投稿

11月, 2013の投稿を表示しています

継続できない支援は誰のせい?

熱心で、情熱あふれる支援者から他の人に変わった途端、適応できなくなる子どもがいる そんなとき 「前の支援者が良かった」 「次の支援者はダメだ」 と言うのはちょっと待ってほしい どんなに勉強熱心な支援者だったとしても どんなに療育に情熱を燃やす支援者だったとしても 「他の支援者が継続できない支援をやっていた」ということにならないだろうか 特定の支援者が関わっている間だけ、療育がうまくいったり、落ち着いていられたりすることがゴールではない 支援者は常に「自分が支援に携わらなくなったとき」のことを頭に入れておく そんな"将来"と"今"の姿を見ながら支援ができる人が、「真の支援者」ということができないだろうか 特定の支援者しかできない療育や支援を行ったとしても、それは"一時期"にしなければならない 一人の人間が一生その子の支援に関わるわけではないのだから

「注射、痛くないよ」と言ったら、嘘つきになりますよ(笑)

インフルエンザの予防接種を受けてきました。 やっぱり痛いですね。 いくつになっても注射は嫌なもんですね。 施設で働いていたとき、子どもたちの注射の付き添いは大変でした。 みんなり痛いことはわかっているから、診察室に入るだけで嫌がります。 泣き叫ぶ子、逃げようとする子がたくさんいました。 こんなとき、「痛くないから大丈夫」と気を紛らわすような言葉を掛けたくなりますが、私は敢えて「注射は痛いよ」と伝えるようにしていました。 だって、注射は痛いもん! 自閉症の人に「痛くないよ」と言ったら、終わったあと「嘘つき」と言われても仕方がありません。 私が「気を紛らわせるために言った」なんて、子どもたちは説明しないとわからないと思います。 ただ「嘘をつかれた」というマイナスな感情しか残らない可能性が高いです。 好意で言ったつもりでも、すぐに悪者扱いされます(涙) だったら始めから「痛い」という事実を伝えます。 でも、「痛い」だけのメッセージを伝えるだけではなく、「終わり」も伝えるようにします。 どんな注射でも3秒くらいで終わります。 自閉症の人は先が見えない不安を感じることがあります。 この注射の場合ですと、「いつまでこの痛いことが続くのか」が分からず、不安に思っている部分も大きいと思います。 ですから、「1・2・3」とカウントを数えたり、視覚的に伝えたりすることで、注射の終わりを伝えます。 終わりが分かることで、不安の軽減につながります。 注射をすると痛いので、「痛い」という事実はきちんと伝えます。 (中には「痛くない」と教わったのに、自分は痛いと感じたので、自分はおかしい、または病気じゃないかと真剣に悩む人もいました) また痛かったとしても、必ず終わりがあることを伝えます。 「終わりが見えるから、頑張れる」というのは、私たちも一緒です。 注射が苦手なお子さんがいましたら、参考にしていただければと思います。

質問攻めの我が子に「"人間"ってテキトー」を教える

こんなことを書いたら、お叱りを受けるかもしれません。 「人間ってテキトーなんだよ」って自閉症の人たちに教えることも大切かなと思っています。 よくお母さんに質問しまくる自閉症の子どもの話を聞きます。 最初、お母さんは真剣に答えるのですが、途中から疲れたり、他の用事があったりすると、だんだんテキトーな返事になったりします。 すると、子どもはこういうときの察しは良く、すぐにお母さんがテキトーになっていることに気が付きます。 「お母さんは真面目に答えていない!」 「お母さんは話をすぐに忘れてしまう!!」 「お母さんはわからないことが多すぎる!!!」 などと、文句を言ったり、怒ったりします。 でも、私はこのような経験も大切なのではないか、と考えています。 自閉症の人たちは、"相手の立場にたって物事を考える"といった想像することが苦手なため、自分基準で物事を考えてしまう傾向があります。 また、他人とのやり取りに関しても、パターンを作り、それに当てはめようと傾向もあります。 ですから、上記のような場合、お母さんはいつでも話を聞いてくれて、自分の疑問を解決してくれると、子どもの方は思っているのでしょう。 しかしだからと言って、子どもの要求にすべて応えていては、お母さんの方がダウンしてしまいます。 またお母さんがすべての要求に応えられたとしても、現実社会ではすべての要求に応えてくれる人はほとんどいません。 ですから、お母さんは肩の力を抜いて、「人間ってテキトーなんだよ」って教えてあげれば良いのだと思います。 ある自閉症の方が、子どものときからずっと親との関係が良くなかったが、「親も人間なんだ。ダメなところもある完璧な人間ではない」と自分が気が付いてから、徐々に良い関係を築けるようになった、というお話を聞きました。 私たちが成長する過程の中で気が付いていく人間の本性というべき部分も、自閉症の人たちは教わらないとわからないのだと思いました。 「お母さんは真面目に答えていない」と言われたら、「お母さんは子どものときから不真面目で評判でした」 「お母さんは話をすぐに忘れてしまう」と言われたら、「そろそろ物忘れが始まったかな」 「お母さんはわからないことが多すぎる」と言われたら、「その話に興味がないからね~」 などと、切り替

