大学における「合理的配慮」とは
昨年度から大学で自閉症支援を行っていますが、時折、疑問に思うことがあります。 それは「合理的配慮」についてです。 どこまでが合理的な配慮で、どこからがやりすぎになってしまうのか。 この点について関係者の間でも捉え方の相違が見られていますし、他の大学でも、特に発達障害の学生に対しては判断が難しいという声が挙がっています。 大学は障害を持った学生に対する合理的な配慮を行うことが求められています。 平成28年度4月より大学では、障害種別にどのような体制で、どのような配慮をしていくのかを明確に示すことになっています。 昨年度同様、今年度も準備の期間です。 「合理的配慮」も、合理性が欠けてしまえば、ただの特別扱いになってしまいます。 特に、同じ講義を受ける学生から、そのように思われてはなりません。 一歩間違えば、「障害を持っている学生の方が評価を甘くしてもらっている」「障害を持った人は、できなくても仕方がない」といった疑念や誤解を生んだり、「自分たちとは違う人たち」というような距離感を持たせてしまったりというような危険性があります。 課題や評価に関しては、障害の有無に関わらず、平等に扱われるのが当然ですし、努力すること、自分で責任を持つことは当たり前のことです。 配慮する場合には、きちんとその合理性を客観的、かつ具体的で明確に示すことが求められます。 しかし、機能障害の学生とは異なり、発達障害の学生の場合には、大学の中での不都合が障害ゆえの不都合か、それとも未学習、誤学習ゆえの不都合かが見えづらい点に難しさがあります。 例えば、視覚過敏があり、どうしても講義を安定して受けるには刺激の少ない一番前の席が必要であるとか、見通しが持てないと不安になってしまうので、最初に予定を教えてもらいたいという要望であるとかは、わかりやすい配慮であり、周囲からも同意が得やすい配慮だと言えます。 でも、コミュニケーションが苦手だから、グループワークは控えたいであるとか、不安なときに独語を言い続けるのを許してほしいであるとか、講義を受けるだけで疲れてしまうので、課題の提出日を他の学生より延ばしてほしいであるとかは、合理的配慮にあたるのでしょうか? このような配慮は、周囲から同意は得にくいですし、合理的であるとは言えないと、私は考えています。 「コミュニケーショ...