2021年3月31日水曜日

【No.1156】発達援助の浸透と、見えてきた課題

先日、書いたブログ(【No.1153】定型発達の子ども達は教える前に自然とできている)について、ご質問やご感想を多数いただきました。
「どうして身体の発達が道具の操作に繋がるのか?」
「やっぱり道具の中には、教えたり、練習しないと使えるようにならないものがあるのでは?」
「補助箸って、どうなんですか?」
など、身体と道具の繋がりについての疑問や感想が多かったです。
ご指摘の通り、練習しないと使えない道具というものがあります。
しかし、ここでいう幼児期に使う道具は、身体が育てば自然と操作できるようになるものばかりです。
何故なら、スプーンも、箸も、はさみも、クレヨンも、すべて『手の延長』だからです。
「手があって道具」ではなく、「指の先に道具が繋がっているイメージ」になります。


ヒトは二足歩行ができるようになり、手での操作が可能になりました。
その手が自由自在に使えるようになるためには、まず体幹の育ちがあり、肩→肘→手首→指(小指から親指へ)の育ちが必要です。
二足歩行が可能になったあとから、手での遊びが始まります。
手でいろんなものを触り、掴み、つまみ、肩から指先に向けた育ちを行うのですが、この育ちのプロセスの中で触れるものは、子どもにとってはすべて遊び道具になります、おもちゃも、リモコンも、オムツも、タオルも。
その遊び道具の中にあるのがスプーンであり、箸であり、ハサミであり、クレヨンなのです。


ですから、肩から指先を育てている段階で操作するものは手遊びの延長であり、手を育てる延長、つまり手の延長として道具があるのです。
小学生くらいになれば、指先までの発達は完成するため、以降使用する道具はまさに私達がイメージする道具になり、手と道具の関係になります。
よって道具の形状や複雑さというよりも、子どもの目線に立ったとき、それは指先まで育てるプロセスで使う手の延長としての道具なのか、手が完成した後の「手と道具」の関係なのか、そっちのほうが理解しやすいと思います。
ちなみに補助箸は、「補助がないと使えない手の発達段階」なので、補助箸が使えるようになったからといって一般的な箸が使えるようにはならないですね。
ただ定型発達の子ども達は補助箸を使っている間に、自然と遊びを通して指が育ちますので、結果的に箸が使えるようになります。
「補助箸を使ったから箸が使えるようになった」という大人の自己満足のためには良いかもしれませんね。


また絵に関して、「うちの子、絵を描きたがらない」というご相談もありました。
単純に「絵を描く」といっても、そこにはいろいろな発達状態、心身の状態が関わってきますので、子どもさんの状態を確認しなければ「なぜ、描こうとしないのか」がわかりません。
だけれども、案外、盲点というか、これも大事な発達ではあるのですが、子どもさんに「絵を描かせていないか?」ということがあります。
画用紙とクレヨンを用意し、その前に子どもを座らせたあと、「さあ、描いて」みたいな(笑)
描けって言われて絵を描くのは、年長さんか、小学生です。
つまり、幼児さんは描けと言われても描かないのが普通です。


1歳代の子は、遊び道具としてのペンを持つと、どこでもここでも楽しそうに腕を動かし、なぐり描きをします。
それは目で見て変化を楽しんでいるのです。
自分の意思で変化を生じさせることのできる喜びと楽しさ。
ですから、この発達段階で絵を楽しめないというのは、変化に気づくだけの感覚や認知の面での発達が進んでいないか、周りから「描け」と言われ続けて絵自体が嫌になったか。


そして次の段階、2歳前後の子は、対話としての絵を描きます。
グルグルや点々を描き、お母さんを見る。
お母さんは笑顔になったり、「これは"おにぎり"かな」などとリアクションをする。
そうやって対話、コミュニケーションとしての絵を描くのです。
なので、言葉の遅れ、特にやりとりの段階まで発達が進んでいない子は、上記の「なぐり描き」の段階以前に留まっているので、なかなか絵を描くモチベーションが高まらないのです。


で、次の段階は意味を持った絵を描く段階です。
グルグルっと丸を描いたあと、「これは"お父さん"」と言ったり、「次は"お母さん"を描く」といって丸を描いたりします。
この段階は、言葉の発達、概念の発達が必要になりますので、胎児期から言葉以前の段階までの発達がある程度完成している必要があり、かつそれ以降の認知の面での発達も必要になってきます。
ですから、子どもさんの発達を見る上で、何か形は描けなくても、こういった意味を持った絵を描くようになったかどうか、を大事なポイントとして私は確認するようにしています。


そして上記の発達段階は、だいたい1歳から2歳・3歳になりますが、この時期の子ども、内面の発達的にいうと、この時期特有の社会性の発達があります。
それは同じ目線の子ども、「遊び仲間」としての社会性が育つ時期です。
この時期の子どもは、同じくらいの子どもがいるとすぐにそばにいき、同じような行動をします。
公園に行けば、見ず知らずの子でも関わらず、どんどんそばにいき、その子が滑り台を滑れば自分も滑り、その子が石を拾いだしたら自分も石を拾う。
その子が「ママ」と自分の親のところに行けば、自分の親ではないその子の親のところに一緒に駆け寄っていく。
こういった同じ目線と同調する行動が強い喜び、行動の動機付けになる時期です。


なので、幼児期の子どもさんに「絵を描きなさい」はダメ。
「絵を描きなさい」ではなく、一緒に描く、または同じ目線で、同じ方を向き、共に絵を描く活動の中に身をおくことが必要です。
結構、発達相談でも「耳が痛いです」と言われるのですが、遊ばせている親御さん、遊んでいるのを見ている親御さんがいますね。
上記のように、幼児期のお子さん、特に3歳くらいまでの子ども達は一緒に遊ぶ、一緒に活動することが大事です。
それが彼らの発達段階なので。
しかも、発達障害のお子さんなら、やはり胎児期から2歳くらいまでの間に発達のヌケがありますので、たとえ5歳、6歳、小学生だったとしても、「共に遊ぶ」段階が必要な場合が多々あるのです。
ちょうど2歳、3歳の頃は、発達のヌケ、遅れが大きく、そうやって他人と共に遊ぶことができなかった、他人に興味すらなかった、というお子さんがいますね。
だったら、やっぱりその時期の発達のヌケ、その運動発達をやり直すだけではなく、その時期の子ども達が欲している「共に遊ぶ」もやらなきゃダメです。


「ハイハイ、どうやってますか?」と尋ねれば、「ここの廊下を使って、毎朝3往復させている」なんていうこたえが返ってきます。
でも、それって発達のヌケを"育て"ているのではなく、"トレーニング"になっていませんかね。
トレーニングでは発達のヌケは埋まっていかないと思いますよ。
親御さんから見れば、「発達のヌケを育てている」になるかもしれませんが、子どもさんからすれば、「早く日課のハイハイを終わらそう」というような意欲の伴わないただのルーティンワークになっているかもしれません。
神経発達には自主性と意欲が必須条件です。
拝見すると、「それって"廊下を四つん這いで移動する"練習にしかなっていないですよ」と言ってしまうことが少なくありません。
ハイハイを育て直したいなら、親御さんも一緒にハイハイしなきゃ。


明日から新年度が始まります。
改めて「発達のヌケを育てる」とはどういうことなのか、「神経発達を促す」にはどういうことなのか、を考えてみると良いかもしれません。
今年度も全国各地に訪問させていただきました。
「発達援助」は浸透したけれども、大事なところがヌケているようにも感じましたので、私も意識してその辺りを伝えていきたいと考えております。




2021年3月29日月曜日

【No.1155】だましだましやっている

もうすっかり雪が溶けましたので、7月の函館マラソンに向けて外ランを始めています。
冬の間はずっとジムだったので、久しぶりの外ランは気持ちがいいですね。
私の課題は筋力で走ってしまう癖があるので、今期は身体の重心を少し前目にして推進力をつかって走るフォームを目指しています。
そのため、冬のジムでは体幹トレーニングをみっちりやり、シックスパッド(仮)くらいまで腹筋が仕上がりました(笑)
あとは月間200㎞をノルマにし、できれば250㎞を目指して本番を迎えたいと思っています。


子どもさんの中には、今期私が目指している重心移動を使って走っている子がいて、「教えてください、師匠!」と思うことがあります。
しかし、この重心を移動させる走りには別の見方があって、「重心移動を使わなければ、走れない」という場合があるのです。
家庭訪問をすると、家の中を走って移動している子どもさんがいます。
一見すると、「元気がある子」「運動発達的には問題ない子」のように見えますが、しっかり確認すると、運動発達のヌケがあることがわかります。
走ってはいるけれども、「二足歩行ができる段階にない」といった感じです。


いま、ハイハイを抜かす子ども達が多くいます。
そういった子ども達はハイハイをせずに、すぐに立って歩いてしまっています。
で、走るようにもなる。
だけれども、上半身と下半身の連動が見られなかったり、腰がそのまま足だけで走っていたりと、「なんとなく走り方がおかしいよね」という場合があります。
「うちの子、走ることはできるんだけれども、なんか走り方がヘン」と相談される親御さんは少なくありません。
療育機関などに相談すると、「走れているから、問題ないですよ、お母さん」とか言われてしまう。


赤ちゃん時代からの運動発達の積み重ねが、走る姿に表れます。
ですから、その走る姿に違和感があるとしたら、それは運動発達のどこかにヌケがあるということです。
もちろん、それは走るだけに留まらず、認知やコミュニケーションの発達にも影響を及ぼします。
「ちゃんと走れない」というのはそれ自体が問題なのです。
単に「走れているからいい」「走り方は個性」ではありません。
先ほど紹介した重心を移動させて走っている子は、重心移動をしなければ走れない子だといえます。
つまり、「しっかり立つ」「しっかり歩く」が完成していないからこそ、できないからこそ、重心移動を使って走っている、というか移動しているのです。


私達支援者の仕事は、いわゆるこの「だましだまし」やっている行動を見抜くことでもあります。
「運動発達は、一通りちゃんとやっていました」と言われる親御さんもいますが、実際、子どもさんを見ますと、明らかに「ハイハイ、抜かしたよね」「寝がえり、やってないよね」という子がいます。
でも、親御さんが嘘をついているわけでもなく、子どもさんがやらなかったわけでもないのです。


一つひとつの運動発達には、定型のやり方と大事なポイントがあります。
そういった定型のやり方と違った場合が多いですが、勢いでやってしまったパターンも少なくないような気がします。
たとえば、寝返りは下半身主導で捻ることが大事なのですが、上半身の勢い、または足の反動を使ってくるっと回っていた。
またハイハイをするとき、「常に全力で移動していた」という子の中には、できない動きをカバーするために重心移動や勢いを使っていた子もいて、そういう子は動きのパターンが少ないという特徴があります。
早くハイハイをすることもあれば、ゆっくりハイハイをすること、途中で止まったり、方向転換をしたり。
そういった強弱、変化がない子、きちんと静止できない子は、ハイハイをしていたとしても、だましだましやっていたとも考えられるのです。