恐怖や不安も見方を変えれば、興味関心

特定のものに対して、強い恐怖を持つ方がいます。 雷や地震、病気や菌など・・・。 周りの人がいくら大丈夫だと説明しても、何度も気になることを質問したり、過度に避けたり、不安になったりすることがあります。 ひとたび、このような状態になったら、周りが何を言おうとも自分が納得しない限り落ち着くことは難しくなります。 「忘れなさい」と気をそらそうとしても、「大丈夫だから」と安心させようとしても、頭の中はその事柄のことでいっぱいになっています。 ですから、私はそのような状態になった人たちに対して、自分でとことん不安になる事柄について調べてもらうように導くようにしています。 雷が気になるなら、雷が起きる条件や起きやすい場所、起きたときの対処法、雷の威力、天気予報などを調べてもらいます。 病気が気になるなら、気になる病気が初めて見つかったときのこと、なりやすい条件、病原菌の種類、治療法などを調べてもらいます。 自閉症の人たちは、分からないものに対して強い恐怖を感じることがあります。 気をそらそうとしたり、不安を打ち消そうと周りがしても、本人が納得しない限り、恐怖や不安がなくなることはありません。 本人が気づいていない事柄で恐怖や不安を感じそうなものがあれば、周囲の人の配慮によって遠ざけることは有効な支援だと思います。 しかし、いったん恐怖や不安を感じたのなら、その事柄についてとことん知ってもらうことが良いと考えています。 その"知る"という行為が、自閉症の人たちに合った恐怖や不安を克服する方法の一つです。 恐怖や不安も見方を変えれば、本人にとって興味関心があること。 対象が恐怖や不安のものであっても、興味関心を制限するのではなく、活用する方法が自閉症支援の基本になります。

「障害者雇用率が過去最高」の記事に思う

今朝の新聞に「企業で働く障害者が初めて40万人を超えた」という記事が載っていました。 その要因としては、今年の4月から障害者の雇用義務(法定雇用率:1.8%→2.0%)が強化されたことが挙げられていました。 実際に企業の中で働く障害を持った人たちが増えたという事実は、望ましい変化だと思います。 しかし、その増加した数字の背景に、数字のために雇われた人たちがいないかが心配になります。 本人にできることはあるのに、簡単な仕事しか与えられない。 または、まったく仕事を与えられない。 一般採用の人たちとは異なるいつまで経ってもキャリアアップできない仕組み。 低賃金と雇用の不安定さ。 このような話を見聞きします。 企業に就職できたことがゴールではないと思います。 賃金を得ることも重要ですが、自分の力を発揮し、安心して働けることがより豊かな人生につながっていくのだと思います。 法定雇用率の強化は入口を広げることです。 その入口を通ったあとの働く環境を整えることも同じように大切なことだと思います。 就職したものの、職場に障害を持った人の理解がなければ、力を生かして働き続けることができません。 障害を持った人も、他の職員と同じように能力によってキャリアアップできる仕組みがなければ、意欲をもって働くことができません。 障害を持った人たちが自分の能力を生かし、企業や社会に貢献しているという実感を持てるような働き方ができる仕組みも強化していかなければなりません。 そうしなければ、「数字だけの話に終わってしまう」と今朝の新聞を読み、感じました。

