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【No.1123】揺らぎ、言語化

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いつも好き勝手書いているこのブログではありますが、読んでくださる方達に向けて2つのねらいがあるんです。 それは「揺らぎ」と「言語化」です。 「揺らぎ」っていうのは、心の揺らぎ、身体の揺らぎ、感情の揺らぎ、いろんな揺らぎがありますね。 「自分はこう考えていたけれども、もしかしたら別の道があるかも」 「もしかしたら、私が捉えていたものは、一側面でしかなかったかも」 とにかく何でもいいんで、揺らぎが起きて欲しいなと思って綴っています。 揺らぎがないと変化が生じないわけで、変化が生じないということは後退がなければ、進歩もないということですし、一切揺るがないというのは危険でもあるんですね。 その道を極めるような職人さんならそれども良いのだと思いますが、相手は生きているヒトですし、我が子とは言え、他人です。 しかも、私たちが関わろうとしているのは、発達という現象です。 その発達こそが、揺れ動く存在そのもの。 非定型なんて言われますが、定型発達だって安定ばかりではありませんね。 発達とは揺れ動きながら前に進んでいくものなので、そういった発達と向き合う大人たちも日頃から揺れ動く体験をしておく必要があると考えています。 「ああ、これでよかったのかな」 「もっと別の方法があったかも」 それがあるから、子どもさんの発達の流れ、揺れに合わせて柔軟な後押しができるのでしょう。 揺れない人っていうのは、子どもに見られる自然な揺れを自分の型の中に収めようとする傾向があり、子どもさんとお会いすると息苦しさを訴えていることが多くあります。 もう一つの「言語化」というのは、一人ひとりの内側にある感覚を言葉に表すことです。 発達相談で感じるのは、既に親御さん達の中ではアセスメントも、どうやって育てたら良いかも気がついている場合が多いということです。 ただ皆さん、それが言語化できていない。 無意識レベルでは捉えているし、日々の生活の中で察している。 だけれども、その感覚に見合う言葉が出てこないから、モヤモヤされているように感じます。 そのモヤモヤの状態が続くと、自分の内側から離れた言葉に身を寄せ始める。 「発達のヌケ」という言葉と出会えず、「それが"障害特性"だから」という言葉で無理やり自分の内側にあるものに命名している感じです。 これまで多くの親御さん達とお会いしてきましたが、察して

【No.1122】心にピッタリな言葉を

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喉元過ぎればなんとやらで、きっと今回のコロナ騒動も、うやむやになって終わっていくでしょうね。 民間レベルでは振り返りや反省、問題点の整理などを行うのでしょうが、たぶん、そういった類の本もでますね、だけれども、国家レベルでは白黒はつけずに曖昧にして処理されていくと思います。 当然、当事者の人達の反省の弁もないでしょう。 気が付けば「コロナが終息した」「私達はコロナに打ち克った」などと言うのも見え見え。 ただ最初からそんなに恐れるレベルではなかったものを、いつまでも恐怖感というムードに引きづられ、軌道修正できなかっただけなのに。 「敗戦」を「終戦」と言ったり、この辺りは日本語の豊かさでもあり、豊かさに胡坐を嗅いだ日本人の悪いところでもあるように感じます。 言葉で言えば、特別支援の世界も、そういった曖昧さを利用した意図的な言い換えが多いですね。 たとえば、「移動支援」 学校終わりに車に乗せ、児童デイまで連れていき、終わったら家の玄関まで届ける。 これのどこが支援なんですかね。 お年寄りの移動"介護"と何が違うのでしょうか。 そしていつも思うのですが、学校の下校時間にタクシーをお願いして、乗り合いで児童デイまで行ったほうが安いと思いませんか。 みんなから集めた税金を使って、タクシー料金の何倍も使っている。 毎日ハイヤーで御迎えかよ、と思っちゃう金額です。 乗り合いなら割り算なのに、税金は人数の掛け算ですよ(ひとの金だと思ってプンプン)。 私はタクシーを使うほうがよっぽど子ども達のためになると思いますね。 タクシーの使い方の勉強、運転手さんとのやりとりから感じるもの、学ぶものもあるでしょうし。 それでいったら、公共のバスとかで移動したほうがいいですね。 一般のお客さんもいますし、沢山の刺激と学び、体験が得られます。 どうせ、「移動支援」というのなら、そういった将来につながるような支援をしてほしいものです。 学校の前からみんなでバスに乗って移動する際の見守り・支援。 支えるも何も、流れ作業のように子どもを乗せて、ただ送り届けているのは支援と言わないでしょ。 「自立支援」なんてもいいますが、その自立支援を受けて自立につながる人はいませんね。 だってやっているのが、自己肯定感を高めるという名の接待であり、将来介護しやすい人になるための、もっといえば、支援者が

【No.1121】発達の遅れ=自閉症なの??