小学生の子どもさんもそうですが、ダダダッとやってしまう行動、活動は、案外、きちんとできず、苦手なことが多いものです。
反対に、ゆっくりできること、ゆっくりハイハイすることなどは、それだけハイハイに動員させる運動一つ一つがしっかり行えるということでもあります(つまり、バリエーションが大事!)。
昔から発達障害の分野においては、出生時の様子、また運動発達についてはしつこく確認されてきましたので、そこに意識や注目があったのがわかります。
でも時々、「運動発達の中で短いもの、抜かしたものがあったとしても問題ない」というような医師や支援者もいます。
その根拠に、「運動発達をやっていた子の中にも、発達障害の子ども達がいる」というものが挙げられます。


しかし、ここまで読んでくださった皆様はお分かりの通り、そのやり方が重要なのです。
表現が良いかどうかはわからないまま使ってきましたが、子ども達の運動、活動、遊びの中には、案外「だましだましやっている」ものが少なくありません。
私もこの仕事をするようになって、「赤ちゃん時代、ちゃんと運動発達をやった」という子の中に、運動発達のヌケがあることがわかりました。
そして乳幼児の発達を勉強していく中で、ヒトの運動発達にはそれぞれやり方とポイントがあり、それはその前段階や周辺の発達と繋がっていることがわかったのです。
寝返りをするのに勢いをつけなくてはならなかった理由が、足の親指、背骨、首の発達や背中や皮膚の感覚、原始反射の統合も影響するように。


親御さんが子どもさんの運動発達を確認する際のポイントとして、素早くできているような運動でも、「勢いや反動でやっていないか?」「その運動は、一本調子ではないか?特にゆっくり動くことができるか?」を確認してみると、より深く発達を捉えることができるかもしれません。
この前も、「赤ちゃんのとき、めちゃくちゃハイハイが早かったんですよ」といっていた小学生の子に、「おじさんと一緒にハイハイしてみよう」と言ったら、手足をどう動かしていいか分からず、立ち竦んでしまっていたことがありました。
当時のビデオを拝見すると、やっぱり勢いでダダダッとハイハイしていた感じでした。
普通級で学んでいるけれども、なんかうまくいかない、勉強がしんどい、というお子さんでしたので、もう一度、腹這いから膝つきばい、高這いと育てなおすことを提案してきました。
その子がどのように変わるか、また成長されるか楽しみです。




2021年3月26日金曜日

【No.1154】新年度の就学相談を迎えるにあたり

この時期は卒業や修了の時期でおめでたい雰囲気が漂っている一方で、4月から年長に上がる親御さん達にとっては急に「あと一年」が現実的になり、不安に思われている方もいらっしゃると思います。
新年度が始まれば、今までに診断や療育、支援を受けているお子さん達は、「就学相談」の案内があちこちでされるようになり、中には「受けなければならない必須のものだと思っていました」と仰る親御さんがいるくらい就学相談を受ける流れが作られてしまうようです。


就学を迎えるにあたって考えるべき中心になることと言えば、どこで学ぶか、「普通級」「支援級」「支援学校」の選択だと思います。
親御さんの中には就学先を選択するにあたり、「より手厚い支援」「より手厚い環境」を求められる方もいらっしゃいます。
もちろん、就学先の選択は家庭の話、それぞれの子育て、考え方の話になるので私がとやかくいうことではありませんが、「より手厚い支援」が子どもにとってプラスになることなのか、は落ち着いて考える必要があると思います。


ひと昔前は、普通級で学べるだけの力があるのに、支援級を選択されるご家族がいらっしゃいました。
本当は支援級でも十分にやっていけるだけの力を持っているのに、「いや、支援学校を」と選択されるご家族がいらっしゃいました。
中には、知的障害の支援学校よりも、盲・聾・肢体不自由の学校に希望を出し、入学するご家族もいらっしゃいました。
こういった選択の意味は、今の親御さんはわからないと思いますが、結局、教員の人数がより多いところ、生徒の人数がより少ないところを選んでいたわけです。
その理由は「より手厚い支援」です。


ここのところは勘違いしている人が多いと思うのですが、支援が手厚くなればなるほど、子どもが発達、成長するかといえば、それは違います。
よく「発達障害の子ども達は、定型の子どもと比べて、成長がゆっくりだし、その分、丁寧に時間をかけて教えていくことが大事だ」なんてことが言われます。
しかし、そんなエビデンスは無いし、結果がすでに出ています。
もし「手厚い支援」が有効なら、支援学校のほうが普通学校にいる子ども達よりも発達、成長し、卒業後は自立的な生活を送っているはずです。
でも、まったくもってそんなことはなく、むしろ「手厚い支援」を受けて育っていく子のほうが自立から遠ざかっています。
それは支援学校卒の子と、普通級または支援級で学び卒業した子の進路を見れば明らかです。


端的に言えば、教員の人数が多かろうとも、個別指導の時間が増えようとも、学習の時間が増えようとも、発達・成長には影響しない。
なぜ、言い切れるかといえば、そこが発達障害の子ども達の根本的な課題ではないから。
知的障害の子どもさんの場合、情報を処理する力や記憶しておく力、同時進行で行える作業量、未来を予測する力に弱さがあるので、それこそ丁寧に、時間をかけて学習を積み上げていく必要があるでしょう。
それこそ、スモールステップで積み上げていくことが重要です。
一方で発達障害の子ども達、もっといえば、胎児期から2歳前後、つまり言葉を獲得する前の発達段階に未発達やヌケがある子ども達に必要なのは、そこを育て直す機会ではないでしょうか。
単純に学習時間を倍に増やしたからといって、勉強ができるようにはなりません。
だって、その勉強ができる以前の段階に根本的な課題があるのですから。
別の言い方をすれば、勉強ができる準備、その土台となる発達が培われれば、授業を受けることができ、同世代の子達と同じように学んでいけるのです。


「この子は知的障害があるから、支援級だ、支援学校だ」というようなことを言われた、とおっしゃる親御さんは少なくありません。
でも、その「知的障害」は認知的な問題、脳の問題なのでしょうか。
それとも言葉以前の段階のヌケによる未発達ゆえの知的な遅れなのでしょうか。
この辺りがわからなければ、今までの私の話は理解できないと思います。


今までにも、発達のヌケを育てなおすことで、勉強ができる土台が培われ、支援級から普通級へ転籍した子ども達がいます。
IQだって、ググッと高くなった子もいます。
そういった話を聴いて、「IQが変わるなんてあり得ない」「生得的な能力だから」というようなエセ専門家もいますが、そもそも知能検査が発達のヌケを見抜けないのです。
ただ単に今、発達が遅れているだけ、発達のヌケがあって本来の能力が発揮できないだけの子も、「(生得的に)認知機能に遅れがある」と判断されてしまうのです。
そういった入り口、参考資料が誤っているのに、それをもとに就学相談が展開され、就学先の決定の理由の大きなウエイトをしめてしまうのが現状です。
だから、「遅れがある子は、手厚い支援を」という紋切り型の振り分け、根拠のない教育環境があてがわれてしまうのです。


学校は学ぶところです。
その中心はやっぱり教科学習。
だから、学校は発達のヌケを育てるところでも、治すところでもない。
発達のヌケや遅れは、就学前に、家族が後押しして育てておくべきところだと思います。
いくら手厚い支援が行われようとも、それは学習の面においてであり、胎児期から2歳前後のヌケを育てなおすわけではありません。
個別指導の時間が増えようとも、ゆっくり時間をかけて授業が行われようとしても、そこが発達障害の子ども達の課題の本質、勉強が積み重なっていかない根っこではないのですから。
そういったことを整理し、4月以降、就学相談を受けるご家族は考え、より良い選択をしていただきたいと思っています。




【No.1153】定型発達の子ども達は教える前に自然とできている

子どもさんが描く絵には、「そのときの発達の状態」と「どのように世の中を見ているか」がそのまま表れます。
といった話を方々でしていますので、発達相談において「絵を見てほしい」と見せられる親御さんも多くいらっしゃいます。
大まかに分けてヒトを描く前と描く後があり、ヒトを描く前は手や指の可動範囲、発達状態が表れ、ヒトを描き始めてからは身体、感覚の発達状態、そしてヒトの周りに何を描くかに、本人の視界の中に認識しているものは何なのかが表れます。
時々、「こうやってヒトは描くんだよ」「周りにはこんなものを描くんだよ」という指導がされて、その通り描く子もいますが、そういった場合はすぐに分かるものです。
どの絵を見ても、構図が一緒ですから。
つまり、「教わった通りの絵を再現する」というパターン学習ですね。
子どもが自由に描く絵の中に、その子のそのままが表れるのです。
ちなみに車や建物、数字や文字ばかりで、ヒトが描かれないお子さんは、周囲にいるヒトが認識されていない傾向が強くあります。
あと細かく言えば、「目」一つとっても、どのように描いているか、で状態が異なります(黒く塗っている。白目があるか。向きや大きさ、左右の目の違いなど)


子どもと関わる仕事をしている人で、また親御さんの中にも、勘違いされている、知られていないんだな、と思うことがあります。
それは道具の使用についてです。
もちろん、初めてその道具を触る子ども達にとっては、最初に"教える"という行為が必要ですが、「何度も練習してできるようになる」という考えは間違えだと言えます。
たとえば、箸ですが、「子どもは箸の練習をするから、箸が使えるようになる」と思っている人がいるかもしれません。
しかし、それは定型発達の考え方ではないのです。
一般的な子ども達というのは、箸を渡したらすぐにそれなりに正しく持つことができ、かつ食べ物をつまむことができます。
だいたい4歳前後で、そういったことが可能です。
ほとんどの子は、箸を渡した日に使えるようになるのです。


これはどういうことかといいますと、箸が操作できるだけの指、手、腕が育っている、その準備が整っているということです。
つまり、箸やスプーン、ハサミやクレヨンなど、子どもが操作できる単純な道具は、それを使用できる身体が整うと、自然と使えるようになるのです。
反対に言えば、何度も教えなければ操作できないとしたら、まだ未発達とヌケがあるため、使える段階にはないということです。


よく日本の保育、教育、療育では、「〇歳になったら、何々を使う。できる」というような捉え方をしています。
また「〇歳になったんだから、何々はやめさせなきゃ」というような考え方もあります。
もちろん、これは定型発達がベースになるのですが、それよりも大切なことがあって、それは発達の順序とその課題ができるようになるために何が育っていないといけないか、ということです。
特に療育現場においては、「〇歳になったら」よりも、発達の順序とその活動ができるための土台が分かっている必要がありますが、というかそれがわからないとお仕事にならないのですが、「5歳なのにスプーン使っている」「4歳でオムツはおかしい」などといって、無理やり訓練的にやらせたりする場合があります。
親御さんも指摘されれば、「じゃあ、もう家でもスプーン止めなきゃ」と無理やり箸を使わせようとする。
で、子どもさんは手の準備が整っていないもんだから、箸を置き、スプーンを使おうとし、で、親御さんは「ダメでしょ」とスプーンを隠し、そうなると手づかみが始まり…というような負のスパイラルが生じます。