道徳教育と自閉症の子どもたち

道徳が教科に格上げされると、「自閉症の子どもたちは大変だろうな」と危惧しています。 それは授業についていけないからという理由ではありません。 むしろ他人の行動を客観的に分析することは得意ですし、どんな行動が望ましいか、または望ましくないかなど、よく知っている自閉症の子どもも多くいます。 点数化されて評価されるなら、良い成績を取る子も多いと思います。 私が危惧している部分は、学校で教えられる"規範"にこだわりすぎないか、という点です。 先生から教わったり、文字になって教わったりすることは、自閉症の子どもたちの頭の中には強く残ります。 物事を白か、黒かではっきり区別する傾向や例外を想像することが苦手な特性を持つ自閉症の子どもたち。 きっと学校で教わった規範をきちんと守ろうとするはずです。 しかし、現実の社会では例外や守らない人、状況があります。 また自分自身、教わった規範通りに行動できないこともあります。 このようなとき、自閉症の子どもたちは混乱したり、苦しんだりするかもしれません。 他人が学校で教わった規範から外れた行動をとってしまった場合、その人のことを許せなかったり、実際に叱責してしまうかもしれません。 自分自身が規範から外れた行動をとってしまった場合、「自分は守れないダメな人間だ」と自己嫌悪や罪の意識に苛まれてしまうかもしれません。 本来、ルールや基準を守ることは自閉症の人たちにとって得意なことであります。 ですから望ましいルールや正しい基準を教えることは、自閉症の人たちの学び方に合っていますし、生きていく上で必要な適応力をつけていくのに効果的だと言えます。 (*教わっていないことは、自分なりのルーティンを築いてしまうことがあるので、その前に望ましい行動や考え方を伝えるといった点でも有効) しかし、特に自分以外の人と関係するルールや基準は、必ずしも決まった通りにならないことがありますので、きちんと例外や状況によっては基準通りにならないことも教える必要があります。 道徳が教科になることによって、望ましい規範を多く学べることは良いと思いますが、今まで以上に自閉症の子どもたちが規範にこだわり過ぎて疲れたり、辛い思いをしたりしないか、心配しています。

お互いがんばるべ!

自閉症支援において、「絶対受容」も、「全否定」もない。 お互いの妥協点を見つけていくことが基本だと考えている。 「どうやって生きていけば良いの?」という疑問に、絶対受容は答えてはくれない。 一生、一人で生きていけるのなら、絶対受容でも構わないかもしれないが、現実は一人で生きていくことはできない。 絶対受容だと、自閉症の人たちは"こだわり"と"反復"の世界から出られなくなる。 このような世界の中にいればいるほど、この世界に応じた脳になり、変化をますます受け入れられなくなる。 「どうやって生きていけば良いの?」という疑問に、全否定も答えてはくれない。 やってはいけないことを教わったからといって、反対のどうすれば良いのかを想像することは自閉症の人たちの苦手なこと。 望ましい行動や考え方を具体的に教わることが、自閉症の人たちに合った学び方。 "否定"は、即自己否定につながってしまう危険性がある。 これもまた自閉症の特性に関連すること。 なぜ、相手は否定したのか、その意図をくみ取ることが苦手。 言葉に強く注目してしまい、その他の状況や関連した情報に注目することが苦手。 定型発達も、自閉症者も、お互いに努力していくことが大切。 それが"共に生きる"ってこと。 「自閉症だから許してね」の世界も、「定型発達に合わせろよ」の世界もない。 あるのは、お互いの長所を活かし合う世界だと思う。

