【No.1224】発達障害は"社会"問題

もしこの社会に子ども達がいなければ、私達は人間として生きることを選ばないでしょう。
当然、地球環境のことなど考えないでしょうし、今がただ楽しく、本能的に生きることだけを目指し、どんどん人間からヒトに退行していくはずです。
私達大人は、次の世代にバトンを渡すことができるという感覚により、人間らしく生きることができる。
また次の世代を担っていく子ども達がいることだけで、元気に前向きに人生を生きることができるのだと思います。
仕事だって、ただお金を稼ぐためのものではなく、仕事を通して自分の力をより良い社会のために、そして次の世代により良い社会を残すために行っている面もあるでしょう。


発達障害の問題は、特別支援、福祉という狭い範囲の話ではなく、社会問題だと捉えています。
この"社会”問題という意味は、もちろん、個人の自立の問題から社会資源の問題という社会の意味もありますが、ここ数日、綴ってきた社会とのギャップから生じる問題という意味もあるのです。
連想のままにブログを書いていますので、また大事な捉え方だと思いますので、今回はまとめとしてのお話ししていきます。


「発達障害」という言葉は、特殊という言葉を連想させます。
発達障害の入門書にも、専門家の説明にも、はたまたそういった専門家、支援者が行う療育、支援にも、何か特別なことをしている特殊性の雰囲気が漂っています。
それは幼稚園と療育園の空間の違い、小学生の放課後過ごす場所の違いに端的に表れているといえます。
幼稚園でやっている内容を療育園では行わないし、療育園で行っていることは幼稚園で行わない。
行ったとしても、なんらかな特殊な道具、支援、人の手が付随しているものです。


こういった特殊性は、親御さん達を混乱させるもとです。
発達障害という普通の子とは違う特殊な子を持ち、それゆえに特殊な支援が必要になる。
そのような勘違いが、親子の自然な子育てを許さず、その子育て、何気ない親子の関わり方まで特殊なものにしてしまいます。
そうすると、発達すべきものが発達せず、どんどん障害者っぽくなっていくのです。
ただの発達のヌケ、遅れの子に、特殊な支援や療育などをしてしまったら、それこそ、その特殊な環境に脳も、身体も、順応し形作られてしまいます。


発達障害とは、やるべき発達過程を抜かした状態、またはまだ育ちきっていない状態だといえます。
それ自体、単独で存在するのでしたら、そこが育つまで待っていれば良いわけで、今のような問題にはなりません。
別に育つ場所を隔てる必要はなく、どの子も幼稚園、保育園、学童、公園で過ごせばよいのです。
ではなぜ、発達障害が問題のように取り扱われしまうのでしょうか。


それは社会との間にギャップが生じるからだといえます。
発達障害の子ども達の一見すると特殊で異常のように見られる行動は、それ自体に特殊性があるものではありません。
定型発達の子も同じような行動はしています。
ただその違いは、定型発達の子ども達が行う時期、長さです。
本来、定型発達なら0歳代に行う動きを、そこが抜けたままの子ども達が3歳くらいで行っている。
そうすると、それだけで異常な行動に見られ、「発達障害では」「自閉症かも」などと指摘されてしまいます。


確かに0歳の子が行うようなことを3歳児が行っていたら、違和感を持たれるでしょう。
しかし、定型発達の子もするような行動なら、その行動自体は異常でもなんでもありません。
ただ一般的な年齢、同年齢の集団と比べて異常に見える、というだけです。
だったら、「ああ、やりのこしていたのね」と、そこが育ちきるような後押し、子育てをすれば良いのだと思います。
同年齢の子がやらない行動をしている→異常だ→発達障害かも→特別な支援が必要だ、という流れが特殊な養育環境へ誘導し、結果的に発達のヌケが埋まらないまま、育って凸凹な発達を遂げてしまうのです。