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毎年、この時期になると、お子さんの成長した様子を教えてくれるメールが多く届きます。 夏思いっきり遊んだ子ども達が、だいたい3ヶ月くらい経って、ググッと神経が繋がり、大きく育つ時期なんでしょうね。 中には「大久保さんの発達相談のおかげで、治りました!」と言ってくださる親御さん達もいますが、まあ、私はきっかけの一つであって治す力は持っていませんし、言うならば治したのは子どもさん本人で、それを後押ししたのはご家族です。 でも、その「治った」も、私が関わるお子さんの場合、なんか違う気がしますね。 治ったというよりも、ヌケていた発達課題が育った、未発達の部分が育ったという感じ。 子どもが発達するのは当たり前なので、それに未発達が育つのは特別な出来事ではないですし。 ですから、治ったというよりも、特に幼児さん、小学生の子ども達に関しては、いま、「育った」のだと思います。 この辺りのニュアンスが、やはりある程度、年齢を重ね、生きづらさを抱えながらも、生活も、脳内も、折り合いをつけてきた人たちとは違うような気がします。 ここ1年くらい、「治った」と「育った」をその人の雰囲気で使い分けていました。 でも最近、わかったんですね、その違いが。 この前もそうなんですが、自閉症という診断名がある子のおうちに行ったんですね。 でも実際に本人にお会いしたら、どこが自閉症なんですか?と思うくらいナチュラルだし、そもそも診断基準ぜんぜん満たしてないじゃん、という子だったんです。 私が仕事で伺ったのに、反対にお母さんに「どうして自閉症って診断できたんですか?」「どういった行動、症状があったんですか?」と尋ねちゃうくらいです。 でも、こういった出来事というか、現象というか、本当に多いんですよね、道内だけではなくて、全国あちこちでも。 現在の診断方法が適当かはおいといて、自閉症というからには中核的な特性が揃っている必要がありますね。 言葉の遅れや他者との関わり、それに伴う想像性や固執、感覚面の異常さとか。 しかし私がお会いする子ども達は、あっても1つか、2つかで、それも既に治っている、症状や異常さが消えている、定型の範囲まで育っている場合ばかりなんです。 ここで考えられるのが、「治った」ということですね。 確かに診断を受けた時点では、自閉症の中核的な特性が一定以上見られていた。 でも、その後の成長の中で、

【No.1120】発達のヌケは診断基準を満たすためにあるのではない

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巷にノウハウ本やマニュアルが溢れているのは、それだけ「勉強熱心な人がいる!」ではないんですね。 みんな続かないから、そういったものがたくさんあるんで、積み上がったノウハウ本を見て、達成感の前借をしているんですね。 進学塾の先生も、「頭のいい奴はあれこれと参考書に手を出さず、その参考書を何度も解くもんだ」といっていました。 「浪人する奴は、参考書を買ったことに満足する」とも。 同じように療育の世界もマニュアルばかりですね。 「自閉症には構造化」 「問題行動は無視」 「二次障害回避には自己肯定感」 ほんと、A→Bみたいな感じで、全国どこに行っても、だいたい同じ問いに同じ答えが返ってきます。 まさに機械のマニュアルと一緒ですね。 「このボタンを押したら、画面が変わる」みたいな。 機械相手に商売しているのなら、これで良いのかもしれませんが、目の前にいる子ども達は生きている生の人間です。 だから、そもそもマニュアルのようなモノを作っても、まったく役には立たないんですね。 ではなんで特別支援の世界はマニュアル化に進んでいくかといったら、人材不足でしょう。 マニュアルの目的は、「誰でも同じ結果」です。 どの支援者、専門家も、一人ひとりの見立てをたて、その子に合った助言や支援ができれば、そんなものは邪魔なだけでめんどくさいだけ。 だけれども、現実はそうじゃないから、どの支援者も支援者っぽく見えるように、結果は良く分からないけれども、なんとなく専門的な何かをやっている雰囲気を出すために、一律のマニュアルが必要になります。 そうじゃなきゃ、ひと昔前の介護員と変わらないでしょ、支援員って。 やっていることは一緒だし。 私は支援員と名乗るためにこそ、マニュアル療育があるんだと思っています。 数学の計算式のような療育も、子育てもありませんね。 「栄養療法で発達障害が治った」というのも、ある意味、間違えになります。 現象としての、結果としての"治った"はあるでしょう。 だけれども、この場合は、「A君にはタンパク質不足や鉄不足があり、神経発達に必要な栄養素、酸素が足りない状態が続いていて神経発達に遅れが出る原因の一つになっているから、栄養面から改善を図った結果、刺激に反応するだけの準備が整って滞っていた発達が進み、治った」というくらい、まあ、短く書いてもこれくらいの言葉が抜け

【No.1119】金魚体操で思う

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9月のzoom講演会で「金魚体操原理主義」という言葉がありましたね。 黄色本(『自閉っ子の心身をラクにしよう!』花風社)の中で、著者の栗本さんが金魚体操を紹介されたのがきっかけで、それから一気に広まったのだと思います。 それまで金魚体操は、保育の世界の知る人ぞ知る、知る人しか知らない小さな実践だったといえるのですが、今では神経発達症の子ども達をより良く育てよう!と考えている親御さん、支援者の中では当たり前みたいな感じになっています。 全国を見渡せば、寝る前の日課にされているご家庭が多いのではないでしょうか。 私の発達相談でも、「うちの金魚体操のやり方を確認してほしい」というようなこともがあります。 でも私は、自分ちの子ども達用に保育園で教わった方法しかわかりませんし、正しい(?)金魚体操というのがあるのかわかりませんが、栗本さんが実践、指導されている方法とは違うと思います。 というか、それでいいんですよね、一人ひとり違って。 黄色本にも、ポイントは子どもさんの呼吸の変化と表現されていましたし、具体的な時間とか、回数とかは書かれていませんでしたし。 ここからは黄色本を読んだ私の解釈になりますが、黄色本のこの部分について大事なことは、「金魚体操をやりましょう」「やったら良くなる」ではなくて、自閉っ子特有の身体的な固さと弛めることの大切さ、弛緩できる身体を育てることの必要性だと思いますね。 ですから、「うちの子、金魚体操が難しいんです」みたいなご家庭へは、弛む感覚を本人が感じられればいいんで、金魚体操にこだわる必要はないと思いますよ、と言っています。 金魚体操が唯一無二の素晴らしい方法みたいな感じで、金魚体操ができないなら、金魚体操ができる身体に育てる、みたいなちょっとズレてきている場合もあるかも。 ある若者は、近所で太極拳を教えてくれるところがあったみたいで、そこに通いながら「ああ、これが"弛む"か」なんて具合に、感覚的に掴めるようになったと言っていましたね。 他には、プールが好きな子は、弛むと水に浮かぶようになるから、それを目標に親子でゆらゆら揺れに行って育てている家庭もありました。 まあ、とにかく力を入れるだけではなく、入れたり、弛んだりできるように育つことが重要なんですね。 我が子に金魚体操をやろうとしても、なかなか受け入れてもらえないのなら、

