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『断薬の決意』(花風社)を読んで

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福岡出張の報告書を郵便局に出しに行こうとしたら、ちょうど配達員さんが届けてくれました。 著者の藤家さんは、九州にお住まいの方ですので、九州に送ろうとしたら、九州から贈り物がきた感じがして面白かったです。 でも、レターパックを開け、本の題名、帯から、そして手に持った感じから、著者の方と出版に携わった方達の真剣な想い、なんだか手を通して迫ってくるような気迫を感じました。 私が講演会等でお会いした藤家さんは、すでに治っていましたし、お会いする度に輝きや前向きに進もうとするエネルギーが増しているような印象を受けていました。 ですから、同世代ということもあり、「自閉症の」ですとか、「当事者の」ですとか、そういったことを感じたことはなく、勝手にではありますが、同じ風景を見ながら育ってきた同世代の一人というような気持ちでおります。 しかし、藤家さんが執筆される本は、今のお姿からは想像できないような歴史を、そしてその辛さ、苦労のほんの一部を垣間見させてくれます。 今回の新刊のテーマは、精神科薬です。 個人的なつながりの中で、断薬に向けて励まれていることは知っていました。 ただ、それでも、本に書かれている様子、藤家さんが体験した内面の感覚と副作用の記述には、相当なインパクトがありました。 藤家さんがもがき苦しみながらも、薬に頼り、生活していたとき、私は施設職員として働いていました。 働いている中で、新薬が出てきて、その移り変わりも、実際に服薬の援助も行っていました。 本の中に出てきた精神科薬は、私が利用者さん達に飲ませていたものばかりです。 だからこそ、なおのこと、衝撃を受けるのです。 私が働いていたのは、知的障害も、自閉症の症状もとても重い方達ばかり。 しかも、強度行動障害の方たちへの支援も行っていました。 藤家さんは、自分の身に起きたこと、内面で生じたこと、感じたことを詳細に言葉や文字で伝えることができます。 だからこそ、今回、私達は、服薬が及ぼす変化、影響を実感に近い状態で想像することができました。 では、一方で、そういった伝える方法を持っていない方は、まだ伝えられるだけの年齢に達していない子ども達は、どうだろうかと思うのです。 彼らの内面の変化、彼らの訴えに耳を傾けることができているだろうか。 内面で生じたことに対する

「私の地域は遅れています」のそのあと

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6月21日~24日まで福岡県に出張していました。 なんせ北海道から九州ですし、福岡県内も広いですので、今回は移動に時間がかかってしまいました。 それでも「1分でも長く」という想いから、電車の乗り換えは常に早歩き、時々、ダッシュ。 日頃のジョギングの成果を発揮(笑) 食事は、買いこんでいったプロテインバーを頬張りながら、4日間を過ごしました。 チャンポン、水炊き、鹿児島の黒豚は食べられたのですが、豚骨ラーメンは食べられず…。 食事に関しては心残りがありましたが、それでもより良い子育て、成長に関する話し合いについては、私の持っている力をすべて出しきれたと思っています。 福岡は私の生まれ育った土地でもあり、大好きな土地でもあります。 私の新しもの好きで飽きっぽい性格も、福岡の血かなと思います(笑) 福岡は常に新しいものを生みだす地域であり、ファッションや流行などは全国をリードするような土地でもあります。 しかし、特別支援に関しては、どうでしょう。 今回お会いしたご家族以外にも、相談でのやりとりをさせてもらっている方達がいらっしゃいますが、「今、それですか??」というのが正直なところ。 「中央から流されてくる地域」という想いがあるのかないのか、どうも中央に憧れているようなところも感じます。 率直に言って、時代遅れ。 それは先進地域と呼ばれていたところが、10年も、20年も前にやっていたこと。 それを必死にマネして、「ほら、療育やってる、支援やってる、すごいだろ」って感じ。 利用している親御さん達も、「うちは療育受けられたサイコー」と喜んでいる感じ。 言っちゃ悪いが、先進地域の惨状はすでに知るところ。 当時、「進んだ療育」「世界的な支援」と言われ、それを必死に受けてきた子ども達がどうなったのでしょうか。 「療育を受けることが、この子の幸せになる。自立になる」 それから10年、20年。 結局、今も「社会の理解ガー」とやっている。 自閉症、発達障害が治らないからじゃない。 療育も、支援も、対処療法であり、その子の生涯を支え、自立へ後押しするものではないということ。 連絡が取れなくなった若者、大型バスに揺られて一点を見つめている若者。 彼らは、彼らの家族は、必死に療育を、支援を受けていなかっただろうか。 自分たちで種を

