投稿

1月, 2022の投稿を表示しています

【No.1229】言葉は便利だが、言葉によって子育て、支援、援助の枠が決まってしまう

イメージ
「ワクチンの”副反応”」というと、それを接種した側に反応を起こした問題があるように感じます。 一方で「ワクチンの”副作用”」というと、それはワクチン自体に何らかの原因、問題があったのでは、という思いを懐かせます。 どうして今まで副作用と言っていたのに、今回の新型コロナに関しては、mRNAワクチンに関しては副反応という日本語を使うのでしょうかね。 今は冬至の真っ最中で、一年で一番寒くて乾燥する時期になります。 この時期は毎年、風邪やインフルエンザなどのウィルス感染症が流行りますので、1億2千万人の日本で一日何万人も体調を崩す人がいても不思議ではありません。 インフルエンザは冬の2,3ヶ月間に発症者が集中してだいたい1千万人から2千万人病院に行きます。 だから、いま、「陽性者になりたくない」「これ以上、増やさないように」などと言って、更なる自粛と過剰すぎる感染対策に向かっていますが、陽性にならないことを目指すのではなく、発症しないことを目指すほうが合理的であり、ごく当たり前の考え方だと私は思います。 つまり、これも最初にPCRの陽性者を「感染者」と言葉を置き替えたことに始まっていて、私達の周りに無数にあるウィルスを体内に入れないなんて不可能なことを一生懸命目指していたのが非科学的な行動だったわけです。 ウィルスを体内に極力入れないのでしたら、家の中から一歩も出ず、ひきこもっているしかありませんね。 言葉の置き換えは、発達障害の世界にも多々あります。 もしかしたら、誰かが意図的にそうやった言葉の置き換えを行っているかもしれないとすら思えるくらい氾濫しています。 発達障害の”障害”もそうですし、「衝動性」「学習障害」「視覚優位」「生まれつきの障害」「軽度」「重度」など、挙げればきりがありません。 そもそもの教科書、語句が間違っているのですから、それを使って勉強した支援者、先生、親御さんも知らず知らずのうちに置き換えられた言葉のニュアンスから子どもさんを捉え、またさらにそこから支援方法を導き出そうとしてしまいます。 ですから結局、その支援、援助、子育てを見れば、「〇〇くんの支援」ではなく、「自閉症児の支援」になっていることがあります。 ヒトによって免疫力や体力、健康、生活環境、年齢、身体の状態が異なるのに、そこはすっ飛ばし「全員一斉にマスクして自粛して」というのと似ていますね

【No.1228】親御さんも参加する教科書作り

イメージ
支援学校では教科書を使っていないところが多く、また支援級においても、教科書に沿った学習をしているところもあれば、ほとんど教科書を使わず学習をしているところもあります。 意外にこの実態を知らない親御さんは多く、もちろん、初めてのことですから仕方がない面もありますが、こういった話をすると驚かれる方もいらっしゃいます。 「じゃあ、どうやって授業をするのですか?勉強するのですか?」という疑問が湧くのは当然で、「固定された教科がなく、いろんな要素を柔軟に子どもに合わせた授業を行っているようです」と形式的な説明を行います。 実際、私も某国立の附属養護学校の授業の補助、教育実習に行ったときはその事実に驚き、教科書がないということは、一つずつ先生が授業を考え、指導しなければならないということで、それだけ先生の力量が問われると思っていました。 当時、養護学校の先生は普通級の先生よりも大変で、専門性が求められる仕事だと思っていましたが、どこの組織、仕事も同じように1割くらいが優秀で8割が普通の人、残り1割が働かないということがあり、一生懸命、いちから授業を組み立て、子どもに合わせた教育をしようとしている先生はごく僅かで、結局、前年度の同じ時期にやっていたことをそのまま授業でやるだけ、という先生ばかりでした。 建前では「教科にとらわれない柔軟な教育」となっていますが、実際は何年も同じ内容の繰り返しだったり、「それを行って本当に子どもの知識や技能の獲得に繋がっているの?」、悪く言えば「時間つぶしじゃないの」と見えることがあります。 コロナ以前から感じていたことですが、特に支援学校に通っている子ども達の場合は、「怪我なく、落ち着いた状態で下校させる」が第一目標になっているような感じがあり、教育の内容が二の次、三の次になっているような気がします。 また実際、親御さんの中にも、「元気に通ってくれればいい」という人もいて、それがある意味、支援学校の先生たちをサボらせてしまっているようにも思えます。 支援学校で中心に行われている教育というのは、身辺自立、身の周りに関すること、そして将来の福祉的な仕事に向けた作業学習だといえます。 申し訳ないですが、支援学校に通ってくる子ども達は「重い子達」という認識があり、最初から福祉の予備校、もっといえば、福祉までの時間つなぎ、経過処置のように言えなくもないと思い

