2022年1月25日火曜日

【No.1226】施設の目標と学校の目標の違い

息子が小学校からもらってくるプリントは、毎回楽しみに読んでいます。
とくにコロナ騒動に対する考え方や世の中の動きを読みとるのには最適です。
2020年のコロナ騒動の始まりの頃は、文部科学省も「マスクの着用」を強く求めていました。
しかし、夏の熱中症や体育のマスク着用による健康被害、そして残念ながら落選してはしまいましたが静岡から選出された青山前衆議院議員が尾身会長、当時の厚生労働大臣、萩生田文部科学大臣との質疑によって強い要請が徐々に「お願い」になり、「推奨」へと文部科学省の文面が変化していきました。
それに応じて北海道教育委員会も、いつの間にかマスク着用などの感染対策の”お願い”に変わったのです。


しかし学校の文面は、いまだに「感染対策を徹底します」と記されています。
これは現場の「絶対に陽性者を出してはならない」という想いが表れていますし、子どもの健康、心身の影響が二の次、三の次になっているとも読みとれます。
ただ学校の校長、教頭は賢い人でしょうから、ここの文章にはいつも主語が抜けているのです。
学校の先生たちが「感染対策を徹底します」なら問題ないでしょう。
それは組織として、学校としてのお話なので。
でも実際は、子ども達にマスク着用を促したり、外している子を注意したり、挙句の果ては「鬼ごっこ禁止」「放課後友達の家で遊ぶのは禁止」と来たものだから、親として、一人の大人として今回も指摘させていただきました。
もちろん、文面で(笑)
この主語が誰なのかの件は、毎度はぐらかしていたのを徹底して突き、「それは学校です」という言葉が出たので、今後、文面が変わっていくかもしれません。
日本語には主語がない場合が往々にしてあり、それこそ行間を読む文化ですから、それをうまく利用し責任回避で「読み手の責任でしょ」という風に出してくる人達がいるので注意が必要ですね。


私は福祉と教育の世界にいたことがありますので、こういった表現、言葉の両者の違いに感じることがあります。
それは目標を立てるときです。
福祉施設も、毎年、新年度開始時に支援目標を立てます。
その際、気を付けるルールがあって、それは「誰が見てもわかる目標を」と「評価できる目標を」立てることでした。
たとえば、「トイレの自立」「一人でトイレができるようになる」などはダメで、「排便時、自らトイレの便器に座り、用を足す」とか、「トイレットペーパーを取り、便の付着がない状態までおしりを拭くことができる」とか、「拭きとり後、便器のふたを閉めたあと、レバーを押し、流すことができる」とか、「排便後、トイレの手洗い場に移動し、手を洗うことができる」とか、とにかく具体的に目標を立てるのです。


その理由は、利用者の人達が知的障害の重い人ばかりだったのもありますが、あくまで主体は利用者本人である、ということがあったと思います。
また人権の面での意識もあったはずです。
もし曖昧な目標、なんとでも解釈できるような文面を書いてしまうと、本人たちからの訴えはないものですから、支援者は少しでも仕事がラクになるようテキトーに支援するようになるでしょう。
それこそ、提出することが目標になる目標を立てることになるので、実効性が乏しく、本人たちのQOL、自立度が向上することのないお役所文章になるのです。
施設職員を辞める前の2,3年は職員たちが立てた目標と年度末の評価を確認助言する役目に従事していましたので、とくにあくまで「利用者本人のための目標」というのは強く意識していました。


退職後、そこから学校の世界に入るのですが、まあ、驚きの連続です。
もちろん、サンプル数が1校で、短い教員生活でしたので、これで「日本の学校全部」と申し上げるつもりはありませんが、とにかくお役所文章でびっくりしました。
だって、最初に言われたのが、「親から突っ込まれないような目標を立てる」ですから。
なるべく良い印象を与えるような文章を書き、そして評価はいか程にも書けるような目標を立てる。
施設ではとにかく「具体的に」でしたが、そこからとにかく「曖昧に」になったのです。
しかも、前期の目標の評価はちょっとできたように書き、後期の目標はしっかりできるようになったと書くのがコツという先輩の貴重なご意見を賜りました。
学生時代から親御さんが「学校ではできると言われるが、家では同じことができない」という話は聞いていましたが、そもそもその目標自体が曖昧で、評価もほぼ文章の創作活動だったのなら、「そりゃー、家でできるはずはないよな」と合点がいったことが思いだされます。


安倍嫌いのマスコミ、野党同様に、「桜を見る会」や森友学園に関わる文章改ざん問題に注目していた国民は多かったと思います。
今も国土交通省の統計の不正問題が挙がっています。
そういった出来事は社会の縮図であり、私達の生活の中にも同じ構造、問題が隠れているのだと思います。
岸田首相の会見を見ればわかるように、「前向きに検討し、徹底的に抑え込めるよう国民の皆さまの期待に応えるべく頑張る所存であります」と、本当になにも具体的なことは言っていません。
人は責任を取りたくないとき、曖昧な言葉を使い、法的な根拠などがないときに、いかほどにも解釈できるような言葉を使うものです。
敢えて主語を抜かしてしゃべるのも、その技の一つです。


これから年度末の評価の時期になり、学校の支援ミーティングに参加される親御さんもいらっしゃると思います。
その際、気を付けて文章を確認してください。
その評価は、きちんと第三者が評価できるものになっているのか、「できる・できない」という評価は、どんな行動のどんな部分が、またはその活動全体ができているのか、できていないのか、きちんと先生に訊く必要があると思います。


よくあるパターンが、たとえば学校で「給食の配膳当番ができている」という評価があって、それを聞いた親御さんは「そんなことが学校ではできているのね」「家でもごはんの準備手伝ってもらおうかしら」と思っちゃうことがある。
で、先生も「〇〇くん、立派にできていますよ。家でもできるはずです」などと持ち上げる。
でも、家でやらせようとしてもできない。
その姿を見て親御さんは「家だから」「親だと甘えているから」などと落ち込む。
しかし何のことはなくて、学校では先生が横につき、あれこれと指示を出して配膳をやっているだけ。
つまり、「給食の配膳当番ができている」という目標は達成している。
一方で私が勤務していた福祉施設のように、「一人で給食室まで移動し、【2-A】と書かれたコンテナを持ち、教室まで戻ってくる」「鍋も蓋を開け、お玉を使い、汁を溢れないように1人分ずつお椀に入れることができる」だと、目標は未達成になります。


私自身は、本が好きですし、この行間を読む日本語の文化に面白みを感じています。
しかし、特別支援における文章、とくに目標や評価に関する言葉には厳密に注意深く読みとらなければならないと考えています。
何故なら、繰り返しになりますが、子ども達、障害を持った人たちの人権は、とてももろいものだからです。
このコロナ騒動の間、支援級、支援学校に通う児童、生徒の親御さんから、また福祉施設に入所、通所している人達から、人権侵害を疑うような報告を多く貰っています。
私も生活していて、そういった様子を見かけます。
いま、学校でも、福祉施設でも、もちろん社会全体でも、「感染予防」という大義名分のもと、多くの人権侵害が行われています。


マスクが嫌だと外そうとする子ども、人に対して、無理やりつけさせようとしたり、「指導」という名で強要したりすることがあります。
他の教室に行こうとしても、他の部屋、みんなとの共有の場所に行こうとしても、「ダメだ」と制止され、さらに特定の場所にいなさい、と命令されることもあります。
息を吸うというのは生きるための根源的な権利であり、移動の自由、どういった生活をするか、自分自身の幸せを追求する権利は憲法で保障されています。
マスクをつけるのは、あくまでお願いであり、法的な根拠はなにもないのです。
ですから、自分の意思で付ける人はいいですが、とくに意思表示や言葉の理解が難しい子ども達、人達には、格段の配慮と意思の尊重が求められるといえます。
そういうと、「子ども達の命を守るために」ともっともらしいことを言ってくる大人たちがいますが、2年間でコロナで死亡した子はいなくて、重症になった子も6人で全員回復。
10代も4人なくなったという報告がありますが、基礎疾患があった子と交通事故で亡くなったあと、鼻を検査したら陽性になった子が含まれての4名ですから、そもそもが命を奪わないウィルスに対しての「子ども達の命に守るために」は成立しません。


私は7年間の施設職員生活で、入所者達に対して多くの人権侵害をしてきたと思います。
それが施設内の秩序を保つため、支援しやすい環境を整えるため、という理由だったにせよ、一人ひとりの個人で見れば、多くの権利や自由を制限してきたといえます。
だからこそ、今、障害を持った子ども達、そして意思表示が難しい人たちの人権には意識的に取り組んでいます。
先生や支援者側には人権侵害をしているという意識はないと思いますが、「それが普通の子、大人だったら」という視点で見れば、まずいものが少なくないはずです。
どうしても知らず知らずのうちに、またそういった流れに生きやすいのが、障害を持った人たちの生活です。
普通級の子ども達ならテストの点数などで客観的な習熟度、理解度が確認できますが、支援級、支援学校に通う子ども達は、ある意味、いかようにもなりますし、いかようにもされてしまう危険性があります。
ですから、子ども達の学ぶ権利を保障するための【目標と評価】を丁寧に見ていく必要があると思います。
是非、「この目標の主語は誰かな」「できるって一言で書いているけれども、本当に一人の力でできているのかな。他の場所でも応用してできる状態なのかな」などという視点を。




