【No.1149】自己肯定感と愛着

以前は「自己肯定感」と「愛着(障害)」を分けて捉えていました。
でも、気がついたんです、自己肯定感の土台が愛着だと。


自己肯定感の高い愛着障害の人には会ったことがありません。
厳密に言えば、会ったには会ったんですけれども、自分を守るための偽装した自己肯定感が高かった人はいます。
自分が愛されていなかった現実から目を背けるために、「自分は価値のある人間だ」と自らに言い聞かせている感じです。
しかしこういったのは、真の自己肯定感ではないですし、自己肯定感が"高い"とはいえないですよね。


話を戻しますと、「自己肯定感が低い」と悩んでいる人の多くに、愛着障害を見ることができます。
ただ良く考えれば、そうですよね。
自己肯定感とは、自分という存在をそのまま受け入れられること。
その原始体験は、どう考えても赤ちゃん時代ですし、始まりは胎児期だといえます。
よく「無償の愛を与える」なんてことが言われますが、それは親を喜ばせるための商業的な話であって、赤ちゃんの視点に立てば、まずは身体を通した安心感、身体が「ああ、自分は守られているんだ」と感じることが自己を肯定する始まりだといえます。


子どもさんもそうですし、若者、大人の人でもいますが、言葉にならない不安感を持っている人達がいます。
ある程度、大きくなれば、言葉で「〇〇が怖い」などと言いますが、一貫性がなく、「本当にそう思っているのかな」と感じるような人もいます。
そういった人の場合、言葉は二次的な話であって、その根っこには言葉にならない不安感がある。
なんだか安心できない。
なんだか世の中が怖く感じる。
そういった言語化されない不安感、恐怖感は、言葉を獲得する前の発達段階で生じた愛着障害だと考えられます。
時々ですが、「お母さんのお腹から出るのが怖かった」という子もいるくらいです。


母胎にいるときは、母子が繋がっています。
その母親が感じることは、子も感じます。
ということは、母親が感じている不安感や恐怖感はそのまま胎児に伝わり、胎児は外の世界が怖いところだと身体が感じるのです。
そういった身体を通した記憶を持った子ども達が、社会の中でなんとなく不安感や恐怖感を感じ、同年齢と同じような体験、チャレンジをしても、その受け取り方が変わってしまう。
同じ失敗をしても、再び立ち上がろうとする子もいれば、そのまま起き上がれなくなる子もいる。
目の前に高い壁があれば、「よし登ってやろう」とする子もいれば、その場に立ち尽くす子もいて、その場から立ち去ってしまう子もいる。
私はそういった子ども達の違いを見るたびに、身体の記憶が背中を押すこともあれば、足を引っ張ることもある、と感じます。


何かを達成したとき、自己肯定感は高まると考えられています。
「算数のテストが100点だった」
「逆上がりができるようになった」
「一番に給食を食べ終わった」
だから、特別支援の世界では、やたらと簡単な課題をさせ、スモールステップという名のお子様扱いをし、一方で失敗や叱るということを避けようとします。
だけれども、こういったのはすべて小手先の戯れで、自己肯定感の表面的な解釈でしかないと思うのです。


どんなに後天的に周囲が頑張っても、環境を準備し調整したとしても、愛着形成という土台が培われていないと、自己肯定感は高まるはずはありません。
原始的な身体の記憶がネガティブなものである限り、常にチャレンジに怯え、いや、世の中そのものに怯え続けている。
反対に、そういった原始的な記憶がとても心地良く、安心感に満ちていれば、目の前に現れた試練も、壁も、遊びになる。
愛着という発達は、子どもの遊ぶ姿に一番表れるからです。


伸びやかに遊びまわっている子には、「自分は愛されている存在だ」「守られている存在だ」という感覚、身体の記憶があります。
一方で、同じ場所から動けない子、母親の存在感を視覚と触覚、嗅覚で何度も確かめる子、まったく離れることができない子もいて、やはり母親から少しでも離れた世界が怖いものであると身体が訴えているようにみえます。
人間の最初のチャレンジは遊びの中にあり、純粋に遊びと感じるか、自分に対する試練と感じるかは、身体の記憶によるところが大きい。


自己肯定感という言葉には、「自己」という言葉が付いています。
その「自己」とは本人のことであり、その本人が感じるのは身体を通してです。
ですから「自分はかけがえのない存在である」と感じるのは、本人の身体。
その身体からのメッセージが肯定的なものでない限り、後付けで褒めようとも、ご褒美を与えようとも、自らを肯定することができません。
そういった意味で、自己肯定感の土台は愛着形成なのです。
自己肯定感だけを取り上げて、別個に対処しようとしても無理。
自己肯定感は課題の調整、環境の調整、褒め方の工夫ではどうしようもなくて、つまるところ、愛着という発達をどうするか、そのヌケをどう育てていくか、の話なんだと思います。


愛情をたっぷり受け取った身体記憶のある人は、世の中に対する安心感が違います。
まるで小さい子が外を駆け回って遊んでいるかのように、学校や職場、社会の中で伸びやかに生きています。
試練は遊びで、立ちはだかる壁は突破することに快感を覚える。
嫌な出来事に出会っても、揺るがない強さを持っている。
だって、この社会は安心できるところだから。
自分の身体が安心感を記憶しているから。
身体の記憶、原始的な記憶は、言葉では塗り替えることができませんね。




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