【No.1227】抽象的な相談は具体的に、具体的な相談は抽象的に

イメージ
私のところに届く発達相談の依頼には、とても具体的な内容のものから抽象的な内容のものがあります。 「〇〇という行動をどうにかできる方法を知りたい」 「発達の遅れの根っこをアセスメントしてほしい」 「普通級と支援級で悩んでいるんだけれども、それぞれのメリット、デメリット、我が子の状態からどんなことが考えられるか教えてほしい」 「家でやっている発達援助がどうもつながっていないようなので、チェックしてほしい」 などが具体的な相談で、 「保育園から発達障害の指摘を受けてしまいました。どうしたらよいかわかりません。助けてください」 「診断は受けていないけれども、なんかうちの子、困っていると思うんですけど…」 「とにかく家で頑張りたいです。何からすればいいか、アセスメントと助言をしてください」 などが抽象度が高い相談だといえます。 親御さんも人それぞれで、我が子の発達障害に気づいてから間もないのか、あれこれ試行錯誤して、また療育や支援を受けてからの相談かでも内容の具体性、抽象度が変わってくると思います。 どちらが良いとか悪いとかではなく、単にそれぞれ違うだけです。 ですから、その違いに合わせて言葉や態度、伝え方、デモンストレーションの仕方、どこまで言うか言わないかを変えるのは、私の役目になります。 具体的な相談をされる親御さんは、我が子の発達障害がわかってからの子育ての時間がある程度の期間ある方が多く、一通り療育も受けたし、本も読んだし、家でもあれこれやってみたケースが多い印象を受けます。 だからこそ、冷静に我が子のことを、そして課題を見ることができ、「あとここがクリアできればなぁ」という想いがあるように感じます。 こういった親御さんに対する発達相談を行う際、大事なのは「視点をズラす」ことだと考えています。 親御さんも子育てを通して型ができてくるものです。 また親子の関係性の中でのパターンもできている場合があります。 ある意味、固まってきたゆえに届かないところがある、見えない部分がある、ということでもあるので、違う角度から、いい意味で膠着した関係性、思考を揺さぶるような助言を心掛けています。 同じように具体的な相談をされる親御さんの中にも、試行錯誤した結果の固さ、親子の関係性の固さではなく、そもそも親御さんご自身が固い特徴を持っている方もいます。 もちろん、心身に余裕が無いゆえに

