう。


発達障害に関する専門家、支援者は、「診断があれば」「支援があれば」「理解があれば」と言います。
でも、本当にそうなのでしょうか。
この3つがあれば、こういった悲しい事件は起きなかったのでしょうか。


この息子さんは、診断を受けており、発達障害を自覚していたといいます。
しかも、服薬も受けていた。
つまり、『診断と投薬』という医療者のみに認められた専門的な援助を受けていたということ。
それなのに、息子さんの症状や生きづらさ、そして家族を心身共に追い詰めてしまう行為がなくならかったのです。
ということは、『診断と投薬』で問題は解決しない、限界があるという意味ではないでしょうか。


医療者が医療について、一般の人よりも専門的な知識、技術を持っているのは当然のこと。
魚屋さんが、一般の人よりも、魚に詳しく、さばくのがうまいのと一緒です。
専門家が一般の人よりも、その分野の専門性があったとしても、それイコール偉いわけでも、あらゆる面で一般の人よりも優れているというわけでもないのは当たり前。


今年も、いろんな地域で、多くのご家族とお会いしてきましたが、未だに専門家、支援者と親御さんが対等な関係を築けていない、もしくは、上下関係を維持しようとする場合が多いのが気になります。
専門家や支援者が、家庭生活のこと、進路に関すること、どんな支援を受けるか、また薬を飲む飲まないまで、口出ししている、指示していることが本当に多くあります。
そんなに発達障害の専門家とやらは偉いのか?
その指示に従った後の結果まで責任を持ってくれるのか?
それこそ、常々言っている「生涯に渡る支援」とやらを、その本人が人生を終えるときまで、ついてまわってやってくれるのか?


もし私が、事件が起きる前のこの家族の元へ支援者として伺ったら…。
こういった最悪の事態が防げたのか、本人の改善、家族の気持ちの良い変化を持たせられたか。
私にはできないと思います。
何故なら、支援者である私は無力だから。
たとえ、私が何か改善に繋がるアイディアを持っていたとしても、それが伝えられたとしても、行う主体は本人であり、家族です。
ですから、いくら頑張っても、本人、家族が行動に移せなければ、やろうとしなければ、手も足も出すことはできないのです。


どんなに専門家がその知識、技能を披露したとしても、支援者が偉そうにしていたとしても、主体まで手を出すことはできません。
いや、どんな人であったとしても、他人の主体を侵そうとする行為はいけないのです。
もし、それをやれば、洗脳であり、人権侵害です。
あくまで主体は本人、家族。
専門家、支援者というのは、その主体から一歩離れた存在です。
なので、ある意味、どんな専門家、支援者も無力であり、できることは主体である本人にアイディアや情報を提供することのみ。
専門家、支援者とは、主体に使われる存在なのです。


医療に繋がっても、最悪の事態を防ぐことはできませんでした。
『診断と投薬』は万能ではありません。
と言いますか、『診断と投薬』であっても、診断をどのように理解し、自分の中に落とし込むか、処方された薬を口の中に入れるか、は本人次第。


同じように、「欧米の大学公認」だとか、「〇〇学会認定資格」だとか、「エビデンスあり」だとか言っても、その支援方法が、本人に合うかどうかはわかりませんし、合ったとしても万能ではないのは事実です。
どんなに優れた療法だったとしても、いつなんどきも、どんな人、症状にも効果があるとはいえません。
だからこそ、主体である本人、家族が、しっかり見極め、試行錯誤しながら、テーラーメイドの子育て、支援をやっていく。
そのための情報源、アイディアの一つくらいなものです、専門家、支援者というのは。


いろんな方のお話を伺っていると、「〇〇センターはダメだ」「あの療法は、効果がない」などと言うと、専門家、支援者が不機嫌になる、怒る、予約を受け付けないようにする、などを行うことがあるそうです。
別に、その子に合わなかっただけですから、何も不機嫌になる必要はないのです。
どう頑張っても、万能にはならず、効果があったとしても部分的なのは当たり前なのです。
結果が出ないことに対して、「結果が出ない」というのは悪いことではありません。
結果が出ないことを、主体を侵略し、つきあわせようとするのが悪いことなのです。


専門家、支援が万能なら、こんなにも、子どもの発達で悩む親御さんが多いわけがありません。
もっと多くの人達が、学校を卒業後は、その人の資質を活かして、社会の中で生きているはずです。
特別支援教育が始まり、多くの子ども達が早期から診断、療育を受けられるようになり、就学後も児童デイなどのサービスが受けられ、社会の認知も広まってきたのに、発達障害の人達は以前よりも幸せに生きているのでしょうか。
彼らの生きづらさは、少しでもラクになったのでしょうか。


もし、そうなっていなければ、何かが間違っていた証拠であり、何かを変えていく必要があるということ。
私はこの世界に入って15年ほどではありますが、間違っていたのは、専門家が主体性を奪おうとし、親御さんが子育ての主体を丸投げしたことにあると思います。
そして変えていく必要があるのは、理解や支援ではなく、その子の内側にある発達のヌケ、遅れ、課題を育てていかなければならないということです。


そうならなければ、このたびのような悲しい事件はなくなっていかない。
持って生まれた資質を自分の人生に、社会のための活かすことができない人ばかりになってしまうのです。
こんな悲しいことはありません。
みんな、授かった大切な命です。
「発達障害だから」「生まれつきだから」という無責任な言葉で、一人の子どもの、一つの家族の人生を諦めさせることができるほど、専門家も、支援者も、偉くないし、優れているわけではない!


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【関東出張に関して】

12月16日のブログで告知したところ、想定していた以上のご依頼をいただきました。
17日の22時、定員に達しましたので、今回の主張相談の募集は終了いたします。
もし、ご検討中の方がいらっしゃいましたら、ごめんなさい。
今回、予定が合わずにお断りしたご家庭もありますので、次の機会をお待ちください。

2019年12月16日月曜日

発達援助とは、川底にある石を1つずつ拾っていくようなもの

日頃、子どもさんと関わる機会が多いので、ふと、自分の子ども時代を振り返ることがあります。
私は、水が好きな子どもでした。
特に、流れる水を見るのが好きだったように思います。


砂場で山を作り、そこに穴や道を作り、水を流して遊んでいました。
川に行けば、葉っぱや木などを流し、それを眺めているのが好きでした。
川の中に石を置いて堰き止めたり、流れる方向を変えたり…。
海に行っても、泳ぐよりも波の動きを見たり、波打ち際で遊んだりする方が好きでした。
私の思いだす子ども時代の原風景には、水の流れがあるのです。


この仕事をするようになり、「発達の流れ」という言葉を良く使うようになりました。
その子の『本来の発達の流れ』がある。
でも、なんらかの原因によって、その本来の流れから外れたり、停滞したりしてしまっている。
受精から現在に至る流れの中で、どこから流れが変わったのだろうか。
なにが、その流れを堰止めているのだろうか。
どうやったら、本来の流れに戻れるだろうか、そのために私達ができることはなんだろうか。
私が発達障害をイメージするときは、子ども時代に見た川と、私がその中に置いた石が目の前に浮かんできます。


発達の流れを堰止めている石には、大きいものもあれば、小さいものもあります。
一人ひとり、その子その子によって、どんな石がどれくらいあるかは違っています。
大きな石がドンと流れを堰き止めていたり、小さい石が複数積み重なることで、流れに変化を与えっていることがあります。
その石とは具体的には、栄養不足&偏り、原始反射の未統合、感覚系の未発達、運動発達のヌケ、長時間のメディア視聴、環境汚染、人工的な刺激など。
これらがあると、本来の発達の流れを変えたり、発達自体を緩めたりすることに繋がります。
しかし、これらは、取り除くことができるもの。


つまり、発達援助の核が、ここにあるといえます。
定型の子も、発達障害の子も、水は流れている。
しかし、特に上流のところに、大きな石、複数の石があって、本来の流れから変わってしまっている。
そして、上流から中流、下流へと進む中で、水の勢いがなくなってしまっている状態。
それが「発達の遅れ」となって表れている。
私達が行うこととは、栄養や刺激、環境を整え、ヌケの育て直しをし、その子の本来の発達の流れに戻すこと。
私達が先導し、人工的に川の幅を広げることではなく。
本来の流れに戻れば、自然と治っていくもの。


子どもさんによっては、石が置かれているだけではなく、最初から川幅が狭い子もいますし、水の量自体が少ない子もいるのは事実です。
しかし、だからといって、石を取り除くことを怠って良いのか、といえば、そうではないと思います。
細くても、少なくても、その子の発達の流れ、水が流れ続けていけば、少しずつであったとしても、川底が削られ、より多くの水が流れるようになります。
重い知的障害を持った子ども達は、まさにこのようなイメージです。
でも、時間がかかったとしても、水が流れ続けていれば、自らの力で川を成長させることができるのです。
何故なら、知的障害が残っても、働き、自分の人生を主体的に生きている若者たちからは、小さな石をも一つ一つ丁寧に取り除いてきた親御さんの姿が見えるから。


私が「発達障害が治ったな」と思う子ども達は、川から石が取り除かれ、本来の自然な流れを取り戻した子ども達です。
流れ方は一人ひとり異なりますが、その子らしい流れが現れると、見ている私達にも心地良さが感じられます。
自然な川の音、流れは、エネルギーを与えてくれる。
発達の流れが戻り始めると、その子だけではなく、家族の皆さんも前向きに元気が出てくるのは、そういった理由からだと思います。


「発達障害を治す」というと、重機で川幅を人工的に変えていく、というイメージを持つ方もいるように感じます。
でも、「発達障害を治す」というのは、本来のその子の内側流れる発達の流れに戻すことであり、そのための石拾い、育て直しだといえます。
なにか、発達を堰き止めているものがあるならば、それを取り除けばいい、たった1つであったとしても。
栄養でも、環境でも、育て直しでも、私達にもできることはあります。
上流の石を取り除けば、下流の流れも変わってくるのです。


水は流れ続けさえいれば、濁ったり、枯れたりすることはなく、きれいな水を保ち続ける。
そのきれいな水は、魚や虫たちに恵みを与えることにもなります。
それはまるで、最初は自分のためだった発達が、誰か他の人のために活きてくる姿と重なります。
自分の資質を社会のために活かして生きている人は、皆さん、発達、成長の流れを止めずに、歩き続けている人達なのです。


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【関東出張に関して】*定員になりましたので、募集を終了いたします(12月17日PM10:15更新)

お問い合わせやご依頼があった方たちへは、すでにご案内しております。
2020年、年明け早々なのですが、関東地方に出張相談で伺います(1月2日~8日)。
すでに、1月4日(土)は一日決まっておりまして、他の日も数名のご家族と日程調整中です。
もし、「この機会に発達相談を」という方がいらっしゃいましたら、お問い合わせください(募集は今週いっぱいを目処に)。
出張相談のご案内

2019年12月13日金曜日

子育ての喜び、親子の時間の楽しさ

今年、出張で伺ったご家族から丁寧なメールを頂戴しました。
お子さんに大きな変化が見られたこと。
我が子の発達、成長をそばで見て、心から嬉しく思っていること。
そして、診断を受ける前のような子育ての喜び、親子の時間の楽しさを再び感じられるようになった、と記されていました。
『子育ての喜び』『親子の時間の楽しさ』
この二つの言葉を目にしたとき、私は今の事業を起ち上げて良かったと心から思うことができました。


今は、こうして発達障害専門の仕事を起ち上げ、行っていますが、大学に入るまでは、自閉症という言葉すら知りませんでしたし、障害を持った人と関わったこともありませんでした。
しかし、障害を持った子ども達のボランティア活動に参加したことから、自閉症、発達障害を持った子どもさんとご家族との縁が生まれ、今に至ります。


学生時代は、主に放課後の余暇支援ボランティアを行っていたのですが、そこで出会った家族の姿に衝撃を受けました。
全員が全員ではありませんでしたが、私には我が子との時間を苦痛に感じているような家族が多かったように感じます。
「どうやって放課後を過ごそうか」
「今日は、午前授業だ、どうしよう」
「夏休みが近づいてくると憂鬱だ」
顔を引きつりながら、ときに我が子に余所余所しく、中には心身を病む方も…。
当時は小学校の教員を目指していましたし、それまでまったく知らない家族の姿でしたので、とても心が揺さぶられたことを覚えています。


学生時代、そして自閉症児施設で支援員として働き始めたときも、ずっと「何故、障害を持った子の家族は、子育てや家族の時間を楽しみ、喜べないのだろうか」と疑問に思い続けてきました。
その中で、教育の問題、医療・診断の問題、療育の問題、福祉の問題を感じました。
みんな綺麗事は言うけれども、実際、家庭で問題が生じても、誰も本気で向き合おうとしない。
というか、ほとんどアイディアを持っていない。
「家庭でのことに足を突っ込むと、それで解決しなかったとき、責任問題になるから」
そんな教員、支援者達の本音は、幾度となく耳にし、幾度となく憤りを覚えました。
ですから、私は24時間365日の施設職員になり、そこで学んだことを地域に還元したいと想い、家庭支援サービスを起ち上げたのです。


私の事業の理念は、この学生時代に見た現実と繋がっています。
「子育てを楽しめる家族を増やしたい」
子育てを楽しめるというのは、おもしろおかしく過ごせればいい、というものではありません。
子育てを楽しめるかどうかは、子どもの成長が中心だと思います。
子どもは成長している自分が楽しみであり、喜びである。
そして、その成長した姿を見ている家族も楽しみであり、喜びである。
当然、家族でいれば、ハッピーなことばかりではありませんが、それでも日々、成長を感じられることが、家族の絆を深め、「ああ、この家族で良かったな」という想いに繋がっていくと思います。
そういった前向きな想いが、子の成長を後押しし、自分の足で自分の人生を歩むまで育つこととなる。


結局、学生時代に見てきた家族には、中心となる成長がなかった、感じられなかったのだと思います。
大変なこともあるけれども、少しずつではあるけれども、子どもが成長している、将来の自立に近づいている。
そのようなことを感じられれば、もっと違った家族の空気感、前向きな姿があったと思います。
しかし、問題が生じても誰も力になってくれない、成長よりも安定して毎日が過ごせるように、また今日も構造化しなきゃ、スケジュール組み立てなきゃ…。
この先もずっと同じことが続くのか、何も変化しないのか、結局、卒業後は施設なのか。
そういう想いがあれば、我が子との時間を苦痛にすら思えてくるのかもしれません。


私は、子どもの成長を後押しすることで、より良い親子の関係、家族の時間、何よりも子育ての喜びを感じてもらいたいと思い、この仕事を続けています。
ですから、冒頭で紹介したようなご家族がいると、事業の目的が果たせたと感じるのです。


私が学生だった頃は、資源が乏しく、根本から解決するようなアイディアもありませんでした。
そのことが、家族を苦しめ、子育てを楽しめないことに繋がっていたと思います。
でも、今は資源と情報に溢れ、そのことが却って、子育てを楽しめないことに繋がっているように感じます。
「療育を受けなきゃ」「支援を受けなきゃ」
幼い子を抱きかかえながら、療育機関に通う姿。
就学が近づいてくれば、普通級にしようか、支援級にしようか、児童デイはどこがよくて…。
しかし、その多くは、症状の改善や根本的な発達を目指したものではなく、結局、子どもが変わっていくわけではない。
そうすると、ますます親御さんは焦り、別のところに問題を解決してくれるものがあるはずだ、と走りだす。
全国、いろいろなところに出張させてもらいますが、理由は変われど、まだまだ子育てを楽しめない、苦痛にすら感じているご家族が少ないような気がします。


家庭に訪問させていただいたとき、子どもさんの発達のヌケ、課題の根っこを確認することと同じくらい、親御さんの想いを感じることを大事にしています。
今、どのような親子の関係性なんだろうか、家族の時間を過ごしているのだろうか。
そういった家族に流れる空気感を感じつつ、その家族にあったより良い子育てを提案したいと考えています。
「どうやって育てたら良いか」「治したらいいか」だけではなく、どうやったら、「その家族らしい子育てができるだろうか」という視点です。
親御さんの資質に合った、資質を活かした子育てにならないと、親御さんが心から楽しむことができませんので。


冒頭のご家族とは違いますが、幼少期診断を受けてから、「このままでは、知的障害で勉強が遅れる」と思い、幼稚園とは別に家庭で教科学習を続けていたご家庭がありました。
しかし、結論から言えば、感覚系を育てる前に、そこの未発達が育つ前に、アカデミックスキルを詰め込んだため、ますます発達の凸凹が大きくなってしまっていました。
ですから、就学後でも文字や計算は遅くなく、むしろ、今は発達の土台を育てる方が重要だと伝え、そこから勉強は一切やめ、親子で思いっきり自然の中で遊ぶようにしたのです。
それから半年が経ち、いわゆる空気が読めるような子になり、今では幼稚園のお友達と遊べるようになりました。
親御さんからは、「今、子育てが楽しいです」「子どもと一緒に泥んこになって遊ぶのが喜びです」という言葉をお聞きしました。


発達の土台は、家庭生活であり、その一番の仲間は家族です。
親御さんほど、子どもの発達を後押しできる存在はありません。
そして何よりも、子ども自身に、子どもの内側に発達する力を持っていて、自分に足りないところややり残したことがあれば、それに気づき、自ら育て直しを行うのです。
子どもの内なる発達の力を信じないものは、どんな専門家であったとしても、彼らをより良く育てることはできない、と思っています。