実は別の選択肢もあるんです

注意するときと同様に、アドバイスするときも気をつけないといけないことがあります。 それは、こちら側としたらアドバイスしているつもりなのに、相手の自閉症の人には「指示された」と受け取る可能性があるということです。 例えば、疲れた様子に見えた家族から「明日はゆっくり休んだ方が良いんじゃない」と言われた場合、私たちは家族からの"アドバイス"というように受け取ることができます。 また、家族が自分のことを気遣ってくれていることも察することができます。 自分も休んだ方が良いと思えば、明日はゆっくり休むかもしれませんし、やらないといけないことがあれば、出掛けたり、仕事をしたりするかもしれません。 しかし、もし自閉症の人が同じように家族から「明日はゆっくり休んだ方が良いんじゃない」と言われたら、「明日はゆっくり休まなくてはいけないんだ」と捉えてしまう可能性があります。 それは家族の人がなんでそのような言葉を言ったのか、言葉以外から読み取ることが苦手ですし、他の選択肢を自ら導き出すことも苦手だからです。 このことは自閉症の人たちの苦手な"想像"に関係しています。 他の選択肢を想像することが難しかった場合、「明日はゆっくり休む」という選択肢しか目の前にないということになります。 そうなると、必然的に明日はゆっくり休むことになります。 例え明日、自分の予定ややりたいことがあったとしても、休む方を優先してしまうこともあると考えられます。 「どんなことを言われたとしても、すべて"指示"に受け取ってしまう」と発言する自閉症の人たちは少なくありません。 自分だったら、指示され続けられる毎日を送りたいと思うでしょうか? そうならないためにも、自閉症の人にアドバイスするときは、 「私はあなたが疲れているように感じるから、明日は休んだ方が良いと思うよ」というようにアドバイスする側の意図を伝えるか、 「明日は一日ゆっくり休むという過ごし方と、午前中はゆっくり休んで午後から活動をするという過ごし方があるけど、どちらが良いと思う?」というように選択肢を複数提示する方法が良いと考えられます。 良かれと思ったアドバイスが相手にうまく伝わらないこともありますので、アドバイスの方法も自閉症の人たちの捉え方に合わせ

注意するときは一言添えて

注意するとき、 「私はあなたのことを大切に思うから言うけど」 「あなたが成長してほしいと思って言っているのだけれど」 「同じ失敗をしてほしくないから」 など、きちんと注意する理由を言っていますか? 「そんなことわざわざ言う必要あるの?」という声が聞こえてきそうですが、結論から言うと必要なんです! 自閉症の人たちは一点集中型なので、注意された言葉自体に強く注意を向ける傾向があります。 例えば、「忘れ物しないように気をつけなさい」と注意された場合、「わすれものしないようにきをつけなさい」という言葉ばかりに注目してしまうため、ただ注意されたという印象しか残らないことがあります。 その結果、自分は否定された、ダメな人間だ、などと捉えてしまうことがあります。 これは特に自尊心が低い方によく見られる傾向です。 定型発達の人たちは、言葉以外にも注目するため、相手の表情や状況からどの程度の重みがあるのか、相手が自分のことを思って注意してくれているのか、などを読み取り、想像することができます。 よって、注意する意図を伝える必要性は低いかもしれません。 しかし、自閉症の人たちは言われていないことに気が付きづらい傾向があります。 ですから、注意するときには「私はあなたのことを大切に思うから言うけど」など、注意する意図をきちんと伝える必要があります。 その一言によって、自閉症の人たちが誤解を招くことや自尊心を傷つけることを減らせるはずです。 「決してあなたを否定しているつもりはない」というメッセージをきちんと伝えましょう!

精神科受診で「自閉症では?」という視点

こんなことがあって良いのだろうか? 必要のない精神科の薬を飲んで、副作用に苦しむ・・・。 その副作用を改善するために、また異なる薬を処方される。 結果として日々の生活を送るのに支障が出てしまう。 私は、精神科を受診しに来た人に対して、まずは自閉症を疑う必要があるのではないか、と考えている。 自閉症の人に見られる行動が、統合失調症の人の行動に似ているという。 また周囲の人から理解されないことにより、自閉症の人は心身ともに疲れ果て、うつ病を発症してしまうことがある。 どちらも「自閉症かもしれない」という視点があれば、より適切な治療と教育につながっていけるのではないだろうか? 88人に1人の割合で、自閉症スペクトラムの人たちがいると言われている。 統合失調症は120人に1人の割合だと言われている。 単純な比較はできないが、統合失調症を疑うなら、同じくらい自閉症を疑っても良いと思う。 これ以上、診断結果によって苦しむ自閉症の人たちが増えないために。

