2020年10月25日日曜日

【No.1118】他の家の育ったエピソードは「希望」と「考えるきっかけ」

人間、「ない」を目標にすることはできないんですね。
「ない」というのは具体的ではありませんし、だからこそ、そういったもんを思い描きながら何かをするって言うのは難しいんです。
よって「二次障害がない」っていうのは目標になりませんね。
二次障害が起きないようにするために、早期から療育に通う、療育を頑張って受ける。
イメージできないものを頑張ることはできませんので、そういったことを目標に掲げ、療育を受けていると、いつの間にか受けることが目的となり、振り返れば何のための年月だったのかと思うことになってしまいます。


ですから、「ない」ではなく、「ある」を目標にしなければなりませんね。
たとえば、「一人で宿題を始めて、終えることができる」とか、「自分で尿意を感じて、トイレで排泄できる」とか。
これだったら目指すべき姿が明確ですので、ちゃんと終わりがはっきりしていいんです。
何より、その子の顔、姿が浮かびますね。
お子さんにとってそうですし、親御さんにとっても待つ姿勢が保てて良いと思います。


親御さん達のお話を伺っていると、我が子の発達の遅れやなかなかヌケが埋まっていかないことのみに悩んでいるわけではないんですね。
むしろ近頃では、他の神経発達症の子どもが育っていく様子と自分たちを比べて、それが新たな悩みになっている場合が多いように感じます。
「ああ、あの子は順調に育っている(我が子は…)」
「同じようなアプローチをしているのに、うちの子と伸びが違う…」
「育った」「治った」という声は希望であると同時に、心を締め付ける作用もあるのだと思います。


そういった親御さん達に私はお話しするのですが、「診断が外れた」とか、「普通級で大丈夫になった」とか、「症状が治った」というのは、明らかに希望なんですね。
私が学生時代の親御さん達なんて、希望らしい希望すらなかったんですから。
「将来、どんなことを希望されますか?」と学生時分の私が親御さん達に尋ねると、ほとんどの親御さんが、「卒業後、家にいるのではなくて、どこか施設に入れること」「施設職員から嫌われないで生きていけること」「他人に迷惑をかけないで生きていってもらうこと」「できるだけ自分たちが長生きして、この子を置いて死なないこと」などとおっしゃっていました。
まさに、「ない」「ない」「ない」ばかりだったんですね。
なにかが「ある」姿が描けなかったんだと思いますよ。
当時は今以上に、「生涯、支援」「現状維持できたら儲けもの」「問題行動は嵐が去るのを待つのみ」なんてギョーカイ支援者たちから言われていましたから。
「治る」とか、「発達する」とか、「自立する」とか、そういった言葉も、人もいなかったですし。
だから、他の家庭のお子さん達が育っていく姿は希望以外ないのです。


その希望のみを享受できずにいる親御さんは、大きな勘違いをされていると感じます。
そうやって育ったよエピソードを発信する親御さん達は、「発達障害の子も発達する」と伝えたいという想いが中心なんですね。
決して自分が選択した方法、同じアプローチを「やってみて」と勧めているわけではないんですよ。
ある子が発達した方法を、うちの子もやったら、「同じ成果が出る」というのはあり得ませんね。
実験用のモルモットではないんですから。
同じ発達に遅れがある子でも、発達の仕方が違いますし、それまでの歩みが全然違います。
確かに同じような発達段階にヌケがある場合がありますが、こっちの子でうまく言った方法を、今目の前にいる子にアドバイスなんてことはしません。
なぜ、そこにヌケが起きたのかが違いますし、何よりも育っている環境も、本人の資質、個性も違います。
だからこそ、私たちのような支援者は、本人と家族、そして環境を見ながら、個別の助言をしているのです。
「はい、自閉症には視覚支援」
「はい、みんな、スケジュールを作りましょう」
なんていうようなのは、支援者っぽい仕事であって、一人の人間を支援する仕事ではないんですね。
一斉指導の講座に参加しても、受講者一人ひとりに合わせて助言を変えている人が本物です。


「育った」「発達した」というエピソードも、捉え方は人それぞれで、どういった状態があっての「育った」「発達した」かはわかりませんね。
万人が見て「これはまさしく発達したと言える状態ですね」とはならないでしょうし、そんなことはあり得ないと思います。
しかも、私も再三伝えているように、何で発達したかなんて因果関係がすっきり明確に示せることなんてありません。
どんなアプローチだって、その子に合わせて個別化するのは当たり前です。
厳しい言い方になりますが、本やネットで書かれていることをそのままやって「ああ、うちはダメだった、難しかった」は安易すぎです。
「育った」「発達した」「治った」と喜ばれている親御さん達は、誰かの助言、本やネットで書いていることをそのまま行っているわけではなく、必ず目の前のお子さんに合わせてアレンジしているものです。
アレンジなく、そのままコピー&ペーストは、単なる信仰です。
「信じたのに、結果が出なかった、裏切られた」と思うだけ時間の無駄ですね。


「一度、付いた診断名を外そうとしない」というのは、「発達障害の人も発達する」ということを信じていない証拠です。
いまだに、日本の特別支援の世界は、「発達に遅れがある子は遅れたまま」と考えられているのです。
だからこそ、一人ひとりの「発達したよ」というエピソードが重要なのです。
その発達を後押しするアプローチは無限にありますし、どれが良くて悪いかなんてわかりません。
それにどんなアプローチであったとしても、個別にオーダーメイドで作り上げていく必要があります。
何故なら、その子が発達するには、その子の持つ発達する力を引き出し、後押しすることが重要だからです。
結局、一にも、二にも、本人の発達する力です。
それがあってのアプローチ。
そのアプローチもすべてきっかけであり、本人の発達する力が伸びやかに発動した結果が、「育った」「発達した」「治った」になるのだと感じています。
何が本人の力を引き出すきっかけになるか、そんなものは人それぞれ違って当然ですね。


発達障害の子ども達に必要なのは、「支援」と「理解」なんていうのはチャンチャラおかしな話です。
「いつまで、何十年バカにしてるんだ、支援者たち」と言いたいですね。
発達障害の人も発達します。
その発達する方法は、子どもの人数だけある。
「専門的な支援を受けなきゃ」「早期から療育を受けなきゃ」なんてことはなく、親子の中にも、家庭の中にも、同年代の集団生活の中にも、外に、世界中に、どこでも発達する機会、きっかけはありますね。
専門的な支援、特別な支援だけが発達させるなんていうのは既に騙されている証拠。
だって、その専門家たちは「発達障害の人は発達する」なんて思っていないから。
診断基準を飛び越えて育っていくことを信じられない人たちが、どうしてその子達を発達させることができるのでしょうか。
すべて結果オーライで、育ったのはその子の発達する力が発動したから。
あるのは、一人ひとりの育つ力。
ないのは、みんなに共通するアプローチですね。




0 件のコメント:

コメントを投稿