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2022年1月24日月曜日

【No.1225】支援の終わらせ方

「戦争は始めるよりも、終わらせる方が難しい」と言われます。
日露戦争のときも、「有利な戦況での収束」を戦前に計画しており、開戦後すぐに伊藤博文の依頼で金子堅太郎がアメリカのルーズベルトに会いに行っています。
それが翌年の講和条約締結に繋がっているので、当時の政府要人は終わらせ方の準備ができていたのだと思います。
その一方で、大東亜戦争においては、日本国内の敗戦革命派が主導権を握ったこともありますが、明確な終わらせ方のビジョンを持たないまま始めてしまった結果、流す必要のない血と日本国内の一般市民の犠牲へとつながったのだといえます。
終わらせ方がわからないまま突き進むと、それは自分たちではない何者かによって「終わらせてもらう」必要があるわけで、それが崩壊という結末になったのでしょう。


この2年間のコロナ騒動も戦争に例えられますが、日本の状況を冷静にみれば、ボヤを見て「大火事だ」「敵が攻めてくる」と言って集団ヒステリーを起こし、勝手に自滅、敗戦したように見えます。
オミクロンがどうのこうのと叫んでますが、それでも毎年のインフルエンザの流行時には程遠い状況で、こんなに無症状、軽症の通常なら患者にもならないような、また自宅で勝手に治していたような数を2年間コツコツと集めても、まだ全人口の1.6%くらいしか陽性になっていないのですから、「日本は流行らなかった」というのが未来からみた評価だといえます。
しかし、このコロナ騒動の終わらせ方のビジョンが政治には、もちろん、専門家にもないので、あとは医療が崩壊するか、社会が崩壊するかしか止まることはないでしょう。


また3月からは5歳からのワクチン接種が始まりますが、これも予定通りどんどん進められていくと思います。
私は二人の子の親ですので接種の有無について考え、選択する必要がありますが、この2年間で死んだ子供がゼロで重症になった子も7名で、「重症化予防のために接種する」という論理が破綻していますので、そんなものは受ける必要がないと思います。
しかも3月には、オミクロンは終わっているでしょうし、そこから2年前の武漢株のものを打つメリットが見当たりません。
ただ子どもの中には、風邪の一つでもひけない状態の子もいるわけですし、基本的には各家庭が考え、選択することなので、他のうちはどうでもよいと思っています。
常識的に考えれば、健康な子ども達に打つメリットはほぼゼロですが、だからといって接種の中止にはならないでしょう。
ワクチン接種も同様に、コロナ騒動の終わらせ方が決まっていませんので、隠せないくらいの被害者が出ない限りは接種が続くはずです。


「終わらせ方」というのは、療育、特別支援教育の世界でも、とても重要なことになります。
この時期は今年の春からの就学先が決まったというご連絡と、春から次年度の入学に向けての就学相談が始まることに対する相談のご連絡が重なる期間です。
また来年度の「支援級継続か否か」「幼稚園と療育に通う回数、曜日は?」みたいな話も出てくる時期でもあります。


皆さんのご相談を受けていると、「支援級に行くか、行かないか」「療育を続けるか、辞めるか」のような入り口と出口の選択で悩まれている様子が伝わってきます。
もちろん、普通級に在籍するか、支援級に在籍するか、はとても重要な話なのですが、少し浅い次元でのお話が多いような気がします。
これは親御さんをディスっているわけではなく、学校、療育、支援者側をディスっています。
「〇〇ができない」から「支援級・療育」という話ばかりで、そのあとの「どうなったら支援卒業か」「一般の幼稚園、保育園、学校に行くのか」という視点がないまま、どうも支援計画が進んでいるような気がするのです。


支援でも、療育でも、特別支援でも、最初に決定した時点から時間が経てば、その判断、計画を変える必要があります。
しかし、実際はそのように柔軟に子どもの状態、発達、成長に合わせて随時変更できる人は少ないのが現状です。
支援級に入学すると6年間、同じプリント、ずっとひらがなの練習だけで終わってしまうところなんてザラにあります。
また公教育になりますと、担任の先生は異動があり、数年で変わりますので、4月に担任になり、そこからアセスメントをして、慣れた頃にははい夏休みというパターンが多く、そうなると前年度の形のまま進みがちにもなるわけです。
さらに同じことを民間がやったらすぐにお客さんはいなくなりますが、公のものにはそこの原理は働きません。
つまり、親御さんが強く要望するか、先生、支援者側が強く意識しない限り、変わらないのです。


となると、大事なのは「支援級にするかどうか」「療育に通うかどうか」の入り口の場面、まさにこれからの時期になります。
支援も、療育も、特別支援教育も、必要な子が必要なだけ利用すれば良いと考えていますので、そのもの自体を否定するつもりはありません。
でも、この最初の入り口、話し合いのときに、「どうなったら支援終了か」という話し合いができていなければ、どんどん障害者っぽくなる道へと特別支援の入り口が続いてしまうと思っているのです。
たとえば、排泄面の未自立により1年生は支援級ということでしたら、ちゃんと「授業中、休み時間に関わらず、便意を感じ、自分でトイレに行き、排泄を済ませて、教室に戻ってこれる」状態になったら普通級転籍を準備、進めていくということの話し合いはしておく必要があると思います。
この話し合いをしていないで、つまり、「いまはこの点で支援が必要だけれども、このような状態になったら支援を緩め、外していく」ということを確認しないまま、急に3学期になって「来年から普通級お願いします!!」といっても、「はあ??」ということにしかなりません。
民間の個人塾のクラス替えとは違うのです。
税金によって国や自治体の仕組み、制度によって運営がされている。
こういった相談も多くありますが、「それは学校側も困る話で、誠意がないわけではない」という話はします。


また最初の話し合い、どうなったら支援終了かの話ができていないと、親御さんの「もう支援なくても大丈夫」と先生、支援者側の「まだ支援があった方が」「普通級は無理でしょう」という食い違いもよく起きます。
これは両者の言い分がわかる話で、これまた最初にゴールを決めていないから、合意形成ができなくて当然と思うのです。
親が子どもに最良の環境を願い、求めるのは当たり前。
一方、学校、支援者側が安パイを目指すのも当たり前。
これは政治家、専門家、医療の保身ぶりを嫌ほど見てきた私達からすれば想像は容易です。
このようにイケイケドンドンで攻める親側と、とにかく責任回避に守る学校、支援者側のせめぎ合いは、結局、声の大きい方で決着し、それはどのような結果にしろ、子どもの意見は蚊帳の外ということになるのです。


ですから、これから新年度、春を迎え、今準備の期間にあたる親御さん達には、次のようなことをお伝えしたいと思います。
まず支援を利用することは、子どもにとってマイナスにはならない。
ずっと支援級、支援学校に通っていた子の中にも、成人し、今、自立した生活、人生を送っている若者たちがいるから。
なので、支援=ダメ、普通級=良い、ではなく、すべて使い方の問題。
使い方が悪ければ、無理して普通級に行っても、ぐちゃぐちゃになるだけ。
大事なのは子どもの状態と課題を親御さん自身がしっかり理解し、掴んでおくこと。
それができて初めて、学校や幼稚園、保育園、療育機関との話し合いができます。


支援利用に関する話し合いの場では、必ず「どうなったら、支援を緩めていくか。終了していくか」を議題にすること。
支援というのは薬にも毒にもなり、必要なとき、必要な子が受けるとよりよく成長する助けになるが、そこにズレが生じると特別支援適応、いわゆる支援の世界にいればいる程「どんどん障害者っぽくなる」が生じます。
この「障害者っぽくなる」状態から、本来の姿に戻そうとしても、神経発達が盛んな時期に特殊な環境に脳みそと心身が適応し作られてしまうと、なかなか戻るまで時間がかかります。
端的に言えば、「発達のヌケ、遅れを育て直す」+「(特殊な)環境適応から自然な社会への環境適応」をやる必要があるので、大変なのです。
それが学校ルール、支援依存、支援適応、誤った社会の切り取り方などと言われるものです。
あとシンプルに、一般の子ども達が体験する回数、時間、機会との差が大きくなるほど、そこを埋めるのは大変になる(例:45分×5,6時間↔5分の個別指導×2の〇年間分の違い)。


で、話を戻すと、ちゃんと終わりを見据えて話し合いを行っておき、どうなったら支援を外していくかの具体的な状態像を確認しておきます。
ぼんやり「勉強ができるようになったら」などと言っても、「いやいや、まだ普通級の授業は無理でしょ」「算数は大丈夫だけれども、国語が。話し合いの学習が」という具合に、また「できたとしても、二次障害が、いじめが」などと屁理屈が入ってきますので、隙がないように「先生の板書を授業時間内で書き写せる」とか、「テストで5教科すべて80点以上取れたら」などと示し合わせをしておくのが良いでしょう。
あと絶対に話し合いのとき、メモなど文章で残すこと。
文章がなければ、いくら言っても、言葉でOKを貰ったとしても、「ないことになる」のが行政というものです。
私も学校側と話をするときは必ずメモし、電話口であったとしても記録は残します。
意外にこの点が抜けている親御さんがいて、エネルギー全開でようやく合意を取り付けても、あとから「前任者が異動しましたので」「そんなこと言ってましたっけ」などと言われて悔しい想いをした、という話もよく伺います。
私にいくら学校の悪口を言っても、それが行政、学校の文化、仕組みですから、知らなかった方が悪い、事前の情報収集不足ということにしかなりません。