自分の感情をコントロールする練習

自分の感情のレベルが分かるようになったら、それぞれのレベルでどのような行動をすればよいのか、を考えていく。 例えば、不快な感情のレベルが1のときは、「深呼吸をする」 その次の段階のレベル2のときは、「ボールを握りつぶす」 というように、各段階に達したとき、どのような行動をとれば、気持ちを落ち着かせられるか、を考えていく。 そして、最高レベルの段階に来る前に自分の感情を落ち着かせられること、つまり感情のコントロールができるような練習をしていく。 まず見えない感情というものを具体的な出来事に置き換えて確認していく。 次に出来事に順番をつけていくことを通して、感情のレベルを認知できるようにする。 そしてそれぞれの感情のレベルのときに、どのような行動をすれば良いか、を考えて実践していく。 大雑把な紹介となったが、このような過程を通して自閉症の人たちが自ら感情をコントロールできるように支援していく方法もある。 できれば、幼いときからじっくりと時間を掛けて、感情をコントロールする練習を積み重ねていくことが望まれる。 これからますます注目される支援の一つになると考えられる。

出来事を見て、自分の感情を知る

自閉症の人に自分の感情にレベルがあることを知ってもらうためには、どうしたら良いのか? 自閉症の人に、"ちょっと"不安な気持ち、"とても"怒る気持ちなどと言って、表現の違いで感情の強弱をつけるように教えても無理がある。 そもそも見えない感情を認知すること自体が苦手なのだから。 では、どうして感情のレベルをわかりやすく伝えていくのか。 それにはやはり自閉症の人が得意な見える形で伝えることが望ましい。 うちにある感情ではなく、現象として現れる、つまり自分で見ることができる出来事を通して、感情のレベルを認知するように導いていく。 具体的な支援でいうと、 例えば"不快な感情"について取り上げたとしたならば、まずどんな出来事が不快に感じるかを確認していく。 自閉症の人たちの捉え方は一人ひとり違うので、この確認作業を行うと何が不快に感じるのかを知ることができる。 そして出来事は見ることができるので、自閉症の人にとってもわかりやすい。 個人の不快に感じる出来事を確認したあと、その不快に感じる出来事に順番をつけていく。 「パソコンが動かなくなったこと」と、「お母さんに注意されたこと」はどっちの方が不快な気持ちになるか、など。 この出来事に順番をつけていくとき、不快レベル1とか、不快レベル2とか、数字で基準を示す場合もある。 このようにして、出来事を通して感情を確認し、その感情を伴う出来事順番をつけることを通して、感情のレベルを認知するように導いていく。 自閉症の人たちは例え自分の感情だったとしても、見える形で学ぶことが基本なのです。

自閉症の人は衝動的!?

「自閉症の人は衝動的な行動をする」と言われることがある。 確かに自閉症の人の中には衝動的な行動をしてしまう人も多くいる。 しかし、だからといって自閉症=衝動的ということにはならない。 では、衝動的な行動の背景にはどんなことがあるのだろうか? 他人の目を通すと、「それくらいで」と思うようなことがきっかけとなり、衝動的な行動をとってしまう場合がある。 服のボタンがうまくつけられなかっただけなのに、大きな声で泣いたり、怒ったりすることがある。 服のボタンがうまくつけられないことは定型発達の人でもあるが、それぐらいで泣いたりはしない。 それは私たちが不快な感情にレベルがあることを知っているからだ。 私たちは服のボタンがうまくつけられないことを不快に思うが、その不快のレベルはちょっとしたものであると認識する。 しかし、自閉症の人は見えない"感情"というものを正確に捉えることができない。 だから、不快なことはすべて同じレベルの"不快"で捉えてしまう。 つまり、不快なのか、不快でないのかという2つのパターンで捉えてしまいがちである。 常に感情は0か、100か、である。 それは不快な感情だけではなく、快の感情などの他の感情についても同じことが言える。 思いっきり喜んだり、思いっきり悲しんだりする自閉症の人の姿を見ることは多い。 同じ不快という感情でもそのレベルを知らなければ、不快な出来事があると、すぐに行動に出てしまう。 それが「自閉症の人が衝動的な行動をする」という印象を与えてしまっている。 自閉症の人だから衝動的な行動をするのではなく、見えない感情というものを認識することが苦手なため、衝動的な行動をとることがある、というのが正しい表現だと思う。 ただし、自閉症の人は周囲の環境の影響を受けやすいため、常にストレスフルな状態と言えるので、ちょっとしたことがきっかけとなり感情を爆発させることがあることも頭に入れておく必要はある。