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3月, 2021の投稿を表示しています

【No.1156】発達援助の浸透と、見えてきた課題

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先日、書いたブログ( 【No.1153】定型発達の子ども達は教える前に自然とできている )について、ご質問やご感想を多数いただきました。 「どうして身体の発達が道具の操作に繋がるのか?」 「やっぱり道具の中には、教えたり、練習しないと使えるようにならないものがあるのでは?」 「補助箸って、どうなんですか?」 など、身体と道具の繋がりについての疑問や感想が多かったです。 ご指摘の通り、練習しないと使えない道具というものがあります。 しかし、ここでいう幼児期に使う道具は、身体が育てば自然と操作できるようになるものばかりです。 何故なら、スプーンも、箸も、はさみも、クレヨンも、すべて『手の延長』だからです。 「手があって道具」ではなく、「指の先に道具が繋がっているイメージ」になります。 ヒトは二足歩行ができるようになり、手での操作が可能になりました。 その手が自由自在に使えるようになるためには、まず体幹の育ちがあり、肩→肘→手首→指(小指から親指へ)の育ちが必要です。 二足歩行が可能になったあとから、手での遊びが始まります。 手でいろんなものを触り、掴み、つまみ、肩から指先に向けた育ちを行うのですが、この育ちのプロセスの中で触れるものは、子どもにとってはすべて遊び道具になります、おもちゃも、リモコンも、オムツも、タオルも。 その遊び道具の中にあるのがスプーンであり、箸であり、ハサミであり、クレヨンなのです。 ですから、肩から指先を育てている段階で操作するものは手遊びの延長であり、手を育てる延長、つまり手の延長として道具があるのです。 小学生くらいになれば、指先までの発達は完成するため、以降使用する道具はまさに私達がイメージする道具になり、手と道具の関係になります。 よって道具の形状や複雑さというよりも、子どもの目線に立ったとき、それは指先まで育てるプロセスで使う手の延長としての道具なのか、手が完成した後の「手と道具」の関係なのか、そっちのほうが理解しやすいと思います。 ちなみに補助箸は、「補助がないと使えない手の発達段階」なので、補助箸が使えるようになったからといって一般的な箸が使えるようにはならないですね。 ただ定型発達の子ども達は補助箸を使っている間に、自然と遊びを通して指が育ちますので、結果的に箸が使えるようになります。 「補助箸を使ったから箸が使えるようになった」

【No.1155】だましだましやっている

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もうすっかり雪が溶けましたので、7月の函館マラソンに向けて外ランを始めています。 冬の間はずっとジムだったので、久しぶりの外ランは気持ちがいいですね。 私の課題は筋力で走ってしまう癖があるので、今期は身体の重心を少し前目にして推進力をつかって走るフォームを目指しています。 そのため、冬のジムでは体幹トレーニングをみっちりやり、シックスパッド(仮)くらいまで腹筋が仕上がりました(笑) あとは月間200㎞をノルマにし、できれば250㎞を目指して本番を迎えたいと思っています。 子どもさんの中には、今期私が目指している重心移動を使って走っている子がいて、「教えてください、師匠!」と思うことがあります。 しかし、この重心を移動させる走りには別の見方があって、「重心移動を使わなければ、走れない」という場合があるのです。 家庭訪問をすると、家の中を走って移動している子どもさんがいます。 一見すると、「元気がある子」「運動発達的には問題ない子」のように見えますが、しっかり確認すると、運動発達のヌケがあることがわかります。 走ってはいるけれども、「二足歩行ができる段階にない」といった感じです。 いま、ハイハイを抜かす子ども達が多くいます。 そういった子ども達はハイハイをせずに、すぐに立って歩いてしまっています。 で、走るようにもなる。 だけれども、上半身と下半身の連動が見られなかったり、腰がそのまま足だけで走っていたりと、「なんとなく走り方がおかしいよね」という場合があります。 「うちの子、走ることはできるんだけれども、なんか走り方がヘン」と相談される親御さんは少なくありません。 療育機関などに相談すると、「走れているから、問題ないですよ、お母さん」とか言われてしまう。 赤ちゃん時代からの運動発達の積み重ねが、走る姿に表れます。 ですから、その走る姿に違和感があるとしたら、それは運動発達のどこかにヌケがあるということです。 もちろん、それは走るだけに留まらず、認知やコミュニケーションの発達にも影響を及ぼします。 「ちゃんと走れない」というのはそれ自体が問題なのです。 単に「走れているからいい」「走り方は個性」ではありません。 先ほど紹介した重心を移動させて走っている子は、重心移動をしなければ走れない子だといえます。 つまり、「しっかり立つ」「しっかり歩く」が完成していないからこそ、で