定型発達の子なら4歳の誕生日を迎える頃に箸が手渡されると、自然と使って、その日のうちに食べられるようになります。
その背景には、指、手、腕の発達があり、その発達の準備は運動発達はもちろんのこと、水遊び、泥遊び、砂遊びがあり、また木や鉄棒などによじ登る、掴む、つまむといった遊びがあります。
スプーンを握っている子は、まだ箸が使える準備が整っていません。
絵で言えば、〇を描いている段階では無理で、□と△、ヒトが出てこないと箸が使える手ではありません。
スプーンを持った手よりも、反対の手が食べ物に向かうようでしたら、まだ手づかみ食べをする時期です。
絵で言えば、まだ〇が描けない時期ですね。
ハサミでしたら、親指が横になってしまう手の子はまだ無理で、親指が上を向く手に育ったあと、自然とはさみで切れるようになります。
ここは主にズリバイがやり切ったかどうか、が影響するところです。
この他にも私達がアセスメントで確認するところはありますが、基本的には6歳までの発達課題で「教えないとできない」「繰り返さないと身につかない」というのは、その前段階の準備が整っていないと考えます。


発達の準備が整っていないことを子どもさんにやらせようとすると、どうしても指導的、訓練的になりますし、結果的に身につくまで時間がかかりますので、両者の間に不穏な空気が流れます。
特に子どもの場合は、自ら主体的に行わないものは身につきづらく、「楽しい」「心地よい」が感じられないと神経発達が進んでいかないものです。
発達相談においても、親御さんが一生懸命になればなるほど、親子から指導者対子、支援者対子になり、関係が崩れてしまって負のスパイラルに入ってしまっているご家庭があります。
ほんとは、こういった負のスパイラルに入る前に、「それって教え方の問題、練習の量の問題ではなくて、前提&土台となる発達が抜けてますよ」と一言説明できる支援者がいればいいのですが…。


発達障害は病気でなければ、障害でもありません。
ただ【disorder】、不具合が生じている状態なだけです。
その不具合は何から外れた状態かと言えば、定型発達です。
なので、定型発達を知らない人は、発達援助はできません。
しかし、その「定型発達」とは、「〇歳で何ができる」だけではなく、発達の順序と、発達課題をクリアするための前提&土台となる発達を知っておく必要があります。
訓練的に、パターン的に身につけたことは、応用が利きません。
何度も練習して切った折り紙はハサミで切れるけれども、画用紙は切ることができない、なんてことは、その典型的な姿です。
また最たるものでは、「教えられた右利き」が結構多いと感じます。
何でも教えるときは右手を使わせることによる右手のパターン学習。
本当は利き手がはっきりしていない=まだ脳の未分化、同側の段階なのに右手を使うように訓練されて使うようになった形。
そういうお子さんは、ふとした瞬間に左手が、両手が出ますね。


倒立前転とか、漢字を書くとか、料理を作るなどといった高度な技能、乱暴な言い方で言えばヒトしかしない行動は教える&練習するという行為・学習が必要ですが、一般的な子どもが行う日常動作は教える、学習するというよりも、前提&土台となる発達が整えば自然とできるものです。
「何度教えてもダメなんです」というのは、教えなきゃできない段階=それ以前の発達にヌケがある、と考えるのが一般的です。
あとは「何歳でできる」よりも、それができるようになる前後の発達に注目すること。
「定型発達の子ども達は教える前に自然とできている」
このことを頭に入れておくと、子どもさんの見方、発達の捉え方がもう一段、深くなっていくと思います。




2021年3月24日水曜日

【No.1152】専門化すればするほど、切り捨てられるものが増えていく

2019年がピークで、徐々にブームが去った感じがする栄養療法。
発達相談の中でも話題になることが多かったのが、昨年までといった感じです。
だいたい皆さん、一通り栄養療法をやってみて、効果があったご家族もいれば、そうでもなかった感じのご家族もいますね。


この2年間で気になったこととしましては、特に幼児期のお子さんですが、親御さんが栄養療法に凝り過ぎて、数値が高くなってしまった子が少なからずいた、ということです。
もちろん、数値的な問題もありますが、何よりも内臓、消化機能も育てる時期でもありますので、そんな一粒で高栄養素のものを食べ続けていたら、そっちのほうに身体が適応してしまわないか、と心配になります。
人類というか、動物全般がそうだと思うのですが、何を食べ消化吸収するかによって身体の構造が変わり、神経発達が進んできたのです。
20万年前に誕生したホモサピエンスの子ども達は、硬い肉をカミカミし、硬い木の実をかじり、それに応じて口と内臓、消化器系が発達していったのでしょう。


またこんなお話も、よく伺いました。
「みなさん、栄養療法でかなり効果が出てきているみたいだけれども、うちの子は…」という内容です。
これはBSやCSとかでやっている健康食品のCMと同じです。
「たった1粒で、こんなに痩せました!」
たった1粒でも体内になにかを摂取して体重が痩せるなら、それは毒です(笑)
ふつう、食べたら増えますね、体重は。
だから、もちろん、実際にそのものを摂取するとは思うのですが、他にも食事の調整をしたり、運動をしたりしているんですね。
食事はそのサプリしか摂らない、あと運動もしない、ただ家で横になっているだけ、で痩せるのならスーパーフードかもしれませんが、そんなわけはありません。
それと同じで「栄養療法が効果あった!」というご家庭は、他にも運動したり、一緒に遊んだり、メディア視聴を制限したり、いろいろやっているんですね。
栄養素は発達の条件であって、ただ摂れば勝手に神経発達が始まるわけはありません。
しかも、食事で十分な栄養が摂れている子に、さらにプラスしてもその分、発達が加速することはないでしょう。
良いというアイディアにも範囲と限界があるものです。


範囲と限界で言えば、感覚統合や作業療法、運動療法というものにも当然ありますね。
まあ、私が勉強した範囲、私があちこちで伺った範囲でお話ししますと、どうも「触覚」「固有覚」「平衡感覚」に偏り過ぎている感じです。
たとえば、静かに椅子に座るのが難しいお子さんがいるとします。
こういった専門の先生から見れば、「感覚を欲しているのかな」「平衡感覚を刺激するような大きな動きを」と、トランポリンなどの運動を勧めたりするかもしれませんが、実際、ご家庭にトランポリンがあって、毎日跳んで刺激してお子さんがいますね。
でも、ほとんど変化がない。


で、私が訪問しお子さんの様子を拝見すれば、前庭感覚の未発達があるのはあるけれども、それだけが課題じゃないことがわかるんです。
身体の軸が育っていないために姿勢保持が難しい子。
胎児期の愛着障害のために、世の中に対する身体的な不安があり、ソワソワしてしまう子。
ハイハイのヌケにより、重力との付き合い方が身についていない子。
原始反射があって、過剰な防衛反応が発動してしまっている子。
右脳と左脳の未分化などによる勉強できる身体の準備が整っていない子。
身体に力が入るばかりで、弛めることができない子。
聴覚の未発達から言葉をキャッチできない子。
背骨の過敏さから背もたれが気になって仕方がない子。
足の指の未発達で定まらない子。
腰や腎臓、排泄系の未発達で、落ち着くことができない子。
トラウマ、フラッシュバックが生じている子。
単にその場がつまらない子、単に(年齢的に)幼いだけの子。
お腹が空いている子、出かける前に嫌なことがあった子。
快食、快眠、快便、そして基本的な生活習慣が確立できていない子。
パッと思いついただけで、これだけありますし、もちろん、単独の要因なんてことはなく、複数の要因が複雑に強弱をつけて絡み合い、そして表に現れているのです。


このような発達という複雑系のものを何か一つの専門、領域で解釈しようというのは無理があります。
ですから、専門化していけばいくほど、その守備範囲は狭くなり、その他の要因が切り捨てられる可能性が出ます。
特定の療法にこだわる親御さんが多いですが、単にその療法の限界だけではなく、他の可能性が排除されることのほうが、育っていかない、結局、いつまでも卒業できず何年も通い続けている姿に繋がっていると思うのです。


私の事業が家庭訪問を基本としているのは、私が専門家ではないからです。
何か特定の領域から見ているのではないので、どうしても実際に生活してる様子、遊んでいる様子を見て、いろんな要因を確認していく必要があるのです。
そしてその子の発達の物語を綴っていく。
でも、だからといって、すべての要因をお話はしていません。
要因が複雑に絡み合っているということは、一つ発達すればそれに引っ張られるようにして変化が生じていきます。
特に胎児期の発達に近いければ近いヌケから育てていくことが、全体的な発達に繋がります。


私の個人的な考えではありますが、「ゆっくりでも発達成長している子は、今やっている介入の効果はほとんどない」と思っています。
たとえば、Aという方法を行っていて、子どもが発達、成長している。
でも、それは時間の経過とともに発達、成長しているだけだと考えられます。
発達に必要なものの一番は時間だと思うからです。
極端なことを言えば、何も特別なことをしなくても、子どもは時間とともに発達、成長するものです。
ですから、私の仕事の評価としては、発達が加速したか、停滞していた発達が動き出したか。
ゆっくり発達、成長していた子が、私の発達相談後も同じペースで発達、成長しているとしたら、それは私の実力不足、仕事の質が悪かったのです。


まとめると、エラソーに言っている専門家よりも、家庭が重要。
だって、専門家が見ている範囲は狭いから。
家庭は胎児期から今までのすべてを見ている。
細分化すればするほど、捨てられる可能性が増えるということです。
そして、そんな細部のものをいじくったとしても、大きな変化は生じません。
むしろ、介入の効果というよりも、時間が経過したため、時間が解決した、ということのほうがずっと多いです。
だいたいの課題は、時間が解決すると思ったほうが良いと思います。
焦っていろいろやるのが、却って子どもの混乱、発達の妨げになることもあるからです。
何よりも、子ども自身が発達する主体ですから、本人が伸びやかに育つ環境を用意したほうが良いですね。
それには、どんと家族が構えること。
そして子どもが楽しい、笑顔になる時間を増やしていくこと。
子どもの遊び、特に名も無き遊びをしている時間こそ、自ら発達のヌケを育て直すときですから。