【No.1118】他の家の育ったエピソードは「希望」と「考えるきっかけ」

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人間、「ない」を目標にすることはできないんですね。 「ない」というのは具体的ではありませんし、だからこそ、そういったもんを思い描きながら何かをするって言うのは難しいんです。 よって「二次障害がない」っていうのは目標になりませんね。 二次障害が起きないようにするために、早期から療育に通う、療育を頑張って受ける。 イメージできないものを頑張ることはできませんので、そういったことを目標に掲げ、療育を受けていると、いつの間にか受けることが目的となり、振り返れば何のための年月だったのかと思うことになってしまいます。 ですから、「ない」ではなく、「ある」を目標にしなければなりませんね。 たとえば、「一人で宿題を始めて、終えることができる」とか、「自分で尿意を感じて、トイレで排泄できる」とか。 これだったら目指すべき姿が明確ですので、ちゃんと終わりがはっきりしていいんです。 何より、その子の顔、姿が浮かびますね。 お子さんにとってそうですし、親御さんにとっても待つ姿勢が保てて良いと思います。 親御さん達のお話を伺っていると、我が子の発達の遅れやなかなかヌケが埋まっていかないことのみに悩んでいるわけではないんですね。 むしろ近頃では、他の神経発達症の子どもが育っていく様子と自分たちを比べて、それが新たな悩みになっている場合が多いように感じます。 「ああ、あの子は順調に育っている(我が子は…)」 「同じようなアプローチをしているのに、うちの子と伸びが違う…」 「育った」「治った」という声は希望であると同時に、心を締め付ける作用もあるのだと思います。 そういった親御さん達に私はお話しするのですが、「診断が外れた」とか、「普通級で大丈夫になった」とか、「症状が治った」というのは、明らかに希望なんですね。 私が学生時代の親御さん達なんて、希望らしい希望すらなかったんですから。 「将来、どんなことを希望されますか?」と学生時分の私が親御さん達に尋ねると、ほとんどの親御さんが、「卒業後、家にいるのではなくて、どこか施設に入れること」「施設職員から嫌われないで生きていけること」「他人に迷惑をかけないで生きていってもらうこと」「できるだけ自分たちが長生きして、この子を置いて死なないこと」などとおっしゃっていました。 まさに、「ない」「ない」「ない」ばかりだったんですね。 なにかが「ある」姿が描けな

【No.1117】その「多動」って障害ですか??

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発達相談では、ほんまかいな自閉症も多いんですが、ほんまかいな多動も多いんですね。 「ADHDの診断も受けているんです」というお母さんに、「それって、不注意のほうですかね」と訊くと、「いいえ、多動でついているんです」というパターンが少なくありません。 いやいや、家で静かに遊んでいるし、「それやめてね」と言われれば、自分で行動を制止できてるし…。 幼児さんが、公園とか、幼稚園・保育園とかでワーッとなっちゃうのは当たり前。 むしろ、ワーッとならないで、一人でぼんやりしている子のほうが心配ですね。 同じくらいの年代の子が集団になれば、テンションが上がるの普通だし、公園とか開放的な空間に行けば自然と走り回りたくなるのは普通だし。 子どもが子どもらしくして「障害児」になっちゃうんだったら、その診断の付け方が問題ですよ。 どうしてこんなことが起きるのかといえば、1つの診断キットというか、複数の視点や検査で診断していないからなんですね。 家の中で終始動きまわり、テーブルの上に上がる、声を叫びまくる、大人からの制止が利かないというくらいだったらわかりますが、そのようなお子さんはほとんどいなくて、結構、集中して活動できている時間があるんですね、家だと。 まずその家の姿をみれば、その「ADHD」という診断が適切ではないことがわかると思うんです。 だけれども、あるひと場面の様子のみで診断してしまうから、当然、そこで多動や落ち着きの無さを強調しちゃえば、それがすべてになってしまうのです。 でもね、診断ってかなり重いものだと思いますよ。 その診断名一つで、学校や進路、それこそ、服薬するかどうかまで決まっちゃう子とあるんだから。 それなのに、いまだに生物的なマーカーではなくて、親御さんからの聞き取りと、その場での行動のみで診断が決まってしまう。 今、どんな病気でも、それこそ、画像や数値などで客観的に判断できるものまでも、複数の医師が集まって、複数の検査を行い、この病気は本当にこの診断でいいのか、治療法でいいのかを慎重に検討するんですよ。 町医者が喉を見て、「ああ、風邪ですね」というのとは重みが違うんですよ、障害と診断するってことは。 障害というからには、その多動も、自分自身ではどうしようもない、コントロールすることができないというくらいの生活に支障が出るレベルのものだと思うんです。 私も、本当の