【No.1154】新年度の就学相談を迎えるにあたり

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この時期は卒業や修了の時期でおめでたい雰囲気が漂っている一方で、4月から年長に上がる親御さん達にとっては急に「あと一年」が現実的になり、不安に思われている方もいらっしゃると思います。 新年度が始まれば、今までに診断や療育、支援を受けているお子さん達は、「就学相談」の案内があちこちでされるようになり、中には「受けなければならない必須のものだと思っていました」と仰る親御さんがいるくらい就学相談を受ける流れが作られてしまうようです。 就学を迎えるにあたって考えるべき中心になることと言えば、どこで学ぶか、「普通級」「支援級」「支援学校」の選択だと思います。 親御さんの中には就学先を選択するにあたり、「より手厚い支援」「より手厚い環境」を求められる方もいらっしゃいます。 もちろん、就学先の選択は家庭の話、それぞれの子育て、考え方の話になるので私がとやかくいうことではありませんが、「より手厚い支援」が子どもにとってプラスになることなのか、は落ち着いて考える必要があると思います。 ひと昔前は、普通級で学べるだけの力があるのに、支援級を選択されるご家族がいらっしゃいました。 本当は支援級でも十分にやっていけるだけの力を持っているのに、「いや、支援学校を」と選択されるご家族がいらっしゃいました。 中には、知的障害の支援学校よりも、盲・聾・肢体不自由の学校に希望を出し、入学するご家族もいらっしゃいました。 こういった選択の意味は、今の親御さんはわからないと思いますが、結局、教員の人数がより多いところ、生徒の人数がより少ないところを選んでいたわけです。 その理由は「より手厚い支援」です。 ここのところは勘違いしている人が多いと思うのですが、支援が手厚くなればなるほど、子どもが発達、成長するかといえば、それは違います。 よく「発達障害の子ども達は、定型の子どもと比べて、成長がゆっくりだし、その分、丁寧に時間をかけて教えていくことが大事だ」なんてことが言われます。 しかし、そんなエビデンスは無いし、結果がすでに出ています。 もし「手厚い支援」が有効なら、支援学校のほうが普通学校にいる子ども達よりも発達、成長し、卒業後は自立的な生活を送っているはずです。 でも、まったくもってそんなことはなく、むしろ「手厚い支援」を受けて育っていく子のほうが自立から遠ざかっています。 それは支援学校卒の子と、普

