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8月, 2023の投稿を表示しています

【No.1378 】「誤診」と「過剰診断」が発達障害のおける一番の問題だけれども

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夏休み前にストックしていたYouTubeの動画がなくなったので、「今日は久しぶりに動画を撮ろう」と思っていたら、朝から息子たちが家にいる。 本当は今日から始業式で2学期が始まりだったけれども、先に始まっていた道内の小学生が体育の授業後に熱中症で倒れてお亡くなりになる痛ましい出来事があり、すぐに市の教育委員会が「市内全部休校」と通知。 プールをやめるのも早いし、学校を休校にするのも早い。 私がマスクの件を伝えたときも、対応が早かったから、とっても仕事ができる人か、とにかく自己保身が強い人かな。 こういった事故が起きると、とにかくすぐに「全部やめにします」ってどうなんだろうと、いつも思います。 今回、お亡くなりになった児童さんも、個人的な要因としてはどうだったのか。 持病を持っている子かもしれないし、マスクをしていたかもしれない。 朝食をきちんと食べてこなかったかもしれないし、もともと体調がすぐれていなかったかもしれない。 ちゃんと汗がかける子だったのかな? そういったところまでしっかり確認しないと、つまり、個人的な要因と環境的な要因とをしっかり比べないと、それによってほかの全員が影響を受けることのデメリットもあるんじゃないかな。 休校になれば、学習の機会は減るし、きっと体育をやらなかったり、内容も変わったりする。 そしてすでに小学校の出来事なのに、中学、高校と部活動が禁止になっちゃった。 管理するほうからすれば「一律中止」「とにかく安全パイに」で良いかもしれないけれど、今この瞬間を生きる子ども達からしたら失うもののほうが多いこともあるでしょう。 まあ、散々3年間、子ども達を犠牲にしてきた人たちだから気にも留めていないかもしれないけどね。 昭和のおじさんからすれば、「心配しすぎ」「子どもはもっとたくましいもの」「むしろ、この暑さにも慣れないと、今後の日本で生きていけないでしょ」と思ってしまう。 だって自分が小学生のとき、暑い日も外で一日遊んでいたから。 暑いから学校休校なんてなかったし。 だけれども、そういった声は少数派で、ほとんどは「こんなに暑い中で体育をやらせた学校が悪い」「うちの子はやらせない」。 環境に合わせて人間を弱くして大丈夫? 大人の不安、怖がりはつくづく子どもの発達を妨げると実感しますね。 以前から言っているように、日本の発達障害の問題は「誤診」と「過剰

【No.1377】とある施設の問題ではなく、我が国が歩んできた特別支援の問題として

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昨晩、録画しておいた番組『鍵をあける 虐待からの再出発』を観ました。 放送は8月12日(土)23時から。 県立の障害者施設の話で、虐待や不適切な対応が確認され、そこから改善に向けた2年間を追ったドキュメンタリーでした。 入所者の中には強度行動障害を持つ人もいて、自傷や他害行為があるため、長時間施錠された居室内で過ごしているという実態も映されていました。 もちろん、そういった状態、実態は不健全であり、人権を無視した行為だと言われても仕方がないと思います。 しかし同じような施設、強度行動障害を持つ人の支援に携わっていた過去を持つ私は「やむなし」という想いもあります。 限られた人数で、夜間など一人体制でそういった自傷や他害を持つ人をケアしなければなりません。 何よりも、本人に怪我させてはいけませんし、ほかの入居者を守る責務もあります。 決して自ら進んでそういった行為をしているわけではなく、身体拘束や向精神薬で心身をマヒさせるよりは、居室のカギをかけるほうがまだよい、という感じなのでしょう。 虐待ということであれば、そういった施設、職員も虐待であり、障害者を隔離するという環境・社会の思想も虐待であり、そういった施設に入所せざるを得ない状態までにしてしまった家族、支援者、教員、専門家、すべての人も同様だと私は思います。 強度行動障害を持つ人の生活場面で、視覚支援が使われているのがわかりました。 しかし、それは実態に合わせて日々改善しているような様子はなく、長年、ずっと同じものを使い続けていたように見えます。 しかもそのアイディア自体、1990年から2000年代に主流だったものです。 なぜ、その支援が使われているか、そんなものは次々と入れ替わる職員の中で引き継がれることなく、ただただ「使っていたから使ってます」という状態だったのでしょう。 本人も、職員も、その意味がわからず、ただのルーティンとして、道具の一つとして使っている。 視覚支援、構造化は「形として見える」という利点はありますが、その意味が見えないため、形骸化した視覚支援が全国各地に残骸として散らばっているように思えます。 この番組の中で私が注目したのは、なにも置かれていない居室が映ったとき、「刺激が自傷やパニックにつながるため」という理由が述べれた報告書とナレーションがあったときです。 そうです、構造化の弊害のもう一つ