【No.1226】施設の目標と学校の目標の違い

イメージ
息子が小学校からもらってくるプリントは、毎回楽しみに読んでいます。 とくにコロナ騒動に対する考え方や世の中の動きを読みとるのには最適です。 2020年のコロナ騒動の始まりの頃は、文部科学省も「マスクの着用」を強く求めていました。 しかし、夏の熱中症や体育のマスク着用による健康被害、そして残念ながら落選してはしまいましたが静岡から選出された青山前衆議院議員が尾身会長、当時の厚生労働大臣、萩生田文部科学大臣との質疑によって強い要請が徐々に「お願い」になり、「推奨」へと文部科学省の文面が変化していきました。 それに応じて北海道教育委員会も、いつの間にかマスク着用などの感染対策の”お願い”に変わったのです。 しかし学校の文面は、いまだに「感染対策を徹底します」と記されています。 これは現場の「絶対に陽性者を出してはならない」という想いが表れていますし、子どもの健康、心身の影響が二の次、三の次になっているとも読みとれます。 ただ学校の校長、教頭は賢い人でしょうから、ここの文章にはいつも主語が抜けているのです。 学校の先生たちが「感染対策を徹底します」なら問題ないでしょう。 それは組織として、学校としてのお話なので。 でも実際は、子ども達にマスク着用を促したり、外している子を注意したり、挙句の果ては「鬼ごっこ禁止」「放課後友達の家で遊ぶのは禁止」と来たものだから、親として、一人の大人として今回も指摘させていただきました。 もちろん、文面で(笑) この主語が誰なのかの件は、毎度はぐらかしていたのを徹底して突き、「それは学校です」という言葉が出たので、今後、文面が変わっていくかもしれません。 日本語には主語がない場合が往々にしてあり、それこそ行間を読む文化ですから、それをうまく利用し責任回避で「読み手の責任でしょ」という風に出してくる人達がいるので注意が必要ですね。 私は福祉と教育の世界にいたことがありますので、こういった表現、言葉の両者の違いに感じることがあります。 それは目標を立てるときです。 福祉施設も、毎年、新年度開始時に支援目標を立てます。 その際、気を付けるルールがあって、それは「誰が見てもわかる目標を」と「評価できる目標を」立てることでした。 たとえば、「トイレの自立」「一人でトイレができるようになる」などはダメで、「排便時、自らトイレの便器に座り、用を足す」とか、「

【No.1225】支援の終わらせ方

イメージ
「戦争は始めるよりも、終わらせる方が難しい」と言われます。 日露戦争のときも、「有利な戦況での収束」を戦前に計画しており、開戦後すぐに伊藤博文の依頼で金子堅太郎がアメリカのルーズベルトに会いに行っています。 それが翌年の講和条約締結に繋がっているので、当時の政府要人は終わらせ方の準備ができていたのだと思います。 その一方で、大東亜戦争においては、日本国内の敗戦革命派が主導権を握ったこともありますが、明確な終わらせ方のビジョンを持たないまま始めてしまった結果、流す必要のない血と日本国内の一般市民の犠牲へとつながったのだといえます。 終わらせ方がわからないまま突き進むと、それは自分たちではない何者かによって「終わらせてもらう」必要があるわけで、それが崩壊という結末になったのでしょう。 この2年間のコロナ騒動も戦争に例えられますが、日本の状況を冷静にみれば、ボヤを見て「大火事だ」「敵が攻めてくる」と言って集団ヒステリーを起こし、勝手に自滅、敗戦したように見えます。 オミクロンがどうのこうのと叫んでますが、それでも毎年のインフルエンザの流行時には程遠い状況で、こんなに無症状、軽症の通常なら患者にもならないような、また自宅で勝手に治していたような数を2年間コツコツと集めても、まだ全人口の1.6%くらいしか陽性になっていないのですから、「日本は流行らなかった」というのが未来からみた評価だといえます。 しかし、このコロナ騒動の終わらせ方のビジョンが政治には、もちろん、専門家にもないので、あとは医療が崩壊するか、社会が崩壊するかしか止まることはないでしょう。 また3月からは5歳からのワクチン接種が始まりますが、これも予定通りどんどん進められていくと思います。 私は二人の子の親ですので接種の有無について考え、選択する必要がありますが、この2年間で死んだ子供がゼロで重症になった子も7名で、「重症化予防のために接種する」という論理が破綻していますので、そんなものは受ける必要がないと思います。 しかも3月には、オミクロンは終わっているでしょうし、そこから2年前の武漢株のものを打つメリットが見当たりません。 ただ子どもの中には、風邪の一つでもひけない状態の子もいるわけですし、基本的には各家庭が考え、選択することなので、他のうちはどうでもよいと思っています。 常識的に考えれば、健康な子ども達に