2021年3月23日火曜日

【No.1151】脳内隔離

全国いろいろなところにお邪魔すると、そのたびに思うのですが、本当に「発達障害」なんていうのは曖昧で、インチキくさい話だなと思います。
だって、「えっ、あなたが発達障害って診断されたの?」という子ばかりなんですから。
そうかと思えば、「うちの市では、みんな普通級で学びます」というところもあって、また幼稚園や保育園の先生のよっては、「こういうお子さん、前からいたから、大丈夫」というようなところもある。
つまり、たとえば、北海道で「もうずっと支援の子」「重度で勉強なんかとんでもない」というような子が、関東に行けば「普通の幼稚園で大丈夫」なんて言われたりもするし、実際に隣同士の市や区で「こっちは普通級で、こっちは支援級」という話もありました。
これまたよくあるのことなのですが、「どうやって自閉症の診断がついたんですか?」「っていうか、自閉症の診断基準、満たしてます?」というのは全国どこでもあるあるです。


どうして、こんな状況になっているか、現場での混乱が生じているか、といえば、「早期診断主義」という誤った考えの氾濫が大きいと言えます。
「とにかく早期に見つけるんだ」
「早期に見つけて、すぐに専門家、支援に繋げることが良いことだ」
というギョーカイの啓発が浸透してしまっていることが原因です。
もちろん、2000年より前のほとんどの発達障害児者が重度の知的障害を持っていた時代なら、それが有効だったかもしれませんが、そうやって見つけようとして見つかる子ども達って、微妙な子ばかりです。
ひと昔前なら、発達がゆっくりな子、遅れている子、凸凹している子は、「そういう子もいるよね」と一緒に学び、一緒に遊んでいました。
そうしているうちに、発達のヌケや遅れが埋まっていき、自然と社会の中に馴染んでいきました。
今は、「早期診断」という名で、隔離が進んでいます。
市内のあちこちの公園では、児童デイの車が停まり、指導員と利用している子どものみで、鬼ごっこなんかしている。
鬼ごっこなら、同級生とやればいいのに、税金を使わず。


まあ、「とにかくPCR検査を!」というように、少しでも咳をしようもんなら検査を促すみたいに、とにかく少しでも発達に遅れがあれば、すぐに専門家につなげようとします。
しかも、それがいいことだと思っているし、実際、いいこともある。
「もう一人、職員をつけることができるから、病院に行って診断を貰って来てくれませんか?」なんていうのは、あちこちの保育園、また学校でも見られることです。
診断された子がいれば、行政から補助が貰えるというのも、「遅れがある子を見つけよう」という動機付けの一つにもなっているでしょう。


しかし、「とにかくPCR検査を!」と同じで、陽性になったあと、できることは特にないんです。
できるとすれば、隔離だけ。
結局、コロナを治すのは医師ではなく、本人の自然治癒力、免疫細胞です。
同じように、発達の遅れを育てるのは、本人の成長する力と遊び、運動です。
見つけたのは良いけれども、そこを育てるアイディアがなければ、ただのダメ出し。
「早い段階で、発達に遅れがある子を見つけられた」と喜んでいるのは大人だけであって、受け取る方としてはただのダメ出しにしか聞こえない、なんてことは親御さんからよく聞く話です。


どうして保健師、保育士、幼稚園&学校の先生が、どう育てたら良いかわからないのか、といつも疑問に思うことです。
この人達は、ヒトの発達、成長に関わる職種でしょ。
というか、それを知らずして、どうして仕事ができるのでしょうか、子どもと関われるのでしょうか。
発達に遅れがある子がいるのがわかった。
だったら、どうやって工夫しようか、どこを後押しして育てたら良いか。
そういった発想が出る前に、「親御さんに診断を勧めなきゃ」「今度来る巡回の保健師に、特別支援コーディネーターに伝えなきゃ」というのは、私から言わせれば職場放棄です。
そんなことをする前に、担任だったら、何かアイディアの一つでも出てこないのか。
「私がこの子をよりよく育ててみせる」という気概はないものなのか。
いろんな土地で、いろんな親御さんからお話を聞くたびに、発達障害を差別し、隔離しているのは、「早期診断」と言っている大人たちではないか、と思うのです。


以前は、THE特別支援、自閉症支援みたいな療育が好まれていたような気がします。
でも、今の親御さん達は、作業療法や運動発達に力を入れた療育機関に通わせていることのほうが多いし、一般的になったと思います。
発達障害の子ども達の根っこの課題は、身体であり、運動発達である、と多くの親御さん達がわかっているという表れだと感じます。
だから、そういった療育機関で、そういった専門の支援者が身体の課題を解決すれば良いと思うのです。
なのに、そういった療育機関から巣立っていく子が少ない。
何年も利用し続けている。
つまり、根本から解決していないということ。
じゃあ、なんで親御さんが我が子の課題の根っこに気づき、またそういった専門の療育機関に行くのに、何年も通わなければならないのか。


これは上記の話ともつながります。
3月14日に開催された口の講座の中で、講師の栗本さんも仰っていましたが、基本の発達、ヒトの発達を知らない人が多すぎる。
保健師や保育士、幼稚園&学校の先生も学生時代、勉強したはずなのに、その知識が活かされていない、または活かそうとしていないのだと感じます。
結局、「発達障害」というバイアスがかかった瞬間、普通の子とは違う子、特別な子という頭に切り変わってしまうのだと思います。
だから、自分がどうにかしようと思う前に、「どうやって医療、支援、療育に繋げようか」という頭になってしまう。
これもまさに脳内隔離です。


発達障害の子ども達は、定型の子、同級生の子とは共に遊べないのでしょうか、共に学ぶことができないのでしょうか。
こんな問いを投げかければ、ほとんどの人が「いや、そんなことはない。障害のある子もない子も共に学び、共に生き…」と言うでしょう。
しかし実際は、2000年以降、それこそ発達障害啓発ブーム以降、どんどん隔離が進んでいます。
「ノーマライゼーション」と口では言いつつ、一方で少しでも発達に遅れがある子を見つければ、特別支援に繋げようとしています。


定型の子ども達でも、車を並べるし、オウム返しもするし、クレーンもするし、クルクル回ったりします。
1歳児は砂を食べるし、2歳児は他人を噛むし、3歳児はおしっこを漏らす。
いずれも、発達と途中で表れる行動であり、結局、未発達の子が共通して行うことです。
それを取り上げて、あたかも「自閉症だ」「発達障害だ」というのは、ヒトの発達を無視し過ぎです。
この前も、作業療法に通っている子なのに、首の発達の遅れを指摘されたことがない、と言っていました。
首の育ちが未完成で、いくら細かい作業をしても、できるようにはならんでしょ。
自分もやってみればいいんです、その子と同じ姿勢を、腕が動かしづらいよ。
どうして目の焦点を合わせるのが苦手な子は全員、ビジョントレーニングなのか意味不明。
それよりも前庭系の発達を確認するでしょ、遊びや運動の様子を見るでしょ、他にも確認すべき発達が複数ある。
どうも、運動や感覚などの発達の遅れは「それが障害特性だから」と触れられず、できない部分ばかりに注目し、そこをいじくろうとしているのが療育になっているような印象を受けます。
これもヒトの発達が分からないか、脳内隔離の仕業だと思います。


「PCRして隔離」は、その対象を広げていけば、「全員、自粛」になるのです。
同じように今、子ども達の環境は、どんどん検査対象が広がっている。
そして隔離が進んでいる。
このままいけば、教育のロックダウンは近い。
幼稚園も、保育園も、学校も、少しでも発達が遅れている子、凸凹している子と親御さんは、主体性を無くせば、すぐに学びの機会を失うことにつながりかねません。
発達の遅れを他人にどうにかしてもらおう、というのは無理な話です。
頼ろうとしている専門家たちは既に育てるよりも、隔離に舵を切っているのです。
発達に遅れのある子の発達を保障するのは、国でなければ、教育機関でもない。
そこは親御さんが子どもの発達を保障していかなければなりません。


時々、親御さんのほうが過剰な自粛、つまり特別支援に入れてしまっている気がします。
まさに子どもにマスクと一緒です。
親の怖がり、不安、世間体のために、子の発達が犠牲にされている感じです。
「この子に構造化はいらんだろ」「ABAのレベルじゃないだろ」というのが、マスクをする子ども達と被る。
神経発達の基本は栄養よりも前に酸素ですよ。
乳幼児期の子ども達にとっては、大人の口元を見ることが言葉の発達、摂食の発達に重要ですよ。
その子に必要なのは療育ですか?
発達の機会ですか?
同年代の子ども達と共に育つ場ですか?




2021年3月19日金曜日

【No.1150】「函館をノースカロライナに!」

北海道の知事が盛んに「新北海道スタイル」なんてことを言っています。
お店に行けば、同じような標語の紙が貼られており、内容を見れば、「ただの感染予防の告知かよ」と思うものばかりです。
新北海道"スタイル"なんですから、「スキーを履いて通学、通勤!」とか、「週に1回はジンギスカンを食べよう」とか、「車での移動距離は、1時間80㎞と計算すること」とか、「黄色信号では止まらないで加速!」とかでしょ。
なぜ、感染予防ではなくて、新北海道スタイルなんだか。
国の誰かも「ニューノーマル」なんて言っていましたが、ほとんどの国民は無視。
無駄に英語を使い、何故だか生活自体を変えようとしますね。


かつて当地では、「函館をノースカロライナにしよう」ということを言っている人たちがいました。
「お店のメニューや説明などには、絵や写真をつけるようにしよう」
「自閉症の人が働くときは、ジョブコーチも一緒に雇うようにしよう」
「自閉症の人が安心して利用できるようにBGMや照明を禁止にしよう」
そんな計画(?)、夢(?)、妄想(?)を支援者と当事者、家族でしていたのです。
まさに健常者の権利や楽しみ、自由が排除された視点ですね。


当時から疑問に思っていたのですが、支援者の中には、実際にノースカロライナにいった人たちもいたんですよ、なのにそんな無責任で非現実的なことを言っている。
今思えば、支援者たちも本気でそんなことを目指していたわけではなくて、ある種の忖度だったんだな、と思います。
20年前、講演会や書籍の中では、あれだけ理想郷のように語られていたノースカロライナも、そうやった視覚支援や配慮が行われているのは関係者の内輪だけだし、当然、州全体ではなくある地域、場所に限定されていました。
当時は州の公費ですべての支援が受けれたので、それを拡大解釈して、「州全体で自閉症支援をやっている。どのお店に行っても配慮がされている」なんて勘違いしていたと思うのですが、結構信じていた当事者、親御さんは多かったです。
だけど、実際に行ったんだから、「それは違うよ」「勘違いだよ」と一言言ってもいいと思うんです。
でも、誰もそれを言わなかった。
挙句の果てに、そういった動きを応援するような(ずばり誤学習!)支援者たちもいたくらいです。


私は福祉の大学を出たわけではないのでわからないのですが、「障害者が住みやすい社会は、どの人も住みやすい社会」ってなんなんですかね。
それって誰が言って、実際にそうかって検証したんでしょうか?
たぶん、想像するにバリアフリーの話で、電車のホームとかにエレベーターがあれば、助かる人がいるよね、スロープがあれば健常の人もラクだよね、ってことだと思います。
それがどうして「照明を落とした暗い店内」「BGMがない店内」「絵や写真のメニュー」になるのでしょうか。


