【No.1144】不具合な状態が重いか軽いか
ジムのトレッドミル(ランニングマシーン)の前にはずらっとテレビが並んでいて、以前の私はそれを見ながら走っていました。
でも、どの画面を観ても、マスク姿や意味があるのかわからないような衝立が映るから、もう目にするのもうんざりになり、Bluetooth(おじさんも言いたいだけw)のイヤホンを買ってYouTubeを聴くようになりました。
そういえば、そのアクリル板、どうするんでしょうかね、コロナ騒動が終わったら。
全国に大量のアクリル板とかが捨てられ、ちょうど昨晩はプラスチックごみの特集がやっていたようですが、一方で「プラスチックごみガー」とやり、もう一方では大量のアクリル板を立てて番組をやっている。
飲食店は間隔をとるために席を開けて頑張っているのに、今朝の国会中継では危ないといわれている高齢者たちが席を詰めて座っている。
数年後、報道番組で「アクリル板の不法投棄」「大量に捨てられるコロナ対策で使われた物たち」なんてやったら張り倒しますよ、根拠なく煽りに煽ったメディアを。
話がそれましたが、YouTubeで落語とか、野球関係の番組とか、有識者の話を聴いて筋トレしたり、走ったりしています。
すると、ホーム画面にお勧め番組が出るのですが、時々、自閉症とか、発達障害関係の番組が上がってくるんです。
しかもビックリすることに、たぶん、親が作っているんでしょうけれども、子どもの顔が丸わかりの番組を上げている人がいる。
私は詳しくないのでわからないのですが、その番組を検索したわけでもない私のホーム画面に上がるということは、見ず知らずの人達、しかも世界中の人が目にする可能性があるってことですよね。
うちの子、小学生ですが、メディアリテラシーの授業があって、この前は「自分の本名をあげてはならない」「顔が映るなどの写真、動画を上げることは危険を伴う」と教わってきていましたよ。
お勧めに上がっていた何名かの動画をちょっと観ましたが、タイトルのわりに育てられる部分ばかり、それは自閉症の特性ではなくて発達の遅れ。
動画編集や配信している暇があるのなら育ててしまえば早いのにと思いますが、どうもその感覚がわかりません。
だって、未発達やヌケの部分を育ててしまえば、一般の人として育ち、社会の中で生きていくんですよ。
その子が大人になって、このYouTubeを観たとき、「僕も小さい頃はかわいかったな」なんて思いますかね。
個人情報だだ洩れで、しかも、さあ、一般の人として生きていこうとしているとき、これがネット上に残り続け、自分の意思とは関係ないところで告知が行われている。
進学や就職の際、「あなた、発達障害だったの」って、思いもよらない人から指摘されることって、それが結果に影響することって、ないとも限らない。
ということは、その動画を上げている人からしたら、映っている我が子はずっと自閉症のままだし、ずっと発達に遅れが出たまま、という認識なんだと思います。
まさにギョーカイの啓発がもたらした負の遺産です。
ついでに言うと、こちらはギョーカイの負の遺産というよりも、親御さん、支援者その人の問題なんでしょうが、とにかく「この子は重い」という人たちがいます。
親御さんとかともお話していて、「このお母さんは、我が子が重いほうが良いのだろうか」「できるだけ"重度"と私に言ってほしいのだろうか」と思うことがあります。
過去にも何度か記事にしましたが、「大変な我が子を育てている自分」を演出している場合もありますし、先に保険を掛けている場合もあります。
保険というのは、「重たいんだから、全部育てられなくても、治らなくても、責めないでね」という先回りの保険です。
あと自分の手柄の場合も。
発達障害の子ども達の中に「重い子」ってどれくらいいるのだろうか、と思います。
発達のヌケや遅れが大きい子がいて、それを「重い」という場合はあるでしょうが、それはその子が重いのではなくて状態が重いんですね。
発達は常に変化しますし、特に子どもの時期は1ヶ月後には課題がクリアされているなんてことは当たり前です。
発達障害は、発達に不具合が起きている"状態"を指しているので、重いとか軽いとか人にくっつけて言うこと自体不適切。
この発達障害児における「重い(または軽い)」というのは、昔からすこぶる評判が悪かったのを思い出します。
自閉症協会の中でも、高機能部と知的障害のある部ではお互い悪口を言っていましたし、他の障害種である肢体不自由の子の親御さん達からは発達障害全般に対して批判的な意見が出ていました。
「どこが重いんだ。重いって言うのは、私達の子みたいな子のことを言う」
そりゃそうです。
胃ろうや呼吸器が必要だったり、24時間たんの吸引、2時間おきの体位変換が必要だったり…。
今日一日、生きること自体が大変な子ども達の親からすれば、自分で移動や食事、排泄ができ、勉強や遊ぶことができる子のどこが「重度か」という気持ちもわかります。
どう考えても障害という括りの中で発達障害は限りなく軽い方に入ります。
というか、そもそも"障害"ではなくて、不具合な"状態"という意味です。
それは【disorder】を調べればわかります。
また私は肢体不自由、遺伝子の疾患、病弱児との関わりがありましたし、施設ではそれこそ「重い」と言ってしまうような人たちとの関わりがありました。
食べ物か食べ物ではないかの区別ができない。
自分を傷つけ続け、生命の危険が及ぼうとも、自分で制御することができない。
寝ることも、排泄することも、自らで行うことができない。
家や地域、他人と共に生活できない人が施設に来るわけで。
発達のヌケや遅れ、運動や感覚系の未発達はどのように育てたら良いかがわかる時代になりました。
だから、今の子ども達が大きくなったとき、一般の人として生きていく人も多いでしょうし、自分自身で発達障害者として生きるかどうかを決める日が来る人も多いと思います。
そんなとき、前世代の考えや、ギョーカイの啓発活動による負の遺産を引っ張った写真や動画が残っていたらどうでしょうか。
本人の意思に反して「発達障害者」「自閉症者」として生きなければならない子どもがいたのなら、私は悲しく思います。
そしてそのような子が出ないように、ちゃんと親御さん達に伝えていかなければならないと思っています。
発達障害を障害とか、特別支援とかの括りから出したいですね。
子育ての世界に戻したい。
それぞれの家族が想い想いの子育ての中で、よりよく子が育っていくのが理想ですし、自然な姿だと思います。
重いとか軽いとか、発達障害とか自閉症とか、そういった言葉が使われなくなったとき、やっと等身大の子どもを見ることができるようになるのでしょうし、子ども自身も自由に、伸びやかに子ども時代を過ごせるようになるでしょう。
目の前にいるのは大切な我が子ですし、未来ある子ども達。
あるのは発達が抜けたり、遅れたりする状態だけで、その状態は刻々と変化していきますね。
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