【No.1224】発達障害は"社会"問題

イメージ
もしこの社会に子ども達がいなければ、私達は人間として生きることを選ばないでしょう。 当然、地球環境のことなど考えないでしょうし、今がただ楽しく、本能的に生きることだけを目指し、どんどん人間からヒトに退行していくはずです。 私達大人は、次の世代にバトンを渡すことができるという感覚により、人間らしく生きることができる。 また次の世代を担っていく子ども達がいることだけで、元気に前向きに人生を生きることができるのだと思います。 仕事だって、ただお金を稼ぐためのものではなく、仕事を通して自分の力をより良い社会のために、そして次の世代により良い社会を残すために行っている面もあるでしょう。 発達障害の問題は、特別支援、福祉という狭い範囲の話ではなく、社会問題だと捉えています。 この"社会”問題という意味は、もちろん、個人の自立の問題から社会資源の問題という社会の意味もありますが、ここ数日、綴ってきた社会とのギャップから生じる問題という意味もあるのです。 連想のままにブログを書いていますので、また大事な捉え方だと思いますので、今回はまとめとしてのお話ししていきます。 「発達障害」という言葉は、特殊という言葉を連想させます。 発達障害の入門書にも、専門家の説明にも、はたまたそういった専門家、支援者が行う療育、支援にも、何か特別なことをしている特殊性の雰囲気が漂っています。 それは幼稚園と療育園の空間の違い、小学生の放課後過ごす場所の違いに端的に表れているといえます。 幼稚園でやっている内容を療育園では行わないし、療育園で行っていることは幼稚園で行わない。 行ったとしても、なんらかな特殊な道具、支援、人の手が付随しているものです。 こういった特殊性は、親御さん達を混乱させるもとです。 発達障害という普通の子とは違う特殊な子を持ち、それゆえに特殊な支援が必要になる。 そのような勘違いが、親子の自然な子育てを許さず、その子育て、何気ない親子の関わり方まで特殊なものにしてしまいます。 そうすると、発達すべきものが発達せず、どんどん障害者っぽくなっていくのです。 ただの発達のヌケ、遅れの子に、特殊な支援や療育などをしてしまったら、それこそ、その特殊な環境に脳も、身体も、順応し形作られてしまいます。 発達障害とは、やるべき発達過程を抜かした状態、またはまだ育ちきっていない状態だといえま

【No.1223】比べることで初めて見えてくる発達障害の本質

イメージ
沖縄ではすでにピークアウトしたようで、これは南アフリカで見られた傾向と同じです。 パッと上がって、パッと下がる。 火蓋が切って落とされた一足早い春の甲子園、じゃなくて、都道府県退行のやってます大会。 どの知事が最後まで残るかのせめぎ合いでしょう。 我が北海道知事は、いつも先頭を走るのですが、今はまだ様子見の状態。 これは過去に学んだのか、はたまたただ手続きに手間取っているのか。 たぶん、一通り凡知事が出そろいマンボウが宣言される頃には、全国でピークアウトが起きているはずです。 それにしても医師会は、参議院選挙の票をちらつかせながら、もう一儲けしようとする姿勢がみられ、ほんとに腹が立ちます。 接種後の強い副反応よりも、ほぼ無症状・軽症のオミクロンですから、ノーガードでとっととみんなが暴露してしまった方が終息も早く、身体的にもラクだと思いますね。 昨年末に見た南アフリカの人達がビーチで遊んでいる姿を見て、私の中でのコロナ騒動は終わっています。 いま、私が見ている先はコロナ後の世界、とくに子ども達、若者たちに及ぼす影響です。 いま、月曜日の19時からBS11で再放送されている「カーネーション」を観ていますが、主人公の糸子が幼い我が子に「生まれてから、ずっと戦争中だもんな」というセリフをちょうど聞いたところです。 最初からさざ波ニッポンで、バカな大人たちが勝手にヒステリックを起こし、騒動を大きくしていった。 その結果、当たり前の人と人との関わり、対話、遊び、そのときしかできない体験、そして息を吸う、いろんなものを触って心身を育てるという機会が奪われた子ども達です。 戦後、大人たちがころっと言動を変えたように、コロナ騒動後も同じような醜い大人たちの姿を見ることでしょう。 そして、これから明らかになってくるワクチン接種後の中長期的な影響、コロナ騒動で当たり前を奪われた子ども達の心身の発達への影響、これからの社会を担っていく若者たちの学業、就職、生活、人生への影響、日本という社会の形への影響…。 それらに対して大人たちはきっとこう言うでしょう。 「あのときは、それが仕方がなかった」と。 論理や科学的な根拠よりも、その場の空気が支配する日本ですから、「悪いのは、そのときの空気だった」と開き直る姿が目に見えています。 ワクパスによる行動緩和は、いとも簡単に中止になりました。 国民の7