新刊の『ポストコロナの発達援助論』でもちらっと書きましたが、国や行政に期待するのは無駄、誰かが「マスク外していいですよ」などと救世主の出現を期待するのは勘違い、何かを求めるには自分自身で掴むように動かないと棚ぼたなどは起きないのが今の社会です。
つまり問われるのは、親御さんの心身の健康と行動力、〇〇する力です。
私が行っている発達相談は、純粋に発達のヌケ、遅れはどこなのか、どう育てていけばいいか、というだけではなく、こういった親御さんの姿勢、考え方、知らなかった情報によっての悩みも含まれるといえますし、ぶっちゃけ子どもさんの発達の課題だけならほとんど時間はかからないものです。
発達の主体は子どもさん自身ですが、悩みの主体は親御さんです。
私が家庭支援にこだわるのは、親御さん自身に変わってもらうことを期待し、それが結果として子どもの発達を後押しする最大の力につながるからです。
まあ、その辺りは『医者が教えてくれない発達障害の治り方①親心に自信を持とう!』にも書いてありますので、最後に宣伝をして今回の記事は終わろうと思います。
それが書き始めたときの「終わり方」の計画でした(笑)




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2022年1月20日木曜日

【No.1224】発達障害は"社会"問題

もしこの社会に子ども達がいなければ、私達は人間として生きることを選ばないでしょう。
当然、地球環境のことなど考えないでしょうし、今がただ楽しく、本能的に生きることだけを目指し、どんどん人間からヒトに退行していくはずです。
私達大人は、次の世代にバトンを渡すことができるという感覚により、人間らしく生きることができる。
また次の世代を担っていく子ども達がいることだけで、元気に前向きに人生を生きることができるのだと思います。
仕事だって、ただお金を稼ぐためのものではなく、仕事を通して自分の力をより良い社会のために、そして次の世代により良い社会を残すために行っている面もあるでしょう。


発達障害の問題は、特別支援、福祉という狭い範囲の話ではなく、社会問題だと捉えています。
この"社会”問題という意味は、もちろん、個人の自立の問題から社会資源の問題という社会の意味もありますが、ここ数日、綴ってきた社会とのギャップから生じる問題という意味もあるのです。
連想のままにブログを書いていますので、また大事な捉え方だと思いますので、今回はまとめとしてのお話ししていきます。


「発達障害」という言葉は、特殊という言葉を連想させます。
発達障害の入門書にも、専門家の説明にも、はたまたそういった専門家、支援者が行う療育、支援にも、何か特別なことをしている特殊性の雰囲気が漂っています。
それは幼稚園と療育園の空間の違い、小学生の放課後過ごす場所の違いに端的に表れているといえます。
幼稚園でやっている内容を療育園では行わないし、療育園で行っていることは幼稚園で行わない。
行ったとしても、なんらかな特殊な道具、支援、人の手が付随しているものです。


こういった特殊性は、親御さん達を混乱させるもとです。
発達障害という普通の子とは違う特殊な子を持ち、それゆえに特殊な支援が必要になる。
そのような勘違いが、親子の自然な子育てを許さず、その子育て、何気ない親子の関わり方まで特殊なものにしてしまいます。
そうすると、発達すべきものが発達せず、どんどん障害者っぽくなっていくのです。
ただの発達のヌケ、遅れの子に、特殊な支援や療育などをしてしまったら、それこそ、その特殊な環境に脳も、身体も、順応し形作られてしまいます。


発達障害とは、やるべき発達過程を抜かした状態、またはまだ育ちきっていない状態だといえます。
それ自体、単独で存在するのでしたら、そこが育つまで待っていれば良いわけで、今のような問題にはなりません。
別に育つ場所を隔てる必要はなく、どの子も幼稚園、保育園、学童、公園で過ごせばよいのです。
ではなぜ、発達障害が問題のように取り扱われしまうのでしょうか。


それは社会との間にギャップが生じるからだといえます。
発達障害の子ども達の一見すると特殊で異常のように見られる行動は、それ自体に特殊性があるものではありません。
定型発達の子も同じような行動はしています。
ただその違いは、定型発達の子ども達が行う時期、長さです。
本来、定型発達なら0歳代に行う動きを、そこが抜けたままの子ども達が3歳くらいで行っている。
そうすると、それだけで異常な行動に見られ、「発達障害では」「自閉症かも」などと指摘されてしまいます。


確かに0歳の子が行うようなことを3歳児が行っていたら、違和感を持たれるでしょう。
しかし、定型発達の子もするような行動なら、その行動自体は異常でもなんでもありません。
ただ一般的な年齢、同年齢の集団と比べて異常に見える、というだけです。
だったら、「ああ、やりのこしていたのね」と、そこが育ちきるような後押し、子育てをすれば良いのだと思います。
同年齢の子がやらない行動をしている→異常だ→発達障害かも→特別な支援が必要だ、という流れが特殊な養育環境へ誘導し、結果的に発達のヌケが埋まらないまま、育って凸凹な発達を遂げてしまうのです。


毎年春から始まる就学相談ですが、これも「普通の6歳児と比べてどうか」という点で判断されていきます。
普通の6歳児がやり終わっていることが終わっていない、ということが本当にその子の能力としてできないのか、単に就学のタイミングとのギャップなのかの丁寧な確認はされません。
「あと半年、就学が遅ければやり終わるのに」という子ども達も、みんな、特別支援学級、特別支援学校の判定がされます。
あれだけ「一人ひとりの個性、育ちを大切に」と言っているのに、一律で就学までにはこれこれができていること、発達課題をクリアしておくこととなっているのが現状なのです。


支援ミーティングなどに出ると、挙げられている行動があたかも問題なように、障害特性かのように語られることがありますが、「それってただ4歳児の発達課題を今育て直しているだけでは」「0歳代の発達課題が抜けているから、うまくできないだけでは」ということが多々あります。
自閉症、知的障害の子にしか見られない行動でしたら、それなりに特殊な支援、アイディア、方法が必要でしょうが、定型発達の子もやる行動がただズレて出ているだけなので、それを止めさせようとしたり、別の行動へ置き換えようとしたり、挙句の果てに服薬でどうにかしようなどというのは、間違いだと思います。
でも、日本中、そういった「どの子もみんなやるけれども、時期がずれた行動」を問題行動、特殊な行動、自閉症ゆえの行動などと誤った解釈がされ、それをもとに誤った対応、教育、支援がなされているのでしょう。
これがまさに「社会問題」ですね。


定型発達という社会、そして1歳半健診、3歳児健診、6歳の就学など、さきに時期が決まっていて、そこまでに終わっていない子、時期がずれて育てている子が異常とみなされる社会システムの問題。
2つの側面で、一般的な社会とのズレが「発達障害」となるのが今の現状です。
深く悩まれ、相談される親御さん達が多くいらっしゃいますが、実際のお子さんを見れば、「いま、0歳児のヌケをやり直しているだけですね」ということばかりです。
異常でもなんでもなく、社会が求めている基準と外れているから異常に見えているだけ。
ある意味、順調な発達で、時期が来れば、ちゃんとやり切れば定型発達の流れに乗るよね、ということが多いですね。


6歳4月入学じゃなければ、教科学習ができる準備が整った子から就学という制度になれば、95%の発達障害の子ども達は普通級に入学し、普通の人生を送っていけるでしょう。
しかし、そんな柔軟な制度は日本の前例主義&空気の文化には馴染まず、実現はまだまだ先。
でも、学校制度を変えなくてもできることはあります。
それは発達障害という概念を変えること。
もっと具体的にいえば、発達障害は障害ではなく、定型発達からずれた状態であるという正しい認識を伝えていき、また定型発達の子にも見られる行動は「やりきる」ことでその段階を超えていけるという実態を見せていくことだと考えています。


定型の子もやる行動はやり切るような後押しを。
そしてやり切るまでが長い子の場合は、その前段階の発達のヌケに注目し、そこから育てていくこと。
この2点は、何も難しいことではなく、各家庭で自然な子育ての中でできることです。
もしできないとしたら、定型発達を知らないことが「異常行動」という誤認識を生んでいるだけ。
誤認識は、子どもさん本人の問題ではなくて、周りの大人の問題なので、今日からでも知れば変わることができますし、そんな誤認識、誤解を解いていくことが家族を変え、子どもを変え、社会を変えていくことに繋がると思っています。


コロナ騒動と同じように、この状況を変えたいと思うのなら、誰か特別な人物が救世主のように現れ変えてもらうことを願うよりも、今、この時点で自分の考えと行動を変える。
「マスク外していいよって誰か言ってくれないかな」じゃなくて、自分の手を使って外せばいいだけ。
それが次の世代である子ども達により良い社会を引き継いでいくことに繋がると思います。
子は宝であり、私達大人の生きる力、人間が人間らしく生きる源ですね。




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2022年1月19日水曜日

【No.1223】比べることで初めて見えてくる発達障害の本質

沖縄ではすでにピークアウトしたようで、これは南アフリカで見られた傾向と同じです。
パッと上がって、パッと下がる。
火蓋が切って落とされた一足早い春の甲子園、じゃなくて、都道府県退行のやってます大会。
どの知事が最後まで残るかのせめぎ合いでしょう。
我が北海道知事は、いつも先頭を走るのですが、今はまだ様子見の状態。
これは過去に学んだのか、はたまたただ手続きに手間取っているのか。
たぶん、一通り凡知事が出そろいマンボウが宣言される頃には、全国でピークアウトが起きているはずです。
それにしても医師会は、参議院選挙の票をちらつかせながら、もう一儲けしようとする姿勢がみられ、ほんとに腹が立ちます。
接種後の強い副反応よりも、ほぼ無症状・軽症のオミクロンですから、ノーガードでとっととみんなが暴露してしまった方が終息も早く、身体的にもラクだと思いますね。