誰のため?何のため?早期診断

つい数年前までは、就学前の子どもさんの相談がくれば、「早いな~」と思っていたのですが、近頃は、2歳、3歳の子からの相談も珍しくなくなりました。 中には、1歳代の子の親御さん達からも相談があります。 私が若手の頃から「早期診断、早期療育」と叫ばれていましたが、3歳くらいの子の診断は一般的ではありませんでした。 どちらかといえば、そういった幼児期から診断を受ける子は、症状や知的障害が重い子だったと思います。 でも、今は同世代の子の発達と比べて、少しでも言葉や運動が遅れていたら、少しでも特異的な行動が見られていれば、1歳でも、2歳でも、3歳でも、診断名が付き、療育、支援への道へ誘導されていくような印象です。 日本でも、早期診断を熱心に推し進めている人物、集団がありますので、そういった人達の影響もあるのだと思います。 本来、早期診断というのは、とても意義のあることだと思います。 私も早期診断は、その子、家族にとって、良い方向へ進むきっかけだと考えています。 実際、私のところに相談にいらっしゃる幼いお子さん達は、親御さんの育て方によって大きな発達、成長を見せることが多いです。 神経発達がとても盛んな時期だということもありますし、いろんな学習をする前ですので、発達のヌケも見つけやすいですし、課題の根っこが近い分、そこが埋まれば、それ以降の発達が整いやすいといえます。 ですから、発達の遅れがあるのなら、すぐに軌道修正、発達のヌケに立ち返って育て直すことができるので、とても意義のあることだと考えています。 しかし、早期診断が意義のあることになるためには、その子と家族にとって、より良い未来へ進むためのきっかけになるためには、大事な前提があると思います。 それは、幼少期の診断名は仮のものであり、今現在を表すもので、その子の未来までを決定づけるものではない、ということです。 さらに、早期に発達の遅れがわかることは、その子に合った育て方をするために必要なのであって、より早く、より多く支援や療育、服薬を始められるためではない、ということです。 実際、相談にいらっしゃる親御さんの話や、いろんな方達の話、様子を見聞きしますと、早期診断の目的をはき違えている人達が多い印象を受けます。 早期診断の方向性としては、「その子の予後を良くする」だと思うのですが

25%の涙

海外では、発達障害を診断するのは医師だけと決まっていません。 医師免許を持っていない心理士、支援者も、自閉症やADHD、LDなどの診断を行います。 日本では、診断できるのは医師だけですので、不思議に思われる方もいるかもしれません。 でも、視点を変えれば、「医師だけにしか認められていない診断」というのも不思議だといえます。 そもそも、どうして医師にしか診断が認められないのでしょうか。 脳波を取るわけでも、血液を採るわけでもありません。 発達障害は病気ではなく、成育歴&生活の様子の問診と行動観察によって診断されるのです。 医療行為はしないのに、医師にしか認められない診断。 それって不思議じゃありませんか。 問診と行動観察でしたら、数多くの発達障害の人達と関わっている人、より生活に近い状態をたくさん見ている人の方が、的確な診断ができると思います。 診察室で見せる姿は、その人の一部です。 それに診察室で困っているから診断を受けに来たわけではなく、日常生活の中に課題があるからこそ、診断に来ているのです。 その課題を見なければ、本当の診断、判断はできないと思います。 「診察室で補えない部分を問診で確認しているじゃないか」と言われるかもしれません。 でも、それだって親御さんの主観が入ります。 どう頑張っても、我が子の内側の様子をすべて伝えることはできません。 そうすると、やっぱり目に見える行動を、親御さんの表現を使って伝えるしかありません。 診察室で見えない部分は、言葉によって説明される。 その説明を聞いて、診断の根拠にもするわけですから、親御さんの表現の仕方、またそれを聞いた医師の捉え方、解釈の仕方によって診断名が変わる可能性もあるのです。 結局、数値ではなく、言葉で説明されている診断基準というのがあり、その状態像に当てはまるかどうかを見るわけです。 ある行動を見て、それを自閉症の特性か否かと判断する。 その判断には当然、判断を下す人の意思が入るわけです。 自閉症も、ADHDも、LDも、別次元の人間で普通の人とは異なる脳みそ、神経を持って生まれてきたわけではありません。 定型発達と呼ばれる人と同じ人間であり、発達の軸で見れば、定型発達と連続して繋がっている存在です。 ですから、明確に「これが自閉症の行動で、これ

