【No.1122】心にピッタリな言葉を

喉元過ぎればなんとやらで、きっと今回のコロナ騒動も、うやむやになって終わっていくでしょうね。
民間レベルでは振り返りや反省、問題点の整理などを行うのでしょうが、たぶん、そういった類の本もでますね、だけれども、国家レベルでは白黒はつけずに曖昧にして処理されていくと思います。
当然、当事者の人達の反省の弁もないでしょう。
気が付けば「コロナが終息した」「私達はコロナに打ち克った」などと言うのも見え見え。
ただ最初からそんなに恐れるレベルではなかったものを、いつまでも恐怖感というムードに引きづられ、軌道修正できなかっただけなのに。
「敗戦」を「終戦」と言ったり、この辺りは日本語の豊かさでもあり、豊かさに胡坐を嗅いだ日本人の悪いところでもあるように感じます。


言葉で言えば、特別支援の世界も、そういった曖昧さを利用した意図的な言い換えが多いですね。
たとえば、「移動支援」
学校終わりに車に乗せ、児童デイまで連れていき、終わったら家の玄関まで届ける。
これのどこが支援なんですかね。
お年寄りの移動"介護"と何が違うのでしょうか。
そしていつも思うのですが、学校の下校時間にタクシーをお願いして、乗り合いで児童デイまで行ったほうが安いと思いませんか。
みんなから集めた税金を使って、タクシー料金の何倍も使っている。
毎日ハイヤーで御迎えかよ、と思っちゃう金額です。
乗り合いなら割り算なのに、税金は人数の掛け算ですよ(ひとの金だと思ってプンプン)。
私はタクシーを使うほうがよっぽど子ども達のためになると思いますね。
タクシーの使い方の勉強、運転手さんとのやりとりから感じるもの、学ぶものもあるでしょうし。
それでいったら、公共のバスとかで移動したほうがいいですね。
一般のお客さんもいますし、沢山の刺激と学び、体験が得られます。
どうせ、「移動支援」というのなら、そういった将来につながるような支援をしてほしいものです。
学校の前からみんなでバスに乗って移動する際の見守り・支援。
支えるも何も、流れ作業のように子どもを乗せて、ただ送り届けているのは支援と言わないでしょ。


「自立支援」なんてもいいますが、その自立支援を受けて自立につながる人はいませんね。
だってやっているのが、自己肯定感を高めるという名の接待であり、将来介護しやすい人になるための、もっといえば、支援者が介護しやすいための訓練ばかりなのですから。
自立って、自分の身体を使い、自分の頭を使い、選択、判断、行動できることを言うんですよ。
それなのに、視覚支援の使い方の訓練、ボーロをもらったら言うことを聞く訓練、まったく般化も応用もできない社会のルールの丸暗記…全部、自分の身体を育てるものでも、自分の頭で判断できるためのものでもありませんね。
むしろ従順な姿勢を覚えさせているようです。
自立支援とは、自立につながるための支援なのですから、本人が自立に向かうにつれて支援が減っていくのが自然な流れ。
支援が変わらない、支援が増えていくというのは、自立から遠ざかっている証拠です。


「療育」という言葉もそうですね。
治療と教育、まあ、中には保育という人もいますが、まず治療はしていません。
だって、発達障害は脳の機能障害であって、治す対象ではないから。
そのような考えから脱却できていない特別支援に治療はありませんね。
療育機関の支援者に訊いてみたらいいですよ、「ここに通ったら、ちゃんとうちの子、治してくれますか?」って。
そうしたら十中八九、「いや、お母さん。"治る"っていうのはね…」とお決まりの説教が始まります。
治さない人たちが、どうして「療育」という言葉を使うのでしょうか、そういったものを看板に掲げているのでしょうか。
嘘の看板を掲げたら、虚偽表示法で罰せられますね。
せめて、私達は「育」をしています、と言わなきゃ。
介護しやすい子に育てるのも、育には違いありませんから。


まあ、そんなことをいったら、大元は発達障害という言葉がおかしいんですね。
「発達に遅れがある状態」「神経発達に不具合がある状態」というのが本来なのに、発達の障害になり、その障害は身体障害の人たちと同じような障害の意味にしてしまっているし、しかも昨日お話ししたように、発達の遅れがいつの間にか自閉症とイコールになってしまっていたりの現状があるし。
ある専門家の先生が、「"新型"って付くけれども、基本的にはコロナウィルスなんだから、対応は一緒です」と言っていましたね。
それと一緒で、不具合を障害と意図的(?)な誤訳をしたところから間違いが始まっているんですね。
「ああそうか、新型って言うけれども、いつもの風邪の一種ね」だったら、こんなことになっていなかったはずです。
「ああそうか、障害ではなく、不具合が起きている状態なんだね」だったら、その状態から抜け出せるように丁寧に育てればいいんじゃんってなったと思いますよ。
そうしたら、ほとんどの特別支援が必要なくなります。