【No.1153】定型発達の子ども達は教える前に自然とできている

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子どもさんが描く絵には、「そのときの発達の状態」と「どのように世の中を見ているか」がそのまま表れます。 といった話を方々でしていますので、発達相談において「絵を見てほしい」と見せられる親御さんも多くいらっしゃいます。 大まかに分けてヒトを描く前と描く後があり、ヒトを描く前は手や指の可動範囲、発達状態が表れ、ヒトを描き始めてからは身体、感覚の発達状態、そしてヒトの周りに何を描くかに、本人の視界の中に認識しているものは何なのかが表れます。 時々、「こうやってヒトは描くんだよ」「周りにはこんなものを描くんだよ」という指導がされて、その通り描く子もいますが、そういった場合はすぐに分かるものです。 どの絵を見ても、構図が一緒ですから。 つまり、「教わった通りの絵を再現する」というパターン学習ですね。 子どもが自由に描く絵の中に、その子のそのままが表れるのです。 ちなみに車や建物、数字や文字ばかりで、ヒトが描かれないお子さんは、周囲にいるヒトが認識されていない傾向が強くあります。 あと細かく言えば、「目」一つとっても、どのように描いているか、で状態が異なります(黒く塗っている。白目があるか。向きや大きさ、左右の目の違いなど) 子どもと関わる仕事をしている人で、また親御さんの中にも、勘違いされている、知られていないんだな、と思うことがあります。 それは道具の使用についてです。 もちろん、初めてその道具を触る子ども達にとっては、最初に"教える"という行為が必要ですが、「何度も練習してできるようになる」という考えは間違えだと言えます。 たとえば、箸ですが、「子どもは箸の練習をするから、箸が使えるようになる」と思っている人がいるかもしれません。 しかし、それは定型発達の考え方ではないのです。 一般的な子ども達というのは、箸を渡したらすぐにそれなりに正しく持つことができ、かつ食べ物をつまむことができます。 だいたい4歳前後で、そういったことが可能です。 ほとんどの子は、箸を渡した日に使えるようになるのです。 これはどういうことかといいますと、箸が操作できるだけの指、手、腕が育っている、その準備が整っているということです。 つまり、箸やスプーン、ハサミやクレヨンなど、子どもが操作できる単純な道具は、それを使用できる身体が整うと、自然と使えるようになるのです。 反対に言え

【No.1152】専門化すればするほど、切り捨てられるものが増えていく

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2019年がピークで、徐々にブームが去った感じがする栄養療法。 発達相談の中でも話題になることが多かったのが、昨年までといった感じです。 だいたい皆さん、一通り栄養療法をやってみて、効果があったご家族もいれば、そうでもなかった感じのご家族もいますね。 この2年間で気になったこととしましては、特に幼児期のお子さんですが、親御さんが栄養療法に凝り過ぎて、数値が高くなってしまった子が少なからずいた、ということです。 もちろん、数値的な問題もありますが、何よりも内臓、消化機能も育てる時期でもありますので、そんな一粒で高栄養素のものを食べ続けていたら、そっちのほうに身体が適応してしまわないか、と心配になります。 人類というか、動物全般がそうだと思うのですが、何を食べ消化吸収するかによって身体の構造が変わり、神経発達が進んできたのです。 20万年前に誕生したホモサピエンスの子ども達は、硬い肉をカミカミし、硬い木の実をかじり、それに応じて口と内臓、消化器系が発達していったのでしょう。 またこんなお話も、よく伺いました。 「みなさん、栄養療法でかなり効果が出てきているみたいだけれども、うちの子は…」という内容です。 これはBSやCSとかでやっている健康食品のCMと同じです。 「たった1粒で、こんなに痩せました!」 たった1粒でも体内になにかを摂取して体重が痩せるなら、それは毒です(笑) ふつう、食べたら増えますね、体重は。 だから、もちろん、実際にそのものを摂取するとは思うのですが、他にも食事の調整をしたり、運動をしたりしているんですね。 食事はそのサプリしか摂らない、あと運動もしない、ただ家で横になっているだけ、で痩せるのならスーパーフードかもしれませんが、そんなわけはありません。 それと同じで「栄養療法が効果あった!」というご家庭は、他にも運動したり、一緒に遊んだり、メディア視聴を制限したり、いろいろやっているんですね。 栄養素は発達の条件であって、ただ摂れば勝手に神経発達が始まるわけはありません。 しかも、食事で十分な栄養が摂れている子に、さらにプラスしてもその分、発達が加速することはないでしょう。 良いというアイディアにも範囲と限界があるものです。 範囲と限界で言えば、感覚統合や作業療法、運動療法というものにも当然ありますね。 まあ、私が勉強した範囲、私があちこちで伺った範