自閉症の人が求める社会とは、視覚優位と感覚過敏に配慮した社会を指しているんだと思います。
だけれども、今となっては視覚優位は内耳の未発達(聴覚&平衡感覚)だし、その他の感覚過敏も感覚や運動、呼吸などの未発達。
未発達だから育てればいいんです。
じゃあ、社会を変えるにはどれほどのことがかかるのか。


あのノースカロライナの公費を勝ち取るまでには、相当な年月と労力が必要でした。
親や支援者で同調する人たちを増やしていくと同時に、政治家に近づきロビー活動。
同時に大学などで視覚支援の有効性を研究し、やっとのことで州の公費ですべての支援サービスが利用できるようになった。
でも、州知事が民主党から共和党に変わった途端、100%公費は終了し、今は利用者も負担することになっています。
もちろん、全州でどこに行っても視覚支援、自閉症の理解がある、なんてことも達成されていません。
ちなみにティーチが認定制度になったのも、100%公費が終わったあとで、ウン十万の受講料や「認定資格維持には2年おきの受講が必要」などの参勤交代システムが導入されました。
つまり、ノースカロライナに住む自閉症者のために、日本のお金、しかも多くは福祉法人と学校の出張研修費=税金ですね。
私は「日本の税金で、アメリカの自閉症支援を行う」と揶揄していました。


元ギョーカイ人の私がこれくらいのことを知っているんですから、ズブズブのギョーカイ人が知らなかったわけはありません。
少なくとも、函館がノースカロライナになることはない。
「公費でABAを!」と叫んでいる集団がいるそうですが、それと同じで結局、本人、家族のためではなく、自分たちの売り込みと宣伝なんですよ。
さらに悪いことに、こういった社会活動には支援者ではなく、当事者の声が必要だから、だいぶ利用された人たちがいた。
しかも先着一名様のため、今もそれを信じ、「函館をノースカロライナに!」と言っている成人、家族がいるもんだから目も当てられません(同じように「治らない」「脳の機能障害」「生まれつき」も信じている人がいる)。
自閉症啓発ブームと同じように、利用されるだけされて、今もギョーカイのメンドリになっている成人って少なくないですね。


新北海道スタイルなんて、定着するわけはありませんし、知事や行政の人たちも、コロナが終わったあとも、道民がマスクしてジンギスカン食べたり(ベトベトしてイヤw)、テレワークしたり(漁師さんや農家さん、酪農の人たちが多い北海道ですよw)する社会を想像しているわけはないでしょう。
ただ「感染予防」といってポスターを張ると、反発が来そうだし、お願いベースだからお茶を濁すように、「新北海道スタイル」なんてことを言っているだけ。
だいたい行政が横文字を入れてくるときは、やましいことがあるときです(笑)
横文字はボヤッとしていて曖昧だし、英語に堪能な日本人は少ないので、なんとなく発信でき、なんとなく受け入れてしまう効果がある。


「函館をノースカロライナに」もそうでしょ。
ノースカロライナの何を目指しているのか、はっきり言っているわけではない。
当事者、家族の中で実際にノースカロライナに行った人はいない。
あそこは軍と結びつきが強いところで、軍需産業で保っている土地でもある。
当然、日本人が考えられない差別もありますよ。
だけれども、函館を軍需産業でも受けさせようとも、差別を了承しようとも思っていないのです。
ただ支援者から言われるがままに、ギョーカイのプロパガンダを信じ、理想郷のように捉えているだけ。
そして勝手に10年、20年の時間が過ぎていっている。


行政なんかを信じてはいけません。
専門家だってそうです。
我が身がかわいいのは誰も一緒で、社会なんて時代の変化とともに変わっていくのです。
それこそ、今の福祉サービスが今後とも同じように続くわけはありません。
今まで散々行政に振り回され、支援者のいいように使われた当事者、家族を見てきました。
だからこそ、私は社会が変わろうとも、専門家が手の平返しをしようとも、大丈夫なものを目指しているのです。
社会を変えるには長い年月と労力が必要です。
でも、神経発達のヌケ、未発達は今日、今すぐに育て始めることができるのです。
福祉制度が変わろうとも、トンチンカンナ支援者しかいなくても、家で子ども自ら、家族とともに育てることができる。
そして一度、埋まったヌケ、発達した部分は後戻りしないし、誰も奪うことができない。


コロナ騒動後の社会、世界がどうなっているかはわかりません。
しかし、発達は裏切らない。
身に付けた学力、生活力も裏切らない。
裏切るのは社会の制度とギョーカイ人だけ(笑)
600万年前のご先祖様たちも、暖かくなれば気持ちが晴れやかになり、花を見れば嬉しくなったはず。
さあ、サクラの季節です。
桜の花を愛で、そして新たな旅立ちをする子ども達を共に祝福し、応援しましょう。
ヒトの生き方は、そんなに簡単に変わりませんね。




2021年3月16日火曜日

【No.1149】自己肯定感と愛着

以前は「自己肯定感」と「愛着(障害)」を分けて捉えていました。
でも、気がついたんです、自己肯定感の土台が愛着だと。


自己肯定感の高い愛着障害の人には会ったことがありません。
厳密に言えば、会ったには会ったんですけれども、自分を守るための偽装した自己肯定感が高かった人はいます。
自分が愛されていなかった現実から目を背けるために、「自分は価値のある人間だ」と自らに言い聞かせている感じです。
しかしこういったのは、真の自己肯定感ではないですし、自己肯定感が"高い"とはいえないですよね。


話を戻しますと、「自己肯定感が低い」と悩んでいる人の多くに、愛着障害を見ることができます。
ただ良く考えれば、そうですよね。
自己肯定感とは、自分という存在をそのまま受け入れられること。
その原始体験は、どう考えても赤ちゃん時代ですし、始まりは胎児期だといえます。
よく「無償の愛を与える」なんてことが言われますが、それは親を喜ばせるための商業的な話であって、赤ちゃんの視点に立てば、まずは身体を通した安心感、身体が「ああ、自分は守られているんだ」と感じることが自己を肯定する始まりだといえます。


子どもさんもそうですし、若者、大人の人でもいますが、言葉にならない不安感を持っている人達がいます。
ある程度、大きくなれば、言葉で「〇〇が怖い」などと言いますが、一貫性がなく、「本当にそう思っているのかな」と感じるような人もいます。
そういった人の場合、言葉は二次的な話であって、その根っこには言葉にならない不安感がある。
なんだか安心できない。
なんだか世の中が怖く感じる。
そういった言語化されない不安感、恐怖感は、言葉を獲得する前の発達段階で生じた愛着障害だと考えられます。
時々ですが、「お母さんのお腹から出るのが怖かった」という子もいるくらいです。


母胎にいるときは、母子が繋がっています。
その母親が感じることは、子も感じます。
ということは、母親が感じている不安感や恐怖感はそのまま胎児に伝わり、胎児は外の世界が怖いところだと身体が感じるのです。
そういった身体を通した記憶を持った子ども達が、社会の中でなんとなく不安感や恐怖感を感じ、同年齢と同じような体験、チャレンジをしても、その受け取り方が変わってしまう。
同じ失敗をしても、再び立ち上がろうとする子もいれば、そのまま起き上がれなくなる子もいる。
目の前に高い壁があれば、「よし登ってやろう」とする子もいれば、その場に立ち尽くす子もいて、その場から立ち去ってしまう子もいる。
私はそういった子ども達の違いを見るたびに、身体の記憶が背中を押すこともあれば、足を引っ張ることもある、と感じます。


何かを達成したとき、自己肯定感は高まると考えられています。
「算数のテストが100点だった」
「逆上がりができるようになった」
「一番に給食を食べ終わった」
だから、特別支援の世界では、やたらと簡単な課題をさせ、スモールステップという名のお子様扱いをし、一方で失敗や叱るということを避けようとします。
だけれども、こういったのはすべて小手先の戯れで、自己肯定感の表面的な解釈でしかないと思うのです。


どんなに後天的に周囲が頑張っても、環境を準備し調整したとしても、愛着形成という土台が培われていないと、自己肯定感は高まるはずはありません。
原始的な身体の記憶がネガティブなものである限り、常にチャレンジに怯え、いや、世の中そのものに怯え続けている。
反対に、そういった原始的な記憶がとても心地良く、安心感に満ちていれば、目の前に現れた試練も、壁も、遊びになる。
愛着という発達は、子どもの遊ぶ姿に一番表れるからです。


伸びやかに遊びまわっている子には、「自分は愛されている存在だ」「守られている存在だ」という感覚、身体の記憶があります。
一方で、同じ場所から動けない子、母親の存在感を視覚と触覚、嗅覚で何度も確かめる子、まったく離れることができない子もいて、やはり母親から少しでも離れた世界が怖いものであると身体が訴えているようにみえます。
人間の最初のチャレンジは遊びの中にあり、純粋に遊びと感じるか、自分に対する試練と感じるかは、身体の記憶によるところが大きい。


自己肯定感という言葉には、「自己」という言葉が付いています。
その「自己」とは本人のことであり、その本人が感じるのは身体を通してです。
ですから「自分はかけがえのない存在である」と感じるのは、本人の身体。
その身体からのメッセージが肯定的なものでない限り、後付けで褒めようとも、ご褒美を与えようとも、自らを肯定することができません。
そういった意味で、自己肯定感の土台は愛着形成なのです。
自己肯定感だけを取り上げて、別個に対処しようとしても無理。
自己肯定感は課題の調整、環境の調整、褒め方の工夫ではどうしようもなくて、つまるところ、愛着という発達をどうするか、そのヌケをどう育てていくか、の話なんだと思います。


愛情をたっぷり受け取った身体記憶のある人は、世の中に対する安心感が違います。
まるで小さい子が外を駆け回って遊んでいるかのように、学校や職場、社会の中で伸びやかに生きています。
試練は遊びで、立ちはだかる壁は突破することに快感を覚える。
嫌な出来事に出会っても、揺るがない強さを持っている。
だって、この社会は安心できるところだから。
自分の身体が安心感を記憶しているから。
身体の記憶、原始的な記憶は、言葉では塗り替えることができませんね。




2021年3月15日月曜日

【No.1148】親バカの言語化

「親バカ」に説明を加えるとしたら、「根拠のない自信」だと思います。
「今、言葉はしゃべらなくても、こちらの言葉は理解している」
「この調子で発達の遅れを丁寧に育て直していけば、就学の頃には勉強できる子に育っている」
「この子は"生涯、支援の子"と言われたけれども、きっと自立できると思う」
そのような発言をする親御さんは少なくなく、実際、親御さんの言う通りに育つ子も少なくありません。
専門家に見えなかったものが見えていたわけです。