昨年末に見た南アフリカの人達がビーチで遊んでいる姿を見て、私の中でのコロナ騒動は終わっています。
いま、私が見ている先はコロナ後の世界、とくに子ども達、若者たちに及ぼす影響です。
いま、月曜日の19時からBS11で再放送されている「カーネーション」を観ていますが、主人公の糸子が幼い我が子に「生まれてから、ずっと戦争中だもんな」というセリフをちょうど聞いたところです。
最初からさざ波ニッポンで、バカな大人たちが勝手にヒステリックを起こし、騒動を大きくしていった。
その結果、当たり前の人と人との関わり、対話、遊び、そのときしかできない体験、そして息を吸う、いろんなものを触って心身を育てるという機会が奪われた子ども達です。


戦後、大人たちがころっと言動を変えたように、コロナ騒動後も同じような醜い大人たちの姿を見ることでしょう。
そして、これから明らかになってくるワクチン接種後の中長期的な影響、コロナ騒動で当たり前を奪われた子ども達の心身の発達への影響、これからの社会を担っていく若者たちの学業、就職、生活、人生への影響、日本という社会の形への影響…。
それらに対して大人たちはきっとこう言うでしょう。
「あのときは、それが仕方がなかった」と。
論理や科学的な根拠よりも、その場の空気が支配する日本ですから、「悪いのは、そのときの空気だった」と開き直る姿が目に見えています。


ワクパスによる行動緩和は、いとも簡単に中止になりました。
国民の7割が接種すれば、普通の生活ができるようになる、と言ってませんでしたか。
接種すれば、感染しないし、他人に移さないと言っていたノーベル賞受賞者もいましたし、ワクチン後に死んだ人はいない、重症になった人はいないと大臣も言っていました。
彼らはそのときの空気に合わせて発言しているだけで、つまり、科学よりも空気を優先したのです。
最初から「権威」というだけで、うんうんと聞いている方が浅はかだと私は思いますね。


「権威」に騙されないためにも、事実、目の前の現象を見る必要があると思います。
世界の状況と比べてどうなのか、過去のウィルス、他の病気&リスクと比べてどうなのか。
比べることで、人は冷静な判断ができるようになります。
これはずっと発達の世界でも同じことを思うのですが、発達障害の中で比べるから見誤る人が耐えないといえます。
どうして発達に関わる不具合なのに、定型の発達を知らない人、それと比べない人が多いのでしょうか。


昨日のブログでも書いたように、同じ番組を繰り返し観るのは定型発達の子どもにも見られます。
他にも、ある年齢の子はその場でクルクルと回って遊ぶのです。
それなのに、クルクル回っているのはヘンな行動で、それが自閉症っぽさなどと解釈する支援者が後を絶ちません。
本来、定型発達を学んだうえに、特別支援の知識が積み上がっていくのに、そこの土台である定型を知らずに療育や支援をするなんて理解不能です。
だから、一般的な子どもでも見られる行動と、自閉症の子に見られる行動のニュアンスの違いがわからない。


端的に言えば、定型の子ども達は短期間であっという間に発達課題をクリアし、しかも同時進行で育てているため、大人が気がつく前に自らで終えている、その段階を通過していることがあります。
一方で発達障害の子ども達は、胎児期から言語獲得までの初期に発達のヌケを抱えてしまうため、広がるように積み上がっていかない。
だからこそ、同じ発達段階で留まり、それが同年齢との子とのギャップを大きくしてしまう。
さらに本来通過する時期にやっていないであとから育て直すとなると、当時行う以上に時間がかかる。
それが周囲の人から見れば、自閉症の特性、奇異な行動になってしまうのです。


だいたい同じ人間なのですから、定型の子だけやって、発達障害の子がやらない、なんてことはないでしょう。
たしかに自傷などは定型の子には見られない行動ですが、それは極度の不安や異常があれば、定型、発達障害、自閉症に関わらず行います。
ですから、支援、療育、発達援助、そして発達障害の子の子育ても、基本は定型発達であり、そこからよりよく育つアイディアを導きだす以外は、すべて特殊な芸事になるのです。
療育機関で展開されている療法に魅了し満足するのは、本人たちではなく、見ている大人たちでしょ。
観客のために行っている見せるための療法は、すべて芸事です。


特殊な子育てではなく、自然な子育てをするには、自然な発達を知る必要があります。
このように言うと、現在は一人っ子のご家庭が多いので、「自然な発達」に触れる機会が少ないと思われる親御さんも多いでしょう。
実際、そういった悩みを相談される親御さんは少なくありません。
ではそこで幼稚園、保育園の先生が読むような子どもの発達の本を読んでも良いのですが、ここに出てくるのは定型発達の中の定型発達になるので、実践では使いづらいこともあります。
第一、目的は我が子をよりよく育てる、発達のヌケや遅れを育て直すことであって、定型発達を学ぶことではありません。


ですから、私がお勧めしているのは、地域の子ども達、公園などで遊んでいる子ども達をよく見ることです。
私も我が子の子育てを通して定型発達を知ることが多いですし、公園や保育園の迎えなどに行くと、他児の姿、変化から気づかされることが多くあります。
できるだけ多くの子ども達を見ることが、またできれば一緒に遊んだり、活動をしたり、同じ時間を過ごしたりすることが大きな気づき、ヒントになります。
そういった意味では、子どもさんのより良い発達のためだけではなく、子育てをする親御さんにとっても、一般的な幼稚園、保育園に入園することが良いと思います。


コロナ騒動が及ぼす子ども達の心身の発達への影響も、ベースは定型発達であり、コロナ以前の子ども達の発達の様子と比べることで、その輪郭がはっきりしてくると思います。
コロナ禍のヌケを育て直すためにも、今後そのようなニーズ、コロナ騒動による発達障害児が増えていくと思いますので、すでに準備を行っています。
また個人的には、敗戦後の日本のように空気のせいにして、それこそ水に流そうとする大人たちがどんどん出てくると思いますので、しっかり文字や言葉などで気づいていたことを、そういった人達もいたことを残していきたいと思います。
そういった人達がいたということが残っていかなければ、今後同じようなことが起きたとき、あらゆる場面で似たような現象が起きたとき、同じミスを繰り返してしまいます。
あとから「ほんとは俺も気づいていた」というのは卑怯者のセリフです。


発達障害もなってからよりも、なる前にこそ本質があるように、コロナ後の発達障害も、2020年以前と比べることで本質が見えてくる。
そんなことを考えながら、2022年はコロナ騒動で生じる誤診を解いていけるような、そこからいち早く抜け出せるような仕事をしていきたいと考えています。




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2022年1月18日火曜日

【No.1222】動画を繰り返して観る子ども達

ご家庭に伺うと、お子さんが録画したテレビやDVD、Youtubeなどを繰り返し観ていることがあります。
親御さんとしては、その間は「落ち着いて静かにできているし」と思う反面、「このままで良いのだろうか」と不安になることがあると思います。
こういった「繰り返して観る」という行動は、ずっと昔から指摘されていることで、まさに「自閉症の特性」のような感じで、教科書的な本などに記されていることがあります。
では、このような子ども達の姿をどのように捉えたら良いのでしょうか。


よくある捉え方は、先ほど述べたように「これは自閉症の特性だ」という解釈です。
自閉症者の繰り返し行動は、常同運動や固執(こだわり)などと言われ、不安が強いゆえに同じパターン的な行動をすることで周囲の環境を秩序立てようとしている、というのが定説(?)、ギョーカイ内の中心的な解釈だといえます。
確かに、脳内で周囲から得た情報をうまく整理統合できない人は、自分の周りや行動をシンプルな一定の流れにしようとする傾向が見られます。
しかし、こういったケースは少数派、特殊なもので、いま、子育てに悩まれている親御さんには当てはまらないと思います。


教科書的な、それこそ私が学生時代から言われていた常同行動、こだわりというのは、「やらざるを得ない」という雰囲気がなければなりません。
施設職員時代を中心に、様々な自閉症の人達、子ども達とお会いしてきましたが、彼らは決してやりたいからそのようにしているのではないと思います。
何故なら、不安感が減ると、そういった行動が減少し、不安が増すと強固に決められたパターンを遂行しようとします。
もし発達のヌケを埋めるために、発達に繋げるためにそういった行動をしているのでしたら、ある程度、やりきると徐々に減少していくものです。
この不安感とシンクロする波と、徐々に落ち着いていく波の違いは、注意深く見ていく必要があります。


現在の発達援助、子育てにおいて、繰り返しの動画視聴には大きく分けて2つの背景があると考えられます。
まず環境適応、強い視覚刺激に脳の情報処理体系が作りかえられてしまった場合です。
昨日、下の子を皮膚科に連れていったのですが、3歳くらいの子が待合室で暴れていました。
その子が呼ばれて診察室に行くとき、お母さんが子どもに見せていたスマホ(動画)を取り上げたのです。
泣くは叫ぶはで大変で、仕方なく再び動画を見せながら診察室に向かっていました。
動画を見ているときはピタッと静かになり、なくなると暴れる。
乳幼児期からの動画視聴は、このくらい子どもを豹変させ、脳に影響を及ぼします。
つまり、発達に遅れがある子、または一般的な子も、早い時期からの動画視聴によって脳が歪む。
歪んだ脳を満たすために、同じ動画を繰り返し観ている場合があります。


