【No.1229】言葉は便利だが、言葉によって子育て、支援、援助の枠が決まってしまう

「ワクチンの”副反応”」というと、それを接種した側に反応を起こした問題があるように感じます。
一方で「ワクチンの”副作用”」というと、それはワクチン自体に何らかの原因、問題があったのでは、という思いを懐かせます。
どうして今まで副作用と言っていたのに、今回の新型コロナに関しては、mRNAワクチンに関しては副反応という日本語を使うのでしょうかね。


今は冬至の真っ最中で、一年で一番寒くて乾燥する時期になります。
この時期は毎年、風邪やインフルエンザなどのウィルス感染症が流行りますので、1億2千万人の日本で一日何万人も体調を崩す人がいても不思議ではありません。
インフルエンザは冬の2,3ヶ月間に発症者が集中してだいたい1千万人から2千万人病院に行きます。
だから、いま、「陽性者になりたくない」「これ以上、増やさないように」などと言って、更なる自粛と過剰すぎる感染対策に向かっていますが、陽性にならないことを目指すのではなく、発症しないことを目指すほうが合理的であり、ごく当たり前の考え方だと私は思います。
つまり、これも最初にPCRの陽性者を「感染者」と言葉を置き替えたことに始まっていて、私達の周りに無数にあるウィルスを体内に入れないなんて不可能なことを一生懸命目指していたのが非科学的な行動だったわけです。
ウィルスを体内に極力入れないのでしたら、家の中から一歩も出ず、ひきこもっているしかありませんね。


言葉の置き換えは、発達障害の世界にも多々あります。
もしかしたら、誰かが意図的にそうやった言葉の置き換えを行っているかもしれないとすら思えるくらい氾濫しています。
発達障害の”障害”もそうですし、「衝動性」「学習障害」「視覚優位」「生まれつきの障害」「軽度」「重度」など、挙げればきりがありません。


そもそもの教科書、語句が間違っているのですから、それを使って勉強した支援者、先生、親御さんも知らず知らずのうちに置き換えられた言葉のニュアンスから子どもさんを捉え、またさらにそこから支援方法を導き出そうとしてしまいます。
ですから結局、その支援、援助、子育てを見れば、「〇〇くんの支援」ではなく、「自閉症児の支援」になっていることがあります。
ヒトによって免疫力や体力、健康、生活環境、年齢、身体の状態が異なるのに、そこはすっ飛ばし「全員一斉にマスクして自粛して」というのと似ていますね。
本来、どのくらい対策するのか、自粛するのか、ワクチンを接種するのかは一人ひとりで加減が違うはずです。


文字が生まれたことにより、未来という概念が生まれ、その場にいなかった人達同士で情報を共有することができるようになりました。
しかし一方で文字が生まれてからヒトの脳は小さくなり続けています。
便利なスマホと引き換えに、漢字が書けなくなった人、長い文章が読めなくなった人が増えたのは、その表れでしょうか。
文字は外付けハードディスクのようで、文字があることで一応分かったつもり、認識・理解したつもりになれているのかもしれません。


支援者でも、先生でも、専門家でも、親御さんでもやたらめったら発達障害に関する言葉を使う人に限って、実践が芳しくないことがあります。
「あのお母さん、とても勉強家でなんでも知っているの」という親御さんの子が、問題行動のオンパレードということもあります。
これは言葉のほうに支配されてしまっている人の典型です。
たくさん専門用語を知っていることは、他の親御さんから見れば、「すごい」「勉強家」となりますが、言葉が増えれば増えるほど、子どもの実態からは遠ざかっていくわけです。


何故なら、言葉はある程度の範囲を決めて「こういうもんだ」と切り捨てているからです。
しかし目の前にいる子どもさんは生きているわけで、ひと時もまったく同じ状態にとどまっていることはありません。
同じ「衝動性」といっても、昨日と今日では微妙に変化しているのです。
またパッと教室を飛びだしていく姿を見て「衝動性」と言ってしまうと、その他の背景、その「衝動性」の枠内に入っていないものが切り捨てられてしまいます。
「衝動性」というとADHDの特性でなどと連想してしまいますが、外から聞こえてくる音に反応=聴覚の未発達もあるかもしれないし、椅子の背もたれに当たる背中の感覚の未発達もあるかもしれないし、単に授業がつまらないかもしれない。
私は「衝動性」などの言葉を聞くと、その「衝動性」という言葉によって何が切り捨てられているのか、そちらのほうに意識を向けるようにしています。


発達障害に関する言葉は、そもそも専門家のために作られた言葉でした。
ミニカーや道順を一定にしがちの行動をすべてひっくるめて「こだわり」にすることで、専門家同士がコミュニケーションがとれるようになり、治療や研究、検査対象として自分たちの枠にその人達を入れることができるようになりました。
つまり、そもそもがギョーカイ用語で、その世界で円滑に利益になるための言葉の創作だったのです。
しかし、専門家だけの言葉が広く一般の社会にも進出するようになり、ギョーカイ用語を通して、ギョーカイのルール、掟を広めたのです。
それが「発達障害の人達を全面的に受け入れろ」という啓発活動の中に表れています。


医療従事者、ウィルスなどの専門家の中では、陽性者=感染者ではないことは当たり前の常識だったと思います。
でも、今回のコロナ騒動では、その専門用語がメディアを通して漏れ出してしまいました。
本来、専門家と一般の人との間で専門用語を共有する場合、知識を持った側からの丁寧な説明が求められます。
が、それがなされないまま、専門用語と共に医療の掟が社会に流れてしまいました。
飲食店はつぶれても、子ども達の学びの機会や健康を阻害しても、若者たちの夢、高齢者の生きがいを奪っても、とにかく医療が一番大事で、これだけは守らなければならない。
言葉には、とくに専門用語には使っている人、組織、集団のルール、思考が沁みついていますので、その言葉が生まれた背景、使われ方を知っておく必要があると思います。


発達相談において親御さんとお話しする際、多くのギョーカイ用語が出てくることがあります。
親御さんにはそんなつもりはなかったとしても、知らず知らずのうちに言葉によって子育て、家族の行動・生活が規定され、また純粋な子どもの姿を見られなくなっている場合もあるように感じます。
ですから私はなるべく親御さんとお話しする際は、専門用語を使わないようにしています。
また親御さんにもできるだけ使わないことをお勧めしていまして、一言で「知的障害」と言っていたものをそれを使わずにお子さんのことを表現しようとすれば、表現が磨かれ、つまり観る目が繊細になっていくことがあります。


言葉で子どもさんのすべてを表現することはできません。
一つの言葉を選択し、発するということは、その他の何かを捨てることになります。
言葉で表現しきれない分は、感覚を使って捉え、表現していく。
これが自然な子育て、発達援助の道だと私は考えています。




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