【No.1222】動画を繰り返して観る子ども達

イメージ
ご家庭に伺うと、お子さんが録画したテレビやDVD、Youtubeなどを繰り返し観ていることがあります。 親御さんとしては、その間は「落ち着いて静かにできているし」と思う反面、「このままで良いのだろうか」と不安になることがあると思います。 こういった「繰り返して観る」という行動は、ずっと昔から指摘されていることで、まさに「自閉症の特性」のような感じで、教科書的な本などに記されていることがあります。 では、このような子ども達の姿をどのように捉えたら良いのでしょうか。 よくある捉え方は、先ほど述べたように「これは自閉症の特性だ」という解釈です。 自閉症者の繰り返し行動は、常同運動や固執(こだわり)などと言われ、不安が強いゆえに同じパターン的な行動をすることで周囲の環境を秩序立てようとしている、というのが定説(?)、ギョーカイ内の中心的な解釈だといえます。 確かに、脳内で周囲から得た情報をうまく整理統合できない人は、自分の周りや行動をシンプルな一定の流れにしようとする傾向が見られます。 しかし、こういったケースは少数派、特殊なもので、いま、子育てに悩まれている親御さんには当てはまらないと思います。 教科書的な、それこそ私が学生時代から言われていた常同行動、こだわりというのは、「やらざるを得ない」という雰囲気がなければなりません。 施設職員時代を中心に、様々な自閉症の人達、子ども達とお会いしてきましたが、彼らは決してやりたいからそのようにしているのではないと思います。 何故なら、不安感が減ると、そういった行動が減少し、不安が増すと強固に決められたパターンを遂行しようとします。 もし発達のヌケを埋めるために、発達に繋げるためにそういった行動をしているのでしたら、ある程度、やりきると徐々に減少していくものです。 この不安感とシンクロする波と、徐々に落ち着いていく波の違いは、注意深く見ていく必要があります。 現在の発達援助、子育てにおいて、繰り返しの動画視聴には大きく分けて2つの背景があると考えられます。 まず環境適応、強い視覚刺激に脳の情報処理体系が作りかえられてしまった場合です。 昨日、下の子を皮膚科に連れていったのですが、3歳くらいの子が待合室で暴れていました。 その子が呼ばれて診察室に行くとき、お母さんが子どもに見せていたスマホ(動画)を取り上げたのです。 泣くは叫ぶはで大

【No.1221】積み上がっていかない理由

イメージ
発達に必要なのは「酸素」「刺激」「時間」ですね。 酸素は生きるための条件であり、神経を生かし、発達させるためにはなくてはならないものです。 またいくら酸素があったとしても、まったく刺激のない無の環境の中では神経発達が生じる必要はなくなってしまいますので、刺激も必要です。 その刺激は、自ら動くことで得られる刺激と、これは重力との関係性の中で生じる刺激で、光やにおい、音などの環境側から受け取る刺激があるといえます。 そして酸素が満たされ、適切な刺激を受けたあとは、やはり時間が必要になるわけで、とくに発達のヌケや遅れをもう一度育て直そうとするのでしたら、それなりに時間がかかります。 「発達のヌケ」という視点が広まり、ヌケているのなら、未発達ならそこを育て直せば良い、それには身体アプローチというイメージで取り組まれている方達が増えたように感じます。 抜けた運動発達を繰り返し行ったり、足りなかった刺激を味わえるような環境設定をしたり。 以前の親御さん達は、障害を障害と飲み込むところから始まり、できることを求めるよりも「その点は手助けしよう」「できないことは代替手段を用いよう」とされていましたので、子ども一人ひとりに応じた育ちを後押しするような自然な子育てに戻っていったことは、私も嬉しく思います。 しかし一方で親ではない支援者がその段階で止まっていてはなりません。 発達が抜けている→じゃあ、そこを育て直そう、というのは家庭の話です。 もっといえば、子どもというのは本能的に自分に足りない刺激、必要な発達課題を求めて動くものなので、それを邪魔せず、存分にやり切れる環境があれば、自らで育て直していけるのです。 よく教室や家の中を歩き回る子がいて、そういった相談を受けることがありますが、小学生、中学生が教室をうろうろ歩いていたら問題に見えるけれども、それが歩き始めたばかりの幼児さん、就学前のお子さん達ならどうでしょうか。 うろうろと動きまわるのは、その子にとっては動きまわる必要があるからです。 だけれども、学校的にいうと、一般的な年齢的にいうと、奇異な行動に見えるから、それが問題だとなるのです。 その際、「落ち着かない=問題行動・障害特性」となり、「教室では歩きまわりません」と絵カードを作ったり、精神科薬を求めたりするのは、旧来の支援。 で、「動きまわるのは本人にとって必要だから」と、