【No.1151】脳内隔離

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全国いろいろなところにお邪魔すると、そのたびに思うのですが、本当に「発達障害」なんていうのは曖昧で、インチキくさい話だなと思います。 だって、「えっ、あなたが発達障害って診断されたの?」という子ばかりなんですから。 そうかと思えば、「うちの市では、みんな普通級で学びます」というところもあって、また幼稚園や保育園の先生のよっては、「こういうお子さん、前からいたから、大丈夫」というようなところもある。 つまり、たとえば、北海道で「もうずっと支援の子」「重度で勉強なんかとんでもない」というような子が、関東に行けば「普通の幼稚園で大丈夫」なんて言われたりもするし、実際に隣同士の市や区で「こっちは普通級で、こっちは支援級」という話もありました。 これまたよくあるのことなのですが、「どうやって自閉症の診断がついたんですか?」「っていうか、自閉症の診断基準、満たしてます?」というのは全国どこでもあるあるです。 どうして、こんな状況になっているか、現場での混乱が生じているか、といえば、「早期診断主義」という誤った考えの氾濫が大きいと言えます。 「とにかく早期に見つけるんだ」 「早期に見つけて、すぐに専門家、支援に繋げることが良いことだ」 というギョーカイの啓発が浸透してしまっていることが原因です。 もちろん、2000年より前のほとんどの発達障害児者が重度の知的障害を持っていた時代なら、それが有効だったかもしれませんが、そうやって見つけようとして見つかる子ども達って、微妙な子ばかりです。 ひと昔前なら、発達がゆっくりな子、遅れている子、凸凹している子は、「そういう子もいるよね」と一緒に学び、一緒に遊んでいました。 そうしているうちに、発達のヌケや遅れが埋まっていき、自然と社会の中に馴染んでいきました。 今は、「早期診断」という名で、隔離が進んでいます。 市内のあちこちの公園では、児童デイの車が停まり、指導員と利用している子どものみで、鬼ごっこなんかしている。 鬼ごっこなら、同級生とやればいいのに、税金を使わず。 まあ、「とにかくPCR検査を!」というように、少しでも咳をしようもんなら検査を促すみたいに、とにかく少しでも発達に遅れがあれば、すぐに専門家につなげようとします。 しかも、それがいいことだと思っているし、実際、いいこともある。 「もう一人、職員をつけることができるから、病院に

【No.1150】「函館をノースカロライナに!」

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北海道の知事が盛んに「新北海道スタイル」なんてことを言っています。 お店に行けば、同じような標語の紙が貼られており、内容を見れば、「ただの感染予防の告知かよ」と思うものばかりです。 新北海道"スタイル"なんですから、「スキーを履いて通学、通勤!」とか、「週に1回はジンギスカンを食べよう」とか、「車での移動距離は、1時間80㎞と計算すること」とか、「黄色信号では止まらないで加速!」とかでしょ。 なぜ、感染予防ではなくて、新北海道スタイルなんだか。 国の誰かも「ニューノーマル」なんて言っていましたが、ほとんどの国民は無視。 無駄に英語を使い、何故だか生活自体を変えようとしますね。 かつて当地では、「函館をノースカロライナにしよう」ということを言っている人たちがいました。 「お店のメニューや説明などには、絵や写真をつけるようにしよう」 「自閉症の人が働くときは、ジョブコーチも一緒に雇うようにしよう」 「自閉症の人が安心して利用できるようにBGMや照明を禁止にしよう」 そんな計画(?)、夢(?)、妄想(?)を支援者と当事者、家族でしていたのです。 まさに健常者の権利や楽しみ、自由が排除された視点ですね。 当時から疑問に思っていたのですが、支援者の中には、実際にノースカロライナにいった人たちもいたんですよ、なのにそんな無責任で非現実的なことを言っている。 今思えば、支援者たちも本気でそんなことを目指していたわけではなくて、ある種の忖度だったんだな、と思います。 20年前、講演会や書籍の中では、あれだけ理想郷のように語られていたノースカロライナも、そうやった視覚支援や配慮が行われているのは関係者の内輪だけだし、当然、州全体ではなくある地域、場所に限定されていました。 当時は州の公費ですべての支援が受けれたので、それを拡大解釈して、「州全体で自閉症支援をやっている。どのお店に行っても配慮がされている」なんて勘違いしていたと思うのですが、結構信じていた当事者、親御さんは多かったです。 だけど、実際に行ったんだから、「それは違うよ」「勘違いだよ」と一言言ってもいいと思うんです。 でも、誰もそれを言わなかった。 挙句の果てに、そういった動きを応援するような(ずばり誤学習!)支援者たちもいたくらいです。 私は福祉の大学を出たわけではないのでわからないのですが、「障害者