「根拠のない自信」と記すと、当てずっぽや直感などと言われそうですが、そうではありません。
親御さんは確かに何かを感じ、捉えているのです。
つまり、根拠のないというのは、言語化できない情報を得ているという意味になります。
学校から帰ってきた靴の脱ぎ方で、今日の学校での出来事がわかる。
寝る前の「おやすみ」の一言で、ぐっすり寝れるかどうかがわかる。
そういったことは、共に過ごしている家族ならわかるものです。
ただ根拠と言えるようなものはない。


ヒトという動物も、感覚系をフル活用し、常に情報を受け取り、処理して生きています。
「なんか、雰囲気が違うな」
そんな感覚的な何かを掴むとき、言葉を介さないで捉えているのでしょう。
我々が「捉えた」「理解した」というのはごく僅かであり、大部分は言葉を介さない情報の部分だと私は考えています。


敢えて長所という言葉を使いますが、親御さんの長所とはこの感覚的な情報の多さ、豊かさだといえます。
それこそ、胎児期から共に生き、互いの鼓動を感じながら生活しているのですから、圧倒的な情報を持っているのです。
ゆえに、他人がわからない未来を見ることができる、過去から現在、そして未来への流れの中で。


典型的なのは診断ですが、支援者が行うアセスメントも、見えたとこ勝負、言語化できたもの勝負になります。
よくあるのが診断やアセスメントの場面で、「この子は〇〇ですね」といった断定的な表現で言われると、親御さんの中にモヤッとしたものが生まれることがある。
このモヤッとしたものは、それまでの圧倒的な情報の中で、「そうじゃないよ」とメッセージが発せられているのでしょう。


「この子は分かってないね、お母さん」と言われても、心の中では「いや、ちゃんと理解しているはずだ」と親御さんは導き出している。
ただどうして私がそう思うのか、言語化できないから、その場で終わって帰ってしまっているのが往々にしてあることだと思います。
親御さんの中には言語化できない状態を、「ただの親の直感だ」「私は素人だし」と言語化し収めようとしている人もいますが、もともと言語化されるものなんて微々たるものなのです。
たった1時間、2時間の検査で、どうしてその子の未来が予想できるでしょうか。


診断も、アセスメントも、すべてその場で確認できるもの、言語化できるもので判断されています。
発達が遅れている状態はわかるけれども、なぜ、遅れているのか?
この遅れは病的なものなのか、何が背景なのか?
この状態は今後も続くものなのか、いつ育つものなのか?
そんなもの、専門家も、支援者も分かるわけがないのです。
今の状態をある基準と比べてどうか、と言っているだけであり、それが専門家の限界だから。
なので、発達の遅れの理由、背景を尋ねても、「脳の機能障害だから」「生まれつきの障害だから」としか返ってこないでしょ。
我が子の将来のことを尋ねても、「将来を考えるよりも、今を大切に」とか意味不明な講釈を垂れるでしょ。


ひと昔前は、「自閉症の人は、場所が変わるとできなくなる」とそれがあたかも特性かのごとく言われている時代がありました。
しかし、今考えてみれば、それは情報の取り方の狭さと典型的なパターン学習のマリアージュでした。
そしてその背景には、支援者側の情報の狭さもあったのでしょう。
生活の中心、受精から続く人生の流れは、家庭の中にあり、それを捉えているのは親御さん。
そこを断ち切り、学校は学校のアセスメント、施設は施設のアセスメントとやって、それぞれで支援を組み立てていくから、その場対応のパターン学習が成り立っていくのだと思います。


24時間、寝食を共にするという施設職員という仕事を通して、自閉症や障害を持った人のことを「私は何も知らなかった」と数え切れないくらい感じました。
それまで大学や研修、専門書で学んできたことは、ごく一部であり、ある側面を部分的に照らしただけの情報でしかないことがわかりました。
一方で、胎児期から共に生きている家族、親御さんには敵わないと思いましたし、その親御さん達の力を活かさないのはもったいないと考えました。
それが現在の家庭支援という形に繋がっています。


本来、アセスメントの主は、親御さんだと思います。
どう考えても、圧倒的な情報を持っているのは親御さんなのですから、それを無視するのも、活かさないのも間違えです。
親御さんの捉えている言語化できない子どもさんの「状態」「症状」「行動」「発達」「感覚」などを言語化するのが専門家の役割ではないでしょうか。
親御さんが気づいていない何かをズバッと見抜いて指摘するのが専門家というイメージがあるかもしれませんが、それは違っていて、親御さんが気づいていないもの、感覚的に捉えてきれていないものが他人にわかるわけはないのです。


私達ができるのは、親御さんの「親バカ」をより強い親バカにしていくことだと思います。
つまり、根拠のない自信の"根拠"の部分を言語化することです。
見えないものを見るというよりも、親御さんが見ているけれども言語化できないものを言葉にするお手伝い。
感覚と言葉を結びつけることで、理解が深まり、また次の行動、より良いアイディア、選択へと向かうことができます。
専門家・支援者と親御さんとでは、圧倒的な情報量の差がありますので、日々の生活の中で感じる「おやっ」「あれっ」「もやっ」を大切にしていただきたいと思います。
きっとそこには、共に生きてきた家族だからこそ、感じ、捉えられている感覚的な情報、非言語的な情報があるはずです。
そしてそこが発達援助の入り口になることが多いのですから。




2021年3月12日金曜日

【No.1147】8歳まではみんな、未発達

発達障害とは、発達に関する【disorder】なので、なんらかの不具合が生じている状態だといえます。
そう考えると、発達に遅れが出ている状態は「障害」と言えるのだろうか、いつからどこからが障害で、障害ではないのか、そういった疑問が湧いてきます。
発達に遅れが出ている状態は、問題なのでしょうか、障害なのでしょうか。


子どもの発達で言えば、どの子も未成熟で、未発達の状態です。
生後4年間はシナプスの密度が濃くなっていき、4歳から8歳で急激な刈り込み作業が行われます。
つまり、脳の発達から言っても、この間はどの子も発達の途中であり、昨日と今日、今日と明日は異なっているのです。
ですから、その子の発達が遅れているように見えても、それは本当に遅れているのか、それがその子の発達の仕方、途中経過なのかわかりません。
そういった意味で、0歳から8歳までの子についた「発達障害」という診断名には、とくに意味がないと思うのです。
そのような意味のないもので、親御さんが落ち込み、養育力を低下させるような結果となるのなら、診断なんか止めてしまえ、と思います。


しかし現実問題として、0歳から8歳までの子に診断がつけられます。
まあ、診断がつけられるというよりも、「発達が遅れている」という指摘がされるのです。
でも、先ほど述べたように、その「発達が遅れている」状態は異常なのかどうか、曖昧だといえます。
発達が遅れていても、家庭生活や園での生活に本人が不便さを感じていなければ、その遅れは問題とはいえないでしょう。
発達が遅れていても、一応、8歳を迎えるくらいまでにその遅れが取り戻せていたら、問題なし!


私に依頼のある発達相談の子ども達の年齢は、ほとんどが8歳以下の子ども達です。
その子ども達は、診断を受けている子もいれば、受けていない子もいます。
遅れている発達も、集団の中、生活の中で問題になっている状態から、「本人は困っていないけれども…」という状態です。
ここで私が意識しているのは、その遅れが8歳以降も続くものかどうか、の見極めになります。


8歳までに発達の遅れを取り戻し、同年齢との集団生活、学校生活に支障がなければ、それは普通のお子さんです。
ただ何らかの原因やヌケがあり、一時的に発達が遅れていたように見えていただけ。
発達障害というよりも、単に育っていなかっただけ、他の子とは異なる発達の仕方だっただけです。
そういう子ども達に診断をつける、つけようとするのは、ギョーカイによる青田買い。
青田買い=誤診そのものですし、何よりも「治らない」「障害児」という前提で事を運びますので、教育の機会と同年齢が味わう経験からの隔離が行われてしまい、結果的に模範的な障害者が作られてしまいます。


言葉が出ていない子を見て、「発達が遅れている」というのは誰でもできます。
大事なのは、その言葉の遅れにしろ、運動発達の遅れにしろ、それが8歳以降も続くような遅れなのか、取り戻すには時間がかかることなのか、の見極めです。
これができないから、現在の診断はメリットよりもリスクがあるのです。
幼稚園でも、保育園でも、少しでも友達とトラブルがあれば、保育がしにくい子がいたら、活動にのれない子がいたら、すぐに「発達障害では」と疑います。
百歩譲って疑うのは良いのにしても、「ああ、このくらいの遅れの子は、今までにもいたわ」「これくらいの遅れなら、卒園する頃には育っているわ」という視点がないのが大問題です。
ギョーカイの宣伝活動によって、「早く見つけることが良いこと」という錯覚に陥り、一時的に遅れている状態の子を障害児のように扱ってしまう。


8歳が最初の分岐点になるのは、脳神経の発達から言っても、実際に関わったお子さん達を見ていても、感じます。
子どもさんですから、大人と比べて発達成長のスピードは速いですが、それでもやはり少しずつゆっくりになるのが自然な姿です。
また8歳以降になると、発達の遅れやヌケの状態での情報処理と環境適応が脳や神経、身体を形作り始めますので、感覚的な言い方で言えば「固く」なっていきます。
この「固く」なるプロセスで、いわゆる「自閉脳」や「障害特性」というのが表面化し、固定化されていくように思えます。
「自閉脳」は、偏った情報処理と、それに伴う脳の環境適応が作りだすものであり、「障害特性」は、未発達やヌケを保存し続けた結果といった感じです。
よって、8歳以降がまったく育たないというわけではなく、折り合いをつけていく部分が出るのだといえます。


「じゃあ、おまえは8歳以降の見極めができるのか?」と言われれば、言語化するのは難しいけれども、感覚的に掴めていると思います。
たとえば、乳児幼児期の激しい睡眠の乱れ、激しい感情の乱れがあった子どもさん達は、その乱れが整うまで時間がかかりますし、何よりも発達の第一条件となる「快食・快眠・快便」のうちの快眠が乱れるということは、全体的に発達が進んでいかないことになりますので、8歳をまたぐことが往々にしてあります。
また「自分が今ここに存在している感じ」がない子どもさん達もそうでしょうか。
ただこういったお子さん達は少数派で、ほとんどのお子さんは発達のヌケを育て直し、未発達の部分を促し、発達を阻んでいる環境を見直せば、8歳までに【disorder】の状態から抜け出せます。


しかし、脳神経の発達からいえば、8歳がポイントなのですが、就学はそれよりも早く来てしまいます。
しかも、年長、6歳になる年の春から夏にかけて就学相談が始まるのです。
当然、資料として提出する発達検査も、6歳ないし5歳の時点での状態で、そのときの遅れの状態が"就学時も続く"という前提で話が進んでいくのです。
よくある話は、「検査時、できなかったけれど、今はできるようになった」と言っても、「いや、検査結果がこうだから」と聴く耳を持たれなかった。
5歳の発達検査では席に座ってられなかったとあり、「それじゃあ、普通級は難しいですね」と言われたが、一般的な5歳児はそんなに長く座れないよな、それって「発達障害」というバイアスで見ているよな、ということがある。
園での環境、先生の保育力などは加味されず、「園で大変」という話だけで、支援級が勧められるということも。
あとは「診断を受けた」「療育・支援を受けている」という事実から、そのまま支援対象と流れ作業のように決まってしまうという話もありました。