親子の間での悲しい事件が絶えません。
権威ある専門家だといえども、一人の命を救うこともできないのです。
悲惨な現実には、手も足も出ない。
専門家も、支援者も、教員も、その力は微々たるもの。
ですから、私はその微々たる力と、私の生きる時間を、「子育てが楽しい」と思える、その瞬間のために使いたいと思います。
一人でも多く、「ああ、子育てが楽しいな」「この家族で良かったな」と思える親御さんを増やしていく。
そのための発達相談であり、発達援助であり、治るということ。
これが私の事業の理念です。

2019年12月8日日曜日

『我がこと』と感じられているか

発達障害が「栄養で治る!」というと、嘘くさく感じます。
しかし、発達障害と呼ばれている人達の中に、消化器系を含む、栄養面の課題を抱えている人達が大勢いるのがわかります。
そういった人達の場合、栄養面が、その状態、症状と深く関係し合っていますので、栄養が改善すれば、ガラッと変わることもあるのです。
ですから、「発達障害が栄養で治る」のではなく、「栄養面に課題を抱えている発達障害の人達が、その改善によって治っていく」というのが、真実に近いと思います。


同じように、「発達障害が運動で治る」のではなく、「運動発達に課題やヌケを持っている発達障害の人達が、そこを育てなおすことによって治っていく」というのが、真実だといえます。
ということは、「発達障害が栄養で、運動で治るなんて、おかしい!」と叫んでいる人達は、読解力の問題?と思えちゃうわけです。


発達障害は症候群です。
それならば、ターゲットにすべきものは、その人が持つ一つ一つの症状のはず。
現在、なんらかの困った症状が出ている。
だから、その症状の背景、根っこを探っていく。
そうすると、「ああ、うんちに未消化物が多いよね。ということは、うまく消化、吸収できていないんだね。だったら、栄養不足かもね。発達に必要な栄養が足りてないかもね。そりゃ、発達の遅れが出るよね」となる。
で、栄養面からのアプローチによって、症状が改善し、治っていった人達がいるのだから、そこから学び、我が子の子育てに活かしていくのは、親として自然な姿。


このように考えると、栄養アプローチや運動、身体、言葉以前へのアプローチを行う人と、ハナから信じない人の違いは、子どもをしっかり見ているか、細かく見れているか。
その“見れているか”に関わるのは、親御さんや支援者自身の身体性です。
自分の身体的な感覚が乏しいと、それこそ、育っていないと、目の前にいる子に生じている現象を『我がこと』のように感じることができません。
となると、デジタルの情報のみで、頭主導で物事を処理していってしまいますので、発達障害という自分とは全く異なる別個の存在として認識してしまいます。


ですから、自分が睡眠不足になると、イライラするのに、我が子の睡眠障害には、「それも障害だからね」と、自分と分離させた反応をしてしまう。
目の前の我が子が苦しんでいたら、どうやったらラクにしてあげられるか、真剣に考え、行動するのが自然です。
でも、そこで行動に移せず、あわわあわわと一緒になって苦しんでいるのは、心と身体が一致していない証拠であり、そもそも動ける身体に育っていないわけです。
また、我が子が苦しんでいても、その苦しみに直接アプローチしないで、「自閉症に良い」みたいな習ってきたことをそのままやったりする。
それも、『我がこと』と感じられないことが、明後日の方向のアプローチへと進ませるわけです。


発達相談でも、「我が子が苦しむ姿を見て、私も辛い」と言われる親御さん達が大勢います。
しかし、同じ言葉でも、その雰囲気、意味合いは違う場合があります。
それは、我が子が苦しむ姿を見て、まるで自分の身体が切り刻まれているように辛さを感じられている場合と、「我が子が苦しむ姿がこの先も続いていかと思うと、自分が辛くなる」「どうやって対処したら良いか分からず、自分が辛くなる」という場合です。
つまり、自分の身体、感覚を通して、我が子の辛さを感じているか、その見える世界、デジタルな世界から辛いと思っているか。
発達相談で私が見るのは、その違いです。


どうして、そこを見るかといったら、『我がこと』と感じられている親御さんじゃないと、子どもの反応を見て、調整し、育んでいくことが難しいからです。
実際、たとえば栄養アプローチに効果がある人達であったとしても、どういったタイミングで、どういった進め方をしていけばよいかは、一人ひとり違いますし、同じ子であったとしても、成長や体調と共に変化していくものです。
なので、アプローチの入り口は一緒でも、完全オーダーメイド。
どんなに、その人にピッタリなスーツを作ったとしても、ヒトは生きているので、ずっと同じ体形はキープできないのと一緒。
神経の発達は、ヒトの体形以上に複雑で、変化が激しいものです。


私が家庭支援にこだわるのは、子どもだけにアプローチしても効果が乏しいから。
子どもの日々の変化、それこそ、本人の内側から出ている苦しみや発達の流れが感じとれないと、子どもを育てることはできても、本人の欲する環境、刺激を用意することができないのです。
栄養アプローチも、身体アプローチも、子どもの内なる声を無視し、「これが良いから良いから」と親御さんリードで進めていくと、決して良い方向へ進みませんし、見ていても育つスピードが遅いです。


あとは、その都度、「これで合ってますか?」というような確認が多くなるのもまずいです。
私を始め、支援者に依存し始めると、ますます子どもが見えなくなります。
それもまた、子どもの発達には望ましくないことなのです。
子どもを見て、それに応じた環境を用意するのが、発達の遅れ、ヌケを育てていくことだといえます。
そのために、子も、親も、より良く変わっていくことが大事ですし、お互い一つでも発達の遅れ、ヌケを育てることが必要です。


私の発達相談は、親御さんの発達課題を見つけること、その発達を後押しすることも含まれます。
それが、子どもがより良く育つ、第一、条件だからです。
自閉症児専門施設で、子どもを24時間365日預かり、支援しても、治らなかった。
それを実際体験してきた私だから言えることです。
どんな専門集団が預かったとしても、発達の土台は家庭であり、親子での育みが最も重要なのは変わりません。


親御さんも、自分の感覚、身体を整え、育て始めると、それまでの見方が変わってくるといいます。
実際、親御さんが変わり、それに同調するように、子どもさんが大きく変わっていった家庭もたくさんあります。
目の前の我が子を見て、『我がこと』のように感じられるか、感じたあと、すぐに身体を動かせるか。
そういった意味では、親御さんが治ることは、子が治ることとイコールなのかもしれません。

2019年12月6日金曜日

『経過観察』の本来の姿、目的、意義

気が付けば、もう師走。
この一年を振り返ると、2歳とか、3歳とか、本当に小さいお子さんの発達相談が多かったな、と思います。
当たり前ですが、2,3年前まではお腹の中にいた、もしくは姿形もなかった子ども達ですよ。
それなのに、もう診断名が付いて、それに応じた生き方、環境の中を進んでいこうとしている。
脳性麻痺のような疾患を持った子ども達ならわかりますが、「言葉が出ない」「運動発達が遅れている」ということのみで、障害児にされてしまう。


医師が書いている健診に関する専門書をいくつか読みましたが、そこには「言語理解に問題がなければ、3歳まで言葉が出なくても異常とはいえない」とも記されていましたし、「発達の遅れ=障害ではない」「発達の遅れを見つけることは、診断のためではなく、丁寧な経過観察をし、子育て、子の育ちをサポートしていくために」とも述べられていました。
この辺のニュアンスが、同じ医師でも、産婦人科の先生や乳幼児健診を行うような小児科の先生と、ゴリゴリの発達障害専門ですみたいな先生と異なるような印象を受けます。


発達の遅れにも、問題ないレベルや個人差のレベルのものもあれば、即、「障害」「リスク」というレベルのものもあります。
しかし、私の乱暴な解釈かもしれませんが、「即、障害」というレベルのものは、単体ではなく、複数確認できたときに、初めて発達障害というリスクに繋がるのだといえます。
私が勉強した限りでは、「〇〇の遅れのみでは、発達のリスクとは言えない」ですとか、「〇〇の遅れが見られたとき、△△の発達を確認する」ですとか、そういった記述が多かった印象があります。
これは、私が子ども達と接しているときに感じるものと同じだったので、印象に残っているのです。


親御さんから「〇〇の遅れを指摘されて」「これができないんです」という訴えを聞いたあと、実際に確認してみると、「これは問題ないな」「このままにしておくと、まずいな」という感覚があります。
その正体は、発達の遅れの組み合わせであり、もっと言えば、原始的な脳から端を発した問題かどうか、原因の根っこに関するものだと思います。
発達の遅れにもいろんな種類があり、パターン、組み合わせがあります。
ですから、いかに本当のリスクを見つけ、そこを育てられるか、自然な発達、個体差の部分を見つけ、そこをいじくらないようにできるか、が重要であり、技量が問われるところだと思います。


最初の話に戻りますと、幼い子ども達からの相談は、その子の成長、発達に携われる喜びよりも、悲しみの方が強いものです。
何故なら、こうやって出会えた子ども達は良いですが、その子の背後には、「そうか、障害なんだ」と思い、子育てよりも、家庭よりも、療育や支援、理解の方へ傾倒していく多数の子ども達の姿が見えるからです。
発達の遅れを見つけることは、療育を受けるためでも、支援や理解を得るためでもないはずです。
健診に関わる先生たちが言っているように、丁寧に成長の経過を確認していった方が良い子を見つけ、親御さんと子どもを専門家がバックアップしていくことで、将来のリスクを減らし、より良い発達、成長に繋げていくことが、本当の目的。


現在の『早期診断→早期療育』というパッケージ商品には賛同できませんが、2歳や3歳など、低年齢で発達相談に来られることは、とても意義あることだと思います。
ある程度、大きくなったり、療育とか、なんだかんだやったりしていると、どうしても、学習の要素が、その子の姿に影響を及ぼしていきます。
療育もある意味、型があり、その型を学習すること、型にはまることが目的になりえますので、純粋な発達の上に、学習が覆いかぶさり、本来の姿を見えにくくします。


一方で、低年齢の子ども達は、学習が少ないですし、発達の凸凹がそのままの姿で確認できますので、課題の根っこを掴みやすいといえます。
それになんといっても、本来のその子の発達の流れからズレた地点が近いので、軌道修正しやすいし、幼い分、治るスピードも早い。
ですから、今年初めの1月、2月、3月に出張相談で関わった子ども達は、幼い子どもさん達ほど、夏くらいから徐々に「経過観察が終わりました!」「保育園の先生から補助は必要ないね、と言われました!」「兄弟と同じ幼稚園に行けるようになりました!」というような喜ばしい報告を受けるようになりました。


5歳くらいまでの子どもは、月をまたぐ(月が替わると)と、ググッと成長する、大きく変わる、というのは一般的な姿です。
ということは、それくらい発達のスピードが早いということ。
だからこそ、早期に発達のリスクを見つけ、そこを育てていくことが、将来のリスクを減らし、本来の発達の流れに戻る近道。
経過観察は、本来、ポジティブな行為であるはずなのに、結果が伴わないと、ただのその場しのぎであり、親御さんに障害受容する時間を“与える”という意味合いになってしまいます。


療育を受ける前に、治せるところは治す。
できれば、経過観察の間に、その子の本来の発達の流れに戻しておく。
いろんなことを勘案しても、これがベストですし、本来の「経過観察」「早期診断」の姿だと思います。
お金や支援、知識は後から得られますが、幼いときの時間だけは、どうやっても戻ってこないので、一日も早く本当のリスク、発達課題の根っこを掴み、そこを育て始めることが大事だといえます。

2019年12月5日木曜日

『発達のヌケ』から一歩先に

『発達の“ヌケ”』という言葉は、初めて聞いた親御さんでも、すぐにピンときます。
「障害と言うよりも、“ヌケ”なんですね!」
「生まれつきでどうしようもないのではなくて、ヌケているから、そこを埋めていけばいいんですね!」


今日まで過ごした子どもとの数年間。
たった数年間ではあったとしても、そこにはその子の歴史があり、物語がある。
突然、現れた『発達障害』
うちの子は、本当に発達障害という存在なのだろうか。
そういった言葉にならない想い、『発達障害』という一言で片づけられてしまう状態に、ピタッとハマるのが、『発達のヌケ』という言葉なんだと思います。
たった二文字ではありますが、多くの親御さん達に前向きな気持ちと、「私がやろう」という行動の後押しをしてくれます。
たぶん、私がこの仕事を続けている限り、『発達のヌケ』という言葉は使い続けるはずです。


親御さんにとって、前向きな力を与えてくれる『発達のヌケ』という言葉。
ですから、親御さんの意識は、我が子のどこが“ヌケ”なのか、に向かいます。
一番分かりやすいのは、「ハイハイを飛ばした」というもの。
ハイハイをほとんどせずに立ったのは、そのときの家族にとってはハッピーな出来事だったかもしれませんが、本人の発達からしたら、アンハッピーな出来事。
こういった飛ばしは、家族の印象に残っていることが多く、そのニュアンスからも、発達のヌケを連想しやすいといえます。
他にも、印象に残っている動き、行動なんかが、そのまま、発達のヌケであることが多いので、親御さんも気づきやすいです。
そこを育て直すと、変わっていくのは確かです。


しかし、発達相談、出張の依頼で多いのが、「発達のヌケがわからないので、一度、確認してもらいたい」というものです。
この理由としましては、ハイハイなど、特別気になる運動発達のヌケはなかった場合と、ハイハイも抜かしていたけれども、他にも抜かしているところがあるという場合だといえます。


前者の運動発達に特別な問題はなかったお子さんの場合は、「本当に発達障害なのか?」という確認をします。
また、ハイハイができていたように見えても、実際、やり方が違ったり、身体の使い方が違ったりする場合もありますので、「本当にできていた?」「やりきっていた?」という確認もする必要があります。
結構、ご両親のどちらか、また両方ともが運動神経がよく、子も受け継いで、そのポテンシャルで寝がえりしたり、ハイハイしたりする子もいます。
形としてはできているんだけれども、重要なポイントである「足の親指が使えていない」ですとか、勢いをつけて寝返りをしちゃうパターンもありますね。
さらに今では、「栄養面は?」「環境面は?」「愛着面は?」「胎児期の居心地は?」「原始反射は?」など、イメージとしてはヌケというよりも、「神経発達の滞り」の理由探しみたいなこともやります。


そして後者のあちこちヌケていて、あれもこれも遅れていて、のお子さんの場合は、発達のヌケの根っこ探しを重点的に行います。
発達は階層なっていますので、いろんなヌケ、遅れがあったとしても、それらはお互いに連動し合っており、辿っていけば、最初の発達のヌケにぶつかります。
それが「おっぱいの吸いが弱い」にぶつかる子もいれば、「原始反射」にぶつかる子もいて、「お腹の中の発達」とぶつかる子がいます。
とにかく初期の発達のヌケが掴めれば、複数あるヌケ、遅れも育っていきますので、あれもこれもでどうしたらいいの状態のご家族には、根っこを掘り当てるのが私の使命となります。


いずれの場合も、やはり共通して、その子の物語を紡いでいく作業が重要だといえます。
今、「発達障害」と呼ばれる状態のお子さんがいる。
じゃあ、なんで発達障害と呼ばれているのだろうか、そういった症状が見られるのだろうか。
それをその子の受精から現在までの流れの中で確認していきます。
どの子にも、ある瞬間、そのときから本来、その子のあるべき発達の流れから外れたり、その流れ自体に滞りが生じた地点があります。
その地点からズレていった結果、その地点から滞りが始まった結果、今、「発達障害」と呼ばれる状態になっている。
その子の物語が出来上がれば、本来の子どもさんの姿が見えてきますので、そこに重なるように子育てをしていけば良いのです。


このようにして、その子の発達の物語を辿っていき、発達のヌケの根っこ、滞りが始まった地点を見つけ、そこから育て直しを行っていく。
シンプルに言えば、これが私の仕事であり、ニーズとしても中心だといえます。
そして一番、私の技量が求められるのが、私個人としても仕事の醍醐味なのが、発達のヌケがあった部分でも、育っている部分を見抜くことです。


子どもさんを見ればわかるのですが、全部が全部、ヌケがそのままの状態で残っているわけではありません。
同じように、滞りの部分も。
ヌケの状態にも、いろいろあって、少しヌケているところから、半分くらい育っている、以前はヌケていたけれども、育ちの中でヌケが埋まっているところもあります。
そこが親御さんによっては、見抜くのがとても難しかったり、なんだかしっくりこない、違和感として残るところだといえます。
意外に、もう大丈夫、育ったと思っていたところが、発達のキーだったりすることもあります。
なので、見抜けるかどうかが重要です。


まあ、たいそうなことを言っていますが、大事なのは、その子の物語が描けるかどうか。
その子の物語、発達の流れが掴めれば、「たぶん、ここもヌケていたよね」というところがわかります。
何故なら、発達は階層になっているし、ほぼ順番が決まっているから。
じゃあ、ヌケていたはずの部分が育っているのは、どうしてだろうか?
本人の力?あの遊びが良かった?保育園の先生との出会い?親御さんの子育ての方向性が合っていた?
こういった連想が生まれると、さらにより良い発達援助、子育てが見えてくるものです。
「ヌケていた部分が埋まっている」は、無意識の中で、自然な生活の中で育った部分ですので、そこが子どもさんにも、家族にとっても、資質に馴染むあり方だといえます。
これを活かすのが、治る近道。


『発達のヌケ』は、見事に親御さん達の心、違和感を表した言葉です。
だからこそ、多くの親御さん達が、この言葉で前向きに行動することができるのだと思います。
こういった心に響く、そして後押しする言葉だからこそ、さらに一歩深めるというか、深いところまでつなぐのが、仕事として携わっているものの役割であり、使命なんだと近頃、考えるようになりました。
「ヌケているのなら、育てればいい」からの一歩先です。