【No.1116】なんで発達したかなんて、わかりっこない

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ほんとに驚いてしまいます。 未だに「これだけの人数で抑えられているのは、多くの人が感染予防に努めているから」と言っているなんて…。 単なる負け惜しみか、自分が宣言したことを撤回できないだけなのか。 欧米で亡くなった方達も、そのほとんどが基礎疾患を持っている高齢者というデータが出ていますね。 「日本人はきれい好きで、予防の意識が高い」なんていうのも、屁理屈もよいところで、だったら、日本よりも決して衛生状態が良くないといえる東南アジアの国々で、どうして感染者数が少ないのか、死者数が増えないのか。 でも、一番腹立たしいのは、こういった発言をしている専門家が一般の人たちをバカにしていることですよ。 「緩めたら感染者数が爆発する」というのは、こちらが指示しなきゃ、自分たちで自己防衛は無理だろう、どうせすぐに好き放題、元の生活に戻るんだろう、という専門家特有の上から目線ですね。 そんなにいうのなら、世界的に基礎疾患を持っている人たちが重症化し、亡くなっているのですから、そっちの基礎疾患を治すほうを頑張ってくれよ、と思うのです。 私達は今回の騒動で今一度、立ち止まり、「医療とは」と問い直す必要があるのではないでしょうか。 立ち止まると言えば、今回、緊急事態宣言が出され、ほとんどの療育機関がストップした時期がありましたね。 未だに制限があったり、以前のような講演会、研修会が執り行われていない状況です。 今一度、考えましょう、「特別支援ってなんなのだろうか?」「療育ってなんなのだろうか?」と。 私がこの世界に入ったときには既に「早期療育は良いもの」「特別支援を受けることは当然のこと」とされていました。 でも、なんで早期療育を受ける必要があるのでしょうか。 どうして、支援級や支援学校に通う子ども達は、放課後は児童デイに行き、定期的に療育機関や病院に通うのでしょうか。 その目的と答えがよくわからないのです。 学生時代、確か療育も、支援も、「本人の"自立"へ繋げるものだ」と教わりました。 でも、いくら早期から療育を受けようとも、私達一般の人たちがイメージする自立をしている人はほとんどいませんね。 早期から療育や支援を受けた子は、大人になっても支援を受け続けています。 「自立」を掲げていたのは、輸入元である欧米の理念をそのまま持ってきたからでしょう。 私も実際に見てきまし

【No.1115】専門的な(?)対処法って

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「エビデンス」同様、この界隈では「専門性」という言葉がよく出てきます。 「専門的な支援」 「専門的な療育」 「専門性を持った職員が指導を行います」 こうやって強調している様子を見ると、よほどご自身の専門性に疑念を持っているのかと思います(笑) 料理人がいちいち「私、包丁さばきの専門家です」なんて言いませんよね。 まあ、「創作フレンチの店」くらいは言うでしょうが、あえてその専門性を強調したりしません。 そりゃあ、その仕事をしているんだったら、腕の良しあしは別にして専門家には違いないのですから。 あまり他の職業というか、一般的な社会の中で生きていると、自分で自分のことを専門性があるとかないとかは言いません。 だから、この世界に入ってから、ずっと違和感を持っていたんですね。 みんな、恥ずかしげもなく「専門性」という言葉を自分たちに使っているから。 フツー、そういうのって、利用してくれた人とかが評価して言うものだと思うのですが。 そう考えると、なんで特別支援の世界にいる人間が「専門性」にこだわるのかよくわかります。 結局、外からは評価しづらいんですね、特別支援の世界って。 療育でも、支援でも、特定の支援者の関わりでも、本当にそれが子どものポジティブな変化に繋がったかどうかわかりません。 私も20年近くこの世界にいますが、そりゃあ、短期的に、今この瞬間のレベルでいえば、よい変化につながったかなと思うこともありますが、そんなのはわからないし、評価なんてできません。 まあ、これは将来的にネガティブな変化に繋がるな、というのはビシバシ分かりますが(笑) 「よくなった」という姿が、単に本人の発達と成長によるもの。 そういった場合がほとんどだといえます。 週に1回とか、一日1時間とか、療育・支援を受けたからって、なにがどうってことはありませんね。 そんなのでうまくいくなら、早期療育を受けた子ども達が「診断が外れないのはナゼ?」「卒業後の進路が福祉一択なのはナゼ?」「幼いときの問題行動が大人になっても続いているのはナゼ?」 やってもやらなくても変わらないのが大部分。 だから私はいつも「趣味嗜好」と表現してるんですね。 揺れ動く親御さんにとっては、優しい言葉をかけてくれる人が、しかも、その人が自分のことを「専門性がある」って言っているし、専門性がある支援者の人が私に「大丈夫だよ」と言って寄