以前から主張しているように、8歳までは『障害名(仮)』としなければなりません。
幼稚園も、保育園も、学校も、もっと子どもの伸びる力、発達する力を信じた方が良いと思います。
年々、言葉は悪いかもしれませんが、各場所で、各年代でピックアップされるお子さんが増え、かつ低年齢化しており、神経発達が最も盛んな時期の2年間が切り取られてしまっている印象を受けます。
だからこそ、その子ども達が大きく変化する大事な2年間を守るためにも、専門家がその子の遅れが8歳をまたぐものかどうかを見極められなければならないのです。


ある地域は、「低学年のうちは、なるべく支援級ではなく、普通級でどの子も学ぶ」という方針で教育行政が進められていました。
この方針の背景まではわかりませんでしたが、これが子どもの発達に沿った教育の姿だと思います。
しかし、全国的に見ても、このような地域は圧倒的に少ないのが現状です。
なので、やはりここは親御さんが知識と情報を持ち、しっかり考え、選択していくことが大事だと思います。
現状を嘆いていても始まりませんし、子どもの大事な時間は減っていくばかりです。
学校が支援級や支援学校だったとしても、放課後の過ごし方は各家庭で決めることができます。
幼稚園や保育園で補助の人が付いていたとしても、療育園のような通園施設に通っていたとしても、幼児期は子育てがメイン、家庭がメインですから。




2021年3月9日火曜日

【No.1146】同じ意見しか出ないとき、その裏には真実が隠されている

「自分は言いなりじゃないぞ!」
「はっきりものを言ってやったぜ♪」
そうやって他人の悪事を表ざたにし、自らをアピールしたつもりが、「結局、騙されてんじゃん」「"こだわりがない"なら黙ってろよ」と評価を下げる。
しかも、メインじゃないところで、埼玉と千葉がただ追随しているだけの存在だとばらし、4人まとめて評価ガタ落ち。
まさに「無能」のワンボイス。
これが家庭劇なら大爆笑間違いなし。
万太郎一座にも勝てるはず。
民が頑張っているとき、何をのんきなことをしているんだと思います。
御上を信じないのが、最大の感染症対策なのかもしれませんね。


かつて発達障害啓発ブームだったとき
「あなた達が悪いんではなく、社会の理解がないのが悪いんです」
「あなたの努力が足りないのではなく、自閉症という脳の問題だったのです」
「自閉症の人の中には、素晴らしい才能があって、それを活かして生きていけばいいんです」
と講演会でも、ギョーカイ雑誌でも、メディア内でも、盛んに言われていました。
今、文字に起こしてみると、悪徳宗教のようですね。
でも、こういったメッセージをそのまま受け取った当事者の人達とその親御さん達がいたのも事実です。


当時の有名支援者たちが「自閉症の理解」に乏しかったのがよく分かります。
あれだけ自分たちで、「自閉症の人達は"字義通り"に受け取る」と言っていたのにも関わらず、こういった一側面的な意見、個人的な意見を振りまいていたのです。
ただでも人間の習性として、「最初に聞いた情報を信じやすい」というのがあるのですから、情報提供の仕方には工夫が必要です。
当時の支援者たちも、神奈川県知事と同じだったかはわかりませんが、意図せず混乱を招いたのは事実だといえます。


あの時代、真顔で「絵描きになる」「小説家になる」「ゲームソフトを開発する」「啓発活動で食べていく」と言っていた当事者の人が大勢いました。
起業当初は、こういった当事者の人達からの相談もあり、「どうしたら漫画家になれるのか」などというのもありました。
「漫画の勉強や学校に行ったことあるの?」と尋ねれば、「行ったことはない」と言い、就きたい理由を尋ねれば、「漫画が好きだから」「〇千冊くらいマンガを読んでいるから」という答えばかりでした。


また卑屈系の当事者の人からの相談も多く、自分が就職できないのは、ひきこもりなのは、学校でいじめられるのは、「周りの理解がないからだ」と言っていました。
「じゃあ、周りに理解してもらうにはどうするの?」と尋ねれば、「自分の説明書を書いて配る」「講演会を開いて、自閉症の理解を広げる」といった現実的ではないアイディアばかりでした。
ですから、何時間も説明し、理解の問題ではない、理解するかどうかはあなたが決められるものではない、という話をしたのを思い出します。


今思い返すと、支援者たちが黒岩っていたのがわかります。
何か注目を浴びて、何かを示したかったのでしょう。
しかし、彼らに足りなかったのは、それを伝えたい人がどのように受け取るか、という視点です。
彼らの多くは、それまで原因がわからず、ずっと不遇な人生を送ってきた人ばかりです。
そんなとき、「それは自分の問題ではないんだ」「脳の問題だ」「社会、周りの問題だ」と言われれば、飛びついてしまうのも無理はありません。
たぶん、当事者の人たちからすれば、一発逆転という想いもあったんだと思います。
もちろん、彼らの捉え方の特徴という話もありますが、やはり「これで人生が変えられる」という気持ちが強かったと感じました。
皆さん、必死でしたし、何の疑いもなく信じていましたし、何よりも当事者の人だけではなく、その親御さんまでもが信じ切っていましたので。


では、当時湧き上がった当事者の人たちが今、どうしているか。
いろいろなところから話を聞きますと、哀しくなります。
服薬の量が増え続け、家から出られなくなった人。
定期的な相談支援で、ひたすら愚痴だけを言い続けて過ごしている人。
大学を卒業しても、福祉的就労を利用し続けている人。
漫画家やソフトの開発者を目指して勉強や進学を始めたものの、続かず、更なる挫折を味わった人。
ひきこもりの年数だけが増えていった人。
「脳の機能障害」が「神経発達症」に変わり、精神的な不調をきたした人もいました。


結局、彼らは一時的に支援者によって持ち上げられ、また叩き落とされてしまったのです。
当時、啓発にいそしんでいた有名支援者達の多くは去っていき、残された当事者の人達は苦しんでいます。
字義通り、具体的に物事を捉える傾向のある彼らには就職や自立につながる具体的な助言が必要だった。
そして啓発活動は、パフォーマンスの側面もあること、物事の多面性を伝える人が必要だった。
起業時当初、こういった当事者、家族からの相談が多く、大変だったという想いがありますが、決してこのような対応はしてはならない、彼らに必要な支援はこういうことだ、というものが肌身で分かったので、今に生きているともいえます。
しかし一方で、一人ひとりの人生をみれば、あまりにも犠牲が大きかったのでは、という想いもあります。


日曜日、津波から非難した人達の行動に関する番組が放送されていました。
「逃げよう」と最初に声を上げた人の行動が連鎖し、多くの人たちを救ったという話もありました。
今のコロナ騒動もそうですが、大部分は自分で考えるよりも周囲に合わせてしまいます。
ですからいち早く情報を受け取り、更新し、発信していく人の存在が必要なんだと思います。
特にある側面からの情報提供しかない、どこを見ても同じ意見で反対意見がない。
メディアで言えば、どのテレビ局、新聞、書物、ネット記事でも同じ意見ばかりだ、というときには気を付けなければなりません。
ギョーカイが一斉に良いと言っていること、良いとしてきたこと、大前提としていることにこそ、疑いの目で見ていく必要があると思います。


「支援を受けることこそが、子ども達の幸せ」
そういった言葉に対して、「逃げよう」と言える存在でありたいですね。
そのためには自らの行動と実績が必要だと考えています。




2021年3月6日土曜日

【No.1145】治す道は独立独歩

高機能の子ども達が支援対象に組み込まれようとしていたその時、有名支援者はこういって全国を駆け回っていました。
「あなた達の子ども達は、犯罪者になる可能性が高いんですよ。だから家庭でもしっかり支援しなさい」
それまでの「支援」のイメージから、うちの子は支援というよりも教育だな、と二の足を踏んでいた親御さん達に、この言葉は大きな影響を与えました。


学生時代、あちこちで「うちの子、"犯罪者予備軍"と言われた」「あなた、お子さんを犯罪者にしていいんですか、と言われた」という話を耳にしました。
これは有名支援者からというよりも、有名支援者からコンサルテーションを受けた支援者たちが各家庭の親御さんに言っていた言葉でした。
当然、親御さん達からすれば、ショッキングな言葉であり、強い反発を生むことがありました。


しかしこの話は複雑です。
まず最初にそういって全国で講演やコンサルをしていた有名支援者は、ありのまま系の「自閉っ子は天使」「自閉症と犯罪は関係ない」「犯罪に繋がるのは、すべて周囲の理解が足りなかったからだ。誤った関わり方をしたからだ」と主張するグループと距離を置き、対立している人でした。
ですから、従来からの単なる理解の啓発と視覚支援に異を唱える形で、特に高機能の人たちを念頭に支援というよりも、教育の重要性を主張していたのです。
この有名支援者のコンサルや講演などを聴いていても、自閉症者に対して結構ドライでしたし、欧米重視の人だったので、自閉症者の犯罪リスクについて十分な認識はあったと思います。


私はもう施設職員として働き始めていた時期でしたが、こんな話を聴いて驚いたことがあります。
自閉症の子を持つ親同士で僻みあっている、と。
知的障害を持つ子の親御さん達は「うちの子達は、生活全般に支援が必要で大変なんだ」と言い、高機能の子の親御さん達は「うちの子達は、犯罪を犯す危険があるんだ」と言う。
お互いが自分たちの方が大変だと言い、一方を「(あなたの子、あなたの子育ては)ラクでいいわね」と言っている。
同じ自閉症の子を持つ親同士で、どうしてこんなことを言い合うようになったのか、とそれぞれの親御さん達から話を聞くたびに思ったのでした。


もちろん、親御さん達の捉え方はそれぞれで、「犯罪者になる危険性がある子よりも、生活全般の手助けが大変だけど、うちの子のほうがいい」という親御さんもいましたし、「犯罪者になる」という言葉が受け入れられなくて反発したり、ショックで精神状態を崩したり、「だったらせめて犯罪者だけにはしたくない」と子育てを頑張る力に変えたりした親御さんもいました。