私の理想は、親御さんが、子育ての中で、発達のヌケを育て、治していくというもの。
その理想、ある意味、自然な姿に向けて、どうやって一歩進めていくか、私に何ができるのか、どういった仕事をしていくべきか。
新たな課題に対する答えは、日々の発達相談、援助を通して、答えを見つけていきたいと考えています。
これは2020年に持ち越しの課題ですね。

2019年11月29日金曜日

発達障害と療育・支援は、相関関係にあらず

栄養面からのアプローチで、精神疾患や発達障害をどんどん治してしまう広島の藤川徳美医師。
その藤川医師の本が、障害児教育部門の書籍で1位になった、という情報を目にしました。
まあ、親御さんだったら、「我が子の発達障害を治したい」「治ってほしい」と願うのは自然な感情ですし、実際に、藤川医師のアプローチを取り入れ、治った人達が大勢いますので、書籍が1位になるのは不思議ではありません。


でも、私はその書籍ランキングを見て、不思議に思うことがありました。
それは、2位以下に「コグトレ」に関する書籍が複数入っていること。
たぶん、これも最近、新書で話題になった『ケーキの切れない非行少年たち』の治療プログラムとして「コグトレ」が紹介されていた影響だと推測されます。
本当に皆さん、なんとかプログラム、療法がお好きなんですね。
どうしても、発達障害がある子に対して、指導や支援をしたいんですね。


この新書は、発売後すぐに読みましたし、コグトレに関しても勉強のため、一通りは学んでいました。
しかし、それを敢えてプログラムとして、私が行う援助サービスの一つとしてやろうとは思いませんでした。
何故なら、これも他の療法と同じように、枝葉へのアプローチだから。
と言いますか、受精から2歳前後までに生じている発達のヌケを育てたら、これらの課題も治っちゃうから必要ないよね、って感じです。


ケーキが切れない課題の根っこは、視覚や認知の問題と繋がっており、そこにアプローチするのがコグトレ。
でも、視覚や認知に発達の遅れや未発達があるのは、原始反射が残っていたり、ハイハイ等の運動発達にヌケがあったり…。
だったら、ここが根っこなので、根っこから育てれば、そこに端をなす課題はすべてポジティブな方向へ進みます。
しかも、ハイハイのやり直しに、研修や資格は必要ありませんので、家庭でやれるときにいつでもできるもの。
第一、こういった療法は、ある程度、席に座っていられる、鉛筆が持てる、指示に従える、といった条件が入ります。
でもでも、ハイハイは、どの子も赤ちゃん時代に通った道ですので、遊びの延長として行えますね。


なにか、新しい療法が出たり、誰かが「イイ」って言ったりしたら、一時的なブームになるのは、今までずっとありました。
TEACCHに始まり、コミック会話だ、ソーシャルストーリーだ、PECSだ、平成初期の映画のCMのように「全米ナンバーワン!」みたいに鳴り物入りで輸入されてきたものも、今、どれくらいが残っているのでしょうか。
やっているところがあるとすれば、かつての先進地域と、増えすぎた有資格者が食い扶持ゲットのために地方で細々とやっているくらい。
部分的な効果しか得られないようなものは、支援者が食いついても、親御さんはすぐに撤退するものです。


発達障害は、療育や支援によって、改善、解決するものなのでしょうか。
別の言い方をすれば、療育や指導の不足が、症状の悪化、または改善していかないことに繋がるか、ということ。
私は、発達障害と療育、支援は、影響することはあっても、相関関係にはないと考えています。
つまり、療育や支援が、神経発達を促すものではない、という意味です。


発達障害とは、なんらかの要因によって、神経発達に滞りが生じている状態だといえます。
なので、重要なのは、その滞りがどこかを確認し、その原因を取り除くこと。
私の捉えでは、本来、その子が持っている自然な発達の流れがあって、そこからズレている状態が「発達障害」と呼ばれる状態。
どの子も、発達する力は自身の内側に持っているものであり、与えられるものではない。


ですから、発達のヌケがその後の発達の遅れにつながっているのなら、そのヌケの段階に戻って育て直す。
栄養面の問題なら、摂取する栄養を改善していき、本来の発達の流れに戻っていけるよう後押しする。
左右の脳のバランスが崩れているのなら、そこを整え、本来の能力が発揮できるようにしていく。
心身に余裕がなくて、脳に余白がないのなら、身体を整えることによって、発達、成長の余白を作っていく。


私がなんとか療法に傾倒していかないのは、発達援助の本質が、「その子の内側に流れている発達の流れに戻していく」というイメージだからかもしれません。
ですから、決められたプログラムがあって、その型通りにやっていくみたいなのは、本人の流れとは別の流れを作ろう、というような雰囲気がするので嫌なのだと思います。
発達は授ける物、訓練し習得するものではなく、後押しするものでしょ。
だって、もともと、本人の内側に存在しているものだから。


本来の発達の流れに戻れば、それ以降、何を学び、成長していくか、は本人次第です。
なので、治すのは、本来の発達の流れに戻る手前まで。
治すを矯正と勘違いする人がいますが、治すのは、その人の持つ資質を開花させるため。
つまり、その人らしく自由に、伸び伸びと人生を歩んでもらうために治すのです。
私の仕事も、そういった本来の姿を、自然な姿を取り戻すためのお手伝い。
ですから、表面的なアプローチではなく、発達の流れが生じた最初のズレまで戻り、根っこから育てることを仕事の核にしています。

2019年11月28日木曜日

名も無い遊びが脳を育てる

上の子は学校から帰ってくると、一分も経たないうちに遊びに出かけます。
まるで昭和のアニメのような、ランドセルを置くために帰ってくるような感じです。
「子どもの仕事は、遊ぶこと」と常々言ってきましたので、その教えを守り(?)、毎日、友達と一緒にあちこち行って遊んでいます。
この地域は、学年関係なしに、男女問わず、みんなで遊ぶ文化があるので、そういった面で大変ありがたいと思っています。


「子どもの仕事は、遊ぶこと」はキャッチフレーズのようですが、それくらい遊びは、子どもにとって、発達、成長にとって、とても重要なことだと考えています。
何故なら、遊びの中に様々な要素が入っているからです。
運動発達はもちろんのこと、危険への対処、答えのないものから遊びを考える想像性(創造性)、友達との交流を通して押したり、引いたりといった社会性を培っていきます。
また概念を培うのは、遊びを通してが一番だといえます。


その子が将来自立できるかどうか、非行やメンタルヘルスのリスクを回避できるか。
その基準が、「小学校4年生レベルの学力」と言われています。
これは小学生のうちに小学校4年生レベルの学力を身につけなければならないという意味ではなく、大人になるまで、また大人になってからも、この学力レベルが獲得できれば良いという意味です。
しかし、この『小学校4年生レベル』というのがミソになります。


小学校1,2年生というのは、暗記で乗り越えられます。
たとえ、知的障害があったとしても、繰り返し、繰り返し、学習を積み上げていけば、学力として獲得できます。
でも、3年生辺りから、学習の中に『概念』が入ってきます。
この概念は、単に暗記や反復学習では理解できません。
ですから、発達障害のある子ども達の多くは、3,4年生辺りから学習の遅れが出てくるのです。
学習面の躓きをきっかけとした相談は、このあたりの学年の家庭が多いです。
『概念』理解は、『自立』の条件の一つとも言えます。


概念が掴めない子ども達は、幼少期、または現在も、「外遊びをしない」「友達と遊ばない」という子がほとんどです。
なので、相談を受けたときに最初に尋ねるのが、「ちゃんと遊んでいますか?」というもの。
物事を1通りの理解しかできない子は、早期教育として絵カードを見せて、それに答えるような訓練をやってきた子か、遊びが乏しい子。
よって、発達援助の方向性としては、身体を使った、五感を使った、遊びを行うことになります。
この遊びとは、子ども主体で自由な、特に意味を求めない遊びです。
必ずしも人との交流は求めませんし、遊びの発達段階が進んでいけば、「感覚遊び」「一人遊び」「平行遊び」「交流遊び」「ルールのある遊び」というように発達していきますので。


特に就学前の子ども達は、「思いっきり遊べるようになるために“治す”」というイメージで、発達相談、援助を行っています。
理由は何度も述べているように、遊びが大きな発達に繋がるから。
ヒトは社会性の動物であり、その社会性の土台は、子ども時代の遊びで培われます。
よく遊んだ子が、高度な社会性を身につけ、同時に自立するために必要な概念、想像性、心身を育む。
子ども時代、よく遊んだ子は「前頭葉がとても発達している」という研究結果は、ヒトという種を考えれば、自然なことだといえます。


遊びによって、前頭葉が大きく発達するのなら、そして小学校4年生レベルに必要な概念が養えるのなら、幼少期の子ども達に対する援助は、まさに遊べるようになるための援助。
ですから、私は伺った地域の雰囲気、文化を感じながら、どうしたら、この子が外で思いっきり遊べるようになるのか、同世代の子ども達と遊べるようになるのか、を考えます。
遊べるようになったら、あとは遊びを通して治っていくので。
まだ小さい子の親御さんには、「遊べるようになったら、最初のゴール」というお話をすることもあります。


児童デイが雨後の筍みたいにできる前は、放課後、障害を持つ子ども達の余暇はとても寂しいものでした。
しかし、児童デイができ、みんな、通えるようになった。
以前と比べれば、放課後の過ごし方は雲泥の差です。
でも、将来の自立につながるどころか、社会性、発達は変わっていかない。
何故なら、同じ遊びでも、遊ばされているから。


子どもの発達、社会性、想像性に繋がる遊びとは、目的の無い遊びであり、ときに危険を伴う遊びです。
子どもの遊びを発達の観点で見れば、子どもは名の無い遊びをひたすら繰り返すことで、遊びを発達させていきます。
つまり、遊びの時間と場所が決まっていて、道具も決まっていて、遊ぶ人も決まっていて、「さあ、遊べ」というのは、最初から発達に繋がる遊びにはならないのです。
意図しない遊び方をすると、決まった遊び方に修正するのが、支援であり、療育だと思っている節がありますし。
また、常に大人の目があれば、そこには危険、スリリング、できるかできないかギリギリのところ、といった要素が排除されてしまいます。
ひと様の子を預かっている児童デイなら、なおさら、危険を回避します。
そうすると、名の無い遊びが行うことができず、大人によって期待された遊びをこなしている、になります。


「名の無い遊び」「目的のない遊び」「思う存分、繰り返せる遊び」「危険を伴う遊び」
この条件を整えるのには、大人の目がないところで遊べるスキルが必要です。
大人がいれば、ついつい手と口が出てしまいますので。
私達が子ども時代、親の目の届かない場所で、どれだけ危険な遊びをしたことか。
でも、それが社会性を培い、物理的にも、社会的にも、危険を回避する、対処するスキルの元となった。
それは、発達障害があろうがなかろうが、どの子にとっても必要な体験であり、学習です。
なので、親がいないところでも自由に遊べる、友だちと一緒に遊べる、という状態を目指すのが、幼少期の発達援助になります。


幼少期の子ども達を「何故、治す?」と訊かれれば、「思いっきり自由に遊べるために治す」と、私は答えます。
それが小学校4年生の壁を飛び越え、将来の自立、資質の開花へと繋がるから。
最終的な目標は、社会の中で自立し、自分の資質を自分のために、社会のために活かすこと。
そして、人生の自由を謳歌すること。
これが目標であり、治すはその過程の一つ。


今日は最高気温でも氷点下。
でも、外には雪がなく、太陽が見えている。
息子よ、さあ、今日も暗くなるまで、思いっきり遊んでおいで。
日が暮れるのと、子ども時代は、あっという間だから。

2019年11月25日月曜日

身体を遊び道具にする発達段階

11月中旬くらいから、おもちゃのチラシが入るようになります。
おもちゃ屋さんはもちろんのこと、いろんなところで「クリスマスラッピングやってます」「今なら玩具、20%オフ」など、クリスマスモード。
子ども、兄弟は少ないうえに、元気なジジババサンタが大勢いますので、貰えるプレゼントは多くなります。
孫が喜ぶ顔が見たくて、たくさんおもちゃを買ってあげたい気持ちもわからなくはないですが、子どものブームというのは、ほんの一瞬。
もらったその日に見向きもしなくなるなんていうのは、よくある光景ですし、それが自然な子どもの姿です。


「子どもに発達障害がある」となれば、なるべく興味関心があるものを、子どもの知育につながるようなものを、そばに置きたくなるのは、自然な感情だと思います。
特に、「手先が不器用」という様子があれば、手先をいっぱい動かせるようなおもちゃを、と考えます。
「おもちゃでたくさん遊んで、手先を育ててほしい」
そういった家族、親戚の願いが、おもちゃの数として表れます。


新しいおもちゃでも、すぐに飽きてしまうのは、発達障害だからではなく、子どもの特徴です。
しかし、不器用さが改善していかないと、エネルギーが「より良いおもちゃへ」と向かいます。
そして、ちょっとでも長く遊んでくれるおもちゃが見つかると安心し、また子が飽きると焦ってしまう。
そうこうしているうちに、月日とおもちゃが増えていくわけです。


おもちゃがたくさんある家庭は、そうではない家庭と比べて、子どもさんは上手におもちゃで遊べているように感じます。
でも、「おもちゃで遊べる」=「手先の発達」ではありません。
結論から言ってしまえば、手先が不器用な子に、道具(おもちゃを含む)は早すぎる。
もう少し手前の発達段階を育て切る必要があります。
道具を使うから手先が動くようになるのではなく、手先が自由自在に動くようになって初めて道具が使いこなせるようになるのです。


たとえ、おもちゃで上手に遊べるようになったとしても、結局は、そのおもちゃ限定の遊び方を習得したにすぎません。
おもちゃが変われば、また上手に遊べなくなる。
おもちゃ、また道具なども同じですが、そのモノの形態に身体を合わせている限り、根本的な課題は解決していかないのです。
自由自在に動かせる身体→道具を使いこなす、が自然な流れ。


赤ちゃんは、起きている時間が長くなると、腕や足をバタバタと動かします。
これは意識的な運動ではなく、付随運動である反射によって引き起こされます。
この段階では、赤ちゃんはまだ自分の手足という意識はなく、例えるのなら頭中心で生きている状態です。
見えているもの、聞こえているもの、匂っているもの、口を中心に触れているもので世界が成り立っています。


その段階から一歩進むと、徐々に自分の手が自分のものである、という意識が芽生えていきます。
最初は舐めて確認できた手が、見て自分の手だと理解できるようになる。
そうしているうちに、反射の段階から意識して動かせる段階に発達していく。
でも、まだこの段階では、手先まで自由自在に動かすことができません。


手先、指を発達させるには、他の身体、運動機能と同じように、『重力を感じる』ことが必要です。
うつ伏せになり、自分の身体を支え、起き上がる。
ズリバイに始まり、ハイハイ、高這い、動物歩きなど、立位に至るまでの運動発達をやり切る。
その過程において、手先がしっかり開くようになり、自由自在に動かせる手、指への一歩が始まります。


指が開くようになったら、すぐに手先が器用に動かせるわけではありません。
大事なのは、『自分の手を遊び道具にする』という過程です。
いろんなものに触れる、そして、手から、指から刺激を感じる。
手で押す、引く、手を叩く、手を振る。
モノを持つ、掴む、つまむ。
手で砂を掘る、手で積み重ねる、手で固める。
このような道具以前に、自分の手をまるで道具のように使う段階、手で遊ぶ段階を経て、子ども達は自由自在に動かせる手、指を手に入れていくのです。


ですから、「手先が不器用」というお子さんがいらっしゃいましたら、手に持っているその道具、おもちゃを一旦置いてみるのも必要かもしれません。
手全体が丸まっていたら、手がまだ重力との付き合い方を学びきっていないかもしれません。
土や泥などに直接、触ろうとしなかった。
砂場で、泥で遊ぶよりも、おもちゃで遊んでいる方が多かった。
砂場にいたけれども、手ではなく、スコップばかりで遊んでいた。
そういった場合、手を遊び道具として使う発達段階を飛ばしているかもしれません。


いろんなお子さん達と出会い、そしてこの仕事が長くなるにつれ、子どもにとって一番の遊び道具は、「子どもの身体そのもの」だと思うようになりました。
デジタル技術やいろんな道具、テクノロジーが身近で利用できるようになりましたが、どんな素晴らしい道具があったとしても、それを使いこなす身体に不自由さがあれば、恩恵を得ることができません。
特別支援の世界も、どんどん専門化していき、アプローチの仕方がマニアックになっています。
でも、発達障害は、発達にこそ、答えがあるのだと思います。


赤ちゃんがどのように手を育てていくか、自由自在に動かせる身体を培っていくか。
赤ちゃんは、手先をピンポイントで育てているのではなく、付随運動から始まる運動発達の過程を通して、ゆっくりゆっくり、全身を通して育んでいくのです。
だからこそ、子どもは全身を使った遊びが大好きであり、本能的な活動になります。
おもちゃで遊ぶのは学習。
なので、子どもが身体を遊び道具にして思いっきり遊べるような環境と、モノの数の配慮が必要です。


「遊び道具を片づけたら、全身を使って遊ぶようになった」
こうやって発達のヌケを育て直し、手先の不器用さを治した子ども達も多くいます。

2019年11月21日木曜日

発達に基づいたアセスメント、具体的な育み方の助言、そして結果、以上!