とくに知的障害が重いお子さんや発達の遅れが大きいお子さんは、同年齢の子ども達のように遊び方が変わっていきませんので、おもちゃや遊びに興味がない息子だから、せめてもといってテレビを見せ続けたり、繰り返し動画を見せ続けたりすることがあると思います。
このような場合、本来、着目する点は、「なぜ、遊びが発達、発展していかないか?」です。
多くは感覚遊びの段階だったり、身体を使って遊ぶ段階だったりするので、本当はそちらをやりきらせてあげる環境と時間があれば次のステップに変わっていくのですが、そこで焦ってテレビや動画を見せ続けてしまうと、感覚や運動がやり切れず、結局、動画視聴の繰り返しから抜け出せなくなるのです。
感覚を育てたい→家族が不安→唯一、同年齢の子もやるような遊びを(動画視聴)&その間は落ち着いている→偏った刺激、運動の機会の減少→いつまでも感覚が育ちきらない→家族が不安…の悪循環に。


ただ忘れてはいけないのは、定型発達の子ども達も繰り返しテレビや動画を観る時期、段階があるということです。
自閉症や発達障害の人しか、こういった繰り返しをしないのなら、そこに特異的ななにかがあると考えられますが、定型発達の子ども達も同じような行動がみられます。
しかし、その違いはある時期を過ぎるとやらなくなる、または一回の視聴が長くても30分ほどで(集中力が持たない。30分以上だと集中ではなく刺激に没頭・圧倒されている)、繰り返しもちゃんと区切り(一話完結)がある、という点です。
幼児さんで年中、年長くらいになると、時間の経過、推移がなんとなく感覚的に掴めるようになってきますし、ちょうどこの時期の子ども達は物語の流れが理解できるようになります。
ですから、同じテレビや動画、本などを繰り返し観るのは、時間の経過や物語のストーリー、流れを自分で確かめ理解を深めていく時期だといえます。
飽きずに録画した番組を何度も観て、それこそ物語の場面展開や登場人物のセリフなどを覚えるくらいみます。
でも、それが就学後の国語の力の土台になりますので、繰り返しは問題ではなく、必要な発達段階なのです。


同じ場面で停止し、巻き戻して視聴を繰り返す子もいます。
その子の場合は、まだ時間の流れが掴めていないので、そういった狭い範囲での認識しかできないのだと思います。
そういった子どもさんに必要なのは、時間の流れを体感することです。
ジャングルジムを上がって行き、視線や見え方が変化していくことを体感するなど。
時間の変化、動きは、自分の身体が移動することで得るのが土台ですし、もっといえば、ハイハイなどが足りなかった子に時間の流れが掴めない子が多いといえます。
時間が変わるを体感する始まりは、自分で移動する赤ちゃん時代の寝返り、ズリバイ、ハイハイなどですから。
さらにさらにいえば時間の経過って、重力と移動、視覚の発達、内臓感覚がないと認識できませんね。


「録画したテレビを繰り返し観る」という一つの行動を見ても、その背景は複雑です。
動画視聴だけに繰り返し行動がみられるのか、動画の繰り返しも部分なのか、一話完結したあとの繰り返しなのか、自分で操作できるのか、親御さんに巻き戻しなどをしてもらわないとできないのか、遊びの発達段階はどこか、不安や情報の整理統合のレベルは、などたくさん確認するところがあります。
「同じ動画を繰り返し観る」というご相談の他に、「遊びが発展していかない」というご相談も多くありますので、こういった視点からその背景を読み解いていかれると何かが見えてくるかもしれません。
そこを「ああ、めんどくさい」と言ってしまうと、そのまま動画視聴を許してしまうことになり、時間が長くなり、どんどん止めることが周囲も、本人も難しくなります。
動画視聴が長くなるというのは、運動や感覚、呼吸などを育てる時間が短くなるということになってしまいますので、一日はみんな24時間。




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2022年1月17日月曜日

【No.1221】積み上がっていかない理由

発達に必要なのは「酸素」「刺激」「時間」ですね。
酸素は生きるための条件であり、神経を生かし、発達させるためにはなくてはならないものです。
またいくら酸素があったとしても、まったく刺激のない無の環境の中では神経発達が生じる必要はなくなってしまいますので、刺激も必要です。
その刺激は、自ら動くことで得られる刺激と、これは重力との関係性の中で生じる刺激で、光やにおい、音などの環境側から受け取る刺激があるといえます。
そして酸素が満たされ、適切な刺激を受けたあとは、やはり時間が必要になるわけで、とくに発達のヌケや遅れをもう一度育て直そうとするのでしたら、それなりに時間がかかります。


「発達のヌケ」という視点が広まり、ヌケているのなら、未発達ならそこを育て直せば良い、それには身体アプローチというイメージで取り組まれている方達が増えたように感じます。
抜けた運動発達を繰り返し行ったり、足りなかった刺激を味わえるような環境設定をしたり。
以前の親御さん達は、障害を障害と飲み込むところから始まり、できることを求めるよりも「その点は手助けしよう」「できないことは代替手段を用いよう」とされていましたので、子ども一人ひとりに応じた育ちを後押しするような自然な子育てに戻っていったことは、私も嬉しく思います。


しかし一方で親ではない支援者がその段階で止まっていてはなりません。
発達が抜けている→じゃあ、そこを育て直そう、というのは家庭の話です。
もっといえば、子どもというのは本能的に自分に足りない刺激、必要な発達課題を求めて動くものなので、それを邪魔せず、存分にやり切れる環境があれば、自らで育て直していけるのです。


よく教室や家の中を歩き回る子がいて、そういった相談を受けることがありますが、小学生、中学生が教室をうろうろ歩いていたら問題に見えるけれども、それが歩き始めたばかりの幼児さん、就学前のお子さん達ならどうでしょうか。
うろうろと動きまわるのは、その子にとっては動きまわる必要があるからです。
だけれども、学校的にいうと、一般的な年齢的にいうと、奇異な行動に見えるから、それが問題だとなるのです。


その際、「落ち着かない=問題行動・障害特性」となり、「教室では歩きまわりません」と絵カードを作ったり、精神科薬を求めたりするのは、旧来の支援。
で、「動きまわるのは本人にとって必要だから」と、身体活動を増やしたりするのは、発達のヌケの視点に立った発達援助。
そしてもう一つ先に「なぜ、小学生になっても、幼児期の課題が埋まっていないのだろうか」と考えるところがあると私は考えています。
極端なことを言えば、動きまわる子は放っておけばいいのです。
本人が満足するまで、その発達課題をやりきるまで、その時間を待てばよいと思います。
そうすれば、いつか歩きまわらなくなり、次のステップ、止まっての活動、座っての活動へと移行できるからです。


でも、子どもが育つのを温かく見守るのは家族の役目ですし、いくら「育て直し」という視点に立って仕事をしていたとしても、それはプロの仕事とは言えないでしょう。
繰り返しになりますが、学校という集団、一般的な年齢とのミスマッチで「問題」だと周囲に見られているだけで、本当のところは問題でもなんでもなく、その子のペースで育てているだけですから。
だからこそ、ただの発達の違いを育て直そうと後押しするのは当たり前の話であって、お金を貰って誇れるような仕事のレベルの話にはならないと思うのです。


中学生の子が教室の中を歩き回る。
本来、2~5歳くらいの幼児期でやりきる発達課題が、どうしてそこから10年経っても、まだ埋まっていないのだろうか。
そこに注目し、どういった背景、根っこと繋がっているかを確認して初めて発達援助という仕事になるのだと私は考えています。
端的に言えば、積み上がっていかない理由を見つけるのです。
それは前庭系の未発達からかもしれない。
それは運動発達のヌケからかもしれない。
それは背中がないからかもしれない。
それは頭と胴体のつながりがないからかもしれない。
背景や根っこは複雑に絡み合っていますが、そこを紐解いていき、どうして本人が育てようと刺激を入れ続けているのに、それがなかなか積み上がっていかないのか、やりきるに達成しないのか、そこのところが重要だと思います。


高等部生になっても、まだグルグル回っている生徒さんがいました。
回転という発達課題のはじまりは3歳からで、その中心は年中、年長時代です。
そこから10年以上経っても、クルクル回っているというのは、回転刺激が前庭覚に入力されても、それが神経発達につながっていないからです。
私の見立てでは、あと10年くらいそのまま回り続けていけばやり切れると思います。
しかし、それでは支援者はいらないですし、お仕事にはなりません。
ですから、なぜ、積み上がっていかないかを確認していき、まずはそちらから育てなおしてみては、というお話をしました。
そして先日、「あれだけ何年も何年も毎日、グルグル回っていたのに、ピタッと止まりました」という親御さんからの連絡を頂戴しました。
ある程度、大きくなった身体で回り続けるのは、本人も、周囲も大変なことがあるので良かったと思いました。


「障害だから支援しよう」という段階から、発達のヌケを育て直すという視点へ。
全部が特性で、障害と見えていたものが、「発達のヌケ」という視点を知ることで、子どもさんの行動を前向きに捉えることができるようになったと思います。
そしてその視点があれば、その子本人が育てようとする行為を、そのプロセスを温かく見守り、ときに後押しすることができます。
だけれども、お金を貰って仕事している人間が、この状態で満足してはならないでしょう。


