【No.1374】つながりが持てる窓を探す

「今日も暑いですね」
短い夏の北海道でも、この挨拶が会話の始まり。
「暑い」という個別の体感が同じ場所を共有することで、お互いにとっての共通の感覚となる。
我々人類の祖先も、群れで生活するようになって、この共感を育んでいったのだろう。
特に共に同じものを食べる、という行為が共感の始まりといえる。


同じ夏休みという期間を過ごしていても、「毎日、地獄だ」という家族がいて、かたや「毎日、楽しい」という家族がいる。
この違いは何だろうか。
それはともに活動できるか、もっといえば、食べる行為なども含む運動をともにできているかの違いでしょう。
コトバ以前の段階である身体活動で「共感できている」という実感があるかどうかの違い。


感覚の違いを持っている子どもさんは、「今日も暑いですね」の暑いという感覚でずれが生じている。
いくら猛暑になろうとも、まったく暑がらない子もいれば、冬でも「暑い」といって裸になろうとする子もいる。
同じ食事をしていても、その感じ方が異なるので、「おいしいね」「ちょっとしょっぱいね」といった共感も難しい場合もある。
いや、そもそも共感自体を諦めてしまって、別々の食事を摂っている家庭も少なくないのだ。


特別支援において「個別化」は定石になっている。
共感が乏しい子がさらに共感の薄い世界へと誘われる。
「この子は他人の気持ちを察することが苦手なんです」と隅っこで一人遊ぶ姿を見れば、この子の問題ではなく、周りの大人が諦めてしまっているから共感する気持ちが育まれないのだろう、と思ってしまう。
個別化は刺激の少ない落ち着ける環境を提供すると同時に、共に生きる力を育む機会を奪っていく。


「毎日、地獄だ」という親御さんの中には、我が子と共感できない、その虚しさに対して「地獄」という言葉を使っているようにも見えることがある。
一緒に食事をしても、おいしいか、おいしくないか、気持ちを共有できない。
一緒に公園に行っても、楽しいかどうか、興奮を共有することができない。
だから自然と傍観者のようになり、ただ危険がないように、周囲に迷惑がかからないように、ストップをかけるだけの役割を演じる。
その自分の姿、親以外の役割を演じている姿を客観的に見て、悲しさがこみあげてくる。


専門家や支援者が「感覚過敏は特性で治らない」「気持ちを察することが難しいのは彼らの特性」などというのを見聞きすると、ぶっ飛ばしたくなる。
それは上記のような親御さんの心情をたくさん聞いてきたから。
一番共感したい相手である我が子との共感は、「特性だから諦めろ」という専門家、支援者。
共感力がかけているのは子どもではなく、そういった専門家、支援者の側だろう。


発達に課題を持つ子ども達の感覚や身体、運動を育てることは本人たちの生きやすさ、よりよい成長だけではなく、親御さん、家族にとっても重要なのです。
発達が遅れている事実よりも、我が子と気持ちを共有できないほうが「辛い」と言う親御さんのほうが多い。


その子の現状の中で、親子でつながりがもてるところはどこだろうか?
それは感覚でいうと、どの感覚なのだろうか?
運動なら、どんな運動だとつながりが持てる?
活動なら、どんな活動ならともに気持ちを通わすことができる?
身体なら、どこの部分なら、私とあなたの体温、ぬくもり、鼓動を感じることができる?
こういった視点で発達援助を行っていければ、たとえ知的障害が重くても、年齢が高くても、言葉が出てなくても、共感を育んでいくことはできますね。




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