【No.1376】根本から治したいなら、これくらいやる必要がある

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まずこのラジオを聴いてほしいです。 → 【No.118】お便りから一年後の変化 皆さんからいただいた発達の悩みに関するお便りに、ラジオ形式でお答えしているのですが、そこに昨年8月に相談があったお母様から近況報告が届きました。 不登校や癇癪、ディスレクシアという息子さんの状態に悩まれ、相談があったのですが、この1年間で大きな変化が起きたことがわかります。 それは息子さんではなく、ご両親、ご家族に。 このお便りが届いて、1年前の私がどんな回答をしているか、そのときのラジオを自分でも聞きなおしてみたのですが、結構、親御さんに対して厳しい指摘をしていました。 子どもの問題というよりも、育つ環境の問題。 つまり、子どもよりも先に親御さんが変わることこそ、大事ですよ、というお話。 そしてその真意が伝わったようで、親御さん自身が本気で変わろうと行動された。 短いお便り、文章の中ではありましたが、親御さんの本気さと相当な努力をされた1年間だったのがよくわかりました。 このお便りをくださった親御さんのように、本気で子どもの課題を改善したいと言う人はたくさんいます。 でも実際に本気で行動できた人は少ない。 だから治っても、治りきらない家庭ばかりなのです。 結局、根っこの、その課題の中核の部分に届こうかというときに、親御さん自身が怖気づいてしまったり、「そこは見たくない」と目を瞑ってしまう。 100%子どもだけに課題の要因があるわけじゃないでしょ。 そんなのみなさん、心の中では気付いているでしょ。 突然、発達に課題がある子が自分ちの玄関に置かれていったわけではない。 かぐや姫のように竹を割ったら、我が子が出てきたわけではない。 親御さん自身が自分の課題と向き合うのは大変なことです。 身体アプローチや栄養療法など、なにかに取り組めば育ち直しができる、といった類のものではないから。 30年なら30年間の、40年なら40年間の、積み重ねの先に我が子の発達の問題として課題が現れる。 しかも、自分だけではなくてパートナーもだから2人分。 そしてもちろん、課題は3代の結果なので、祖父母も含む6人分の課題です。 だから相当労力がいるし、それには自分の過去と真正面から向き合いぶったぎるくらいの本気さ、覚悟が必要。 その本気さ、覚悟さをもって行動できる人がどのくらいいるでしょうか。 たしかにそんなことを指