「治った」主観と「治らない」主観

自閉症、発達障害は、DSM-5にて神経発達障害になりました。 でも、未だに「脳の機能障害」「生来的な障害」と言われています。 また、それが「生涯、治らない」という根拠にもなっているようです。 脳の機能障害で、生まれつきの障害ということに疑問を持たず、信じている人達が大勢いるのはわかります。 しかし、世の中に、「この子の障害は、脳の機能の問題からである」と確認できた人はいないのです。 現在の診断は、行動観察と問診で行われています。 診察室や検査室で、自閉症の子どもに見られる行動が確認できた。 しかも、診断基準に当てはまる行動が複数確認できた。 親御さんからの成育歴、生活の様子からも、自閉症のようだ。 じゃあ、あなたは自閉症ね、年齢が幼かったり、はっきり確認できなければ、自閉傾向ね、軽度の発達障害ね、となる。 でも、ここで気を付けないといけないのは、自閉症に見られる行動があった=自閉症だと言い切れるのか? はたまた、自閉症に見られる行動があった=脳の機能障害だと言い切れるのか? ということです。 脳内の機能を調べたわけではないのです。 自閉症に見られる行動が確認できた、というだけなのに。 子どもが見せたその行動が、脳内を確認したわけではないのに、どうして「脳の機能障害」と言い切れるのでしょうか。 立ち合い出産をしたわけではない人が、どうして「生まれつき」と判断でしょうか。 つまり、それくらい今の診断というのは、曖昧なものであり、主観が入る余地があるといえるのです。 ヒトは、受精した瞬間から発達を始めます。 そして死ぬその瞬間まで。 しかも、その発達の仕方は、個人の資質によって、また環境からの影響を大きく受けるのです。 そんな複雑で、一瞬たりとも同じ状態が生じない発達を、人為的に捉えようなどというのは無理な話です。 だからこそ、行動観察と問診というざっくりした大枠でしか捉えることができていないのです。 こういったざっくりとした診断しかできていない現状です。 なのに、表れる行動のすべての原因が、「脳の機能障害」と結論付けられています。 そのことに、どうしてもっと多くの人が気づかないのか、疑問に思わないのか、がギモンです。 唯一の根拠が、「医師がそういったから」 でも、その医師だって、脳内を調べたわけで

困り感を持っているのは、誰?