「このヌケにはこの遊び、このエクササイズ」というのでは、あれだけ批判してきた旧来の支援と根本が一緒です。
「自閉症には視覚支援」「高機能にはSST」「ADHDにはトランポリン」と図式が同じで、自動販売機のようなその子の”顔”が見えない支援はいけませんね。
北海道でも沖縄でも、日本人でも外国人でも、大人でも子どもでも、同じボタンを押せば同じものが出てくる、そんな支援、援助。
子育てとは、ヒトを育てるとは、その子の顔が見えてくるようなものでなくては。
そこを目指す上でも、その子だけの「積み上がっていかない理由」にも目を向けていく必要があると思いますね。




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2022年1月14日金曜日

【No.1220】「支援と理解」から踏み出そうとする足を掴んでいる人達

はじめ「沖縄の米軍ガー」と言っていましたが、米兵、基地関係者がオミクロンを広げた証拠、根拠はあるのでしょうか。
一方的なイメージで言っていたとしたら、それこそ、差別、偏見ですね。
ほとんどが無症状で、症状があっても軽症。
しかも、オミクロンはそれまでとは異なり、鼻と喉にくっつくタイプに変わったのですから、「ちょっと喉がイガイガするな」「今朝は鼻水が出るな」くらいで終わっている人ばかりでしょう。
だから、昨年末からの話なので、もう日本中、オミクロン広がっていると思いますよ。
暴露しても、感染しても、発症しても、気がついていないだけ、いや、PCRを受けていないだけ。


クラスターが発生すると、必ずと言っていいほど、「中にはマスクを外していた人が」「ワクチン未接種者が」「流行地への滞在歴アリ」と報道されますが、その人達が感染の始まりとはいえないわけです。
マスクしていてワクチン2回打って地元しかいない人が周りにうつす場合もあるでしょうし、そもそもウィルスなんてこの空気中にたくさん漂っているんですし。
飲み屋にいる人達、元気な若者たち、いわゆる「気の弛んだ」人達が感染を広げているような言い方をされることが多かったこの2年間。
結局、その根底には人々の不安があり、自分の外側に原因があると思うことで、その場しのぎの心の安定を求める人が多かったのだと思います。
マスクを外し、普通の生活をしている人達を見て「あいつらが感染を広げているんだ」というのはエビデンスではなく、感情の問題、下手くそな自己対処法です。


もう一つ不思議なのは、南アフリカでは既にピークアウトで、夏を楽しんでいる人々の映像が流れているくらいなのに、そして何よりも日本でも重症者、死者は増えていないのに、どうして国民全体的に喜びの雰囲気が出ないのでしょうか。
この感染スピードで、ほとんど風邪と見分けがつかない、無症状なのですから、もう多くの日本人は暴露しているでしょう。
それなのに重症者も増えず(北海道は相変わらず重症者数0人が続いている)、死者も増えていないのですから、「ヒトとウィルスのバランスがとれるようになったので良かったね」「もう過剰な対策は必要ないね」とならないほうがおかしい。
中には、まだ煽るかと言うくらい「感染者数が増えれば、それに比例して重症者、死者が増える」という予言や個人的な願いを述べる専門家もいるくらいで、もう完全に意味不明で、意図的に煽っているとしか思えません。
死者を気にするのなら、2021年の春から急激に増えた超過死亡、1年間で10万人と言われる超過死亡の原因を気にされてはいかがでしょうかね。


このように脅威が去ろうとしても、それを長引かせようとする人達がいる。
2年前に言われたファクターXも、研究している専門家たちがいるのに、その成果がなかなか表に出て話題の中心になることは無く、さらに結局最後まで「どうすれば、発症しないか」という予防・未病の話は出てきませんでした。
「3密の回避」は「鬼畜米英」で、「気の弛み」は「欲しがりません、勝つまでは」でしょうかね。
婦人会は自粛警察でしょう。
歴史は繰り返す、だからこそ、歴史を学ぶ必要があるわけです。


発達障害の世界においても、同じような傾向がみられます。
発達障害児者において必要な支援は、お金や手助け、理解の啓発ではなく、発達障害がどうすればよくなるか、治療や解決法を明らかにし、提供することだといえます。
そのためには、過去に診断を受けた人で、その予後がよくなっている人、自立した生活が送れている人から学び、研究し、治療&解決法を確立していくことが必要です。
本来、そういった流れに専門家も、当事者、親御さん達もなるのが自然だと思いますが、どうもそういった空気感は出ません。
挙句の果てに、そういった当たり前の方向に進んでいる人達をトンデモ扱いするのです。
2000年に入り、高機能の人達に注目が集まったので、そこくらいから治療に舵が切られるかと思いきや、高機能の人たちも一緒に支援、福祉の世界に引きこまれていくだけでした。


専門家にとって「治らない」ほうが良い、発達障害ブームが続くほうが良いという方向へ意識が向きやすいのはコロナ騒動を見ればよくわかります。
コロナがなければ、生涯人知れず研究していた人達が表舞台に出られたのですから。
発達障害というのは、「治らない」「生まれつき」という前提に立っている限り、何をしても専門家は責められることは無く、悪くなれば「障害のせい」、よくなれば「支援のお蔭」、特性が目立てば薬を処方することができるし、処方し続けることも可能のです。
「病気を作り、薬を売る」というのは、うつ病、ADHD、そして今回のワクチンと同じパターンでしょう。


しかし、私は専門家だけに問題があるとは考えていません。
むしろ、このコロナ騒動も、そして長年の発達障害の問題も、長引かせているのは仲間のように見えている敵です。
発達障害をいくら経っても、「治らず、改善せず」という状態に留めているのは、こじらせた成人当事者と、子育てを丸投げしてしまった親御さん達だと思います。


成人当事者の場合、日常生活の問題のすべてが発達のヌケ、遅れが理由とはいえません。
仕事が続かないのは、発達障害だからではなく、その人に働く準備と力が揃っていないからだといえます。
もしヘンな上司や同僚がいるのでしたら、ブラックな職場環境なら、それは発達障害の有無は関係なく、その職場の問題です。
よく相談でも、「仕事がない」「同僚とうまくいかない」という悩みを伺いますが、相手方の話も聞けば、「そりゃ嫌われるよな」「単に嫌われているだけでは」という場合もありますし、そもそもが若者に仕事がない日本です。
企業としては日本人の若者を正職員で雇うよりも、海外の安い労働者を使いたいというのが現状の社会。
そういった事情を知らず、全部「発達障害のせい」では、真面目に働いている発達障害の人達に失礼な話。
つまり、なんでも「発達障害のせい」にしたい人がいて、その人達が「治る」の足を引っ張り、自立していく人達を「抜け駆け」と勝手な恨みを持ち、「やっぱり発達の人とは関わりたくないよね」という啓発を行っているのです。


5歳からのワクチン接種の準備が進んでいます。
重症者がいなくて、コロナで死んでいない子ども達に、重症化予防のための接種をさせる親がいるとしたら、それは子どものためではなく、親の不安、世間体のためでしょう。
同じように、発達にヌケや遅れがある子ども達をそのままの状態にしておくのは、親の都合以外ありません。
いま、情報を簡単に得られる時代に、「専門家が治らないって言ったから」「支援を受けることが一番だと言ったから」は理由にならないでしょう。
昭和のネットのない時代ならわかりますが、そして感覚的にも、一般的な障害とは違うな、子どもは遅れても育っていくな、というのが掴めていれば、育て治すという方向に進むことができるはずです。


今までにも、療育園から一般の幼稚園、保育園に移っていけたご家庭、支援級から普通級へ、ずっと支援級、支援学校に通っていたけれども、受験して一般の学校、一般の就職先に行ったというご家庭がいましたが、多くの親御さん達が最後まで嫌味や、「どうせ崩れる」「支援に戻ってくる」と言ってくるのが同じ障害児を持つ親だったと話されます。
どうして一緒に喜べないのか。
さらにその親御さんに「どういった子育てをしたの?」と聞けないのか、私にはわかりません。
どの親御さんも、我が子にはよりよく育ってほしいと願うはずなのに、それを願えない人たちもいる。
たぶん、今回のコロナ騒動と同じように、自分の不安感に縛られ行動できない大人たちなのでしょう。


発達障害の世界がいつまで経っても、「支援と理解」から先に進めないのは、それを望んでいる人達がいるからです。
もちろん、積極的な意味での「望み」ではないと思いますが、自分の意思で「治そう」「支援から離れよう」という行動を起こせないのは、それもまた現状の「支援と理解」を指示している力になっていると考えられます。
「マスク嫌だな」「もう普通に生活していいんじゃね」と思いつつ、マスクや過剰な対策をしている大人たちは、コロナ脳の人達と見え方は同じです。
発達障害の世界も、「こんな支援ばかりじゃいやだ」「どうやったら、この生きづらさを解決できるか、その方法を知りたい」という声と行動が起きなければ、コロナ騒動が去っても、以前のようなセミナーや50年前に生まれた支援が復活し、展開されていくだけでしょう。


現状に不満があるのなら、もっと他の望みがあるのなら、一人ひとりが行動で示していく必要があると思います。
それができないとしたら、その人達は変化を望んでいない、現状で良いと考えていると私は捉えます。
ですから今年も、「発達障害は障害ではない」「発達障害は教育や福祉ではなく、子育ての分野だ」と言葉と行動で訴えていきたいと思います。
私自身もそれらをやらないのなら、ギョーカイの一員と見られても仕方がないのですから。




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2022年1月11日火曜日

【No.1219】身体のどこに力が入ってる?