「親御さんの情報収集能力はすごいな」と感心することばかりです。
とても勉強熱心ですし、そこら辺の支援者よりも専門的な知識、情報を持っていると感じます。
専門家と呼ばれる人の中にも、自分の専門以外には疎かったり、価値がないものと最初から見向きもしなかったりする人がいますので、ヘタに頼るよりも、親御さん自ら突き進んだ方が良い場合もあります。


専門家、支援者は『対多数』ですが、親御さんは『我が子一人』のエキスパートになれば良いのです。
論文を書くわけでもありませんし、その専門領域内での権威の顔を伺う必要もありません。
ただシンプルに、我が子にプラスになること、より良く育つことができればいいだけ。
支援者、専門家のほとんどは、利用回数が増えると儲かる仕組みになっています。
でも、親御さんの希望は、我が子の自立。
つまり、支援、子育ての手が徐々に離れていくことが目指すべき方向。
なので、同じ知識、情報を持っていたとしても使い方が異なりますし、そもそも自立や治るという情報収集、研究をハナからしていないのです。


発達障害に関しては、親御さんと専門家&支援者との関係性が整理されていくと思います。
発達を促す場、育む場は家庭であり、それを後押しするのが専門家。
具体的には、現在の発達状況を確認し、具体的な育て方の助言を行う。
つまり、『アセスメント』と『具体的な育て方の助言』です。


今までのように、寄りそうとか、傾聴するとか、自己肯定感とか、褒めるとか、そんな抽象的で何とでも言えるようなものは、支援ではなくなりますし、公金で賄われるべき価値もなくなるでしょう。
人がどんどんいなくなっている社会ですので、共感は犬やイルカ、馬。
傾聴は近所の人か、ボランティア。
自己肯定感、褒めて欲しければ、ホステス、ホストさん。
あと、現行の〇✖クイズのような診断ならAIがやってくれると思います。


こういう私も支援者の一人であり、民間で公金なしにやっている身です。
ですから、『発達に基づいたアセスメント』と『具体的な育み方の助言』を磨き続けないと、真っ先にいなくなると思います。
あとは、それにプラスして、今の親御さん達が持つニーズに応えることです。


私のところにいらっしゃる親御さん達の中には、すでに色々な専門家のところに行ったり、自分で情報を集め実践されたりしている方達が少なくありません。
それなのに、私のところに相談があるということは、そこに自分たちで育み、治していく世代のニーズがあるわけです。


よく私が感じるのは、例えば、「習った通りにやっているのに…」「本に書かれているようにやっているのに…」、なかなか成果が感じられないというものです。
実際に、家庭で育んでいる様子を拝見しても、本人に合わない方法をやっているわけではない、特別、目的と違った動きをしているわけではない。
でも、成長がゆっくり、変化がない。


この要因は様々ありますが、多いのが他の発達がヌケているため、課題の根っこが解決していないため、思うように育っていかないというもの。
特に、背骨に固さや芯の通っていない雰囲気があると、刺激が全身を駆け巡らず、それでやっても成果が得られないということがあります。
背骨が自由自在に動かせるようになると、背骨が背骨としての役割を果たせるようになると、刺激と成長のバランスが釣り合う感じがします。
これはヒトが魚類→両生類→爬虫類→哺乳類という具合に進化してきたことと、脊椎動物であることが関係していると思います。


また、もう一つ、多くの子ども達に共通しているのが、その刺激、感覚を味わい切れていない、ということです。
身体を整えるアプローチ、感覚や発達のヌケを育てるエクササイズを、毎日、コツコツ行っている。
でも、それをやっている環境が騒がしい。
テレビが付いていたり、光の刺激が強かったり、メニューのように次々にあれもこれもやったり、「どう気持ちいい??」「こんな感じでいい??」と親御さんが常に話しかけていたり…。
これでは、自分の身体を通して伝わってくる刺激に集中できませんし、味わうことができません。


厳しいようですが、型は合っているけれども、「子どもの心はここにあらず」状態の家庭もあります。
心身の状態を整えたいのに、育ちきっていない感覚を育てたいのに、その環境が騒然とし、刺激に溢れていたら、子どもはどうなるでしょうか。
子どもが周囲の刺激に注意が奪われるのは自然なこと。
ですから、集中してもらいたい刺激に意識が向くように環境を調整すること。
そして、子どもの視点に立ち、本人がその刺激を充分に味わってもらえるよう配慮すること。
こういったことが大事になります。


このように、実践の場、生きている現場では、情報として表に出ていないコツ、ポイントというものがあります。
もし、私に誇れるものがあるとすれば、唯一、親御さんに勝てるところがあるとすれば、関わってきた人達、家族の人数であり、そこから見いだせる気付きだといえます。
「味わう」「雰囲気」「自然/不自然」「心地よい」「リズムが良い/悪い」「発達の流れ」「受精から現在までの物語」など、こういった部分は、言葉にしづらい感覚的なものであり、その人個人の経験の積み重なりから見えてくることですので、どうしても知識や情報から汲みとりにくい部分でもあります。
言葉は同じでも、どうしてその言葉が出たのか、どういった意味で、どういった体験、実践から使用しているか、は発信者に委ねられている部分ですので。


知識や情報の面で言えば、専門家と親御さんの差はほとんどないと思います。
もし専門家を頼る場面があるとすれば、それは、その人しか知り得ない情報、知見、技術を持っている人に限りです。
そして、その価値は、そこを利用している人にポジティブな効果があったかどうか。
つまり、結果がすべてです。


今まで、障害を持った人に関わっているだけで、支援者になれ、仕事をしているという時代でした。
しかし、今の親御さん達のニーズはそこにありませんし、利用できる支援サービスにも限りが見えてきました。
「治らない障害だから、成果が問われなくても良いよね」と、支援者がのほほんとしていた時代はもう終わりです。
発達に基づいたアセスメント、具体的な育み方の助言、そして何よりも結果。
この3つの視点で、きちんと専門家、支援者を見て、選択していってください。
良いものを残し、悪いものを切り捨てるのは、今の親御さん達の役割ですし、次の世代に負の遺産を受け渡さないための役目です。

2019年11月20日水曜日

他人に配慮できる人、気を使える人に育つには?

啓発活動では、「私達に、特性に、配慮を!」という具合に、支援だけではなく、配慮を求め、訴えていることがあります。
配慮が必要な場面で配慮するのは、当然です。
しかし、どうも、この『配慮』が一般的な人達の心に響いていきません。
何故なら、配慮とは、“お互い”が配慮し合うことだから。


常に配慮する側と、配慮を受ける側が替わらない。
とすれば、それは配慮を求めているのではなく、特別扱いを求めていると捉えられても仕方がありません。
職場でも、学校でも、仲間でも、一方的な配慮は、結果的に関係性を維持することができなくなるのです。
職場なら配慮するから、「仕事の成果を」
学校なら配慮するから、「しっかり勉強を」
仲間なら配慮するから、「お互いが楽しい時間を」
配慮を受けた側がそれに応えることと、反対に相手に配慮すること。
それは人と人の間で生きる人間が基本となす部分だといえます。


ですから、発達障害があるなしに関わらず、社会の中で、人との間で生きることを目指すなら、配慮を求めるだけではなく、配慮できる人に育つことが重要です。
では、どうやったら、配慮できる人に成長していけるか。


配慮をもう少し具体化すると、「気を使う」ということになると思います。
幼少期なら、それができなくても当然ですが、ある程度、大きくなったのに、気が使えないというのは、社会性の部分での未熟さを感じます。
学校だけではなく、家の中でも、啓発活動のように一方的な配慮を求める。
お母さんに対し、「僕に気を使え」というような要求をするのに、お母さんには全然配慮をしない、気を使わない。
「うちの中だからイイか」と思いがちですが、それが学校で、社会で、他人に対して表出すると、嫌われるか、仲間外れにされるだけ。
と言いますか、うちの中も、小さな社会ですので、家の中での言動も成長と共に変わっていかなければならないのです。


他人に気が使えるようになるには、2つの要素が必要になります。
まずは、空気が読めること。
そのためには、周囲からの情報をキャッチできる身体が必要であり、皮膚感覚が育っていることが重要。
同じように、内臓感覚や前庭覚、固有受容覚…の育ち、つまり、自己の確立。
自分という存在が感覚的に把握できている状態であることが、自分と空間、自分と他人を分ける大前提になります。
自分の境界線が曖昧ですと、環境からの情報をキャッチすることができません。
その姿が、「空気が読めない人」と、周囲に映ってしまうことがあります。


そしてもう一つの要素は、予測できること。
他人に気を使えるためには、他人の行動を予測できなければなりません。
「たぶん、お母さんは次に〇〇をするだろうな。だから、私はこう動こう」
この予測する力がなければ、いくら環境からの情報をキャッチすることができても、実際の行動にはつながりません。
例え情報がキャッチでき、「行動した方が良いかも」と気づけたとしても、相手の視点がない行動は、独りよがりの行動になってしまいます。


ですから、幼少期に感覚を育てることと同じように、予測する力を育てることが重要です。
予測する力は、予想や推測の問題をたくさん解けば、身につくものではありません。
予測する力にも、その土台があります。
それは、幼少期の遊び、特に名の無い遊び。


石を積み上げていくと、ある程度の高さで倒れてしまいます。
こういった遊びを繰り返すことで、「このくらい積んだら倒れるな」と体験的に学んでいくのです。
これも、予測する力の原形。
蛇口をひねったら水が出る、スプーンから手を離したら床に落ちる、砂場を掘ったら穴ができる…。
いろんな遊びを通して、予測する力を培っていきます。


さらに予測する力の原形は、身体活動へとつながります。
ジャンプしたら視線が変わる、必ず下の方へ行く、足の裏に刺激がある…。
赤ちゃんがガラガラを持ったとき、最初はどうして音が鳴るのかわからず、泣いてしまう子もいます。
でも、何度も、ガラガラを動かしているうちに、自分が起点となり、「腕を動かしたら音が鳴る」という流れがわかるようになります。
乳首を吸ったらおっぱいが飲めるというのは反射の動きですので、こういった身体を通した出来事と結果が結びつく瞬間が、最も初期の予測する力、その原形だといえるかもしれません。


一方的な関わりをしてしまう子が、予測する遊びをたくさんするようになって、相手の気持ちを汲むような行動ができるようになった、というご家庭もありました。
「今までお手伝いはしていたけれども、決まり事のようにやっていました。でも、近頃では、私の気持ちを考え、行動してくれるような様子を感じます」と教えてくれました。


「気を使う」というのは、遠慮するという意味ではなく、積極的な行動、前向きな配慮です。
お互いが配慮し合う、気を使い合う。
それこそが、人間関係を円滑にし、維持するために必要なことだといえます。
そのために、身体を通して、名の無い遊びを通して、行動→結果の体験を増やしていくこと。
それが積み重なっていくと、予測する力が培われていき、最も高度である人間関係における予測、他者の視点を想像することに繋がります。


ASDだから、発達障害だから、「空気が読めない」「相手の視点が想像できない」「一方的な関わりしかできない」のではなく、そういった能力に必要な育ちがなされていないからです。
常々言ってるように、未発達と障害は異なります。
そういった社会性の特性なのではなく、社会性が未熟であり、育っていないのです。
「気を使える人に育てよう」というのはボヤッとした目標ですが、「予測の要素の入った遊びをたくさんやり切ろう」というのは、今日から、家庭で今すぐにできることです。


子ども達は、運動を通して、原因と結果、地球に重力があることを学びます。
子ども達にとって遊びは、まさに科学の実験なのです。
科学者の生い立ちを聞けば、皆、子ども時代、よく遊んだ子ども達ですね。

2019年11月19日火曜日

土踏まずは、言語、認知、手先の発達へと続く道標の一つ

ヒトは、二足歩行ができるようになって、言語や知性、手先を発達させていきました。
ですから、二足歩行ができる身体に育てることは、とても重要だといえます。
二足歩行ができていないのに、言語訓練をしたり、勉強を教えたり、ソーシャルスキルを暗記させたりしても、効果は期待できないでしょう。


中には、自然な二足歩行ができていないのにも関わらず、しゃべったり、学校の勉強ができたりする子もいます。
しかし、そういった子ども達の多くは、脳みそ、特に大脳皮質が頑張って、なんとかこなしているという雰囲気があります。
私達が意識することなく、しゃべり、学ぶことも、脳をフル回転させながら、考える力でカバーしながら進んでいる感じです。
なので、小学校低学年のときは良いですが、3年生、4年生くらいになって、概念や考える力が求められるようになると、ついていけなくなるのです。


ある意味、丸暗記の会話、パターンによる会話、小学校低学年の概念があまり入ってこない学習においては、発達の凸凹があろうとも、発達の遅れ、ヌケがあろうとも、続けていけば、身に付けることができます。
しかし、重要なのは、丸暗記や型が決まった会話ではなく、自然な会話、やりとりです。
それは学習面でも同じ。
決められた計算式で答えを出す、文章に当てはまる文字を書きぬく、文字を覚える…。
こういった基礎、土台から一歩進み、自ら考え、さらに答えのない答えを導き出していけるところまで成長していけることが、学ぶ目的でもあります。
そのために、単に「二足歩行ができる」ではなくて、“自然な”二足歩行ができることが必要になります。


普通級に在籍している子で、勉強や人間関係で躓き、初めて「発達障害では?」というようになる場合があります。
幼少期、物静かな子、勉強や運動が苦手な子も、小学校に上がり、概念と複雑性の世界に入ると、徐々にしんどくなっていきます。
そういったとき、「発達障害の子どもに合わせた方法で勉強を教えてほしい」と依頼が、私のところにきます。
しかし、そういった家庭教師としての役割は、ほとんど行うことがありません。


振り返れば、幼少期から何らかの発達の遅れ、ヌケはあったのでしょうが、特に指摘されることなく、診断を受けることなく、普通級に在籍しているわけです。
ということは、認知の面での根本的な問題があるわけではありません。
よく勉強についていけなくなると、それ知的だ、認知面の問題だ、それが発達障害の特性だ、となりがちですが、そうではないと思います。
ついていけなくなったのは、大脳皮質でカバーしきれなくなった表れ。
別の言い方をすれば、認知面が優れていた、そこは普通だからこそ、幼少期、指摘されることなく、普通級で勉強が続けられてきたわけです。


家庭教師の依頼があり、相談に伺うと、こういった共通した姿があります。
姿勢が悪い、長く座ってられない、鉛筆の持ち方が不自然、身体が傾いている…。
そして足の裏を見せてもらうと、みなさん、まるで赤ちゃんのような綺麗な足をしていて、土踏まずがない状態。


もちろん、個別のヌケがあり、個人の発達の物語がありますので、一概には言えませんが、「勉強を教える前に、土踏まずを作りましょう」という提案をさせてもらうことがあります。
まさに土踏まずを作るのは、あらゆる活動の土台作りです。
「勉強がしんどくて家庭教師」ではなく、「勉強がしんどくならないような家庭教師」
「発達障害は治らない!」と主張する人も、土踏まずを作ることに異論はないと思います。
土踏まずを作るのにエビデンスは必要ありません。


土踏まずができれば、自然な姿勢が保てるようになります。
何故なら、立位後、重力と一番お付き合いしている身体は足の裏だから。
足の裏に土踏まずがないということは、たとえ立ったり、座ったり、歩いたりしていたとしても、それはどこか別のところ、機能がカバーしているのです。
つまり、土踏まずができ、自然な姿勢ができるようになれば、そこに使っていた分、カバーしていた機能が、本来、自らが受け持つ役割に専念できるということ。
脳みそに余白ができれば、その分、考えること、発達することにエネルギーを回せます。


土踏まずを作るのには、お金も、薬も、療育も、必要ありません。
その方法は、とてもシンプル。
足の指で踏ん張ることと、踵に重心を置くこと。
この運動の繰り返しで、土踏まずが育っていきます。


足の指で踏ん張る運動は、寝返り、ズリバイや高這い、動物歩きなど。
こういったトレーニング的な運動が嫌なら、坂道を上ったり、下りたりすれば、良いのです。
あとは、砂場や海辺、土の上を裸足で歩く。
イメージで言えば、「地面を足の指で掴む」です。


踵は、階段の昇り降りが良いでしょう。
そして重いものを背負うのも良いです。
飛んだり、跳ねたりしていれば、自然と足の裏が重力との付き合い方を学んでいきます。
自分のリュックにお弁当を入れて、山登り、ピクニックに行けば、楽しいし、土踏まずもできるから一石二鳥。
ただし、高性能の子ども靴は、勝手に足が進んでしまいますし、足の裏への刺激が軽減されてしまいますので、どういったものがいいか、考える必要はありますね。


先日、会った小学生のお子さんは、「土踏まずができた」と、足の裏を見せてくれました。
家庭教師の依頼から、私が土踏まずの提案をし、「また半年後に」と言って終わったご家庭でしたが、お母さんが言うには、「以前よりも、勉強の遅れが気にならなくなった。会話の内容が変わった」とのことでした。
土踏まずができたから、勉強や会話の面で良い発達があったのか、土踏まずができ、脳に余裕が生まれたから、本来の力が発揮できるようになったのか、はわかりませんが、それでもお金をかけず、楽しみながら、遊びながら足の裏を育てたのは良かったと思います。


発達障害ぬきに、足の裏に土踏まずがない足は、不便ですよね。
「土踏まずぐらいで」と思う人もいるはずですが、進化の過程、人類が600万年、ほとんどの時間を舗装されていない道を歩いたり、走ったりしていたと思えば、その重要性はわかるはずです。
自然な二足歩行がどういったものか、ちゃんと運動発達しているかどうか、がわからなくても、土踏まずがあるかないか、は皆さん、確認することができます。
土踏まずは、言語、認知、手先の発達へと続く道標の一つです。


*土踏まずや母指球の育て方、その意義については 『自閉っ子の心身をラクにしよう!』 (栗本啓司著 花風社)に詳しくありますので、是非、参考になさってください。Kindle版(電子書籍)もあり。