施設職員だった頃の仕事の一つとして、学校の連絡帳への記入がありました。 毎日、15名ほどの学校の様子を見て、それに返事をしたり、寮での様子を伝えたりします。 あるとき、突然、連絡帳に「困り感」という言葉が現れ、連日のようにその言葉が並ぶようになりました。 それまでは、見たことも、聞いたこともなかった言葉です。 後からわかったのですが、特別支援教育系の雑誌に載った言葉ということでした。 研修や講演会でも、当時、頻繁に使われていたようです。 学んだことをすぐに担任している子ども達に使いたがるのは、学校あるあるです。 長期休みが明けるたびに、言っていること、支援の方向性が変わるのは勘弁してほしい、とよく思ったものです。 子どもはモルモットじゃありませんね。 「困り感」という言葉が現れてから、子ども達は「困り感」を持つ人達になりました。 その当時の担任の先生も、「この子達は、困り感を持っているんです」「学校では、この困り感に対して、〇〇といった支援、教育をしています」「寮では、どのように考えているのですか」などと、困り感前提で話が進んでいました。 「困り感」という言葉が出てくるまでと、出てきた後で、子ども達は変わっていません。 でも、その「困り感」に対する支援、教育が計画され、なされていくようになる。 このように、本人ではなく、他人の考え方、捉え方、もっといえば、主観で物事が決められ、進んでいくことに恐ろしさを感じました。 確かに、知的にも、発達的にも、障害を持っている子ども達ですので、何らかの困難や困っていることがあるのは想像できます。 しかし、それはあくまで私の想像であって、本人からの訴えではありません。 私達が「困難だ」「困っているんだ」と捉えていることでも、本人からしたら困っていないかもしれません。 私達が「困っているはずだ」と思っているところではない部分で、本当は困っているかもしれません。 困っていることのズレは、当然だといえます。 他人がリードする捉え方が、本人の捉え方とピッタリ合うなんてことは不可能です。 本人が感じている世界、捉えている世界は、本人しかわかり得ないのです。 私もよく口頭や連絡帳を通して、「どうして困っているか、わかるのですか?」と尋ねたものです。 もちろん、明確な答えは返ってきません

発達に人を介する理由

支援は、人以外でも行うことができます。 たとえば、教室や部屋をわかりやすいように、刺激に圧倒されないように、物を配置したり、情報を整理したりするのは、環境側からの支援だといえます。 また、読み書きや学習に困難がある人に対する電子機器、タブレットも支援ですし、身辺面や移動、運動面をサポートする器具、道具も支援だといえます。 このように人を介さない支援は様々ありますし、それらを利用し、より快適に、より自立的に学び、生活している発達障害の方達は多くいます。 これからも、こういったアイディア、モノの発展は続いていくでしょう。 そうなると、今以上に、支援者が行う支援は狭まっていき、その存在意義は問い直されることになると思います。 高齢者の支援には、すでに介護ロボットというようなものが導入されてきています。 近い将来、障害者支援の世界にも、介助ロボが導入されるのは想像に難しくありません。 ロボットならば、虐待やセクハラ、金銭着服などの心配はなくなりますし、支援者の数も今よりも減らせるので、財政的にも良い話だと思います。 わざわざ建物を青くしなくても、社会に理解を求めなくとも、優秀なロボットが生活の質を守ってくれる未来。 私は支援者をやってきたからこそ、 支援者が行える支援の限界と、支援者という役割、価値、意義が薄れていく流れを感じます。 今のような支援しているんだか介護しているんだかわからないようなものは、発達を促しているんだか適応を促しているんだからわからないものは、人以外のモノに取って代わられるはずです。 支援者の多くが外国人になる前に、ロボットになるかもしれません。 そういった流れ、未来が見えているのに、支援者が必死に支援の方法を身に付けようとするのも、親御さんを親ではなく、支援者にさせようとするのも、私は違うと思います。 それこそ、人にしかできない、親御さんにしかできない発達障害を持つ人達との関わり方があるはずです。 まさに、それこそが子育てであり、発達援助。 もちろん、子ども自身、自分に必要な刺激、遊びを知っていて、自ら発達させていくことがほとんどだといえます。 子どもの内側には、自らを発達させる力、自らで発達する力が存在している。 でも、より良い発達、より早い発達には、人との交流、対話が必要なこともあります。