【No.1114】短期的な有効性、長期的な有効性

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有効な治療法が確立されている場合、その診断名には意味があるといえるでしょう。 しかし、発達障害や自閉症、近頃で言えばHSPなどは、診断名に対応する治療法が存在しませんので、一時的な効果があるかもしれませんが、本人の生きづらさの根本を解決につながるわけではありません。 最近も、「ホント、診断受ける理由って、なんなんですかね」と訊かれましたので、「まあ、"分かった気"にさせてくれるという効果はありますね」と答えています。 「過去に自閉症の人と関わったことがある」 「発達障害について本で学びました」 一人ひとりがまったく異なるのに、なんだか知った気分にしてくれるのが「自閉症」「発達障害」という言葉の起源なのでしょう。 同じような印象を持つのが、エビデンスという言葉です。 「エビデンスがある療育」なんていうと、それだけで我が子にも、自分が担当している子にも効果がある、と思ってしまう。 これだけ療育という言葉が浸透したこんにちにおいても、いまだに療育が将来の自立につながるというエビデンスが出ていないのに。 現在、エビデンスのある療育と言われているものの多くは、対症療法です。 ですから、そのあると言われるエビデンスも、長期的な効果、有効性ではなく、短期的な効果、有効性になります。 その療法を受けて1週間後、1ヶ月後、3ヶ月後、1年後の有効性をフォローできるかもしれませんが、はたしてその持続している効果が療育だけの効果なのか、単に1年経ってその子が発達したためできているのか、学習や理解ができるようになってできているのか、そんなのは時間が経てば経つほど、わからなくなるものです。 ですから、いくらエビデンスがあろうが、短期的な効果になってしまうのです。 確かに視覚支援は有効です。 それは、まだ言葉や理解が進んでいない乳幼児にとって。 そのくらいの子ども達は、言葉よりも、目で見たほうが理解できます。 確かに行動療法は有効です。 それは、まだ十分に考える力が育っていない子ども達にとって。 今、次の瞬間、良いことがある、悪いことがある。 幼い子どもにとっては行動を変える力になりますが、成長するにつれて短期的な未来のみでは行動を変えなくなります。 長期的な視野、展望、自分の考え、過去の経験、私という自我と感情、そして体調も。 それらが複雑に絡み合いどういった行動をとるかが

【No.1113】批判的な視点と合理的な判断

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夕食のとき、上の子が「マスクするのって"日本のルール"なの?」と訊いてきました。 即否定しようと口先が動きましたが、せっかくの気付きでから、どうしてそのような疑問を持ったのか尋ねてみると、学校にマスクをつけたがらない子がいて、先生がその子を注意(?)するときに、「日本のルール」という言葉が出たとのことでした。 そのとき、なんだか変だなと思って、私に訊いたそうです。 まだ生まれて1桁しか生きていない子です。 なので、日本が法治国家であるとか、科学的な根拠がどうだとかの理解は難しいでしょう。 でも、自分なりに学校の外ではマスクしていないし、外を見ればマスクしていない大人がいるし(父さんしていないww)、なんかおかしいなと思ったようです。 私は基本的に、上の子が自分でつけようと思えばつければいいし、いらないと思えば外せばいい、と伝えています。 そして、マスクをつけていないことを指摘されて、嫌なことや自分で解決できないことがあれば、父さんに言いなさい、と言っています。 「そのときは徹底的にやっつけてやる」と(笑) まあ、とにかく自分で疑問に思うこと、自分で考え行動することは、これからの長い人生の中でとても重要なことです。 今回のコロナ騒動は、子ども達にとってウィルスの害よりも、社会から受ける害のほうが圧倒的に多かったといえます。 しかし、そんな中でも唯一良かったことは、こうやって大人は嘘をつくことも、間違うこともある、という事実を体験することができたことでしょう。 上の子には常々、大人も、先生も、親である私も、間違うことがあるし、嘘をつくことがある、と伝えています。 大事なことは、「誰かが言ったから」というだけで思考停止して信じることは間違いであり、まず自分で考えること、例え多数派ではなかったとしても、自分がおかしいと思ったことはきちんと批判的に考えることだと思っています。 「もし自粛しなかったら、42万人が死ぬ」 今年も変わらず夏があり、お盆があり、シルバーウィークがあり、そしてGOTOもあった。 明らかに緊急事態宣言のときとは異なり、みんな、自粛はしていなかったのに、お亡くなりになった方は1600人ちょっと。 まあ、いまだに自粛して引きこもっている人もいるとは思いますが、この数字の開きはどういうことでしょうか。 私なんて、2月も出張していたし、緊急事