2019年11月15日金曜日

「発達障害=療育」「診断→療育」「療育を受けさせるのが良い親」は誤り

ついこの間までは、「発達の遅れを指摘され、診断を受けたら、気が付いたときには申請書に記入し、療育施設に通っていた」とおっしゃる親御さんが多かったです。
でも、最近では、その療育とやらも、どこも枠がいっぱいらしく、利用できるまで間が開くようです。
ですから、その間にいろいろと調べて、自分で行動する親御さん達が出てきたように感じます。


私のところにも、そういった方達からの相談が来るようになり、半年待機なら、一年待機なら、「その間で1つでも治しちゃいましょう!」という具合に、せっせと発達援助を行い、ヌケや未発達を育てていきます。
半年あれば、できることはたくさんありますし、年齢が幼ければ幼いほど、発達は加速度的に進むものなので、育つのも早いです。
「結局、療育施設への希望は取り下げました」というお話を聞けば、公的な資源を使わず、自らの力によって必要性がなくなるほどに治したのだから、これも一種の社会貢献であり、やっぱり治すことは本人にとっても、家族にとっても、社会にとっても、喜ばしいことだな、と改めて感じます。


現状の療育では、治すことを目的としていませんし、症状の軽度化も達成できていません。
とにかく「適応力を上げる」が主であり、その適応力とは、社会への適応ではなく、支援への適応。
つまり、支援しやすい子に育つような支援です。
もっといえば、支援者が介護しやすい子にどう育てるか、というもの。
どうして、そんなことが言えるのか、と問われれば、早期診断→早期療育→特別支援15年で、ほとんどの人が自立できていないから。


ギョーカイの掲げる目標は、「支援を受けながらの自立」なので、まあ、見方を変えれば、思い通りに育てることができているわけです。
「生涯に渡る支援」を高々に謳っていますので、支援の仕方、指導の仕方は、どうしてもそのゴールに向かったものになります。
早ければ、1歳から人生を終えるその瞬間まで、支援を利用してもらいたい。
こういう事情がありますので、また結果として出ていますので、「どうして、早期から頑張って療育、支援を受けたのに、自立しないんだ」と怒ったところで意味がないのです。
社会の中の自立、症状の軽度化、発達のヌケや未発達を育て、治すことを目的としていないので。


これもつい最近まであった不思議な相談なのですが、「幼稚園(保育園)を休んで、療育に行くことを促されるのですが、どう思いますか?」というもの。
促してくる人は、医師であり、療育先の支援者であり、子育て相談の人であり、中には日頃通っている幼稚園、保育園の先生まで。
こういったのは、ナンセンスの一言です。


子どもにとって、毎日通う幼稚園、保育園は、そこも立派な社会であり、発達の場です。
本来、社会の中で、自分の資質を活かし、自立して生きていくことが、目指すべき姿。
そのための方法の一つとして療育があるのであって、療育を受けるために療育があるのではありません。
子どもが社会で過ごす時間、同世代の子ども達と共に発達する機会を減らしてまでも、その療育を受ける必要があるのでしょうか。
それは幼稚園で過ごす以上の素晴らしい学び、成長の機会となるのでしょうか。
今まで一番驚いたのは、園での遠足の日と療育の日が重なったとき、「療育に行ってください」と言われた人がいたこと。
子どもにとって、ワクワクするような行事、大切な思い出よりも、トランポリンを跳ぶのは必要ですか?絵カードの使い方を練習する方が大事ですか?イラストを見て、その名前を声に出すのは必要ですか?


私は常々言っていますが、「診断→療育の流れ」はおかしいと思います。
診断を受けたとき、もちろん、診断を受けずに発達の課題を指摘されたとき、「この子にとって何がベストか?」「どんな選択がより良い発達に繋がるか?」を検討し、その上で療育なら療育、それ以外の方法、また支援を受けるにしても、すぐなのか、家でもう少し育てたあとからでもよいのか、という話し合い、助言があってしかるべきです。
それなのに、申し合せたように「診断→療育」をひとセットのごとく、伝えてくる。


中には、そんな勧め方をしてこない専門家もいる一方で、療育を受けないことが悪いことのように、また「受容できていないダメな親」というように言ってくる人もまだいるようです。
精神的に、どうしても冷静になれない時期ですから、なおのこと、言われるがままに進んでしまう親御さんがいるのは仕方がないことです。


地方ですと、田舎ですと、診断も、療育も、相談も、支援事業所も、全部、同じ法人ということも少なくありません。
また、一人の人が利用しても、「利用回数①」にしかなりませんが、複数の事業所が関われば、②にも、③にもなります。
その利用回数に応じて、公金を受け取る仕組みですので、同じ法人同士じゃなくても、繋がっているところ同士でパスし合う、ということもあります。
なので、同じ相談事業所を利用している人は、療育も、通所も、病院も一緒のことが多いのです。
これって、本当に個人の利を一番に考えている行為だといえるでしょうかね。


発達障害だから、療育を受ける、受けなきゃならない、というのは誤りです。
今、その子の発達にとって、何がベストか。
幼稚園、保育園、同世代の子ども達との関わり、家庭生活において、より良く活動できるためには、どういった援助が必要か。
それを真剣に考えたとき、「幼稚園を休ませてまでも療育に行く必要はないな」と思えば、行かなくて良いのです。
幼稚園での経験、発達と、療育機関での経験、発達との間に差はありません。


よく「幼稚園と違って、療育施設は専門的だから…」と言われる親御さんもいますが、その専門は、優れているという意味の専門ではなく、質を担保するための専門ではなく、「うちは(健常児ではなく)障害児を専門しています」というだけ。
お米屋さんが「お米の専門店です」と言っているようなもの。
そのお米が美味しいかは、個人によって違います。


発達の専門は、療育施設だけではないのです。
幼稚園も、保育園も、公園も、習い事も、友達との間も、もちろん、家庭も、すべてが発達の場。
そこに優劣はなくて、あるのは、その子に合った組み合わせ、重きの置き方だけです。
つまり、発達は、そのとき、そのときで、ベストな組み合わせを作っていくということ。
「診断→療育」という決まり切った流れは、個人の発達、子育てにおいて最も重要なカスタマイズする行為を妨げてしまいます。
子どもの発達が多様なように、その育ち方、育て方も、もっと多様であって良いのです。
そこに子育てを始めたばかりの親御さんが気づけることが大事ですし、伝えることが専門家の本来の役割でもあります。


「発達障害だから療育」は、思考も、育ちも、家庭の養育力も、貧相にしてしまいます。
大事なのは、今、その子に合った育ちは何かであり、その育ちが将来の自立へと繋がっているか、ということ。
そして忘れてはならないのは、その瞬間、今の子ども時代はもう戻ってこない、ということです。
私は親御さんに良く言います。
「お子さんからしたら、大きくなって振り返ったとき、子ども時代の思い出が療育に通っただけ、だったら悲しくないですか。一番に思いだされるのは、やっぱり家族の思い出、友達との思い出であってほしいですね」と。
家族との思い出も、将来の自立には必要です。
二度と戻ってこない今を、子どもさんも、親御さんも楽しんでほしい、と私は願っています。

2019年11月14日木曜日

診断基準は変わる、進歩と人為によって

DSM-5が発表される際、アメリカ国内では騒動が起きました。
新しい診断基準になると、それまで該当していた人達の中に基準から外れてしまう人達が出る、と。
それでは、「今まで受けられていた支援、サービスが受けられなくなる!」「それは問題だ!」ということで、当事者、家族から声が上がったのです。


新しい診断基準へと改定を進めた人達も、当然、こういった反応は予想できたと思います。
(まあ、結論から言ってしまえば、ロビー活動によって、改訂前に診断を受けていた人は、それまでと同様に支援が受けられるようになりましたが)。
では、何故、改定する必要があったのか。


当然、多くの臨床からより実態に合ったものへ、それまで分からなかったことが明らかになったことによって、診断基準が変更されるという面があります。
DSM-5では、自閉症やADHD、LDなどが神経発達症という大きな括りの中に入ることになりました。
「どうも、“神経”発達が大きくかかわっているようだ」という具合に。


一方で、純粋に医学的、科学的な進歩によってのみ、診断基準が変わるわけではないこともわかります。
端的に言えば、診断基準に該当する人を減らしたかった。
先進国では、韓国、日本の順に、発達障害が増加していますが、アメリカでも同様に、ますます発症率も、発症者数も増えているのです。
ある程度、支援サービスが整っている国では、それに伴って、どんどん公的な予算、費用が増えていきます。
そこで有限であるリソースを効率的に分配するためにも、いや、もう予算がないから勘弁してくれ、ということかもしれませんが、開いた蛇口を閉め始める。
そういった側面も、あるのは当然だといえます。


このように人間が行うことには、少なからず思惑が入る余地があるのです。
発達障害が、神経の問題になったとき、神経なら育てられるし、アプローチできることが示されるようになりました。
また、長らく言われていた「生まれつきの障害」という言葉も根拠がなくなり、『発達期に生じる』という言葉によって、環境、アプローチの仕方によって変化が生じるという可能性、希望が見いだせるようになりました。
しかし、私達は医学、科学の進歩による恩恵だけではなく、その裏側にある意図にも目を向け、理解する必要があると思います。
つまり、未来は引き締めの方向へ進んでいくことと、その社会状況によって人為的に診断基準すら変わるということ。


日本は、世界の中で2番目に発達障害が増加している国です。
しかし、その増加に歯止めをかけるような環境要因に対する手は打たれていません。
しかも、その原因に関する研究結果、不都合な真実を否定し、隠そうとする人達も存在するくらいです。
それでいて、増加の一途を辿る発達障害者に対する支援は、「“支援を受けながら”、より良い生活を目指していく」という方向性のまま。
「支援を受けながらの自立」という具合に、官僚の答弁みたいなことが言われる始末。
支援を受けていたら、その時点で自立とはいえない。
自立とは、その名の通り、自分の足で立つこと。
結局、支援者も、支援を受け続けてもらうことが前提で、本気で自立など目指していないのです。


少子高齢化の社会なのに、どんどん発達障害の子ども達が増えている。
それでいて医療は治すことを目指さず、支援者は自立させることを目指さず。
親御さんの中には、我が子の自立よりも、どれだけ支援を、サービスを勝ち取るか、というような人達も少なくない。
この状況で、将来、診断基準が変わったり、支援サービスが利用できる人に制限がかかったりしたとき、どうなるのでしょうか。


国が、「もうこれ以上、発達障害者に対する公的なサービスの負担はできない」と言ったとき、私はアメリカのように、それまで支援を受けてきた人が大きな声を上げると思います。
そして現実問題として、支援を受けること前提で育ち、支援が染みついた人達からは取り上げることができないはずです。
制度が変わったから、「明日から支援サービスは受けられません」「事業所に来ないでください」「グループホームから出て行って」「飲んでいた薬、全部中止」とはならないでしょう。
となると、この世代は勝ち逃げ世代、逃げ切り世代になるのです。


限りある資源に、今の逃げ切り世代が大部分を占める。
医療、ギョーカイは、今まで通りの方向性で進もうとするでしょうが、今の子ども達は、その流れに乗ってはいけないのです。
どう考えても、出口戦略のない、そこに穴の開いた壺の中に、貴重な水を注ぎ続けるような支援は、近い将来、破綻します。
2025年、団塊世代が後期高齢者になる時期、ですから、早ければ5年後には、見直しが行われると思います。
子ども達とその家族の割合、しかも、その中で発達障害を抱えている家族の割合は、それ以外の国民の数からしたら少数ですから、選挙で、政策として勝てるわけがありません。


日本は自然災害から逃れられない国ですし、社会だって、どうなるか予測ができない不確実性に溢れています。
そして、いくら叫んでも、勝ち逃げ世代は勝ち逃げするだろうし、今までのような支援を前提とした人生設計はなり立たない。
ですから、確実なことを増やしていく。


発達は後戻りしません。
一度クリアした発達課題は、確実にその子の内側に残ります。
テクニックや知識は後付けできるし、忘れ、失うこともありますが、その感覚、動き、身体は生涯、その人の人生を支え続けます。
そうです、発達課題をクリアし、獲得していくことは、自らの内側に生涯の支援者を育てるということ。
与えられる支援は、いつどうなるかわかりませんが、内側にある支援は裏切らない。


自らの足で立って生きることを自立というのなら、自らの内側の支えを作ることです。
そのために、子ども時代、家庭の中でできることはたくさんあります。
『快食快眠快便』と『自由自在に動かせる身体』
これらを育てることは、自立の土台作りだといえます。
別の言い方をすれば、これは、どんな優れた社会、福祉制度、支援でも、担えない部分。


動き出すのは早い方が良い。
すでに私達は、逃げ切り世代にはなれません。
従来のままの医療、支援、専門家に別れを告げ、私達は確実なものを子ども達の内側に育てるという道を進むのです。
どんな未来が訪れようとも、子ども達が自分の人生を、自らの足と意思によって自由に謳歌できるように。

2019年11月13日水曜日

寄り添うのも、発達を後押しするのも、家族が行えます!

福祉の世界では、「障害者に“寄り添う”」という言葉が大切にされています。
私が施設職員として働き始めたときの入社式でも、福祉事業所が主体である会議、研修会、講演会でも、書籍やギョーカイ新聞においても、「寄り添う」という言葉が出てきます。
あたかも、その言葉を入れないといけない決まりがあるような、まるで締めくくりの定型句のような。
「寄り添う」は伝統芸能のように、代々受け継がれてきています。


しかし、その「寄り添う」の流れの始まりを見てみると、昭和の初め、何十年も前にさかのぼります。
当時は、障害を持った人達が座敷牢に入れられていました。
その社会的に消し去られた時代から、障害者の保育、福祉、教育に移り変わるとき、「寄り添う」という言葉が生まれ、本人、家族、福祉に携わる人達にとって意義をもったのだといえます。
社会的に排除され、地域、家族からも存在が否定されていた時代。
その時代においては、障害を持った人に寄り添う、それ自体に価値があったのだといえます。


では、現在においても、「寄り添う」は大きな意義を持つことなのでしょうか。
職業として、仕事として関わっている人間が、その職務の一番に「寄り添う」を掲げて良いのでしょうか。
今は、福祉だけではなく、医療や教育、行政など、あらゆる分野で「寄り添う」「共感する」「認め合う」などと言われています。
でも、寄り添い、共感し、認め合うのなら、赤の他人が税金を使ってやることではないと思います。
寄り添うだけだったら、犬の方が優れているのでは。


本人が福祉の世界に入ると、成長が止まる、むしろ、できたことすらできなくなるのは、未だに福祉の中心に「寄り添う」があるからだといえます。
その施設内で問題が生じても、その問題を解決するよりも、「その人はやりたくてやっているのではない。困っている人である。だから、私達が寄り添うのだ」という具合に流れてしまう。
本人の生きづらさを改善するよりも、生きづらさを抱えている本人を一人にしない、孤立させないと流れてしまう。


「これのどこが仕事なんだろうか」
「この作業を続けていくと、キャリアアップに繋がるのだろうか」
「この自立訓練では、一生、自立できないだろう」
そのような福祉が今もなお存在し続けるのは、職員の質の問題もあるでしょうが、それ以前に福祉が「寄り添う」ことを第一に考え、寄り添うことが自分たちの使命、役割という価値観が続いているからだといえます。


日本の場合、福祉がリードしてきた歴史がありますので、特別支援教育においても、福祉の色が出ています。
さらに医療の分野においても、障害を持った子の親であるドクター達がリードし発展させてきた流れがありますので、本人の成長を後押しする教育でも、本人の生きづらさの元を治す医療でも、「無理をさせない」「頑張るのは本人ではなく、周り」という姿勢が強く出ています。
多分、福祉の中核である「寄り添う」が、それぞれの領域に派生したのでしょう。
言葉は違えど、弱い立場である人たちを守り、寄りそうという雰囲気は一緒です。


発達障害という分野でお金を貰っている以上、具体的な助言ができないようでは、プロとしては失格です。
子育てで悩んでいる親御さんに、「お母さん、その子の良い面を見ましょう」「お母さんがラクになると、子どもさんも成長しますよ」と言う。
これは良いことを言っているようで、何の足しにもならないことを言っています。
良い面を見ようとしても見れないくらい子育てが大変、本人の発達が不安。
だから、相談しているのに、寄り添った風の綺麗事を言うだけ。
こういう専門性がない言葉が堂々と発せられ、繰り返されている。
これはとても恥ずかしいことですし、日本の公的な支援の質が停滞している象徴的な場面でもあるのです。
「時間が解決する」なら、支援者はいらない。


「私の地域は、遅れています」
このような言葉は、いろんな相談者の方からお聞きします。
でも、住んでいる地域の支援の質が遅れているのではなく、現在の発達障害に関わる公的な支援全体が遅れているのです。
本来は、常に質の向上を目指し、前の世代よりも良いものに進歩させていくために、日々、研鑽を積んでいく必要があるのに。


どういったサービスを提供し、利用者にとって、どのくらい利益があったか。
そういったことが問われることなく、利用した数字によって、公的な資金が得られる、その仕組みに胡坐をかき、座敷牢の時代に芽生えた「寄り添う」だけで飯を食っている。
こういった現状に、公的な支援に、「NO」をつきつけるのは、令和の時代に子育てをしている親御さん達なら、またその原資を担っている社会人なら、当然の権利。
これは反社会的な行動ではなく、むしろ、社会をより良くしていくための心ある行動です。


発達障害は、その名の通り、発達に関わる障害なので、どうすれば、発達が促されるか、発達のスピードが加速するか、具体的に助言ができなければなりませんし、実際にやり方を示せる必要があります。
自分ができないのに、自分がやったことがないのに、良いも悪いもありません。