毎年春から始まる就学相談ですが、これも「普通の6歳児と比べてどうか」という点で判断されていきます。
普通の6歳児がやり終わっていることが終わっていない、ということが本当にその子の能力としてできないのか、単に就学のタイミングとのギャップなのかの丁寧な確認はされません。
「あと半年、就学が遅ければやり終わるのに」という子ども達も、みんな、特別支援学級、特別支援学校の判定がされます。
あれだけ「一人ひとりの個性、育ちを大切に」と言っているのに、一律で就学までにはこれこれができていること、発達課題をクリアしておくこととなっているのが現状なのです。


支援ミーティングなどに出ると、挙げられている行動があたかも問題なように、障害特性かのように語られることがありますが、「それってただ4歳児の発達課題を今育て直しているだけでは」「0歳代の発達課題が抜けているから、うまくできないだけでは」ということが多々あります。
自閉症、知的障害の子にしか見られない行動でしたら、それなりに特殊な支援、アイディア、方法が必要でしょうが、定型発達の子もやる行動がただズレて出ているだけなので、それを止めさせようとしたり、別の行動へ置き換えようとしたり、挙句の果てに服薬でどうにかしようなどというのは、間違いだと思います。
でも、日本中、そういった「どの子もみんなやるけれども、時期がずれた行動」を問題行動、特殊な行動、自閉症ゆえの行動などと誤った解釈がされ、それをもとに誤った対応、教育、支援がなされているのでしょう。
これがまさに「社会問題」ですね。


定型発達という社会、そして1歳半健診、3歳児健診、6歳の就学など、さきに時期が決まっていて、そこまでに終わっていない子、時期がずれて育てている子が異常とみなされる社会システムの問題。
2つの側面で、一般的な社会とのズレが「発達障害」となるのが今の現状です。
深く悩まれ、相談される親御さん達が多くいらっしゃいますが、実際のお子さんを見れば、「いま、0歳児のヌケをやり直しているだけですね」ということばかりです。
異常でもなんでもなく、社会が求めている基準と外れているから異常に見えているだけ。
ある意味、順調な発達で、時期が来れば、ちゃんとやり切れば定型発達の流れに乗るよね、ということが多いですね。


6歳4月入学じゃなければ、教科学習ができる準備が整った子から就学という制度になれば、95%の発達障害の子ども達は普通級に入学し、普通の人生を送っていけるでしょう。
しかし、そんな柔軟な制度は日本の前例主義&空気の文化には馴染まず、実現はまだまだ先。
でも、学校制度を変えなくてもできることはあります。
それは発達障害という概念を変えること。
もっと具体的にいえば、発達障害は障害ではなく、定型発達からずれた状態であるという正しい認識を伝えていき、また定型発達の子にも見られる行動は「やりきる」ことでその段階を超えていけるという実態を見せていくことだと考えています。


定型の子もやる行動はやり切るような後押しを。
そしてやり切るまでが長い子の場合は、その前段階の発達のヌケに注目し、そこから育てていくこと。
この2点は、何も難しいことではなく、各家庭で自然な子育ての中でできることです。
もしできないとしたら、定型発達を知らないことが「異常行動」という誤認識を生んでいるだけ。
誤認識は、子どもさん本人の問題ではなくて、周りの大人の問題なので、今日からでも知れば変わることができますし、そんな誤認識、誤解を解いていくことが家族を変え、子どもを変え、社会を変えていくことに繋がると思っています。


コロナ騒動と同じように、この状況を変えたいと思うのなら、誰か特別な人物が救世主のように現れ変えてもらうことを願うよりも、今、この時点で自分の考えと行動を変える。
「マスク外していいよって誰か言ってくれないかな」じゃなくて、自分の手を使って外せばいいだけ。
それが次の世代である子ども達により良い社会を引き継いでいくことに繋がると思います。
子は宝であり、私達大人の生きる力、人間が人間らしく生きる源ですね。




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