【No.1220】「支援と理解」から踏み出そうとする足を掴んでいる人達

イメージ
はじめ「沖縄の米軍ガー」と言っていましたが、米兵、基地関係者がオミクロンを広げた証拠、根拠はあるのでしょうか。 一方的なイメージで言っていたとしたら、それこそ、差別、偏見ですね。 ほとんどが無症状で、症状があっても軽症。 しかも、オミクロンはそれまでとは異なり、鼻と喉にくっつくタイプに変わったのですから、「ちょっと喉がイガイガするな」「今朝は鼻水が出るな」くらいで終わっている人ばかりでしょう。 だから、昨年末からの話なので、もう日本中、オミクロン広がっていると思いますよ。 暴露しても、感染しても、発症しても、気がついていないだけ、いや、PCRを受けていないだけ。 クラスターが発生すると、必ずと言っていいほど、「中にはマスクを外していた人が」「ワクチン未接種者が」「流行地への滞在歴アリ」と報道されますが、その人達が感染の始まりとはいえないわけです。 マスクしていてワクチン2回打って地元しかいない人が周りにうつす場合もあるでしょうし、そもそもウィルスなんてこの空気中にたくさん漂っているんですし。 飲み屋にいる人達、元気な若者たち、いわゆる「気の弛んだ」人達が感染を広げているような言い方をされることが多かったこの2年間。 結局、その根底には人々の不安があり、自分の外側に原因があると思うことで、その場しのぎの心の安定を求める人が多かったのだと思います。 マスクを外し、普通の生活をしている人達を見て「あいつらが感染を広げているんだ」というのはエビデンスではなく、感情の問題、下手くそな自己対処法です。 もう一つ不思議なのは、南アフリカでは既にピークアウトで、夏を楽しんでいる人々の映像が流れているくらいなのに、そして何よりも日本でも重症者、死者は増えていないのに、どうして国民全体的に喜びの雰囲気が出ないのでしょうか。 この感染スピードで、ほとんど風邪と見分けがつかない、無症状なのですから、もう多くの日本人は暴露しているでしょう。 それなのに重症者も増えず(北海道は相変わらず重症者数0人が続いている)、死者も増えていないのですから、「ヒトとウィルスのバランスがとれるようになったので良かったね」「もう過剰な対策は必要ないね」とならないほうがおかしい。 中には、まだ煽るかと言うくらい「感染者数が増えれば、それに比例して重症者、死者が増える」という予言や個人的な願いを述べる専門家もいるく

【No.1219】身体のどこに力が入ってる?