今の特別支援って、介護が必要ないくらい元気なおじいちゃん、おばあちゃんに、あれこれやってあげて、挙句の果てに脳機能や筋力が衰えてしまう状態と似ていますよ。
そういえば、ジムに行っていたおじいちゃんがコロナで入院させられたことがありましたよね、ジムに行くくらい元気な人に入院は必要ないでしょ。
まあ話を戻すと、確かに何かしら発達に遅れがある子なのかもしれません。
でも、五体満足に産んでもらって、元気に学校に通えているでしょ。
だったら必要なのは、その足で、その身体と頭を使い、児童デイまで自力で移動することだと思いますよ。
就学時、身体がぐにゃぐにゃで、椅子に座っているのもしんどかった子が、毎日、登校を頑張り、また児童デイも自分で歩いて30分以上かけて通っていたんです。
久しぶりにあったら、身体の軸が育っていて、たくましくなっていましたよ。
もしこの子が、今のような移動支援を利用してたら、また違っていた姿だったと思います。
この子は、自分の足で育てたんですね。
もし支援が必要なら、その自分の足で歩く最初の頃の後押し、支援でしょ。


就労支援を受けて、就労できる人はほとんどいませんね。
というか、就労できるくらいの人は、就労支援を利用しない(爆)
これが三次障害というのかもしれませんが、必要のない介護を受け続けて、心身共に育たず、介護を受けることに慣れてしまった、介護に依存してしまった人たちが大勢いると思います。
「あの子、自立できるよね」と言われていた子が、ことごとく、介護慣れ、介護者依存を起こし、福祉の世界にどっぷり浸かっていますよね。
やってあげることって、やるほうにとっては気持ちが良くても、受けるほうにとってはまずい結果につながることが多いのです。


発達に遅れがある、発達にヌケがあるって、障害ではないですね。
自分ではどうしようもない部分に対して行うのが支援ですし、それは必要なことです。
じゃあ、発達に遅れのある子ども達に、今の特別支援は、ちゃんと支援できているのでしょうか。
それって余計なお世話じゃないの、それって介護じゃないの、介護しやすい子に育てているだけじゃないのって、みなさんは思いませんかね。
私は思いますよ。
未発達って、どうしようもないことではないもん、あとからでも育てられるもん。
育てるっていうアイディアと方法があって、そしてその力を子ども自身が持っているから。
今一度、我が子に、目の前の子の、何を自分は支援しているのか、それって介護になっていないか、一人ひとりが考えるときだと思います。


児童デイの送迎は、全部、タクシーにしたほうがいいですね。
もし一人で乗るのが難しい子がいたら、それこそ、同乗者が支援になります。
就労支援はジョブアプリに、診断もアプリに。
早期療育は全部やめて、その分、幼稚園、保育園の先生を増やして統合保育にしたほうが、発達の遅れやヌケが育つ可能性大、というか、そうやって発達に遅れがある子も、みんなの中で遊び育ってきたんですね、発達障害バブルの前までは。
放課後は、学童と地域の習い事と公園。
将来の生活の場である施設も、グループホームも、同じお金があるのならホテル暮らしにすればいい。
3食付いて1万円くらいでしょ、温泉も入れるし、スタッフも優しいし、部屋も掃除してくれるし。
特別支援なくしたら、毎日、Go to トラベル♪


特別支援の世界って、介護を「支援」という言葉に置き換えることで発展してきたんですね。
発達に遅れがある子ども達に、まだ今まさに育とうとしている、発達の真っ最中の子ども達に、「介護します」というのでは予算はおりないでしょ。
まあ、反対に、いつまで経っても福祉に予算が増えないのは、「自立につながっていないよね」って把握されているからだともいえますが。
発達に遅れがある子ども達に必要なのは、その遅れを育てる環境であり、時間なのです。
発達って療育機関だけのものでも、支援者だけが持っているものでもないでしょ。
登下校の道のり、親子の間に、家にも外にも、自然の中にも、それこそ、この世界全てが発達の場ですよ。


さあ、ギョーカイ用語を使うのはやめましょう。
使っているうちに、ギョーカイ脳になってしまいます。
大事なのは、子どもさんが感じている内側を言葉にすること。
そして親御さんが感じているそのままを言葉にすること。
言葉は道具であって、道具に心が支配されてはいけません。
「うちの子、発達の遅れがある。だから、そこを丁寧に育てよっ(^^)」
これが親子の願いであり、親子の心にピッタリな言葉ですね。




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