【No.1149】自己肯定感と愛着

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以前は「自己肯定感」と「愛着(障害)」を分けて捉えていました。 でも、気がついたんです、自己肯定感の土台が愛着だと。 自己肯定感の高い愛着障害の人には会ったことがありません。 厳密に言えば、会ったには会ったんですけれども、自分を守るための偽装した自己肯定感が高かった人はいます。 自分が愛されていなかった現実から目を背けるために、「自分は価値のある人間だ」と自らに言い聞かせている感じです。 しかしこういったのは、真の自己肯定感ではないですし、自己肯定感が"高い"とはいえないですよね。 話を戻しますと、「自己肯定感が低い」と悩んでいる人の多くに、愛着障害を見ることができます。 ただ良く考えれば、そうですよね。 自己肯定感とは、自分という存在をそのまま受け入れられること。 その原始体験は、どう考えても赤ちゃん時代ですし、始まりは胎児期だといえます。 よく「無償の愛を与える」なんてことが言われますが、それは親を喜ばせるための商業的な話であって、赤ちゃんの視点に立てば、まずは身体を通した安心感、身体が「ああ、自分は守られているんだ」と感じることが自己を肯定する始まりだといえます。 子どもさんもそうですし、若者、大人の人でもいますが、言葉にならない不安感を持っている人達がいます。 ある程度、大きくなれば、言葉で「〇〇が怖い」などと言いますが、一貫性がなく、「本当にそう思っているのかな」と感じるような人もいます。 そういった人の場合、言葉は二次的な話であって、その根っこには言葉にならない不安感がある。 なんだか安心できない。 なんだか世の中が怖く感じる。 そういった言語化されない不安感、恐怖感は、言葉を獲得する前の発達段階で生じた愛着障害だと考えられます。 時々ですが、「お母さんのお腹から出るのが怖かった」という子もいるくらいです。 母胎にいるときは、母子が繋がっています。 その母親が感じることは、子も感じます。 ということは、母親が感じている不安感や恐怖感はそのまま胎児に伝わり、胎児は外の世界が怖いところだと身体が感じるのです。 そういった身体を通した記憶を持った子ども達が、社会の中でなんとなく不安感や恐怖感を感じ、同年齢と同じような体験、チャレンジをしても、その受け取り方が変わってしまう。 同じ失敗をしても、再び立ち上がろうとする子もいれば、そのまま起き上