【No.1112】関係性から見る「療法」と「支援者」

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函館ではほとんどそんなことはないんですが(笑)、出張での訪問となると、お父さんも遊びには行かず、中にはわざわざ仕事をお休みして、ご両親、ご家族そろって発達相談を受けられる場合が多くあります。 数年前までは、「どうして俺もいなきゃいけないんだ」というオーラぷんぷんのお父さんもいましたし、隙あらば席を立とうとするお父さんもいましたが(笑)、今は積極的なお父さんばかりで、私も楽しい時間を過ごすことができています。 もちろん、母子だけという相談もあります。 しかし、家のその場にお父さんがいなくても、いろんな理由から離れて暮らしていたとしても、子どもさんの中には、きちんと関係性が表れています。 「普段はこうやって遊んでいるのかな」 「こういった部分は、お父さんからの影響を受けているのかな」 「お父さんは、我が子をこのように育てたいと思ってのかな」 母子関係ばかり強調されますが、男の子は特に父親との関係性の中から学び取ろうとする本能的な力を感じます。 私は家庭訪問をしているので、自然な親子、家族の関係性が見えるという利点があると思ってます。 というか、発達相談なので、その関係性が見えなければ、仕事になりませんね。 よく子どもだけとか、お母さんだけとか、単独での検査や面談が行われますが、それでは課題の本質は見えてこないだろう、と思います。 そして何よりも、検査も、面談も、やっておしまいではなくて、その後の未来、家庭生活の中にフィードバックされるからこそ、意味が出てくるのだといえるでしょ。 子どもが家庭の中で、親子間で、家族との関係の中で見せる姿が本当の姿。 子育てとは特にヒトにとっては関係性を中心に営まれるものなので、関係性を通して子どもさんを見て、その関係性をより豊かにしていくことがより良い育ちへと繋がっていくのです。 まあ、ここまでが前フリで、今日のメインはここからです(相変わらず、前置きが長い)。 一旦、特別支援の世界へ足を踏み入れると、いろんな名称の専門家が出てくるし、勧めてくる療法も様々だし、子どもよりも、支援者、専門家との付き合いのほうが疲れる、という親御さんは少なくないと思います。 そういった親御さんは、「関係性」というのをキーワードにして烏合の衆を見ていくと、すっきりしていくでしょう。 たとえば、視覚支援。 視覚支援は、なんだかんだ道具が出てきますが、結局のところ

【No.1111】発達に必要なのは「時間」

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子ども達の発達に何が一番大事かと問われれば、私は迷うことなく「時間」と答えます。 神経の発達には、タンパク質等の「栄養」が重要です。 でも、生きていくための最低限の栄養があれば、神経発達は生じます。 人類の歴史のほとんどが飢えとの闘いだったことを考えると、それがわかるでしょう。 同じように「酸素」も神経発達には重要になりますが、こちらも生きていくための最低限が確保されていれば大丈夫。 もちろん、栄養と酸素の充足具合が神経発達の広がり方に影響を及ぼしますが。 最後に「刺激」ですが、たとえ無刺激な空間があり、そこにいたとしても、身体の内部では変化が生じ、刺激が生まれ続けます。 ですから、「栄養」「酸素」「刺激」に関しては、生きていくための必須ではあっても、神経発達の必須条件ではないといえます。 しかし、「時間」だけは違います。 ヒトが生きているように、神経も生きています。 生きている神経が変化するには、時間が必要なのです。 別の言い方をすれば、「時間があるから変化が生じる」になります。 発達相談をしている中で感じるのは、8割は時間が解決してくれる(誤学習は時間が解決しません)ということです。 前回のブログで、秋になると年中さんの相談が増える、相談者の低年齢化が進んでいる、というお話をしました。 でも、これらの問題は、子どもさん自身の問題でも、家庭の子育ての問題でもありません。 言うならば、本人の発達のペースと社会が求めるペースとのミスマッチが原因です。 一人ひとり子どもには発達のペースがあり、それは必ずしも社会の区切り、年齢の区切りと一致するわけもない(というか、同学年でも4月生まれと3月生まれは全然違う)。 なのに、今はどんどん余白が失われていき、発達がマニュアル化されてしまっています。 社会、大人のほうに余裕がなくなり、効率化の波が子育て、教育にも入ってきたともいえるでしょう。 しかし、こういった子育てのマニュアル化、定型発達か否かを明確に区切り始めたのは、特別支援に関わる人間だと思っています。 もともと学校、教育には寛容さがありました。 いろんな課題、凸凹、発達のペースの違いを持つ子ども達がいるのが当たり前でした。 それが2000年以降の高機能ブームに乗っかり、専門家、ギョーカイ団体が誤った認識を広げ、あらゆる分野に侵食していきました。 令和になってもそれまでと変

関東出張のご案内(11月27日~29日)

お陰様で予定がすべて決まりました(2020年10月11日8:00) 本日、正式なご依頼があり、11月27日~29日の間で関東に出張することになりました。 まだ航空券等に余裕がありますので、他のご家族でお申し込みがあれば、それをお受けしてから日程を決めたいと考えています。 【訪問可能な日時】 11月27日(金)午前「✖」 午後「△」*ご希望があれば調整します。 11月28日(土)午前「〇」 午後「〇」 *「午前午後可」という形で1家族決まりました。 11月29日(日)午前「埼玉」午後「〇」 たぶん、2020年は最後の関東出張になると思います。 お子さんの発達の確認、2021年に向けたより良い子育てなど、「この機会に」というご家族がいらっしゃいましたら、お問い合わせください。 お問い合わせ先→ てらっこ塾HP どうぞよろしくお願い致します。

