【No.1148】親バカの言語化
「親バカ」に説明を加えるとしたら、「根拠のない自信」だと思います。
「今、言葉はしゃべらなくても、こちらの言葉は理解している」
「この調子で発達の遅れを丁寧に育て直していけば、就学の頃には勉強できる子に育っている」
「この子は"生涯、支援の子"と言われたけれども、きっと自立できると思う」
そのような発言をする親御さんは少なくなく、実際、親御さんの言う通りに育つ子も少なくありません。
専門家に見えなかったものが見えていたわけです。
「根拠のない自信」と記すと、当てずっぽや直感などと言われそうですが、そうではありません。
親御さんは確かに何かを感じ、捉えているのです。
つまり、根拠のないというのは、言語化できない情報を得ているという意味になります。
学校から帰ってきた靴の脱ぎ方で、今日の学校での出来事がわかる。
寝る前の「おやすみ」の一言で、ぐっすり寝れるかどうかがわかる。
そういったことは、共に過ごしている家族ならわかるものです。
ただ根拠と言えるようなものはない。
ヒトという動物も、感覚系をフル活用し、常に情報を受け取り、処理して生きています。
「なんか、雰囲気が違うな」
そんな感覚的な何かを掴むとき、言葉を介さないで捉えているのでしょう。
我々が「捉えた」「理解した」というのはごく僅かであり、大部分は言葉を介さない情報の部分だと私は考えています。
敢えて長所という言葉を使いますが、親御さんの長所とはこの感覚的な情報の多さ、豊かさだといえます。
それこそ、胎児期から共に生き、互いの鼓動を感じながら生活しているのですから、圧倒的な情報を持っているのです。
ゆえに、他人がわからない未来を見ることができる、過去から現在、そして未来への流れの中で。
典型的なのは診断ですが、支援者が行うアセスメントも、見えたとこ勝負、言語化できたもの勝負になります。
よくあるのが診断やアセスメントの場面で、「この子は〇〇ですね」といった断定的な表現で言われると、親御さんの中にモヤッとしたものが生まれることがある。
このモヤッとしたものは、それまでの圧倒的な情報の中で、「そうじゃないよ」とメッセージが発せられているのでしょう。
「この子は分かってないね、お母さん」と言われても、心の中では「いや、ちゃんと理解しているはずだ」と親御さんは導き出している。
ただどうして私がそう思うのか、言語化できないから、その場で終わって帰ってしまっているのが往々にしてあることだと思います。
親御さんの中には言語化できない状態を、「ただの親の直感だ」「私は素人だし」と言語化し収めようとしている人もいますが、もともと言語化されるものなんて微々たるものなのです。
たった1時間、2時間の検査で、どうしてその子の未来が予想できるでしょうか。
診断も、アセスメントも、すべてその場で確認できるもの、言語化できるもので判断されています。
発達が遅れている状態はわかるけれども、なぜ、遅れているのか?
この遅れは病的なものなのか、何が背景なのか?
この状態は今後も続くものなのか、いつ育つものなのか?
そんなもの、専門家も、支援者も分かるわけがないのです。
今の状態をある基準と比べてどうか、と言っているだけであり、それが専門家の限界だから。
なので、発達の遅れの理由、背景を尋ねても、「脳の機能障害だから」「生まれつきの障害だから」としか返ってこないでしょ。
我が子の将来のことを尋ねても、「将来を考えるよりも、今を大切に」とか意味不明な講釈を垂れるでしょ。
ひと昔前は、「自閉症の人は、場所が変わるとできなくなる」とそれがあたかも特性かのごとく言われている時代がありました。
しかし、今考えてみれば、それは情報の取り方の狭さと典型的なパターン学習のマリアージュでした。
そしてその背景には、支援者側の情報の狭さもあったのでしょう。
生活の中心、受精から続く人生の流れは、家庭の中にあり、それを捉えているのは親御さん。
そこを断ち切り、学校は学校のアセスメント、施設は施設のアセスメントとやって、それぞれで支援を組み立てていくから、その場対応のパターン学習が成り立っていくのだと思います。
24時間、寝食を共にするという施設職員という仕事を通して、自閉症や障害を持った人のことを「私は何も知らなかった」と数え切れないくらい感じました。
それまで大学や研修、専門書で学んできたことは、ごく一部であり、ある側面を部分的に照らしただけの情報でしかないことがわかりました。
一方で、胎児期から共に生きている家族、親御さんには敵わないと思いましたし、その親御さん達の力を活かさないのはもったいないと考えました。
それが現在の家庭支援という形に繋がっています。
本来、アセスメントの主は、親御さんだと思います。
どう考えても、圧倒的な情報を持っているのは親御さんなのですから、それを無視するのも、活かさないのも間違えです。
親御さんの捉えている言語化できない子どもさんの「状態」「症状」「行動」「発達」「感覚」などを言語化するのが専門家の役割ではないでしょうか。
親御さんが気づいていない何かをズバッと見抜いて指摘するのが専門家というイメージがあるかもしれませんが、それは違っていて、親御さんが気づいていないもの、感覚的に捉えてきれていないものが他人にわかるわけはないのです。
私達ができるのは、親御さんの「親バカ」をより強い親バカにしていくことだと思います。
つまり、根拠のない自信の"根拠"の部分を言語化することです。
見えないものを見るというよりも、親御さんが見ているけれども言語化できないものを言葉にするお手伝い。
感覚と言葉を結びつけることで、理解が深まり、また次の行動、より良いアイディア、選択へと向かうことができます。
専門家・支援者と親御さんとでは、圧倒的な情報量の差がありますので、日々の生活の中で感じる「おやっ」「あれっ」「もやっ」を大切にしていただきたいと思います。
きっとそこには、共に生きてきた家族だからこそ、感じ、捉えられている感覚的な情報、非言語的な情報があるはずです。
そしてそこが発達援助の入り口になることが多いのですから。
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