幼児さん、いいえ、小学生の子ども達でも、手に何かを持って移動する場合があります。
それを見て、一般的な支援者は「自閉症ゆえのこだわり」と言い、一般的な心理士は「母親代わり」と言います。
しかし、そういった解釈の前にチェックする発達段階があります。
それは立位が完成しているかどうか。


生後1年前後から立つことができるようになり、1歳を過ぎたあたりからよちよち歩きが始まります。
そして1歳半ごろ、歩行が安定しますが、この移行期間に子どもは手にモノを持ちたがります。
家の中では必ずと言っていいほど、おもちゃを持って歩く。
外に行けば、お母さんの指を握ったり、砂場で遊ぶシャベルを持ったり、落ちている枝を持ったり。
たぶん、指をグッと握ることで、身体のバランスをとり、歩行の補助をしているのでしょう。


歩行の発達は、腕の位置と形で確認していきます。
最初は両腕を挙げた状態で歩き、徐々に腕の位置が肩より下がっていきます。
また腕を曲げた状態から徐々にだらんと伸びた状態に変化していくのが発達の順序になります。
腕を伸ばし、前後に振って歩けるようになると、歩行の発達は完成です。
ちなみに欽ちゃん走りのように腕を左右に振って歩く子は、寝返りやハイハイなどのやり残しがあることが多く、足をドタドタと鳴らして歩く子は背骨の課題があることが多いと思います。


話を戻しますと、歩くときに何かを持ちたがる、手の指をギュッと握りしめるような行為が見られる場合、歩行が未完成の場合が多く、歩行が未完成ということは立位が育っていない可能性が高いといえます。
じゃあ、立位の完成はどのように確認するかと申しますと、身体の筋緊張の有無で見ます。
定型発達の子ども達を見ればわかりますが、立ち姿を見ると、身体のどこにも力が入っていません。
とくに力を入れることなく、スッと立てるのが基本的な状態です。
重力との間できちんとバランスがとれていれば、脱力状態で立つことができますし、もし身体のどこかに力を入れないと立位の姿勢を保てないのでしたら、運動発達のヌケ、感覚で言えば前庭系の課題が考えられます。


お年寄りの方たちの場合は、姿勢の歪みや筋力の低下により、身体の特定の部位を緊張させ、そこに力を入れて立ち、歩くということが見られます。
しかし、子どもさんの場合、歪みや筋力の低下というよりも、発達のヌケ、未発達が背景にあるでしょう。
別の言い方をすれば、発達のヌケ、未発達がストレートに立位や歩行などの基本的な動作に表れやすいのです。
だからこそ、自閉症の特性や愛着形成の問題と捉える前に、言葉以前の発達過程に注目する必要があると思います。


私の発達相談では小さい子どもさんの場合、「立って」「歩いて」などと指示すると、それだけで緊張してしまうことがありますので、自然な動き、遊んでいる姿からアセスメントを行っていきます。
座った状態から立ち上がるとき、肩に一度、力が入る。
走るときだけ、あごに力が入る。
クレヨンで絵を描いている反対の手がいつも緊張している。
歩くと必ず手に汗をかいてる。
こういった「力が入る」という視点からも、発達のヌケ、未発達を確認していきます。


結構、大人の場合も、基本的な動作の際、身体に力が入っていることがありますが、子どもさんの場合と違って、生きてきた年月と共に姿勢の癖や筋力の課題、もちろん、心理的な緊張が身体の緊張に繋がることもありますし、背面からつながる緊張の場合は愛着の課題も確認する必要があります。
あとは同じ立位の発達を見るにしても、足の裏の状態、足の指の発達、歯並び、表情筋の状態なども総合的に見なくてはなりません。
アセスメントは年齢が上がるにつれて、その背景が複雑になり、根っこが見えづらくなりますが、子どもさんの場合はとてもシンプルで見えやすいといえます。
その子どもさんのアセスメントでは、「どこに力が入っているか」が大きなヒントになりますので、いろいろな動きを見てみてください。




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2022年1月6日木曜日

【No.1218】発達の課題が見えた時点で、すでに緊急時ではない

東日本大震災が起きた直後、必要だったのは高度な知識、技能を持っている専門家たちでした。
全国の自衛官、特殊部隊の人達が東北に駆けつけ、被災された方たちの救助、身体のケア、危険な箇所の整備、撤去を行ってくれました。
そこから時間の経過とともに、被災した人達の心の問題へ、今後どう生きていくか、この被災した街をどのように再建していくかへと移っていったといえます。


コロナ禍においても、2020年初頭は専門家の力が必要だったといえます。
その当時は「未知のウィルス」だったわけで、危険度がわからない時期はすべての人達にとって緊急事態です。
しかし、その正体、致死量、症状、対策が明らかになってきたあとは、徐々に細かいところを見る専門家ではなく、全体を見ることのできる専門家、人達が必要になってくるわけです。
ですから、コロナ禍を騒動にしてしまった失敗の主因は、細部から全体へのシフトチェンジを失敗したことで、感染症の専門家がいつまで経っても出ているようではダメなのです。


こういった社会情勢、ある意味、歴史から私達は教訓を得て学ぶ必要があります。
緊急時というのは、専門知が必要です。
怪我をした、病気が生じた。
そういった場合は、専門知において迅速に対応する必要があります。
一方で発達の問題、課題は総合知が必要になります。
何故なら、発達とは突発的な問題とはいえないからです。
「目が合わないな」
「ハイハイを飛ばしたな」
「言葉が遅れているな」
という課題が出た時点で、ある程度の時間が経過しているといえます。


我が子の発達障害に気がついた時点は、親御さんにとっての緊急事態です。
ですから、すぐに「専門家」を連想し、そういった人達を頼ろうとします。
しかし、子どもの視点に立てば、その時点はすでに緊急事態ではなく、例えるのなら慢性期なのです。
慢性期に必要なのは、総合知であり、子どもさんの内的な要因、運動発達、栄養、環境など、あらゆる角度から総合的に観ることで、生活全体をより良い発達につながるものへと変えていくことになります。


ハッタツの分野の難しさは、この親御さんの緊急性と子どもさんの緊急性にギャップがあることだといえます。
親御さんにとっては大事な我が子ですから、発達の課題が見えている限り、緊急事態というのは変わらないでしょう。
だから、いつまで経っても専門家、専門知に心が傾いてしまいます。
でも、発達の課題はそこだけを見ていても、そこだけにアプローチしていても怪我や病気とは違いますので解決しません。
専門家のところに通い続けても、各地の良いといわれている専門家、専門機関を訪ねていっても、我が子自体が変わらないのは、発達の課題が解決していかないのは、目を向けるべきところを間違えている場合が多いといえます。


じゃあ、具体的に発達障害児のいつが緊急事態なのでしょうか。
それは発達の課題の始まり、根っこです。
課題が表面化する前の半年、一年くらい前を観ていく必要があります。
誕生後、1年以内に表面化した課題でしたら、受精前、胎児期、出生時のどこかに課題があったのだと推測されます。
今のご時世で言えば、表情が作れない、言葉が遅れている、呼吸が浅い、姿勢が崩れているなどの子ども達の課題が見えだしているので、まさにこの2年間のコロナ騒動、過剰な対策が影響しているのでしょうし、まだそういった問題が明確に出ていない子ども達にとっては今がまさに緊急事態だといえます。
この緊急事態を生きている子ども達に必要なのは、迅速な対応であり、その課題と解決に特化した専門知です。


コロナ騒動、この2年間を体験した私達大人は、こういった体験を実生活に当てはめて考える必要があると思います。
世の中の流れ的にいっても、どんどんマニアックな方向へと向かったハッタツの世界、療育の世界の歴史を見ても、専門知から総合知、狭い分野ではなく、全体的な視点で考える人材、サービスがこれから求められていくはずです。
私達はコロナに罹らなければ幸せ、コロナ以外で死んだなら良かったね、ではないのです。
ゼロコロナ、コロナ撲滅なんて非現実的な話です。
同じように人生、まったくの課題、悩みがないことも、それこそ、まったくもって発達の課題、凸凹が生じない真っ平らな発達などあり得ません。
だからこそ、その人の生活、人生をトータルして幸せに進んでいく道を模索していく必要があると思います。


緊急時を過ぎた発達障害の子ども達に必要なのは、「よりよく育つ」という総合的なアプローチであり、生活全般の改善です。
なので、やっぱり中心は専門家ではなく、本人と家族だといえるのです。




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2022年1月5日水曜日

【No.1217】子ども次第であり、親次第

「PCR陽性=感染」という設定。
「無症状者が感染させる」という設定。
「(新コロのみ)年をまたいで累計数を出し続ける」という設定。
「症状がない人も患者」という設定。
「マスクが感染を防ぐ」という設定。
「変異したウィルスは必ず飛行機に乗ってやってくる(世界同時多発的に同じような変異も起きるのでは)」という設定。
もういい加減、やめてくれないかと思いますし、気づけよ国民という感じがしています。
ここまでくると、意図的に引き延ばしたい人達がいるとしか考えられませんね。


今回のウィルスで顕著だったのは、人による違いです。
アジアと欧米の人達では状況が大きく異なりました。
同じ日本人でも、高齢者と若年者・子どもでは症状や命の危険度は異なります。
子どもにとってはただの風邪であり、毎年命を奪うインフルエンザのほうが脅威だといえます。
ある人にとってはリスクになりますが、ほとんどの日本人にとっては2年間も過剰な対策をし、自粛をし、個人の権利と幸せ、自由を投げ捨ててまでをも恐れるべきリスクではなかったのです。