『発達』と『適応』は、まったく異なるもの

私が学生だったときですから、もう20年近く前の話になります。 なので、まだ今の特別支援学校で行われているかはわかりませんが、当時、サーキットという授業が盛んに行われていました。 部屋にマットとか、トランポリンとかを置いて、そのコースを子ども達がグルグル回って、回転やジャンプなど、いろんな動きをするやつです。 学生時代、授業の補助として入っていましたので、よく見ていました。 傍目から見れば、子ども達が主体的にコースを周り、いろんな動き、活動をしますので、なんだか良い効果があるように感じました。 実際、学校の先生もそう言っていましたし、大学の教授もそう言っていました。 療育機関でも、盛んにやられていたくらいです。 でも、授業に入り、その子ども達の様子を見ていると、「これで大丈夫かな」と思うようになりました。 まあ、第一、子ども達がサーキットを始めると、先生は部屋を出て、5分くらいしてからタバコの匂いをまとって戻ってきてたくらいですし。 結局、サーキットを始めた数回はいいんです。 しかし、同じコース、動きばかりしていると、子どもの達の意欲というか、姿勢というか、躍動感が段々と失われていくのです。 最初は、自分で動きや体勢などを工夫している様子も見られたのですが、「ただやってます」「こなしてます」みたいな感じになってくる。 つまり、最初は学習だったり、成長だったりするのに、ただの適応になってしまう。 だから、それ以上、発達、発展がない。 昨日のブログで、発達援助とは、親子の対話であり、育み合いというようなことを書きました。 ただ単に、発達に必要な刺激だけを与えておけば良いのなら、親子でやる必要はなく、支援者が存在する意義もありません。 ヒトの定型発達の順序、データを入れておいて、それに応じた刺激を子どもに自動的に与え続ける機械で十分なのです。 でも、実際は、そういった機械的な刺激では、より良い発達は見られないでしょう。 何故なら、それこそ、発達ではなく、刺激への適応になってしまうから。 いろんな人達とお話ししていますと、発達の捉え方が違うような気がします。 「刺激→反応→発達」というようなシンプルなものではなく、もっと複雑で、揺らぎがあり、個別的なものだと私は思うのです。 確かに、「定型発達」などという言葉もあります

子どもの「心地良い」が感じられない理由

発達の主体は、子どもさん自身。 ですから、「どれくらいやったらいいですか?」「どのくらいの加減でやればいいですか?」というご質問には、子どもさんが「満足するまで」「心地良く感じている加減で」とお答えするしかできません。 このような説明をしますと、ほとんどの親御さん達は、「子どもの様子をしっかり見ようと思います!」「子どもに合わせてやってみようと思います!」と返ってきます。 そうやって、子どもの反応、様子に目や耳を傾けることで、子どもの、子どもの内側にある発達の声を聞くようになります。 聞こえてきたメッセージに対し、親御さんも発達の後押しで返していく。 このようなやりとりが、試行錯誤を生み、より良い発達、伸びやかな発達へと繋がっていくのです。 「子どもの反応、様子を見る」というのは、ただ単に、その反応、動きのみを見ているわけではありません。 生き物の観察のように、「しっかり見て、それを記録する」というよりも、親子の対話だといえます。 本当に見るのは、発達の動き、息吹、息づかいであり、言葉ではなく、発達を介した会話なのです。 時々、「しっかり見たけれども、何が良いか、心地良いか、がわからない」とおっしゃる方もいます。 多分、こういった親御さんは、誰よりも、しっかり子どもさんのことを見ているのだと思います。 子どもさんの表情、身体の反応、動き、言葉の変化までも、しっかり見ている。 そのちょっとした変化、反応も、見落とさないくらいに。 逆に言うと、それくらい見ているからこそ、「わからない」のだと思います。 「わからない」とおっしゃる親御さんの多くは、見てはいるけれども、対話していないのです。 別の言い方をすれば、ご自身がどう感じたか、どうメッセージを受け取ったか、を見ていない。 とにかく、子どもの反応、子どもの動き、子どもの表情を、という具合に、子ども、子ども、子どもとなっている。 そうなると、対話にはなっていきません。 対話にならないから、試行錯誤に発展していけないのです。 発達の後押しとは、キャッチボールでもあるので、子どもからのメッセージを受け取るだけではなく、ご自身の感覚、感じたものを返す必要もあるはずです。 発達援助が育み合いだとしたら、親御さんご自身も、その発達援助、後押しをやってみて、どう感じたか、な