イメージ
幼児さん、いいえ、小学生の子ども達でも、手に何かを持って移動する場合があります。 それを見て、一般的な支援者は「自閉症ゆえのこだわり」と言い、一般的な心理士は「母親代わり」と言います。 しかし、そういった解釈の前にチェックする発達段階があります。 それは立位が完成しているかどうか。 生後1年前後から立つことができるようになり、1歳を過ぎたあたりからよちよち歩きが始まります。 そして1歳半ごろ、歩行が安定しますが、この移行期間に子どもは手にモノを持ちたがります。 家の中では必ずと言っていいほど、おもちゃを持って歩く。 外に行けば、お母さんの指を握ったり、砂場で遊ぶシャベルを持ったり、落ちている枝を持ったり。 たぶん、指をグッと握ることで、身体のバランスをとり、歩行の補助をしているのでしょう。 歩行の発達は、腕の位置と形で確認していきます。 最初は両腕を挙げた状態で歩き、徐々に腕の位置が肩より下がっていきます。 また腕を曲げた状態から徐々にだらんと伸びた状態に変化していくのが発達の順序になります。 腕を伸ばし、前後に振って歩けるようになると、歩行の発達は完成です。 ちなみに欽ちゃん走りのように腕を左右に振って歩く子は、寝返りやハイハイなどのやり残しがあることが多く、足をドタドタと鳴らして歩く子は背骨の課題があることが多いと思います。 話を戻しますと、歩くときに何かを持ちたがる、手の指をギュッと握りしめるような行為が見られる場合、歩行が未完成の場合が多く、歩行が未完成ということは立位が育っていない可能性が高いといえます。 じゃあ、立位の完成はどのように確認するかと申しますと、身体の筋緊張の有無で見ます。 定型発達の子ども達を見ればわかりますが、立ち姿を見ると、身体のどこにも力が入っていません。 とくに力を入れることなく、スッと立てるのが基本的な状態です。 重力との間できちんとバランスがとれていれば、脱力状態で立つことができますし、もし身体のどこかに力を入れないと立位の姿勢を保てないのでしたら、運動発達のヌケ、感覚で言えば前庭系の課題が考えられます。 お年寄りの方たちの場合は、姿勢の歪みや筋力の低下により、身体の特定の部位を緊張させ、そこに力を入れて立ち、歩くということが見られます。 しかし、子どもさんの場合、歪みや筋力の低下というよりも、発達のヌケ、未発達が背景にあるでし

【No.1218】発達の課題が見えた時点で、すでに緊急時ではない

イメージ
東日本大震災が起きた直後、必要だったのは高度な知識、技能を持っている専門家たちでした。 全国の自衛官、特殊部隊の人達が東北に駆けつけ、被災された方たちの救助、身体のケア、危険な箇所の整備、撤去を行ってくれました。 そこから時間の経過とともに、被災した人達の心の問題へ、今後どう生きていくか、この被災した街をどのように再建していくかへと移っていったといえます。 コロナ禍においても、2020年初頭は専門家の力が必要だったといえます。 その当時は「未知のウィルス」だったわけで、危険度がわからない時期はすべての人達にとって緊急事態です。 しかし、その正体、致死量、症状、対策が明らかになってきたあとは、徐々に細かいところを見る専門家ではなく、全体を見ることのできる専門家、人達が必要になってくるわけです。 ですから、コロナ禍を騒動にしてしまった失敗の主因は、細部から全体へのシフトチェンジを失敗したことで、感染症の専門家がいつまで経っても出ているようではダメなのです。 こういった社会情勢、ある意味、歴史から私達は教訓を得て学ぶ必要があります。 緊急時というのは、専門知が必要です。 怪我をした、病気が生じた。 そういった場合は、専門知において迅速に対応する必要があります。 一方で発達の問題、課題は総合知が必要になります。 何故なら、発達とは突発的な問題とはいえないからです。 「目が合わないな」 「ハイハイを飛ばしたな」 「言葉が遅れているな」 という課題が出た時点で、ある程度の時間が経過しているといえます。 我が子の発達障害に気がついた時点は、親御さんにとっての緊急事態です。 ですから、すぐに「専門家」を連想し、そういった人達を頼ろうとします。 しかし、子どもの視点に立てば、その時点はすでに緊急事態ではなく、例えるのなら慢性期なのです。 慢性期に必要なのは、総合知であり、子どもさんの内的な要因、運動発達、栄養、環境など、あらゆる角度から総合的に観ることで、生活全体をより良い発達につながるものへと変えていくことになります。 ハッタツの分野の難しさは、この親御さんの緊急性と子どもさんの緊急性にギャップがあることだといえます。 親御さんにとっては大事な我が子ですから、発達の課題が見えている限り、緊急事態というのは変わらないでしょう。 だから、いつまで経っても専門家、専門知に心が傾いてしまい