【No.1148】親バカの言語化

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「親バカ」に説明を加えるとしたら、「根拠のない自信」だと思います。 「今、言葉はしゃべらなくても、こちらの言葉は理解している」 「この調子で発達の遅れを丁寧に育て直していけば、就学の頃には勉強できる子に育っている」 「この子は"生涯、支援の子"と言われたけれども、きっと自立できると思う」 そのような発言をする親御さんは少なくなく、実際、親御さんの言う通りに育つ子も少なくありません。 専門家に見えなかったものが見えていたわけです。 「根拠のない自信」と記すと、当てずっぽや直感などと言われそうですが、そうではありません。 親御さんは確かに何かを感じ、捉えているのです。 つまり、根拠のないというのは、言語化できない情報を得ているという意味になります。 学校から帰ってきた靴の脱ぎ方で、今日の学校での出来事がわかる。 寝る前の「おやすみ」の一言で、ぐっすり寝れるかどうかがわかる。 そういったことは、共に過ごしている家族ならわかるものです。 ただ根拠と言えるようなものはない。 ヒトという動物も、感覚系をフル活用し、常に情報を受け取り、処理して生きています。 「なんか、雰囲気が違うな」 そんな感覚的な何かを掴むとき、言葉を介さないで捉えているのでしょう。 我々が「捉えた」「理解した」というのはごく僅かであり、大部分は言葉を介さない情報の部分だと私は考えています。 敢えて長所という言葉を使いますが、親御さんの長所とはこの感覚的な情報の多さ、豊かさだといえます。 それこそ、胎児期から共に生き、互いの鼓動を感じながら生活しているのですから、圧倒的な情報を持っているのです。 ゆえに、他人がわからない未来を見ることができる、過去から現在、そして未来への流れの中で。 典型的なのは診断ですが、支援者が行うアセスメントも、見えたとこ勝負、言語化できたもの勝負になります。 よくあるのが診断やアセスメントの場面で、「この子は〇〇ですね」といった断定的な表現で言われると、親御さんの中にモヤッとしたものが生まれることがある。 このモヤッとしたものは、それまでの圧倒的な情報の中で、「そうじゃないよ」とメッセージが発せられているのでしょう。 「この子は分かってないね、お母さん」と言われても、心の中では「いや、ちゃんと理解しているはずだ」と親御さんは導き出している。 ただどうして私がそう思

【No.1147】8歳まではみんな、未発達

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発達障害とは、発達に関する【disorder】なので、なんらかの不具合が生じている状態だといえます。 そう考えると、発達に遅れが出ている状態は「障害」と言えるのだろうか、いつからどこからが障害で、障害ではないのか、そういった疑問が湧いてきます。 発達に遅れが出ている状態は、問題なのでしょうか、障害なのでしょうか。 子どもの発達で言えば、どの子も未成熟で、未発達の状態です。 生後4年間はシナプスの密度が濃くなっていき、4歳から8歳で急激な刈り込み作業が行われます。 つまり、脳の発達から言っても、この間はどの子も発達の途中であり、昨日と今日、今日と明日は異なっているのです。 ですから、その子の発達が遅れているように見えても、それは本当に遅れているのか、それがその子の発達の仕方、途中経過なのかわかりません。 そういった意味で、0歳から8歳までの子についた「発達障害」という診断名には、とくに意味がないと思うのです。 そのような意味のないもので、親御さんが落ち込み、養育力を低下させるような結果となるのなら、診断なんか止めてしまえ、と思います。 しかし現実問題として、0歳から8歳までの子に診断がつけられます。 まあ、診断がつけられるというよりも、「発達が遅れている」という指摘がされるのです。 でも、先ほど述べたように、その「発達が遅れている」状態は異常なのかどうか、曖昧だといえます。 発達が遅れていても、家庭生活や園での生活に本人が不便さを感じていなければ、その遅れは問題とはいえないでしょう。 発達が遅れていても、一応、8歳を迎えるくらいまでにその遅れが取り戻せていたら、問題なし! 私に依頼のある発達相談の子ども達の年齢は、ほとんどが8歳以下の子ども達です。 その子ども達は、診断を受けている子もいれば、受けていない子もいます。 遅れている発達も、集団の中、生活の中で問題になっている状態から、「本人は困っていないけれども…」という状態です。 ここで私が意識しているのは、その遅れが8歳以降も続くものかどうか、の見極めになります。 8歳までに発達の遅れを取り戻し、同年齢との集団生活、学校生活に支障がなければ、それは普通のお子さんです。 ただ何らかの原因やヌケがあり、一時的に発達が遅れていたように見えていただけ。 発達障害というよりも、単に育っていなかっただけ、他の子とは異なる発達の仕