【No.1375】アセスメントとは評価するものではない

発達障害か否か、自閉症か否かは、すべて主観です。 そうです、始まりの診断が主観なので、アセスメントに主観が入らないはずがないのです。 親御さんの主観があれば、医師、先生、支援者の主観がある。 その主観同士で、「誰を優先させるか」「なにを優先させるか」でああだこうだと言っているのが特別支援の世界。 たとえば、学校ではおとなしい子が、家で親の言うことを聞かず、ときに暴れることだってある。 じゃあ、おとなしい姿と暴れる姿は同じなのか、違うのか。 その姿を見て、「学校は構造化、支援がちゃんとしているからね」と主観で評価し、「家はちゃんとしていないから」「愛着障害があるから」「お母さんがメンタルやられているから」暴れるんでしょと主観で評価する。 また医師は「じゃあ、薬出しましょう」と、学校での姿を切り捨て、家で暴れる姿を優先させる。 ひとは複雑系な生き物で、そのすべてを言語化することも、評価することもできません。 当然、環境が異なれば、表出、行動の仕方は異なります。 そこにかぶさるようにして、それぞれ周囲にいる人間の主観でその子を評価する。 だから本来、アセスメント、評価をしようとすれば、子どもの姿はぐちゃぐちゃになる。 却って「わからなくなる」のがアセスメントの本質。 その「わからなくなる」を「わかりやすくできました」としないと、専門家としての資質が疑われる、またその支援サービスが売れないので、「わかりやすくできました」風に加工がされるのです。 その典型が勝手に枠を作り、範囲を狭め、「ここだけ見てね」とする方法。 「我が子の評価」だと無限だが、「作業場面」「排泄の面」「運動機能」「数唱」「小学2年生の国語の点数」とすると、整理された風になる。 だけれども繰り返しになりますが、だれか第三者の目によって「この姿、評価を優先しよう」と決められているのが現状。 その評価の陰で、大多数の姿、評価が切り捨てられてしまっている。 これでは本人主体ではなく、ゆがんだ他者評価によって教育、支援がされてしまいます。 何よりも、本人が、その子の内側が「今、育てようとしている」ところを後押しすることができなくなってしまう。 「あなたがどう育ちたいのではなく、私たちがどう育てたいかで育てる」 ひとの発達には客観的な基準、尺度は存在しません。 「娘さんは5歳4か月だけれども、発達年齢で言ったら1歳3か

【No.1374】つながりが持てる窓を探す

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「今日も暑いですね」 短い夏の北海道でも、この挨拶が会話の始まり。 「暑い」という個別の体感が同じ場所を共有することで、お互いにとっての共通の感覚となる。 我々人類の祖先も、群れで生活するようになって、この共感を育んでいったのだろう。 特に共に同じものを食べる、という行為が共感の始まりといえる。 同じ夏休みという期間を過ごしていても、「毎日、地獄だ」という家族がいて、かたや「毎日、楽しい」という家族がいる。 この違いは何だろうか。 それはともに活動できるか、もっといえば、食べる行為なども含む運動をともにできているかの違いでしょう。 コトバ以前の段階である身体活動で「共感できている」という実感があるかどうかの違い。 感覚の違いを持っている子どもさんは、「今日も暑いですね」の暑いという感覚でずれが生じている。 いくら猛暑になろうとも、まったく暑がらない子もいれば、冬でも「暑い」といって裸になろうとする子もいる。 同じ食事をしていても、その感じ方が異なるので、「おいしいね」「ちょっとしょっぱいね」といった共感も難しい場合もある。 いや、そもそも共感自体を諦めてしまって、別々の食事を摂っている家庭も少なくないのだ。 特別支援において「個別化」は定石になっている。 共感が乏しい子がさらに共感の薄い世界へと誘われる。 「この子は他人の気持ちを察することが苦手なんです」と隅っこで一人遊ぶ姿を見れば、この子の問題ではなく、周りの大人が諦めてしまっているから共感する気持ちが育まれないのだろう、と思ってしまう。 個別化は刺激の少ない落ち着ける環境を提供すると同時に、共に生きる力を育む機会を奪っていく。 「毎日、地獄だ」という親御さんの中には、我が子と共感できない、その虚しさに対して「地獄」という言葉を使っているようにも見えることがある。 一緒に食事をしても、おいしいか、おいしくないか、気持ちを共有できない。 一緒に公園に行っても、楽しいかどうか、興奮を共有することができない。 だから自然と傍観者のようになり、ただ危険がないように、周囲に迷惑がかからないように、ストップをかけるだけの役割を演じる。 その自分の姿、親以外の役割を演じている姿を客観的に見て、悲しさがこみあげてくる。 専門家や支援者が「感覚過敏は特性で治らない」「気持ちを察することが難しいのは彼らの特性」などというのを見聞きす