本来、個人個人でリスクが異なりますので、「国民全員が」というのはマイナスのほうが大きくなるといえます。
社会全体でリスクがある人を守り、それ以外の人は動いて社会を回す必要があった、人生の幸せのために行動すべきであった。
しかし、出てくる専門家は個人を殴り捨て、すべてが均一の人間かのように提言をしてきました。
個人という差を勘案しないから、「気の弛み」という行動の違いによって感染するしない、リスクのあるなしを設定していたのだと思います。
健康な人はいちいち消毒しなくても、マスクをしなくても、会食をしても、おのれの自然免疫でウィルスをやっつけてしまうでしょう。
一方で、病院という感染対策が徹底された場所でも、クラスターは起きているわけで、もともと健康に不安を抱えている人がいる場所ですから、彼らの気の弛みのせいではなかったはずです。


ハッタツの世界に20年ほどいますが、口では「個別支援」「一人ひとりが違う」と言いながら、一度「自閉症」「ADHD」などが付くと、均一な支援、療育が行われてきました。
何度も申し上げているように診断名で支援も、療育も、教育もできっこないのです。
同じ自閉症という診断名でも、どうしてその症状が出ているのかは個人個人で大きく異なります。
年齢による違い、環境による違い、どんな発達課題を抜かしているか、どのくらいの期間、そのヌケた状態が続いているか。
親御さんや支援者たちは、その症状に対して、どんなアプローチを行ってきて、どういった方向で発達の後押しを行っているのか。
それらを勘案しなければ、同じ診断名でも、同じ症状でもアプローチの仕方が異なります。


2000年代、高機能ブームがきたあと、彼らの社会性の課題について画期的なアプローチができたと、こぞってSSTを学び、実践していた時期がありました。
バカの一つ覚えのように、全国各地、療育機関でも、施設でも、学校でも、相手が自閉症、発達障害者なら、中には身体障害の子ども達にもお構いなく、実践していたのです。
その状況を見て私はすぐに過去のTEACCHブーム、ABAブームを思い浮かべました。
猫も杓子も自閉症で、視覚支援を行い、トークンとご褒美で行動を変えようとしていた人達の姿。


私がここで申し上げたいのは、TEACCH、ABA、SSTなどの療法が役立たずであったというのではありません。
それぞれの療法も、人によっては意義のあり、効果的なものもありますが、個人によってはまったく効果がなく、むしろ逆効果だったものもありますし、同じ人であっても発達段階、年齢、時期によって良い悪いが変わることもあるのです。
つまり、療法自体は最初から個別的であり、限定的なものであった。
しかし、それを使いこなすだけの支援者、先生側に問題があったのです。
習ったことをそのまま、目の前の自閉っ子に行うのは人体実験になります。
習ったことをまず支援者、先生が咀嚼し、自分の血肉にしたあと、目の前の自閉っ子に合わせてカスタマイズして初めて意味のある支援、療育になるのだといえます。


結局、人が人を育てる話になりますので、どんな専門性をもっているか、どんな知識、知見、技術を持っているかよりも、大切なのはカスタマイズできる力です。
ですから私は事業計画の段階で、特定の療法を売るような商売はしないと決めていました。
特定の療法ですと、ブームが去れば事業は終わりになります。
またそのブームが去ったあとも、自分の療法にこだわるのなら、それはお客さんである個人がその療法のほうに合わせなくてはいけなくなります。
ハッタツの世界で見てきた数多の療法は、一度下がると再び上がることはありませんでした。
根本が運用する側のカスタマイズ力になりますので、そこに目を向けなければ、どんな療法をやろうと運次第になります。


子ども達の発達の課題をクリアしようとするのなら、また安定した生活、自立した生活を目指すのなら、まずは親御さん自身が我が子にカスタマイズできるくらいにならなければなりません。
しかし、支援者は親御さんをお客さん扱いしてしまいますので、そして親御さんの力量の差についての言動はご法度なので、カスタマイズ力は求めない。
となれば、表面的な療法のマネばかりが氾濫し、結局、子どもさんの課題はクリアできない。
で、よくわからないけれども、同じ療法をやっているのに、うちの子に効果がないのは、自分自身の勉強が足りないからだと、親御さんは無駄に落ち込む。
そこで、「いやいや、カスタマイズできていないからですよ」と支援者は言わない。
というか、支援者の大多数は子ども一人ひとりを観る力、習ったことを改変する力に難がある。
中には作りかえられる力を持っている支援者もいるけれども、欧米のお免許システムにより「勝手に習った方法、順序を変えるのは契約違反」という誓約書にサインしてから資格を貰う場合もあるので、手足を縛られていることもある。


という姿を見てきましたので、特定の療法にこだわるのではなく、いいとこどり。
結局、子の発達は親次第でもあるので、親御さんを後押し、援助する仕事にしようと考えました。
ですから、家庭訪問という形態をとっていますし、子どもさんのどういった部分に注目するか、そして具体的に今ある環境でどういったアプローチができるかをお伝えするようにしています。


ここ数年、栄養療法がブームですが、それは子どもさんが変わること以上に、親御さん自身が変化を実感するからではないでしょうか。
それだけ私達大人の健康は長年の蓄積と現在の余裕の無さから脆弱なんだと思います。
親御さん自身が心身を整えることで、脳みそと身体に余裕が生まれます。
その余裕が新たな発想、柔軟な発想を生み、子育てという身体活動のエネルギーとなるのです。
親御さんがいくらお金持ちでも、いくら懸命に療育や支援に通っても、支援者は家庭生活を含めた24時間をカスタマイズすることはできません。
できたとしても、その療育機関で過ごしている数時間、学校で過ごしている数時間なものです。
しかも、支援者自身がそのカスタマイズ力をもっているかどうか…。


子どもの課題がクリアできるかどうか。
子どもの発達障害が治るかどうか。
それ自体がすべて「親次第」と申し上げるつもりはありません。
何故なら、発達の主体は子どもさん自身だから。
子どもさんが何を育てようとし、何に興味関心を示すか、そして持っている発達する力によるところが大きいのです。
しかし、その子どもさんの内側にある発達する力をより大きくするか、発揮できるだけの環境を準備できるかは親御さんの力によるところが大きいといえます。
幼児さん、小学校低学年くらいまでは、家庭と親御さん、家族が生活の大部分を占めるからです。
今年も「自分自身が変わりたい」「より良い育ちの環境になりたい」という親御さん達と共に頑張っていきたいと思っております。




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2022年1月1日土曜日

【No.1216】2022年初めのご挨拶

あけましておめでとうございます。
いつものようにジムの準備をしていると、妻から「今日も行くの!?」と驚かれました。
「筋トレに正月休みはなし」と言い、家を出た私の前には、昨日きれいに雪かきした場所に昨日以上の雪が積もっていました。
いくら頑張って雪をかいても、いくらお正月だったとしても、雪が遠慮してくれるわけではありませんね。


なんちゃって雪国の人間ではありますが、こうやって自然の厳しさ、自然の前ではヒトは無力だということを体感することが大事ではないか、と思いました。
きっと日本に住んでいたご先祖様たちも農業を通して自然がコントロールできないことを、天変地異を通して自然の大きさを日々体感し生きてきたのだと思います。
こういった自然との対峙が生活から失われていった結果、コロナという自然現象を人間がコントロールすることができるという勘違いを起こし、騒動を長引かせたのでしょう。


2022年の一年は勝負の年だと捉えています。
4月には、てらっこ塾が開業10周年目に突入します。
事業は10年続けてやっと一人前という想いがありますので、10周年を走りぬけられるかが勝負になります。
10年経って初めて起業前に否定的な見解を持っていた人達をギャフンと言わすことができるでしょう。


そして昨年は共著として『医者が教えてくれない発達障害の治り方』を、今年は『ポストコロナの発達援助論』を出版させていただきますので、本の内容以上のモノが出せるかが重要になっていきます。
正直、『ポストコロナの発達援助論』の執筆に持っているすべてを出し切りましたので、今は必死に学び直し、次の何かを見つけようともがいているところです。
アセスメントとして新たなポイント、見立て方を見つけるかどうか。
親御さんに伝えるという技術の向上という方向へ進むか。
具体的な発達援助の方法としての技を身につけることができるか。
親御さんための発達相談、家庭支援サービスから事業の形態としての広がりへと進むか。
発達障害を持っている子ども達から別の子ども達への、人たちへの援助に変わっていくか。


2022年を走り切ったあと、てらっこ塾が、大久保という個人が、援助者がどのように変化しているかは今検討がつきません。
だからこそ、目の前に来た依頼、仕事、縁があった子ども達、親御さん達のために全力で関わっていきたいと思っています。
昨年末にはコロナ騒動の影響、過剰な自粛、感染対策が子ども達のIQにも悪影響を及ぼしているというレポートが発表されました。
いち早くコロナ騒動を終わらせ、コロナ禍で生じた発達のヌケ、悪影響から育て直しへと舵を切ることだといえます。
単に発達のヌケを育て直すだけではなく、プラスされたコロナ禍のヌケも育て直し、体験のやり直しが必要です。
まずはその辺りから始めたいと思います。


本年もどうぞよろしくお願い致します。
プライベートでは、2年連続中止になった函館マラソンに向けて筋肉増量から走れる身体作りへと頑張りたいと思います!
令和四年一月一日 てらっこ塾 大久保悠




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