①生きづらさ、困難、悩みの根っこは、どの発達と繋がっているのか。
②その発達は、どのような順序で、どのようなアイディアによって、育っていくのか。
③実際に言葉で、実践で、示していく。
④そして、それを本人、家族がやった結果、ポジティブな変化が見られた。
そこで初めて、その支援、援助、相談が価値あるものとなります。
現状の多くは、①に入る手前で終わっています。
だって、治らないし、個性だし、無理させないから。


公的な支援サービスが変わるには、まだまだ時間がかかりそうです。
たとえ、単に「寄り添う」だけから、結果が問われる仕組みに変わったとしても、今の子育て世代には間に合わないでしょう。
ですから、自分自身で学び、行動していくのみ。


「発達は診察室のみで起きるのではない」
「療育施設のみで起きるのではない」
「学校のみで起きるのではない」
あらゆるところに、発達の機会があります。
当然、一番長く過ごす家庭生活が発達の中心です。
寄り添うのも、発達を後押しするのも、家族が行えるのです。

2019年11月12日火曜日

生きづらさ保全の会

不登校や不登校気味の子の相談で多いのが、「クラスの子が泣いたり、叱られたりしていると、自分も悲しくなる、辛くなる」というものです。
その状況に耐えられなくなると、だんだんと心身に不調をきたし、学校に行けなくなる。
勉強や友人関係に問題はないのに、こういった理由から不登校になる子も少なくありません。


だいたい最初の対応として、「担任の先生にあまり叱らないように」とお願いをするようです。
しかし、いけないことをしたら指導するのは当然ですので、叱る場面をゼロにはできません。
それに子ども同士のやりとり、個人の感情はコントロールできませんので、クラスの子がネガティブになる状況はあり続けます。
となると、結局、本人が辛くなることは変わりませんので、もう一度、要望、話し合いが行われます。


先生としても、本人を叱っているわけではありませんし、クラスの子の感情をコントロールできるわけではありませんので、困ってしまいます。
一方、親御さんの方も、状況が変わらないことに焦り始める。
そういったとき、両者の流れが「発達障害」に向かい始めます。
担任が抱え込めない部分を受け持ってもらうための「発達障害」
特別な配慮をより認めてもらえるようにするための「発達障害」
ちなみに不登校になってから、診断を受けるケースが本当に多いです。
診断を受けると、その学校の不登校数にカウントされないというルールがあるのでしょうかね。



特別支援に関わる人、支援者、専門家の中には、こういった子どもさんに対し、「とても優しいお子さん」「他人の気持ちに共感できるのは長所」などと言います。
でも、本当に優しい子、他人の気持ちに共感できることが長所と言えるまでになる子というのは、ただ悲しんでいるだけではなく、行動に移せる子です。
悲しんでいる子の横で泣いている子は、ただ泣いている子。
そこから一歩成長し、悲しんでいる子に対して、どういった行動ができるか、それを考え実行できる子に育てるのが、また育ってもらうのが、子育てであり、教育でもあると思います。


このようなお子さん達は、一言で言えば、「自分が確立できていない」のでしょう。
自分と他人の境界線が曖昧ですし、その曖昧さは、自分の身体の範囲がわかっていない、ということ。
それは内臓の発達の遅れ、皮膚感覚、前庭覚などの未発達などがあるのであり、感覚の育ちに遅れがあるということは、呼吸や運動発達にヌケがあるかもしれないし、原始反射が残っているために発達が滞っているかもしれない。
また、その名の通り、きちんと地に足がついていないかもしれない(浮き足など)。
こういった連想は、発達に関わる職業人なら瞬時にできるはずなのに、なんでもかんでも、保全に努めるのが特別支援に関わる者の性。
他人の生きづらさをコレクションするのは、悪趣味としか言いようがありません。


個性を”活かす”には、行動が伴わなければなりません。
「自閉症の人はルーティンワークが得意だから」「覚えるのが得意だから」「間違いに気づくのが得意だから」
そういった個性にスポットライトを当て(別名「苦手なところは無視」)、就職に向けた学習をし、ジョブマッチングをし、どれほどの人達が卒業後、仕事が続けられているのでしょうか。
結局、活かすための土台ができていない、ゆえに行動が伴わず、ただ個性を持っている人で終わってしまっている。
こういった状況は、本人の人生はもちろんのこと、社会にとっても大きな損失だといえます。


個性を活かすには、それに見合った行動ができること。
行動ができるようになるために、発達障害は治す。
私は、「発達障害ゆえに素晴らしい個性を持った人」というのは間違っていると思います。
素晴らしい個性にするためには、それが発揮できるだけの育ちが必要。
なので、「発達障害が治ったゆえに、素晴らしい個性を持った人」と言われるのだと思います。
発達障害を治すことなく、治そうとせず、個性だけ抽出しようとしても、無理。
人間をひと部分切り取るのが無理なように。


冒頭で紹介した子ども達も、未発達の部分が育ち、自分が確立できると、他人の感情に振り回されなくなります。
自分という主体があったうえで、悲しむ人に共感できる。
そのようなもう一段回進んだ、発達した共感が、行動できる姿へとつながります。
悲しむままは、個性ではなく、発達段階が幼いのです、周りの子が泣くと、一緒に泣き出す幼児のように。


不登校→診断→支援→障害の保全→生きづらさは変わらない、の無限ループ。
私はつくづく「どうして生きづらいままの人が、他人のため、社会のために、個性、資質を活かすことができるだろうか」と思います。
ですから、特別支援を見ていると、「子ども達の資質を伸ばそう!活かそう!」と、真剣に考えていないように感じます。


ある学生さんが、支援者から「その嗅覚過敏を活かして、匂いに関する卒業研究をしたらいいんじゃない」と助言されたそうです。
でも、その学生さんは、こう言っていました。
「私は嗅覚過敏で苦しんでいるのに、どうやって、それを使って研究ができるといえるのでしょうか」と。
過敏を活かすにしても、それに圧倒される段階から、しっかり自分で掌握できる段階まで発達しておくことが必要ですね。
個性も、資質も、磨いてナンボ、育ててナンボ。
行動が伴って初めて、長所、素晴らしい個性、資質だといえるのです。

2019年11月11日月曜日

「障害ゆえに生きづらい」と「生きづらいゆえに障害」という連想

誤学習ランキングをつけるとすれば、「発達障害ゆえに生きづらい」が上位に食い込んでくると思います。
面談でお話ししていると、「それって、発達障害、関係なくね」と思う場面がよくあります。
「私は発達障害だから勉強ができないんだ」
「僕は発達障害だから、みんなに嫌われる」


詳しくお話をきくと、同じ勉強方法にこだわっていたり、そもそも勉強していなかったり。
周囲の人達は、発達障害を嫌っているのではなく、迷惑行為を嫌っていたりする。
「そんなことをしていたら、発達障害じゃなくても、嫌われるよね」ということがあります。
失敗や嫌われるにしても、因果関係が掴めていない。
ゆえに、また同じミスを繰り返す、の無限ループ。


因果関係が掴めないのは、情報が読みとれない、空気感が捉えられない、という本人側の理由が考えられます。
まあ、これが「発達障害ゆえ」と言われたら、そういう面もあるでしょう。
しかし、こういった部分は脳の機能障害ではなく、感覚系の未発達。
ですから、育てれば発達するし、感覚的にわかるようになる。


感覚系に未発達がある→情報が読みとれない、となると、頭先行で物事を捉えてしまいがちになります。
そこに脳の余白がないと、先着一名様の思考と重なって、特定の考え方に縛られてしまう。
それが「発達障害ゆえに生きづらい」という考え方(?)文言(?)スローガン(?)


本やネット、メディアなどでは、「〇〇ができない」「〇〇で失敗する」という具合に、ネガティブワードで溢れています。
そもそも診断基準の記述が、そのような「できない探し」で構成されているので無理もありません。
因果関係は載っていないで、「〇〇ができない」という文言ばかりなら、「発達障害=できない」という図式が出来上がってしまいます。
本当は、できないことよりも、「何故、できないか?」が重要なのに。


当事者会に行けば、形式的な自己紹介後は、「今、困っていることは何ですか?」と、みんな、困っていること大前提で会が進行していく。
その困っていることは、悩んでいることは、同世代の人達も同じように悩んでいるかもしれない。
そういった視点が持てなければ、当事者会は「同じ悩みが共有できた」という心の軽さよりも、「発達障害は、あんな困難も、こんな困難もある」という心の重さが増すばかり。
だから、当事者会を居場所にしてしまう人達は、ますますその重みで身動きがとれなくなるのだと思います。


愛着障害のある支援者は、自分が必要とされているという実感を得続けたいため、発達障害の人達には、心のどこかで、ずっと生きづらい存在でいてほしい、と願うもの。
ですから、その生きづらさをどうにかしようと思うよりも、その生きづらさに共感し、想いを受け止めようとする。
それが結果的に、当事者の人達の生きづらさの固定化につながります。
その生きづらさに、真っ正面からぶつかろうとする支援者は少ない。
「できることを活かして」「長所を活用して」は、問題の本質から逃げるための綺麗事。


さらに本人たちにとっては、家庭さえも生きづらさを強化する場にもなります。
当事者会同様に、親の会も、よろしくない。
聞けば、それは単なるわがまま、しつけの問題でしょ、というのも、会のルールなのか、誰も指摘しない。
指摘するような人がいたら、あとから「あの人も、自閉入っているよね」と言う始末。
「苦しいのは、うちだけじゃない」というような決して心をラクにしない確認をするために通い、家に帰れば、あらゆる困難を「障害ゆえに」と割り切る。
でも、そういった視線、態度、子育ては、本人にも伝わるもの。
ある若者は、「親の会に行って帰ってきた後の親がイヤ」と言っていました。


厳密に言えば、その生きづらさの正体は、どのくらい障害が影響しているか、なんてわかりっこありません。
ただ確実に言えるのは、生きづらさを感じている主体がいて、生きづらさが存在しているということ。
そして、同じ場所、同じことを繰り返している限り、その生きづらさは軽くならないということ。


その会に参加し続けて、現実の問題は解決したのでしょうか。
その支援者の支援で、その施設の療育で、自分の生きづらさは薄れていったのでしょうか。
生きづらいと訴えている人に、「その生きづらさがあなただ」「生きづらさばかりではなく、良い面を」と言うのは、支援しているといえるのでしょうか、その人は職責を果たしているといえるのでしょうか。
生きづらさが変わらないなら、そこは、あなたの場所ではない。


いろんな悩み事もそうですし、二次障害のエピソードなんかもそうですが、それ自体は誰にでも生じることだと感じます。
では、発達障害を持つ人は、何が違うのか。
私は、土台の脆さだと感じます。
結局、その出来事以前に、日頃から身体がしんどい、感覚刺激に圧倒されている、季節や環境の変化に翻弄されてしまっている、疲れから回復しづらい、というような生き物としてのしんどさがベースにあり、そこにネガティブな出来事が重なると、より生きづらさ、心身の不調へと繋がるのだと考えています。


人生、生きていれば、困難、ネガティブな状況と出逢うなんて当たり前です。
それは発達障害の有無に関わらず。
環境や未来の出来事はコントロールできないけれども、ベースにある日々のしんどさは改善、治すことができます。
特に、それが未発達だったり、発達のヌケだったりすれば、育てなおすことができる。
そのために、行動すること、何かを変えることが大事です。


「発達障害ゆえに生きづらい」というメッセージの一番の問題は、本人、周囲の動きを止めてしまう点にあると思います。
だって、思考停止でしょ、この言葉、この言葉の持つニュアンスは。
「あなたには発達障害がある。ゆえに生きづらさがある。しかも、その生きづらさは生涯変わらない」
そんなメッセージを長年受け続けていたら、行動を起こす気力が失われていくのも当然です。
その行き場を失った絶望感が、無駄に社会に向けられ、社会や困難がなさそうに見える人へぶつけられていく。
そういう人が嫌われ者になるのは仕方がないことですし、それは障害ゆえではありません。


以前、関わった若者が、「身体がラクになったら、いちいちネガティブな出来事に乱されなくなった」と言っていました。
だから、生きづらさは固定化されたものでも、障害特性でもありません。
夏に会った不登校の子は、緩い便から変わり、普通便が出るようになったら、自ら学校に行くようになりました。
やはり生き物としての土台が整うと、ストレス、刺激にも耐えられるようになるものです。
「障害ゆえに生きづらい」は、「生きづらいゆえに障害か?」という連想で打ち消すことができるのです。

2019年11月8日金曜日

強度行動障害と排便

施設では、管理栄養士が365日、朝昼晩のメニューを考え、それが提供されていました。
メニューに自由はありませんでしたが、偏り、過不足なく、必要な栄養が得られていたので、ある意味、同世代の大人たち、子ども達よりも、健康的な食事だったといえます。


そんな考えられ、健康的な食事が毎食摂れていたのにも関わらず、入所されている人達の多くは、排泄面で課題を抱えていたのです。
便秘の人は多かったですし、便が緩い人も多かったです。
当時、「どうして、こんなにも栄養バランスが整った食事を続けているのに…」とよく思いましたし、同僚とも話をしていました。


強度行動障害の人達は、精神科薬を服用していました。
ですから、当時は「精神科薬の副作用だろう」と捉えていましたが、今振り返ると、やはり内臓系の発達の遅れがあったのだと思います。
それは、新入所として入ってくる子ども達にも、排泄が未自立な子が多かったから。


排泄の課題の根っこを辿っていけば、幼少期からの排泄の課題、また排泄の自立がなかなかできない、という姿が見えてきて、さらに進めば、運動や感覚面だけではなく、内臓の発達の遅れとつき当たる。
精神科薬の束と、内科の薬の束が同じ高さくらいだったのが印象に残っています。
精神科薬を服用する前から、ずっと排泄の課題を抱えてきた、という人が多いのだと感じます。


便秘の人は、多動性が強かった。
便が緩い人は、衝動性が強かった(ちなみに、便が緩い場合、未消化物が多い)。
行動障害が激しい人は、排泄面で課題が多く、排泄の課題が大きい人は、行動障害が激しかった。
こういったのは、施設職員なら感覚的に理解しているような気がします。
排泄に課題がある人は特に、便の状態を確認することが、私達の大事な仕事の一つ。
なかなか健康状態を訴えることができない人も多かったので、排泄の状態は、体調の変化にいち早く気づくために重要な情報でした。
ですから、行動障害を持つ人や、知的障害、発達障害を持つ人の中には、排泄の課題を持った人が多いことがわかります。


またまた今思えば、行動障害を視覚支援や賞罰などで制止、改善しようとするだけではなく、「排泄の課題をクリアする」という視点があれば、内側から良い変化が得られたのではないか、と思います。
「他害を治す」と思えば、時間もかかるし、身体的、心理的な負担も多くなります。
「いつか治まるのだろうか」なんて思いながら過ごしていると、そのいつかが来る前に、「精神科薬で抑え込む」という誘惑にかられることがある。
ここの気持ちのせめぎ合い、揺れは、どの施設でも、職員でもあると思います。


でも、「他害を治す」のではなく、「排泄面を改善しよう」であったら、生活を共にする支援員たちはアイディアもあるし、前向きにもなれる。
ということは、今、発達に課題がある子を育てている、他害等の気になる行動がある子を育てている親御さんなら、将来のリスク、または今起きている気になる行動を治すことができるのではないか、と思うのです。


私は施設職員として、多くの発達障害の子ども達、大人たち、そして強度行動障害を持った人達の生活支援を行ってきました。
そのとき、排泄に課題がある人達が多くいました。
今でこそ、「腸は第二の脳」「腸と脳は繋がっている」と言われていますが、当時の私にはわかりませんでした。
もちろん、最初に「内臓の未発達」という視点を与えてくれたのは、栗本啓司氏の著書『自閉っ子の心身をラクにしよう!』です。


親御さんなら、子どもさんがまだ幼いうちなら、排泄の状態をチェックすることは自然なことですし、内臓を育てることも家族が行いやすいと思います。
排泄の課題は、後々の心身状態、行動に影響を及ぼす可能性があるといえます。
なので、トイレットトレーニングというよりも、「どうやったら、気持ちよく、排泄ができるだろうか」という視点で、食事から、運動から、内臓を育てていってもらえたら、と思います。
まさに「快食快眠快便」が整うことが、重要な発達援助であり、大切な子育てだといえます。

2019年11月7日木曜日

本人が治そうとするその日まで

私は、良い縁に恵まれているな、と思うことが多々あります。
先日も、「仕事が続けられています。新しい仕事を任されました!」というような報告をいただきました。
そして今日も、「仕事が決まりました。一般の人として」という喜びの報告があったところです。
メディアやネットでは、生きづらさ120%の大人たちばかり登場しますが、ご縁があるのは前向きで、頑張っている若者たちばかり。
本当にありがたいことだな、と思っています。


私は、そんな大人の方達と接するときと、子どもさんとその親御さんと接するときで、相談、援助の方向性を変えているところがあります。
それは、治せるところ、未発達&ヌケを、すべて言うか、聞かれるまで言わないか、という違いです。
お子さんの場合は、特に親御さんに対して、そのセッションの間で気がついたこと、確認できたことを余すことなくすべて伝えるようにしています。
もちろん、後日の報告書においても、より詳しく、考えられることはすべて記述します。


一方で、当事者である若者たちに対しては、基本的に尋ねられるまで、相談があるまで、私からは言わないようにしています。
何故なら、育てる立場ではなく、育てる主体であり、選択する主体だからです。
どこを治し、どこを育てるか。
もっと言えば、どう生きるか、は本人の考えと行動によって決められるものであって、他の誰からも侵略されてはいけないものだと、私は考えているのです。