【No.1146】同じ意見しか出ないとき、その裏には真実が隠されている

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「自分は言いなりじゃないぞ!」 「はっきりものを言ってやったぜ♪」 そうやって他人の悪事を表ざたにし、自らをアピールしたつもりが、「結局、騙されてんじゃん」「"こだわりがない"なら黙ってろよ」と評価を下げる。 しかも、メインじゃないところで、埼玉と千葉がただ追随しているだけの存在だとばらし、4人まとめて評価ガタ落ち。 まさに「無能」のワンボイス。 これが家庭劇なら大爆笑間違いなし。 万太郎一座にも勝てるはず。 民が頑張っているとき、何をのんきなことをしているんだと思います。 御上を信じないのが、最大の感染症対策なのかもしれませんね。 かつて発達障害啓発ブームだったとき 「あなた達が悪いんではなく、社会の理解がないのが悪いんです」 「あなたの努力が足りないのではなく、自閉症という脳の問題だったのです」 「自閉症の人の中には、素晴らしい才能があって、それを活かして生きていけばいいんです」 と講演会でも、ギョーカイ雑誌でも、メディア内でも、盛んに言われていました。 今、文字に起こしてみると、悪徳宗教のようですね。 でも、こういったメッセージをそのまま受け取った当事者の人達とその親御さん達がいたのも事実です。 当時の有名支援者たちが「自閉症の理解」に乏しかったのがよく分かります。 あれだけ自分たちで、「自閉症の人達は"字義通り"に受け取る」と言っていたのにも関わらず、こういった一側面的な意見、個人的な意見を振りまいていたのです。 ただでも人間の習性として、「最初に聞いた情報を信じやすい」というのがあるのですから、情報提供の仕方には工夫が必要です。 当時の支援者たちも、神奈川県知事と同じだったかはわかりませんが、意図せず混乱を招いたのは事実だといえます。 あの時代、真顔で「絵描きになる」「小説家になる」「ゲームソフトを開発する」「啓発活動で食べていく」と言っていた当事者の人が大勢いました。 起業当初は、こういった当事者の人達からの相談もあり、「どうしたら漫画家になれるのか」などというのもありました。 「漫画の勉強や学校に行ったことあるの?」と尋ねれば、「行ったことはない」と言い、就きたい理由を尋ねれば、「漫画が好きだから」「〇千冊くらいマンガを読んでいるから」という答えばかりでした。 また卑屈系の当事者の人からの相談も多く、自分が就職で

