他人に配慮できる人、気を使える人に育つには?

啓発活動では、「私達に、特性に、配慮を!」という具合に、支援だけではなく、配慮を求め、訴えていることがあります。
配慮が必要な場面で配慮するのは、当然です。
しかし、どうも、この『配慮』が一般的な人達の心に響いていきません。
何故なら、配慮とは、“お互い”が配慮し合うことだから。


常に配慮する側と、配慮を受ける側が替わらない。
とすれば、それは配慮を求めているのではなく、特別扱いを求めていると捉えられても仕方がありません。
職場でも、学校でも、仲間でも、一方的な配慮は、結果的に関係性を維持することができなくなるのです。
職場なら配慮するから、「仕事の成果を」
学校なら配慮するから、「しっかり勉強を」
仲間なら配慮するから、「お互いが楽しい時間を」
配慮を受けた側がそれに応えることと、反対に相手に配慮すること。
それは人と人の間で生きる人間が基本となす部分だといえます。


ですから、発達障害があるなしに関わらず、社会の中で、人との間で生きることを目指すなら、配慮を求めるだけではなく、配慮できる人に育つことが重要です。
では、どうやったら、配慮できる人に成長していけるか。


配慮をもう少し具体化すると、「気を使う」ということになると思います。
幼少期なら、それができなくても当然ですが、ある程度、大きくなったのに、気が使えないというのは、社会性の部分での未熟さを感じます。
学校だけではなく、家の中でも、啓発活動のように一方的な配慮を求める。
お母さんに対し、「僕に気を使え」というような要求をするのに、お母さんには全然配慮をしない、気を使わない。
「うちの中だからイイか」と思いがちですが、それが学校で、社会で、他人に対して表出すると、嫌われるか、仲間外れにされるだけ。
と言いますか、うちの中も、小さな社会ですので、家の中での言動も成長と共に変わっていかなければならないのです。


他人に気が使えるようになるには、2つの要素が必要になります。
まずは、空気が読めること。
そのためには、周囲からの情報をキャッチできる身体が必要であり、皮膚感覚が育っていることが重要。
同じように、内臓感覚や前庭覚、固有受容覚…の育ち、つまり、自己の確立。
自分という存在が感覚的に把握できている状態であることが、自分と空間、自分と他人を分ける大前提になります。
自分の境界線が曖昧ですと、環境からの情報をキャッチすることができません。
その姿が、「空気が読めない人」と、周囲に映ってしまうことがあります。


そしてもう一つの要素は、予測できること。
他人に気を使えるためには、他人の行動を予測できなければなりません。
「たぶん、お母さんは次に〇〇をするだろうな。だから、私はこう動こう」
この予測する力がなければ、いくら環境からの情報をキャッチすることができても、実際の行動にはつながりません。
例え情報がキャッチでき、「行動した方が良いかも」と気づけたとしても、相手の視点がない行動は、独りよがりの行動になってしまいます。


ですから、幼少期に感覚を育てることと同じように、予測する力を育てることが重要です。
予測する力は、予想や推測の問題をたくさん解けば、身につくものではありません。
予測する力にも、その土台があります。
それは、幼少期の遊び、特に名の無い遊び。


石を積み上げていくと、ある程度の高さで倒れてしまいます。
こういった遊びを繰り返すことで、「このくらい積んだら倒れるな」と体験的に学んでいくのです。
これも、予測する力の原形。
蛇口をひねったら水が出る、スプーンから手を離したら床に落ちる、砂場を掘ったら穴ができる…。
いろんな遊びを通して、予測する力を培っていきます。


さらに予測する力の原形は、身体活動へとつながります。
ジャンプしたら視線が変わる、必ず下の方へ行く、足の裏に刺激がある…。
赤ちゃんがガラガラを持ったとき、最初はどうして音が鳴るのかわからず、泣いてしまう子もいます。
でも、何度も、ガラガラを動かしているうちに、自分が起点となり、「腕を動かしたら音が鳴る」という流れがわかるようになります。
乳首を吸ったらおっぱいが飲めるというのは反射の動きですので、こういった身体を通した出来事と結果が結びつく瞬間が、最も初期の予測する力、その原形だといえるかもしれません。


一方的な関わりをしてしまう子が、予測する遊びをたくさんするようになって、相手の気持ちを汲むような行動ができるようになった、というご家庭もありました。
「今までお手伝いはしていたけれども、決まり事のようにやっていました。でも、近頃では、私の気持ちを考え、行動してくれるような様子を感じます」と教えてくれました。


「気を使う」というのは、遠慮するという意味ではなく、積極的な行動、前向きな配慮です。
お互いが配慮し合う、気を使い合う。
それこそが、人間関係を円滑にし、維持するために必要なことだといえます。
そのために、身体を通して、名の無い遊びを通して、行動→結果の体験を増やしていくこと。
それが積み重なっていくと、予測する力が培われていき、最も高度である人間関係における予測、他者の視点を想像することに繋がります。


ASDだから、発達障害だから、「空気が読めない」「相手の視点が想像できない」「一方的な関わりしかできない」のではなく、そういった能力に必要な育ちがなされていないからです。
常々言ってるように、未発達と障害は異なります。
そういった社会性の特性なのではなく、社会性が未熟であり、育っていないのです。
「気を使える人に育てよう」というのはボヤッとした目標ですが、「予測の要素の入った遊びをたくさんやり切ろう」というのは、今日から、家庭で今すぐにできることです。


子ども達は、運動を通して、原因と結果、地球に重力があることを学びます。
子ども達にとって遊びは、まさに科学の実験なのです。
科学者の生い立ちを聞けば、皆、子ども時代、よく遊んだ子ども達ですね。

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