【No.1110】2030年以降、『予防』が中心になっていく

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近頃は、口に関する勉強をしています。 医学的な咀嚼や嚥下の話はもちろんのこと、機能改善のためのリハビリ、保育の方面からも離乳食、幼児の食事について改めて学び直しています。 それはコロナ後を見据えた準備です。 既にちらほら影響が聞かれてきていますが、来年以降はもっと口に関するトラブルを抱えている子ども達が表面化してくると思います。 咀嚼や嚥下は生きるための基本であり、そこに遅れが出るということは、多方面へ波及してしまいます。 酸素不足、口呼吸によるダメージ、歯茎からの情報探索、言葉の遅れ、手との協調運動、味覚、聴覚の育ち…。 それがさらに、対人面、認知面、運動面の発達に影響を及ぼしていきます。 乳幼児期の子どもにとって、モデルとなる大人の口元が見えないということは大問題です。 私は民間の経営者ですので、今のニーズだけを見て仕事をしていけば、すぐに倒産してしまいます。 生き残っている民間企業を見れば、どこも時代のニーズの半歩から一歩先を歩いているのがわかります。 私で言えば、今のニーズは家庭でのアセスメント、子育ての仕方ではありますが、近い未来はコロナ禍で作られた発達障害の子の遅れをフォローすることであり、その先は発達障害の予防になると考えています。 今までは発達に遅れが見られてからの相談であり、ニーズでしたが、今後も、少子化は歯止めが利かず、一方で診断を受ける子が増えるでしょうから、妊娠が分かった親御さん、出生後、さあ、子育てを始めていこうという親御さんからの相談、ニーズが出てくると予想しています。 2030年代には、「発達の遅れが出てから」から「発達の遅れが出る前に」になると思います。 以前からそのように考え、準備していましたが、ここ1、2年でさらに強く思うようになりました。 それは発達相談の低年齢化です。 もう今では2歳代の子のご家族からの依頼には驚かなくなりました。 1歳代の子も珍しくはなくなったのです。 1歳代で診断をつける意味がわかりませんが、実際、診断をつけられる子が増えているのも事実。 この先、0歳代の子のご家族から依頼があったらどうしようかと思う一方で、それが将来のニーズである「予防」を連想させるものでもあります。 同じように「先に先に」という流れを感じることがあります。 来年度に就学を迎えるお子さん達は、夏から秋にかけて就学相談や就学時健康診断が行わ

【No.1109】口は愛着の入り口

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出張に行くと、普段よりもタンパク質を欲するのが分かります。 その土地のものを、地元の人が行くようなお店を目指していくのですが、どうしても身体が「タンパク質を!」と叫ぶのです。 出張は現代版の狩りですから、私の中に流れる狩猟民族の血が騒がしくなるのでしょう(笑) コロナの3ヶ月以外は、月に2回のペースであちこちに行っていましたが、体調を崩すことがありませんでした。 それは身体の声に従っていたことも大きな要因だったと思います。 急激に乾燥し始めた近頃は、温かい汁もの、ネギ類、柑橘系が美味しく感じますね。 私は今までずっと自分が食べたいものを食べて生きてきました。 なので、どの人も同じような感じだと思っていたのですが、そうではない人も少なくないようでビックリしたことがあります。 昨年からの相談で、子どもが「プロティンを飲んでくれない」「サプリを口から出す」という話を伺います。 体内に入れるのは、親御さんではなく、子どもさん自身です。 ですから、その子どもさんが飲みたくないということは、飲む必要がないものだと私は思います。 大人よりも、感覚が鋭く、本能に近い子ども達なのですから、何かを察したに違いありません。 以前、ある親御さんに注意したことがあります。 嫌がっているお子さんに飲ませようとしていたので。 有名な先生が一日の目標量を示したのかもしれません。 でも、それにとらわれてしまって、目の前の子どもが見えなくなってしまっているのは問題です。 食は、愛着形成にとって重要なポイントになるのです。 神経発達症の子ども達は、胎児期から出生後すぐの段階で感覚系に未発達があるために、親御さんからの愛情をそのまま受け取ることが難しい場合があります。 本来、心地良いはずの身体接触が、感覚器の未成熟によって受け取ることができなかったり、反対に不快な刺激として受け取ってしまったりすることがあります。 そのため、親御さんが愛情たっぷりに育てていたとしても、子ども側の感覚の状態によって、うまく愛着形成がなされていかないのです。 神経発達症の子ども達には、運動や感覚だけではなく、愛着形成の遅れも見られることが多々あります。 ですから、愛着形成も注意してみていく必要があるのです。 そういった子ども達にとって、愛着を育てていく関係性にある親御さんから、自分が本能的に察して食べないと判断したものを食べさ

【No.1108】治療法がないのに診断する意味ってあるの?

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私がトレーニングを受けたときのドクターは、「今、アメリカでは、どんどん診断がつけられるようになっている。以前は自閉症に該当しなかった子ども達までも」と嘆いていました。 50年前は稀な障害だったのにもかかわらず、今ではすっかり珍しくない障害になり、発達障害のブームすら起きている状況です。 この調子で増え続ければ、2030年代には子どもの半数は発達障害ということになるかもしれません。 そうなれば、今以上に残酷な分断が生じるでしょう。 診断という枠が広がれば広がるほど、揺り戻しが起きるのも、今までと同じです。 今のHSPというのがそれでしょう。 なんとか症候群は出ては消えの繰り返しです。 結局、過敏さの根っこを辿っていけば、そういった人種が突然現れたのではなく、前庭覚や聴覚、皮膚の未発達だったり、愛着形成の不具合、つまり神経発達と繋がっていくと感じます。 10年後、20年後も、自閉症や発達障害のように、その症候群の名が残り続けるとは思えません。 現在の診断は行政サービスへの通行手形のようになっています。 支援者や先生が、あたかも住民票をとってくるかのように、「診断を受けて来てください」と言われるくらいです。 その重さ、ニュアンス、質感がだいぶかわったような印象を受けます。 でも、ここで浮かんでくるのが、「そもそも診断ってなんのためにあるのだろう?」という疑問です。 最初に自閉症に気づいた医師も、今のような診断基準を作った専門家たちも、行政サービスの通行手形をイメージしていたのではないと思います。 たぶん、症状でグループ化することは、治療に繋げるためのはずです。 虫の分類のように、当事者の人たちを「当たりはずれ」と表現する医師はもっと後になって生まれた人達だといえます。 そうやって共通する症状で、特定の診断名をつけたのは、診断名をつけることによって「この障害には、こういった治療が有効」というのを見出したかったからでしょう。 で、ここで新たな疑問が浮かび上がるのです。 「自閉症には構造化」「発達障害にはSST」「知的障害にはABA」といった具合に、診断名とここでいえば治療法ではなく対処法を結びつけようとする動きがありました(今も?)。 でも、あくまで対処法ですので、診断名とマッチするようなシロモノではありません。 そもそも治療ではありませんので、同じ自閉症という診断でも合う人