【No.1145】治す道は独立独歩

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高機能の子ども達が支援対象に組み込まれようとしていたその時、有名支援者はこういって全国を駆け回っていました。 「あなた達の子ども達は、犯罪者になる可能性が高いんですよ。だから家庭でもしっかり支援しなさい」 それまでの「支援」のイメージから、うちの子は支援というよりも教育だな、と二の足を踏んでいた親御さん達に、この言葉は大きな影響を与えました。 学生時代、あちこちで「うちの子、"犯罪者予備軍"と言われた」「あなた、お子さんを犯罪者にしていいんですか、と言われた」という話を耳にしました。 これは有名支援者からというよりも、有名支援者からコンサルテーションを受けた支援者たちが各家庭の親御さんに言っていた言葉でした。 当然、親御さん達からすれば、ショッキングな言葉であり、強い反発を生むことがありました。 しかしこの話は複雑です。 まず最初にそういって全国で講演やコンサルをしていた有名支援者は、ありのまま系の「自閉っ子は天使」「自閉症と犯罪は関係ない」「犯罪に繋がるのは、すべて周囲の理解が足りなかったからだ。誤った関わり方をしたからだ」と主張するグループと距離を置き、対立している人でした。 ですから、従来からの単なる理解の啓発と視覚支援に異を唱える形で、特に高機能の人たちを念頭に支援というよりも、教育の重要性を主張していたのです。 この有名支援者のコンサルや講演などを聴いていても、自閉症者に対して結構ドライでしたし、欧米重視の人だったので、自閉症者の犯罪リスクについて十分な認識はあったと思います。 私はもう施設職員として働き始めていた時期でしたが、こんな話を聴いて驚いたことがあります。 自閉症の子を持つ親同士で僻みあっている、と。 知的障害を持つ子の親御さん達は「うちの子達は、生活全般に支援が必要で大変なんだ」と言い、高機能の子の親御さん達は「うちの子達は、犯罪を犯す危険があるんだ」と言う。 お互いが自分たちの方が大変だと言い、一方を「(あなたの子、あなたの子育ては)ラクでいいわね」と言っている。 同じ自閉症の子を持つ親同士で、どうしてこんなことを言い合うようになったのか、とそれぞれの親御さん達から話を聞くたびに思ったのでした。 もちろん、親御さん達の捉え方はそれぞれで、「犯罪者になる危険性がある子よりも、生活全般の手助けが大変だけど、うちの子のほうがいい

【No.1144】不具合な状態が重いか軽いか

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ジムのトレッドミル(ランニングマシーン)の前にはずらっとテレビが並んでいて、以前の私はそれを見ながら走っていました。 でも、どの画面を観ても、マスク姿や意味があるのかわからないような衝立が映るから、もう目にするのもうんざりになり、Bluetooth(おじさんも言いたいだけw)のイヤホンを買ってYouTubeを聴くようになりました。 そういえば、そのアクリル板、どうするんでしょうかね、コロナ騒動が終わったら。 全国に大量のアクリル板とかが捨てられ、ちょうど昨晩はプラスチックごみの特集がやっていたようですが、一方で「プラスチックごみガー」とやり、もう一方では大量のアクリル板を立てて番組をやっている。 飲食店は間隔をとるために席を開けて頑張っているのに、今朝の国会中継では危ないといわれている高齢者たちが席を詰めて座っている。 数年後、報道番組で「アクリル板の不法投棄」「大量に捨てられるコロナ対策で使われた物たち」なんてやったら張り倒しますよ、根拠なく煽りに煽ったメディアを。 話がそれましたが、YouTubeで落語とか、野球関係の番組とか、有識者の話を聴いて筋トレしたり、走ったりしています。 すると、ホーム画面にお勧め番組が出るのですが、時々、自閉症とか、発達障害関係の番組が上がってくるんです。 しかもビックリすることに、たぶん、親が作っているんでしょうけれども、子どもの顔が丸わかりの番組を上げている人がいる。 私は詳しくないのでわからないのですが、その番組を検索したわけでもない私のホーム画面に上がるということは、見ず知らずの人達、しかも世界中の人が目にする可能性があるってことですよね。 うちの子、小学生ですが、メディアリテラシーの授業があって、この前は「自分の本名をあげてはならない」「顔が映るなどの写真、動画を上げることは危険を伴う」と教わってきていましたよ。 お勧めに上がっていた何名かの動画をちょっと観ましたが、タイトルのわりに育てられる部分ばかり、それは自閉症の特性ではなくて発達の遅れ。 動画編集や配信している暇があるのなら育ててしまえば早いのにと思いますが、どうもその感覚がわかりません。 だって、未発達やヌケの部分を育ててしまえば、一般の人として育ち、社会の中で生きていくんですよ。 その子が大人になって、このYouTubeを観たとき、「僕も小さい頃はかわいかったな」