客観的な事実として、犯罪を犯した人があとからASDの診断がつけられることがあります。
そして裁判の流れの中で、弁護士や裁判官がASDという特性の影響を指摘することがあります。
つまり、支援者以外の人は「ASDと犯罪」についての認識があるということです。
私は自閉脳があるとは考えていませんが、それでも長年の発達のヌケや遅れ、感覚系の未発達が情報選択と処理に影響を与え、誤った価値観や行動を形成していくのだと考えています。
そういった長年の歪みが、社会や他人に対する歪みを生み、結果的に犯罪に繋がっている、繋がる危険性が高い、というのが私の認識です。
実際、この仕事をしていて、またネット上での振る舞いを見ていて、犯罪の芽を当事者たちの中に感じることは多々あります。
ですから、有名支援者が「この子達は犯罪者になる可能性がある」と言って回っていたのは間違えではないと思っています。


しかし、この有名支援者にも過ちがあったと思います。
それはコンサルテーションや指導していた支援者たちがその意味を深く理解することなく、表面的な理解でこの言葉を使っていたことです。
親御さんの中には、視覚支援や早期療育よりも、子育ての中でより良く育てていきたい、と考えていた人たちがいました。
そうやってなかなか支援の世界に入ってこない、支援者のいう支援に乗ってこない親御さん達に対して、脅すようにして「あなたの子は、犯罪者になる可能性がある」という言葉を使ってしまった。
また自分たちの腕やアイディアのなさを隠すようにして、「この子達は犯罪者になる可能性があるのだから」と言い訳としてこの言葉を使ってしまった。
そして家庭での支援がなかなかうまくいかず、家や学校で問題を起こしてしまっている家庭に対して、「親がしっかりしないから、犯罪者予備軍になるんです」と親御さんを責める言葉として使ってしまった。


ですから本質が伝わる前に、親御さん達はそのように言ってくる支援者と支援に対して反発を覚え、ある人はショックで精神状態を崩し、ある人は自分が関わるのはよそうと子育てを投げてしまった。
一方でギョーカイは「自閉っ子は天使」と主張する医師、支援者が主流派だったので、親御さんのほうもそちらのほうを信じ、心の支えにしていた人たちが多かったといえます。
そういった親御さん達にとっては、「犯罪者」「犯罪予備軍」なんていう言葉が出ること自体、激しい拒絶反応が出るのです。
この有名支援者、この有名支援者から影響を受けた支援者たちが、すこぶる評判が悪かったのは、ギョーカイが主張する内容と正反対だったから、という点もあったと思います。


こういった時代を振り返り、そして今、発達相談という仕事をやっている中で感じるのは、発達のヌケや遅れ、未発達をそのままにしておくのはリスクでしかない、ということです。
限られた情報しか受け取れず、また情報の切り取り方が独特である状態が続くと、そういった歪んだ情報と世の中の切り取り方で、脳や身体が形成されていってしまいます。
ヒトは、周囲の環境に適応しやすいように生まれ、よりよく適応することで生き抜く動物です。
その周囲の環境を誤って捉えたら、環境の一部しか捉えられなかったら、思考や行動に歪みが生じるのは自然なことです。
それが結果的に、周囲とのズレを生じさせ、ネガティブな体験として刻まれていく。
ASDと呼ばれる人達の犯罪についての書物を読むと、ネガティブな体験がフラッシュバックやトラウマを生み、その上に歪んだ思考と行動が合わさって過ちへと繋がっていくように感じます。
当然、初期の対人関係、愛着形成の躓きの影響も大きいといえます(対人トラブルの根っこの一つ)。


つまり根っこは、私が今、発達相談で関わっている子ども達と変わりはないのです。
最初は発達のヌケや遅れ、未発達だった。
でも、その状態が長く続くことが、凸凹を大きくし、トラブルの機会を増やしていく。
そういった意味で、ギョーカイの主張する「自閉っ子は天使」「犯罪と自閉症は関係ない」というのは逆に犯罪のリスクを高め、過ちを犯してしまう人を増やすことに繋がっているのです。
つくづくもったいないのは、犯罪のリスクについて認識していた有名支援者の人望がなかったことと、ギョーカイの主流派ではなかったこと、そして弟子を育てる力がなかったことです。
この有名支援者は治せる支援者でしたが、そのあとが続かず、高機能ブームとともに去っていってしまいました。


まとめとしてはずれてしまいますが、腕の良い支援者、治せる支援者が同じように弟子を育てられるか、と言ったらそれは難しいことのほうが多いように感じます。
別の言い方をすれば、集団で群れていては腕は上がらない、組織での支援では治せない。
治す道は独立独歩なのかもしれませんね、親御さんも、支援者も。




2021年3月1日月曜日

【No.1144】不具合な状態が重いか軽いか

ジムのトレッドミル(ランニングマシーン)の前にはずらっとテレビが並んでいて、以前の私はそれを見ながら走っていました。
でも、どの画面を観ても、マスク姿や意味があるのかわからないような衝立が映るから、もう目にするのもうんざりになり、Bluetooth(おじさんも言いたいだけw)のイヤホンを買ってYouTubeを聴くようになりました。
そういえば、そのアクリル板、どうするんでしょうかね、コロナ騒動が終わったら。
全国に大量のアクリル板とかが捨てられ、ちょうど昨晩はプラスチックごみの特集がやっていたようですが、一方で「プラスチックごみガー」とやり、もう一方では大量のアクリル板を立てて番組をやっている。
飲食店は間隔をとるために席を開けて頑張っているのに、今朝の国会中継では危ないといわれている高齢者たちが席を詰めて座っている。
数年後、報道番組で「アクリル板の不法投棄」「大量に捨てられるコロナ対策で使われた物たち」なんてやったら張り倒しますよ、根拠なく煽りに煽ったメディアを。


話がそれましたが、YouTubeで落語とか、野球関係の番組とか、有識者の話を聴いて筋トレしたり、走ったりしています。
すると、ホーム画面にお勧め番組が出るのですが、時々、自閉症とか、発達障害関係の番組が上がってくるんです。
しかもビックリすることに、たぶん、親が作っているんでしょうけれども、子どもの顔が丸わかりの番組を上げている人がいる。
私は詳しくないのでわからないのですが、その番組を検索したわけでもない私のホーム画面に上がるということは、見ず知らずの人達、しかも世界中の人が目にする可能性があるってことですよね。
うちの子、小学生ですが、メディアリテラシーの授業があって、この前は「自分の本名をあげてはならない」「顔が映るなどの写真、動画を上げることは危険を伴う」と教わってきていましたよ。


お勧めに上がっていた何名かの動画をちょっと観ましたが、タイトルのわりに育てられる部分ばかり、それは自閉症の特性ではなくて発達の遅れ。
動画編集や配信している暇があるのなら育ててしまえば早いのにと思いますが、どうもその感覚がわかりません。
だって、未発達やヌケの部分を育ててしまえば、一般の人として育ち、社会の中で生きていくんですよ。
その子が大人になって、このYouTubeを観たとき、「僕も小さい頃はかわいかったな」なんて思いますかね。
個人情報だだ洩れで、しかも、さあ、一般の人として生きていこうとしているとき、これがネット上に残り続け、自分の意思とは関係ないところで告知が行われている。
進学や就職の際、「あなた、発達障害だったの」って、思いもよらない人から指摘されることって、それが結果に影響することって、ないとも限らない。
ということは、その動画を上げている人からしたら、映っている我が子はずっと自閉症のままだし、ずっと発達に遅れが出たまま、という認識なんだと思います。
まさにギョーカイの啓発がもたらした負の遺産です。


ついでに言うと、こちらはギョーカイの負の遺産というよりも、親御さん、支援者その人の問題なんでしょうが、とにかく「この子は重い」という人たちがいます。
親御さんとかともお話していて、「このお母さんは、我が子が重いほうが良いのだろうか」「できるだけ"重度"と私に言ってほしいのだろうか」と思うことがあります。
過去にも何度か記事にしましたが、「大変な我が子を育てている自分」を演出している場合もありますし、先に保険を掛けている場合もあります。
保険というのは、「重たいんだから、全部育てられなくても、治らなくても、責めないでね」という先回りの保険です。
あと自分の手柄の場合も。


発達障害の子ども達の中に「重い子」ってどれくらいいるのだろうか、と思います。
発達のヌケや遅れが大きい子がいて、それを「重い」という場合はあるでしょうが、それはその子が重いのではなくて状態が重いんですね。
発達は常に変化しますし、特に子どもの時期は1ヶ月後には課題がクリアされているなんてことは当たり前です。
発達障害は、発達に不具合が起きている"状態"を指しているので、重いとか軽いとか人にくっつけて言うこと自体不適切。


この発達障害児における「重い(または軽い)」というのは、昔からすこぶる評判が悪かったのを思い出します。
自閉症協会の中でも、高機能部と知的障害のある部ではお互い悪口を言っていましたし、他の障害種である肢体不自由の子の親御さん達からは発達障害全般に対して批判的な意見が出ていました。
「どこが重いんだ。重いって言うのは、私達の子みたいな子のことを言う」
そりゃそうです。
胃ろうや呼吸器が必要だったり、24時間たんの吸引、2時間おきの体位変換が必要だったり…。
今日一日、生きること自体が大変な子ども達の親からすれば、自分で移動や食事、排泄ができ、勉強や遊ぶことができる子のどこが「重度か」という気持ちもわかります。


どう考えても障害という括りの中で発達障害は限りなく軽い方に入ります。
というか、そもそも"障害"ではなくて、不具合な"状態"という意味です。
それは【disorder】を調べればわかります。
また私は肢体不自由、遺伝子の疾患、病弱児との関わりがありましたし、施設ではそれこそ「重い」と言ってしまうような人たちとの関わりがありました。
食べ物か食べ物ではないかの区別ができない。
自分を傷つけ続け、生命の危険が及ぼうとも、自分で制御することができない。
寝ることも、排泄することも、自らで行うことができない。
家や地域、他人と共に生活できない人が施設に来るわけで。


発達のヌケや遅れ、運動や感覚系の未発達はどのように育てたら良いかがわかる時代になりました。
だから、今の子ども達が大きくなったとき、一般の人として生きていく人も多いでしょうし、自分自身で発達障害者として生きるかどうかを決める日が来る人も多いと思います。
そんなとき、前世代の考えや、ギョーカイの啓発活動による負の遺産を引っ張った写真や動画が残っていたらどうでしょうか。
本人の意思に反して「発達障害者」「自閉症者」として生きなければならない子どもがいたのなら、私は悲しく思います。


そしてそのような子が出ないように、ちゃんと親御さん達に伝えていかなければならないと思っています。
発達障害を障害とか、特別支援とかの括りから出したいですね。
子育ての世界に戻したい。
それぞれの家族が想い想いの子育ての中で、よりよく子が育っていくのが理想ですし、自然な姿だと思います。
重いとか軽いとか、発達障害とか自閉症とか、そういった言葉が使われなくなったとき、やっと等身大の子どもを見ることができるようになるのでしょうし、子ども自身も自由に、伸びやかに子ども時代を過ごせるようになるでしょう。
目の前にいるのは大切な我が子ですし、未来ある子ども達。
あるのは発達が抜けたり、遅れたりする状態だけで、その状態は刻々と変化していきますね。