仕事をしている人、自立して生活している人。
そのような若者たちであっても、すべての発達課題がクリアされているわけではありません。
と言いますか、発達課題は人生全てをかけて育て、治していくものなので、未発達やヌケがある状態が自然なのです。
それこそ、生涯が「発達期」


たとえ、未発達やヌケ、発達課題が残っていたとしても、社会生活が送られていれば良いわけで、悩みや生きづらさを抱えつつも、「今日一日頑張って、ちゃんと休息して、また明日元気に活動できる」で良いのです。
ゲームの世界とは異なりますので、すべての課題がクリアできた人から、次のステージへ、みたいなことはありません。
大なり小なり、すべてのヒトが、未熟さを抱えつつ、社会生活を営んでいる。
それが実社会というものです。


本人と出会った際、「ここを治せば、もっと生きやすくなるだろう」と感じることがあります。
でも、本人が今の状態で、とても前向きに、社会生活が送られているのなら、それで良いのではないか、と私は思うのです。


「まだまだ未発達、発達のヌケを多く抱えている。
でも、本人はとっても明るく、幸せそうに生きている。
それは今日この日が来るまで、何倍も、何十倍も、多くの未発達、ヌケ、課題を抱えていたのだろう。
それを一つひとつ育て、治してきたからこそ、今、幸せな雰囲気が出ているんだ」
こういった連想が、私がお節介な支援者になるのを止めてくれています。


成人した人に関しては、治すことよりも、本人の充足感だと思っています。
治すことの優先順位は最上位ではありませんし、すべてを治す必要はありません。
しかも、治すのは本人の選択と意思によって。
それに今、治さなくても、時期がくれば、そのとき、治せば良いのだと思います。


子どもの場合は、親が、家庭が、育つための一番の環境になります。
ですから、すべて伝えます。
より良い子育てのために、材料は一つでも多い方が良いから。
いつか、本人自ら育てよう、治そうとする、その日まで試行錯誤は続きます。

2019年11月6日水曜日

一方的な配慮ではなく、お互いに配慮し合う社会へ

「治らないから、”障害”なんだ!」と言われる人がいます。
確かに、身体などに障害を持った人たちは、そうかもしれません。
しかし、そもそも発達障害というのは、そういった確認できるような障害でなければ、何かが欠損しているような障害でもありません。


もし、発達障害と呼ばれる人達が、「神経が欠損している人」または、「神経発達が生じない人」ということを指しているのなら、発達障害は治らないし、治らないから障害だといえるでしょう。
でも、実際は発達障害ではない人と同じように、身体全身に神経が張り巡らされていますし、刺激によって神経同士が繋がっていくという機能も持っているのです。
違いがあるとすれば、その神経同士の繋がり方。


「この月齢なら繋がっているだろう神経ネットワークができていない」
「最も盛んな時期を過ごしているはずなのに、神経同士の繋がりがゆっくりだ」
すべての神経同士は、お互いに関連し合っていますので、発生初期から誕生後すぐの時期に生じるべき神経ネットワークが築かれなければ、それ以降の発達に影響が出ます。
これが発達のヌケ。
栄養不足や刺激の偏りによって、神経ネットワーク作りに滞りが生じれば、それが発達の遅れとなって、表面化するのだといえます。


発達のヌケや遅れがあるからといって、それが即、障害にならないのは、昨日、記した通り。
子どもなら子どもの、青年なら青年での、大人なら大人での、社会生活が支障なく、営まれていたのなら、発達の凸凹、違いは問題にならないのです。
ちなみに、どんな人にも発達の偏り、違いがあるのは当たり前であり、それと同じように、悩みや苦労のない人などはいませんので、社会生活に”まったく悩み、苦労がない”ではなくて、”支障がない”という表現になります。


じゃあ、「発達障害を治す」という表現を使わなかったとしても、共に生活している我が子に”支障”が生じたら、それを取り除こう、治そうと思うのは、どの親御さんでも一緒だと思います。
社会生活を送るのに支障となっているものの根っこを辿っていけば、神経発達に繋がります。
だったら、その神経発達を後押ししよう、運動、栄養、環境、遊び、家族の育みによって。
これは自然な親心であり、発達障害を治そうとするのは当然です。
どこの世界に、我が子が苦しむ姿を見て、「そのままでいなさい。それが個性だから」という親がいるというのでしょうか。


「発達障害を治す」に抵抗感を持つ人というのは、その意図を深く理解していない人、理解しようとしない人だと感じます。
特に、反射的に拒否反応を示している人が多いような印象を受けます。
そういった人は、「治す」から「矯正」を連想し、「発達障害でなくなる=普通の人になる」と思っているようです。


私も小さい頃には、散々叱られたものです。
そんなとき、親からは、「どうして普通にやらないの」「普通、そんなことしないでしょ」というような表現で叱られたこともあったでしょう。
でも、そこで用いられている”普通”は、「普通になれ」という意味ではなく、ただの叱り文句の一つ。
こういったのは、子どもでも、瞬時にわかるものです。


でも、中には、それを真っ正面から受け止める、字義通りに捉える、といった弛めない身体、察することの苦手な身体、意図や行間を想像するのが難しい脳を持った子もいたと思います。
そういった子どもが大人になり、家族ができると、似ている子どもが生まれる。
そんなとき、「発達障害を治す」という言葉と出会うと、その言葉、発信者の意図を理解しようという前向きな行動よりも、「普通になれなかった”自分”」「普通という言葉に息苦しさを感じていた”自分”」が思いだされ、反射的に拒否反応を示すのだと感じます。
それこそ、普通、我が子が困っている状況で、他の家族、お子さんで良くなった、治ったと聞けば、「どんなものだろうか」と興味関心、前向きな行動が生じるものです。


「発達障害を治す」という言葉に、必要以上に拒否反応を示し、執拗なまでにその言葉を打ち消そうとする人達というのは、「あなたこそ、まず治った方が良い」と感じる人です。
つまり、日々、生きづらさを感じ、社会生活がままならないくらい困難と支障がある人。
昭和、平成と学校生活を送ってきた世代は、現代よりも強く「同じ」が求められた人達。
さらに、まだ家の文化がある地方で育った人なら、余計、同じこと、はみ出さないことを求められ育ってきた。
そんな時代に生きた30代以降の大人たち。


診断を受けることなく、ずっと生きづらくて、ずっとみんなと同じようにできなかった。
「みんなと同じように、普通にやれ」と叱られ、何度もやり直しさせられた。
「発達障害を治す」という言葉は、「今の自分ではダメなんだ」という息苦しさと、望んでもなれない「普通」への強迫性を思い起こされる。
そうです、彼らに必要なのは、トラウマ処理。
言葉以前の問題を抱えている人に、言葉で説得、理解、やりとりをしようとしても、それは無理な話。


「発達障害を治す」という言葉をどうしても受け入れられない、反射的に拒絶してしまう人達がいるのは仕方がないことです。
大事なのは、今、より良い社会生活を送るために頑張っている人と、これからの社会を担っていく子ども達。
将来の社会を担っていく子ども達が、社会生活を送る上で支障が出ているのなら、それを治すのは、親の役目であり、大人たちの責任です。


ますます社会は、多様性のある社会へ変化しています。
文化や思想、考え方が異なる人達と共に歩んでいく社会です。
そんな社会で生きていくとき、「私には発達に凸凹があって、配慮してほしいんです」と言って、どれほどの配慮を得られるでしょうか。
きっと、今の子ども達が生きていく社会は、一方的な配慮ではなく、お互いがいろんな場面で配慮していかなければ、生きていけない社会になると思います。
発達の違いも、文化、思想、考えの違い、と同列になる。


ですから、大切なことは、社会に出ること。
そのために、社会生活を送る上で支障になる部分を治しておく。
発達の凸凹も、社会の中に入ってしまえば、目立たぬ違い、と言いますか、みんな、発達の凸凹は持っているのです。
子どもが、社会生活を送るためにできることは、身近に、家庭の中に、子育ての中にたくさんあります。
そうやって、多くの若者たちが治り、社会に出て行っています。
彼らに凸凹は残っていますが、今日も、自分の資質を、自分のために、社会のために活かして、社会生活を営んでいます。

2019年11月5日火曜日

治すのは、より良い社会生活が送れるために

「発達障害が治る」と言うと、すべての困難が治り、普通の人になることをイメージされる方が多いと感じます。
しかし、「普通の人になる」というのが治るだとしたら、それは不可能です。
何故なら、普通の人などいないからです。


一人ひとり遺伝子は異なりますし、その遺伝子がどのタイミングで、何が発現するか、しないかは環境側が握っています。
当然、発達の仕方も、学習の仕方も、生まれたあとの環境によって違いを生みます。
同じような時代、環境の中で生きた人間でも、一人として同じ人間はいません。
つまり、定型発達と呼ばれる発達の順序があったとしても、偏りもあれば、バリエーションもありますので、どの人も個性的で、発達に凸凹、違いがあるといえるのです。


「じゃあ、発達障害が治るって何だよ」という疑問が生じます。
その疑問に答えるためのポイントは、『障害』という言葉、概念です。


発達障害、もっと丁寧に言えば、神経発達の障害であり、神経発達に遅れがありますよ、ということ。
でも、神経発達に遅れがある子は少なくありません。
乳幼児健診でも、指標となる行動と月齢がありますが、発達には幅があるという前提がありますので、月齢よりも発達が遅れていたとしても、すぐに問題にはなりませんし、当然、障害にもなりません。


神経発達が遅れていても、あとから追いつけば良いのですし、遅れたままであったとしても、社会生活に支障がなければ問題ありません。
そもそも個々の神経を詳細に調べることはできませんし、健診等でも、それこそ、発達障害の診断でさえも行えないし、行っていません。
発達障害と無縁と思われる人、いわゆる定型発達で育ってきた人の中にも、知られていないだけで神経発達の遅れや、一般的な神経同士の繋がり方とは異なる人もいるはずなのです。


そこで、『障害』という言葉、概念です。
発達障害、神経発達障害などと言われていますが、本当に神経の発達が遅れているか、そこに不具合が生じているか、は確認しているわけではありません。
つまり、「神経発達に遅れ→社会生活に支障」ではなく、「社会生活に支障→神経発達に遅れ“だろう”」ということ。
よって、障害の有無は医学的、生物学的、神経学的に決定しているのではなく、社会生活に支障があるかないか。


世の中に、変人、変わった人はごまんといます。
かつては、総理大臣にもいました。
と言いますか、あなたも、私も、隣にいる人も、ご近所さんも、変人だらけ。
何も個性のない典型的な普通の人を見つける方が苦労します。
ヒトの神経発達に多様性があるからこそ、世の中、変人に溢れている。


「発達障害を治す」というのは、変人を普通の人に矯正することではありません。
社会生活に支障をきたしている原因に対処する、改善する、治していく、という意味だと、私は考えています。


社会生活に支障をきたさないように、サポートしよう、物理的にも、心理的にも、金銭的にも。
そういう考え方、選択肢がありますし、今の特別支援、発達障害を取り巻く環境は長らく福祉リードで発展してきたため、色濃く残っています。
ですから、本人が変わるよりも、周囲が、環境が変わろう、配慮しよう、という流れ。
それにプラスして、「長所を活かす」「個性を伸ばす」という教育が加わると、できないところはそのままで、配慮で、可能な部分を使って適応力を上げよう、となります。


こういった特別支援教育は、個性的な人達を育てていきました。
でも、社会の中で自立して生きていける人を多く育てられたわけではありませんでした。
早期に診断を受け、早期から療育と支援を受け、特別支援教育で育ってきた若者たちの中には、18歳以降の長い人生を福祉の中で、また福祉作業所にも週に1回くらいしか通えない人、卒業後、自宅待機という人もいるのです。
「できるところを活かして適応力を上げる」には限界があるといえます。


社会生活に支障をきたしている原因は、確実に本人の内側に存在しています。
ですから、支援でも、教えるでもなく、“治す”なのです。
感覚過敏は、社会生活の営みに大きな影響を及ぼします。
いくら能力があったとしても、環境からの刺激に右往左往していたら、学業も、仕事も、生活もなりゆかない。
ですから、未発達である感覚を育て、刺激を受容する身体を整え、感覚過敏を治していく。


子どもにとって、幼稚園、保育園、そして家庭はリッパな社会です。
その中で思いっきり遊べない、友達と交流が持てない、同じような体験ができないとしたら、それも社会生活に支障あり、といえます。
神経発達が最も盛んな時期に、遊べないのは子どもにとって大きなリスクです。
そういった子ども達の多くは、胎児期から2歳ごろまでの間に、抜かしたこと、少ししかやらなかったことがあります。
吸う力が弱くて、母乳をあまり飲めなかった。
ハイハイを飛ばして、立ってしまった。


古今東西、ヒトは同じような発達段階を踏みます。
もちろん、個人差がありますし、子どもによっては、ある発達段階を飛ばしても、問題なく社会生活が遅れている子もいます。
でも、あとからでもやり直せるのなら、抜かした運動発達をやってみる、育てなおしてみる。
600万年におよぶ人類の歴史の中で、脈々と続けられてきた運動発達。
発達の遅れも、ヌケもあることが問題なのではなく、障害なのではなく、そのままにしておくことが問題で、障害になる可能性が高いといえるのです。


「栄養で発達障害を治す」というのも、人によっては正しい治し方になります。
栄養の偏り、不足によって、脳や身体にエネルギーがまわらない。
結果的に学習や運動、発達に影響が出て、社会生活に支障が出る。
社会生活に支障が生じれば、障害になりますが、その原因の根っこが栄養なら、食事の改善で発達障害は治っても不思議ではありません。
同じように、脳の準備が整っていない段階からの文字教育、知識偏重な指導、過度なメディア視聴が心身の発達に影響を及ぼし、結果的に社会生活に支障をきたしているのなら、それらを排除することが発達障害を治すことに繋がるといえます。


変人だから、社会生活に支障があるのではなく、発達の遅れやヌケをそのままにしておくから、心身の発達に影響を及ぼす状態をそのままにしておくから、結果的に社会生活に支障が出るのです。
社会生活に支障がない状態まで、どうやって育てていくのか。
これは、お子さんを持つすべての親御さんに共通した視点、考えです。


快食快眠快便を整える。
基本的な生活習慣を身につける。
発達に遅れがあったら、やらなくていいの?
いや、そうではなく、これらをきちんと整えるのは、社会生活を送るための土台です。
同じように、発達の遅れや抜かしている部分があれば、あとからでもやり直し、育て直していく。
発達の遅れ、ヌケをそのままにしておかないことが、社会生活に影響を与えるリスクを減らすことに繋がります。


発達障害を治すのは、変人を矯正することでも、発達の凸凹をまったいらにすることでもありません。
より良い社会生活が送れるように育てること。
社会生活に支障が生じている原因の部分を改善、治していくこと。
いわゆる自閉脳でも、超個性的でも、奇人変人でも、脳に凸凹があったとしても、本人が社会の中で伸びやかに暮らし、生きていければ良いのです。
そのために治すのは、本人そのものではなく、内側にある生きづらさの根っこ。
根っこなら育て、治していくことはできます。

2019年11月1日金曜日

正常と異常の判断は、どうやるの?