【No.1107】入口と出口を押さえられた教育

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教育大に入学したのだから、子ども達への"教え方"について学べるものだと思っていました。 1年目は、「最初だから座学が多いのかな」「教養や知識の習得の講義が多いのかな」と思いきや、それが2年目、3年目となり、気が付けば4年目になり、卒業してしまいました。 実践的な教え方を学んだと言えば、教育実習の期間中でしょうか。 あとは、教育の歴史だとか、障害の種類だとか、パブロフの犬やアヴェロンの野生児、ボウルビィの愛着理論とか、そんな感じです。 教育大なのに、教えている教授の教え方が悪い。 何年も使い回しのレジュメを配って(コピーのし過ぎで端が切れてる…)、声も聞こえないような一方通行の講義。 地方の国立大ですから、これで許されているのでしょうが、それにしてもつまらない講義ばかりで、だからこそ、自分で地域活動やボランティア活動、社会人を対象にした講演会などに潜り込むような4年間を過ごしていたのだと思います。 私も教員免許を持っていますが、結局、これは自動車免許と同じなんだと思いました。 教員の資格を得るための4年間であり、大学は学科、実習が実地、自動車学校で基本的なことは学べるけれども、運転の上手い下手は個人のセンスによるし、何よりも実際に運転するようになってからの練習と経験がものをいう。 今こうして子ども達や育ちに関わる仕事をしていますが、ほぼ大学で学んだ知識は使われていない。 他の仕事と同じように、やはり社会人になってから学んだことが主になっています。 というか、大学で学んだことだけでできる仕事なんてありませんね。 教育大ですので、同期はほぼ教員です。 学生時代、生意気にも「あの先生の教え方が悪い」「あんな教師にだけはなりたくない」「俺だったら、こんな授業をする」なんて言っていた仲間たちですが、皆さん、見事に"あんな教師"になっています。 共に学び合った仲間なので、それぞれの学校で頑張り、中堅になった今頃は学校も、地域も少しは良くなっていると期待していたのですが、あいも変わらず、構造化、惰性でやっている朝の会&帰りの会、とにかく「仕事には体力!」で校庭をランニング、エスケープゾーンという名の出口のない部屋、問題行動は無視、令和にその仕事ある?というような木工・陶芸の職業訓練、自立を掲げながら進路は福祉ばかり…。 これって私が学生時代か

【No.1106】自分で育てているときと、そうではないときの見分け方

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9月13日(日)のzoom講座のあとから、こういった質問を多く受けるようになっています。 「自分でなにか(発達)を育てているときと、そうではないときの見分け方は?」 確かにその見分け方までは説明しなかったと思います。 途中で質問タイムがあり、そういった行動についての相談がありましたが、答えることがメインで根拠までは説明しませんでした。 昨日で録画した動画を視聴できる期間が終わりましたので、この辺りのお話をしようと思います。 言ってしまえば、雰囲気です。 実際に見れば、良く分かりますが、何かを育てているときの姿は雰囲気がぜんぜん違います。 伸びやかで、自然で、明るく、内側から突き動かされている感じがします。 でも、これは私個人のイメージであり、現在まで多くの人たちと関わってきたからこそ、感じる部分だと言えます。 なので、答えているようで答えになっていませんし、これでは講座を視聴してくださった方達への後押しになりません。 ちなみに、メール相談でも、電話相談でも、親御さんの言葉を通してお子さんの雰囲気は伝わってくるものです。 そこで、どのようなところを具体的に見ているのか、どのような勉強を通して身に付けた技術なのかを紹介しようと思います。 まず大まかな枠組みとして、子ども達の行動には「育てる」「(純粋な)遊び」「防衛」が考えられます。 自分自身で発達を育てているときは、必要な刺激、足りていない刺激を求めていますので、型はどうでもいいわけです。 どんなやり方、どんな環境を使おうとも、同じ刺激が得られれば良いのです。 ですから、内耳を育てている子は、移動するときもピョンピョン跳ねているし、縁石をみればその上を歩こうとするし、ソファーに上がってはそこから跳び下りようとするし、おんぶされていても頭をたくさん動かすし、公園に言えば、とにかくブランコだし、自分も回るし、扇風機など回るモノも好きだし…という具合に、生活全般の中で「ああ、内耳を育てたいのね」というまとまりがあります。 一方で遊びは趣味嗜好なので、ある程度、決まった型があります。 いつも同じ場所で行う、いつも同じものを使う、遊びは変わっても遊ぶもの自体は、やり方自体は変わらない、ということがあります。 また育てる行動は、一種の退行ですので、その子の認知機能からいえば、行動レベルが幼いことをやります。 普通級で勉強しているよ