【No.1217】子ども次第であり、親次第

イメージ
「PCR陽性=感染」という設定。 「無症状者が感染させる」という設定。 「(新コロのみ)年をまたいで累計数を出し続ける」という設定。 「症状がない人も患者」という設定。 「マスクが感染を防ぐ」という設定。 「変異したウィルスは必ず飛行機に乗ってやってくる(世界同時多発的に同じような変異も起きるのでは)」という設定。 もういい加減、やめてくれないかと思いますし、気づけよ国民という感じがしています。 ここまでくると、意図的に引き延ばしたい人達がいるとしか考えられませんね。 今回のウィルスで顕著だったのは、人による違いです。 アジアと欧米の人達では状況が大きく異なりました。 同じ日本人でも、高齢者と若年者・子どもでは症状や命の危険度は異なります。 子どもにとってはただの風邪であり、毎年命を奪うインフルエンザのほうが脅威だといえます。 ある人にとってはリスクになりますが、ほとんどの日本人にとっては2年間も過剰な対策をし、自粛をし、個人の権利と幸せ、自由を投げ捨ててまでをも恐れるべきリスクではなかったのです。 本来、個人個人でリスクが異なりますので、「国民全員が」というのはマイナスのほうが大きくなるといえます。 社会全体でリスクがある人を守り、それ以外の人は動いて社会を回す必要があった、人生の幸せのために行動すべきであった。 しかし、出てくる専門家は個人を殴り捨て、すべてが均一の人間かのように提言をしてきました。 個人という差を勘案しないから、「気の弛み」という行動の違いによって感染するしない、リスクのあるなしを設定していたのだと思います。 健康な人はいちいち消毒しなくても、マスクをしなくても、会食をしても、おのれの自然免疫でウィルスをやっつけてしまうでしょう。 一方で、病院という感染対策が徹底された場所でも、クラスターは起きているわけで、もともと健康に不安を抱えている人がいる場所ですから、彼らの気の弛みのせいではなかったはずです。 ハッタツの世界に20年ほどいますが、口では「個別支援」「一人ひとりが違う」と言いながら、一度「自閉症」「ADHD」などが付くと、均一な支援、療育が行われてきました。 何度も申し上げているように診断名で支援も、療育も、教育もできっこないのです。 同じ自閉症という診断名でも、どうしてその症状が出ているのかは個人個人で大きく異なります。 年齢による違い

【No.1216】2022年初めのご挨拶

イメージ
あけましておめでとうございます。 いつものようにジムの準備をしていると、妻から「今日も行くの!?」と驚かれました。 「筋トレに正月休みはなし」と言い、家を出た私の前には、昨日きれいに雪かきした場所に昨日以上の雪が積もっていました。 いくら頑張って雪をかいても、いくらお正月だったとしても、雪が遠慮してくれるわけではありませんね。 なんちゃって雪国の人間ではありますが、こうやって自然の厳しさ、自然の前ではヒトは無力だということを体感することが大事ではないか、と思いました。 きっと日本に住んでいたご先祖様たちも農業を通して自然がコントロールできないことを、天変地異を通して自然の大きさを日々体感し生きてきたのだと思います。 こういった自然との対峙が生活から失われていった結果、コロナという自然現象を人間がコントロールすることができるという勘違いを起こし、騒動を長引かせたのでしょう。 2022年の一年は勝負の年だと捉えています。 4月には、てらっこ塾が開業10周年目に突入します。 事業は10年続けてやっと一人前という想いがありますので、10周年を走りぬけられるかが勝負になります。 10年経って初めて起業前に否定的な見解を持っていた人達をギャフンと言わすことができるでしょう。 そして昨年は共著として『医者が教えてくれない発達障害の治り方』を、今年は『ポストコロナの発達援助論』を出版させていただきますので、本の内容以上のモノが出せるかが重要になっていきます。 正直、『ポストコロナの発達援助論』の執筆に持っているすべてを出し切りましたので、今は必死に学び直し、次の何かを見つけようともがいているところです。 アセスメントとして新たなポイント、見立て方を見つけるかどうか。 親御さんに伝えるという技術の向上という方向へ進むか。 具体的な発達援助の方法としての技を身につけることができるか。 親御さんための発達相談、家庭支援サービスから事業の形態としての広がりへと進むか。 発達障害を持っている子ども達から別の子ども達への、人たちへの援助に変わっていくか。 2022年を走り切ったあと、てらっこ塾が、大久保という個人が、援助者がどのように変化しているかは今検討がつきません。 だからこそ、目の前に来た依頼、仕事、縁があった子ども達、親御さん達のために全力で関わっていきたいと思っています。 昨年末には