支援者の腕の見せ所が、正常と異常の判断だといえます。
その言動は、その子の発達は、正常なのか、異常なのか。
異常と見えるような事象でも、正常発達における個人差、発現のパターンだったりします。


母子手帳や育児書などには、この月齢はこんなことができる、こんな様子がみられる、という情報が載っています。
新生児、乳幼児、子どもの発達は、世界各国で研究されていますし、だいたいどこの国でも同じような発達パターンを辿ります。
いわゆる、その共通する発達パターンが定型発達と呼ばれるものです。
一方で、発達障害の子ども達は、その定型発達から外れたり、異なるパターンを辿ったりします。


しかし、定型発達のパターンから外れた、その通りに進まないからといって、すべてが発達障害になるわけではありません。
「この月齢ではこの運動」というような大体の目安はあったとしても、個人差がありますので、それよりも早い月齢でできたり、遅い月齢でようやくできるようになることもあります。
発達に関しては、早ければ良いものでも、遅ければ悪いものでもありません。
重要なことは、飛ばさず、ちゃんとやり切ること。
たとえ他の子ども達より遅れたとしても、やりきり、発達課題をクリアすればよいのです。


親御さんは、この子の言動は、正常なのか、異常なのか、その判断で迷い、悩まれます。
でも、その悩みに拍車をかけているのは、近くにいる支援者、専門家だと感じるのです。
ここ数年多いのが、達成する月齢から少しでも遅れようなら、「発達障害では」と言う支援者の存在。
面談し、お子さんの様子を確認すれば、ただの個人差の範疇というのに、それが発達障害の疑いとなってしまう。
もちろん、発達の指標は、障害やリスクがある子を見抜くためのものではありますが、そこから外れたら、即、発達障害ということではないのです。
あくまで、そういった可能性に早く気付き、経過を丁寧に見ていきましょう、という話です。


啓発活動の成果によって、発達障害が身近なものになり、できるだけ早く見つけるのが、そして支援に繋げるのが良いことである、というような認識が広がったような気がします。
その結果、発達の意味を深く理解し、学ぶことなく、流れ作業のように発達のリスク、障害というレッテルがつけられるようになりました。
何か一つでも異常な部分を見つけると、すぐに発達障害となる。
私のイメージですと、障害名を早くつけ、支援に繋げるために、異常を見つけている、といった感じです。
早期から支援を受けることで助かった子もいれば、早期から支援を受けたばっかりに、障害者っぽくなった子がいると思います。


1つの項目で異常な部分があったからといって、部分的に異常があったからといって、発達障害にはなりません。
よくあるのが、「ASDと診断されました」という子に言葉の遅れなど、1つの症状しか当てはまらないケース。
ASDと診断されるには、他にも社会性の部分や、いわゆるこだわりの部分での異常も複数確認される必要があります。
でも、他が見当たらない。
よく良く聞くと、こだわりと判定された部分は、ただの興味関心だけだった。
社会性の部分は、言葉が遅れていることによるものだった。
結局、部分から障害を判断しようとすると誤りますし、障害名をつけること、「この子に障害がある」という前提から見れば、個人差、個別の表現パターンをも、障害として捉えてしまうのです。


実際はもっと詳細かつ多面的に確認していきますが、私が面談、セッションするときの正常、異常の判断の仕方です。
まず定型発達から外れている部分を確認します。
その外れている部分が、1つ、全体から見て部分的なら、それは個人差、個別の発達パターンとして捉えます。
ある発達が異常でも、それ以外の発達が正常なら、正常、問題なしの可能性が高いといえます。
また、異常な部分が複数あったとしても、発達には順序がありますので、そのすべてを辿っていくと、1つの異常と突き当る、つまり、異常の根っこが同じだとしたら、それも障害というよりも、個別の発達パターンだと捉えることができます。


他にも、親御さんが子ども時代、同じような発達の仕方をしているですとか、脳や身体などに機能的な障害がないですとか、本人が困らず社会生活が遅れているですとか、そういった面が確認できれば、通常の子育てで問題ないといえます。
と言いますか、個人差ならもちろんのこと、部分的な発達の異常、根っこが同じである複数の発達の異常なら、一般的な子育て、自然な中で、同世代の子ども達と一緒に活動していれば、自然と追いつき、普通の生活が送れるようになるもの。
発達の遅れ、ヌケは、支援では埋まりませんので。


結局のところ、母子手帳等に載っている発達の目安は、リスクを見つけ、丁寧に経過観察をしていくためのもの。
決して、障害の有無の判断に使われるものではありません。
障害か、異常か、正常かは、何故、その言動が現れているのか、丁寧に多角的に見ていかなければわからないものです。
「言葉が遅れているから自閉症」ではなく、「どうして言葉が遅れているのだろうか?」「それは以上なのだろうか、個人差なのだろうか?」「環境の影響は?神経発達の状態は?家族歴は?他の発達の部分は?」など、全体を通して、また私が繰り返し使っている受精から現在までの発達の流れ、ストーリーを見なければなりません。


発達障害が知れ渡るということは、それだけ「発達障害」という言葉、概念が軽くなったように感じます。
「どうして、あなたが」というような人が、他人様の子どもさんに「発達障害じゃないですか?」「一度、病院に行かれた方が良いですよ」「早く支援を受けなきゃ」「お母さん、障害受容できていないから」などを軽々しく言ってしまう。
その言葉は、親御さんにとって、そのときだけではなく、何年も、それこそ、子どもさんが正常発達になったとしても、心の傷、重みとして残り続けるものです。
普通に勉強し、実践している者からすれば、その認識は誤りである、個人差、個別の発達パターンだというものが、安易な「障害」という言葉から親御さんがそうだと思い込み、我が子を障害児として育てようとしてしまう。
その結果、同年齢の子ども達が得る自然な刺激、経験、体験ができず、発達が偏る、遅れる、知的な障害ができてくる、ということもあるのです。
それだけ「障害」という言葉、概念には重みがあり、子どもや家族の人生をも変えてしまう威力があります。


ある発達、1つの項目に異常があったとても、他が普通に育っていれば、問題ありません。
それは神経発達、ネットワークの表現型の一つです。
大まかな発達の流れは決まっていますが、発達のパターンは個人差が大きく、環境からの影響を大きく受けるものです。
友達と遊べなくても、心身共に健やかに育っているのなら問題なし。
言葉が遅れていても、運動発達が順調に進んでいるのなら、あとから育つ可能性がある。


子どもが少なくなったのと、気軽に情報がたくさん得られるようになったのと、ギョーカイが発達障害を軽くしたおかげで、みんなが定型に厳密になり過ぎるようになっただけ、こだわり過ぎるようになっただけ。
発達は、神経発達の表現型は、子どもの数だけあるのです。
「早く見つけ、早く診断を受け、早く支援を受ける」は、ギョーカイの青田買い。
その言葉を真に受け、部分的な異常で、突っ走ってはなりません。


早産児、未熟児は、発達がずれるのは当たり前。
早期から文字学習、外国語習得、メディア視聴をしていれば、発達のパターンが変わるのは当たり前。
だからこそ、その異常が、本当の異常かを見抜く目が必要です。
その異常の原因がわかれば、根っこが分かれば、発達させることができますので。
部分的な異常は、自然な子育てで育ちます。


 

2019年10月30日水曜日

支援サービスと対価、支援サービスと結果

ある親御さんが、「近頃、ボランティアが集まらない」という話をしていました。
ボランティアが集まらないから、余暇活動がどんどん乏しいものになっていく、ということも言っていました。
確かに親御さんも年齢を重ねていけば、子どものペースで活動に付き合うことが難しくなってくるもの。
でも、この話を聞いて、あたかもボランティアが来ることが前提、当たり前というような話ぶりに違和感を持ちました。


ボランティアは、あくまでボランティア。
ボランティアだって、意思があり、プライベートな時間がある。
しかし、ボランティアが来ることに慣れてしまった人からすれば、来ないのが異常になってしまう。
そういった現状に、「学生のやる気が」「社会の理解が」「障害児の余暇は乏しくて良いのか!」などという言葉が連なってくると、社会が離れて行っているのではなく、自分たちで社会を遠ざけてしまっていると思うのです。


以前、読んだ本に、難民キャンプの子ども達は「貰い慣れ」してしまっているために、自ら行動しよう、向上しよう、現状を抜け出そうという意思がなくなってしまう、という話が載っていました。
各国から、支援団体から食料や衣服、勉強道具、おもちゃまでが届きます。
ですから、貰うことが当たり前になる。
そんな環境に長くいれば、どんどん意欲が失われていくのは想像が難しくありません。
「だから、無条件に物資を与え続けるのはやめてくれ。彼らに必要なのは、モノではなく、教育とチャンスなんだ」というメッセージがあったと記憶しています。


この難民キャンプの話は、上記のボランティアを当たり前に感じてしまう姿にも重なります。
もしボランティアが来ないが前提だったら。
どうやれば、一人で、家族のみで、休日を過ごせるか、外出先で活動できるか、そういったことを考え、新たな学び、成長へと舵が切れたかもしれません。
手を借りるのが当たり前であれば、自立を想像するのが難しくなる。
学生時代、毎日のように余暇支援ボランティアとして活動していた私としても、彼らの余暇を支援していたようで、もしかしたら、彼らが自立する機会を妨げていたのでは、と思うことがあります。


発達障害の子ども達に必要なのは、生活を支援することではなく、学ぶ機会を支援していくこと。
失敗させないように環境を調整し、転ばぬ先の杖になるのではなく、失敗を失敗経験のままにしておかない手助け、転んだ時の差し出す手。
発達の凸凹を受け止める心ではなく、発達の遅れ、未発達の部分を埋める援助なんだと思います。
しかし、ボランティアにしろ、教育にしろ、福祉にしろ、行政にしろ、身体に障害を持つ人達と同じような感じで、生活自体の支援が必要な支援となってしまっている。
だから、本当は自立できるような人、一般的な高校や大学で学べる人、一般の人と同じように働ける人が、幼いときから支援を受け続け、それが子も親も先生も支援者も当たり前になり、どんどん受け身の人間が出来上がってしまう。


「治らないのに、治さないのに、どうして病院に通うんだろうか」
そういった疑問の声が、どんどん大きくなっているように感じます。
一般の人からすれば、治らないものに、どうして多額の税金が使われるのか疑問に思うのは当然だといえます。
症状の緩和、改善のための薬の処方なら理解できますが、中には話を聞くだけの診察で終わっているのもあります。
それがカウンセリングだと言われたら、そうかもしれませんが、傾聴し、肯定し続けるだけだったら、それこそ、ボランティアで良いのではないかと思います。


どんな人でも、少ない負担で医療を受けられるのは、日本の健康保険制度の素晴らしい面だといえます。
でも、少ない負担が当たり前、地域によっては自己負担なしというのが当たり前になってしまうと、意思や目的、また変わろうとする意欲が失われていくように感じます。
以前、高齢の方達が病院の待合室で井戸端会議をしているのが問題になっていました。
治療よりも、通うことが日課であり、余暇になってしまっているとの指摘が。
結局、当たり前じゃない当たり前がもたらした副作用といえるでしょう。


極論ではありますが、治ることを目的としない診療なら、患者負担を増やすべきだと思います。
10割負担になったなら、治さない病院には行かないはずです。
「もし全額負担なら」
そういった視点で選び、行動することが、本人の成長、改善だけではなく、サービス自体の質を向上させることにつながるかもしれません。


サービスを受けたら、対価を渡す。
その対価が高すぎても、低すぎても、良くない結果を招きます。
発達障害に関するサービスにおいては、まずその価値を見抜く目が必要になります。
大前提として、特に子どもなら尚更のこと、何もしなくても発達は進んでいくもの。
ですから、現状維持は「0」ではなくて、「マイナス」という意味です。
盛んな発達期にある子どもが、一年も、二年も、状態が変わらない方が異常です。


また発達しているけれども、緩やかというのも、必ずしもプラスに作用しているサービスだとはいえません。
その子の発達の流れ、ストーリーから見て、同じペースで発達しているのなら、それは単にその子の持つ発達がそのままの形で表れているだけ。
つまり、そのサービスを受けても、受けなくても、変わらないという意味。


よく「発達障害の子も、発達するに決まっているだろう」という人、支援者がいますが、大事なのはその発達のスピードと幅です。
本来持っているその子の発達の流れが、加速した、よりバリエーションが増え、豊かになった。
そのとき、初めてそのサービスに価値があると判断できるのです。
「あの支援者の指導、助言を受けてから、ググッと発達のスピードが速くなったような気がする」
そういった印象が、実際の変化が見られないと、支援者の腕、サービスの質に疑問が付きます。
たとえ自己負担が少なくても、そういったサービスを選択し続けることは、社会の負担を増やしているといえるのです。


発達障害が治る水や数珠、壺などが売らていることがあります。
でも、水で150円くらいなら、治らなくても対価として正しい。
また、こういった類のものが、社会的な問題にならないのは、全額自己負担だから。
これが、一部でも税金が使われていると、大問題になります。


サプリやプロテインは、それ自体に価値がありますし、その対価が販売値となっています。
本も一緒。
私のような民間の支援も、サービスの質、結果に対する対価を貰っているのです。
でも、公的な支援、サービスは話が別。
1割自己負担なら、利用していない人が9割負担しているのです。
それで、現状維持、発達のペースが加速しない、では問題ありです。
傾聴する、見守る、受け入れるだけなら、家族や友人、ボランティアでも担える。


発達障害が治る水も、治さない支援も、結果で見れば、同じ結果。
水なら飲めるが、支援は喰えない。
喰えない支援は、受け身の姿勢、人生につながっていく危険性がある。
支援には、支援を“受ける”という言葉がついてくる。
発達とは、本人の主体性と能動性が必要。
つまり、支援を受け続けている限り、発達も、自立も、成し遂げられないということです。
そう考えると、この15年余り進んできた特別支援の道が正しかったか、否かが見えてきます。
今、子育て中の親御さん達は、この15年間の結果を見て判断ですね。



2019年10月29日火曜日

専門家の土俵ではなく、子の土俵で闘う

初っ端から私のところへ相談に来る人はあまりいません。
ほとんどの方は公的機関に相談し、療育、支援も受け、学校の先生に相談し…という具合に、多くの支援者、専門家と出会っています。
それでも、「なんだかしっくりこない」「もやもやが消えない」という方が情報を集め、辿りついたというのが、大方の流れ。
セカンドオピニオンというよりも、サード、フォース…オピニオンといった感じでしょうか。


支援者や専門家など、多くの他人と関わりを持つのが、発達障害を取り巻く環境の特徴だといえます。
これは、よくある話なのですが、同じ子ども、行動を見ているのにも関わらず、言っていることが支援者によって全然違うということ。


例えば、過敏性があり、学校に行けなくなっているお子さん。
心理系の支援者は、過去の嫌な出来事、引っかかっている言葉が過敏性を生んでいると解釈する。
教員は、クラス内の人間関係になにか問題がないかと考え、同時に家庭生活に問題がないかと推測する。
医師は、起立性調整障害、睡眠障害などを疑い、発達系は、それが障害特性だから周囲の理解環境調整を提案する。
そして不登校メインでやっている人達は、心の休息と受容、プレッシャーを掛けないことの重要性を説く。


これは例え話ではありますが、似た出来事、相談は少なくありません。
結局、自分たちの土俵の上で闘いたいのが、専門家というもの。
ですから、私が再三言っているように、専門家になるほど、治せなくなるのです。
発達とは生き物であり、流れですので、部分を切り取ると必ず誤ります。


本人、親御さんは、サービスの利用者です。
利用する者が、利用される者に利用されてしまうと、問題が大きくなります。
発達の軸が、子育ての軸がブレブレになってしまうから。
「あの専門家が良い」と行ってみる、「この方法が良い」と試してみる。
それぞれの専門性、アイディアは素晴らしいもので、効果があるものだとしても、発達とは一つの段階をやり切ることで達成されます。
子どもさんが、一つの段階をやり切る前に、「次!」となっている家庭があるように感じます。


素晴らしい専門家、英知を集めれば、子どもが治るか、どんどん成長するか、問題がなくなるか、といったら、そういうことにはならないでしょう。
何故なら、知識は知識であり、部分にしかならないから。
「策士策に溺れる」ではないですが、良い情報、アプローチを集めすぎると、子どもが見えなくなる、と言いますか、子どもの発達の流れが掴めなくなります。


専門家の助言がしっくりこないのは、それは本能的に「No」と言っている証拠です。
部分的に見れば、素晴らしいアイディアで効果があるかもしれませんが、我が子の発達の流れからしたら、ズレているということ。
そのズレが、親御さんに違和感となって伝えてくれるのです。
専門家は部分で勝負しますが、発達は受精から今までの流れの中で生じています。


〇番目のオピニオンとして相談に来る方も、そうではない方も、皆さん、まず最初に私が行うことは、その子の発達の流れを掴むこと。
時に、その子の生に繋がっている親御さんの生き方、流れを辿ることもあります。
当然、どのようにこの世に生を受けたか、生まれ出たか、そこが始まりですので、重要なポイントになります。
とにかく、今の発達の課題、問題ある言動だけではなく、その子の生のストーリー、流れを通して事象を感じてみる。
そうすると、どの人物の助言、アイディア、考えが合うかがわかります。
自然なストーリーを描ける人ほど、治すための根っこを掴むのが上手。
親御さんも、その人からの話を聞いて、すっきりする。


親御さんは、支援者、専門家がやりたい支援ではなく、子どもの発達の流れ、ストーリーから見て、今、何が必要で、その自然な流れを邪魔しないのか、加速できるのかを見ていく必要があるといえます。
そうすれば、専門家の手を借りるにしろ、依存することなく、その時々で必要な人、アイディアを選択することができます。


情報が手軽に得られる時代ですし、支援者の専門化がますます進んでいる時代です。
そういった中で、発達に障害のある子どもを育てていく。
どうしても、親も子も、情報過多で、刺激過多になるのは仕方がないことです。
情報がある分、待てなくもなっている。
ですから、常に子どもの発達の流れ、ストーリーの中で子育てをしていくことが大事なのです。


発達を促すための「刺激」というような言葉を使うと、「より良質な刺激を、より多く」という連想を生んでしまいます。
ですから、表現の仕方、説明の仕方を考えないと、と思うこともあります。
同年齢の子ども達と比べて、明らかに情報過多、刺激過多、忙し過ぎになっている子どもさん、ご家庭があるように感じます。
年齢が幼いうちに治った方が良いけれども、徒競走をしているわけではありません。


学校に行き、放課後は児童デイに行き、合間で療育施設、という子ども達にほとんど発達が起きていないのは、刺激の質の問題もあると思いますが、余白がない、流れのリズムが悪いというのもあると思います。
発達も生き物ですから、強弱と揺らぎ、活動と休息が必要です。


関わる多くの支援者との関係に参っている、情報過多で何が良いんだか悪いんだか分からなくなっている。
そういった親御さんには、何もしない、とことん子どもだけを見ることに集中する、という助言をすることがあります。
子どもがやりたいこと、自ら行動すること、熱中することに任せてみる。
そうすると、今、その子にとって、発達にとって必要なことが見えてきます。


ある親御さんは、いつも遊んでいるおもちゃを全部片づけました。
何もない状況を作った。
そして子どもさんは、クルクル回り始めた。
勉強もできるし、同級生と同じような遊びをしていたけれども、実はまだ土台の感覚の部分にヌケが残っていた。
勉強も、遊びも、学習であり、ある意味、教えられた文化です。


専門家は、自分の土俵からしか見ようとしないけれども、子どもは自分の人生という土俵から常に物事を見ています。
また、傍で見ていた親御さんは、子どもの発達の流れ、生きたストーリーを一番知っている存在。
なので、子どもの流れから見て、どの支援者が必要で、どのアイディアが後押しになるか、を選択できます。
もし、発達の流れを見失っていたら、一度、フラットな状態、文化の介入しない状態に、我が子を誘ってみる。
今、必要な発達、刺激を知っているのは本人だけですから。
わからなければ尋ねてみる、専門家ではなく、子ども自身に。